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病について

2003/07/26

Q 「知人にガンに掛かった女性がいる。相談を受けたわけではないので当人には黙っているが、私は助からぬと感じた」

 霊感のもつ特性を加味せよ。――その女性が、真に助かるか、助からぬか、それを尋ねるのに霊感を用いるのは難しい。なんとなれば、この世に生きている人がどれほど多いというのか。みな、流されて、生かされている。自ら進んで生きているのではなく人生を甘受しているのである。

 その女性が助からぬというのは、彼女の平然とした態度に原因がある。今はまだ痛みが共なわぬから自分の病に対して恐れていないのである。そして、真にわが身の健康を考えてはいない。真に生きることの意味を考えてもいない。決して容易ならざる病なのに、その病を受け止める心の準備がまるで出来ていない。

 恐怖はわが身を害するものだから、恐れを抱かぬことはよい。現代の医学もなかなかに力を発揮する。だが、一度痛みを感じたらどうなるか、今までの平静さが嘘のようにその心の中に恨みと憎しみの大暴風雨を迎える事になる。自分の不幸を誰かのせいにしたくなる。そうなっては誰も彼女を救えない。

 今となっては何を説いても無駄である。平常心とは健康な時にこそ育めるもので、今の彼女に平常心を説いても見下して聴かず、熱心に説けばその家族にまで下心を疑われるだろう。そして、痛みを感じ始めたときにはもう手遅れである。

 手術は成功するだろうが、運命に対する信念の弱さが、不安に対する弱さを生む。そして、一度疑心暗鬼に陥った人を救い出すのは容易ではない。今の彼女にとって最大の敵は病気ではなく、自分自身である。生きぬく信念と生かされている事に対する感謝の念こそが彼女を救いえる。しかし、いかなる第三者も今の彼女は救えない。

Q 「普通の人ならば動揺するだろうに、彼女が冷静であるのはなぜか」

 生の価値を侮蔑しているがゆえの冷静さ――現代人はクールであるという者がいる。下界を眺めていても、このように大切な局面なのにどうして冷静でいるのだろうと、むしろ呆れる事がよくある。

 現代の人々を観察していると、行動に際する心構えが非常に冷淡である。情熱もなく、感動も無い。それが怜悧で理知的であるならば時代を重ねたるがゆえの進歩であると褒め称える事もできよう。だが実体は、人々の心の働き、特に感受性が鈍感になって、精神的な価値観が育たずにいるのである。

 かつて、人は病に陥ると為すすべも無く、また、短き間に多くの人が命絶えていくのを見て育ったものである。それゆえに、命を大切にし、養生を大切にするのである。多くの病を治癒できるようになった今、養生の大切さを人々は忘れ果てている。その一方で、心の癒しを求めているのだから呆れてならない。わが身を天の使いと心得て、日々、大切にもてなすならば、どうして癒しなどが必要だというのだろう。人々は、わが身をいつも疎かにして、辛い辛いと嘆いているのである。

 まるで封建の時代に領主が民に重税を課すようなものだ。貪欲に快楽を求める心がかけがえの無い身体を痛めつけ、衰えているのに税の取立てをやめようとしない。民主主義とは、一人の暴君が民を支配するのではなく、すべての民が暴君になることだというのか。人は進歩などしてはいない。ただ、配役が変わっただけである。

 葛藤が病の原因――忘れてはならぬ。人は病原に負けて病になるのではなく、心の葛藤を病原に付け込まれて病になるのだ。仮に病原を全て取り除けるとしても葛藤に押しつぶされて人は死を択ぶだろう。人は苦を嫌うと思われがちだが、人を死に追い込むのは苦ではなく、葛藤と矛盾である。相反するものを同時に追いかけ、得られぬ事を知りながらも追いかけることをやめようとしない。絶対に得られぬものに執着して身を焦がして、苦しみもだえているのが人である。

 誰もが痛みから逃れたがるが、その一方で努力も嫌がる。努力と苦しみのどちらを択ぶ事も出来ずにいるうちに、努力ではどうにもならぬ苦しみを得ることにもなる。

 健康と長寿は万人が望む事だが、何のために健康を求めるかというと、身体に悪いものを暴飲暴食してみたり、徹夜で遊び歩いたりする事だというのだから呆れてならぬ。長生きも、何のために生きるのかを考えていないから、老体が生み出す苦しみと死の恐怖との間に板ばさみになって、生命力が尽きるその時まで何をなすわけでもなく、ただ矛盾と葛藤の中で生かされ続けてしまう。私などが地上を見ていて、病に罹らぬ不健康な人や、祝いがたき高齢者のなんと多いことか。かく生きることが人生であるなら、人はまるで呪われているかのようである。

 ……ほかならぬ自分自身に。

Q「現代人は我慢が苦手といわれているが、あなたの話を聞いているとそうではない様だ。」

 両面を見る――物事を一面で捉えてはならない。確かに現代人は忍耐が苦手に見えるだろし、長時間の肉体労働に耐えがたい人は増えている。だがそれは困難に耐える力が弱くなったからではない。困苦に耐える力が弱まったのではない。誘惑が多くなったのである。

 かつては、かつては労働を放り出してまでやりたい事はさして多くは無かった。だが、現代はあまりに誘惑が強く、そして多くて労働に気乗りがしないのである。

 物事を見るのに大切な事は、一面の働きの、その背後を見通すことである。人は退屈に陥れば労働さえも楽しむものなのだ。

Q「しかし、考え方を変えるだけで病気が治るものだろうか。」

 目的を持てば雑念が減る――勘違いしてはいけない。病気の治療の為に生き方を変えようとしてもうまくは行かぬ。病の苦しみと不安に心かき乱される事から人は逃れる事は出来ぬ。一時の情熱に病を忘れても、痛みはたちまち現実に引き戻す。闘争は人に永遠の勝利を与える事は無いのだ。

 病と争ってはならぬ――病から逃れられぬなら、その許す範囲の中で命を燃え尽きさせるべく勤めよ。その情熱があなたに人知を超えた力を導き、また、その集中があなたから雑念を遠ざける。そうして人は葛藤を乗り越え、目に見える限界が矛盾をもてあそぶ事をやめさせ、神気が身体に漲るのを許すのである。

 考え方を変えることで病気を治すのではない。考え方を変えることで健康になるのである。

Q「自分と仲良く出来ない人が病で苦しむ事はよくわかる」

 単に、病を身体の不調と捉えるのならば、医学の進歩は全ての病を根絶しえるだろう。それは決して遠い未来の事ではない。金さえあればいくらでも長生きできる時代はもう目前に迫っているのである。それはなんという不幸な時代の予兆であろうか。運命と支配者の定めた死ならばこそ、人は汲々とそれを受け入れなければなるまい。だが、金が無いから死なねばならぬというのならば、人は世のあり方に憎しみを持たずにいられようか。まして地上で養える人の数はそう多くは無い。上手に分け合い、譲り合う事が出来なければ、闘争によって全てを失うだろう。あなた方はそういう時代を目前に向かえている。人々は、一層、その魂の修練を求められているのに、むしろ退化しているのが現代である。

 無論、暗黒の時代に手をこまねいているわけではない。私はただあなた方の不安を煽ろうというのではない。各人の自覚を促しているのである。

 闘争は勝利をもたらしても、安らぎは与えぬ。調和を求めよ、そして静けさを。調和を求める心無ければ、人は死しても尚、安らぎは得られぬものである。

(2003年7月25日)


心霊研究について

2003/06/30

Q 「心霊学の先駆者達の努力にいびつなものを感じて仕方がない。」

 勝敗に関わらず恨みが残る――人に完璧はあり得ぬ。ましてや人は助け合い補い合うように出来ている。他者の過ちを告げれば、相手もあなたの過ちを探しにかかるだろう。相手の詮索や非難が不当なものであり、矛盾したものであろうと、これだけは事実である。相手の利を損なえば、相手は自衛のために戦うだろう。

