レストランの幽霊事件
2004/12/23・・・2004年12月23日のフィールドワーク・・・
(1)
地上的視点の前書き
心霊相談に取り組む霊媒に一番大切な素質は何だろうか?
・・・
私は、自分の霊能力を、「さしたるものではない」と自認している。それを「老神いさおの謙虚さ」の現われと見る人もいれば、「ベテランに任せて心霊相談等という無責任なことは止めなさい」とお説教をしてくれる人もいる。そのどちらも私の趣旨を正しく理解していない。むしろ実践的な知識が欠けているとさえ思う。
あなたも、「心霊問題を解決するのに重要なのは、強大な霊力である」……そういう誤解に囚われてはいないだろうか?
たしかに、心霊実験会などの機会がほとんど皆無の現代日本に於いて、自ら霊感を持たぬ人を除いて実践知識を得る事はなかなか難しい。従って、誤解や偏見が世を覆うのは無理もないことではある。そこで比喩を活用しよう。
霊媒というのが霊(死者)と人間(生者)との媒介者であることは、字を見てもお分かりのことと思う。これを外国人同士を媒介する通訳者に置換えてみる。互いに相手の言葉が通じない二人の外国人が争っているとして、二人の間に割って入る通訳者に必要な資質は何か?
双方が罵り合う、その卑語を正確に翻訳する語学力か?……それではかえって拗れないか。
争いを押さえつける腕力か?……当事者対通訳の争いに転換しないか。
私は思う。大切なのは、善意、誠意、そして、仲裁という目的を見失わぬ冷静さだと。むろん最低限の語学力も必要だが。
更にいうなら、語学力も、非常時に対処できる腕力も伴えば更にいうことはない。……従って、良い霊媒と呼ばれるために必要な資質も、 霊能力(霊を能がう力・対霊対処力)や霊的感応力(霊感)の強さもむろん必要だが、それ以上に 善意、誠意、そして目的を見失わぬ冷静さが大切だと思う。特に後述の三点をおろそかにして、霊能力重視の力業で取り敢えず表面的に取り繕っても、何かの際に再び襲われて命取りになることもある。
また、霊的感応力もくせ者で、実は会社・法人を舞台にした幽霊騒ぎというのは、かならず「私、実は霊感が強いのだけど……」という、疑似霊媒が関わっている。私はこういう、 自称霊感が強い人々には、まず「霊的な話を他人にしないこと」と「合理的な心霊知識の会得」、そして「精神統一の実践」を薦めるが、それはつまり、物理的な現象の伴わない大規模な幽霊騒ぎは、まず間違いなく、 自称霊感が強い人々が無意識で流す風評が絡んでいるからだ。……そう、霊感が強い人がいなければ、幽霊がいても誰も気がつかないのである。
・・・
まあ、ここまで書けば、このフィールドワークの結末が、「疑似霊媒が流した風評」であると想像される方も多いだろう。……でも、それならわざわざ現場に赴く必要もない。必要もないのにわざわざ行くなら、その霊媒は礼金目当ての強欲者か(欲は人並みに持っているが、私程度で強欲といわれると照れてしまう)……はたまた、本当に霊感が鈍いのか(弱いとは自認しても、鈍いいわれるには苦労しすぎている)……他の誰が笑うその前に、私自身が笑い出すだろう。
繰り返すが、私は、自分の霊能力を、「さしたるものではない」と自認している。また、霊的問題の解決に重要なのは、霊能力や霊感の強さではないと公言している…… 霊的問題とはいわば、霊(死者)と人間(生者)との間の対人トラブルで、対人トラブルである以上、問題解決に於いて重要なのは、仲介者よりもむしろ当事者の人間性なのである。更にいえば、 人間(生者)は、往々、霊媒だけを唯一の仲介者と見なしがちだが、実は霊側もまた仲介者(霊)があり、霊(死者)と人間(生者)双方の仲介者が協力して問題解決に当る……実は人間側(霊媒も含めて)が気がつかぬだけで、むしろ 実際の主導権は霊側の仲介者が握っているのだ。
そして、私は……表向き心霊相談を中断中の私は、人間の相談者に招かれたというより、霊側の仲介者に招かれたのである。つまり、霊的な問題も確かにあるが、それはすでに霊界側で解決の目処が立ち、あとは人間側の理解と合意が必要であるということなのだ。
机上の空論、主観・偏見、独り善がりな空理空論……私の論説だって、他者に言わせればそんなものかも知れない。心霊論者の中で見ると、私はかなり論理的な方であると思うが、人の数だけ意見があるのは自然な姿だ。ただ……苦しんでいる人がより幸せになるには、よりよい智慧が必要であることだけが厳然たる現実である。不平不満を抱えている人が道楽で心霊談義をする――どうぞご自由に、そして、その邪魔を私はしたいと思わない。端的にいえば関わりたいとも思わない。苦しむ人の助けになってこそ真の智慧だから……
で、次の話題に進めれば格好が良いのだが……現実はそれを許さない。事実は小説より奇なり――人がただ幸せになるために努め、その力が足りぬ為に不幸であるならば世界はどれほど単純か。現実には、除虫灯に虫々が群がり破滅していくように、多くの人は不幸に自ら飛び込み、そして破滅していく。
スピリチュアリズムは教える……助け合うことの大切さを。しかし我が内なる神はこう指摘する。――悪は自ら滅びると。自ら滅びに向かう魂を救うは果たして慈悲か、愚かさか。……それを確かめる場が人生なのかも知れない。
・・・
振り返ってみれば、もっともっと前置きが必要だ。だが、読み手を前置きで退屈させてしまっては決して良き書き手とは呼ばれまい。
レストランの幽霊事件
04年 12月 25日
2004年12月18日――某レストランのオーナーである知人より相談が寄せられた。
キリスト教では、「口のあるものに罪のない者はいない」というが、「生き物の命を糧とすることへの感謝の気持ちとして」、神道的な祈祷を行おうと思い立ち、従業員に説明した所、「実はこの店(複数)、幽霊が出るんです……」といわれたとのこと。「どういう風に祈祷をしてもらえばいいか?」との相談に、しばし精神統一……するまでもなく、私の結論は、『複雑すぎて、答えられない。』というものだった。そして、精神統一の結果は、
『現場に行け!』……で、あったのである。
スケジュール相談に確認のメール、列車の手配とジタバタと準備のあげく、23日早朝に現場に向かうことと相成る。が、実は出発の二日前に、面白い霊査を受けていた。
道祖神の呪い?
