ニセ霊感
2006/04/13
果たしてそれはインスピレーションか。
霊感とインスピレーション(”inspiration”)とは、本来、全く同義なのです。まず、その事を踏まえて以下をお読みください。
ある人の心中に閃くメッセージが、外部の(霊的な)影響であるのか、はたまた、自己の内面、極端に言えば、ただの妄想や狂気の結果に過ぎないのか、その判断はとても難しいのですが、正しいインスピレーションであるのか、否かを判断するのは実は容易です。
創造的な閃きが含まれているものが真のインスピレーションであり、否定的な意味合いしかないのは真のインスピレーションではありません。
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数年前、愛と平和を説くチャネラー(?)と出会った事がありますが、私は彼に何ら、霊的なきらめきを見出す事がありませんでした。「戦争が悪い事」や「人々が愛し合い、信じ合い、いたわりあう事の大切さ」なんて、わざわざ、霊的なメッセージとして与えられるまでもない事です。ちょっと気が利いた人ならば、誰だってそんなフレーズは口にするのに、それでもなおかつ、世の中には憎しみや不信が渦巻いているのです。死者の霊が、そう言っているからといって、それが何だというのでしょう。『思わぬ方がむしろ変、いや、わざわざ言う事がむしろ変』それが良識と言うものでしょう。
わかっているのに克服出来ない事を、一体どうしたら克服できるのか、そのための智慧が人類には必要なのです。「努力と工夫が必要!」……そんな事も判りきった事です。わかりきった事を、神憑って話す。くだらない事だと思います。信じあい、労り合い、仲良くする事……そんな事は人間として当たり前の事であり、その当たり前の事を霊信やら、神憑りでなければ発言できない、または理解できないのだとしたら、その人は何と低俗な人なのでしょうか?
ええ、人として当たり前の事が、霊憑り、神憑りでようやく理解できる人が相手であっても、信じあい、労り合い、仲良くする必要はあるでしょう。いえ、そういう人こそ周囲からの温かい保護が必要と言えましょう。 しかし、温かい保護はインターネット経由で出来るような類ではありません。この事は決して極端な話ではありません。
特に、派手な神憑りをする人……には、自我肥大の傾向があります。人の注目を浴びたくて卒倒して見せるような部分があるのです。そして、周囲の人々から冷遇されていると感じている人は、普通に話しても注目されないが為に、「霊がこう言った……」と、いう場合が多いのです。
これが実に滑稽である事に当人は気がつきません。まともな人なら、注目するのはタイトル/ラベルではなく内容なのです。どんなに素晴らしいタイトルだって、内容が陳腐であればたちまちうんざりしてしまいます。陳腐な会話しか出来ないからこそ、人々が相手にしないのに、「霊が……」、「神が……」と騒いで、しかも内容が変わらなければ、相手にしないどころか、その正気を疑うようになるのが当然でしょう。
一度や二度はタイトルに魅せられて騙される人がいても、三度も四度も騙されるのは同じレベルの人だけです。結局、ますます人々からまともに相手にされなくなった時、このニセ霊媒には二つの選択肢があります。
神憑るのを止めるか、更に極端なパフォーマンスを起こすか……一方は正気への道、もう一方は狂気への道なのです。ですが、私の心霊相談上の経験から言うと、霊感を欲しがる人は、何らかの切っ掛けを得た時、必ず狂気への最短コースを選択して、人の話を聞きません。こういう狂気は本当に治りにくいものです。さらに狂気に等しい霊憑り……つまり、低級霊との同化が起こった場合は、まず除霊は不可能です。
なぜなら、患者にして見れば、正気を失った状態の方が幸福だからです。もう現実が耐えられないからこそ狂気に走っているのです。こういう人に努力を求めたらますます、深い狂気に逃げ込もうとするでしょう。
くどいようですが……チャネリングの内容について。
問題は、どうしたら憎しみあう人々が和解できるのか――という事のはず。愛と平和を説く。それは一見崇高な様ですが、具体的な方策が無いという一点を見れば、ただ愛と平和を説くだけの人が、ただ社会に対して不満を提示しているだけの批判家に過ぎない事が判るわけです。
むろん、戦いを鼓舞する人々よりはよほど善良かもしれませんが、だから何だ、というのでしょうか。地上には六十数億もの人間が暮らしているのです。人にはそれぞれ様々な価値観があり、様々な思想があります。世界は六十数億の人々の仲介者を切実に求めていますが、人々がやっている事は自分の思想を押し付けあう事だけの事です。
ただの批判家も、それに迎合する人々もつまらないと私は思います。愛と平和を説くのも同様。その人の独善的な正義を周囲に押し付けているだけで、人の話なんてまるで聞きはしません。世界が必要としているのは、愛と平和の伝道者ではなく、愛と平和の実践者なのです。
それ以後、数人の「霊界から使命を与えられた救世主」からのメールを頂きましたが滑稽な事に、皆一様にありきたりな事を繰り返すばかりで、人の話など聞いてはいません。まるで、社会不適応者が自分を変えるのではなく、社会を変えようとしているようにしか見えないのです。勉強が嫌いな子供が、学校の無い社会を作ろうとするような物――せめて人の話を聞く人ならば、話をする意味もあるでしょうが、夢想的な話を一方的に聞かされるのは時間の無駄としか感じられません。
そもそも人間は未熟な存在なのですから、その人間が集まって出来る社会もまた未熟な存在でしかありません。ですから、社会に問題があるのは当たり前のことで、それに気がつかない方がおかしなことです。そうであるにも拘らず、「自分は特別な存在で、霊的なインスピレーションによって社会の真の問題に気がついた……」などとは、禅宗でいう魔境、全く狂気の第一歩であって、「社会の抱える真の問題に、自らの思考力で気がつかない人」が、一体どうして一人前の大人として社会に貢献できるというのでしょうか?