 果たしてどちらが強かろうが、最後に残るのは真実である。それゆえに、天(神)はもっとも公平な審判者たり得る。されど、その判定は人の都合には関与せぬがゆえに、多くの場合、そして近視的に見ゆれば正しき者よりも強き者が勝利を得るのだ。

 信念を貫く事と、他者に打ち勝つ事は必ずしも両立し得ぬ。それゆえに、他に勝とうと努めれば信念が疎かになることも多い。だから言う。他に勝とうとする前に己に勝てと。争う事よりも信念を貫く事を大切にせねばならぬ。争えば、勝敗に関わらずそこに恨みが残らぬはずがなく、その恨みこそが人からさわやかさを損なうものである。信念にのみ生きる事は難しい。なぜなら、あなた自身がすぐさま争いに飛び込むからである。

 過ちを正すのは命がけ―― 一つの過ちを正すことは容易に思えるが、相手はいかにしてその過ちに至ったのか、一つの過ちの根はとても深い。そうして掘り進めれば過ちの原因は人生の根幹に触れるかもしれぬ。ゆえに些細な過ち一つですら、それを正すということは相手の人生すべてを揺らがしかねぬ大事業なのである。それゆえ、仏家にとって師従の誓いは血の誓いである。師は命がけで弟子の指導に当たらねばならぬ。

 最近、青年の愚行を諫めて、殺されたる者があるとか。心ある者がその出来事を嘆く気持ちはわかる。が、車道に横たわるという青年の行為は、人々から見れば愚行であろうと、青年はふざけながらもその愚行に命を掛けているのだ。命がけの行為を諫めるのならば、命がけで接するべきは当然である。かようにとるに足らぬ愚行であってもその過ちを諫めて命を奪われるのが世の中である。頼まれても人の過ちを改めるのには注意が必要なのである。

Q 「心霊研究は、多くの人々との間に葛藤を生むようだ。」

 学ぶには時機がある――人の器量を見ることはとても大切だが、いかに器が小さかろうが、いったん中身を空にしてやれば、驚くほどの勢いで満ちようとする。しかし、いくら器が大きかろうが、器を超えて入れることは出来ない。

 地上の生にだけ限ってみると、肉体の成熟とともに器が広がり、老いとともに器も萎びていく。これは断じてその魂の器量ではないが、人として生きると言うことは、その肉体で表現するということで、それ故に肉体の変化は人の変化といえなくもない。

 そして、人はその魂の器量の大小にかかわらず、新奇な知識さえも取り入れられる時期もあるが、また、当たり前なことさえも受け付けられない時期がある。新奇を受けぬどころか、今まで信じてきたものまで否定しだす事もある。

 草花は、春に花咲き、秋に葉を散らし、一年の間に器の伸縮を繰り返すが、人の器の伸縮はその一生の中で見なければならぬ。あなたがどんなに心を砕いて真理を説いても、多くの人にとって真理を受け止められるのは一生の間のわずかな期間にすぎない。若い頃は知識を取り入れることにどん欲なようだが、それはただ真似るのみである。情熱に駆られて知ることに努めても、真偽を見分ける力は身に付かぬ。

 熱心に学ぶ者は真理も嘘もともに飲み込み、学ばぬ者はただうるさがるだけである。ましてや、心霊だ、真理だといったところで、そのような知識を生きる上で必要とする者が果たしてどこにどれだけ居るというのか。知識が生きる支えになるというのなら、空念仏を支えに生きる人もいる。真理に関心を持つあなたは、前世においても篤く宗教に帰依していただろうが、果たして前世と同じ宗教を今生も大切にしているだろうか。

人を見て説け――私は見る。熱心な学徒、熱心な信者ほど、前世とは異なる思想や宗教を抱いている者だ。真理とは普遍である。たとえ人によりて呼び名が変わろうとも、普遍こそが真理であるから、心底、真理を学び得た人はおのずと普遍性を身につける。一つの思想、一つの教義に拘り、異なる意見を排斥するのは、真理の普遍性に気がつかぬからである。

 奇異に感じるかもしれぬ。しかし、異なる意見の中にさえ共通の真理が隠れているのが真実である。対立する意見など論者の未熟さでしかない。不完全な真理の把握が未熟な表現になり、未熟な理解力が意見の対立を見るのである。

 ここに一人の禅者の逸話を語ろう。風になびくのぼりを見て、二人の若い禅僧が論を交わした。「あれは風が動いているのだ」「イヤあれはのぼりが動いているのだ」そこを通りかかった禅者は、「動いているのはあなた方の心だ」と二人を論破した。いったいどこに真理があろうか。風も動けば、のぼりも動き、それを見る人の心も動く。総てのものは動き、変わり、その変転を繰り返すというのに。風という一面、のぼりという一面を見て、それを真実と信じる。風ものぼりも動いているのである。

 互いに未熟であるなら、せめて補い合ってより真理に近づくべきだろうに、己が優劣を競い合う。それを「至らぬ」と呼ぶのである。己よりも愚かな者がどれほど大勢いるとせよ、それで安堵できる人にいかなる救いがあるのだろうか。世の中に賢者はわずかしかいないものだ。ならば賢者に絞って探せば良さそうなものを愚者の数を数える人々。真理よりも他の過ちに目が止まるようでは一生かかっても前には進めぬ。

 無関心な者に真理を説くのは時間の無駄だ。だが、熱心だからといって油断は出来ぬ。(真理を)学ぶのは一生の大事業である。あなたが学ぶことは難しいが、あなたが人の学びの世話をすることも難しい。あなたが生きている間に、あなたの言葉を真に必要とし、真に生かせる人と巡り会うのはさらに難しい。教えようなどと思うな、ただ言葉を残せばよい。あなたは心霊を学んでいるとか。ならば、あなたが真に人を導く時は生きている間ではなく、死後にこそ訪れる。

 あなたは心霊論者の教えに歪みを感じるとか、その歪みとは生臭さに浸りながら真理を説く者の宿命である。生きている限りその歪みから無縁であることは難しい。しかし、その歪んだ世界で生きることを嘆くなかれ。地上にいる中に歪みなき真理を学び得ないとしても、そこで鍛えた真贋を見抜く力が、死後にあなたを高みに招く。

 目を見開けば地上には知識があれている。死者達の世界にはさらに多くの知識があふれている。そのあふれんばかりの知識の中に、あなたにとって必須の知識はわずかである。その大半の知識は無益であるか、未熟であるか、デタラメである。故に、知識を学ぶことよりも、必要なるものを見分ける力こそがより強くあなたを導くのである。それは人を見る目にも当てはまる。

 あなたには地上に為すべき事がある。ならば努めよ。だが、人には人の勤めがある。あなたが他人の事でじれる必要はない。あなたが熱心に学ぶことで人との葛藤が生じたとしても、それは魔境に迷い込んだのではなく、あなたが学ぶべき現実の一つと対面したにすぎぬのである。

(2003年6月29日)


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幸せを得るために

2003/06/27

Q 「人は何ゆえに不幸を感ずるか?」

 報いられぬ思い――人は報われぬ時に不幸を感ずる。どんな困難に出会おうと、それが報われると信じられる限りにおいて、人は幸福なのである。

Q 「幸福に生きるために何ができるか?」

 赤子が知りながら、あなたが知らぬ事がある――なんと!「幸福に生きる方法」を問うか。人は求めて生まれてきたなら、その使命を果たす事こそ幸福であろう。すなわち、幸福に生きるために大切な事は、あなたが、あなたとして生きる事である。そこにいかなる知恵や技を要するというのか。あなたは人生の価値も意味も見失っている。それではいかに工夫をし、努力をした所で、あなたは幸せにはなれまい。行くべき先を見失いながらも、懸命に前に進もうとするなら、あなたは何所に向かうというのか。

