1, 天狗霊しか見えない
2006年05月22日
「守護霊」に関して改めて纏めようと思い立ったところ、珍しく我が守護霊が一言あるという。……守護霊が守護霊に関して語るというのだから、私もイタズラ心から耳を傾け、……そして思い出した。
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師や姉弟子と私とは親子ほど、いや親子以上に歳が違って、話の合わないこと夥しい、といって、他に心霊の話をする相手もなく、こと、心霊に関しては寂しい思いをしてきた。もっとも、後から考えてみると、これも一つの修行であったのだと思う。ただ思いつくままを話すなら、薄っぺらな話しか出来ないからだ。掘下げる癖が身に付いたのはよいことだったと思う。だが、10代、20代の頃はそう簡単に割切ることが出来ず、年齢の近い霊媒を探し歩いた時期があった。といって、せいぜい8人ほどで止めてしまった。
その当時(もう二十年以上も昔)、さんざん言われたことで、当時はずいぶんと不思議に思ったのが、どの霊媒も皆一様に、私に「天狗」がついているというのである。中には私のことをあからさまに「傲慢だからだ」という者もあった。もっとも、盛塩をして、「結界を張ったからこれで霊が入ってこない」というような霊媒であるから、私が内心、見くびっていたのはいい当っているかも知れない。「物や道具に頼るようでは……」と思うのだ。
まあ、私が天狗であるか、はたまた、天狗霊が付いているのかについて、気にするのを止めてしまった。別に大風を吹かせられるわけでなし、夜中に、カラカラ、クルクルと大声を出すわけでもなし、天狗か否かは、そう見た霊媒以外にはあまり関係がなさそうであったから……。
と同時に、偏見を持っていたことも否めない。天狗付きというと、大声を出して暴れる、また、天狗の霊が掛るというと、天照大権現であるとか、大日なんとか尊であるとか、神仏混淆そのままの仰々しい名乗を上げるという話をよくよく聞いているからだ。まあ、裏事情は聴いてはいた。行者などは、仰々しい名のりで、仰々しく登場しないとなかなか耳を貸そうとしないのだそうだ。……だが、当時の私にも、今の私にも仰々しいことには感心がない。
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私はその頃、自分の守護霊が僧侶の霊であることをすでに知っていた。実は私の霊感が開いた直後、母が心配してとある職業霊媒(すでに故人)に手紙で鑑定を依頼してくれていたのだった。その鑑定結果は私自身の霊感と食い違うところがなかったのと同時に、一面識もないこの霊媒が手紙に表現して見せた守護霊の姿は私と似ていた。
私には不思議であった。むろん、私は守護霊の鑑定を依頼したわけではないが、誰も私の守護霊に関して何も言わず、ただ天狗霊のいることだけを口にする。……その理由について詮索はしない。ただ、このころ訪れた霊媒諸氏とはその後一切付き合いがない。そして、今回、ようやく気がついたことがある。そう、今の今になって始めて。
霊感発現後、未だ慣れずに憑依されやすかった頃の私を、憑依霊から護ってくれていた天狗の霊が居たのだ。……確かにその当時、気が滅入ると天狗で有名な小田原の大雄山に遊びに行っていた。最近ではとんと足が向かなくなったが、いまでも好きな場所の一つである。
天狗霊が見えるという霊査内容に、その大雄山の天狗霊と結びつけて考えないではなかったが、他の霊媒に天狗が見えるのに対して、普段私は全く天狗霊の存在に気が付いていなかったのである。何のことはない。彼らは人を護るのに出しゃばらなかった……恩着せがましくしていなかったのである。
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二十数年ぶりに気がついた恩だ……なんと言うことだろう。守って貰いながらそれに感謝をしなかったなんて、確かに、恩知らずといわれても仕方がない。
負け惜しみを言うようであるが、なるほど、当時の私は感謝すべき事に気がつかない傲慢さを持っていたが、同時に誰も天狗の加護について言及はしていないのである。……結局、私も含めて、私が訪ねた霊媒達は天狗に偏見を持ち、加護・守護の意味を安易に捉えていたのであろう。
