‘2010/09’ カテゴリーのアーカイブ

自分を責めるな

2010/09/27

 何気なく、趣味で撮った写真を眺めていたら、ふっと気になるキーワードが浮かんで、ググッてみた。すると、またまた気になるキーワードが浮かんで、ハッと気がついたら、斜め後ろに、見覚えのある……とはいえ、古式ゆかしい雅楽家のような格好をした細身の美男子が立っていた。まあ、美男といっても私ほどではないが(自主規格)……というのは置いておき……見覚えがあると思えるのはつまり知人の守護霊であろう。

 なにやら言いたいことがあって、先程から私に水を傾けていたのだろう。正直眠いが、折角なので聞いてみる。

・・・・・・

 某霊語る:

 先日の精神統一会で、(誰それの)悩みは「幼少時の思い込み」が原因、という、話題があったそうで、それを聞いてから矢も盾もたまらず、どうしたら私の思いが伝わるだろうと、そればかり考えておりました。

 私が守護しております者も、「助けてくれ!!」と、神仏に、心底すがったことが何度か有ったものなのに、その都度、願うどおりにならずに、溢れる涙を飲み込み、飲み込みし、それでも正しく生きようと歯を食いしばって努めて来た者です。

 おそらく、その気質は不幸なことでありましょう。もっと辛いことがあったなら、突き抜けて陽気になれたかもしれません(涙)。いや(首を振りながら大粒の涙)、優しすぎて乗り越えられなかったかも。 (この部分は私あての気遣いで、大雑把にいえば「あんたみたいに突き抜けて、陽気になってくれていたら楽なのにねぇ」の意)

 人は定め(宿命)に逆らえぬものです。人は死を免れず、悪人は悪事を辞められず、そして・・・(割愛)

「願いの通りに成らなかったのは、己の所為である。己が卑しいからである。」と思い込んで、神も、仏も貶すことなく生きている。その信心ぶりは立派であるのに、なぜ、我が身、我が心を貶すのか。・・・そう自分を責め立てている姿を(守護霊として)見ていると、切なくてなりません。

『よく生きているね。頑張っているね。』と、霊媒の口を借りて伝えてみても、もとより自分の自分の罪を信じ、それを償おうと努力していて、褒め言葉など聞こうともしません。

 なぜそんなに、自らを苦しめるのか。それほどまでに「己の罪」を信じ、無用の償いをしようと思いつめているのか。

 人は確かに未熟で不完全です。でも世の中も未熟で不完全なのです。・・・誰もが不完全で失敗を繰り返すというのに、どうして自分だけを責める必要があるのでしょう?

 それほどまでに、自らの失敗が許せないのか。それとも、しっかりと守れなかった私(守護霊)を責め立てているのか? (不信は最大の障壁だ)

 (庇護者が)辛くはあっても、価値あることをしてきたと(守護霊は)信じているが、どうにも、価値に気づかず、自らを責めることをやめようとしない。

 どうかあなた(霊媒・老神)は伝えてくれぬか、それは必要なことであったと。

・・・・・・

老神語る:

 ああ、確かに昔、なだめた記憶があるけれど。確かに伝わったとは感じなかった。

 うーん。「お前はダメな奴だ!!」といえば、食いつきがいいのに、「あなたは善良な人だ!」といっても、確かに聞かない人だしなぁ。

 まあ、努力することにしよう。・・・と、いろいろ入れ知恵を感じるけれど、ともかく、今夜はもう寝よう。

 

 ・・・「お前、もう少し反省しろよ!」という奴が決して少なくないのに、強いられもしない反省は程々にしようね。

なぜ人は迷うのか?