2004年12月21日――霊査内容
『オーナー方には自覚のないことだが、元々道祖神が祀られていたところを、整地した土地を買ってしまい、その土地の因縁を受け継いでしまった。幽霊事件というのは、本来ならば道祖神が抑えるべきところを、抑えるものがいなくなったために起きた土地の因縁騒ぎである』
私: 「どうしたら勘弁して貰えるでしょうか?」
『浮浪者達の行き倒れ供養を行なえ。そう、オーナー等に伝えよ、さすれば直ちに問題は引き取って取らす』
……ここで重要なのは、実行せよ、ではなく、伝えよ、と、告げたことです。要は、同情心の有無を試されたのだと思うのです。
この内容は興味深くもありましたが、諸般の事情から当事者以外には伏せたまま、出発の当日を迎えます。
出発前のトラブル
2004年12月23日――前日に一通り容易を済ませはしましたが、疲れて注意力が散漫になっていたのか、朝起きてみると問題山積みであることに気がつきます。事前に調べた「乗り換え案内」よりも30分早く出発できるように用意したつもりが、バタバタとしてしまい、結局は「乗り換え案内」の通り。遅れたら遅れただけのことだが、実は前日、気張って「駅ネット」で新幹線の指定席を予約してしまった。なにぶん、長距離出張、気力の萎えているぐらいの方が霊査は取りやすいが、除霊には気力が必要だ。そう思って選んだ指定席だが、乗り遅れたら意味がない。……大丈夫、間に合うはずだ、そういう霊感を得ながらも、やはりテキパキとした行動が必要であることには違いはない。
ギリギリのスケジュールで電車に飛び乗ったが、乗り換えの際に発券の手続きに手間取っている間に連絡列車に乗り遅れた。結局、後続列車で新幹線に間に合ったがずいぶんと神経をすり減らした。ようやく、新幹線の指定席に座り、改めて精神統一して、問題点を確認した。
そして目的地に到着。すっかりゆとりを取り戻した私は、改札を出る前にざっと、土産物を確認し、帰宅時に買っていくもののリストを心の中に作り上げた。そして、駅を出て再び問題に気がついたのだ。
相手の電話番号を控えて来るのを忘れた……
が、先方が私を見つけてくれて、これもまた問題解決、無事、オーナー夫妻の車に乗り込んだのである。
まずは神社詣
私は比較的、論理的な霊媒であると自負するが、論理だけでは説明しがたいことも心霊の現場には多々ある。そういう時には、くだくだ言わず、霊感に従うことを私は習慣としている。
本件に携わるに当って、私は、これだけは忘れてはいけないと思ったものが、三つある。一つはメモ帳、PDAやノートPCよりも確実に動作する。二つ目はデジタルカメラ。本件では役に立たぬと思ったが、やはり長距離の旅にカメラは欠かせない。そして、なにより大切なのは、「神璽《しんじ》」となる、小水晶球である。
・・・
俗に、除霊か、浄霊か、という議論がある。幽霊、低級霊、憑依霊を無理矢理追い出した所で、居場所がなければまた戻ってきてしまう。だから、除霊はダメで、戻ってこないように説得する浄霊が大切だというのである。……時代錯誤の地上げ屋的に、霊力にものを言わせた除霊一辺倒よりも、浄霊主義者の法がまだまともとも思うが、私は浄霊主義も適切とは思えない。
そもそも、成仏しろと説得されて成仏できるぐらいならば、どうして人に迷惑を掛けるのか? ……故意に悪事を成しているなら、当人が止めようと思えば止められるだろう。でも、未熟故に迷惑を掛けているならどうだろうか? 止めたくても止められない、それが現実だろう。では、その未熟な状態を脱するのには何が必要か?……指導、それも手間ヒマの掛る指導が必要であることは容易に想像がつく。その手間ヒマがどれだけの期間かというと、小桜姫物語や新樹の通信などを読むと、数百年掛ってもおかしくなさそうと気がつく。すなわち、浄霊が無効とはいわないが、数百年間も言い諭すほどのゆとりは、まず霊媒は持ち合わせるはずもない。すなわち、有効な浄霊が出来るとは限らないのである。
従って私は、浄霊を重視しない。非常手段としての除霊能力はそこそこに重視するが、大切なのは、霊界のことは霊界の存在に任せることであると思う。それ故に今回のフィールドワークに於いて、実際に浄霊に当ってくれる神霊を伴うことを重視していた。
それが相談者(オーナー夫妻)の産土神であり、その産土神が取り敢えず籠るための「神璽《しんじ》」を重視した。これは別段水晶玉である必要はない。ただ、霊的に清らかな、何らかの物質を用意すればよいだけだ。線香の灰とか、河原の小石とかでも良いのだが……安っぽいと失礼か……取り敢えずたまたま所有していた水晶玉を使ったまでである。そして、到着後、まず第一に訪ねたのは相談者夫妻の産土神社である。
この際、ちょっとした誤解があり、目的地の一つとして言われた神社と、産土神社とを混同してしまったが、興味深いのは、ご主人は当神社の祭事委員を務め、奥様の生家は当神社の敷地に面した家であるという事実。それではさすがの産土様も幸せになってもらわなければこけんに関わるやも知れぬ……等というの皮肉な物言いだが、ともかく、私が訪れ、参拝した時には、もう溢れんばかりに微笑む品の良い若い男性の姿が霊視できた。
時来たり!!/時満ちたり!! という感じなのである。
こけん云々は、皮肉な物言いを先回りしていっただけで、とにかくその笑顔には、可愛くて仕方のない子供らに、ようやくお土産をあげられる、そういう風な、いかにも嬉しそうな感が伝わってくるのだ。
続いて訪ねたとある物件。私は「神璽《しんじ》」を携えて、敷地を一巡りしたが、その隣にある小さな神社の扁額を見て思わず笑ってしまった。『赤木神社』とある。字が違うが同じ音である赤城神社の別名は老神神社である。老神温泉などでは実際、老神神社に赤城山の神を祀っている。私と直接縁があるわけではないが気に入らぬはずもない。そして、次々と物件を回るが、その際、オーナーに二点指摘をした。
1,敷地にゴミが散乱している。これは営利主義に走って、案外重要な環境に気配りが足りなかったと言うことだ。
2,営業で迷惑を受けている近隣住宅に付け届けを忘れている。
私はひたすら、立ち寄った支店の敷地を「神璽《しんじ》」を携えてぐるりと回り、問題となる点が、ないかどうか、霊査をとり続けた。気がつくのはただゴミと、折れた幟の処理について。それゆえにこう断言した。
