‘2010/05’ カテゴリーのアーカイブ

霊査事例: 2010年5月29日

2010/05/29

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

・新しいプロジェクトに取り組んでいる姿が見えます。『やりなさい。』とのこと。足をひっぱる人も小さく見えますが気にしなくて良いでしょう。

事例2

・『「なるようになる、ならぬようにならぬ」とは覚悟をいうのです。人の行く道はすでに決まっています。泣き言は言わぬこと。』・・・ご当人からは質問がありませんでしたが(笑)、どういう道を行かされるのでしょう?

・『何を為すか、よりも、何を期待されているのか。が大切です。』

事例3

・空っぽで座っていらっしゃいます。『大地のエネルギーと共にあれ、というぐらいの気概を持ちましょう。』・・・失敗なさったとか、『頭で考えるから分からなくなる。手に任せておけ。』・・・身につけるとは、頭で考えなくても身体が自然に動くようになることです。

事例4

・(霊視を伴いましたが割愛) 『良縁はあれど、絆が細くて手繰り寄せられない。』・・・考え事の多いあなたは、眼前にチャンスが有っても気付かずにいる恐れがあります。物事は軽視せず、つまらなく思えることでも、じっくり見分けることです。ところでこの霊査ですが、私が帰宅後、改めて思うに、「あなた(方?)にその気がなくても、大切なご縁(将来に価値が出てくる関係)なんだよ。」という意味と感じられたのですが・・・

事例5

・『需要と供給。もしもその町でやって行くなら、その町の需要を良く考え、自分のやりたい事を優先するなら、別な町を選ぶことです。』・・・だめだ、というのではなく、「どうせなら」「がっかり」と思われたようです。もうひとつ。

・やはりまだ、人材不足が見えます。その解消のために多少赤字でも大都市に出店するのも手かもしれません。


アクセル全開?!

2010/05/22

 これは私が直接受けた相談ではなく、行きがかりで耳にした話題。その経緯はそれなりに面白いかもしれないが・・・本題とは無関係である。強いて言えば、どうも関係者全員の守護霊等はこの時を有効活用したのだろう、という話で、いずれ機会があれば。もしくは、暇があれば。

・・・・・・・

 旅先に同行していた友人が、そのまた友人から久しぶりに電話を受けた。なにやらかなり深刻な話、というより、深刻な状況らしい。

 家を出る、の、死にたい、等といった言葉が聞こえてくる。が、知る人ぞ知る、私はそういう話題というより、そういう言葉を乱発する人には無関心である。はっきり言って私には不向きな話題であって、もとより私宛の相談ではないし、返事をする話題ではない。

・・・・・・・・

四路五動

 ところで、このメンバーには大分以前に、『四路五動』という話をしたことがある。これは私の造語ではなく、つまりは受け売りであり、当サイトでも何度か話題に上げている言葉である。(ただし、引越し途中の現時点ではデータが上げてないかも) これは兵法で、軍が行く道(路)は、前後左右にあり、軍の動きには前進後進左折右折の四動に加えて、不動・・・動かぬ、または、待機や待ち伏せ、という選択肢がある、というものだ。

 ところがこの、不動という選択肢は、わかる人にはわかる一方、わからない人にはトコトンわからない。いつもジタバタして、拗らせつくして泣き寝入りか、他人に丸投げして自分は耳目を塞いで、そんなことは無かったと自分を信じ込ませている。

 というか、この問題は、当事者のみのものというより、一種の躾に属して先祖伝来のものらしく、当たり前に思っていて直そうとしないし、問題に気づいてもとかく変えられない。変えようにも周囲がみな邪魔をして変える事が出来ない。

 変えることが出来ない・・・といえば、それこそ不動であるはずが、動かないのは結果だけで、当事者・関係者はとにかくあくせく色々努力して、結果が変わらないのであれば、それは無駄な努力と呼ばれそうなものなのに、無駄な努力と認識する以前に、その努力を「苦しみ」と受け止めるから、辛い・死にたい、と始まる。

本末転倒

 まあ、そりゃ人間いつかは死に至って、その事実には逃げ道が無い。であるから、「死にたい」というのはおそらく是非を論ずる余地なき話題であろう、と、(人々には色々反論もあろうが)私は思う。ただ・・・『死』が避けられぬ話題であろうが、果たして今すべき話題であろうか、とも思う。

 つまり、途中・過程を省みることなく、一足先に最終問題に飛びついて、本当に正しい答えが得られるの? と思うのである。

 噛み砕けば、人が死を免れぬとしても、人は果たして死ぬために生きているか、それとも生きていれば死が避けられぬのか、どちらだろう?

