不幸に逃げてはいないか? (修正版)
2010/10/28まあ、人生はとかくままならない。思い通りにならないからこそ、「もう限界、これが限界。」と、想おうが、思おうが、願おうが、祈ろうが、はたまた、呪おうが、無理を押し付けられることがままあるわけだ。
そして人間、思っただけなら、自ら気持の整理をつけることは出来そうなものだが・・・出来ない人も多いが・・・呪いまですると、なかなか引っ込みがつかなくなるもので、すると自分の境遇を憎むだけでは済まず、神仏を憎む人も現れる。
・・・私は別段宗教にはこだわりのない人なので、神仏を憎む人を悪しく思いはしないし、神仏を憎む人が悪魔を好むとも思わない。 他人はともかく、私は神仏のいない境涯は寂しいと思うのであるが、それはまた別の話。
いささか遠慮がちに、世俗の示すところをいうなら、そもそも、悪事(犯行ではなくして、災難のこと)をもたらすのは悪魔、幸をもたらすのは神仏(と考えるのが二元論)。災難にあって信仰を失うのは、「悪魔に負けた」と考えるものだ。 もっとも、世の思想にはいろいろあって、絶対者が、善も悪も司るという一元論によれば、確かに、ぜんぶ神が悪そうなものである。
まあ、質問者等は果たして、二元論のいうところの敗北者であるか、それとも一元論的・絶対者から迫害を受けている・被害者であるかは、今は論じない。ただ私は思うのだ。
人間にとって、幸せであることが当たり前か? 不幸は稀か? と。
いや、私だって、すべての人間は幸せになる権利があると思っている。だが、権利があるというのと、その状態が当たり前かは別問題だ。ましてや、「行使しない権利」もあるのである。なにより、人生はままならないのだから、権利があったところでままならなくても不思議はなかろう。
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確かに、人それぞれ、笑顔で日常を送ってはいても、心のなかには癒えることのない傷を抱えていることも少なくはなかろう。
「あなたには(直接)不平不満をいえる自由があるじゃないか!」
・・・というのは、無粋でもあろう。なにせ、人には幸せになる権利があるのだから。
または、隣国では直接に不平不満をいうことが出来ず、愛国心を笠に着て本来は無関心な国際問題のデモに参加する人もいるのに・・・と、さりげなく政治問題に首を突っ込んでみるのも大脱線だが。
概ね、人というのは・・・少なくとも現代、さらには日本に置いて、概ね人は親切で善良である。少なくとも殆どの人には何らかの美徳があり、大抵の場合、美徳のないように見えるのは、大抵、周囲に人を見る眼がなかったりするものだが・・・
同時に、人というのは、少なからず欠点あり、悪所あり、また、ある方向に悪意を秘めているものである。・・・そして少なからぬ人が悪意を潜める(忍ばす、押し殺す)という美点を持たなかったりもする。
見つからなければ良いとばかりに、大小の悪事を犯すものも居る。たとえば、スピード違反などは、法定速度を守る運転手の方が少ないというのが、車を運転する人々の認識ではないか? そんな世の中に、(絶対の)神さえいれば、誰もが幸せに暮らせるというのはナンセンスだとは思わないか?
(絶対の)神の前にあっては、人はすべて悪人であるか・・・さもなくば許されるべき子羊だ。そして、一般に子羊は、自らが食べる牧草の持ち主が誰であるかなど、気にも留めない。 他者のものを貪り食うのは、一般的な人間の良識に当てはめて、善か非か。 ・・・ろくでなしに思える人も、懸命に何かを守っている処が、迷惑なのだろう。それを詰るのは結局、生存権を懸けた争いに発展しやすくて、面倒である。
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まあ、追求する気もなかったのだが・・・あなたは何ら咎められるところ無き善人・・・不当な責めに哭く善人か、はたまた、他者を苦しめずに生きることを知らぬ、悩める一人であるか、どちらであろう?
おそらく、一切の困苦を逃れて生きられる人であるとは、私にはなかなか、信じることが難しそうなのだが。