自分を責める
他者から責められるのは辛い。・・・赤の他人よりも親に責められるのはもっと辛いが、それは別の話題。・・・とりあえず、他者から責められるのが辛くても、46時中顔をつき合わしているはずも無く、人には大抵、逃げ場がある事を忘れてはいけない。
が、自分が自分を責めたらどうか。人は逃げ場を失う。
他者の責めを真に受けて、自分で自分を責める。・・・それでは辛い。辛くてしかも逃げ場が無ければ、あなたならどうするか?
自己欺瞞?、責任転嫁? まあ、頭を切り替えてさっさと忘れるのが良いが・・・それがつまり、逃げ場があるということだ。
あなたは、自分を責めていないか? 心の中で言い訳を繰り返していないか。嘘を繰り返していないか。物事を拗らせていないか。
仕方の無いことをガタガタ言うな・・・自分の大切なものなら責めるよりも庇え、自分を自分で庇わずに、誰が自分を庇ってくれるのか。
あなたが苦しんでいるのはなぜか?
誰か他者から責められているのか? 他者ならば庇うことも出来よう。だが、自分で自分を責めている人が、一体誰が庇えるのか。
・・・・・・・
つまり、そういうことである。解決できる問題は解決できても、解決できない問題は解決できない、なのになぜ、人はわざわざ問題を拗らせるのか。
人々は、その抱える問題に悩む。だが、本当に手当てが必要なのは悩みを拗らせるその人の性(さが)であろうに。
ああ、つまり、この手の問題には神がかりも役に立たない。
親子の場合
ところで、自分で責めるほどには辛くないとしても、親に責められるのは辛い。で、親に責められた子はどうするのか、といえば・・・子供の反抗に悩む親は多い。が、ひょっとして子供を責めてはいないか・・・自分も気づかぬうちに、自分が気づかぬ方法で。もしくは、自分の意図せぬ方法、または拗らせてしまって。
愚か
苦しみから一刻も早く逃れたい気持ちは良くわかる。だが、逃れるよりもまず解決すべきである。解決を心がけずにただ逃げようとして、結果、拗らせ、苦しみを増しては本末転倒であろう。まあ、そういう人を指して愚かという言葉があるのは不愉快でも心に留めておくほうが良い。
つまるところ愚か者を救う術は無く、ただ、知恵をつける事のみが逆境を救うのであるから。・・・それは一見当たり前のようではあるが、同時に苦しみが伴うことを忘れてはいけない。とくに、当たり前の事柄を、他者に強いようとする者は。
ところで、往々賢そうな人も特定の事柄には愚かであるものだが、愚かな人に賢さを期待しないほうがいい。大抵の愚者は、救いの手を差し伸べられてもなお、同じ過ちを繰り返したがるし、心底救いを求めながらも、自分の過ちを改めようとしないからだ。
拗らせる・・・本来、物事が上手く行くほうが稀なのである。種モミもまかない水田に豊作を期待するほうが愚かなはずだ。が、実にそういう不精な人ほど、多くの助けを集めているのに、どうしてこうもたくさんの助けがあってなお、人は不幸になれるのだろうかと、不思議に思わずにいられない。
(蛇足であるが。ゆえに、不幸な人に同情することは慎むべきだ。それは相手の守護霊への侮辱であるし、相手の拗らせる能力を過小評価していると思えるからだ。)