「二日前に、道祖神ぬんぬんという霊査が降りた時点でおそらく霊的な掃除は終わっているのです。霊的な問題は何も見えません。また、実際に現地に来てみて、道祖神の痕跡などはありませんが、どうもご主人か購入した土地は、神社やお堂の隣接地が多いですよね」
まあ、折角黙っていたのに、ここで書けば意味もありませんが、若干低級霊が見えたのも事実です。それは朝一番では澄んでいた水晶玉に、鈍い重みが生じたことでも明白……霊媒にとっては明白でしたが、わざわざ言い出す話でもありません。
どうも世間一般では、なまじ見えたり感じたりしないせいか、霊について大騒ぎをしすぎます。しかし、私たちが時折、仏壇に手を合わせたり、墓参りをしたりするように、祖先の霊だって子孫の様子を見に来ることもあるし、たまたま、落ち着きのない霊魂が地上のあちこちに姿を現すこともよくある話、その程度の事で除霊だ浄霊だと大騒ぎするのがナンセンスなことです。畳一畳の広さがあれば、そこに霊の一体や二体を感じた所で、たいした問題ではない……私などは日常的な体験からそう思います。
そもそも、敏感な人間は、どこで暮らそうが霊に怯えなければならないし、鈍感な人間は墓地や神霊スポットの密集地にいたって平気なものなのです。正直、巡業中に感じた霊魂の存在は無視して差し支えない、むしろ、平均よりも少ないといえる。
もちろん、近所にある墓地などから流れてくる霊もいるだろうから、注意に超したことはない。その為には、やはり、オーナーや店長・従業員等が、店の中だけでなく駐車場の掃除などにも気を配ることが大切であることを、最終報告(?)として告げ、そして、昼食の接待を受けた。
特に、ゴミの問題については、深刻な問題であることにオーナーは気がついた。そう、店長の気配りが足りない事の証なのである。以前より、人を育てていないと指摘し続けたが、その霊査を明白な形で理解して頂けたようだ。そう、私の使命はきっと、「所有物件がおろそかになっていることと、また、人材育成の大切さを、オーナーに気がつかせることだったのだろ……」と、自分なりに出張の意義を納得した。
「掃除その他についてはチェックリストをつくって徹底させたいと思います……」というオーナーに対して、以前から取っていた霊査を改めて突きつけた。
「オーナー自らが作ったリストを押しつけたら、あれをやれ、これをやれ、あれをやっていない、これもなっとらん、と、従業員を叱るばかりになります。それでは従業員も嫌になりますよ。いっそ、リストは店長等に作らせて、『良くできた!』と褒め、『よく維持している』と褒め、『頑張っているな!』と、褒めて人を使うようにしなければ。接客態度だって、『もっとニコやかにしろ!』と怒鳴られて笑える人なんて、気持ち悪くて信用できないでしょう? 接客態度を良くさせたかったら、楽しい職場にしてあげなければ」などと、経営の素人のくせに霊媒の笠を着て説教する始末。
そしてお昼を過ぎても、空腹を耐えて支店を巡り続け、道中では意味深なご主人の話……奥様の友人が、『霊を感じた!』などというから……等という話を聞きながらたどり着いた最後の店で昼食をご馳走になった。
うまい! 安い! でも、店はがら空き?
訪ねたのは祭日のこと。それ故に店はかなりの繁盛でしたが、普段はがら空きも珍しくないとのこと。しっかりと作られたメニューを見て、むらむらと食い気がこみ上げ、普段以上の食い気に、これはきっと、味見をすることにも意義があるのだと自らを納得させて、恥ずかしいと思いつつも、二人前を注文し、食べてびっくり。
私が払ったわけではないのに言うのも何だが、メニューを見て確かに安い。当サイトでは広告宣伝はしないという手前、具体的なオーダー品目や値段を書くのは遠慮するが、ファーストフード店と同等の値段で、ボリュームも味もしっかりとしている。いや、しっかり等というレベルとは思えない。二品目で三人前は充分にあるだろう。おかげで、翌日まで胃もたれしたぐらいなのだから。
そして、天丼五人前をぺろりと平らげた昭和初期の霊媒の話を思い出しては勝手に恥じ入りつつ、いぎたなくご飯をほおばりながら、ようやく気がついたもっと、もっと深い事実をオーナーに突きつけた。
「ご主人、店員を虐めましたね!? 『こんなに安くて、うまいのに、お客が入らないのは、お前達がだらしないからだ!』とやりませんでしたか? 少なくとも、『不思議だ、不思議だ』と、店員の前で悩んで見せたでしょう。原因が分からないから、きっと幽霊でもいるのだろう、と、従業員の中に責任転嫁的な風評が生まれてそれが幽霊話になったのです。霊感のない人は、不安な心を心霊問題に責任転嫁することがよくあります。それに、霊感の強い人はなおのこと、身の回りに幽霊談義が起こると、神経が過敏になってなおさら霊を感じやすくなります。本来なら、不思議だ、等と言うよりも、『もっと良い、広告宣伝の方法はないか?』と、言ってみせるべきなのです。」
これにはオーナー夫妻も絶句した。思い当たる所が充分にあったらしい。と同時に、一般人がケンカできぬ相手の霊が問題ではないと知って、ホッと一安心したとのことだ。
ともかく、幽霊がいないことを知って、肩の荷が下りたオーナー夫妻は、巡業の足を伸ばして、ささやかな観光旅行に私を連れ出してくれた。その最後の目的地である、伊佐須美神社の手水舎の柱に、このような文字が書かれていた。
難儀苦労のある時ばかり
神の御袖にすがる気か
胸のむら雲、はらえばすぐに
神の光がてりわたる
ご主人は憮然としていたが、私は堪らず爆笑してしまった。そう、疑心暗鬼に囚われているから幽霊の噂などが立つのだ、売り上げがパッとしなく思えても、付近の店もみな、客が溢れているわけでなし、また、資金繰りに苦しむわけでなし、神様から守られていたではないか、まさにそれこそが答えといえる。……むしろ、この出来すぎた話に、私は自分がサーカスの司会を務める道化師の役割かと、笑いながらかえって気抜けまでしてしまった。