 見よ、あなたは幸せを求めるのではなく、己が欲を満たさんとして進む。それは人生の浪費であり、一時の歓びのほかには何も残らぬ。思い出も大切な財産という。しかし、苦もなく財を得た思い出を大事にしながら汗を流して働けようか。高慢にふるまった思い出を大事にしながら人に謙虚に接せようか。横柄に人に指図した思い出を大事にしながら人に使えられようか。人々はその思い出に縛られて眼前の幸せに手を伸ばせぬ。

 人は天に祝福されて生まれ出る。その瞬間こそが人生至福の時である。後にあらぬ欲を覚えて、不平不満を育てていく。人は赤子で生まれて知恵を学ぶのではない。満たされぬ事を覚え、不平不満の表現の仕方を覚えるばかりである。

 あなたは不幸を学びに地上に生まれ出たというのか。生まれ落ちたばかりの赤子が知りながら、あなたが知らぬ事がある。それに気がついたときに、真の幸せの糸口をあなたは手にするのである。あなたの努力や工夫を「無駄」というのではない。「努力や工夫で誤魔化すな」というのである。

 何をもって幸福とするか――何をもって幸福とするか、それは人によりて異なる。ある人はよき酒を飲むことを幸せに思い、ある人は色欲を追って幸せに思う。それを幻想なりと笑うのは容易《たやすい》い。しかし、その人々の器量に応じた幸せを誰が笑えるというのだろう。僧侶でさえも、真理を追いかけて魔境に落ちぬとはいえぬのだ。

 正しく生きんと努めても、その時々に信ずるものが正か、否かは後の世になって始めて見えるものである。であるから、「(人生は)霊性向上の修行なり」と、努める事は愚かにも見える。その成果は来世にようやくその価値が現れるものだからだ。即ち、ある人生を上手に生き抜いたとしても、それが特殊な事情に精通しただけなのか、普遍的な真理を獲得したのかは、生まれ変わらぬ限りは推し量れぬものである。

 見よ、地上の人々を。その大半は過去に信仰に生きた者である。しかれど、前世と同じ信仰を続ける者は数少ない。人が前世で学びし事と、現世で学びし事を、縒りあわせて来世へつないでいく事は稀である。そうであるから、人は今を大切にすることしかできぬ。たとえ例外があろうと、普遍的に人が望み得るのはこの一点である。

 己の器、精一杯に生きてもなお、過ちを犯す事もあろう。ならば、その過ちから何かを学べばよい。上手に生きるというのは、無駄なく生きるということである。己の過ちですら、無駄に捨ててはならぬのである。「過ち無く生きる」など妄想に過ぎぬ。そこまで過保護にされて、一体どこにあなたの自由があるというのか。

 人に完璧は僥倖ぎょうこう》である。未熟なあなたが過ちもなく生きられるとしたら、あなたには操られているのか、さもなくば何も行わぬのか、どちらかに違いない。それはあなたがさして有益な存在ではない事の証である。

 私は過ちを勧めるのではない。過ちの恐怖に竦み上がるあなたを励ましているのだ。過去を悔いるばかりで償わぬあなたを励ましているのだ。恥にのぼせ上がっているあなたに冷静さを説いているのだ。

 何をもって幸福とするか、それは人によりて異なる。いずれにせよ、あなたが、あなたとして生きる事こそが大切である。それを忘れて幸せになる道などはありはしない。

 幸福とは未来への信頼である――たとえ貧しくとも、教の努力で明日の豊かさが得られるならば、人は幸福に思えるものである。しかし、どんなに豊かで強大な権力を得ようとも、失う事を恐れていてはその喜びを楽しむ事が出来ぬ。将来の恐怖から逃げるために、懸命に今の快楽を追及しても、人は老いからは逃げ切れぬ。病も襲い来るし、苦は必ずつきまとう。……休む事の叶わぬ幸せ、苦悩と表裏の幸せは、己が将来を蝕む病である。

 幸福とは、今の喜びではなく、未来への信頼である。それゆえに、幸せであるか否かは、心静めて、無念無想を試みてみればよい。己が未来に信頼を寄せている者だけが、正しく瞑想ができるものなのだ。

 未来の信頼であるがゆえに、自らの将来を危険に晒して幸福は得られぬ。豊かになるために人から盗めば、捕縛される事を恐れねば成らぬ。同様に、幸福とは、信用・信義、正義を代償にしては、獲たように思えて失われていくものである。まして他人を犠牲にして、人はどうして心静かに幸福を味わう事が出来ようか。また、むさぼってはならぬ。今、足りる以上に貪れば、明日には不足をきたす。生きている間に不足を感じずとも、人生の収支は貪る事で貧しくなるのだ。

 なんという事はない、幸せになるための努力とは、人として当たり前の行為にすぎぬ。安易な道もなければ近道もない。だが、決して遠回りでもない。ただ、あなたの焦る気持ちが道を誤らせねば良いのだ。

 誠実であれ――豊かさは容易に失われ、人も裏切る事がある。そうであっても、よき収穫を信じて種を蒔き続けよ。たとえあなたが収穫を失おうとも、盗っ人を富ませるだけでなく、回りまわって善人を潤すものである。蒔いた種はあなたを潤すか、社会を潤すか。いずれにせよ、最後にはあなたのものとなるだ。

 たとえ多くを奪われ様と、誠実である事を忘れてはならない。盗っ人を利用する人はいても、盗っ人に感謝する人はいないのだ。そうであるから、よき種を蒔く事を止めてはならぬ。盗人を憎んで盗っ人に陥ってはならぬのである。

 あなたが地上で感じる豊かさとは、造物主が生み出したものである。すなわち神(天)とは創造力である。ゆえに、生み出す事を止めた者は、神(天)意から遠ざからんとする者なのである。そして、奪わんとする者は、神(天)意とは縁遠い者なのである。

 身を守るために人々に不誠実になることはやむおえぬ事かも知れぬ。しかし、神(天)に不誠実であってはならぬ。己に不誠実であってはならぬ。その二つの罪を犯した時、あなたは破滅の他に行く場を失うのだから。

 あなたが幸せになるために出来る事は多い。しかし、大切なのはこの一点である。あなたは答えを知っている。知っているが故に地上に生を受けたのである。そして、未知の方策は、あなたを幸せではなく迷いに誘うのである。

(2003年6月26日)


恋愛の問題

2003/06/18

 前世で僧であり、また既に死したる者にとって、似つかわしざる話題と言われようが、今日は、気分を変えて、恋愛の問題について語ろう。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるとか、だが、人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。人生を語るにおいて恋愛という話題を避けることは出来まい。

 恋愛問題とは、あくまでも感情論である。

 ――相談を受けてもっとも厭なのが、恋愛相談だとか。なるほど、恋愛というのは愛という感情がすべてであり、理知的な者は感情問題を嫌う。そもそも感情のもつれは他人にはいかんともしがたい。智慧あるなら、他人の感情にまで踏み込まぬがよい。したがって、ここでは自分の恋愛感情について語ろう。

 感情論であろうと恋愛を否定せず。

 僧侶は修行の妨げになるからといって、恋愛を遠ざける。また、大望を抱く者も同様である。あまりに高尚な問題に取り組む者も、感覚的に物事を受け止めがちな女性を蔑視しがちであるが、逆に女性から恥をかかされることも多い。

 何よりも男性僧侶達をやっつけるのは、釈迦さえも女性の腹を借りて生まれたという現実である。伝説で釈迦は母の腋の下から生まれたとされるが、どこから出でようと母の胎内に養われたに相違ない。

