「私は霊感を持っていない」という人がいるが、心霊家、または、私にとって、霊感を持たぬ人はいない。というのは、つまり心霊家は、『発想の源』を霊感と見做すからだ。大雑把にいえば、いわゆる霊感の持ち主は、アイデアを贈り物と見做し、そうでない人は自らの才能と見做す。
それ故、必要なアイデアが得られないとき、霊感の持ち主はリラックスしようとし、才能と思う人は、努力して自分を追い込む。・・・答えが見つからずに身体を壊す人は決して少なくない。
ところで、アイデアを贈り物と思うか、才能と思うか・・・その差には、もう一つ、視点の差があることに注意していただきたい。――視点の差とは、つまり贈り物には他者の視点がつきまとい、それゆえ、アイデアを与えられたことを「幸い」と思い、名もなき送り主(往々、人々はそれを神に例える)感謝する。・・・ 一方、才能と思う人には、受けて当たり前と思うがゆえに、得られない時にはなお苦しく思う。
それは例えば、「いわゆる霊感を欲しがる人が、実は与えられるだけでは満足しない」・・・必要な答えは立処に欲しがる短気な人だろう・・・ということも暗示している。いや、これは真理とはいえない、私の経験則である。
そして、「私は、霊感を持っているようだけど、巧く使いこなせない・・・」という人によく見られるのは、視点の移動を、無意識に拒絶していることだ。――「霊を感じた」、という時には大抵(私の知る限り)、褒められている。・・・ただ、私は思うのだが、「なぜ、自身の選択に肯定を求めるのだろう?」・・・自分を信じていないのか? もしくは、安易に自分を信じているのではないか?
失敗も大切な経験であるし、屈辱は、向上のための大きな原動力になる。
または、「怒られ慣れていない=失敗できない・失敗が怖い」――等ということは無いか?
(私の)ボキャブラリーが貧困で申し訳ないが、大航海(帆船)時代、船乗りたちが恐れたのは逆風ではなく、無風であったという。たとえ逆風でも船が動けば、目的地に近づくことができるが、無風であれば、それも叶わない。もしくは、交通機関や自身の車が渋滞で身動きできないことをイメージしてみて欲しい。・・・たとえ反対方向でも動けるならどれほど気楽なことか。
つまるところ、良き助言者というのは、耳に痛いことでも言ってくれる相手であろう。・・・過ちから目を逸らし、被害を増やすに任せる相手ではなかろう。
そう、私が相手の霊感の有無、または、巧拙を見るに、相手・当事者の利害から自由であるかを見る。なにしろ、人は追い詰められばヒステリーを起こすこともあるのである。――過ちをおかせない人が、追い詰められて、ヒステリーを起こし、それを霊感というのは・・・だいぶ、痛い。
そのような人に霊感がないというのではない。ただ、その人の(いわゆる)霊感には、面白みがない――創造性に欠ける。面白みがないというのは、(少なくとも)縛るものが多い、つまりは、低級霊界(もしくはエゴまみれ・・・当事者の境涯が低い)と思わざるをえない。
または(どちらにせよ)・・・、聞くに値しない。
結局のところ、霊感というのは聴き手(持ち主)の霊格を超えない。いや、実は超える実例は数多くあるのだが、それは私の知る限り、例外なく(つまり私は例外を知らない)・・・他者の事は良く見えても、自分のことは見えないという。――それゆえ、利はあっても幸せにつながらないことが多い。
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さて、本題。 これは真理ではなく、私の経験則・・・
人の生きる正しい道は、中道・中庸などというが、あえて難しい言葉を使わなくても判るはず。腹が減っても、食べ過ぎても苦しむのが人だ。
・・・だが一方で、執着は絶対にいけないとか、愛情はいくらあっても良い・・・などという人もいる。(個々の意見の揚げ足を取りたいわけではない)――これはさて、どうであろう? 当事者(与える者)はそれで満足でも、与えられる側は果たしてどうか? 例えば、相手が迷惑していても、付き纏う人は、おそらく、「この程度のことで」と思うだろう。愛情を注がれた相手も、果たしてそれを喜ぶか、過干渉と嫌うかどうか。
特に、反抗期前の、可愛いさかりの子どもを持つ親。又は、手塩にかけた子供(年齢的にはオトナ)に反抗されて傷つく親・・・へ。
近親者が可愛がらずに、一体、どこの誰が可愛がってくれるというのか?・・・私は、「親バカ結構(上等)」と思う。とはいえ、それは、第三者的な考えだ。当事者、すなわち子どもにとってはどうか?
人は、難事・試練が多くても、己の人生を不幸と思うが、難事・試練が少なくとも、生きがいがなくつまらないと思うものだ。――または、親の可愛がる気持ちに、子どもが答えて(相手をして)くれない時に、親が寂しいと思うのと同様・・・すなわち、子供らが、『少なすぎず、多すぎない、人生の試練が良いな・・・』と思っているのに、親が自らの我を表に出して、『(子供の)試練』を取り上げていないか・・・子どもの喧嘩に親が出て・・・
比喩の視点を変える。
温室育ちを、真冬に外に出すのと、屋外育ちを、真冬に温室に入れるのでは、一体、どちらの鉢植えが長持ちするだろう?
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親が、子を可愛がるのに、私は口出しをしたくない。(まあ、それは親の自由であろう。)
ただ、思うのだけど・・・子供の時に甘やかせて、親の目の届かぬ、成人後に苦労させるのと、子供の頃に厳しくして、成人後に(それなりに)それなりの生き方をさせるのでは、一体どちらが、愛すべき子供の為であるか?
おそらく(まあ、確信があるが)、人が一生にこなすべき苦労は(多分)定められている。それ故、幼少児に難が少ないことは、親の目の届かぬところでの愛児の苦労を増すのではなかろうか?
一方・または・・・子供の頃に、あまりに苦労した人は、保身に走って、苦労を先延ばしして、結果、人生をおろそかにするようだ。
では、一体、どの道筋が、一番、愛児のためになるのかどうか?
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可愛がるのは良いと思う。・・・近親者が可愛がらずに誰が可愛がるのか?
ではあるが、愛情もまた、ほどほど――やはり、中道・中庸が良いのだろうと、私は憶測するのである。
・・・または。
その親は、愛児に背中を見せて、導いているだろうか? ・・・と、私は危ぶむ。
苦労している姿(背中)を見せずに、作り物の表ばかりを子供に見せて育てる。・・・意地を見せるのも、それはそれで、親の心意気かも知れないが、生身の人(背中)を見ず、つまりは、他者の生身を知らずに育った人は、果たして、己自身の醜さ(生身)に、打ち勝っていけるのだろうか?
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自分の、心の惨めさ(背中の貧弱さ)を隠してきた者が、溺愛という形で、因縁(己の弱点)を、愛児に押し付けていないか?
年に一度の子供の日(5月5日)。あなたは、子供等を祝福できようか? ・・・無意識に己が悪因縁を押し付けていないか?
(親の)眼の届く限りの(子供の)幸せを追求して・・・つまりは、愛という名の、苦しみを押し付けていないか?
または、深みのない愛情表現に満足してはいないか?・・・つまらない親になっていないか。
子供の日。・・・あなたの愛念の清らかさを、確認する良き時期ではなかろうか・・・・・・・