2010/09/25

 関連:  道標


 目の前にぶら下がったエサに気取られ、己が行いの行き着く先をおそれもせずに。

 欲にかられて、足元も看ずに駆けまわり、気づけば、多くを失い、過去に戻りたくても戻れない。

・・・・・・・

 当たり前のことを大切にしなければ、人は迷わずにはいられない。

 そして、迷う人は、迷いながらも、当たり前のことを大切にしない。

 ・・・・・・・

 失ったものは滅多に返らないというのに、失って初めて価値に気づくようなら、もとより、失うべき運命にあるといえよう。

 大切にもせず、失ったこと、失うかもしれぬことへの恨みつらみ。

 日々を恨みつらみに塗れて、さらに多く失いかけていることに気付かない。

 嘆き、失い、嘆き、失う。・・・不幸の連鎖。

 失ったものよりも、今持っているもの、これから得るものを大切にするなら、この不幸の連鎖から抜け出す糸口が得られそうなものを。

 何を大切にすべきかを知らないから、失うまで大切にしない。

 大切にしないから。真に価値有るものを知らないから。・・・気がつけば、己の価値まで失い、頼る者から軽んじられ、頼った者から重荷に思われて居場所がない。・・・その人生の中でなにを想うのか?

 苦しみ、嘆き、哀しみ、やるせなさから、あれこれと怨む。

 その境遇も、その心境もまた、◯◯の住人そのもので、それゆえに心に光が差さない。

 自ら幕を引けば、強い痛みと共に少しは残るものもあるのに、決断できないからすべてを失う。

 ・・・・・・・

せめてその苦労から、なにを学ぶのか?

失敗を嘆くだけの者は、哀しみしか学ばない。

死後の個性存続・・・を越えて。

2010/09/23

 心霊主義の根幹を成しているのは、死後の個性存続・・・つまり、死んでも自意識は失われない、というものだ。

 これを、ただ単に死後も生き続ける、と受け止めるのはどうかとおもう。個性は環境に形作られるのに環境が大きく変わっても個性がそのままというのはおかしい。このおかしい部分を、霊界通信の「死後の世界」や「小桜姫物語」は、自然に通り過ぎてしまい、違和感ないためにかえって気づかせないきらいがあるのではなかろうか。

 環境が変われば個性が変わる・・・衣食足りて礼節を知る・金持ち喧嘩せず。だ。

 「その程度のは変化と言えるか?」と、いうものもあるだろうが、実にそれ故、争いを好む者は、闘いを続けるためにそういう環境、いわゆる境涯を選ぶ。その境涯を人々は地獄と呼ぶであろう。また、争いを好まない者は平和な環境、いわゆる境涯を選ぶ。その境涯を人々は天国・極楽と呼ぶであろう。そして、それぞれの境涯の住人は、異なる境涯のものを嫌う。例えばワード著の「幽界行脚」には、救済にきた天使を、地獄の住人が排斥する下りがある。そう。地獄の住人は地獄に居たいから地獄の住人なのである。地獄が苦しいといえば、苦しい。だが、他の境涯はもっと苦しいがゆえに地獄に居るのだ。

 つまり、生前は環境が人を作り、死後は往々、人が環境を選び・作る。 

 死後に関していえば、個性の存続は、そのまま成長の否定なのだ。・・・まあ、生きていてもなお、自説にこだわり、自らの成長を否定するものも少なくないのは、つまり、その境涯がふさわしいがゆえ。

 とはいえ、誰もが個性を尊ぶのではない。果敢に他の境涯に乗り出し、没我・滅私て、利他に励む。

 死後に自分が住むのはどういう世界か・・・その疑問は一体いかなる境涯の表れであろう?

 平和主義者でありながら進んで地獄に赴くものが居るというのに、平和な世界に在籍するのが大切な事か? まあむろん、帰る場所があるから頑張れるという考えも成り立つが。

 腰を落ち着けられる天国なんて、ある程度のもの。環境を選ぶような個性も、その程度のもの。

 心霊主義の根幹は、「死後の個性存続」である。それなくして心霊思想はまるで成り立たない。それでもなお、「死後の個性存続」は、頼るに値しないと私は思う。

 それはただの門である。門はゴールではなく、スタート地点なのだ。

墓地を選ぶには?

