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あの世のことはあの世に任せる

2006/08/07

2006年08月07日


友人に相談を持ちかけられて親に電話する……「○○ちゃんから相談を受けて、どう答えたらいい?」

喧嘩で負けたら親に電話して……「ママ(パパ?)、××ちゃんをやっつけて!」

会社でも一々親に電話して……「会社で□□をやれっていわれたのだけど、どうすれば出来るの?」

恋人が欲しいと親に電話して……「ママ(パパ?)、◇◇ちゃんを振り向かせて!!」

・・・・・・

マザコン、ファザコンの話題ではなく、御利益信仰・守護霊信仰を揶揄しているのである。……心霊を勉強するのは、こういう依存心の強い人間に成長(?)するためなのか? はたまた頼りがいのある霊能者を見つけるために勉強をするというのだろうか?

他人の依存心を利用して稼ぐ霊媒は多い。それが果たして悪徳と呼び得るか、どうかにまで、私は踏み込まない。資本主義の社会では価値は需要と供給の関係で決まるからだ。たとえば、正義漢に燃える誰かが、気に入らない霊能者を撲滅したとして、それで悪信仰・依存心の被害者が無くなるのか?

いや、供給が減れば価格が上がるだけだろう。つまり残った数少ない霊媒は相談単価を上げることが出来る。……損得抜きで働く人がバカバカしく思えるような現況であるから、悪徳がはびこるのである。最後まで残るのは果たして「本物」か、はたまた「商売上手」なのか、実に興味深い。

・・・・・・

一体、心霊を学ぶことの意義はどこにあるのだろう?

永遠の生へ確信や、不可視・不可触の心にも価値を見出そうとすることはなるほど大切だ。生死の区別に対する偏見を取り除くもの大切であろう。

だが……

『私たちは常に守護霊に見守られております』

……と、聞いたとき、ならば利用しなければ損と思うのか、恥ずかしくないように生きようとするのか、どちらであろう?

低級霊や悪霊の害をいう人がいても、私は守護霊に守られていますから大丈夫です。……そう胸を張れる人は素晴らしいと思う。また、外で努力して疲れ果てたとき、心静かに守護霊に意念を合わせて癒しを得ようとすることは決して恥ずかしいこととは思わない。だが、「内」を守るべき守護霊を、自分の都合の奴隷として、頻繁に表に引きずり出そうと試みては、大切な「我が家」に泥棒が入るのではないか?

あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で、対処するのが筋である。……コミュニケーションは、曖昧な中間にラインを引くためだけでよい。

守られていることの価値をなぜもっと評価しないのだろう? 憑霊の害が及ぶことなく日々暮らせることの価値を、なぜ人々はおろそかにするのか? ……それだけで充分となぜ思えないのだろう?


随伴霊

2006/06/25

随伴霊

2006年06月20日

ある職場に、新人が配属されたとする。

この新人さんはしばらくの間、見習いとしてその職場のベテランに委ねられるであろう。大抵の場合は。むろん、「事実は小説よりも奇なり」で、様々な例外もあると思う。だが、あなたが新人として配属されたなら、いきなり本業を任せられるよりも先輩の仕事を見習いたいと思うだろうし、どうせ指導を受けるなら、無能な先輩や、残酷・冷酷、短気や独善的な人の指導はイヤだと切望するに違いない。

そう、世間には、様々な新人の扱い方があるだろうし、指導役の悲喜劇もあるだろう。当然、見習いの悲喜劇もだ。

・・・・・・・

さて、ここに修行が必要な低級霊がいるとする。何しろ、ヒマになるとろくな事をしないのは人間の性《サガ》であり、性は死んでも容易に治らないからこそ、霊の祟りなどが生じたりする。

……そういった事情があるから、一種の見習いとして地上の人に憑《》けられる場合がある。これを「随伴霊」と呼ぶ。

さて、あなたが見習いとして働くなら、どのような人の元で働きたいか。そして、あなたが管理職であれば、どのような人に新人の指導を任せるか。……随伴霊は、そういう人につけられる。

たとえば高徳の僧侶、神官、神父などの聖職者が、軒並み低級霊を引き連れて歩いていると聞けば、霊感のない人は容易に信じないに違いない。一方、霊感過敏の人は「やはりそうか!」と頷いてくれるかも知れない。他方、霊感があっても「まさか!!」という人もいるだろう。

まず、霊感があっても見えないのは無理もない。私自身、その様な随伴霊を当たり前のように見ていたのは、自分の霊感をコントロールできない時期であった。……そして、随伴霊は大抵、霊媒の目から隠されているのである。なにしろ、低級霊を見れば除霊したがる乱暴な霊媒が多い世の中である。手柄に焦る霊媒に目をつけられては、低級霊が向上するチャンスが失われてしまう。

一方、低級霊がついているからといって、その人の人格が劣っているとは限らない。その人が低級霊にコントロールされているならば大問題であるが、ただ引き連れているだけなら、それは大抵、随伴霊、つまり、見習いの霊魂なのである。

たとえば霊感初級者は、神社仏閣に低級霊がうじゃうじゃいると騒いだりするが、これと同様の問題だ。果たして、病人の大勢集まる病院は悪い病院なのか……否、病人の寄りつかない病院こそが危ういのである。

つまり、随伴霊のついていない人であれば、その人格は、見習いを預けるに値しない人である可能性が高いということだ。

・・・・・・・

ここで勘違いしないでいただきたいのは、人徳者が低級霊を連れていても不思議ではないが、低級霊を引き連れている者が必ずしも人徳者とは限らぬ事だ。まして憑依されている者を人徳者と呼んでいるわけでもない。

整理する。……

1,人徳者が低級霊を引き連れて歩いているのはむしろ当たり前であって、不思議ではない。

2,低級霊を引き連れていなければ、本当の人格者か疑わしい。(が、見えるとは限らない)

3,憑依されるようでは、見習いを持つ資格がない。

……だから、常に低級霊(随伴霊)に飲み込まれないように注意を怠らない人が、霊界から認められる人格者なのだと私は考える。

・・・・・・・

ところが、この見習いの配属先が霊媒であったりすると事は面倒になる。面倒を承知で配属しているようなのだが……低級霊を察知すれば霊媒はむしろ本能的に除霊を試みる。だが、除霊能力の源泉は守護霊であり、随伴霊は守護霊の認知の上でついているのだ。……つまり除霊できない。これを霊媒がどう感じるかはケースバイケースらしい。ある霊媒は、除霊しても除霊しても霊が寄って来るという。また別な霊媒は、どうしても除霊が出来ないという。

実力の問題もないとはいえない……が、除霊すべきではないという発想はないのだろうか。


随伴霊 2

2006年06月21日

トラックの荷台に、ドラム缶を積み込んだとしよう。そしてドラム缶は固定しない。

車が走り出せばドラム缶は後ろに動き、ブレーキを掛ければ前に動く。そのうち転げてハンドル捌きに合わせて左右に揺れ、ブレーキを掛ければ運転台に当たり、走り出せば後ろから転げ落ちる勢いで動き回る。右にハンドルを切れば左にぶつかり、左にハンドルを切れば右にぶつかる。……兎角、車の動きを邪魔する動きをするだろう。

・・・・・・・・

人には大抵、随伴霊と呼ばれる低級霊が、一種の見習いとしてこっそりと憑けられている場合がある。その存在は、大抵の場合、当事者の守護霊によって隠されているが、敢えて教えられる場合もある。……意識的な問題解決努力を促すためだ。

その随伴霊が憑いているとどういう作用が生じるかというと、上述の「トラックの荷台で暴れるドラム缶」の動きに似ている。努力しようとすると邪魔(誘惑)され、辞めようとすると焦りに煽られ、右といえば左、左といえば右と……つまり逡巡が生じる。不満が生じたり、疑惑・疑念が心にきざしたりする。

この事を読み流さないで貰いたい。……自分の目指す向きとは反対の動きが随伴霊の働きなのだ。 にも関わらず、人はそれに従おうとする。不思議に思わないか?