‘, ”, 1, 4, 0, 59, ’2004-12-25 00:00:00′, 63, ”, ’0000-00-00 00:00:00′, 0, 0, ’0000-00-00 00:00:00′, ’2006-04-17 19:40:15′, ’0000-00-00 00:00:00′, ”, ”, ‘pageclass_sfx=\nback_button=\nitem_title=1\nlink_titles=\nintrotext=1\nsection=0\nsection_link=0\ncategory=0\ncategory_link=0\nrating=\nauthor=\ncreatedate=\nmodifydate=\npdf=\nprint=\nemail=\nkeyref=\ndocbook_type=’, 1, 0, 7, ”, ”, 0, 1107), (450, ‘レストランの幽霊事件(3)’, ”, ‘
とにかく眠い
巡行が終われば、あとは神霊《みたま》をお返ししなければならない。再び産土神社に向かう。緊張がほぐれたのか、腹の皮が突っ張ったからか、伊佐須美神社からの帰路はとにかく眠い。道中、景色の良い所で起こされるが……それでも眠い。やっぱり眠い。
その眠気の中で、産土神社で霊視したかの男性が、『用も済みたので、下がる』という。あれ、では、産土神社に向かわなくとも良いのかな……と、戸惑うと、私の守護霊が『霊魂が必要とすることではなく、儀礼的に大切なことだ。お礼参りをせよ』という。そしてそのまま車の中で眠り込んでしまった。
そして夕刻、無事、産土神社にたどり着き……ああ、ここにも多くの説明を要す、産土神社を立つ際に帰りはこちらからどうぞといわれたその場所に車が止り、また、無事にたどり着いたのは運転手を務められた奥様の努力であって、私はただ寝ていただけだ。……そして、まだ日も高ければ皆でお礼参りを済ます所が、もう日も暮れていたので私一人で参拝を済ますことにした。暗くなってからの参拝は決して好ましくないし、みっとも良いものではないから。
その後は再び、バタバタとした時間が始まる。帰りの新幹線チケットの確保、その後夕食に招待され、未だ消化不良の胃を抑えつつも、試食も大切な仕事と思う一方、おいおい霊媒が大食いは自殺行為だ、等と恐れもする。そして、車が信号待ちで古本屋の前に止った時、ふと感じて車から飛び降り……その前にちゃんと後方確認し……心霊関係書を四冊ほど仕入れてまた車に戻る。神田で買うと高いんですよ。専門書類は。
そして夕食に焼き肉を振る舞われた。
焼き肉と幽霊
「ここには幽霊はいません」――というのは、結構矛盾した話だ。そもそも、心霊では、霊魂に物質的な大きさを認めていない。極端な場合、 「霊魂は時空を超越する」などという表現をするわけで、その表現はあまりに過大評価だと思うが、携帯電話どころか無線通信すら一般的でない時代の話と割り切る必要がある。
つまり、現代人は、会議を嫌って逃げても、携帯電話で捕まる……ならば、「どこいる」という場所の制約は意味を成すのだろうか?
霊信もまた、無線通信のように、場所に制約を受けにくい。例えば私は、飛行機に乗っていようが、船に乗っていようが、仕事でシールドルームに入ろうが、霊査を取ることが出来る。それを私の脳内だけの事といわれてしまえば実も蓋もないが、ようするに、霊感の敏感な人が、恐怖感に襲われてしまえば、たとえどこにいようと霊を感じておかしくない。そうすると、特定の場所や、本件で問題になっている店で幽霊がいないという説明にどれだけの価値があるだろう?
二者(生・死者)を引き寄せる切っ掛けが恐怖感であれば、霊媒が出張して調べて「幽霊はいません」といった所で何の意味もない。ただ、二者(生・死者)を引き寄せる切っ掛けが、特定の場所や物体であるならば、霊媒が出張して調べる意義もあり、私の関心もまさにそこにあった。つまり死者を引き寄せる切っ掛けになりうるような、場所や物体がないことを確認した上で、「ここには幽霊はいません」と断言したのだ。
実は、もう一つ、矛盾がある。そもそも幽霊が……心霊科学的には別な見解があるが……死後個性であるなら、そこには自由意志があり、同時に行動力があると見なすべきだ。すなわち、今いなくとも、明日もいないとは限らないし、反対に、今いて、除霊をしなくとも、明日もいるとは限らないのである。
いるとかいないとかに意味がないとしたら、より良い表現方法は何であろうか?
実によく見る手口だが――『ここに霊がいたが、除霊をしておきました』という表現が、一番素人に無理のない説明だと思う。それこそ、天気予報で、晴れ、時々雨、または曇り、というのと似ている。まあ、この辺は相談者と霊媒との信頼関係次第である。
ところで、焼き肉をご馳走になりながら、ふっと感じた。この店のすぐそばにかなり大きな墓地があるが、どうもあまり霊的にきれいな墓地ではないようだ。むろん、この時にはすでに神霊《みたま》を帰えしたあとではあるが、なあに、帰すとか帰さぬとかは儀礼上の問題、すぐに産土神社の担当霊を呼び、善処を求めた。
そんなことがありながらも、しっかりと焼き肉一通りをご馳走になり、生ビールを二杯も頂き、あげく、お土産まで頂いて新幹線駅前でオーナー夫妻と別れを告げた。
翌日胃もたれに苦しみはしたが、いうまでもなくこれは幽霊が原因ではなく、食べ過ぎたのである。
計器補整
04年 12月 27日
出発までのドタバタから始まり、古本屋のエピソードまで、ちらちらと私の霊感自慢じみた文章が挟んである。私の文章力では意図が充分に伝わると確信し得ないのであえて説明するが、キャリブレーション(計器補整)的な意味合いでわざと掲載したものだ。つまり、巡察した店舗で特別に居座る霊魂は見いだせなかった。――見いだせなかったのは、果たして本当に霊魂が居座っていなかったのか、もしくは、私の霊感の働きが悪かったのか……(浅野和三郎氏流にいうと)人間は精密な計器であるが非常に錯《くる》いやすい計器なのである。従って、要所要所で自分の状態を検査する事は、自分自身の調査結果に確信を持つために大切な事だと思う。
うっとうしく思われるかも知れないが、私が自慢をしたい最大の相手は、他の誰でもない、実は自分自身である。なにしろ、自らを信じると書いて自信と呼ぶのだ。自信なくして何が出来るのか。そして、根拠もなく自分を信じて、他人の大事な問題を預かれるのだろうか? 私はこの調査結果に自信を得ているのだ。
露骨な伏線
私は一応、心霊相談の休止を宣言している。それには様々な理由があるが、本件で重要な一つの問題として、世間一般の神霊知識のレベルに重大な問題を感じ取っている事があげられる。
幽霊が出るという……ところで幽霊とは何であろうか?