 いかなる聖人君子であれ、母の胎内で養われずには世に出でぬ。またいかなる神通力に恵まれようとも……女性の胎内を避けてこの世に生れ出るような性差別主義者が聖人君子たり得ようか? 情に流されることを恥じるのは良い。しかし、男女が結ばれるのは摂理である。摂理を否定して真理には至れぬ。

 愛は至高にあらず、至高こそが愛なり。

 妻を持てば、妻子に楽をさせようとして貪欲になるとか。たとえ自分一人はつつましく暮らしても、愛する者には楽をさせたいというのは一つの人情であり、その人情に縛られて悪事に手を染める者も多い。

 人情が絡むと、人はどうも残酷にもなり、貪欲にもなるもので、自分が生きるために他を犠牲にするのを嫌う者も、愛する者を飢えさすまいと人を殺しもする。虫も殺せぬ乙女が、母になると赤子を案じて害無き虫まで殺して歩く。まして、恋する者を獲得せんと、悪しきことに手を染める人のなんと多きことか。

 全くおかしな事である。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるというのに、その最良の日々の中で堕落していくとは。人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。恋愛とは、果たして至高の喜びなのか、最悪の悲劇なのかどちらであろう。

 恋にはいろいろと難しき事が多いが、勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。人生に最善を尽くして得た恋はひたすらに幸せを味わえようが、全てを投げ出し恋に最善を尽くしては、人生を失いかねぬのである。……人生を疎かにして恋にうつつを抜かしながら、失恋を嘆くのは自業自得といえよう。いや、恋愛で幸せを掴むのも、不幸になるのも因果応報ということである。

 最良を求めて不幸になる。なんと惨めな人生であろうか。しかしこれは、全ての魂のたどり行く道にあらず。最良を求めて幸せをつかむ者もいるのである。勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。

 幸せを掴むために必要なこと。

 情に流されればさながら密林で迷うが如し、しかれど、理知的にだけ生きるなら不毛の砂漠の最中で暮らすが如し。他人の情乱に付き合わぬのは共に迷うのを嫌っての事で、人生には潤いも必要な事、いや、潤い以上のものが恋愛にあろう。

 死したる者から見れば地上の生などというのは、一夜の夢のように淡いものである。しかしながら、地上に生きている最中において、人生の伴侶を持たぬのはなるほど侘びしいものであろう。いや、修行者には神仏という伴侶があろうが、それはそれ、霊的な伴侶と、浮き世の伴侶と、生きる世界が異なれば求める伴侶も異なるものである。

 しかし、伴侶を求める心の奴隷になり、伴侶の奴隷になってはならぬ。それは人生のすべてを放棄するに均しい。神仏に滅私で尽くすのと、愛する者に滅私でつくすのとは、大いに異なる。神仏の天地のごとき大いなる欲、一切衆生ことごとくおおわんとするような大望に仕えるなら、その志の一翼さえも担えなくても、あなたによき影響を及ぼさずにはいないだろう。だが、情に支配され、欲に支配されている人間に滅私でつかえ、その行動にたとえ一片の私欲が混じらなかったとしても、他の私欲を満たすために働く事は即ち悪である。

 私は見る。多くの者達が、愛欲ゆえに悪行に手を染め、善を成さんとする心と、罪悪感に責め苛まされているのを。人世に漲る罪咎のほとんどは、愛を口実に行われている事をわきまえねばならぬ。

 他宗のものはいう。『愛せよ』と。善き事である。『愛は実践する事である』と。実践の伴なわぬ愛は無益である。されど、私ここに一つ付け加えたい。

 『愛の意味を覚らずに愛するな』と。そして、『他を求める心を愛と呼び、愛を至高のものとして悪事の言い訳に用いるな』と。

 なによりも、『人に愛されんとする欲望』を愛と呼ぶのは大きな間違いである。それはただの執着心に過ぎぬ。愛とは『人を愛する事』をいうが、人を愛する事と、人と愛されんとする事の区別すらつかぬ、飢えた心の持ち主があまりに多すぎる。

 心せねば成らぬ。人は己を知らぬがゆえに、何をして良いのかを知らぬ。人は己を過信するがゆえに、身に余るものを求めて身を持ち崩す。無知で滅びるのではなく、わが身を滅ぼさんとする者を無知というのだ。

 人は愛を求める。

 人は愛を求める。されど容易には愛を得られぬ。相手にも求める心があるから、あなたの求めにばかり応じられる者はいない。そして、求めて得られぬが故に人は愛に飢える。

 飢餓にある者は、美食を受け付けぬ。胃が弱っているからである。飢餓にある者を救えるのは、いと薄き粥なのである。故にわきまえよ。己が餓鬼の如く愛情に飢えているのに、美食を欲しがる者のなんと多き事か。与えられなければ心が飢え、与えられたら吐き戻して飢えてしまう。誰も与えぬから飢えるのではなく、求める者を与えられるがゆえに飢えるのである。

 己が餓鬼と知れば、美食を避けて粥をすすりて体力も戻せよう。その後に始めて美食を、すなわち豊穣なる愛を求めればよいのだ。……が、体力が戻るまで美食を待てぬというのか。その焦りこそがあなたを苦しめている元凶である。

何の施しもせぬくせに、人から貰うことばかりを考える。まるで乞食のように振る舞いながら、王者のように扱われたがる。その厚顔さがあなたを苦しめている元凶である。

(2003年6月17日)


死への心構え

2003/06/12

Q 「死の直後の体験についてお話下さい」

 動揺は記憶に留まらぬ――過日、「死の直後の体験」について問われた。生憎と私はあまり強く覚えてはいない。心霊家にとって、生と死の間際の出来事は大切な研究対象かも知れぬが、仏家である私にとって、平常心こそが極めるべき事である。また、病の苦痛も医者にとっては大切な体験かも知れぬが、私は一心に養生して修行に励むのだ。病も死も、平常心の妨げであってはならぬ。一時の事、一過性の事、それらは一大事ではない。平常心を失い、自身を失う事こそが一大事である。死に至らなくても、虫一匹が飛び出しただけで大騒ぎをするものもいる。それを思えば、死の心構えを改めて問うのはなんと愚かしい事だろうか。虫一匹で騒ぐ、心の座らぬものに死の心構えを説いてなんの役に立とう。

 確かにあの時、迷いが生じ、焦りが生じ、そして苦痛に襲われた。過去の苦悩を思い出し、忘れていた羞恥が込み上げ、葛藤が甦り、修行の為に捨てた亡き母の事が思い浮かばれた。しかし、それらは一過性のことに過ぎず、そして仏家は何事にも囚われぬ。

 なるほど霊は、記憶を留めて忘れがたい。しかし、環境の激変に伴なう(心の)動揺などというものは、記憶として扱われる事も無い。当事者は大変かも知れぬ。しかし、乗り越えてみればなんということも無い事である。生きている時には、死を明らかにする事がなるほど重要な事にも思えたものだ。しかし、死してみれば,生も死も、朝起きて顔を洗うがごとき日々の営みの一部に思える。

 私は生前も至らず、そして死後も至らぬ。だからこそ、日々の生活に学ぶ事が多く楽しい。この楽しみの前に立って、何を思い煩う事があろうか。生きている時には生きている楽しさがあり、死後には死後の楽しさがある。生きている時に死後の喜びを求め、死後に生きている時の喜びを求める……それでは生きても死んでも辛かろう。諸君。死は免れぬ。ならば死を楽しめ。そこには知り尽くせぬ不思議がある。諸君。死を恐れるなら、まず生を楽しめ。そこには必ず飽きがある。生と死は、二つのあり方ではなく、魂のたどるひとつの道筋であり、切り離せぬものである。時、至れば人はすべてを忘れて死への旅立ちを迎える。死を恐れる者は時いまだ至らず、死を恐れぬ者はいまだ生を知らず、すべては生命の中に備わる仕組みである。諸君は自らを信じねばならぬ。信じねば苦しまねばならぬ。それもまた生命の中に備わる仕組みである。