人は我が心を自分の主と見なし勝ちだが、心というのは身体から多大な影響を受けていて、疲れていれば悲観的になり、元気があれば楽観的になる。そして……霊的影響も受けることがある。そんな、本来とても感化を受けやすい我が心の求めるところに、絶対的に従おうとすることは、随伴霊の影響を受けやすくなることでもある。

すぐに諦め、一心に努力すべき時に雑念・妄想と遊んでみたり、その一方で、何ら勝算のないことにのめり込んでみたり、人をバカにし、侮ってみたり……本来自分が至っているはずの心境・境涯をそっちのけで、俗信であるところの心の絶対性を信じて、随伴霊の意図に従うのだからナンセンスである。

「心の中に霊の声がする」……といえば、大抵の人から見たらオカルトである……その割には犯罪者の言い訳によく使われているようだが… …なぜ断らないのだろう? なぜ、後でそう言い出すのだろう? 仮に悪霊・低級霊(そして随伴霊)から悪事の誘惑を受けたとしても、だ。その誘惑に従ったら共犯なのだ。しかも主たる実行犯なのである。

「神様(仏様)が見ていらっしゃる」……等という。誰も見ていないからと言って、悪事やだらしないことをしてはいけないというのだが、体感的にいえば、善い行いをしても認められることは稀で、その割には悪事が露見しやすいと感じないだろうか。

心霊家としての観察を含めていうなら、この言葉は一面の理でしかないと思う。同時に「随伴霊が見ている」ということも大切だと思う。人が見ていないからと生き方に手を抜くと、随伴霊から舐められてしまう。『その程度の霊格で何を威張っているのだか』……というわけだ。

すると、叱りつけても相手はいうことを聞かなくなる……すると、チャンスを見失いやすく、大事なときに失敗し易くなり、努力すべき時にだらしなり、ついつい、愚痴や不満が多くなって、口は動いても身体が動かなくなる。

人は高級霊の感化よりも遙かに、低級霊の感化を受けやすいものなのだ。


補助霊

2006年06月21日

あまりオフ会では話せない、オフ会での話。

幼稚園や小学校での入園・入学時に親が付き添うように、オフ会の参加者も初参加の際には付き添いの霊がいる。……「いわゆる守護霊」ではなく、もっと霊格の高い存在らしい。そして大抵は女性の霊だ。精神統一の指導に経験があるらしく、そのおかげか、初回の参加者は大抵、綺麗に座る。……ある意味、ビギナーズラックと似ている……次回以後も同様に座れるとは限らない。というか、座れない。その為、二度目以降が本当の指導になる。

むろん、私も初参加者には態度が甘い。それでなくても緊張しているだろう初参加者に一度に全部を要求しても無理が生じるだろう。

だからといって、二度目以降に急に厳しくするつもりはない。基本的に私は霊媒としての態度をとる。つまり、霊と人との媒介者……ニュートラルな存在である。だから、自分に厳しい人には厳しく当るが、自分に甘い人にはさほど強く接することはない。

戸を叩くのはあくまでも参加者の努め、そうして出てきた主と客との仲介役が霊媒なのである。……まあ、それだけで済ませるのは主催者として不親切であろうが、いささか不都合な事情がある。

何しろ人間は、思い込みやすく、ガッカリしやすい……五感という五つの穴から外を窺う囚人の様なもので、その心象は実感よりもむしろ、当人の思いこみによって形作られているのである。であるから、着実に歩を進められる人はなかなかいない。走っては息切れし、息切れしては諦めてしまう人が大部分なのである。歩いて行けばたどり着けない道ではないのだが……だから、手を引いてくれる者(霊)が必要となる。

が、心霊知識の不足が生む悲劇……手を引かれる代りに、人が霊の手を引いて歩みたがる。不安と焦りに身を焦がしながら。

……オフ会初参加の時に、知らずに引かれた手を、思い出せる人は幸いだ。

心霊を学ぶというのは、幽《かす》かなものを感じ取ることだから。

……チャンスを生かしてこそ、真に学んだといえる。


妄想に駆られる・随伴霊

2006年06月25日

Q「車を運転中、ふっと妄想にかられ、その理由に悩んでいたが、随伴霊のせいではと気がついた。妄想のあと、どう対処すればよいのか?」

随伴霊に限らず、低級霊が身の回りに多いと、雑念・妄想が湧きやすくなります。また、基本的に感応というのは同波長……すなわち、似たような境涯の者同士に起るものでして、低級霊と感応しやすいのは境涯が低いのが普通です。ですから、感応しやすい…… 低級霊に懸りやすい人は、自身の霊格を上げることが必要と教えます。

ただし、随伴霊の説明に見るとおり、霊格が大きく違っても必然があれば感応することがあります。

・・・・・・・

ところで、「心境」は環境の影響を受けやすいもので、たとえば仕事に打ち込んでいるときには低級霊の感化は受けないが、帰宅して酒を飲めば低級霊の影響を受けやすい……等という事例はざらにあります。

この事例は含蓄に富んでおります。人の視点というのは、何かしらの基準を必要とします。この場合、平常時を基準にして、低級霊の影響時を異常と見なし勝ちですが、仕事に打ち込むというのも、その指導霊の影響下にあるのが普通で、このような人格の変化の幅が大きい人は霊媒的要素が多分にあると考えることが出来ます。…… 進んで高級霊との交渉を望まなければ苦労が絶えぬ事でしょう。

・・・・・・・

さて、質問の「運転中の妄想」ですが、これはつまり、「一人っきりで、リラックスすると同時に適度の緊張がある」ということでありましょう。……単なるリラックスだけでは、妄想していても自覚することが出来ない筈です。

こういう時に生じる妄想については、私にも覚えがあります。こういう状態でブログの更新ネタを仕入れるときもありますので、霊感の働きが活溌になっているのは事実でしょう。

ただし、妄想……その内容が無意味に思えても、否定なさらぬ方が良いかと思います。

人間の視点は基準を求めます。……相対的に物事を受け止めるからです。普段の自分の精神性を基準にして、「妄想」を判断すると、なるほど心配にもなるでしょう。その際、実際に低級霊の感化も受けている筈です。

どんなに高い精神性を備えた人であっても、物質世界に生きている限り、物質的欲求という低レベルの環境に迎合しなければなりません。否応もなく低級霊的な欲求に支配されているのですから、そこにストレスも生じます。…… ストレスが生じればそこに調整が働くのが普通であって、調整作用が何ら存在しなければ、爆発を待っていると考えるべきでしょう。

