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その問は迷いの表れ

2010/08/16

 東京オフ会のあと、食事をしながらよもやま話をしていて、私はどうも深い森の中に迷い込んだ気がしていた。

「心霊主義では、魂は永遠の修行中なのだから、たとえ間違った行いをしても、魂の向上につながるのですよね。」・・・確かにそういう思想ではある。が、どうもその昔に、同じような話を聞いた記憶がある。

 私は、「何も進んで過ちを犯す必要はないでしょう?」と切り返し、相手はそれにハッとした様子ではあるが、また、同じような論点の話を始める。数カ月前に辛い思いをしたと知っているから気遣ってあまり深く矛盾をつくこともせず、また、他にも参加者がいることでもあって、私はその話にあまり深入りしなかった。

 が、帰宅後、考えて見れば話がおかし過ぎるし、なにより、会話中、深い森をさまよう感覚があったのも暗示的である。 この話を霊たちは相手にしていないのだろう。

 そもそも、『間違いも魂の向上に役立つ』というのは、慰めの時に使う言葉であって、自分の行動を正当化するときに使う言葉ではない。まして、自ら進んで言うなら、巻き込まれた人から見ればいい迷惑、というより、確信犯なら犯罪行為と呼ぶべきだ。

 さらにいうなら、当人にしたところで、過ちでありそうなら、慎重に是非を判断すべきであろう。なにしろ、対人関係のWin-Win関係ならぬ、Lose-Lose関係である。自滅行為どころか、周囲にも被害をもたらす破滅行為である。

 当人にすれば周囲にも眼を配っているつもりが、結局のところ酔っぱらいの千鳥歩きと同様っであろう。・・・なんども同じ話を繰返すのも、深夜の飲み屋の光景に似ていなくもない。

  下手に同情してその時はいえなかったが、帰宅後に確信した。まさにあれこそが「迷い」である。


 迷いといったって、例えば初めてのデートに着ていく服を、赤にするか、青にするか、黄色にするか、という迷いではない。 その迷いの結果、対局を失う・・・当人は、小さなことでも、真面目に悩んでいるのだろうが、小さなことに悩むあまり、大きな問題を見過ごすなら、それは大きな迷いというべきだ。

 洋服選びの結果としてデートに遅れては相手の心象を悪くするだろうし、待たせても構わないというなら、それもまた、人として歩む道が間違っている。または、遅れを取り戻そうと焦って事故のリスクが増えたり、汗をダラダラかいて行ったり、というのが果たして好都合かどうか。

 たとえ小さくても考えるに値はしよう。だが、まずは大局から片付けていくべきであろう。


 本当は何をしたいのか。・・・それとも本当はどう成りたくないのか。

 そりゃなるほど人生の一大事に関する悩みであろう。だけど心霊の問題ではない。

 いやまあ、友人として話を聞かなくもないが、それならばもっと論点を整理すべきだ。それが出来なければ、誰と話しても拗れるだけだろうし、何よりも自分自身で整理が付くまい。・・・それとも整理したくないのか。

 もしもそうなら、その悩み、疲れはてて忘れてしまうまで、解決する機会がなさそうであるし、忘れてしまえば、なおのこと解決しないのではなかろうか。

 迷いというのは、問題が難しいというより、解決が難しい。

恋愛の問題

2003/06/18

 前世で僧であり、また既に死したる者にとって、似つかわしざる話題と言われようが、今日は、気分を変えて、恋愛の問題について語ろう。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるとか、だが、人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。人生を語るにおいて恋愛という話題を避けることは出来まい。

 恋愛問題とは、あくまでも感情論である。

 ――相談を受けてもっとも厭なのが、恋愛相談だとか。なるほど、恋愛というのは愛という感情がすべてであり、理知的な者は感情問題を嫌う。そもそも感情のもつれは他人にはいかんともしがたい。智慧あるなら、他人の感情にまで踏み込まぬがよい。したがって、ここでは自分の恋愛感情について語ろう。

 感情論であろうと恋愛を否定せず。

 僧侶は修行の妨げになるからといって、恋愛を遠ざける。また、大望を抱く者も同様である。あまりに高尚な問題に取り組む者も、感覚的に物事を受け止めがちな女性を蔑視しがちであるが、逆に女性から恥をかかされることも多い。

 何よりも男性僧侶達をやっつけるのは、釈迦さえも女性の腹を借りて生まれたという現実である。伝説で釈迦は母の腋の下から生まれたとされるが、どこから出でようと母の胎内に養われたに相違ない。

 いかなる聖人君子であれ、母の胎内で養われずには世に出でぬ。またいかなる神通力に恵まれようとも……女性の胎内を避けてこの世に生れ出るような性差別主義者が聖人君子たり得ようか? 情に流されることを恥じるのは良い。しかし、男女が結ばれるのは摂理である。摂理を否定して真理には至れぬ。

 愛は至高にあらず、至高こそが愛なり。

 妻を持てば、妻子に楽をさせようとして貪欲になるとか。たとえ自分一人はつつましく暮らしても、愛する者には楽をさせたいというのは一つの人情であり、その人情に縛られて悪事に手を染める者も多い。

