「霊感かと思っていたが、違ったようだ。」と、古い友人からメールがきた。
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人生は概ね、儘《まま》ならないものだ。霊感があろうとなかろうと、その点に大きな差異はない。
例えば飲食店が百軒並んでいたとして、霊感があれば、その中の美味しい店を見いだせるかもしれない。もしくは、まずくない店を避けられるかもしれない。
だが、どんなに優れた霊感を持っていようと、無い袖は振れない。店が一軒もない場所で、飲食店を見つけられるはずもない・・・。
モノには限界があるし、無理を強いればどこかで破綻する。
あなたは、無理を強いて、我が身を害していないか? ・・・これは例えば、神仏に祈ることも含まれる。・・・天に唾する・・・無理な祈りを重ねて、神仏を従わせようとしてもうまく行かない、というより、それで精神を病んだ人を何人か知っている。
(ほら、あなたと一緒に一泊オフ会に参加した人も、その一人ですよ。)
そもそも、祈って『応《おう》!』という返事がなければ、それはつまり「その祈りが正解」ではない、べつな答を探せ、という無言の返答と思うなら大過は無かったはずだ。
ねだって上手くいけばめっけ物・・・いや、相手が許す以上を求めるなら、それは盗もうとするに均しい。しつこいのは罪と知るべきだ。それに気づかないから、我が身を害しても許されない。
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霊感といえば、超常現象などに例えられるが、単にそのルールが知られていないだけであって、常識をすべて超越しているわけではない。
その証拠に・・・。 (は、最後の方に)
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統計を取っているわけでもないので、つまりは経験的に思うのだが、霊感は伝染する。といっても、細菌やらウイルスやらが霊感の原因だというのではない。
おそらく、己の直感を口にする・・・他者にいうことに抵抗が無くなって行くのだろう。
だが、抵抗を減らす、または、ブレーキを外す・・・今まで動かなかったものが急に動き出せば、そこに衝突の機会も生じることになる。
動くものを制御できなければ危険が生じる。それゆえ、制御できないものを動かすのは無責任である。
それゆえ、霊感を得た者が、まず真っ先に行うべきなのは制御、端的にいえば、「いかにそれを止めるか」ということになるのだが、人が動かしているのを見てきた人は、動かすことの危険を思うより、動かすことの便利さを思う。事故を起こすまで、なかなか危険性が腑に落ちないようだ。・・・抵抗がない事には同時に長短がある。
むろん、霊感の発現、すなわち動き出すのは、当事者の意思とは無関係で、予想外のことであろうから、当面の危機管理も容易ではない。概ね、失敗を繰り返して学ぶしかあるまい。
だからこそ、 「失敗したのは霊感が悪い」と思うのは、それこそ、己を使いこなすことの出来ない者の考え方だ。失敗は辛いが、それを財産とせずにはいられまい。・・・なにしろ、人は死を免れることが出来ないのだから。なんとなれば、死後に霊感を使わずにいられようか? 引きこもって誰とも合わずに過ごすのか? または、断ってもつきまとい続ける霊たちにしがみつかれて過ごすのか?
他の成功ばかりを真似するから、他の失敗の跡を追うことになる。成功を学ぶには、同時に、相手の失敗からも学ばなくてはなるまい。
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さらに悲劇的なのは、失敗して始めて「霊感を自覚した」という場合で、逃げ出す前より事態が悪くなり、逃げ切れなくなってとうとう、「その霊感が(思うものと)違うものだ」と気づく場合だ。
その霊感(・・・なるもの)は一種の現実逃避であり、現実逃避は、本能的な選択であって、そこに理性を期待するのは間違っている。それゆえ、いくら尊敬する相手から「その霊感を信じてはいけない。その内容は絶対に変だ。」と注意されても信じようとしない。説得するのもまず無理であろうし、そもそも、その話題を口にするだけで相手に苦痛を与えることだろう。・・・真実はなによりひどく人を傷つけるのである。
事故を起こしたがゆえに、動かすことを恐れてしまうのは仕方のない。だが、動かすことにはかけがえの無い利便性もあるし、そもそも人が霊としての一面(死後の個性存続)があるとするなら、霊感を使うことには必然性もある。
・・・交通事故の多くは、運転する人の側にあるのと同様だ。まあ、多少は車の機械的な原因もあり得るが・・・それを人間に喩えるなら、霊感と思っていたが実は精神病であった、という場合もあろう。
果たしてそれは霊感か、それとも精神病の結果か。・・・それはどちらに主体があるかを思えば、悩む話でもない。
ヒラメキがあるから問題が打開できる。自分で考える上での手段としてヒラメキを使うなら、それは必ず人生の力になる。 だが、ヒラメキに流されていては落ち着きがあるまい。・・・または・・・霊感を超常現象と信じる人は、大切なことを見落としているかもしれない。
そもそも、事態を解決するのは行動である。行動なく解決すると信じるのは妄想であろう。・・・手を出さずに口だけを出すようになったら、それは無駄に加齢したか、きっと気付かぬうちに身体を病んでいるのだろう。
あなたは、あなたが迷惑と嫌っていたあの人に、近づいているのである。
問題は霊感にあるのではなく、霊感の使い方にある。別な言い方をするなら、知識の不足が不幸の原因である。ならば、知らずにはさらに苦しむ。・・・心の眼を塞いではさらに苦しむ。
眼を開ければこそ、汚いものも見えるのだけれど、汚いものを見ればこそ、それを避けることも出来る。
あの時、霊感と信じていたものが、果たして真に霊感であったか、それとも、ただの妄想、または病的な妄想であるか。・・・それが果たして問題であろうか?