つまり、質問者は本来、高い精神性に憧れるあまり、低レベルな日常生活に不満を感じているのではありますまいか。そのギャップの調整作用として、普段無視できない相手を、無視できない状況が生じているのだと思います。

Q「徳を積み、随伴霊とともに生活の中で修行をしていくしかないのかなとは思っています」

随伴霊・低級霊と論理的に対決するのは、ありがちな発想ですが無意味です。……誰が望んで低い境涯に留まるのでしょう? 大抵は、「分っているが直せない」と思っているわけで、少なくともそこに論理的な解決策はありません。

すると発想の転換が必要になります。

端的にいえば、質問者の生き方が、先を急ぎすぎているから、見習いであるところの随伴霊から愚痴が出ている……同時に、質問者が本来無視してはいけない問題が潜んでいるから、適度な緊張を伴う時……問題点を自覚しやすい状況下で、妄想が生じているのでしょう。

つまり、徳を積む、修行をする、という本人の意志が、急ぐあまり、危うくなっている暗示であると、私は考えます。

妄想が生じたら……精神的な疲労が溜まっているのです。パッと、気が晴れるような休養の取り方が必要でしょう。


守護霊(ガイド)とのコミュニケーション

2006/06/08

2006年06月08日


Q 「苦境に立った時、自分の守護霊(ガイド)とどのように相談するのがよいのか?」

技巧を凝らさなくても伝わっている

守護霊とその被護者(つまり自分)との位置関係は、船上の監視人と潜水夫との関係に似ています。船上では色々なことを把握しているのですが、潜水夫は自己管理すら難しい有様……様々な注意を受けてもそれを生かすどころか、息をするのもままならぬ状況は決して少なくありません。

つまり、被護者の希望はしっかりと守護霊等に伝わっているもので、むしろ隠し事をする方が難しい(というより不可能)のです。

話が噛み合わない

意図が守護霊に伝わっているのに返事が受け取れない――これを心霊家などは、「波長が合わない」と表現します。……この波長が合わないという表現を、物理学的に解釈しては意味を取り違えます。この場合の表現は、人間同士で用いられるのと同様、つまり、志が違うとか、趣味が違う、受け止め方の次元(レベル)が違うの意味であり、たとえば被護者が「金が欲しい、金がなければ生きていけない」……などと祈ったとしても、守護霊等は『喰うに足りるだけの金はあるはず。贅沢・ワガママのための金は額に汗して稼げ!』といった返事があったり、「意地悪な人がいてとても辛い」と祈っても、『お前が高慢な態度だから敵が多いのだ、反省しろ!』などと叱られたりもいたします。

ようするに守護霊と通信が困難な理由は、交霊の難しさや、祈り方の難しさといった「手段の不備」ではなく、現実認識の差から話が噛み合わないという、「目的意識の違い」が主な理由なのです。

手段を選ぶ効果

手段を選ぶことは副次的な効果をもたらす場合もあります。……守護霊に語りかけるようにして心の中で色々と問題を整理することで解決の糸口が見つかることもあるでしょう。守護霊に手紙を書くようにして文章を纏めることは、問題整理にはなお良い効果が期待できます。

このような時は、霊視・霊聴といった具体的な作用がなくても、守護霊の薫陶というべき染みこむような感化力が働き、出口の見えない迷宮状態から、良い答に導かれることも多いものです。

つまり、守護霊に自分の考えをしっかり伝えようと努力することは、むしろ自分の考えを整理することで、結局は問題解決の近道となり、無駄にはなりません。

苦境時のインスピレーションは役に立たない

ただ、大きな勘違いが見られます。どうも多くの人は、苦境に立ったときには、神仏や守護霊・祖霊が懸命に助けてくれるものだと思い込んでおられますが、穏やかな時でさえ通信できない人が、焦っている時にきちんと通信できるという考えは無理があります。

実際、占い師や霊媒が自分の運命を見抜けなかった……などと揶揄されるのは、自分の危機に際して適切にその予知能力を働かせられないことの証です。そして、プロですら難しいことを不慣れな素人ならばもっと困難でしょう。

確かに火事場の馬鹿力といい、泳げない人が水に落ちて溺れている内に泳げるようになった、等という話も聞きますが、多くの人が火や水で命を落としているのです。焦っている時に潜在能力を発現しても、冷静な対処を望むことは出来ません。

追いつめられないと仕事が出来ないとか、アイデアが出ない、という人も多いものですが、人間がそんなに便利に出来ていれば、うつ病やノイローゼになる人はいないはずです。……このようなことは、精神統一行をしている人には容易に理解できます。ようするに疲れて無駄な考えが出なくなった状態が、ちょうど良い精神統一状態になって霊感が働きやすくなっているだけなのです。しかし、いくら良い精神統一状態に入ってもくたびれていては丹念な仕事が出来ません。

いや、端的にいうなら、苦境に陥ってから相談しようという考え方に大きな間違いがあります。……なぜ、苦境に陥らぬように相談しないのでしょうか?

すでに苦境にはまり込んで仕方なく……としても現にある苦境と、そこから抜け出すための苦労の両方から逃れることは出来ませんし、その苦しみの中にあっても正しい生き方を貫くのはなかなか出来ることではありません。

溺れる者は騙しやすい

まして、溺れる者は藁をも掴むといいますが、騙されやすい状況なのです。そんな時にインスピレーションを期待しても、自分の妄想を霊感と思い込んだり、低級霊や悪霊の誘惑を信じて騙される事が多いもの。……こういう症例は沢山あります。精神統一や霊感が開いて頭がおかしくなった等といわれる人はほとんど皆、自分が困っている時に己の霊感に活路を求め、結局、物事を拗らせると同時に、自信を失って理性を崩壊させているのです。

困っている時に、自分のインスピレーションを信じるのはほぼ間違いなく裏目に出ると考えるべきです。むしろそれを逆手にとって、楽観する時ほど慎重に行動する覚悟の持ち主でないと、守護霊等は助けてくれません。何しろ、ジタバタしている相手を救うのはとても難しいのです。

苦境の脱出法

これは質問にはありませんが、質問の真意を苦境脱出法と解釈して、手掛かり程度に纏めてみます。

そもそも、苦境とは自身の手に余ることを指します。従って、自分一人の力で脱出するという考えは限りなく無理があります。助けを求めるにしても、インスピレーションは苦境の中では信頼に足りません。

また、苦境に陥ってから救いを求めるという考え方が、そもそも強引な生き方を暗示します。つまり、わざわざ平穏な道を外れるから苦境に陥るのでは、ということです。……端的にいえば、「楽をしようとして苦労する」という、本末転倒な行動をとっているのではありませんか。

いずれにせよ、人は因果律から逃れることは出来ません。すると幸せを得るには、苦境の生む苦痛の他に、苦境からはい出る苦労が必要……より辛い道を選ばざるを得ないわけです。

結局、その迷宮の抜け道は、進んで苦労を引き受ける生き方の中にあるでしょう。

再回答

以上を踏まえた上で改めて質問に付き、回答するなら……

守護霊は、被護者が無駄なく幸せになる努力を助けはするが、労無く幸せになる努力は絶対にしてくれません。むしろ、苦労から逃れようとする被護者に苦労を科す義務すらあります。