 恐れが迷いを生む――生前から死について学ぶ。それも健康で若いうちから真剣に死に付いて学ぶ。とてもよき事である。されど、知ることと行う事は大きく異なる。ゆえに、「そこで何が起こるか」を学ぶよりも、心がけるべき事を知ることが大切である。

 事実は強く印象付けられるが、事実はすべてを物語らない。どれほど明確な証拠よりもあなたが何を信じるかが大切なのである。そして、あなたが遭う出来事は星の数よりも多い。が、突き詰めれば、あなたの受け取りかたがすべてである。あなたが不安に負ければどんな出来事もあなたに苦痛を及ぼし、あなたが自信に満ちていれば、どんな出来事も興味深い体験となるだろう。ならばこそ、人生が魂を磨く修行の場であるというのも、あなたが不安を遠ざけ、自信に満ちて生きていればこその事である。

 あなたは死に際して、様々な事柄に出遭うかも知れぬ。そして、出遭う事柄の大半は、私の想像の外にあることかも知れぬ。しかし、霊界に住まえる誰もが死という深い谷を越えて来たのである。私達には多くの経験と知識があり、そして友愛に満ちている。あなたが拒まぬ限り、あなたは死出の旅立ちに不安を覚える必要もない。

 しかし……見知らぬ者の救いを信じるに当たりて、あなたは様々な疑念や不安を感じるかも知れぬ。が、あなたはまだ若く、そして健康である。ならば、目を見開き、耳をそばだてて、救いを求める人を探し出し、必要な相手に手を差し出せばよい。確かに、人を助けるのは決して容易な事ではない。だからこそ、いくら友愛に満ちている霊界であろうとあなた方を容易には助けられぬのは道理でもある。

 助ける者と助けられる者の間に意識に隔絶があると、助けるつもりがかえって邪魔になる事も多い。それを救い方が悪いなどと思う余地もあるまい。救われたければ救われやすき人に成らねばならぬ。

 人を助ける経験を重ねればこそ、見知らぬ人が相手でも息を合わせるのが上手になる。助ける経験を積めばこそ、助けられる者が持つべき心構えもおのずと身につくものである。

 若く健康なうちから学ぶという事は、より早いうちから心の準備が出来るという事である。今、ここで恐れるよりも出来る準備を大切にすべきである。このゆとりの無い者は、ただ心静めて一心に、「すべてをお任せします。お救いください」と祈る事しか出来ぬ。

 「善行を為せ」……そういうのは何も善行が神仏を動かすからではない。善事を為す者こそが、善事を素直に受け取る事が出来るからなのだ。

 真の障害は心の中にある――聞け、恐怖があろうと、事実は一つである。死はあなたが乗り越えるべき試練である。そこに何があろうと逃れるすべは無い。そして多くの人々が無事に死を乗り越えている。つまり、そこには決まった障害、知ることで優位に立てるような決まりきった障害などは何も無いのだ。しかし、決して少なくない人が死を受け入れる事が出来ずにさ迷う。障害は死後の世界にあるのではなく、人々の心中にこそ存在する。

 心霊家は、死を乗り越えるのが容易であるという。決して普遍的な事実とはいえぬが、確かに良く見る事実ではある。だが、死後の個性存続を信じぬ者や無神論者でさえも死を無事に乗り越える事もある。盲信は無知よりもひどい誤りであり、過信は無知よりも傲慢である。見よ、事実を、それこそが知るべきすべてである。宗教信条に関わらず多くの人々が死して迷わぬ。それこそが知るべきすべてである。

Q 「死して迷わぬ人の方が多いという事実を、人々はどう確かめたらよいのだろうか」

 統計的な事実は救いを与えぬ。――なるほど、霊感の持ち主でさえ、死後の世界には悪霊・怨霊がひしめき合っていると感じるものあり、一方で、悪霊・低級霊などとるに足らぬと思うものもある。霊媒の魂の境涯の違いで、霊界の地獄の吹き溜まりに感応するものもいれば、善良なる死者達とだけ感応する者もある。

 それゆえに、死して迷わぬ人が多いという事実は、ある人にとってはあたりまえな事であっても、人によっては、たった一人の迷い霊に苦しむ事もあるだろう。したがって、迷わぬ霊の方が多いという事実は、誰もが受け入れられる普遍的な現象であるとはいい難い。

 もしもあなたが、慙愧の念や執着心に囚われた心の持ち主であるなら、否応もなく、さ迷える魂たちと感応しやすく、その状態で霊覚が開けたならば、死者は迷える魂ばかりに思えよう。しかし、迷える魂と関わる事は人の義務でもなんでもない。あなたは勤めて、迷わぬ人々、迷わぬ魂たちと友好を結ぶ事が出来るのである。

 「死して迷わぬ人の方が多い」……それを統計的な事実と受け止めても意味は無い。なぜなら、人はその心の有り様によって、迷う者、迷わぬ者のどちらにも所属しうるからである。たとえ統計的に迷える者が少なくとも、あなたが迷っているならば統計事実などは何ら役にはたたぬ。

 そして、過去の出来事や物的財産、自己の宗教信条や、他人の気持ちなどに執着しなければ、目の前の事実は当たり前のように受け止められよう。そう、心に大きな迷いや不明を抱いてさえいなければ、あなたは死して迷うことなく、迷える死者と交わる必要もない。大切なのは、「人は無理に迷う必要がない」という事実である。

 私は地上と縁を切って久しい。私は直系の子を残さず、霊統ともいうべき弟子の世話も、すでに弟子達に任せて私は地上の人々の世話をする事もあまりない。したがって死者を導く機会も多くは持たない。だが、死者を導く霊達の体験を聞くならば、当所は迷いや過ちたる観念に囚われている者も多いようだ。しかし、必要に駆られて迷い、悩める者は一人もいない。人によって長短はあろうが、みなことごとく迷いを捨て去り澄みやかな心を獲得している。一時の迷いさえも逃れた人はいまだ知らぬが、迷いから全く逃れられぬ人も私は知らぬ。

 努力なくしてすべての人が静粛に包まれるわけではないし、また、努力ゆえに静粛から遠い人もいるが、静粛を得られぬ人はいない。平穏は権利でなく、待って得られるものではないが、誰もが持っている当たり前なものである。人が迷わぬのは目前の事実とは異なるかも知れぬ。しかし、最終的な事実である。

 平穏を求めずに得られる事は無く、また、平穏を求めても執着を手放さなければ矢張り心が安らぐ事も無い。盲信・過信を手放さなければ事実を受け入れる事も出来なかろう。しかし、平穏を得ずに幸せにはなれぬ。ことに否応もなく自らの心と向き合わねばならぬ霊界において、自らの心を磨くことなく幸せを味わう事は絶無である。したがって、幸せを求めるならば迷いを捨てねば成らぬ。それがすべての魂が辿るべき道筋であり、ただ早いか遅いかの違いにすぎぬのだ。

Q 「では、迷いを断つ為に何を為すべきか?」

 重大な問題である。多くの人がその命題に悩み命を縮めた。私が伝えたい事はとても多いが、安易な解決法と思われる事も世の害になるだろう。人は無用な悩みを大切にして、人生をおろそかにしている。そう言った所で、人々が無駄な悩みを手放す事も無く、結局は悩み続ける。このような問いかけに答える事には意味も無い。とはいえ、すべてが無意味でもない。