 物理的・客観的に死の瞬間を迎えようとしているならまだしも、五体満足のうちから生きることを諦めるというのは何ゆえか。過程を跳び越して結果に至るのは果たして正しい思索の結果といえようか? それは飛躍と呼ぶべきであろう。その様な思考の飛躍をする人を指して、周囲の人々が気・・・狂い・・・と呼ぶにせよ。

それこそが結論か?

 私は思うのだ。本来至るべき結論とはかけ離れたことを考えていないかと。つまり、最初に飛躍があるなら、着地点がずれるのも仕方が無いのでは? と思うのである。

 たとえば・・・本当に死にたいのか、それとも今の状況(?)を終わらせたいのか、真の悩みは果たしてどちらであろう?

 どうも、そのような人の思想、というか発想には『止まる』という選択肢が見当たらない。 ダメでもともとで何かにチャレンジするとか、いっそ諦めて死んでしまおうとか・・・時期が訪れるまで待つという考えが見えないし、「待て」、「落ち着け」という助言を無視するどころか、腹を立てている。いわば『四路四動』であって、選択肢が無いという思い込みゆえに正しい発想、いわば、ジタバタしない、という選択が出来ないのでは、と思うのだ。

「動かぬ」、という答えに至れないのは、決して頭が悪いからでなく、あえて言えば、その自我を育ててくれた周囲の親族等を疑うことなき素直さの持ち主ゆえであろうと・・・いや、私も、『この世界には愛が足りない』とは思っているが、その一方で、この世界は愛ゆえに拗れてはいないだろうか?・・・どうしても巧くいかないなら、不足しているのは努力や工夫であるのか、反省か、どちらであろう? もしくは、壁にぶつかっているのは、押しが足りないからか、道を選び間違えたのか、どちらであろう? さらには、そういう相談を受けるあなたもまた、生き方に焦っていないか。と。

不動の覚悟。

 放っておけば結果が変わらぬ、どちらか、または双方が動かなければ結果は変わらぬ。

 さてどちらが動くべきか。さて、もしも自分が動かぬ結果に焦れて、相手が動き出したなら・・・相手がこちらの都合に合わせて動いたなら、それはつまり、動かぬことで相手を支配したということではないか。

 動かぬことで相手を支配する術があるというのに、そもそも、人はなぜ動くのか? なんのために待たず、動き・・・いや、なぜジタバタするのか?

 多くの人が、敵や状況を支配することよりも、ただ、ジタバタすること、つまりは状況に支配されること、を選ぶ。

 無思慮で安易な選択である。 往々、その結果に苦しい思いをすることに気づきながらもその生き方を変えない。

 まるで石がただ転がり続けるような生き方である。そういう生き方をしているなら、その人の未来も予測しやすくもあろう。

 

たとえば、「声が聞こえて苦しい」という。

 ジタバタ、といえば・・・なにやら「(人も無いのに)声が聞こえて苦しい」という悩みを良く聞く。端的にいえば聞かなければ良いのである。が、それが出来ない。出来ないから悩んでいるのである。

 しかし、たとえば雨風の音や潮騒、川の流れの音、虫や蛙の鳴き声が煩くても、多くの人は寝る。音が煩くて眠れない人もいるが、果たして周囲に音があふれている人だけが、気になって眠れないのだろうか? 眠れる人と、眠れない人との差は果たして外にあるのか、内(自分の心)にあるのか。

 声が聞こえて煩い、というのは、果たして語りかける人(?)に責任があるのか、それとも耳を塞げない自分に問題があるのかどちらだろう?

 自分の状況が、そのどちらであるか。わかる人はわかる。わからぬ人にはわからない。では、なぜわからないのか?