相談者が何を言わんとしているのか、私は理解しているつもりである。だがそこには大きな誤解、間違った心霊知識に惑わされた結果があるとも思うのだ。……従って、相談者がほんの数行の質問を送って寄こすだけでも、私は何ページもの回答を用意せざるを得ない。方便的な嘘を嫌うからだ。……実は本件でも、回答よりもむしろ、その回答の根拠となる心霊知識の解説に手間が掛る事は眼に見えた話であった。
教科書的な記事を書くのは取り敢えず先送りする事として、今は話を進めたい。
事件の締めくくり
知人のレストランに幽霊が出るという。自称霊能者の……同時に、当知人夫妻に霊能者として信頼を受けている私は現地調査を試みた。その過程はおおよそ前述の通り。そして、その結果、私はレストランに幽霊的なものを何ら見いださなかった。と同時に、私自身の霊感がきちんと働いている事は、調査過程の要所要所で確認した通りである。
では、「レストランの幽霊事件」とはいったい何であったのか?……いくつかの問題点を指摘する。
1,土地の因縁的な問題があった、しかし、調査前に解決済みであった。
2,若干、霊的な影響はあるが幽霊と称するほどの話ではない。
3,適切な心霊知識のない霊感所有者が当事者達の事実認識を混乱させているらしい。
4,オーナーの精神的動揺、または、疑惑が、従業員等の情緒不安定を起こしている。
5,疑心暗鬼に囚われると、遠隔の霊と感応し、そこに幽霊がいると感じる事もある。
となる。心霊研究家として読み返してみると実に明快であると同時に心霊詐欺が使いそうな回答でもある。実は、オーナー夫妻に釘を刺してあるが、今回の調査は、霊媒に依頼する仕事としては最悪の手順を踏んでいる。つまり、霊媒に各店舗を回らせるという事は、もしも霊媒が偽物の詐欺師であったなら、それら店舗や事情説明を元に、どこまでオーナーから礼金をせしめられるかの皮算用が出来てしまう。つまり、心霊相談を求めるものが決してやってはいけない危険なやり方だったのである。これは明記しておく。……そして、オーナーは何を求めているのかというと、幽霊が出ると動揺している従業員を安心させたいという事である。
ご主人は、私の『幽霊はいない』という話を早速従業員にしたいと申されていたが、私はそれに同意しなかった。
そもそも、不安が幽霊事件を招いているのである。それを『霊媒が調べたが幽霊はいない』等といえば、幽霊を見たと報告したものが嘘つき扱いされてしまう。それでは皆、承伏しまい。オーナーのいう事だからと一応は納得して見せても、真実信じるものはいないと思う。
だから私は、オーナーのご主人に指摘した。
・・・・・・・・
「幽霊なんていない」等といっても誰も安心しません。皆は、幽霊でもないと納得できない、と、感じる事情があってこそ、幽霊騒ぎが起こっているのですから。オーナーにとっては辛い事でしょうが、ここははっきりと明言なさるべきです。「私が眉間にしわを寄せて、小言ばかりをいっていたから疫病神が集まってきたと、霊媒に叱られた。これからは、福の神が集まるように、ニコニコと仕事をしたい」と説明なさる事です。その説明にはだいぶ比喩的なものが混じっていますが、おおむね嘘ではありません。
そもそも、店の雰囲気が悪いから、皆に向かって、笑え!、と怒鳴って、本心から笑える人なんていやしません。店の雰囲気が悪ければ、従業員が働いていて幸せに感じるような環境を作らなければダメなのです。まずは、オーナー自らがもっとにこやかにされる事です。
また、失礼ながらご主人は、どうも、人から褒められることを病的に求めていらっしゃる部分がとても強くありますよね? 人間ならば賞賛を求めたいのはむしろ自然なことで、それを恥じる必要はありません。しかし、そこでしっかりと考えて頂きたいのです。
『自分はこれほど、人から褒められたいと思っている。ならば、従業員だってそう思っているだろう』……と気がつけば、叱って従業員を導くのではなく、褒めて従業員を導こうとなさるはずです。
考えても見て下さい。ご主人が『お前は駄目な奴だ!』と、いわれた相手が、果たしてご主人を尊敬するでしょうか? きっと内心では、怒りの炎を燃やすでしょう。まあ、ご主人にゴマをする人はいるかも知れませんが……反対に、ご主人が、『君はよくやってくれる、ありがとう』といわれたならば、相手は、『ああ、この人は私のことを理解してくれる。素晴らしい人だ』と、思ってくれる……そうは思いませんか?