 この世界に、解けぬ悩みはない。どのように複雑高度な問題であろうと、あなたが理解しえる範囲の中で、あなたなりの答えが見出せぬはずは無い。それが見えぬとしたらあなたに必要なのは答えではなく、自信を持つ事である。

あなたが遭う出来事は星の数よりも多い。が、突き詰めれば、あなたの受け取りかたがすべてである。あなたが不安に負ければどんな出来事もあなたに苦痛を及ぼし、あなたが自信に満ちていれば、どんな出来事も興味深い体験となるだろう。その意味において迷いというのは自信の無さが生み出す、結論の棚上げに過ぎぬ。

 迷いはあなたの中にあり、解決策もあなたの中にある。世の中に解き難き悩みも多いが、迷いとはそれとは別なところにある。すなわち、現実と理想の隙間こそが迷いなのである。現実を受け入れざる人が迷って救われぬ。また、無理な理想を抱く人が迷って救われぬ。結局は、今できる事を大切にしない人が迷うのである。

 迷いを解く方法はある。それを得てこそ人は高みに駆け上り、その方法は実は自明である。しかし、迷いを手放さぬ人にとっては、自明であっても永遠の謎に過ぎぬ。だからこそ、世の人には迷う人あり、迷わぬ人ありなのである。なんと世界は矛盾に満ちていようか。悩める者はいつまでも悩み、悩まぬ者はまるで悩まぬのだから。

(2003年6月11日)


人は何所へ行くべきか

2003/04/05

Q 「人は何所へ進むべきでしょう、人生の指針を見誤らぬ為の助言を下さい」

迷うなかれ――人は迷う。煩悩に振り回されている事も知らず、迷うことから逃れようとはせぬ。多くは辛い現実から逃れるために、その心があらぬほうを向く。人は真実から目を背け、さ迷い歩く。

 あなたが、進み行くべき道を知らずにさ迷うのであれば、いずれは誤って正しい道に出るやも知れぬ。しかし、真実と現実とを嫌い、それを避けてさ迷い歩く者が、どうして、正しい道とめぐり合おうか……正しくない道ばかりを選んで歩む者が、正しい道に横着するとしたら、それはなんともひどい勘違いといえよう。そのような勘違いがどうして長続きしよう。

 さ迷うなかれ、正しき道を知っていてもなお、さ迷うの者は決して正しき道を歩めぬ。

 過ちを正してこその人生である――何ゆえか、人は正しき道を厭う。神や仏よりも、悪霊、邪鬼が優しいとでも言うのか……いや、なるほど天魔はとても優しい。その誘惑の毒牙に獲物を捕らえるまでは、神や仏よりもなお、優しかろう。しかし、それは、あなたのために優しくあるのではない。魔が優しげにふるまうのは、あなた方を捕らえるのに都合が良いからである。魔は、己のためにだけ他に優しいものだ。己の欲を満たすためだけに人に優しくするだけである。

 神や仏は、あなた方の過ちを責めもせず、あなた方を捕らえはせず、あなた方に強いもしない。あなたはいつ神仏に救いを求めても良く、そして、いつ立ち去ろうとも誰も止めはしない。しかし、神も仏も、あなたに隷従はしない。あなたがどれほど懇願しようが、正しくない望みには耳も貸さぬ。

 思え、望んで得られぬなら、あなたには過ちがある。その過ちを正す事こそ、地上の生の最大の眼目である。地上で過ちを正してこそ、霊界にて正しく知識を会得できるのだ。

 人生に愛情をもて――世の中に、どれほど多くの道があろうと、ただこの道以外に何所までも続く道は無い。後はどれも行き止まりである。行き止まるまで奥行きがあろうと……この道を生み出したのは、神や仏と呼ばれる以上の存在であって、神仏等も、所詮は道の番人、道の案内者に過ぎない。

 歩める者ならば、だれでも目的地を目指す権利がある。あなたがどれほど多くの過ちを犯し、どれほど恥ずかしい思いをしようと、あなたが持つ、この権利を奪う事は出来ない。罪に償いが必要だとしても、誰もあなたに間違った道を強いる事はできない。天魔・邪鬼は権利があってあなた方を誘惑し、邪魔をするのではなく、また、いかなる神仏も、正しき道を歩もうとする人を拒絶する権利を持つわけでもない。

 しかし同時に、誰もあなた方に、「正しき道を歩め」と懇願はしない。権利があろうと、その権利を行使しなければ、無駄になるのは何事にも当てはまるのだ。まして、自ら歩まぬ限り、正しい道の上にいるのか、誤った道の上にいるのか、どう違うというのだろう。目的地にたどり着けぬには変わりは無いのだ。

 あなた方は人生に愛情を持つべきである。あなた方の人生を「つまらないものだ」と、けなすのは浅き智慧しか持たぬ凡夫であり、何よりあなた自身なのである。正しき道を歩んでよいのに、勝手に、誤った道を歩ませようと自らに強いるのもあなた方である。

 天魔や邪鬼が跋扈《ばっこ》する原因は、あなた方が誘惑を楽しみ、障害を言い訳に用いんとするからである。地上にあって神や仏の肩身が狭いのは、自らの過ちを正す事よりも、過ちがあってこそ人間らしいと、人々がこぞって開き直っているからである。

 しかし、神仏により遠く、天魔・邪鬼により近づく、その心はいかなる境涯にあるのか。地上はなるほど境涯のるつぼであって、さまざまな境涯の者たちがひしめき合って暮らしている。しかし霊界はそうではない。在るべき所に在るべき魂が暮らす。人に甘えた暮らしは霊界では難しい。地上だけの習慣は死後の苦しみの種でしかない。あなたは果たして人生を愛しているか。己に苦しみの種を蒔いて。

 自覚せよ――あなたは正しい道を知っている。少なくともあなた方の魂は正しい道を知っているのである。その正しき道を見えにくくしているのは、あなた方の罪悪感であり、不信であり、僻みである。

 正しき道を知りたければ、自らの良心の囁きに耳を貸すが良い。正しき道がどれであるのか、聞き取りにくければ、誤った道がどれであるかを良心に尋ねてみればよい、おのずと道は絞られる。

 正しき道がいくつも見えたとしても、過ちを恐れる必要は無い。正しき道とは幅広いもので、高みから見下ろせば、複数に見えるのは錯覚で、実は一つの道であることに気づくだろう。

 自覚せよ、己の罪悪感を、不信を、僻みを……それらが生み出す障害を。あなたは正しき道を知っている。ただ、それを選べないだけである。

(2003年4月4日)


対人関係 3

2003/01/11

Q 『言っても判らない人、話し合いで問題が解決できない人と、どう接するべきか。』

 理解の欠如――質問の趣旨には面白い前提が含まれる。あなたは何を話し合おうというのか、つまりは、「止めて貰いたい」ということである。または、「義務を果たせ」ということである。「言ってもわからぬ」というのは、「自分の言うがままに相手が動かぬ事」を指さぬ。そのような横暴な方法を私は知らぬ。

 では、相手はなぜ、止めろと言われても止めず、義務を果たせといわれて義務を果たさぬのか。相手は、「自分の言うがままに相手を動かそうとしている」からである。それは既に話し合いのあり方ではない。

 世の中に、話し合って分かり合えぬ人はいまい。だが、人の話を聞かずに一方的に話したがる人は多い。こういう状態で会話は成立しない。それは話し合いとは呼べぬのである。

(2003年1月10日)


霊媒の義務

2002/12/10

Q 『霊媒に対して人々は様々な期待を抱いています。霊界と人々との間に入って、私たちは何を心掛けるべきでしょう?』

 この回答は盧氏以外から回答がありました。セリフ中に括弧で括ったのはニュアンスとして受け取った部分です。……
 品良く、そして丁寧に、深々と頭を下げる男性の霊が見えます。