 おそらくは、ジタバタしているからだ。つまりは、自分を思うようにコントロール出来ずにいるからだ。では、なぜ自分をコントロールできないのだろう?

 

稼ぐより損を避けよ

2010/05/17

『稼ぐよりも損を避けよ』と聞こえた。まあ、いつもの話題である。一見、消極的な話題ではあるが、趣旨は少し違う。(というか、本文は霊査ではなく解説に尽きる)

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というわけで、時として冒険も必要ではあろう。が、自分の失敗を隠すために大騒ぎしたあげくに損失を拡げ、後で泣きつくな、というのである。

そういう失敗を繰り返す人に対して、「問題解決力を求めるよりも、失敗を避ける工夫(というより冷静さ)が大切である。」ともいうのだが・・・まあ、俗に「救いようの無い◯◯」とか。または、「神も仏もない」とか。

・・・・・・・

「そういうこと(常識論)は百も承知、私は尻拭いが欲しいのではなく、前に進む方法を知りたいのだ。」という人もいる。

 私はそういう人に対して、相反する二つの想いを抱く。

 1、そういうあなたは穴だらけ。・・・どう指摘すれば角が立たないかな。

 2、でも、前に進まなきゃ、自分の欠点が自分で見えるようにならないよな。

・・・・・・・

 人は無力な赤子の姿で生まれ出て・・・という、抹香臭い話は棚に上げる。 たとえば、自動車の免許制度を考えてみよう。日本の現行制度は、完璧な運転技能・知識の持ち主にのみ免許が交付されるわけではない。最低限とされる知識と技能(とその他)の持ち主に交付されているのだ。つまり、運転しながら上達していくことも織り込んだ上で免許が交付されているのである。

 なお、こういう説教臭いことを中継する霊媒ですら、未熟を克服するのに天与の才能だけでなく、努力・精進が求められている。結局、未熟であろうと前に進まずにはいられぬではないか。

 そう思っていると、霊感に『別な相反する二つの視点』が示される。

 1、往々、チャンスを与えたくても、無い袖は振れない。(環境に不足がある)

 2、不適当なことばかり選り好みする者が・・・

  つまるところ、文句を言われてもどうにもならない事情(もしくは文句を言うからどうにもならない事情)がある。ならば、文句を言っても拗れるばかりということだ。

・・・・・・・

 整理する。

 どうにもならなくて、前に進めない(修行ができない、境遇がよくならない)時に、文句を言っても良いことはない。むしろそういう時には、『稼ぐ(前に進む、向上する)より、損(挫折、堕落、脱線、迷子)を避けよ。』というのだ。

 というか、うるさい。黙ってろ。

 ・・・これは意見というより、道理だから。

 

 

どうしたらよく生きられるか

2010/05/11

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 社会のため、もっと身近な者のために、何か役立つことをしたいと願う人は、多いのである。(社会を不安に陥れるのはごく僅かな悪意で事足りるのだが)

 あなただけが善良ではないし、往々、善の解釈の違いを論点に、善人同士が闘うことも決して少なくない。・・・「善を口実に争うなど、善人の為すことでない」と言われようが、未熟や不完全を理由に人を裁けば、天上天下に罪なき人は無くなる。

 人は善良であろうと苦悩し、苦悩するが故に何かを壊す。・・・ある意味、人間社会にとって不幸なのは、その根底に愛なき憎しみが無いことであろう。悪人ですら愛を求める。時折、愛する対象を間違った者があっても、極端には、自分以外のすべてを憎んでいても、他を憎むが故にむしろ己を愛すものだ。 愛憎は表裏一体。それが自我の本質であって、自・他の区別のあれば、そこに愛なくして残るものはないのだ。

 すなわち、世に愛なき人はなく、ただ、その心が素直か、または捻くれているかの差があるだけである。・・・もしくは、より大きな愛を求めていることにおいて、社会の法に反した罪人、社会倫理を犯した者とて決して人後に落ちない、いやそれどころか、なりふり構わぬ真摯さは、世間でいうところの善人以上かもしれない。

 その事を知る者であれば、「汝の敵を許せ!」ということが無理なく判るはずである。すなわち、善悪では人を裁けないのである。が、行いは結果に至る。善因善果・悪因悪果。つまり、許すことと野放図にするのとは異なるのも道理であろう。

 我々は、裁かれぬ罪と自らを救えぬ未熟さの間に生きている。・・・その間に立った人はどう生きるべきか?