その程度の事を、霊的なインスピレーションでようやく気がついた人がいるとしたら、それは霊格者ではなく、ただの愚か者に過ぎません。嫌な事を自分から嫌だといえない人が、「霊(神/仏等)がこう言っている」と言い訳するのに等しいことです。こんな逃避的な心の人が社会に有益なる事、いや、誠実な友人として振舞う事が出来るでしょうか? 私はこういう手合いを全く信じてはいません。関わる事に価値も見出しません。
現実逃避的な狂気――当事者は自らの境涯を天国であると称するが、周囲の人々から見て狂気の沙汰、または地獄の様相である状態を「魔境にある」といいます。まあ、極端な禅宗の方々は、心霊家一般を「魔境」と一括りにしますが、まともな大人が真剣に研究している物を部外者が一括りに論破出来ると思うなら、その僧侶はさぞかし高い悟りに達しているのでしょう。……という低レベルな話題は、脇に置くとして、上記、「神憑り」の問題は、実に禅宗の中で多く見られた事に注目すべきです。
心霊を学ぶ上、特に自己の霊感と向きあわねばならぬ人((先天的霊能者)は、形式的・形而上的な呪術よりも、形而下の問題に関心を持つべきでしょう。密教よりも禅にこそ、自己の才能を真に買いかさせるヒントがあると私は思います。
さて、確か、白隠禅師の逸話なのですが、ある若い僧が、「悟りを得て釈迦を超えた」と思いこみ、用便《トイレ》を済ませた後に、経本を破いて尻を拭くようになりました。先輩の僧侶が止めるように諌めてもいうことを聞きません。とうとう白隠禅師が乗り出したのですが、この若い僧侶の話を一通り聞いた後、「そんなに偉い如来様のお尻を、古紙(つまり経本)で拭く等というのはもったいない。これからは新しい紙で拭きなさい」といって席を立ったそうです。
大抵の皆様には、十分に笑える逸話でしょうが、念のために補足します。
この若い僧侶が、本当に悟りを得て釈迦を超えたのであれば、わざわざ経本で尻を拭くというパフォーマンスは必要なかったのです。それよりもむしろ、全く新しい事を始めるべきでしょう。しかし、「偉い如来様の尻を古紙で拭く」という大間違いをしでかしたわけです。これは結局、良いものを踏みつけには出来ても、より良いものを作れぬ愚かさが、こうさせているというわけです。
このようなバカバカしさが、現代の自称メシアや、大如来様の方々にも散見するわけです。釈迦やキリストを超えたといいながら、そこら辺の霊媒やら、つまらぬ心霊サイトに集まる凡夫の説得に拘るという視野の狭さを持っている。本当に悟りやら神託やらを得たのであれば、堂々と世界を相手に自分の教えを問うて見せるべきなのです。自分の正気を世界に問うて見れば良いのです。
でも、笑って許してくれそうなところを選んで、自分の狂気を小出しにするのです。わずか百年足らずにつまり、どこか正気の部分があって、いつまでも狂気の中に逃避し続ける事が出来るようにコントロールしているのです。それは、一生懸命、現実と向き合い、常に理性的に、そして前向きに努力して生きようとしている人から見れば、我慢し難いほどに卑怯な態度です。
また、私も過去、そうでしたが、突然、霊感が発言しても普通に生きようと苦悩してきた者、そして、現実的な心霊思想を普及しようとしてきた者から見れば、現実逃避の理由に「心霊」を利用し、世の心霊嫌いを助長するような人は、とても不愉快です。現実と向き合えない弱者だからこそ、確かに社会の理解と保護が必要なのだけど、特定の個人が背負うべき類の親切ではないのです。
念のため……
上記、自称・霊媒、または、自称・チャネラーの方々と、私がどう違うのか、私自身がどう思っているかについて、関心をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
「私は一人でも心霊研究を続けられます。」
実際に過去、十八年間は、自我肥大と向き合い、ひたすら聞き役になろうと努力して来たのですから。もちろん、せっかく心霊研究のホームページを開いているのですから、読者の反応は気になります。ホームページ開設当初は様々な試行錯誤も試みました。でも、人気第一で主義主張を偽ったりする事は今後も無いつもりでいます。
つまり、「迷惑だと言われても人に付きまとう必要は感じないし、それどころか、わざわざ人を追いかけて教えを説きたいなんて思いません。」
2006-04-12