ですから、守護霊と苦境の脱出法について相談したいのであれば、なによりまず、苦労から逃れず、苦労を積極的に受け入れる努力が必要ということになります。

また、当相談者がそうしているというのではありませんが、言い訳、愚痴やワガママは、相談の邪魔になっても助けになることはありません。


守護霊抄

2006/05/22


1, 天狗霊しか見えない

2006年05月22日

「守護霊」に関して改めて纏めようと思い立ったところ、珍しく我が守護霊が一言あるという。……守護霊が守護霊に関して語るというのだから、私もイタズラ心から耳を傾け、……そして思い出した。

・・・・・・・

師や姉弟子と私とは親子ほど、いや親子以上に歳が違って、話の合わないこと夥しい、といって、他に心霊の話をする相手もなく、こと、心霊に関しては寂しい思いをしてきた。もっとも、後から考えてみると、これも一つの修行であったのだと思う。ただ思いつくままを話すなら、薄っぺらな話しか出来ないからだ。掘下げる癖が身に付いたのはよいことだったと思う。だが、10代、20代の頃はそう簡単に割切ることが出来ず、年齢の近い霊媒を探し歩いた時期があった。といって、せいぜい8人ほどで止めてしまった。

その当時(もう二十年以上も昔)、さんざん言われたことで、当時はずいぶんと不思議に思ったのが、どの霊媒も皆一様に、私に「天狗」がついているというのである。中には私のことをあからさまに「傲慢だからだ」という者もあった。もっとも、盛塩をして、「結界を張ったからこれで霊が入ってこない」というような霊媒であるから、私が内心、見くびっていたのはいい当っているかも知れない。「物や道具に頼るようでは……」と思うのだ。

まあ、私が天狗であるか、はたまた、天狗霊が付いているのかについて、気にするのを止めてしまった。別に大風を吹かせられるわけでなし、夜中に、カラカラ、クルクルと大声を出すわけでもなし、天狗か否かは、そう見た霊媒以外にはあまり関係がなさそうであったから……。

と同時に、偏見を持っていたことも否めない。天狗付きというと、大声を出して暴れる、また、天狗の霊が掛るというと、天照大権現であるとか、大日なんとか尊であるとか、神仏混淆そのままの仰々しい名乗を上げるという話をよくよく聞いているからだ。まあ、裏事情は聴いてはいた。行者などは、仰々しい名のりで、仰々しく登場しないとなかなか耳を貸そうとしないのだそうだ。……だが、当時の私にも、今の私にも仰々しいことには感心がない。

・・・・・・・

私はその頃、自分の守護霊が僧侶の霊であることをすでに知っていた。実は私の霊感が開いた直後、母が心配してとある職業霊媒(すでに故人)に手紙で鑑定を依頼してくれていたのだった。その鑑定結果は私自身の霊感と食い違うところがなかったのと同時に、一面識もないこの霊媒が手紙に表現して見せた守護霊の姿は私と似ていた。

私には不思議であった。むろん、私は守護霊の鑑定を依頼したわけではないが、誰も私の守護霊に関して何も言わず、ただ天狗霊のいることだけを口にする。……その理由について詮索はしない。ただ、このころ訪れた霊媒諸氏とはその後一切付き合いがない。そして、今回、ようやく気がついたことがある。そう、今の今になって始めて。

霊感発現後、未だ慣れずに憑依されやすかった頃の私を、憑依霊から護ってくれていた天狗の霊が居たのだ。……確かにその当時、気が滅入ると天狗で有名な小田原の大雄山に遊びに行っていた。最近ではとんと足が向かなくなったが、いまでも好きな場所の一つである。

天狗霊が見えるという霊査内容に、その大雄山の天狗霊と結びつけて考えないではなかったが、他の霊媒に天狗が見えるのに対して、普段私は全く天狗霊の存在に気が付いていなかったのである。何のことはない。彼らは人を護るのに出しゃばらなかった……恩着せがましくしていなかったのである。

・・・・・・・

二十数年ぶりに気がついた恩だ……なんと言うことだろう。守って貰いながらそれに感謝をしなかったなんて、確かに、恩知らずといわれても仕方がない。

負け惜しみを言うようであるが、なるほど、当時の私は感謝すべき事に気がつかない傲慢さを持っていたが、同時に誰も天狗の加護について言及はしていないのである。……結局、私も含めて、私が訪ねた霊媒達は天狗に偏見を持ち、加護・守護の意味を安易に捉えていたのであろう。

いや、こうも解釈できるだろう。護られているからこそ無事でいるのに、無事であるから護られていることを忘れていたと。……その意味でいうなら、本当に私は傲慢だったと思う。ただ、言訳がましいが、私が好んでいく場所は、ほとんど天狗信仰の場所でもある。秋葉山にしても、大山にしても……

そんなこんなで、来週末は、カメラをぶら下げて大雄山に遊びに行こうと思う。そういえば去年訪れた時には、群馬の霊媒と知合ったっけ……。


2、 守護霊鑑定

2006年05月26日

対人関係には相互作用がある。想えば想われるし、嫌えば嫌われる。

誰もが進んで、「お前などは嫌いだ!!」等といわぬが、好かれるべき態度をとらずにいながら、「あなたのことを好きです!!」といわれて、それを信用することが出来ようか? 守護霊の意志も大切だが、それを信じる為には、まず、あなたの意志がどうなのかが大切だ。

憑依霊や随伴霊はいざ知らず、祖霊や守護霊はあなたの幸せをなにより大切に思っている。……だが「なにより大切」とは、一体何と比べて大切だというのか、それが問題だ。

もしもあなたが誠実で、守護霊の立場と人としての義務を理解し、守護霊の意図を汲んで努力できる人であれば、守護霊も誠実に応対してくれるだろう。つまり、為さねばならぬ事をしっかりと説明し、理解と同意を得た上で困苦に立ち向かわせるのである。

だが、その被護者が守護霊の意図を理解できず、為すべき事を見つけられず、為すこともなければ、守護霊は非常手段を用いざるを得ない。

つまり、その被護者の好まざる事を強要するのである。

自分の好まざる事を強いられてもなお、相手に好意を持てるであろうか? まして、自分が敬慕する相手が自分を苦しめていると知って、敬慕が憎悪に転じないか? しかし、事情によっては、守護霊が、その被護者の好まざる事を強要せざるをえないのだ。だから、守護霊は自ら名乗り出ることを嫌う。表面に出ることを嫌うのである。……もしも被護者の信頼を得られぬのであれば、裏方に徹する方が確実に職務を全うできるから。

もしもあなたが、自らの守護霊を誠実に信じ、一見、困苦に見える今の道程が、自分が望み得る最大の幸福に連なっているものと信じ、極力愚痴は少なく、極力努力して前進できるのであれば、何よりだ。