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 が、どちらに進もうが、人は面倒事に巻き込まれはしないか?・・・どちらに進もうとも、臨機応変、時と場合に応じた対処が求められる。もしくは、求められないはずが無い。むしろ往々、人は面倒事に巻き込まれるために生きているように錯覚することもあろう。

 いや、仮に無事な道が判るとして、人はそうそう自由に歩んでいけるものだろうか?

 人は結局、与えられた道の中で、最善をつくすことしか出来ないのである。

 にも関わらず、

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 さて、あなたに必要なのは新たな進路であるか、それとも、今の道を歩み通せる自信であるか。

 または・・・踏み外した道を、後戻りする勇気か。・・・その全てを見極めるために、立ち止まり、己の未熟さを省みる大いなる勇気か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 よく生きようとして・・・誰かを愛して、誰かに愛されたくて・・・あなたの生きている道は、素直な道か、醜く捻くれた道か。

 

 どうしたらよく生きられるか・・・と、日々、考えている人は多い。

 その想いは果たして善良な心の表れか。それとも、未熟であさましい自分の本性からの逃避か。

 その想いは果たして素直なものか、捻くれたものかどちらだろう?

 つまるところ、あなたが今、歩む道に正否があるのか、歩むあなたに正否があるのか。

進むべき道

2010/05/09

 なぜに人は、善事を言い訳に使おうとするか。

 善き事は、素直に行うが故に汝を救うというのに。

 悪事を行うのも人。そして、善事を行う人も利己の亡者。

 ならば世の中は誰が救うというのか。

 あなたは利己心で人が救えると想うか。本当に救えると想うのか。

 僅かな経験から・・・ああ、人は僅か百年ほども生きるのが難しいというのに。・・・安易に正義を見下して。

・・・・・・・

 苦しければこそ、人は正しく生きずして、その魂が何処に行くというのか。

 当たり前のことを、当たり前に行うために、助けが、賛同者が、必要なのが人間・・・

 心寂しく、悪魔に求められずとも進んで魂を差し出す亡者が人間。

・・・・・・・

 隷属すべき悪魔を探すその前に・・・有りもしない恐れに焦り、必要のない争いのその前に降伏しようとする人々よ。正しく生きよ。

 

(さらに…)

行き止まり。

2010/05/09

 人々は懸命に想う・・・己の行いの言い訳を。自己への虚飾を。もしくは、相手を丸め込むための嘘を。

 私はそれを責めない。だが、その想いを共有しようとも思わないし、共有出来るはずも無い。・・・あなたは誰かの言いなりに生きたいと思うか? 迷った時には指示を心待ちにするのに。

・・・・・・・

 誰とも共有出来ない想いを抱く人は多い。そのような想いを抱く人は、一体どのような境涯か。

 忙しく心を動かして・・・まるで、一人であるのを忘れようとするかのように。・・・袋小路に向かって急ぐ人々。

 何度も、何度も、なんども、なんども繰り返してきたその行き詰まり。・・・その循環、その輪廻。逃れ得ない鎖、が、実は単なる自縛。 自暴自縛の日々に苦悩する人々。

 その苦しみから逃れたくて、心霊を選び、学んでもなお、言い訳と、虚飾と、そのための嘘を止めない人々。

 火宅とも呼ばれる、苦しみ絶えないこの世界に安らぎを見出すのはいかなる人々か。

・・・・・・・

 救いを求めるなら、せめてその悪魔(焦り)の手(苦悩)を放せば良さそうなものを。

 いや、その手(苦)を放せば、あえて神の救いなど必要としないものを。

 

 

 

 人々は、己が心を救う、正しき道を求めずにいる。 どんどん苦悩の深みに嵌り込みながら。

 達成感をもたらしてくれる障害を厭い、ささやかな障害を厭い、僅かな障害を厭い、達成感のない状況を退屈と厭う。

 

 陳腐な助言は腐るほどある。が、大抵は言い訳を得るまで足踏し、言い訳を得て道を誤る。

 一人で生きることをやめようとせずにいる過ち。

 

