Q 『心霊研究の意義について、あなたのお考えを教えていただきたい。』 夢想に浸らない――私は生前仏家であった。そして不可知なものを学ぶより、未知なるものに柔軟に接する心の修養を大切にしてきた。私は生前、自らの前世を知り、また、自らの死後も知っていたが、それを人に説く事をせず、その事に何ら不足を感じなかった。 私は死後を説く事の無駄を良く知っている。死後に楽園があるなら、どうすればたどり着くかを人は悩む。しかし、楽園は場所にあらず人の境涯にある。肥沃な農地であっても、怠惰な人が買い取ればたちどころに荒れ果て、いかなる荒れ地でも勤勉な人が耕せばやがては肥沃な農地に変わる。死後にいかなる世界があるかよりも、あなたがどのような世界に自分を住まわせたいのかが大切なのである。 見よ、心霊家の多くはそれをわからずに、ただ、美しい世界に移り住む事を願う。しかし、人は死後に思い知らされる。幸せは誰が作っていたのかということを。ある者は煩《わずら》いを捨て去りより幸せになり、ある者は支えを失ってどん底に陥《おちい》る。善男・善女が住むから極楽が生じ、善男・善女が去れば極楽も消え去る。その逆ではない。 「経文・聖典は道にあらず、ただの道標《しるべ》なり。」これはあらゆる宗教・心霊思想についても当てはまる事である。いくら読み、そらんじ、唱えても、進まなければ何所にも行けぬ。身体が動かぬ者が助けを求めたならば救いは必要である。しかし身体を動かさずに口を動かすだけの怠け者を誰が救うというのだろう。怠惰も悪なら、怠惰を進める者も悪である。知識は進むべき方向を指し示す。必要なのは進む事であり、知識の生み出す夢想に浸ってはならない。 人生は死者の見る夢――多くの人々は総ての努力を自らの生に捧げる。しかし、死はその努力を奪い去る。従って、「人は死して無」というのは、大抵の人々にとって正しい。いかなる科学的な実験で証明して見せようが、死後の個性存続を前提にして生き方を変えられぬ限り人は死して無になる。 地上に生を受け、総ての努力を生に捧げ、そして死んだ者にとって見れば、地上の生とは霊界で見る夢に過ぎない。そして、夢から覚めれば現実が待ち受けている。大方の魂にとって再生などは、人々の睡眠と覚醒の繰り返しと何ら変わりがありはしない。人々は一体夢から何を学ぶというのだろう。 死後の世界の有無など、夢から学びえる事と大差ない。霊界との付き合いは、夢占いの有益さと大差ない。地上の生から学び得た事はその程度にすぎない。それが大方の死者の感想である。人は死後、霊界にてその魂の境涯に見合った世界に暮らす。そして、人は生前、その心の境涯に見合った世界観の中で暮らす。一つの世界に留まり続けて他の境涯を知らぬ者にとって霊界などまったく存在しない。死後の個性存続も存在しない。人は死して無になり、魂は悪夢から目覚める。ただそれだけの事である。 自覚しない者は夢の中にある。死後の個性存続の証明など、くだらぬ事である。その証明の努力は、寝ている者に向かって「あなたは今、夢を見ている」と教えるようなものだ。大切なのは、覚醒である。つまり、認知しえる世界観を脱して、より大きな世界観を獲得すること、そして、獲得した世界観に見合った生き方を見出す事である。 そう、生きている内から、死後を思い悩んでは、限られた時間が無駄になる。心霊知識が人生に有益となるのは、生き方の変化をもたらした時なのだ。 死後の個性存続――そう、死後の個性存続を、知る……せめて、信じる……事が重要であるのはこの理由である。つまり、僅か百年前後の時間の中だけで人生を考えるのか、それとも更に大きな時間の流れで、人生を考えるのかで、その人の行いの大きさが決まる。 現実に、「肉体を失った死者達の世界」があるか無いかに関わらず、地上の人々は、生の枠を越えた先人たちの努力の上、先人達の様々な遺産の上に暮らしている。「多くの霊媒は『先祖供養、先祖供養』と繰り返す、祖先とは何と浅ましいものか」と、口にするものもいるようだが、先人の努力は甘受しながら先人に敬意を払わぬなら、あなたがたもその子孫から軽蔑されよう。心霊研究なるものは、あらゆる先人の努力を敬わねば意味を失うだろう。 Q 『心霊に対する取り組み方法について。反対論にどう接するべきだろう。』 沈黙と慈悲を持って接せよ――人に説く時は、あなたの思うままを説くのでなく、相手の視点の高さにたって説かねばならない。あなたの理解力と相手の理解力は異なり、相手の利害とあなたの利害は異なる。それを忘れて意見を説けば、相手は穏やかな気持ちで聞くことが出来なくなる。まして言葉には限界がある。こと、抽象的な問題を論じるのに、言葉は非常に用い難い意思伝達の手段である。 相手が自ら聞く気にならなければ、あなたの言葉は無駄になるし、聞きたがる相手も、真実を求めるより、都合の良い話だけを求めている場合もある。言葉すくなに話して、相手がじれて質問を始めるようにせよ。疑念を抱いた時、聴者は初めて言葉ではなく、内容に関心を向ける。そして疑念が解けた瞬間、聴者は知的昂奮を抱く。好奇心に囚われた人は、百の名言よりも一つの事実に大いなる感銘を受ける。しかし、忍耐を強いられた聴衆の心は、かたくなで新しい事柄を受け止めはしない。 大切なのは事実の解説ではない。相手の目が事実に向く事なのである。そして、相手の視点を強いて曲げようとしてはならぬ。暴力は事実を汚すからだ。自らの思考を人に伝えるなら、沈黙と慈悲を持って接せよ。決して慌ててはならぬ。 Q 『迷信者、偏見者とどう接するべきか、教えていただきたい』 時機が大切――酔者に飲酒の害は説けぬものだ。説教したければ無粋な真似をせずに、二日酔いの朝を待つのが良い。しかし、いくら説教しても飲酒の害は免れられぬ。問題は飲酒ではなく、飲酒に追い込む他の原因があるからだ。真の原因を直視する、酔者にその覚悟が生まれるまで、酔者を救う事は出来ぬ。 酔者は、飲酒の害を知るゆえに酩酊に落ちているのではない。酩酊に価値を見るがゆえに酔者なのである。迷信を信じるのも、偏見を棄てぬのも、その状態に価値を知るが故である。 人の過誤は、指摘して正す事が容易であるが、人の未熟さを導く事は容易ではない。導こうとして導けなかった時、自分の未熟さに気がつくならば、自分も相手も成長するだろう。だが、導けぬもどかしさから怒りや憎しみを育てるようでは、いつまでたっても未熟さを克服できない。つまり、眼前の悲劇を救うのではない、眼前の悲劇に救われるのだ。ただ、幸せな境遇にあるから悪事を行わずに済んでいるだけの傲慢な魂といわれても仕方がない事である。 (2002年12月7日)
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