いや、こうも解釈できるだろう。護られているからこそ無事でいるのに、無事であるから護られていることを忘れていたと。……その意味でいうなら、本当に私は傲慢だったと思う。ただ、言訳がましいが、私が好んでいく場所は、ほとんど天狗信仰の場所でもある。秋葉山にしても、大山にしても……
そんなこんなで、来週末は、カメラをぶら下げて大雄山に遊びに行こうと思う。そういえば去年訪れた時には、群馬の霊媒と知合ったっけ……。
2、 守護霊鑑定
2006年05月26日
対人関係には相互作用がある。想えば想われるし、嫌えば嫌われる。
誰もが進んで、「お前などは嫌いだ!!」等といわぬが、好かれるべき態度をとらずにいながら、「あなたのことを好きです!!」といわれて、それを信用することが出来ようか? 守護霊の意志も大切だが、それを信じる為には、まず、あなたの意志がどうなのかが大切だ。
憑依霊や随伴霊はいざ知らず、祖霊や守護霊はあなたの幸せをなにより大切に思っている。……だが「なにより大切」とは、一体何と比べて大切だというのか、それが問題だ。
もしもあなたが誠実で、守護霊の立場と人としての義務を理解し、守護霊の意図を汲んで努力できる人であれば、守護霊も誠実に応対してくれるだろう。つまり、為さねばならぬ事をしっかりと説明し、理解と同意を得た上で困苦に立ち向かわせるのである。
だが、その被護者が守護霊の意図を理解できず、為すべき事を見つけられず、為すこともなければ、守護霊は非常手段を用いざるを得ない。
つまり、その被護者の好まざる事を強要するのである。
自分の好まざる事を強いられてもなお、相手に好意を持てるであろうか? まして、自分が敬慕する相手が自分を苦しめていると知って、敬慕が憎悪に転じないか? しかし、事情によっては、守護霊が、その被護者の好まざる事を強要せざるをえないのだ。だから、守護霊は自ら名乗り出ることを嫌う。表面に出ることを嫌うのである。……もしも被護者の信頼を得られぬのであれば、裏方に徹する方が確実に職務を全うできるから。
もしもあなたが、自らの守護霊を誠実に信じ、一見、困苦に見える今の道程が、自分が望み得る最大の幸福に連なっているものと信じ、極力愚痴は少なく、極力努力して前進できるのであれば、何よりだ。
急な上り坂は頂上への近道……過程に苦しんでも結果によって報われるであろうから。
そんなあなたの守護霊は、手段の許す限り、包み隠さず、一切をあなたに打ち明け、あなたの協力を求め、あなたの意に沿わぬ人生にならぬように懸命に働いてくれるであろう。
だが、あなたが自分の義務に気がつかず、為すべき事を否定しているなら、守護霊が困苦を無理強いするか、良き未来を得られぬか、悪しき未来に陥るであろう。
楽だからといって坂を下れば、頂上にはたどり着けないのだから。……過程が楽で、楽しめたとしても結果によって精算されてしまうのだ。
それはつまり、義務感が全ての、忍耐を要求される汚れ仕事なのである。…… これでは名乗りたがるはずがない。
名乗りたがるはずがないのに、敢えて守護霊が誰かと問いかければ、一体誰が名乗り出るであろうか。――推して知るべしである。
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「だが、守護霊鑑定を売り物にする職業霊媒がいるではないか?」
たしかに。だが、その霊媒と、当方との守護霊の定義を確認してみて欲しい。違いがあることに気がつくはずだ。
守護霊鑑定などでいう守護霊は、大抵が人を守り導く霊魂一般を指し、理論的心霊研究家がいうところの守護霊は、一個人の管理運営権を委ねられた一個の役職を指している。
守護霊とのコミュニケーション
2006年07月07日
Q 「この世が修行の場であるならば、なぜ指導霊や守護霊が、直接指導してくるのでしょうか? その必要性がわかりません。声がきこえたり、ビジョンが見えたりするということは、あまりにも過保護な行き過ぎた導きで、本人のためにはならないのではないでしょうか?」
過保護であるか、どうかは、その指導の内容によって判断されるべきです。また、守護霊の指導の目的は、必ずしもその被護者の向上にはありません。指導霊の場合は特にそうです。彼らもまた、自らの向上のために努力しているのです。
