|
05年 08月 05日
ウェイン・W・ダイアー著「スピリチュア・ライフ」三笠書房刊なるものを読んでいる最中だが、とても苦痛だ。いや、悪い本だという意味ではなく、身に合わないのである。 振り返ってみれば、スピリチュアリズムの本で本当に真剣に読んだのは、「古代霊は語る」だけだった気がする。 当時私は、突然に開いた霊感に戸惑い、悩み、苦しんでいた。そんな私に、近所で整体を教えていた老婦人が差し入れてくれた心霊書が、シルバーバーチの霊訓集であった「古代霊は語る」と「霊界通信 小桜姫物語」であった。あれからもう四半世紀を過ぎたが、この二書との出会いは私にとって決定的な意味を持っていた。まあ、当時18才であった私にとって「小桜姫物語」はあまりに敷居が高すぎた。その意味で、今の私があるのは「古代霊は語る」……シルバーバーチとの出会いであったといって間違いない。 良いものに触れると言うことはとても大切なことだ。本当に良いものを知らなければ、俗悪品で満足してしまう。そして、私は最初にシルバーバーチに触れたおかげで、以後に出会った多くの心霊書に意義を感じなかった。何行か感心する箇所があるとしても多くはつまらぬ書物に思えた。 謙虚な気持ちでいうが、私がシルバーバーチの霊訓から学んだのは、真理ではなく希望であった。……当時の私の霊感に感じられるのは、醜い霊ばかりであり、それ故に私は死にさえも絶望していたのである。 そう、私は死にさえも絶望した経験を持っている。……だからこそ自殺を図る人々のなんと幸せな(無知)ことかと思う。死後の世界にかくも多くのろくでもない霊がいて、虐められ、苦しめられるのであれば、本当に楽なのは現世だ。たとえ親から虐待を受けていたとしても。と同時に、この世で慢心して生きる人々のなんと危ういことかとも思う。なにしろ、人の足を引き、揚げ足をとる連中は、この世よりも遙かにあの世に多いのだから。 だがなんと言うこともない。私が感じていた霊は、会社と家庭の双方に怒りを感じていた父親の想念が引き寄せたものにすぎなかった。そう、雨雲の上には太陽が輝いていたのである。雲を見上げて絶望するのではなく、その雲の上に昇る努力こそが必要だったのだ。 私はその時希望は得た。だが、希望は往々に苦しみをいや増す。確かに「古代霊は語る」を最初に読んだときの私の感想は、『良いことが書いてある、が、当座の役には立たないな』であった。当時の私は、緊急に除霊法を学ぶ必要を感じていたのだ。…… 今となれば間違った努力のいかに空しいことかと思う。人は無力であることを知ってこそ真の力に目覚める。……除霊など、神仏・守護霊・祖霊に任せておけばよいのだ。が、当時の私はそんなことも知らなかった。そしてどの心霊書籍にもそんなことは書かれていなかった。腕ずくで問題を解決する方法ばかり……だが、未熟者が腕力に訴えれば問題を拗らせるだけである。辛かった。悲しかった。死にさえも絶望した。死ねばこれらの霊と日々顔を合わせていかないと思うことが切なかった。楽になりたかった。死よりももっと安らかな道がないかと思わずにはいられなかった。 生が辛く、死がより辛いものであるとしたら人はどう救われるのだろう? 若い私には想像もつかなかった。そんな方法は、いかなる心霊書にも書かれていなかった。「古代霊は語る」の中にさえ。一連のシルバーバーチの霊訓中にさえも。……なんと言うことはない。設問が間違っていたら答が見つかるはずもない。生が辛かったら、そこから逃げるよりも、生を幸福に換えていけば良かったのである。 それに気がつくのに一年半掛った。長かったのか、短かったのかは知らない。とにかく私は気がつき、その後は、生と死への絶望を棄て、代りに霊能力の持つ可能性に絶望した。 実は未だに思わざるを得ない。霊感なんてつまらないと。世界には、そして人にはもっと素晴らしいものが備わっていると知っているから。 私の霊感が一番鋭かったのは開いてから僅か一週間であった。無謀なほど己の霊感を信じていた時期だ。だが、分別とバランスをとらない霊感は諸刃の剣であり、私はそれを惜しいと思わない。 私はシルバーバーチの霊訓、なかんずく、「古代霊は語る」に救われ、そして、今の霊媒としての私がある。時折、ページをたぐれば自分を励ます言葉に出会い、それ故に家族に接するように……家族以上に親しみを感じてはいる。そう、感じてはいるが…… 今は感動を覚えない。 それは別に、私が通信霊シルバーバーチと、その未知の支配霊の霊格を超越したからでもなんでもない。かつての私はシルバーバーチを師と思った。だが今は……霊感が開く前から、私は理解できぬまま、論語や老子を読む小僧であった。親子関係にストレスを感じ、自分を救う言葉を懸命に探していた。……いわば、親を恨む自分を弁護する言葉を探していたのだ。「孟子」の中にその手掛かりを得たときの歓びは、なんとも懐かしい。 ただ、「死後の個性存続」、「永遠の生」という前提条件に立ったとき、論語や老子がより理解しやすくなることに気がついたとき、私にとってのシルバーバーチが、師ではなく兄に変わったのである。つまりこれで終わりではなく、今ようやく本当のスタート地点に立ったことを認識したのだ。 「スピリチュア・ライフ」を読んで苦痛を感じたのも、実をいえば、「何を今さら」という誤った侮蔑の心の働きである。とくに、浅野和三郎氏の著作を指でなぞるようにして読んだ今となっては、なぜ、浅野和三郎氏がスピリチュアリズムの訳語として「神霊主義」と呼んだ理由が確信される。なにしろ「霊学」が教えることと大差はない。 更に浅野氏は、西洋思想は力で問題解決、東洋思想は気で問題解決するといっているが、それもまたこの本で再認識してしまう。宇宙だ、無限だ……言葉遣いが大袈裟で、静寂の蔭に筋肉が息づいてる。まるで、和定食のご飯の代りにピラフが付いているかのようだ。―― 和食のおかずは白米との相性がよい。 スピリチュアリズムの七大綱領に対して、浅野和三郎氏が、神霊主義の四要素を整理したが、確かにキリスト教文明圏ではキリスト教会のドグマに遠慮があって思想の整理がしにくいのだろう。それと同様に、「スピリチュア・ライフ」を読むよりも「菜根譚」でも読む方がよほど端的に思えてしまう。そう思えてしまうから、この本を読むことが無駄に感じられて辛くなる。…… これは表現力を養うために読んでいるのだと自分に言い聞かせずにはいられない。 唯神や、無為自然といった、東洋思想をちょっと囓ったことがある人なら、僅か数語で表現できることにページを割いているのである。むろん、世間には死後となっている言葉を連ねても、多くの人にとって読みにくくもあろうから、この本のあり方が間違っているとは言えない。むしろ、既存の東洋思想解説本が反省すべきなのだと思うが、それはそれである。 嗚呼、と思う。答がないのではなく、答が多すぎて迷う現代に私は生きている。
|