急な上り坂は頂上への近道……過程に苦しんでも結果によって報われるであろうから。

そんなあなたの守護霊は、手段の許す限り、包み隠さず、一切をあなたに打ち明け、あなたの協力を求め、あなたの意に沿わぬ人生にならぬように懸命に働いてくれるであろう。

だが、あなたが自分の義務に気がつかず、為すべき事を否定しているなら、守護霊が困苦を無理強いするか、良き未来を得られぬか、悪しき未来に陥るであろう。

楽だからといって坂を下れば、頂上にはたどり着けないのだから。……過程が楽で、楽しめたとしても結果によって精算されてしまうのだ。

それはつまり、義務感が全ての、忍耐を要求される汚れ仕事なのである。…… これでは名乗りたがるはずがない。

名乗りたがるはずがないのに、敢えて守護霊が誰かと問いかければ、一体誰が名乗り出るであろうか。――推して知るべしである。

・・・・・・

「だが、守護霊鑑定を売り物にする職業霊媒がいるではないか?」

たしかに。だが、その霊媒と、当方との守護霊の定義を確認してみて欲しい。違いがあることに気がつくはずだ。

守護霊鑑定などでいう守護霊は、大抵が人を守り導く霊魂一般を指し、理論的心霊研究家がいうところの守護霊は、一個人の管理運営権を委ねられた一個の役職を指している。


守護霊とのコミュニケーション

2006年07月07日

Q 「この世が修行の場であるならば、なぜ指導霊や守護霊が、直接指導してくるのでしょうか? その必要性がわかりません。声がきこえたり、ビジョンが見えたりするということは、あまりにも過保護な行き過ぎた導きで、本人のためにはならないのではないでしょうか?」

過保護であるか、どうかは、その指導の内容によって判断されるべきです。また、守護霊の指導の目的は、必ずしもその被護者の向上にはありません。指導霊の場合は特にそうです。彼らもまた、自らの向上のために努力しているのです。

Q 「また、ある程度波動の高い指導霊たちから、直接指導されるということは、その人自身の波動もそれに合ったものではなくてはならないし、またそうであるならば、よけい、霊能力は必要ないような気がするのです。」

いわゆる「同波動の法則」……つまり、霊媒がコミュニケーション出来るのは、似たような霊格の相手だけである、というのは、決して嘘ではありませんが、一面の真理でしかありません。この法則はむしろ、「友人とは同じような霊格の相手」と解釈すべきです。たとえば、大学教授は小学生向けに専門的な話をかみ砕くことも出来るでしょうが、小学生が大学教授とその専門分野で同等の議論が出来ることはないでしょう。

つまり、上級の者が下層に降りてくるのは可能だが、下層の者が上層を訪ねるのは無理があるのです。従って、波動の高い指導霊から指導を受けることは不可能ではありません。ただ、その障害になっているのは霊能力の有無ではないのです。

そもそも、人が肉体を纏った霊魂であることを前提に考えてみてください。……霊魂が他の霊魂とコミュニケーション出来るからこそ、死後の世界が成立します。つまり、誰もが霊能力を持っているのです。ですから世間一般で「霊能力がない」というのは、自身の霊魂の感覚と、肉体意識・表面意識との間の連絡のない人を指します。つまり、霊感が表面意識に登ることを霊能力と呼び、表面意識に登らないのを霊感がない、と表現しているのです。

Q 「霊能力は、それを使って、他の人を助ける使命がある人のみ、指導霊によって与えられるのでしょうか? それとも、人間にはだれしも、多かれ、少なかれ、低級霊がついていて、それによって霊能力が発揮されるのでしょうか?」

霊能者になる、ならぬの違いについていえば、使命というのはちょっと違う気がいたします。職業適性というのは当人の使命感よりもむしろ、肉体的・感覚的な才能が重要な位置を占めます。極端な話、いくら使命感が強くても霊的感覚が鈍い人では霊能者として大成しないでしょう。ただ、才能が同じレベルであれば、使命感の強い人の方が良い結果を得られるだろう事は容易に想像が付きます。

また、霊能力の発現条件について、私は良く、電話を引合いに出して説明します。

  1. 電話機を持っていても、故障していたり、未契約・料金滞納などで使用できない場合があります。(肉体的要因)
  2. 電話が通じても、周囲がうるさければ聞取ることが出来ません。(霊環境的要因)
  3. 何より、話す相手がいなければ、電話が役に立ちません。(因縁的要因)

つまり、霊感を得る、得ないは、必ずしも霊能力の有無が問題ではなく、様々な要因が存在し得るのです。


守護霊とのコミュニケーション 2’

2006年08月16日

感謝の意を伝える’

たとえば……

「部下が指示に従わずに困ります。どうしたらいいでしょう?」

という相談があったとする。相談者は当然、部下の非を問題にしているが、事実は(すくなくとも第三者的な視点では)、上司(相談者)の指示の出し方に問題があるかのかも知れない。または、双方に問題があるという可能性もある。

または、

「上司が私の報告や意見をまったく相手にしてくれません。」という相談ではどうか? 上司の人間性に問題があるのか、相談者の報告方法に問題があるのか……

いずれにせよ、当事者にとっては重大な問題には違いないが、こういう問題を社内で解決できないとしたら、かなり寂しい会社ではある。

・・・・・・・

反対に、まずは滅多に来ない相談ではあるが、「部下がよく仕事をしてくれます。」または「面倒見の良い上司でとても助かっています」……「どうお礼をすれば良いでしょうか?」という相談は(事例有り)、会社が上手くいっていることを想像させる。

 

世には道理がある

『どう祈れば守護霊に願いを聞き入れて貰えますか?』……という質問・相談は多いが、いつも回答に苦慮する。誰もが平和を祈っているはずなのに戦争は無くならないし、病気を好む人は滅多にいないだろうに大きな病院はいつも混雑している。そして親・子・伴侶と死に別れて泣き叫ぶ人々。こういう現実を見聞きしてもなお、守護霊に祈って願いを叶えようと思うのだろうか?

全てが叶わないとはいわないが、全てが叶うわけでもない。……第一、守護霊が願いを理解していても、無い袖は振れない。無理難題を神頼み、守護霊頼みというのも良識が欠けているし、イヤイヤ良識の範囲内です、というのであれば、祈らず自分でやるのが本当であろう。

物事には限度があり、世の中には道理がある。……果たして良識に欠けることがないかと思える相談者が多いのである。良識に欠ける人とどうまともにコミュニケーションせよというのか、それこそがつまり回答の難しさとなる。

いや、身もフタもないが、当人の守護霊が相手にしない人を、何で霊媒が相手にせねばならぬのだろう?