その能力が正しくても、つながった相手が嘘付きならば、騙されずにはいられないのだから。
さらにいえば、言葉の真偽を思わずに騙された、としたなら、あなたを騙した本当の相手はだれか?
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確かに、騙されたなら、嘘をついた者が悪い。・・・だが、嘘付きがなくならない世の中で、嘘を避けて生きることが出来るだろうか?
「◯◯の霊」と名乗る相手や、神や仏を名乗る霊を尊ぶのは、果たしていかなる心の現れか。 たとえば、子供の戯言や、酔っぱらいの世迷言にも時には真実は潜んでいるだろうし、学識者や宗教家のいうことにだって、時には嘘や間違いがあるかもしれない。・・・肩書きを信じて、その内容を検証しないのは誰の非で、誰の損か?
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そもそも、人が死んで皆・正直になると思う人はいなかろうが、死んでこの世に未練を残すのはどういう人か、想像してもらいたい。 ・・・遣り残す事のある人。であろう。ではその、遣り残しとはなにか? 事件・事故の結果という強烈なものもあるだろうが、霊感の強い人が振り回されるのは概ね、考えるばかりで行動しない人、生前は(肉体的)行動力を持たずに、ただ精神的な行動ばかりを行った人と思うと、霊感の自覚のある人の、腑に落ちるはずだ。
または、頼まれもしない人宛にいろいろメッセージを送ってくるのは、概ね、こういう霊である。大げさな話なので、見分けるのは比較的簡単だ。
グズグズいわずに行動しろよ! という、生活態度の人なら、端から相手にしない筈である。(・・・とはいえ、誰もが、最初から安全対策に詳しいわけではないし、ベテランだって初めて知る話題もあるだろうから、知っていて当たり前というのではない。)
「ではどういう霊を信じろというのか?」と、問う人もいるだろうが、◯◯なら信じて良い、という単純な判別法があると信じるのは、 肩書きを信じるのと変わりない。ただ、いわゆる霊感初心者と話をしていて違和感を感じる点が、ヒントになるかもしれない。
姿を見せたり、声で聞こえたり・・・というのを霊感の標準と考えてはいないか? それは本来姑息な表現と割り切るべきだ。
本来、匂いもあれば、手触りを感じもする。または、なにやらうそ臭いとか、余裕がなさそう、といった雰囲気も伴うし、行動力の伝染・・・ヤル気が乗り移ったりもする。
とくに、言葉ばかりが伝わってくるなら、「口先だけの相手」と思うのが無難で間違い無い。たとえば、職業霊能者のリップサービスをみて、こういうモノだと思うべきではない。
それはともかく、石橋を叩いても渡らないタイプ、考えるだけで行動を惜しむタイプの人で、霊感が強かったとしたら、その体質を変えない限り、霊感は騙されるためにあるといってよさそうだ。もっとも、霊障(この場合はつきまとう霊が多い)を持つと、行動力が失われがちで・・・悪循環だ。
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そういえば、私がメールで心霊相談を始めたことを知った、私の霊能の師(私は「霊感」と「霊能」という言葉を使い分けています。) から、
「メール一本で、足も使わずに相談したって、解決なんてするはずない!」と、いわれたことが有った。実際のところ、メール相談といっても、切っ掛け・手段の一つであって、無駄ではなかったと思うが、さすがに、無料相談に甘えて、明日の天気まで訊いてくる人がいることを思うと、私は師から大切なことを確認された、と痛感する。なにしろ私の師は、結構な年齢なのに行動力があって、私は未だに煽られぱなしであるから・・・
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