2010/09/20

 その昔、知人の親族の葬式からしばらくして、故人が影に追われている姿を霊視させられたことがある。
「早くお墓を立ててくれないと、逃げこむところがない!!」と叫んでいる。
『こりゃ大変だ! 助けてあげなきゃ!』と思ったとたん、いわゆる龍神(白っぽい格好の老人姿)が、視界を遮った。
『あれは生前、人付き合いが剣呑だった反動である。やたらに人に怒りを投げつけてきたから、今その「怒り」が我が身を追いかけているのだ。墓などあっても助かるわけでなし。いずれは落ち着くだろうから、放っておいて良い。』という。
 まあ、いくら便利な世の中とはいえ、コンビニ等では未だお墓は買えないし、安い買い物ではないし、買ったところですぐに役立つものでもない。
 知人を急かしてどうなる物でもないだろうし、霊感商法と誤解されても面倒である。
 というわけで放っておいたが、その後どうしたか、私は見ていない。


 その事があって、私は、我が親をそそのかして生前に自分の墓を買わせた。自分で買った墓だから、場所が悪いとか、方向が悪いとかいう苦情は一切受けない。死んでから文句を言っても知ったことじゃない。
 墓に立つのは公園墓地のちんまりした墓石であるが、私は結構気に入っていて、自分が入るにしても好都合に思っている。霊能者・心霊家が豪盛な墓に眠るなんて、人は知らず、私には恥ずかしくて出来ないと思うからだ。
 要は、縁者が訪ねて、額づくだけの場所があれば良い。・・・思い出すことで波長が合い、通信が成立するならなお良い。とはいえ、場所や道具に大きく依存するのもナンセンスだ。・・・これで充分である。


 東京オフ会にて、「義母(から)の供養」に関する霊査が出た。
 ちょっと脱線すると、わが師も精神統一の指導を受けていた頃に、お姑さんの小言を頂いたことがあるという。なぜ我が子に言わず、嫁に言うのかは心霊的問題というより、女性心理の問題であろう。はたまた家庭内権力の問題か、夫婦間の実行力の差か。・・・は、当事者に考えてもらうことにする。
 私が、「心霊勉強しているのに、よく、墓を後回しにするねぇ。」と、いささか皮肉をいえば、当然、どうすべきか、という質問がある。だが私は間に入るだけのことだから、どんな質問にも動じることはない。まあ、答えられるとは限らないけれど。
 で、得た霊査は、『大阪』『都内』『東の方角』『◯◯(そりゃ西だろう!?)』『どうせ三年もすれば向上して墓なんていらなくなる』『デカイ墓』『小さい墓』・・・「いい加減にしてくれ。結論だけでいいってば!
 というわけで、解答は棚上げ。というか、故人の遺志なんてどうでもいいから、夫婦で勝手に決めてくれ。というのが私の結論。

 それではだいぶ乱暴なので、もうちょっと分析すると、(たいていの)故人はおそらく、墓を建てることに過大な期待がある。自分の死後の境涯の低さ、また、その境涯の環境の悪さを、墓や先祖供養の有無・多少のせいと穿っているのだろう。
 また、一部の故人は、墓や先祖供養による利益を感じていないがために、意義を過小評価している。でも、墓が無いと家族の座りが悪いものだが・・・一方、墓があっても座りの悪い家はあるし。

 墓に期待しない故人(霊)であれば口出しせず、墓に期待する故人(霊)は、それぞれ言いたいことを言う。であれば、話がまとまらないのはむしろ自然である。ならばいっそ、建ててしまえば文句も言われまい、と思う。
 思いつきや好き嫌い以外の、いわゆる「道理ある霊査」が降りればそれなりに伝えもするけれど、現状は無意味に近い。というか、今回、一番高位な霊からの霊査が、そもそも、「勝手に買え」というものであるけれど。


 あえていえば、墓を買うなら、霊の加護を求めるよりも、家が収まるように買え、ということだとおもう。収まる家だから霊の加護があるのであって、霊の加護があるから家が収まるというのは、往々、やむを得ないが、本来は本末転倒なんだよね。

 どうも、皆、器を用意せずに、中身を得ることばかりを願っているように感じる。真空パック入の幸福では、さすがに味気なくはなかろうか。


 もとより、このご時世、墓地を選り好みするのは、かなり恵まれた人だけではないか? ならば答えなんて初めから決まっている。

 良いところが得られるように祈って、あとは努力するだけであろう。

霊査事例: 2010年9月18日(東京)