A 「あなたは、天(不可知なもの全般)に対しては謙虚に、人(他)に対しては親切に生きるべきです。」

Q 『……?(質問の趣旨とは異なる回答に戸惑う)』

A 「あなたはただ、天に対しては謙虚に、人に対しては親切に生きるべきです。そして、人々に何かを求められたら、『あなたは天に対しては謙虚に、人に対しては親切であるように勤めなさい』と、答えればよろしいのです。皆が天に対して謙虚であれば、世に不安が広がる事も無く、皆が人に対して親切であれば、世の中の憎しみが減っていきます。」

Q 『あっ……!』

A 「私が見ておりますと、あなたが心霊相談を受けて対応に苦慮する人々は、天に無理を言おうとし、自分は親切なつもりでも思慮の浅い人である事が多いのです。ですから、あなたは、霊媒であると気負うことなく、ただ、天に対しては謙虚に、人に対しては親切であるように心掛けるのです。その心掛けがあなたの言動からにじみ出るようになれば、おのずと無理な質問に苦しむ事も減るでしょう。あなたは、
いえ、あなた方は無用な気負いで自ら苦しんでいらっしゃいます。」

同様の問題を、盧氏からも返答いただきました。

Q 『霊媒にとって背後霊団の獲得はとても大切です。霊界の援助、志の賛同者を得る為に心掛けるべきは何でしょうか。』

 自覚が大切である――人々の為に働くというのは容易ではない。人の為に働けば、往々に自分の務めがおろそかになる。それは善行とはいえない。善事よりも悪事の方が多いからである。自分の務めを果たしてなお、その余力を人々に向けて初めて善行と呼べる。

 その意味で、もしもあなたが人助けを志すなら、確かに多くの霊達の助けを得られよう。だが、それが果たして大切な事であろうか。そうして得た背後霊の意図に埋没して、あなたは自分を見失わずに済むだろうか。

 人々の意思と力の焦点になること。それは決して容易な仕事ではない。背後霊団・霊界における心霊作業の協力者を得ることよりも、あなたがその援助を正しく世の中に引き出す事が、本当に大切な事である。

 私などが見回したところ、適切な霊媒がいれば顕幽交通に携わりたいと思う霊は多い。問題はこの適切な霊媒という意味である。力を望むものは多い。しかし、その力に押しつぶされない強さを持つ者は少ない。

(2002年12月09日)


対人関係 1

2002/12/10

Q 『相談回答時に時々、名状し難い感覚での拒絶を感じる。背後達が質問者を嫌っている事は理解するが、拒絶の理由を詳しく説明願いたい』

 基礎不足――あなたは、穴の空いた器に水を注ぐ事を拒むという。なるほど無駄になる事に努力したくないのは、当たり前の事ではある。あなたが、人々に自明な理由で相談を断る事があるように、私たちもやはり自明な理由で相談を拒む。その第一の原因は、基礎の不足である。

 私たちが与えた物を、使いこなせぬのはまだ良い。私たちの仕事が無駄になっても、求めて与えられた信頼は、とても重要である。何も与えずにただ信じよというのは無理がある。だから、私たちは無駄を嫌っても惜しみはしない。しかし、私たちが何かを与えたが為に、崩れ落ちてしまうのでは手を出しようがない。助けようにも基礎が足りず、土台がしっかり固まっていない者には手を出せない。それが私たちの拒絶である。

 無礼者――また、正しい方向に努力していると信じているが、本当に結果が得られるか不安であるという相談を扱った事があるはず。それに対して、正否を示して上げるのはたやすいことだ。しかし、相談者の中には、一言では足りずに、何度でも同じ質問を繰り返す者がいる。……私たちの言葉を信じられぬというのなら、なぜ、私たちに質問をしようとするのか。実に無礼ではあるが、腹を立てるには当たらない。かような者達は真に信じられる者に巡り合えぬからだ。これもある意味の基礎不足で、心の未熟さゆえに、信じる事の意味も価値も判らぬのである。

 そして、未熟さゆえに大切に導き育てる必要はあるが、敬う心を持たぬ者を教え導くことは出来ない。なぜなら、どんなに素晴らしい叡智に対しても、わずかでも理解の困難な事があれば、勝手に自分の知恵を差し挟んで、素晴らしいものを台無しにしてしまうからである。

 叡智の取扱には注意が必要なのである。教えを受けて敬わぬものは、自らの知恵によって滅びる。自らの浅知恵で自らの人生を台無しにしてしまう。そのような者に教えを与えると善い使い方はせぬ。善知識を学ぶものは身を守らねばならない。

 さもしい者――私たちが拒絶する間もなく、あなたが拒絶するものに対しても説明を試みよう。自分の器以上に望む、さもしい者である。このようなものにいくら与えても皆無駄になる。しかし、時間も労力も限りがある。善智識を学ぶものは限りあるものを惜しまねばならない。

 しかし、人は誰も自らをさもしい者とは思わぬ。では、何をさもしいと呼ぶのか。何も人に与えようとしない時である。代償を払う気がのない者は致し方が無い。しかし、求めることに囚われて、他に気がまわらない者もさもしさに陥る。かような過ちは、あなた(老神いさお)のわずかな配慮で救うことが出来る。

 『困っている今のあなたは、誰も救えぬかも知れぬ。しかし、楽しい話を集めてきて、皆に紹介するぐらいの手助けは出来よう。それも大切なことである』

Q 『類は友を呼ぶと言うが、私は往々に争いごとに巻き込まれる。これは私が喧騒だからか。』

 意味が違う――「類は友を呼ぶ」というのはお互いに引き寄せあうという意味である。一方的に好まれるのはこの限りではない。類は友を呼ぶ。喧騒な人々、怠惰な人々や、恩知らずな人々……いや、凡俗な人々と呼ぶべき人々と友好を結べるのが、その同類の人々なのである。

 であるから、争いが絶えぬからといって、その者たち総てが喧騒であるとは限らぬ。門外で揉めるのと、門内で揉めるのでは争いの意味が大きく違う。

 どんな肥沃な土地も、手入れを怠ればたちまち荒れ果てる。肥沃さを維持するには、手間ひまが不可欠である。だからこそ、怠惰な人は、荒れ地にしか住めない。どんな肥沃な土地も、手入れを怠ればたちまち荒れ果てるからである。自力では肥沃さを維持できぬから外に力を求め、荒廃が止められないから他に楽園を求める。怠惰とはいえ、困苦を嫌う気持ちはあるがゆえに、怠惰な人こそ楽園を探す事にはとても熱心で、彼らに狙われないのは荒廃した地だけである。

 反対に、いかなる荒れ地でも勤勉な人が耕せばやがては肥沃な農地に変わる。善男善女はいずこであろうと楽園を築くことができる。だからあえて楽園を探そうとはしない。彼らは極楽の住人ではなく、彼らこそが極楽なのである。であるからこそ、善男・善女は、閉じ込められて奴隷とされる事を恐れても、追い出される事を恐れない。

 争いに面する事を恥じるよりも、凡俗に蹂躙されぬ事を誇りに思え。崇高だからこそ、善男善女を友にできる。凡俗に迎合すれば凡俗しか集まらなくなる。それが、類は友を呼ぶという事である。

Q 『私も門内での争いを体験している。』

 善者の葛藤――人生には大きな葛藤がいくつもある。人には親切にすべきである。だが、人は、親切に狎れて増長する凡俗な者と、親切に心開いて誠意を抱く善良な人とに大別できる。元から「人を見たら盗徒と思え」と、疑ってばかりでは誰とも親しむ事が出来ない。