目先の利益、つまり、目先の賞賛を求めて努力すると、実は内心バカにされることがよくあることです。迂遠に見えても人を褒めることで賞賛を求めるようになさって下さい。そうすれば、幽霊事件など忘れられて二度と口に上ることはありませんよ。
急に人柄が変わったからと、気味悪がられたっていいではありませんか。
『今までは悪かった、これからは一緒に頑張ってくれ!』
といってご覧なさい。必ず報われますよ。
・・・・・・・・
そう、私は幽霊が出たということを軽んじてはいない。実はその意見を尊重しているのである。そして、その幽霊事件の真の原因は除霊が必要な霊魂の存在ではなく……実は6体の霊を浄霊していたのだ……たかが幽霊に振り回されてしまう程度の雇用関係の信頼問題なのである。(と、霊媒ながら思う)
だからこそ、私は繰り返し、オーナーに全従業員と共に神社でお祓いを受けることを薦めた。幽霊を除霊するためでなく、全従業員が無事に、そして楽しく一年間、働けるようにと……くどいようだが考えても見て欲しい。 店の雰囲気が悪かったとする。オーナーが怒鳴って、『雰囲気を良くしろ!!』といって、雰囲気が良くなるだろうか? 恐怖から作り笑いを浮かべた所で、ますます気味が悪くなるだけだし、怒鳴られて人をトロかすような笑みを浮かべられる従業員がいたら、それこそ騙されぬように注意すべきだ。
つまり、私は、オーナー夫妻、主にそのご主人を諫めにわざわざ現地を訪ねたのである。だがそれは、ご主人が悪人であるからということではない。ご主人、いやご夫妻の産土神が、オーナー夫妻と全従業員の幸福を願って、私を指名したのである。しかも、私を招くためにずいぶんと気配りをして準備を整えたであろう事が見て取れる。それはオーナー夫妻と思わずため息をついてしまった、メリハリのある不可思議な、そして、美しい天候の変化であり、立派な虚空蔵尊の雪景色であり、そして、一宮の手水舎で見た道歌である。それは、ご主人の人間性の否定ではなく、もっと良い進路を探せ、というメッセージなのだ。
店はなるほど(?)思うほどの収益を上げていないかも知れない。また、オーナーは性格的に小(いや大々的に)うるさい人かも知れない。しかし、この不況下に取り敢えず従業員の仕事を確保し、給料とボーナスを支給している。しかも、しっかりと向上心もあれば、(普通では理解し難い手法で)従業員の福利厚生…いや幸福な生活について心配をする人なのである。
誤解や行き違いは多々あるだろうけれど、オーナー夫妻と、その従業員の幸せを、私は祈らずにいられなかった。
あらかた事情の説明は終わった。つづいて少々踏み込んで解説にあたりたい。と同時にこれが完結編となる。
心霊知識の重要さ
霊能力の発現には、偶発的要因……というより……宿命的な要因に強く支配されている。それ故に、霊媒・霊能者には自負心、少なくとも内に秘めた自負心がとても強いのが普通だ。しかし、人生は短い。そして、自負心が強いと視野が狭くなりがちだ。……自負心があればこそ、人は努力もする。従って霊媒同士が仲が悪いというのはまあ仕方がないかも知れない。だが、文化というのは何代もの人の手を得ればこそ、より深みを増すものだ。――師を、そして、先人の叡智を受け継がぬ霊媒が、果たして才能だけで何を成し遂げられるのだろうか?
「才能は自分を裏切らない」――等という人もいる。しかし、人が一番多く騙す相手は、自分では無かろうか? そんなことは出来ない、出来るはずがない……そう自分を騙して時間を無駄にしてはいないだろうか? 自分の才能を過信するあまり先人をおろそかにし、先人等と同じ過ちを繰り返して、先人等の高みに手が届かない。そういう寂しさが世に蔓延している。社会の構成員等が学習によってより高い成果を目指すのに、霊媒・霊能者は己の才能のみを頼りにして自負心を満足させるだけで人生を終えようとしている。「井の中の蛙」な霊媒が、一体何を見いだせるというのだろうか?
19世紀、フォックス家の幽霊事件を持って近代心霊思想の幕が開いた。以下はその成果である。それはすなわち、近代心霊思想の成果ではあるが、成立したのは19世紀後半から20世紀初頭――すなわち、100年も昔の智慧であるとお考え願いたい。
死後の世界は、別名、想念の世界と呼ばれる。初期の心霊家はエーテル界などと表現することもあるが、そのような表現は何とも悩ましい。物理学ではすでに真空中で光を伝搬する媒体である「エーテル」の存在が否定されいるからだ。つまる所、宇宙と人間の心の接点は、19世紀から20世紀初期の物理学者および心霊家が考えているよりも遙かに、遙かにかけ離れたものだということだ。だが、理論研究はともかく、応用面から見た心霊研究上、死後の世界が「想念の世界」と呼び得ることは否定しがたい。これは非常に微妙な意味合いを含んでいるが、どうか注意を願いたい。つまり、一面だけを追い掛けると、時代が下がるにつれてより心霊は非現実的に、そして巧妙な言い訳を身につけていくと見えるということだ。それは決して心霊家の本位とする所ではない。本来ならば、誰にでも手の届くところに心霊研究の対象を引き下げたいのである。ところが、実際に手を伸ばしてみると……
星をたたき落とそうと、屋根に登って物干し竿を振り回している男がいた。それを見つけた別な男はこういった。「それではダメだ。屋根の上にはしごを立てて、それに登って物干し竿を使わなければ!」……という笑い話がある。
心霊研究も同様である。研究すればするほど、手が届きそうで実に迂遠であることに気がつく。
従って、真面目に研究する人ほど、真実は手が届かぬ事に気がつき、自身の霊媒能力を頼みにして心霊を考える人は、今にも真実に手が届くかのような錯覚をする。そして往々、心霊家は願望に躓いている。たとえば、コンテグリー(妖精写真偽造)事件におけるコナン・ドイルのように。
心霊学にはロマンがあるが、ロマンと妄想・願望とを混同してはならない。
幽霊って何だ?
幽霊問題を扱っているのに、肝腎な幽霊の定義がないのは心霊研究を名乗りながら滑稽きわまる。定義もないままに議論を進めるのは、まさに幽霊を捕まえるような努力だ。
幽霊とは何か――そもそも科学的な測定手段や検証手段が乏しいのが心霊研究の対象物である。幽霊を見たというのも、本当の幽霊なのか、それとも、見た人が幽霊と思っているだけなのか、その区別は難しい。心霊研究の現場では、服すの霊媒に検証させるなどということもするが、取り敢えずここでは、「見た人が幽霊と思っているだけ」というものについては割愛する。
1,死者――死者が様々な形態、または、自己表現手段で存在をアピールするもの。
一般的に、幽霊と信じられているのは、この一番のみのようだ。ところで説明中に、「様々な形態、または、自己表現手段」と書いたのは論文風を狙ってのことではなく、必要に迫られてのことである。例えばラップ音だけで自己の存在をアピールする場合もあるし、香りで存在をアピールする場合もある。複数の五感にまたがる感覚で自己の存在をアピールする場合もあって、見えるものばかりではない。むしろ、人間が一番強い刺激を受けるのが視覚であることに留意願いたい。
視覚にアピールする霊というのはよほどせっぱ詰まった事情を持つか、思慮の足りない霊魂で、突然、視野をふさがれた人はあわてないはずがない。私自身、車で信号待ちしている最中の心霊談義で、突然、青い光球を霊視してとっさに走り出して青ざめたことがある。危うく大事故になる所だった。
本来ならば、最初はおとなしめに相手にアピールし、相手の準備が出来た段階で深い交霊にはいるのが望ましい。――当然これは、霊達の側から見た礼儀作法でもある。従って、礼儀正しい霊と付合いたければ、霊視以外の霊覚を大切にする必要がある。
2,幽体の抜け殻――これは、マイヤースの霊界通信、『永遠の大道』中にも記載がある。肉体を抜け出した魂を死者と呼ぶわけだが、近代心霊研究の成果からいうと、実際はもう少し複雑だ。人間の個性が宿る媒体には、霊体、幽体、肉体の三重構造になっていると考えられる。肉体を脱ぎ捨てた霊魂は、いずれ幽体も脱ぎ捨てる。この脱ぎ捨てた幽体(抜け殻)が、目撃されたのがいわゆる幽霊……それも幽霊屋敷などで目撃されるものだという。特筆すべきは、抜け殻が意念に反応して動いているだけなので、いわゆる浄霊などが意味を成さないことだ。――脱ぎ捨てられた服に説教するようなものである。
3,意念の彫刻物――死後の世界は意念の世界だという。意念の世界とはすなわち、意念が形象を持つ世界であるということだ。死後の世界に於いて、人は容易に姿を変えたり衣装を変えたりすることが出来る。これは浅野和三郎著「新樹の通信」等に詳しい。……ここで少し考えてみてもらいたい。意念によって形象を与えられるのは衣服や家だけだろうか?
