不完全であるが故に。 (補足あり)
2010/04/17私たちは、不完全な世界に、不完全な存在として生を受けた。
さて、この世界における、私たちの役割は何であろうか。
成長するため、という人もあれば、育てるため、という人もある。己の未熟から目をそらして、ただひたすらに他者と世界の粗を探す人もいる。もしくは、不完全ならば、不完全なりに楽しむ人もいるし、単に満足している人もいる。・・・もしくは、変化を恐れぬ人と、変化を恐れる人と二分すべきか。
未完成なものに在る自由と、完成されたものにある不自由。 人が自由意志をもつというなら、選ぶべきはどちらであろうか。
その選択にあるのは、正誤でなくして成果である。つまりは自分をより生かすための選択である。
にも関わらず、不毛な選択をする人ほど、より大きな成果を求めるのは、苦労が生み出す満足を知らぬからだ。
そう、不完全な世界であるからこそ、私たちが必要とされているのである。たとえ不完全であっても。いや不完全であるが故に。
そして、この世界にあって、完成している人が何を必要とするのだろうか? 他者への非難のその他に。 歩むのをやめて罵るばかりの人々。 でも、道ははるか先まで続いている。
私たちは不完全であり、努力を強いられる。が、努力の喜びを知るからこそ、己が不完全であることを受け入れることが出来るのだ。それは往々、苦痛ではあっても幸せなことであろう。少なくとも、自尊心の牢獄に閉じ込められて前に進めない者よりも。他者を嬲らなくても生きられるのだから。
補足: 2010年4月19日
不完全であるから利益を得る者あり、反対に、利を失い、難を得る者あり。
難を克服するのに、静かに淡々と前進する者あり、他を傷つけ、己を傷つけて進む者あり、それでもなお進まぬ者あり、ひたすらに拗らせる者あり。
とはいえ、克服する者と、拗らせる者との間には、賢愚の差があるというよりも、むしろ体質・体癖の差があって、つまり、目的に対して必要な手段をじっくり見定めるか、それとも、好むものにすぐ飛びつくか、という程度の安易な差で、大方決まってしまうようだが。・・・それを、体質だから仕方が無いと諦めるか、克服しようと努力するのか?
つまるところ、
不完全であるから利を失い、難を得る者あり、反対に、不完全であるから利益を得る者あり。
難を克服するのに、すぐ諦める者あり、たゆまず努力する者あり。
それは別に、善悪の差ではなくて、可否、つまり自分はどのような結果を求めるのか、ということだが・・・その至る結果の真価を知らぬ者がすぐ諦める。