Q 「また、ある程度波動の高い指導霊たちから、直接指導されるということは、その人自身の波動もそれに合ったものではなくてはならないし、またそうであるならば、よけい、霊能力は必要ないような気がするのです。」
いわゆる「同波動の法則」……つまり、霊媒がコミュニケーション出来るのは、似たような霊格の相手だけである、というのは、決して嘘ではありませんが、一面の真理でしかありません。この法則はむしろ、「友人とは同じような霊格の相手」と解釈すべきです。たとえば、大学教授は小学生向けに専門的な話をかみ砕くことも出来るでしょうが、小学生が大学教授とその専門分野で同等の議論が出来ることはないでしょう。
つまり、上級の者が下層に降りてくるのは可能だが、下層の者が上層を訪ねるのは無理があるのです。従って、波動の高い指導霊から指導を受けることは不可能ではありません。ただ、その障害になっているのは霊能力の有無ではないのです。
そもそも、人が肉体を纏った霊魂であることを前提に考えてみてください。……霊魂が他の霊魂とコミュニケーション出来るからこそ、死後の世界が成立します。つまり、誰もが霊能力を持っているのです。ですから世間一般で「霊能力がない」というのは、自身の霊魂の感覚と、肉体意識・表面意識との間の連絡のない人を指します。つまり、霊感が表面意識に登ることを霊能力と呼び、表面意識に登らないのを霊感がない、と表現しているのです。
Q 「霊能力は、それを使って、他の人を助ける使命がある人のみ、指導霊によって与えられるのでしょうか? それとも、人間にはだれしも、多かれ、少なかれ、低級霊がついていて、それによって霊能力が発揮されるのでしょうか?」
霊能者になる、ならぬの違いについていえば、使命というのはちょっと違う気がいたします。職業適性というのは当人の使命感よりもむしろ、肉体的・感覚的な才能が重要な位置を占めます。極端な話、いくら使命感が強くても霊的感覚が鈍い人では霊能者として大成しないでしょう。ただ、才能が同じレベルであれば、使命感の強い人の方が良い結果を得られるだろう事は容易に想像が付きます。
また、霊能力の発現条件について、私は良く、電話を引合いに出して説明します。
- 電話機を持っていても、故障していたり、未契約・料金滞納などで使用できない場合があります。(肉体的要因)
- 電話が通じても、周囲がうるさければ聞取ることが出来ません。(霊環境的要因)
- 何より、話す相手がいなければ、電話が役に立ちません。(因縁的要因)
つまり、霊感を得る、得ないは、必ずしも霊能力の有無が問題ではなく、様々な要因が存在し得るのです。
守護霊とのコミュニケーション 2’
2006年08月16日
感謝の意を伝える’
たとえば……
「部下が指示に従わずに困ります。どうしたらいいでしょう?」
という相談があったとする。相談者は当然、部下の非を問題にしているが、事実は(すくなくとも第三者的な視点では)、上司(相談者)の指示の出し方に問題があるかのかも知れない。または、双方に問題があるという可能性もある。
または、
「上司が私の報告や意見をまったく相手にしてくれません。」という相談ではどうか? 上司の人間性に問題があるのか、相談者の報告方法に問題があるのか……
いずれにせよ、当事者にとっては重大な問題には違いないが、こういう問題を社内で解決できないとしたら、かなり寂しい会社ではある。
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反対に、まずは滅多に来ない相談ではあるが、「部下がよく仕事をしてくれます。」または「面倒見の良い上司でとても助かっています」……「どうお礼をすれば良いでしょうか?」という相談は(事例有り)、会社が上手くいっていることを想像させる。
世には道理がある
『どう祈れば守護霊に願いを聞き入れて貰えますか?』……という質問・相談は多いが、いつも回答に苦慮する。誰もが平和を祈っているはずなのに戦争は無くならないし、病気を好む人は滅多にいないだろうに大きな病院はいつも混雑している。そして親・子・伴侶と死に別れて泣き叫ぶ人々。こういう現実を見聞きしてもなお、守護霊に祈って願いを叶えようと思うのだろうか?
