正義は負ける?


 

私もかつては男の子。「正義の味方が悪を撃つ!!」的な、ヒーロー活劇は今でも決して嫌いではない。さすがに心霊を学んでしまうと、楽しんでも変身ヒーローにあこがれたりはしない。

 まず第一に、自分に何かを追加するという幻想を抱かなくなった。持って生まれたものを上手に使う事こそが大事、自分の才能は抛りっぱなしで、他人の才能にあこがれるなどというのは、魔境の最たるものだと思う。……そしてなにより、代々の伝来の口伝がある。


 血気盛んな頃――といっても、悲しいかな未だ私も仙骨枯れ切らずにいるが、それをなだめるかのように、師が私にこう諭した。

『これは私も先生から言われた事だけど、善と悪が対等の力で戦ったら、必ず、悪が勝ちます。なぜなら、狡猾な悪は神様のやり方を真似ているからです。そして、神様のやり方と争えば、勝っても負けても神様を汚す事になります。そんな悪と争えば神様と戦うようなもので、どちらが勝っても正義を汚す事になりますし、悪を滅ぼしても善も一緒に滅びてしまいます。だから、悪と退治する時は自分で勝とうとせずにひたすら神様に祈る事です。』

 仏教説話にも、「獅子身中の虫」なる言葉があり、百獣の王も寄生虫には叶わず、さすがの仏も弟子の悪行には勝ちがたい、というわけですが、心霊主義やスピリチュアリズムにだってこれは当て嵌まります。

 功名心や自尊心の塊的な人が、利己心を満足させるために真理を用いる。そういう人と争えば、外部の人から見れば、「なんだ、心霊家といっても互いに相争うばかりではないか。くだらない」とばかりに、有益なる智慧まで否定されてしまいます。……現実にこのような話を耳にもするし、その責任の一端すらも私にはないなどと言い張るつもりはありませんが、何度も同じ過ちを繰り返さぬだけの分別も持っています。(要するに勧善懲悪などというのは本来そう区別のたやすいものではない)

 同じ道を志しても相争えば、他者を潤すだけ……我が師にしてみれば、私の様な若輩者が、心霊の大切さを解く事の有益さよりも、つまらぬ相手とケンカをして、良識ある人々から嫌悪される事の有害さこそが心配の種だったのかも知れません。

 では、真理界の武者修行者(つまり神の道をケンカのネタに使う奴)と対峙した場合にどうすればよいのか……我が背後はこう囁きます。

「善人にとって真理は目的であるが、悪にとって真理は道具、目的は欲望だ。争う相手がいればこそ真理を武器に争うが、争う相手が無くなればただ欲望の充足に向かってまっしぐらに突き進む。争うからお互いに傷つくのだ、抛っておけば悪は自ずと馬脚を著すし、自滅もする。そう、戦うから勝てぬのであって、戦わなければ自滅するのが悪である。いや、敵が無くても反映するなら未熟であっても悪ではない。」

 ……そんな悠長なやり方では、騙され迷う人もいるだろうになぁ~と、否定的な私に、背後は笑みながらこう付け加えます。

『手に入りやすい贋作《にせもの》を好んで買う者に、真作を与えても大切にすまいよ。不都合な真実よりも都合の良い嘘を好む者もいる。押し売りはせぬ事だ。少なくとも忙しいうちは。』

 うん、まあ、田んぼから離れては良い案山子とはいえないものなぁ~~。


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