老神心霊研究所

幽明の道標

一霊媒が漏れ聴く話

心霊学の学び方 PDF プリント メール
作者 老神いさお   
2002/12/04 Wednesday 00:00:00 JST

 

Q『心霊を学ぶための注意点を教えて欲しい。』

 

 教わる事と学ぶ事は別――この心霊研究(老神いさお)の方針については、明白な問題点がある。ただ知識を得ることは「学ぶ」とは呼べぬ。教えを請う者は、新鮮で高度な知識を得ようとするよりも。むしろ自説の肯定者を求めて人に頭を下げている事が多いものだ。

 人はみな賛同者を求め、追従者を求めたがる。学習とは協賛者を求める手段ではない。真実の追究は静かな場所で行うべきであり、人々の眼前で行うべき事ではない。

 止まれ、その意義はわかる。日陰者扱いされる心霊論者に集う手段を与える事は大いに意義がある。そうであるなら、志を同じくする者を集めて安寧を与える事に専念せよ。真理の追究は秘せよ。真理がいかに実用的であることか、理解し得ない者は空理空論を並べて比べるであろう。しかし、真理の意義を理解できない者にとって、真理と空理空論との違いは無いのだ。空理との論争に体力知力を費やしてはならぬ。人生は限りある時の狭間だ、一瞬一瞬を大切にせよ。

 見よ、真理に意義があるなら、その意義ゆえに空理空論を寄せ付けぬ。淘汰は大自然に任せ、お前は真理の追究に専念せよ。ついてゆく者が少なくとも、何にを迷うというのか、お前の轍《わだち》を道標《しるべ》とする者は、お前がどれほど先を歩もうと気にはすまい。

 「木を見分けるのに実を見よ」という言葉があるのか、ならば私はこう言うだろう、馬車を見るよりも、その轍《わだち》を見た方がより価値を見取れる。空荷の馬車は轍《わだち》が浅く、積み荷の多い馬車は轍《わだち》が深い。御者がよければ轍《わだち》は伸び、御者が悪ければ轍《わだち》は荒れる。

 今は、道に轍《わだち》も残らぬ時代か。そうであっても智慧あるものは頭を働かす事の意味を知る。見掛けに騙されぬための最善は、直視しない事であるのだ。正しく物を見るならその物よりも、あらしめている物を見よ。

 心霊思想は今の世にあって日陰者扱いという。それは、心霊だけを追いかけるからであって、心霊をあらしめている物を追いかけるなら誰が疎かに扱うか。人の心は永遠の成長を望む。それは死を恐れ、無目的に生きるより、はるかに意味も価値もある。心霊を扱う上で大切なのは永遠の時の遊戯ではなく、永遠を生きる覚悟の今である。

 求める者は多いが、掴み取れる者は僅かである。これはいかなる道を歩む者にも当てはまる事だ。間違ってはいけない。与えられるものに限りがあるなら、与えるべきは求める者ではなく、必要とする者・役立てる事が出来る者なのである。

 疑念の効用――人はとかく教えたがる。それがいかなる心の働きであるかはどうでもよろしい。問題なのは、誰にとって価値のあることを説かんとするのか、である。

 教わる側に価値があり、学ぶ側に価値が見出せるならば、それは素晴らしい事だ。だが多くの場合、教える側にのみ価値があり、教わる側には価値が見出せず、または、全く価値がない話が数多い。

 そも、学ばんとする者は、未知の知識を自分のものとすべく努力を重ねる。その過程で知識の価値を推し量れるはずも無い。ここに鍵がある。教え、教わる事がうまく噛み合うためには、学ぶ者の疑問が先に必要なのだ。疑問に見事に応えてこそ、師は尊敬を得られる。しかし、疑問をもたぬ者は最後まで師に真の尊敬を抱けぬ。

 そんな弟子はただ、価値を知らぬままに知識を求め、死蔵し、そして死んでゆく。疑問を持たぬ者が尊敬するのは、ただ知識の多さだけであり、知識の多さで人を圧倒する事しか知らぬ。そういう者も価値あることを知っているかも知れぬ。しかし、無用な知識も多いだろう。

 犬を見よ、猫を見よ。書を読めなくても、生まれ、生き、生み、そして死んでゆく。人はといえば知識ゆえに迷い、恐れ、苦悩する。沢山の知識を持っていても、自分を活かすための知識をもたぬがゆえである。悔いを生まぬ過ちは無い。間違った学び方をする者は知識ゆえに苦しむのである。