全てが叶わないとはいわないが、全てが叶うわけでもない。……第一、守護霊が願いを理解していても、無い袖は振れない。無理難題を神頼み、守護霊頼みというのも良識が欠けているし、イヤイヤ良識の範囲内です、というのであれば、祈らず自分でやるのが本当であろう。
物事には限度があり、世の中には道理がある。……果たして良識に欠けることがないかと思える相談者が多いのである。良識に欠ける人とどうまともにコミュニケーションせよというのか、それこそがつまり回答の難しさとなる。
いや、身もフタもないが、当人の守護霊が相手にしない人を、何で霊媒が相手にせねばならぬのだろう?
感謝の意
反対に……
『守護霊や祖霊に、感謝の意を表わすのにはどうしたらいいか?』という相談がある。
……私は感謝の意を表わす必要はないと思う。
思わず感謝したくなるような幸運に恵まれたのであろう。つまりそれは、相談者の日常の心掛け、または、日々の祈りが、守護霊・祖霊に通じているということの証である。
ならば敢えてさらに感謝の意を表わす必要など無いではないか。通じているのが結果から明らかなのに、何を迷う必要があろう。まして、受けた恩に対してあまり謝礼が大きすぎると、相手に負担を掛けることもある。だから、嬉しければ嬉しいといっていればよいのである。
思えば想われる――好かれれば相手が可愛く思える。こういう自然な交流に敢えて不自然な努力を持ち込む必要は無いと思う。
ちょっとだけ裏技
真心だけ、といいながら裏技を書くのもどうかと思うが、まあ、その程度の裏技でもある。
心霊を学んでいる人には、常日頃、「感謝! 感謝!」を口癖にしている人がいる。 ……まあ、それも手であるが、そういう人に、意地悪な背後霊から釘を刺されることもある。
『感謝も結構だが、同じ過ちを繰り返すな。尻ぬぐいにばかり背後霊を働かせて!』
特別な幸運はない
守護霊は、陰陽師の式神でも、魔女の使い魔でもない。願いを聞かせるのに必要なのは誠意であって、手練手管はかえって害になる。まして自分は相手(守護霊)の意志を汲もうともせずに、自分の意志だけを押し通そうとするのでは本末転倒である。人生において果たすべき義務を完全に把握しているのは守護霊であって、人間ではない。にも関わらず、守護霊を指導しようとするなどというのは、身勝手な部下と同じ発想である。会社は利益を上げらないであろう。
そもそも、人は幸せになるために生れてくるのである。……つまり、当初の計画は最善であるのに、計画の順守に無頓着な人間が、目先の利益に騙されて結局は遠回りし、または行き止まりにぶつかって、計画を台無しにしているのが不幸と呼ばれることなのである。
一方、心霊を学び、瞑想・精神統一を心掛け、日々の生活に感謝して生きている人ならば、守護霊は容易に果たすべき義務を果たして、さらに余録も生じよう。当初の計画に従って、無理なく楽しく生きられ、たまには余録に預るのであれば、なるほど感謝したくもなるだろうが、その歓びは何も、守護霊や祖先の霊がどこかからかき集めたものではなく、ただ単に、上手くいっている、その結果でしかないのだ。
当たり前なこと
人は幸せになるために生まれてきた。だから、無理せず、他を羨まず、物事になるべく拘らずに生きていれば、分相応で、最善の人生を歩めるのである。
分不相応を求めるなら……そんな方法は私は知らないし、知りたいとも思えない。なにしろ、過剰広告に騙されたという話は良く聞くが、本当に上手い思いをしたいという確かな話は一つも聞いたことがない。
なにより、私は今感じ取れる霊達の雰囲気が好きであるし、居心地がよい。 それはつまり、今の境涯が私に相応しいということでもある。上は暑苦しく、下は寒いだろうに、ジタバタしても幸せではない。
日々努めるべき事
2006年08月17日
発端は、一通のメールに遡る。
Q「普段お守りしてくださる背後さんたちに、感謝の気持ちを表す方法として有効な手立てはありますか?