 

感謝の意

反対に……

『守護霊や祖霊に、感謝の意を表わすのにはどうしたらいいか?』という相談がある。

……私は感謝の意を表わす必要はないと思う。

思わず感謝したくなるような幸運に恵まれたのであろう。つまりそれは、相談者の日常の心掛け、または、日々の祈りが、守護霊・祖霊に通じているということの証である。

ならば敢えてさらに感謝の意を表わす必要など無いではないか。通じているのが結果から明らかなのに、何を迷う必要があろう。まして、受けた恩に対してあまり謝礼が大きすぎると、相手に負担を掛けることもある。だから、嬉しければ嬉しいといっていればよいのである。

思えば想われる――好かれれば相手が可愛く思える。こういう自然な交流に敢えて不自然な努力を持ち込む必要は無いと思う。

ちょっとだけ裏技

真心だけ、といいながら裏技を書くのもどうかと思うが、まあ、その程度の裏技でもある。

心霊を学んでいる人には、常日頃、「感謝! 感謝!」を口癖にしている人がいる。 ……まあ、それも手であるが、そういう人に、意地悪な背後霊から釘を刺されることもある。

『感謝も結構だが、同じ過ちを繰り返すな。尻ぬぐいにばかり背後霊を働かせて!』

特別な幸運はない

守護霊は、陰陽師の式神でも、魔女の使い魔でもない。願いを聞かせるのに必要なのは誠意であって、手練手管はかえって害になる。まして自分は相手(守護霊)の意志を汲もうともせずに、自分の意志だけを押し通そうとするのでは本末転倒である。人生において果たすべき義務を完全に把握しているのは守護霊であって、人間ではない。にも関わらず、守護霊を指導しようとするなどというのは、身勝手な部下と同じ発想である。会社は利益を上げらないであろう。

そもそも、人は幸せになるために生れてくるのである。……つまり、当初の計画は最善であるのに、計画の順守に無頓着な人間が、目先の利益に騙されて結局は遠回りし、または行き止まりにぶつかって、計画を台無しにしているのが不幸と呼ばれることなのである。

一方、心霊を学び、瞑想・精神統一を心掛け、日々の生活に感謝して生きている人ならば、守護霊は容易に果たすべき義務を果たして、さらに余録も生じよう。当初の計画に従って、無理なく楽しく生きられ、たまには余録に預るのであれば、なるほど感謝したくもなるだろうが、その歓びは何も、守護霊や祖先の霊がどこかからかき集めたものではなく、ただ単に、上手くいっている、その結果でしかないのだ。

当たり前なこと

人は幸せになるために生まれてきた。だから、無理せず、他を羨まず、物事になるべく拘らずに生きていれば、分相応で、最善の人生を歩めるのである。

分不相応を求めるなら……そんな方法は私は知らないし、知りたいとも思えない。なにしろ、過剰広告に騙されたという話は良く聞くが、本当に上手い思いをしたいという確かな話は一つも聞いたことがない。

なにより、私は今感じ取れる霊達の雰囲気が好きであるし、居心地がよい。 それはつまり、今の境涯が私に相応しいということでもある。上は暑苦しく、下は寒いだろうに、ジタバタしても幸せではない。


日々努めるべき事

2006年08月17日

発端は、一通のメールに遡る。

Q「普段お守りしてくださる背後さんたちに、感謝の気持ちを表す方法として有効な手立てはありますか?

悪口をいわないとか

整理整頓とか

身近ですぐ実践できることがあればお教え願いたいのですが、よろしくお願いいたします。」

……当初は、『特別な事は不用である』と返事したのは、「守護霊とのコミュニケーション 2」にあるとおり。今回は、その訂正ではなく、より発展的な回答と見なして欲しい。

・・・・・・・

たとえば、あなたが道ばたの小石を蹴って動かしたとします。あなたはそのまま先に進み、その石を蹴ったことさえ気がついていないかも知れません。

その後、通りかかった人がその小石で足を躓いて転ぶかも知れない。……いや反対に、その小石が動かなかったら、誰かが躓いて転んだかも知れない。

前者の例では、あなたは意図せずに人を傷つけ、後者の例では、あなたは意図せずに人を助けて、いずれにしてもその結果を知ることは無いでしょう。

むろんこれは単なる比喩で、事実はさらに単純で力業で済ますこともありますし、さらに非力で遙かに複雑な仕組を用いることもあります。そして、霊達が地上に作用するというのは、ほとんどの場合、こういう回りくどい操作の積み重ねなのです。

私たちはすべてのものを利用し、決して浪費をいたしません。それは私たちが非力なのではなく、無駄なく行うことが正しく、そして、遠くない将来において、無駄のないことがなにより大切になるからなのです。

それはともかく、あなたの意図せぬ行為が、あなたの気がつかぬところで大きな役に立つこともあれば、大いに害になることもあります。そして私たちが大切に育てているのは、意図せず有益な行いをする人であり、私たちが少しでも減らしたいのは、意図せずに有害な行いをする人であります。

一体どう生きれば、「意図せぬ行為が有益になるのか?」と、想われるかも知れませんが、それこそが霊性の向上であり、霊性の修行なのです。その具体的な手段は……

[#霊媒注: この部分は言葉にすると、単に「精神統一」でしかないが、独り善がりでは意味がない。]

その努力が、正しいものかどうかは、日常生活の中で明らかになります。

あなたが正しく霊性を働かせているなら、あなたと共に行動する人は、行動の中で運の良さを感じるでしょう。反対に、あなたの霊性が適切に働かずにいるなら、あなたは行動の中で運の悪さを感じるでしょう。

要約すれば、私どもの望んでいることは、あなたが、運の良くなる人になることであり、私どもが望んでいないのは、あなたが運の悪い人になることなのです。

……それは、無意識下のあなたが善良に生きるということであり、無意識下のあなたが悪を拒むということでもあります。

意識的に善良に生きるということは、まったく義務というべき事であって、そうして当たり前、努力して善良に生きたところで、誰一人褒めるものは神界にいない……子供を褒めてその気にさせようという指導霊はいても……ですから、心霊学の大切さに目覚めた方なら、どうぞ無意識下の善良さを大切になさってください。


告発する守護霊

2006年07月17日

インスピレーションというのは、やはり霊感なのだ……と、しみじみと感じるのは、長年の疑問がフッと解けた瞬間だ。むろん、ただ単に解けたのではなく、地上での出会いが切っ掛けとなって解けた場合である。

あまりはっきり表現すると、語弊もあるのだが、たとえば、ある欠点を持つ人に日常生活で辟易とした思いをする。……『まったくこういう人には困る!』と日々、思うのだが、それをネタにブログを書こうにも「こういう人」とはどういう人であるのかを文章で表現するのに詰る事が往々にしてある。

ところが、「こういう人」から困った相談を持ち込まれると、詰まりが一度に氷解する。……先方の守護霊、つまり、「こういう人」を何とかしようと日々努力している霊が、文章表現を助けてくれるのである。

実はこれ、とんでもなく皮肉な話である。……本来なら、守護霊とその庇護者は一心同体・共通の利害を持っているはずである。だが、庇護者の欠点を第三者的視点で、第三者である霊媒と論じているのだから。

……それは大変なことであるが、どのように大変なことであるのかは、ここでは論じない。ただ、変な妄想を避けるためにこれだけは明言できる。それは守護霊の職務放棄ではない。

地上の法では犯罪者を肉親が匿っても罪には問われないが、霊界において、守護霊がその庇護者の罪を匿えば、罪を犯した庇護者以上の罪なのである。


「いつも一緒にいます」

2005/04/18

「いつも一緒にいます」

2005年 04月 18日


 横浜オフ会(4月9日)の霊査事例中に「いつも一緒にいます」――という霊信がありまして、その受取人より、「これは守護霊からのメッセージと受取って良いか」、との問い合せがありました。

 端的に答えれば、守護霊からのメッセージと受取って良いのですが、もう少し深みをもって読んで欲しいとの霊信を受けました。

・・・・・・・・

『守護霊であるなら、いつも付添うのは当然の義務です。実際には、守護霊にも様々な仕事があり、出掛けなければならないことも多いものですが、それはたいした 問題ではありません。そもそも、人が死して一番に戸惑うのは、死後の世界の何とも便利なことです。どこかを訪ねるにせよ、一瞬でたどり着けるのですから、 一時、傍を離れるなどというのは、単に視線を外す程度の意味合いでしかありません。……そうそう、夫婦が死後に別居するなども同様です。生きている時に四 六時中視線を合わせている夫婦があるでしょうか? 生前に視線を外すことと、死後の世界で別居することはほぼ同じ事なのです。

