病について
2003/07/26Q 「知人にガンに掛かった女性がいる。相談を受けたわけではないので当人には黙っているが、私は助からぬと感じた」
霊感のもつ特性を加味せよ。――その女性が、真に助かるか、助からぬか、それを尋ねるのに霊感を用いるのは難しい。なんとなれば、この世に生きている人がどれほど多いというのか。みな、流されて、生かされている。自ら進んで生きているのではなく人生を甘受しているのである。
その女性が助からぬというのは、彼女の平然とした態度に原因がある。今はまだ痛みが共なわぬから自分の病に対して恐れていないのである。そして、真にわが身の健康を考えてはいない。真に生きることの意味を考えてもいない。決して容易ならざる病なのに、その病を受け止める心の準備がまるで出来ていない。
恐怖はわが身を害するものだから、恐れを抱かぬことはよい。現代の医学もなかなかに力を発揮する。だが、一度痛みを感じたらどうなるか、今までの平静さが嘘のようにその心の中に恨みと憎しみの大暴風雨を迎える事になる。自分の不幸を誰かのせいにしたくなる。そうなっては誰も彼女を救えない。
今となっては何を説いても無駄である。平常心とは健康な時にこそ育めるもので、今の彼女に平常心を説いても見下して聴かず、熱心に説けばその家族にまで下心を疑われるだろう。そして、痛みを感じ始めたときにはもう手遅れである。
手術は成功するだろうが、運命に対する信念の弱さが、不安に対する弱さを生む。そして、一度疑心暗鬼に陥った人を救い出すのは容易ではない。今の彼女にとって最大の敵は病気ではなく、自分自身である。生きぬく信念と生かされている事に対する感謝の念こそが彼女を救いえる。しかし、いかなる第三者も今の彼女は救えない。
Q 「普通の人ならば動揺するだろうに、彼女が冷静であるのはなぜか」
生の価値を侮蔑しているがゆえの冷静さ――現代人はクールであるという者がいる。下界を眺めていても、このように大切な局面なのにどうして冷静でいるのだろうと、むしろ呆れる事がよくある。
現代の人々を観察していると、行動に際する心構えが非常に冷淡である。情熱もなく、感動も無い。それが怜悧で理知的であるならば時代を重ねたるがゆえの進歩であると褒め称える事もできよう。だが実体は、人々の心の働き、特に感受性が鈍感になって、精神的な価値観が育たずにいるのである。
かつて、人は病に陥ると為すすべも無く、また、短き間に多くの人が命絶えていくのを見て育ったものである。それゆえに、命を大切にし、養生を大切にするのである。多くの病を治癒できるようになった今、養生の大切さを人々は忘れ果てている。その一方で、心の癒しを求めているのだから呆れてならない。わが身を天の使いと心得て、日々、大切にもてなすならば、どうして癒しなどが必要だというのだろう。人々は、わが身をいつも疎かにして、辛い辛いと嘆いているのである。
まるで封建の時代に領主が民に重税を課すようなものだ。貪欲に快楽を求める心がかけがえの無い身体を痛めつけ、衰えているのに税の取立てをやめようとしない。民主主義とは、一人の暴君が民を支配するのではなく、すべての民が暴君になることだというのか。人は進歩などしてはいない。ただ、配役が変わっただけである。
葛藤が病の原因――忘れてはならぬ。人は病原に負けて病になるのではなく、心の葛藤を病原に付け込まれて病になるのだ。仮に病原を全て取り除けるとしても葛藤に押しつぶされて人は死を択ぶだろう。人は苦を嫌うと思われがちだが、人を死に追い込むのは苦ではなく、葛藤と矛盾である。相反するものを同時に追いかけ、得られぬ事を知りながらも追いかけることをやめようとしない。絶対に得られぬものに執着して身を焦がして、苦しみもだえているのが人である。
誰もが痛みから逃れたがるが、その一方で努力も嫌がる。努力と苦しみのどちらを択ぶ事も出来ずにいるうちに、努力ではどうにもならぬ苦しみを得ることにもなる。
健康と長寿は万人が望む事だが、何のために健康を求めるかというと、身体に悪いものを暴飲暴食してみたり、徹夜で遊び歩いたりする事だというのだから呆れてならぬ。長生きも、何のために生きるのかを考えていないから、老体が生み出す苦しみと死の恐怖との間に板ばさみになって、生命力が尽きるその時まで何をなすわけでもなく、ただ矛盾と葛藤の中で生かされ続けてしまう。私などが地上を見ていて、病に罹らぬ不健康な人や、祝いがたき高齢者のなんと多いことか。かく生きることが人生であるなら、人はまるで呪われているかのようである。
……ほかならぬ自分自身に。
Q「現代人は我慢が苦手といわれているが、あなたの話を聞いているとそうではない様だ。」
両面を見る――物事を一面で捉えてはならない。確かに現代人は忍耐が苦手に見えるだろし、長時間の肉体労働に耐えがたい人は増えている。だがそれは困難に耐える力が弱くなったからではない。困苦に耐える力が弱まったのではない。誘惑が多くなったのである。
かつては、かつては労働を放り出してまでやりたい事はさして多くは無かった。だが、現代はあまりに誘惑が強く、そして多くて労働に気乗りがしないのである。
物事を見るのに大切な事は、一面の働きの、その背後を見通すことである。人は退屈に陥れば労働さえも楽しむものなのだ。
Q「しかし、考え方を変えるだけで病気が治るものだろうか。」
目的を持てば雑念が減る――勘違いしてはいけない。病気の治療の為に生き方を変えようとしてもうまくは行かぬ。病の苦しみと不安に心かき乱される事から人は逃れる事は出来ぬ。一時の情熱に病を忘れても、痛みはたちまち現実に引き戻す。闘争は人に永遠の勝利を与える事は無いのだ。
病と争ってはならぬ――病から逃れられぬなら、その許す範囲の中で命を燃え尽きさせるべく勤めよ。その情熱があなたに人知を超えた力を導き、また、その集中があなたから雑念を遠ざける。そうして人は葛藤を乗り越え、目に見える限界が矛盾をもてあそぶ事をやめさせ、神気が身体に漲るのを許すのである。
考え方を変えることで病気を治すのではない。考え方を変えることで健康になるのである。
Q「自分と仲良く出来ない人が病で苦しむ事はよくわかる」
単に、病を身体の不調と捉えるのならば、医学の進歩は全ての病を根絶しえるだろう。それは決して遠い未来の事ではない。金さえあればいくらでも長生きできる時代はもう目前に迫っているのである。それはなんという不幸な時代の予兆であろうか。運命と支配者の定めた死ならばこそ、人は汲々とそれを受け入れなければなるまい。だが、金が無いから死なねばならぬというのならば、人は世のあり方に憎しみを持たずにいられようか。まして地上で養える人の数はそう多くは無い。上手に分け合い、譲り合う事が出来なければ、闘争によって全てを失うだろう。あなた方はそういう時代を目前に向かえている。人々は、一層、その魂の修練を求められているのに、むしろ退化しているのが現代である。
無論、暗黒の時代に手をこまねいているわけではない。私はただあなた方の不安を煽ろうというのではない。各人の自覚を促しているのである。
闘争は勝利をもたらしても、安らぎは与えぬ。調和を求めよ、そして静けさを。調和を求める心無ければ、人は死しても尚、安らぎは得られぬものである。
(2003年7月25日)