例えば、『ここに幽霊がいる』と、強く、そして具体的な姿形まで想像した人がいるとする。すると、その意念に応じて形象が生じることになる。この形象は、普通の人の普通の視力には見えないが、霊媒はこれを目撃する。それが中身のないハリボテと見抜けてこそ真の霊媒であるが、見抜けぬ未熟な霊媒ならば、幽体の抜け殻同様、これを幽霊と勘違いすることはあり得ることだ。なお、こういう形で「幽霊が出た」という話はあまり聞かないが、多々あるだろう事を推測し得る材料がある。
例えば、霊媒は、胎児の性別を答えてはいけないといわれる。種を明かせば、……わざわざ霊媒に尋ねる親は、子供の性別に強い願望があり、その願望が意念の彫刻を作り出している事が多いからだ。つまり見間違いしやすいのである。宝くじが当るかどうかなどと言うのも同様で、やはり願望が光景として見えてしまうと霊媒が誤解しやすい。……強い願望の相談事は霊媒がとても苦手とするもので、それゆえ、微妙な問題を霊査する場合は相談者に精神統一を求めたりする。
もっとも、この意念の彫刻物は、霊媒を間違えさせたり、未熟な霊媒に幽霊騒ぎを起こさせる以外の良い使い道も知られている。望画力《ぼうかくりょく》と呼ぶのだが、願望の実現を神頼みするならば、意念の彫刻が出来るぐらいに明確・具体的なビジョンを作る必要がある。そう、模型をつくって神様やご先祖様にプレゼンテーションをすると、願望が通りやすいのである。
二点ほど私の扱う事例を紹介すると、子供を熱望する友人について、精神統一してみた所、意念の彫刻である「女の子」が見えた。判断が危険であることを承知・説明の上、女の子が授かると回答した。彼女の背後霊の実力を思えば、ここまで明確に望画がある以上、実現間違いなしというのが私の判断だった。が、霊査……通信には『人の都合で善し悪しを考えるな、最善の時を選んで子供は生まれる』と聞こえたのだ。……当時、何が障害になっているのかは想像の外であったが、今は分かる。今年は非常に天災の多い年で、もしもこの時期に乳飲み子を抱えていたらさぞや大変だっただろうと思うのだ。
また、あれこれと日常の細かな問題まで質問を寄こす相談者の強欲さには辟易していたが、振り返ってみると、一度も意念の彫刻物たる、願望の明白なビジョンを目撃したことがなかった。これは視点・次元の異なる三つの回答を暗示する。 すなわち、1,どの願望も実現しない(望画力の不足) 2,魂の主体性が失われ欲望に振り回されているだけ(幸せの意味を知らず、すなわち最終的な幸福が得られない) 3,守護霊・祖霊との絆が深まらず、低級霊に支配されやすい(逆縁の持ち主)
意念の彫刻物は、霊媒にとって迷惑極まりのない局面がある。しかし、本来の魂は、自由自在にこの彫刻物を作れるべきなのだ。使いこなす必要がある魂の基本スキルなのである。
幽体について
幽体についての説明をもう少し掘り下げるべきだろう。前述の通り、人間の個性が宿る媒体には、霊体、幽体、肉体の三重構造になっていると考えられる。しかし、復古神道及び神霊主義者は、さらに真体なるものを想定し、これを四魂説と呼ぶが……霊体より上についての媒体については正直、私の観測能力を超えているし、同時にその観察記録的なものを目にしたことがない。私は浅野和三郎氏の四魂説は間違っているのではと思える。
手頃な比喩対象がある。かつてパソコンユーザーが多大の世話になったフロッピーディスクを対象に考えてみよう。まず肉体に相当するケースがある。中に幽体に相当するディスクがあり、ディスクには霊体に相当する磁性体が塗ってある。そして磁性体には情報が記録されているのだ……この情報こそが、人間の個性に相当し、四魂説でいう所の真体にあたるのではないか。ちなみにこの比喩は、もう少し深い説明にもつかえる。
情報を記録するのに磁性体は不可欠だ。磁性体を保護するのにケースは重要だ、ケースと磁性体とが相助け合うためにはディスクも重要だ。と同時に情報を記録する方法は何も磁性体に限らない。ネット上にも、CD上にも、半導体メモリーなどにも記録は出来る。
つまり、情報体があり、その情報体が物質世界で自己表現をするのに必要な肉体があり、その肉体と情報体をつなげるのが、幽体・霊体であって、場合によってはその他に真体があると考えられているわけだ。なお、私が媒体としての「真体」の想定に否定的なのは、個はどこまでも個である……のではなく、 個とは本来、大我の中の一部であるという考えの現われでもある。
さて、心霊主義者ならば当然の立場だが、死後の個性存続を想定すると、脳内の電気的な信号や化学的な反応だけで人間の意識を説明することは出来ない。肉体とは別個な意識の媒体を仮想する必要がある。それが霊体、もしくはその奥にある真体である。そして、霊体・真体は人体を難なくすり抜け、物理的な制約が無いとされている。――ここまでは霊魂論者に広く信じられていることだ。しかし、物理的な制約がない霊体が、どうして肉体をコントロールできるのだろうか? 近代心霊研究の答えが、『幽体』なのである。
幽体の性質――幽体は、霊体と肉体との中間的な性質を持つとされる。意念にも物質にも反応する存在なのだ。(初期の神霊思想ではエーテル体なる表現があるが、これは幽体と霊体とを合わせて説明しているため、すでに心霊思想上も使いにくい用語となっている。)
