死別の悲しみ
2006/12/012006年12月01日
たとえば、あなたが誰かから延々と愚痴を聞かされているとする。苦痛ではあっても、あなたは耐えて聞き続けるだろう。だが、愚痴話に忍耐は通用しても、生理的欲求には敵わない。……中座してトイレに行こうとした途端に罵声を浴びせられる。
「私をおいて逃げるのか!!」
いやな話に誠実に付き合っていたのに、トイレに行くだけで詰られるのか? それはあまりに不誠実な態度ではないか!!
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または、たまたま耐え難い出来事があって、いつも愚痴を聞かされている友人にこの時ばかりは聞き役を変わってもらい、つい自分の愚痴をこぼした時に……
「ああ嫌、愚痴なんて聞きたくないわ!!」……と拒絶されたら?
今まで散々愚痴を聞かせておいて、自分は聞きたくないなんて、身勝手じゃないか!!
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『自分もつらいが、相手にも余裕がないのだろう。』……理性はそう受け止めることができても、感情が収まらない。もっともこの場合は、興奮物質であるアドレナリンが体内を駆け巡って、行動的になっている、つまり何らかの発散を必要としている生理状態というだけなのだが、ほとんどの人はこの状態を『正義の怒り』と解釈して報復することを正当化してしまう。
まあ、その腹立ちは別な話題として脇に置くが、少なくとも自分が誠意をつくしている相手が、不誠実な態度をとるのはとても裏切られた気がして、それまで抱いていた好意がいっぺんに吹き飛びかねないものだ。
そうであろう? 誠意をつくすのは相手にも誠意を期待するからだ。たとえ相手が裏切っても自分は誠意をつくすというのは、人としては立派な態度かもしれないが、大人が子供を接するかのような視点であって、つまり相手を見下している。……やむをえないかもしれないが。
話が回りくどくて申し訳ないが、私がここで指摘したいのは、
好意があればこそ、相手を強く嫌う状況も生じる。ということだ。
たとえば、嫌いな相手が(いたとして)、延々と愚痴をこぼしているとする。それは面倒ではあっても、また、顔に出すことはできなくても、同時に愉快なことではないか? 敵の敵は味方なのだから。つまり、嫌いな相手ならば苦にならないが、好む相手から受けると、耐え難い苦痛があるのだ。
そして、自分が不快に思うことなら、他の誰かにそれを味合わせないようにすべきであろう。
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よんどころのない事情があって、立ち去らざるを得ない……後ろ髪引かれる思いである。離れがたい気持ちは同じであるし、できればそのまま残りたい気持ちもあるのに、残された者が嘆き、悲しみ、苦悶する。
去らなければならないことに、自分自身が泣きたいのに、残された者が泣き叫んでいては、まるで立ち去ることを詰られているようではないか。
好まずとも……去らねばならぬのである、なのにどうして行く先の無事を祈ってくれないのか? 残され、別離を嘆くものから見れば、行く先などというのは想像もつかないかもしれない。だが、行く者にとって、行く先とは目の背けようのない現実なのである。
人は現実を目にすれば覚悟が生じるが、現実から目を背けたい人はいくら泣いても覚悟は生じない。つまり、行く者と、残される者との間には大きな認識の差がある。
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論じてきたのは他でもない。「死別の悲しみ」の害である。
嘆いて何が悪いか? それが人情ではないか。・・・・・・確かに。だがそれがどれほど身勝手な人情であるのか。
逝く者から見れば失われる肉体よりもはるかに永続性のある、つまりはより実感のある現実が、死後の世界であるのに、残された者どもは死者を哀れむのである。本当に哀れなのは、行く先の豊かさを知らずに生きている人間であるのに。
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もっとも、あの世の現実以前に、この世で身勝手さの報いを受けるかもしれないが。