 多くの人は善良であろうと勤めるものだから、付き合ってみればこそ、その人の本音が見えるものだ。まして、人々は、不平等を悪と見なす。そうであれば、明確な基準を示す事も無く、或る者は厚遇し、或る者は冷遇すれば、人々は戸惑うばかりである。霊感に頼って人を嫌えば誤解を受けるし、まして強欲な者ほど利に執着して逆恨みの害を生じる。

 しかし、いずれは逆恨みされようとも、日頃、善意を尽くせば心有る人々は信じてくれよう。悪党に施すのは不快に思えるかもしれないが、その施しが逆恨みの念からあなたを守るのである。

 逆恨みに迎合するのは強欲なる者である。争いを恐れ、嫌うより、強欲な者に支配される事を恐れよ。自由の維持には代償が必要なものだ。

(2002年12月09日)


心霊研究の意義

2002/12/08

Q 『心霊研究の意義について、あなたのお考えを教えていただきたい。』

 夢想に浸らない――私は生前仏家であった。そして不可知なものを学ぶより、未知なるものに柔軟に接する心の修養を大切にしてきた。私は生前、自らの前世を知り、また、自らの死後も知っていたが、それを人に説く事をせず、その事に何ら不足を感じなかった。

 私は死後を説く事の無駄を良く知っている。死後に楽園があるなら、どうすればたどり着くかを人は悩む。しかし、楽園は場所にあらず人の境涯にある。肥沃な農地であっても、怠惰な人が買い取ればたちどころに荒れ果て、いかなる荒れ地でも勤勉な人が耕せばやがては肥沃な農地に変わる。死後にいかなる世界があるかよりも、あなたがどのような世界に自分を住まわせたいのかが大切なのである。

 見よ、心霊家の多くはそれをわからずに、ただ、美しい世界に移り住む事を願う。しかし、人は死後に思い知らされる。幸せは誰が作っていたのかということを。ある者は煩《わずら》いを捨て去りより幸せになり、ある者は支えを失ってどん底に陥《おちい》る。善男・善女が住むから極楽が生じ、善男・善女が去れば極楽も消え去る。その逆ではない。

 「経文・聖典は道にあらず、ただの道標《しるべ》なり。」これはあらゆる宗教・心霊思想についても当てはまる事である。いくら読み、そらんじ、唱えても、進まなければ何所にも行けぬ。身体が動かぬ者が助けを求めたならば救いは必要である。しかし身体を動かさずに口を動かすだけの怠け者を誰が救うというのだろう。怠惰も悪なら、怠惰を進める者も悪である。知識は進むべき方向を指し示す。必要なのは進む事であり、知識の生み出す夢想に浸ってはならない。

 人生は死者の見る夢――多くの人々は総ての努力を自らの生に捧げる。しかし、死はその努力を奪い去る。従って、「人は死して無」というのは、大抵の人々にとって正しい。いかなる科学的な実験で証明して見せようが、死後の個性存続を前提にして生き方を変えられぬ限り人は死して無になる。

 地上に生を受け、総ての努力を生に捧げ、そして死んだ者にとって見れば、地上の生とは霊界で見る夢に過ぎない。そして、夢から覚めれば現実が待ち受けている。大方の魂にとって再生などは、人々の睡眠と覚醒の繰り返しと何ら変わりがありはしない。人々は一体夢から何を学ぶというのだろう。

 死後の世界の有無など、夢から学びえる事と大差ない。霊界との付き合いは、夢占いの有益さと大差ない。地上の生から学び得た事はその程度にすぎない。それが大方の死者の感想である。人は死後、霊界にてその魂の境涯に見合った世界に暮らす。そして、人は生前、その心の境涯に見合った世界観の中で暮らす。一つの世界に留まり続けて他の境涯を知らぬ者にとって霊界などまったく存在しない。死後の個性存続も存在しない。人は死して無になり、魂は悪夢から目覚める。ただそれだけの事である。

 自覚しない者は夢の中にある。死後の個性存続の証明など、くだらぬ事である。その証明の努力は、寝ている者に向かって「あなたは今、夢を見ている」と教えるようなものだ。大切なのは、覚醒である。つまり、認知しえる世界観を脱して、より大きな世界観を獲得すること、そして、獲得した世界観に見合った生き方を見出す事である。

 そう、生きている内から、死後を思い悩んでは、限られた時間が無駄になる。心霊知識が人生に有益となるのは、生き方の変化をもたらした時なのだ。

 死後の個性存続――そう、死後の個性存続を、知る……せめて、信じる……事が重要であるのはこの理由である。つまり、僅か百年前後の時間の中だけで人生を考えるのか、それとも更に大きな時間の流れで、人生を考えるのかで、その人の行いの大きさが決まる。

 現実に、「肉体を失った死者達の世界」があるか無いかに関わらず、地上の人々は、生の枠を越えた先人たちの努力の上、先人達の様々な遺産の上に暮らしている。「多くの霊媒は『先祖供養、先祖供養』と繰り返す、祖先とは何と浅ましいものか」と、口にするものもいるようだが、先人の努力は甘受しながら先人に敬意を払わぬなら、あなたがたもその子孫から軽蔑されよう。心霊研究なるものは、あらゆる先人の努力を敬わねば意味を失うだろう。

Q 『心霊に対する取り組み方法について。反対論にどう接するべきだろう。』

 沈黙と慈悲を持って接せよ――人に説く時は、あなたの思うままを説くのでなく、相手の視点の高さにたって説かねばならない。あなたの理解力と相手の理解力は異なり、相手の利害とあなたの利害は異なる。それを忘れて意見を説けば、相手は穏やかな気持ちで聞くことが出来なくなる。まして言葉には限界がある。こと、抽象的な問題を論じるのに、言葉は非常に用い難い意思伝達の手段である。

 相手が自ら聞く気にならなければ、あなたの言葉は無駄になるし、聞きたがる相手も、真実を求めるより、都合の良い話だけを求めている場合もある。言葉すくなに話して、相手がじれて質問を始めるようにせよ。疑念を抱いた時、聴者は初めて言葉ではなく、内容に関心を向ける。そして疑念が解けた瞬間、聴者は知的昂奮を抱く。好奇心に囚われた人は、百の名言よりも一つの事実に大いなる感銘を受ける。しかし、忍耐を強いられた聴衆の心は、かたくなで新しい事柄を受け止めはしない。

 大切なのは事実の解説ではない。相手の目が事実に向く事なのである。そして、相手の視点を強いて曲げようとしてはならぬ。暴力は事実を汚すからだ。自らの思考を人に伝えるなら、沈黙と慈悲を持って接せよ。決して慌ててはならぬ。

Q 『迷信者、偏見者とどう接するべきか、教えていただきたい』

 時機が大切――酔者に飲酒の害は説けぬものだ。説教したければ無粋な真似をせずに、二日酔いの朝を待つのが良い。しかし、いくら説教しても飲酒の害は免れられぬ。問題は飲酒ではなく、飲酒に追い込む他の原因があるからだ。真の原因を直視する、酔者にその覚悟が生まれるまで、酔者を救う事は出来ぬ。

 酔者は、飲酒の害を知るゆえに酩酊に落ちているのではない。酩酊に価値を見るがゆえに酔者なのである。迷信を信じるのも、偏見を棄てぬのも、その状態に価値を知るが故である。

 人の過誤は、指摘して正す事が容易であるが、人の未熟さを導く事は容易ではない。導こうとして導けなかった時、自分の未熟さに気がつくならば、自分も相手も成長するだろう。だが、導けぬもどかしさから怒りや憎しみを育てるようでは、いつまでたっても未熟さを克服できない。つまり、眼前の悲劇を救うのではない、眼前の悲劇に救われるのだ。ただ、幸せな境遇にあるから悪事を行わずに済んでいるだけの傲慢な魂といわれても仕方がない事である。

(2002年12月7日)


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