Q 「『地獄の有無について』質問を受けました。」
廬氏; 無意味である――たとえ地獄があろうと、なかろうと、人に苦しみがあるのは事実である。人が苦しみを逃れられぬなら、地獄の有無に何の意味があるのか? 豊かで穏やかな暮らしの中に、不平不満を抱えて憔悴して生きる者もいる。貧しく忙しい暮らしの中にも生き甲斐を見いだしてはつらつと生きる者もいる。極楽に行こうが苦しむ者は苦しみ、地獄に堕ちようと楽しむ者は楽しむことだろう。地獄はむしろ人の心の中にあり、その外にはない。……自らの心に地獄が有りや否や? それを人に尋ねていかなる答えが得られようか?
Q 「悪事を犯して、死後にそれを責められると不安を抱いているのなら?」
地上での極刑は死刑であろう。だが、死後の世界にいかなる死刑があるのか? 苦しみを恐れるだけなら、地上の方がよほど辛かろう。肉体があればこそ、老病死苦に苦しみ、飢えぬ為に働き、名利を得るために努力を重ねなければならない。そのような苦しみの中で生きてきた者が、死後に何を恐れるというのだろうか? 問題は地獄の有無ではない。希望のないことである。
Q 「だから地獄の話を書くのを止めようとしたのですか。」
魔境という心境はある。地獄という心境もある。また、人を苦しめてでも自分が幸せになろうとする者が大勢集まれば、そこは地獄の様相を見せる。まして、地獄など、死後の世界に求めなくても、地上のそこかしこが地獄である。それでもまだ、地獄の有無を問うのか。
苦しみが苦しみであると思うのは、それを乗り越える喜びを知らぬ者が考えることである。苦しみを喜びに変える方法を知らぬ事こそ、人を苦しみにつなぎ止めておく元凶である。恐れるべきは地獄ではなく、幸せを得るのに必要な智慧のないことである。
確かに苦しみがある以上、地獄の有無など問う意味もない。しかし、自分の未来が良くなるものなら、一時の苦悩は必ず報われる。ならば地獄など恐れる必要もない。そして、地上を見渡せば、善き行いの者がどれほど悲惨な境遇にあることか。善行は必ずしも救われぬ。では、悪人の方がましな生き方が出来るといえようか? こそ泥は捕縛され、小悪党は悪党に牛耳られ、大悪党はつけ狙われる。善人も悪人も苦しみを避けることは出来ない。ただ、苦しみを乗り越える喜びを知るものと、知らぬ者とがいるだけである。
善・悪が人を幸せにするのでなく、人の工夫と努力が人を幸せにするのである。地獄の有無には意味がないが、幸せになるための智慧の有無は切実である。たとえ地獄がなくとも、幸せになれぬのなら、苦しまずにはいられない。苦しみも乗り越えられるなら報われるが、乗り越えなければいつまでも苦しい。……だから問題は希望であり、そして智慧であるのだ。
Q 「そうすると、次の質問は……」
因果はくらませぬ。安易に得た答えを使って得られるのは安易な結果だけである。過ちを悟るのには一瞬で足りても、未熟の克服に掛かる時間は相応に必要なものである。まして答えは自分の心中にあるものだ。自分をしっかりと見つけた者だけが正しい答えを理解できるが、自分が見つけるべきものを人に質問しているようでは、万言を費やしても理解は難しいだろう。ここには書けぬ。
(2004年4月20日)