 もちろん、守護霊の職責にあろうとも、庇護者を四六時中見つめ続けていることは出来ません。なにより大切なのは、庇護者が決して躓かぬように、先々に気を配ることなのですから、見つめ続けては役割が果せません。

 ここで私が、「いつも一緒にいます」と表現したのは、もっと深い意味があります。守護霊と庇護者とが、死と生という二つの境涯でバラバラな生活を続けるのではなく、「私(守護霊)は、常にあなたに語りかけているよ、共に息と歩調を合わせて、一緒に前に進めるように、努力しているよ」 と伝えたかったのです。

 同じ目的を持っていながら、それぞれがバラバラに努力するのは、大きな間違いなのです。いくら守護霊や祖霊の助けを得て生きていても、あなたが孤独感に苛まされているなら、守護霊がいないのとどう代りがあるでしょう!

  すぐ傍に、守護の霊や、祖先の霊がいて、何とかこの子を助け、導こうとしているのに、それに気がついて貰えないのは寂しいことですし、私どもが傍で見守っ ているのにも関わらず、その子が、他を妬み、恨み、憎み、不平不満の中で心を穢していくのを見るのは、とても、とても情けないことなのです。

 どんなに素晴らしい信仰を持ち、どんなに素晴らしい指導者を得ても、あなたの心が清く正しい方向に向かわなければ、それは躓きの元となって、あなたの助けにはなりません。――でも、今のあなたはもうすぐ私の手に届かんとしております。

 あなたには私がついております。手を携えて、正しき道を、胸を張って歩みましょう。共に……』

・・・・・・・・

 眼に見えるものを風景と思うか、問題解決の糸口と見るかで、人生は大きく変わってきます。

 守護霊がいつも傍にいる。――それも大切なことかも知れません。でも、なんのために一緒にいるのか、それはもっと大切なことです。知って終わるのではなく、知ることが始まりなのです。

 すべては始まりの始まりなのだ――そういう視点が得られてこそ、永遠の大道を歩むことが出来るのです。


再・「いつも一緒にいます」

2005年 04月 26日

 オフ会参加者への霊査で、「いつも一緒にいます」という霊査を受け、その解説はすでにしました。 今回改めて取り上げるのは、いささかつっけんどんな返答となった、”『どうでもいいじゃないか』という答”の別視点です。――つまり、異なる相手に向けた回答であると同時に、普遍的な問題でもあります。


「私たちは、いつもそばにいます。あなたを励まし、癒し、そして時には諫めて、あなたが良き人生を歩めるように常に働きかけております。でも、あなたは、常に孤独を感じ、苦悩し、そして庇護者の手応えを求めて、つい、危うい行動に走ってしまいます。

 あなたが心静かに、そしてひたすら私たちを思っていても、なかなか絆を感じることが出来ないというのに、心すさみ、忍耐を失い、素直さを忘れて自暴自棄になっていては、どうして私たちとの絆を感じ取ることが出来ましょうか?

私たちの手を握れないのは、あなたが反対を向いているからです。

あなたが何よりも助けを欲している時は、何より助けを与えにくい時なのです。

 助けを求める――その後もまたあなたの人生なのです。助けを求めたからといって努力を放り投げて、辛いのはあなたなのです。』


 この一連のやりとりは、「愛」についてが引き金となったものです。

自分を大切にする心と、人を大切にする心とが、きちんと対照していることです。その対照に歪みがあれば、何らかの欲念、正しくない想念の働きがあなたの判断に作用していることが窺われます。

他を愛することは、他から愛されることと対照していなければなりません。つまり、正しく相手を愛することは、正しく相手から愛されるということなのです。 (注:片思いは反例になりません。特別な関係、という独占欲の働きは、相手から反発を受ける要因だからです)……それがつまり、滅私の意義です。守護霊・高級祖霊もまた、あなたを愛しますが、あなたの心の働きが鈍ければ、そこに対照、すなわち相互に好影響を及ぼすことが出来ず、守護霊・高級祖霊はあなたのために充分な働きが出来なくなってしまいます。――絆が大切な所以です。

 これは、滅私の姿勢にも当てはまることです。あなたが懸命に滅私しても、周囲の人々がそれを利用して喜ぶだけであれば、あなたの「滅私」には歪みがあるということです。あなたが「滅私」の奉仕を得られなければ、つまりあなたの滅私は幼稚であるか、まがい物であると考えなければなりません。

 より深い愛を日々育てる努力、その努力も又、愛という言葉の中に含まれているということです。

 あなたが愛を受け、また、滅私の奉仕を受けられるようになるまで、あなたが愛を与え、滅私の奉仕を続けること、それが、あなたが愛の意味を知るという過程なのです。

 あなたが、日々を素直に生き、素直な愛を育てられますように祈念いたします。

 素直――という事が、愛を語る上でどれだけ重要な役割を果たしているか、あなたは心の痛みと共に理解を始めていらっしゃることでしょう。ですがその痛みを責めとは思わぬ事です。本来ならば棄てておくべき執着心を、今、手放す。いわば昔の過ちが育てた痛みなのです。今まで自覚せずに苦悩を抱え込んでいたのです。そろそろ棄てても良い頃です。


10月15日(オンライン)

2003/10/15

10月15日(オンライン)


 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 どうも最近、守護霊に関する変な……海の魚が空を飛んでいるような……質問を多く受けます。私は何も他所で心霊を学んだ人を拒絶しようとは思いませんが、私がいってもいない事、しかもへんてこな質問をされるのははっきりいって不愉快です。

 守護霊はむろん、皆様の幸福のために、一生懸命働いているというのは、私も同意する所なのです。しかし、幸福とは何か、ここに私とそうでない方との間に大きな差異が生じてきます。

 一口に、あの世この世と区別しますが、顕幽は相対ではありません。肉体に縛られているのがこの世、その制約がないのがあの世なのです。生きている人と、死んだ人と果たしてどちらが幸せか……この違いは、いわば海に潜って貝を集める海女の仕事に似ています。海に潜るのは身体も冷えるし危険な仕事でもあります。でも危険を冒して深く潜ればこそ、海の幸を集められるのです。

 海女は、海に潜りたいから潜るのではなく、海の幸を集めたいから海に潜るのです。潜らなくても収穫があるのなら、どうして海女は海に潜るというのでしょうか。

 人生も同様です。いくら長生きした所で、何の収穫もなければ、空手の海女です。それならいっそ潜らない方がお腹が空かない、身体が濡れない・冷えない。結構な事です。つまり楽に生きるというのは、矛盾しているのです。それこそ肉体に感化されて、物質的な豊かさを追い掛けたり安穏な生活を送りたがるのと同様です。私たちはもう人生に慣れて、この人生が水底であることを忘れています。でも、水底にいる事だけでなく、収穫する事を忘れてしまっているのが人間なのです。

