これは私が直接受けた相談ではなく、行きがかりで耳にした話題。その経緯はそれなりに面白いかもしれないが・・・本題とは無関係である。強いて言えば、どうも関係者全員の守護霊等はこの時を有効活用したのだろう、という話で、いずれ機会があれば。もしくは、暇があれば。
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旅先に同行していた友人が、そのまた友人から久しぶりに電話を受けた。なにやらかなり深刻な話、というより、深刻な状況らしい。
家を出る、の、死にたい、等といった言葉が聞こえてくる。が、知る人ぞ知る、私はそういう話題というより、そういう言葉を乱発する人には無関心である。はっきり言って私には不向きな話題であって、もとより私宛の相談ではないし、返事をする話題ではない。
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四路五動
ところで、このメンバーには大分以前に、『四路五動』という話をしたことがある。これは私の造語ではなく、つまりは受け売りであり、当サイトでも何度か話題に上げている言葉である。(ただし、引越し途中の現時点ではデータが上げてないかも) これは兵法で、軍が行く道(路)は、前後左右にあり、軍の動きには前進後進左折右折の四動に加えて、不動・・・動かぬ、または、待機や待ち伏せ、という選択肢がある、というものだ。
ところがこの、不動という選択肢は、わかる人にはわかる一方、わからない人にはトコトンわからない。いつもジタバタして、拗らせつくして泣き寝入りか、他人に丸投げして自分は耳目を塞いで、そんなことは無かったと自分を信じ込ませている。
というか、この問題は、当事者のみのものというより、一種の躾に属して先祖伝来のものらしく、当たり前に思っていて直そうとしないし、問題に気づいてもとかく変えられない。変えようにも周囲がみな邪魔をして変える事が出来ない。
変えることが出来ない・・・といえば、それこそ不動であるはずが、動かないのは結果だけで、当事者・関係者はとにかくあくせく色々努力して、結果が変わらないのであれば、それは無駄な努力と呼ばれそうなものなのに、無駄な努力と認識する以前に、その努力を「苦しみ」と受け止めるから、辛い・死にたい、と始まる。
本末転倒
まあ、そりゃ人間いつかは死に至って、その事実には逃げ道が無い。であるから、「死にたい」というのはおそらく是非を論ずる余地なき話題であろう、と、(人々には色々反論もあろうが)私は思う。ただ・・・『死』が避けられぬ話題であろうが、果たして今すべき話題であろうか、とも思う。
つまり、途中・過程を省みることなく、一足先に最終問題に飛びついて、本当に正しい答えが得られるの? と思うのである。
噛み砕けば、人が死を免れぬとしても、人は果たして死ぬために生きているか、それとも生きていれば死が避けられぬのか、どちらだろう?
物理的・客観的に死の瞬間を迎えようとしているならまだしも、五体満足のうちから生きることを諦めるというのは何ゆえか。過程を跳び越して結果に至るのは果たして正しい思索の結果といえようか? それは飛躍と呼ぶべきであろう。その様な思考の飛躍をする人を指して、周囲の人々が気・・・狂い・・・と呼ぶにせよ。
それこそが結論か?
私は思うのだ。本来至るべき結論とはかけ離れたことを考えていないかと。つまり、最初に飛躍があるなら、着地点がずれるのも仕方が無いのでは? と思うのである。
たとえば・・・本当に死にたいのか、それとも今の状況(?)を終わらせたいのか、真の悩みは果たしてどちらであろう?
どうも、そのような人の思想、というか発想には『止まる』という選択肢が見当たらない。 ダメでもともとで何かにチャレンジするとか、いっそ諦めて死んでしまおうとか・・・時期が訪れるまで待つという考えが見えないし、「待て」、「落ち着け」という助言を無視するどころか、腹を立てている。いわば『四路四動』であって、選択肢が無いという思い込みゆえに正しい発想、いわば、ジタバタしない、という選択が出来ないのでは、と思うのだ。
「動かぬ」、という答えに至れないのは、決して頭が悪いからでなく、あえて言えば、その自我を育ててくれた周囲の親族等を疑うことなき素直さの持ち主ゆえであろうと・・・いや、私も、『この世界には愛が足りない』とは思っているが、その一方で、この世界は愛ゆえに拗れてはいないだろうか?・・・どうしても巧くいかないなら、不足しているのは努力や工夫であるのか、反省か、どちらであろう? もしくは、壁にぶつかっているのは、押しが足りないからか、道を選び間違えたのか、どちらであろう? さらには、そういう相談を受けるあなたもまた、生き方に焦っていないか。と。
不動の覚悟。
放っておけば結果が変わらぬ、どちらか、または双方が動かなければ結果は変わらぬ。
さてどちらが動くべきか。さて、もしも自分が動かぬ結果に焦れて、相手が動き出したなら・・・相手がこちらの都合に合わせて動いたなら、それはつまり、動かぬことで相手を支配したということではないか。
動かぬことで相手を支配する術があるというのに、そもそも、人はなぜ動くのか? なんのために待たず、動き・・・いや、なぜジタバタするのか?
多くの人が、敵や状況を支配することよりも、ただ、ジタバタすること、つまりは状況に支配されること、を選ぶ。
無思慮で安易な選択である。 往々、その結果に苦しい思いをすることに気づきながらもその生き方を変えない。
まるで石がただ転がり続けるような生き方である。そういう生き方をしているなら、その人の未来も予測しやすくもあろう。
たとえば、「声が聞こえて苦しい」という。
ジタバタ、といえば・・・なにやら「(人も無いのに)声が聞こえて苦しい」という悩みを良く聞く。端的にいえば聞かなければ良いのである。が、それが出来ない。出来ないから悩んでいるのである。
しかし、たとえば雨風の音や潮騒、川の流れの音、虫や蛙の鳴き声が煩くても、多くの人は寝る。音が煩くて眠れない人もいるが、果たして周囲に音があふれている人だけが、気になって眠れないのだろうか? 眠れる人と、眠れない人との差は果たして外にあるのか、内(自分の心)にあるのか。
声が聞こえて煩い、というのは、果たして語りかける人(?)に責任があるのか、それとも耳を塞げない自分に問題があるのかどちらだろう?
自分の状況が、そのどちらであるか。わかる人はわかる。わからぬ人にはわからない。では、なぜわからないのか?
おそらくは、ジタバタしているからだ。つまりは、自分を思うようにコントロール出来ずにいるからだ。では、なぜ自分をコントロールできないのだろう?