 人情が絡むと、人はどうも残酷にもなり、貪欲にもなるもので、自分が生きるために他を犠牲にするのを嫌う者も、愛する者を飢えさすまいと人を殺しもする。虫も殺せぬ乙女が、母になると赤子を案じて害無き虫まで殺して歩く。まして、恋する者を獲得せんと、悪しきことに手を染める人のなんと多きことか。

 全くおかしな事である。人々の多くは恋愛の最中を人生最良の日々と感じるというのに、その最良の日々の中で堕落していくとは。人生のつまずきの多くもまた恋愛から生じる。恋愛とは、果たして至高の喜びなのか、最悪の悲劇なのかどちらであろう。

 恋にはいろいろと難しき事が多いが、勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。人生に最善を尽くして得た恋はひたすらに幸せを味わえようが、全てを投げ出し恋に最善を尽くしては、人生を失いかねぬのである。……人生を疎かにして恋にうつつを抜かしながら、失恋を嘆くのは自業自得といえよう。いや、恋愛で幸せを掴むのも、不幸になるのも因果応報ということである。

 最良を求めて不幸になる。なんと惨めな人生であろうか。しかしこれは、全ての魂のたどり行く道にあらず。最良を求めて幸せをつかむ者もいるのである。勘違いしてはいけない。愛が至高のものなのではなく、至高の感情を愛と呼ぶのだ。

 幸せを掴むために必要なこと。

 情に流されればさながら密林で迷うが如し、しかれど、理知的にだけ生きるなら不毛の砂漠の最中で暮らすが如し。他人の情乱に付き合わぬのは共に迷うのを嫌っての事で、人生には潤いも必要な事、いや、潤い以上のものが恋愛にあろう。

 死したる者から見れば地上の生などというのは、一夜の夢のように淡いものである。しかしながら、地上に生きている最中において、人生の伴侶を持たぬのはなるほど侘びしいものであろう。いや、修行者には神仏という伴侶があろうが、それはそれ、霊的な伴侶と、浮き世の伴侶と、生きる世界が異なれば求める伴侶も異なるものである。

 しかし、伴侶を求める心の奴隷になり、伴侶の奴隷になってはならぬ。それは人生のすべてを放棄するに均しい。神仏に滅私で尽くすのと、愛する者に滅私でつくすのとは、大いに異なる。神仏の天地のごとき大いなる欲、一切衆生ことごとくおおわんとするような大望に仕えるなら、その志の一翼さえも担えなくても、あなたによき影響を及ぼさずにはいないだろう。だが、情に支配され、欲に支配されている人間に滅私でつかえ、その行動にたとえ一片の私欲が混じらなかったとしても、他の私欲を満たすために働く事は即ち悪である。

 私は見る。多くの者達が、愛欲ゆえに悪行に手を染め、善を成さんとする心と、罪悪感に責め苛まされているのを。人世に漲る罪咎のほとんどは、愛を口実に行われている事をわきまえねばならぬ。

 他宗のものはいう。『愛せよ』と。善き事である。『愛は実践する事である』と。実践の伴なわぬ愛は無益である。されど、私ここに一つ付け加えたい。

 『愛の意味を覚らずに愛するな』と。そして、『他を求める心を愛と呼び、愛を至高のものとして悪事の言い訳に用いるな』と。

 なによりも、『人に愛されんとする欲望』を愛と呼ぶのは大きな間違いである。それはただの執着心に過ぎぬ。愛とは『人を愛する事』をいうが、人を愛する事と、人と愛されんとする事の区別すらつかぬ、飢えた心の持ち主があまりに多すぎる。

 心せねば成らぬ。人は己を知らぬがゆえに、何をして良いのかを知らぬ。人は己を過信するがゆえに、身に余るものを求めて身を持ち崩す。無知で滅びるのではなく、わが身を滅ぼさんとする者を無知というのだ。

 人は愛を求める。

 人は愛を求める。されど容易には愛を得られぬ。相手にも求める心があるから、あなたの求めにばかり応じられる者はいない。そして、求めて得られぬが故に人は愛に飢える。

 飢餓にある者は、美食を受け付けぬ。胃が弱っているからである。飢餓にある者を救えるのは、いと薄き粥なのである。故にわきまえよ。己が餓鬼の如く愛情に飢えているのに、美食を欲しがる者のなんと多き事か。与えられなければ心が飢え、与えられたら吐き戻して飢えてしまう。誰も与えぬから飢えるのではなく、求める者を与えられるがゆえに飢えるのである。

 己が餓鬼と知れば、美食を避けて粥をすすりて体力も戻せよう。その後に始めて美食を、すなわち豊穣なる愛を求めればよいのだ。……が、体力が戻るまで美食を待てぬというのか。その焦りこそがあなたを苦しめている元凶である。

何の施しもせぬくせに、人から貰うことばかりを考える。まるで乞食のように振る舞いながら、王者のように扱われたがる。その厚顔さがあなたを苦しめている元凶である。

(2003年6月17日)


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