素直に生きる
2006/01/232006年 01月 22日
ギリギリの状態で生きているようでいて、人にはまだまだ大きなワガママが残っている。
死んでも嫌だ! 絶対嫌だ!
ワガママを守りつつも、誰かが助けてくれることを期待している。
自分は出し惜しみをして、気前よく誰かが助けるなんて……
ましてや、自分が嫌なことを、誰かが代りにひっかぶってくれるなんて……
そういう考えが、自分をいつまでも苦しみの中に閉じこめていることになかなか気がつこうとしない。
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人は課題を背負って産れてくる。克服すべき弱点を一体どうやって解消していくのか。
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隠しておきたいことを指摘されると、負い目を抱く人はヒステリックな行動を取る。黙っていれば悟られないのに、隠そうとして負い目が顕わになる。……隠そうとすればするほど、顕わになって、最後は周囲が呆れ、気恥ずかしくなって、気がつかない振りをしてくれるまで騒ぎ立てる。
皆が気づかぬ振りをすれば、恥は消えて無くなるのか?
隠しても、忘れても……克服できなければ、また苦しむことになる。何度も、何度も。
そんな時、誰が真剣に助けてくれるのだろう? 見なかったことにしてしまう友人、隣人らばかりで?
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一時しのぎ…… そんな選択肢を選べる人は、なんとまあ、恵まれているのか。だが、過った選択はいずれ行き詰まる。そして時間は巻き戻せない。どんなに恵まれていても、物質世界に使い果たせぬ豊かさはあり得ない。
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強がり、言い訳、虚飾、偽善――それらが、自己防衛の為の手段だとしても、孤独な手段であることを知るべきだ。不自然な選択は、他の援助を阻害する。一人で解決できなければ、助けを求めねばならないのに、敢て、行き詰まり、敢て、助けを得られぬ努力をするのはなぜか?
「業が深い」というのは容易い。だが本当の問題は、自己中心的で幼稚な論理で解決策を図ることにある。
人は、自分の人生ですら思うままにできない。だからこそ助けが必要であり、助けられるためには人を助けることも大切なのだ。……利他的な行為が大切で、ワガママ、独善がいけないと言われる所以である。
また、助けを求めるなら、分りやすい自己表現が必要になる。……強がり、言い訳、虚飾や偽善、何より嘘をつくことがどれほど我が身を危うくするか。
それを一言に言うなら、「素直に生きるべきだ!」 となる。
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ところが、人世で子供を躾けるのに、過程をおざなりにして「素直に生きろ」と教える。だが素直とは何であるのか? 素直の意味も、素直の価値も教えず……まして大人は子供を都合良く動かす口実に「素直にしなさい」という。これでは子供にとって、素直とは自滅的な教えとなるだろう。
デタラメな親元で育てられて、「素直」という言葉に秘められた嘘が見抜ける子供ならばまだ良い。無論、素直の意味と価値を正しく学べた者なら、何とも幸せと言うべきだ。だが、なまじ出来た親に「素直さ」を躾けられたらとても不幸だ。
何しろ世の中には、素直の意味も価値も知らず、ただ、その言葉を利用しようとするものばかりが多いのだから。
古来より、真理・摂理・叡智として扱われてきたものの大多数は正しい。ただ、過程を知らずに結果だけを吸収しようとするから人は学び違えるのだ。……これは、好奇心から学ぼうとする者の限界である。
真理を学んで苦悩する者こそ、真理の真の意義、意味を知る機会を得ているのである。