 

 自ら邪魔をしなければ、どれほどのことが出来ただろうと、省みることもなく。

二律背反

2010/05/05

  老若男女、同じ時を共有していても、それぞれが体感する、いわゆる主観的な時間は異なる。それゆえに男女は互いに理解し難く、老若は互いに理解し難い。

 もしくは、同じ世代の同性同士だって、細かく見ればやはり主観時間は異なる。誰も彼もが流行を追うわけでないのと同様だ。

 相手の思想に歩み寄ろうとする者は多い。お互いに歩み寄ろうとする者たちも決して少なくはない。だがそれらの多くは、相手を知ろうと急ぎ、解り合えたいと焦《あせ》り、うまく行かないもどかしさから焦《じ》れる。

 まずは、足を止める。 ・・・歩きながらでは行き違うことなら、まずは足を止めることから始めるべきなのだ。

 が・・・相手を思うからこそ、急がずにいられず、急ぐからこそ、相手を傷つけずにいられない。

 それはつまり、相手がわからぬから焦るが、自分自身を判らぬからなお、相手がわからぬという悪循環に気づかぬから故のこと。


 愛し合う二人よ。

 思うことで人は疲れ、思われることで人が疲れるのは何故か。・・・焦ってはいないか。恋焦がれる相手とは、実は自分の思いの影にすぎないのに。

 故に人は往々、自分の思いとはかけ離れた相手と気づいて恋が冷める。

 

 子を持つ親よ。

 子供らの浅薄な、そして敏感というより過敏な感覚に振り回されてはいないか。子供の行いというのは、実は親の行いの影にすぎないのに。

 子の過ちとは、己が過ちと気づかぬ愚者が、親ばかと呼ばれるのに。

 

 なぜ振り回されるのか!?

 あなたが己を知らぬからだ。人の思いは常に「二律背反」、人は誰かを愛す時、その人を憎まずにはいられない。・・・憎しみという一面を忘れた人だけが恋に落ちるが、何かの折りに思い出して破綻する。・・・もしくは、思わぬ相手は憎まずに、ただ無私をして心がゆるがない。

 結局、人は誰かに悩まされ、苦しめられているようでいて、実は、自分の思いを扱い兼ねている。

 相手を忘れることが出来ず、他の誰かを思うことが出来ず。


 子供の日におもう。

 人への思いは、相手への思いの形を借りた、自分の、自分への思い。

 それゆえに思うようにならぬだけで恨み、憎む。・・・相手を在るがままに認めぬが故の過ちと気づかず。

 子供への怒りとは、実は己の子供らしさ、すなわち未熟と気づかぬが故なのに。または、子供への愛の何たるか。


 人々はみな愚かで、ただ、反省出来る者と、反省出来ぬ者とがいる。・・・それこそ年齢にかかわらず、一体どちらを大人と呼び、子供と呼ぶべきか。

 大人であるとか、子供とか。・・・その区別は一体何処にあるべきか。身体か、精神か。

 子供の日に思う。・・・肉体的大人が寛容に非ずして、何の子供の日か。

 

(さらに…)

言わなきゃ判らぬようでは・・・

2010/05/01

 まあ、他者には妄想の一種とみなされるかもしれないし、反対に無条件で神聖視してくださる方もいるかも知れない。が、肝心なのはその内容の価値である。意味を汲んでいただければ私にとって幸いで、これをただの霊界物語と受け取られるのは、残念である。または・・・嫌味と受け止められるのは・・・迷惑だ。

・・・・・・・

 入浴中に、ふっと霊視のスイッチが入った。・・・今日は時間があると見越してのことだろう。

 正面には女神と思しき女性(高松塚古墳壁画にある女性のような衣服を着て、優しそうな雰囲気とともに威厳をたたえている)が静坐している。なお、私には見知らぬ若い男性の声で、『アグラの反対の正座、ではなく、静坐である。』と、解説が聞こえたのだが、衣服で足は見えず、体勢的に正座と静坐の違いは分からなかった。ましてやその心境・境涯の差など・・・いや脱線した。