 自覚せよ――私が一つの方向を指差し、あなたにこの方向に進むように促したとする。その方向があなたの知識と等しければ、あなたは自信を持って前進できるであろう。また、あなたの知識と私の示す方向が異なる時には、あなたは葛藤を抱える事になるだろう。あなたが学ぶのは、目的地に着くための努力なのか、それとも葛藤し、不安に苦しむための努力なのか。

 この答えは明らかである。未知なる事を人から教わり、あなたはどうしてその正誤を判断できるというのか。……未知なる事に接する上で一番危険なのは過信であり、一番大切なのは現実に目を向ける素直さ、そして過ちを正す柔軟さである。真の智者は未知の解明を通じて、自己を学ぶ者である。

 

これを「自覚」という。

 

 もしもあなたが自覚を得たなら、未知に接して自らの過ちに気がついても、正しい行いを選ぶ事が出来る。少なくとも最善を尽くす事が出来るだろう。反対に、自覚を得ない者は自らの知識ゆえに誤りたる行いを止める事が出来ない。

 真理は人を淘汰する――見よ。真理は人を淘汰する。誤った知識は人を打ちのめし、真実の前に葛藤をもたらす。だが正しい知識は人を幸せにする。この淘汰の激しさを知れば、口舌の徒と争う事の無意味が判るだろう。表現の巧拙で現実は覆せぬ。人々の或る者は快楽に耽《ふけ》り、或る者は病苦に苦しむ、今を見れば天地ほどの差があるが、いずれはそろって老死の恐怖に慄《おのの》く。

 死後の個性存続を信じ、霊界の栄光を信じる心霊家といえども、その多くはやはり、老死の恐怖に慄くだろう。そこに足りぬのは知識ではなく自覚である。生死は対ではなく、一本の糸であるを自覚する者だけが老死を恐れない。

 心霊家は死後の苦しみが少ないというが、否である。恐怖に憑り依かれて死んだ者の世話は決して容易ではない。これは仏家も心霊家も同様である。知識が人を救うのではなく、自覚が人を救うのである。

 沈黙せよ――学ぶのは自覚を得るためである。決して徒に知識を集め、比べていてはならぬ。妖しい言葉に騙されて自覚を得る者もあれば、善智識に頼って自覚を忘れる者もある。世の一切の邪教を謗《そし》らず、世の一切の善智識を称えてはならない。

 強者をなじって自らの至らなさをごまかし、弱者をなぶって傲慢を育てる者も世間には必要である。うわべの知者と真の智者を振り分ける働きがあるからだ。

 知識を比べ、言葉を称えあうのは、「自覚」の意味も価値も知らぬ者だけである。そういう者達を、仏家は天狗と呼び、天魔と呼ぶ。もしもあなたの目が、天狗や天魔、そして天外魔境に向いているなら、あなたが天界に尻を向けているという事だ。あなたは今、何所に向かって旅しているのか、そしてどれだけ目的地に近づいているのかを思い出すが良い。

 思考せよ――心を育てる言葉を、痛みを和らげる言葉を求める。それは確かに大切である。だが、それが総てではない。思考せぬ者は学んで何ら自覚しない。読んで思考せぬ者は何ら自覚に近づかない。人に問い、人の頭を働かせて、人から答を貰い、自分が成長したつもりに成ってはならぬ。成長したのはあなたの問いに答えた者なのである。

 文字が溢れ、絵が溢れ、言葉が飛び交う時代にあって、思考を忘れる者が多いようだ。次々に新しい言葉を求めて、焦っていては決して自覚が出来ない。思考せよ。そして話し、書き、描け。すると思考が整うだろう。創造こそが成長である。誇らしげに贅肉を晒してはならぬ。……人はわが身の贅肉を恥じるのに、なぜ知識の贅肉は恥じぬ。そのような愚かさに気がつかぬのだ。人々は自覚が足らぬ。


 仏家は、心霊を信じぬという。正しくは、学んで正誤の判断もできぬ「未知」を学ぶ事よりも、「自覚」を大切にして居るのである。私などが霊界から人々を観察していると、心霊家は正誤も判断できぬまま未知を学んで、なんとも危うく感じる。もっともこれは自覚の足りぬ仏家と比べてどちらが危ういというものでもない。自覚の無き者は運命に翻弄されて幸・不幸を味わう。自らの運命を呪いもする。神仏を恨みもする。それは誤った知識を信じ、真実を退けるからである。


(2002年12月4日)

 


 
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