2010/09/19

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  • 『頭寒足熱。とはいえ、難しいのも事実です。』…冷房で身体を冷やしすぎるのは避けがたいものですからね。
  • 「考えすぎ」が、精神統一の妨げです。
  • 『ジタバタするな』『早め早めに調査して』『政治が不安定なときには不用意に動くな』『目の付け所がつまらない』・・・アイデア倒れ?
  • 『調子に乗るから引くに引けない。』
  • 義母様の顔が見えて、なにやら苦しそうにされているのが見えました。と、その時、あなたも苦しそうに見えたのですが、供養がうまくいっていないのかも。『仏壇前で般若心経でも上げれば』と聞こえましたが、仏壇も無いでしょうし、下手に自宅で読経すれば供養を上げてもらいたい霊が集まりそうなもので、なにやら矛盾を感じますが。
  • 『落ち着きなさい.忘れているのはそれだけですか? 死人は役立たずに非ず、あなた方が重荷に思っているだけです.。』『先が見えぬ、というのは怠慢です.そこ(場所・土地)を好きにならずして、誰が、(土地から)愛されましょう?』『まず墓を立てて、そこをふるさとと思うことです.女が実家にこだわるのは不幸の先駆けです.。(己の境涯を)変化せずにどこに行く(境涯)というのです?』
  • 『幸せは、変わらぬ努力を好みます。急がぬこと、慌てぬこと。他者の意見よりも二人で良く話し合い、夫の顔を立てること。特にあなたは引込みのつかない性格ですから、夫を立てるのが幸福の鍵です。考えすぎるからチャンスを失います。ゆっくりと。おおらかに。』

 

事例2

  • 『「してやったり!」と思うのは良いのですが、身体に無理があるのを忘れないように。』 ――お仕事がうまく行ったようで何よりですが、お疲れのようです。よく身体を休めるように致しましょう。とはいえ、動きすぎではなく、動かないので疲れているのですから、身体を動かすことが大切なわけですが。
  • 「もっと高いところに合わせて」 自己肯定の念よりも、少し上に気持ちをあわせて精神統一しましょう。
  • 『今更言うな』『先読みをせよ』『何%かでも社会投資』『がっつかなくても大丈夫』『仕事に勝る投資なし』
  • 『はっきり言うことです。ズルズルと言わずに於けば、それはつまりどうでも良いと見做されます。つまり意見を言わない人はどうでも良い人です。自分で自分を貶めておいて、誰かが大切にしてくれましょう? 自らが大切にせぬなら、誰が大切にするのか? それがつまり衰退の始まりです。目に見えぬものを侮らぬことです.』
  • 『よく学び、良く遊び、充実した日々を送られています。でも、足元を救われないように。油断は眼を逸らした時から始まります。』

事例3

  • 『身体に気が満ちており良い。ただし、気は道具で満ちるのではなく、気持ちで満ちるものなり。』
  • 「神」を持つことが大切です。・・・自らを委ねるものがないと人は弱いものですよ。
  • 『良い仕事をしている』『(悩む人の悩みを)被らぬように』『大切な仕事です』
  • 『不平は聞かぬ、不満は己が足りぬゆえ。なぜ足りぬかに気付かぬがゆえ.』
  • 最初に、気が満ちていて、良い。と伝えたら、その後、ガックリと気が抜けていたのは、思うことがあるのですよね? でも、今は時期でないから我慢が必要です。
  • 『幸福は自ら掴み取らねばなりません.あなたは遠回りをしすぎました。座してチャンスは来ないものです。 不満に思うことは、己が足りぬと思うことです。人は足りぬから努力するのに。足りぬなら、足すための努力を。足りぬことこそ喜びと信じることです。 あなたは決して不幸になりません。』
  • 『「疲労」ですか? 判り合えないのは確かに辛いものです。でも相手を理解しないのはあなたも同じ。通じぬ思いで息詰まる。それは人として不自然な生き方ですから、いずれ転職が必要となります。とはいえ、経歴以外にも以て会社を出るように致しましょう。』

 

心の鏡

2010/09/14

 私は不幸だろうか?