 どうも私は、ある男性(死者)の役(別な表現をすれば、私はその死者の霊に憑依して視点を共有している)であるらしい。

・・・・・・・

男 『私が考えておりますことを、説明させていただけば・・・』

 女性が右手を上げて押し止める。

女 『言(解説)わねば判らぬことなら、(あなたの考えは)無意味です。』・・・括弧内は私が感じ取ったニュアンスである。つまり霊聴的に聞き取ったのは「言わねば判らぬことなら、無意味です。」である。 そして男はうなだれて消え去った。

 光景が代わり、女神(? 相手が名乗るわけでなし、とりあえず保留するが)が、私に解説を試みる。

・・・・・・・

 (あなた方の言う)「死後の世界」とは、 意念の世界、つまり、思うことが形になる世界です。正しい思念は形態を持って発現し、霊たちはそれを実存として感じとります。しかし、矛盾・稚拙な思念であればそれは確固たる形態を表さずに煙のように漂い、その(意の)動機次第で、(それなりに)良い雰囲気を醸し出しもすれば、不快な雰囲気を周囲に拡げもします。

 ですから、きちんとした形態をとらぬ意念など、語るに値せず、育てる価値もありません。強いていうなら、それは持ち主の修行の必要、むしろ、妄想との決別こそが必要であって、その意とするところ、その考えはまるでゴミのようなものです。

 (私の拒絶は相手に対して)「語るにふさわしい人たれ」という意もありますが、「語るにふさわしい人たれ」とは同時に、「そういう内容の話をするようでは駄目だ」という意でもあります。

 あなた(がた)が、自分の思いを(地上・物質界)に実現しようと努力なさるのは結構です。ですが、「思い」は、その人の「人となり」のものであって、「思いを実現出来ない人」というのは、往々、努力が足りないというより、その思うところが間違っている、実現努力よりも、自己研鑽が必要、ということなのです。

 果たして自分に足りないのは、実現努力か、自己研鑽か、という判断は、なかなか自分自身ではつかないものですが、第三者にはひとつのヒントが有ります。

 失敗から学べる人か、同じ失敗を繰り返す人か、ということです。さらには、反省出来る他人に思えても、ある分野では失敗を繰り返すことを、地上の人々が決して免れぬことに留意すると良いでしょう。

 それは善し悪しの問題と受け止めると、反省を誤ります。心霊家は往々、地上生活を学校に例えますが、地上生活は得点を競う場ではなく、失点を減らしてようやく前に進める仕組みなのです。・・・そうであればどう生きるか、どう生きるべきか、いや、何をしてはいけないか、ということが自ずと解ってくることでしょう。

 その上で、周囲の人々を見て、どうも納得が行かない(なぜあの人は・・・)事例は決して少なくないことでしょうが、それは心霊家が当たり前に知っておくべきことに解明の糸口があります。

 「地上を修業の場にしているのは誰か?」……または……「何をもって修行・向上と呼ぶか。」……ということです。 この答えは、己一人で生きているつもりの方々には解けぬ問題でも有ります。

 もしくは・・・人生の課題は、次々と解いていく人もあれば、ひとつも解けない人がいる、ということでも有ります。それでも良いのです。なぜなら…… 「地上を修業の場にしているのは誰か?」……または……「何をもって修行・向上と呼ぶか。」……人は正しい行いからのみ、学ぶわけでは有りません。むしろ過ち、または、悪事の反省から、人はより深く、善行の大切さと、悪の不毛さを学ぶのです。

 世の中には、無駄なものは有りません。ただ、人々には、その価値がわからぬものが多数あるというだけのことです。・・・その事に気づいたあなたは、さらにもう一歩前に進めます。・・・人には学びたくても学べないものが実に多い。……ならばどうするか、どうすべきか、そして、何が出来るか。

 人生は学び尽くせぬ課題です。学び尽くせぬことに気づかぬ人がつまり先に進めぬ者であり、学び尽くせぬことを知る人がつまり、永遠を知る者です。

 永遠は遠い。・・・その遠さを目にしてもなお、不安に陥らぬ人は、一体何を自信の源としているのか。

 自信の源泉を掘り当てた人だけが目にする真実が有ります。それを大切にして下さい。


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