悪口をいわないとか
整理整頓とか
身近ですぐ実践できることがあればお教え願いたいのですが、よろしくお願いいたします。」
……当初は、『特別な事は不用である』と返事したのは、「守護霊とのコミュニケーション 2」にあるとおり。今回は、その訂正ではなく、より発展的な回答と見なして欲しい。
・・・・・・・
たとえば、あなたが道ばたの小石を蹴って動かしたとします。あなたはそのまま先に進み、その石を蹴ったことさえ気がついていないかも知れません。
その後、通りかかった人がその小石で足を躓いて転ぶかも知れない。……いや反対に、その小石が動かなかったら、誰かが躓いて転んだかも知れない。
前者の例では、あなたは意図せずに人を傷つけ、後者の例では、あなたは意図せずに人を助けて、いずれにしてもその結果を知ることは無いでしょう。
むろんこれは単なる比喩で、事実はさらに単純で力業で済ますこともありますし、さらに非力で遙かに複雑な仕組を用いることもあります。そして、霊達が地上に作用するというのは、ほとんどの場合、こういう回りくどい操作の積み重ねなのです。
私たちはすべてのものを利用し、決して浪費をいたしません。それは私たちが非力なのではなく、無駄なく行うことが正しく、そして、遠くない将来において、無駄のないことがなにより大切になるからなのです。
それはともかく、あなたの意図せぬ行為が、あなたの気がつかぬところで大きな役に立つこともあれば、大いに害になることもあります。そして私たちが大切に育てているのは、意図せず有益な行いをする人であり、私たちが少しでも減らしたいのは、意図せずに有害な行いをする人であります。
一体どう生きれば、「意図せぬ行為が有益になるのか?」と、想われるかも知れませんが、それこそが霊性の向上であり、霊性の修行なのです。その具体的な手段は……
[#霊媒注: この部分は言葉にすると、単に「精神統一」でしかないが、独り善がりでは意味がない。]
その努力が、正しいものかどうかは、日常生活の中で明らかになります。
あなたが正しく霊性を働かせているなら、あなたと共に行動する人は、行動の中で運の良さを感じるでしょう。反対に、あなたの霊性が適切に働かずにいるなら、あなたは行動の中で運の悪さを感じるでしょう。
要約すれば、私どもの望んでいることは、あなたが、運の良くなる人になることであり、私どもが望んでいないのは、あなたが運の悪い人になることなのです。
……それは、無意識下のあなたが善良に生きるということであり、無意識下のあなたが悪を拒むということでもあります。
意識的に善良に生きるということは、まったく義務というべき事であって、そうして当たり前、努力して善良に生きたところで、誰一人褒めるものは神界にいない……子供を褒めてその気にさせようという指導霊はいても……ですから、心霊学の大切さに目覚めた方なら、どうぞ無意識下の善良さを大切になさってください。
告発する守護霊
2006年07月17日
インスピレーションというのは、やはり霊感なのだ……と、しみじみと感じるのは、長年の疑問がフッと解けた瞬間だ。むろん、ただ単に解けたのではなく、地上での出会いが切っ掛けとなって解けた場合である。
あまりはっきり表現すると、語弊もあるのだが、たとえば、ある欠点を持つ人に日常生活で辟易とした思いをする。……『まったくこういう人には困る!』と日々、思うのだが、それをネタにブログを書こうにも「こういう人」とはどういう人であるのかを文章で表現するのに詰る事が往々にしてある。
ところが、「こういう人」から困った相談を持ち込まれると、詰まりが一度に氷解する。……先方の守護霊、つまり、「こういう人」を何とかしようと日々努力している霊が、文章表現を助けてくれるのである。
実はこれ、とんでもなく皮肉な話である。……本来なら、守護霊とその庇護者は一心同体・共通の利害を持っているはずである。だが、庇護者の欠点を第三者的視点で、第三者である霊媒と論じているのだから。
……それは大変なことであるが、どのように大変なことであるのかは、ここでは論じない。ただ、変な妄想を避けるためにこれだけは明言できる。それは守護霊の職務放棄ではない。
地上の法では犯罪者を肉親が匿っても罪には問われないが、霊界において、守護霊がその庇護者の罪を匿えば、罪を犯した庇護者以上の罪なのである。