 私が申し上げたいのは守護霊とは、せっかく海に潜った海女を手ぶらで陸にあげるような真似はしないという事です。ところがどうも趣味で素潜りしているような質問者が最近増えています。つまり収穫はいらないから楽に潜りたいというのです。こういう事は心霊思想を前提に考えると、そもそも潜らなければもっと楽ではないかと思えます。

 苦労というのは、それに見合った報酬がないから苦しく思えるのです。報酬が多ければ苦にならぬのが苦労の面白い所なのに、なんだか、楽する方法、いわば、苦労をうやむやにする事ばかりがもてはやされている昨今。わざわざ苦労しろとはいいませんが、避けられぬ苦労を後回しにして、年老いてからそのツケを払わされてはとても辛い事でしょう。

 肉体の感化で魂の痛みに鈍感になっているとしても、本来、肉体を持つ事はとても苦しいのです。たとえば、動物愛護の精神に富んだ人が、牛や豚や魚たちを食べて暮らしている……可哀想な動物と食べられる動物ではどこが違うのでしょう? 私たちはなるべく食べる事に罪の意識を持たぬようにしてはいますが、本来魂は、こういった罪の意識に苛まれているのが普通です。だからこそ、霊性の顕現を迎えた人が菜食に拘りもするのです。そうやって日々、魂の痛みを生み出しつつ生きているのが人生なのです。だからこそ、痛みから逃れるよりも、その痛みに見合う、またはそれ以上の収穫をもって私たちは霊界に帰りたいものです。

変な質問

 整理します。私が変だというのは、

 人生の苦労を減らす手段を求める事……「会社に行って仕事しないで給料もらえない」に似ています。

 私が心霊主義を通じて学んだ事は、人生の苦労に見合うか、それ以上の収穫を求める事……「会社でちゃんと働いてたくさん給料を貰う」という事です。

 むろん、余暇は大切だと思います。ならば、会社を休んで存分に余暇を楽しめばいい。給料もらえずに毎日会社に行くよりも、五日みっちり働いて、二日みっちり遊ぶ方がよほど充実していると思うのです。つまり「楽したい」という気持ちは同じでも、使命を無いがしろにするか、しないかでその結果は大きく異なると私は思います。

霊査事例1

 とても素直な祈り声が聞こえます。そして周りに6人ほどの霊が佇《たたず》んで、その祈りに耳を傾けています。

 単に、霊査を待つばかりではなく、あなたなりにいろいろと試行錯誤をしている事はとても良い事です。なぜなら、心霊主義とは、救いを待つのでも、救いを求めていくのでもなく、より多くの霊たちと調和を持ち、助け合って前に進む事だからです。調和の中において、自主性は一時的には混乱の元ではありますが、自主性を忘れた調和は一部の努力家に、他の多くがぶら下がるだけになりがちなのです。

 ただし、あなたは生まれつき、他から頼られがちな人です。自分が無償で与えられるのはどこまでであるか、無理をしない為にも、その限界を時々見直しましょう。

 また、良ければ一度、教会なども尋ねてみてください。静かな一時を楽しむ事もあなたにとって良い事です。

霊査事例2

 「感謝する事が大切です」と説教されても、感謝の気持ちなどわき上がりません。

 対抗心をあおられたって、憎む気持ちも湧いてきません。

 自然な暮らしの中で、「ああ、当たり前な生活だって、守られているから当たり前なんだよな……」と思えたら、それが先祖供養の第一歩です。人より多くのお祖父様を持つあなたは先祖の守りの堅い方ですよ。

霊査事例3

 熱心に精神統一している姿が見えます。そこそこに深いのだけど、どううまく繋がっていないのです。不思議に思ってしばらく観察してみますと、周りに幾人もの霊が取り巻いて、ただ見ているのです。あなたには準備が出来ているのに、誰も手を出そうとしない。せっかく、ボールを遠くに投げても誰も受けてくれないから、つまらぬキャッチボールにしかなりません。

 これはどうも、あなたの信仰心、帰依心に問題があるようです。内心で守護霊に絶望してはいませんか? キャッチボールというのは、投げる時は相手の胸に目掛けて投げるのです。ですが、相手の球は必ずしもあなたの胸元に目掛けてくるとは限りません。しかもそれは相方が下手だとは限りません。風が吹くかも知れないし、通行人に当たらぬように相手が工夫をしたのかも知れないのです。

 ボールを受け取れないからといって、不平で口をとがらせる前に、もっと身体全体を左右に動かして、とにかく一球でもボールを拾う事です。そして二球三球と拾えるようになると、信頼感が増してきます。

……念のために申し上げますが、あなたはボールを受けるのが下手だとおもいます。そもそも、人は、失敗からも学べるし、他人の成功・失敗からも学べます。ところがあなたは成功しないと、経験値が増えないかのような錯覚をしています。無事ほどの幸せはないのですよ。

霊査事例4

 小さな幸せと、大きな幸せと、あなたの思い描くのはとても極端で間がありません。小さな方は誰が助けなくても手にはいるが、大きい方は誰が助けても手に入りません。そしてあなたの願いに中間はないから、助けようとする者がいても何も出来ずにいます。

 これもまた、理想が高い上に、自分に厳しいあなたの人生上の傾向です。少しずつ良い方に……それを望画してみませんか。

霊査事例5

 安逸な人生は決して幸せな人生ではありません。それは無価値な人生なのです。

霊査事例6

 何か新しい趣味をはじめたのでしょうか。ちょっと気配が遠のいていますが、いつものあなたの背後さんの声で、「ちゃんと元気にしていますよ」と聞こえました。

 これはあなただけに降りた霊査というわけではないのですが……

 人間、この世に生まれくるには、それなりの気力の後押しが必要です。子供が生まれる、子供として生まれるというのは簡単な仕事ではないのです。

 たとえば災難続きで神も仏もないように見える家であっても、子供を産み出すというのはそれなりに、気力霊力を持った家であるという事です。その気力が失せればそもそも子供なんて生まれてきません。いや配偶者すら迎えぬ事でしょう。

 では、神仏の加護が見えがたい家とは何かというと、要するにその気力霊力を生活の活気に結びつけるのが下手な人々であるという事なのです。

 さて、私の霊媒としての体験で、統一も必要の無いぐらいポンポンと返事が口からこぼれる場合もあれば、反対に頭を絞りに絞っても返事がわき上がらない場合もあるのですが、この差をたとえると、水源のダムに水が満々とあるのに、用水路が詰っていて下流に流れぬ場合と、そもそも水源のダムに水がないから下流に流れぬ場合があるの違いなのです。

 私も請われれば、コップに水を二杯三杯、誰にでも振る舞う気概はあるのですが、「なんだこれっぽっち、使えない奴だな」といわれる有様。ですが、さすがに田んぼを潤すほどの水は、それぞれの上流のダム(すなわち当人の前世と祖先の功徳)に水源が無ければどうにもならない事なのです。(有料相談なら考えるけどね。)

 と、これまたあなたにはくどい話かも知れませんが、あなたが過去に不幸を引きずっているのは、別段あなたの祖先が弱いからでも悪いからでもありません。ただ、あなたの近親者が、祖先の功徳を上手に使いこなせなかっただけです。

 今のあなたは、無理をしないし、高望みはしない。だから、もうちょっとわがままに生きても大丈夫なようですよ。


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