 まあ、子供の頃から、いろいろ苦しい思いもしたし、いまだにいろいろ苦しい思いもしている。まあ、ここ数年の苦労はといえば、三分の一は自ら買って出た苦労で、三分の一は「尊敬されたい病」患者の相手、残りが多分、向上意欲の空回りから来る。浮世のシガラミから逃げるのは無理でも、苦労の大半は捨てられなくもない、と後悔の念も多少ある。

 日々、考えることも多い。・・・あれにするか、これにするか。・・・それを「迷い」というなら日々迷う人生である。

 私自身も人として未熟なことから免れず、災難にも合うし、過ちも犯す。・・・恥ずかしし、辛いし、悔しい。そういう感情を持て余すときもある。

 確かに、楽じゃない。・・・ならば不幸なのか?

 だが、苦難を乗り越えればこその喜びもある。幸福とは果たしてゴールであろうか? 行きつけばもう、不幸には遭わぬものだろうか?

   幸せになりたいと人は言う。

   不幸は嫌だと人は言う。

 だが、幸せも、不幸も果たしてゴールであろうか? そこに行き着けば時は止まるのか?

 いうまでもない。その先も人生は続くのである。心霊主義者であればなお遠く、死後を超えて永遠の先まで人生は続くことを信じていよう。

 ならば、苦しみにも会おうし、喜びにも会おう。

 故に、不幸とは、苦難から逃れることを辞めた者・・・向上を忘れたものの境涯といえる。

 逆に、苦難の中にあっても希望を失わないものは、それなりに幸せだし、その先、達成感まで得た者は遥かに幸せであろう。

 私は思う。不幸な人とは、己を哀れんだものである。幸せな人とは、己を誇る人である。・・・もっとも、他人を蔑して安易に優越感に浸る者も少なくないが、まあ、それも「幸せな人」であるに違いがなく、そして本題は別にある。長々と書いたが、実はただの伏線に過ぎない。

 例えば(今回の本題ではあるが、応用が効くことに留意されたい)、先祖供養。

 お香とお花を供え・・・まあ、宗派によっては花以外の植物を供える場合もあるし、香を省く場合もあるようだが・・・そういう準備もそれなりに必要であろうが、多くの人は、祈る際の心がけも大切と信じているだろう。

   感謝の気持ちで手を合わせる。・・・大切な事だ。

 ところで、どういう心が良い心がけ、と言われるのだろう?

 たとえば、常日頃、「ああ、あの人みたいになりたいな、羨ましいな。」と思う人であれば、いくら墓前や、仏壇の前で懸命に手を合わせる人であれ、祖先の霊は決して平穏な心で受け止められまい。・・・他者を羨むのは、自身の現状否定、ひいては祖先に対する冒涜であるからだ。

「嫌なら出て行け!」・・・極端にいえば、そういう事だ。

 極端にいえば、出て行け、と言われるような心がけで、先祖供養もないものだ。それを繰り返せば、祖先の霊は目を背け、それゆえ、悪霊・低級霊が入り込みやすくなる。まあ、それは大した問題ではない。どうせ、他人を羨むようなら、祖先の霊から目を掛けられても焼け石に水だからだ。

 または、信仰心。

 神仏に祈るにせよ、真心は大切である。・・・では真心とは何か。

 目に見えず、手にも触れぬ心を説明するのは難しい(言い訳)。

 それをあえてするなら、

 無知ゆえの素直さは真心ではない。なぜなら、他者の言葉で容易に疑念が湧き上がるから。

 とはいえ、疑いの念が生じないのは、愚か者故。

 疑わしいかどうかで物事を判断するのは理知であって、真心とは、信じるべきを信じ、信じぬべきを信じぬことだ。・・・あたりまえといえばあたりまえ。

 だけど人は、旨い話に騙され、大切な事は面倒という。そのような考えに真心があるか。

 まったく。三歳の子でも知っているが、七〇歳の年寄りでも実行は難しい。

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