本来不可視であるが、物質への反応度については、意念によってコントロールが可能と考えられている。と同時に光によって物質との結びつきが阻害されるらしい。また、物理的な心霊現象に不可欠とされるエクトプラズムは、この幽体と、主に霊媒の体液の混合物で、一般的には白色と見なされる……見なされるというのは文字通り、見えたり見えなかったりするからだ。そして、霊体ならば物質や光との反応がないから、霊視能力者以外には見えないが、幽体は意念に応じて比較的目撃されやすい……従って、一般に幽霊として認識されるのは、幽体を纏った霊魂か、脱ぎ捨てられた幽体か、幽体と同質の意念の彫刻物ということになる。そして、いわゆる浄霊――説得して成仏させられるのは、霊魂だけであり、脱ぎ捨てられた幽体や、意念の彫刻物に関しては、浄霊は意味を成さず、除霊というほど大袈裟なことが必要なわけでもない。ただ、片付ければよいのである。具体的な方法も何もない。自分の守護霊に引き渡したり、神社で祈祷して掃除してくれと祈るだけで済む。
化け物の正体――死して死者の意識は肉体から抜け出る。しかし、死はこれで終わらない。いずれ意識は幽体も脱ぎ捨てて、純粋なる意念のみとなるのだ。ただし、幽体を脱ぎ捨てる時機は説明が難しい。おおよそ幽体は肉体の損傷度と比例して傷む。従って老衰で死んだもの、また、事故などで激しく肉体を損傷したものは死後速やかに幽体を脱ぎ捨て、病死者・溺死者や自殺者の多くはなかなか幽体を棄てがたい。が、いずれにせよ幽体を脱ぎ捨てることになる。 なお……霊魂が肉体や幽体をコントロールするといっても、一方的に支配できると考えるのは間違いで、力には必ず反動が生じる。肉体を纏えば意念は物欲の強い感化を受けるし、幽体もまた物質的な感化を魂に与える。いわゆる地縛霊とは幽体を脱げぬ魂と見なすことも出来る。
が……幽体も劣化する。劣化した幽体はさぞや醜い姿と思われる。――姿形で相手を見る癖のある人にとって、崩壊し始めた幽体はさぞや恐ろしげな化け物に見えるだろう。
化け物といえば、私が霊感を得て一番最初に墓参りした時、印象深いものを霊視した。頸から上が馬頭で裸の男が、墓地の中に何人も静かに立っているのだ。動かないが意識の働きを感じる。語りかけても返事がないが動かせはしない――その後、現在の師匠に師事することになって、この件を質問してみたが、昔の戦死者だろうとのことだった。ちょっと納得が難しい答えだった。最近、この問題を改めて背後に問いかけてみた所、
『単純な問題ではないため、過去には、教えることが出来なかった。おそらく途中で理解を投げ出していたことだろう。あの馬頭人間は、ノイローゼに罹った人間の悪夢が生み出した意念の彫刻物である。動かせないのは狂気が続いているからで、意識の働きを感じたのは創作者の気配である。また、静かに立ち続けていたのは想像力が不足して動きを与えられないからだ。そして、今はもう片づいている。創作者が死没したから、墓地に置く必要がなくなったからである。』
これまで不可思議なものの霊視をいくつもしたが、大抵は妄想が生み出した意念の彫刻物で、化け物的な幽霊は幽体が傷んでもなお地縛を続ける霊魂であるようだ。
終章・幽霊事件は終わったのか?
元々の腹づもりでは、昨年内に完結編を出したかったが、幽体の説明が必要であることに気がつき、少々ウンザリして筆が・キータッチが進まなかった。そして、いよいよ完結するにあたって、重要なのは幽霊問題が解決したのかということだ。
私はむろん、その結果に自信を持つ。が、本件は非常に検証が難しいことは、言い訳じみているが以前の説明でご理解頂けることと思う。店のオーナーから、『霊媒に調べさせたがいないと言われた』と、説明を受けたら、従業員がそれを否定するのは難しいと思う。従って、『未だいる!』といわれた時には再調査の必要性は明白だが、『いなくなった』といわれてもそれが事実とは限らない。
また、自由意志のあるのが霊魂であれば、いつ舞い戻るかも知れないし、客や従業員についている霊魂までは調査してはいない。……神経質にいえば、幽霊が出なくなるようにしろというのはナンセンスで、まともな霊媒ならば、目指すべきは低級霊の除霊ではなく、高級霊の働きを強めることだ……留守だから泥棒に狙われるのであって、見張りがいたら早々泥棒は入らないのと同様である。それ故に、私は、オーナーに対して従業員への態度を改めるように強く求めた。 オーナーがイライラしていては、高級霊が嫌うし、高級霊が嫌えば低級霊が働きやすい場所となるからだ。
第二に、店がヒマであることも重要な問題と思う。忙しかったら幽霊を接客するヒマもないだろう。オマケに人の出入りが多ければ、悪いものも入りやすいが同時に出やすく、固定的な幽霊は生じにくいのだ。更にいえば抽象的な意味合いとなるが、 霊現象は視線を嫌う特性がある。何しろ人間は視覚に反応しやすいのだ。不可思議なものを一瞬でも目撃すると、それを見直すのに際して、
『変なものなら嫌だな、変なものはないといいな』
という、無意識の強い思念で拒絶する。この拒絶にあってその場に居続けるのには相応の努力が必要なもの場に居続けるのには相応の努力が必要なものなのだ。幽霊を見るのはなるほど怖いかも知れななのだ。幽霊を見るのはなるほど怖いかも知れないが、普通、幽霊も見られるのは大変なのだ。――というわけで、店に活気が出てくるのも大切な解決要因ではある。幸い忘年会シーズンということで繁盛しているらしいが、これが一過性のことではないと祈る次第だ。
というわけで、私的には万全を尽くした。あとは経過を見守るのみである。