‘2007/04’ カテゴリーのアーカイブ

霊感と霊障

2007/04/12

2007年04月12日


霊障に苦しむ人がいるとする。――おそらく、一般の人々が考える対処法は、悪霊・低級霊を取り除くことだろう。ナンセンスだが。

なぜ入り込んだのか? ――心を家にたとえるなら、ドアなり、窓なりが壊れているのである。それを直さなければ、追い出しても一時的な対処、泥棒が入らなくても雨風が素通りする。そして心霊知識の不足している人には思いもよらぬかも知れない……神経質になった人は、風音や雨音も声に聞こえるのである。

もう一点、非常に困ったことがある。ドアや窓が壊れていないのに、風音や雨音に神経質になっている人はどうなるか?――つまり、霊障が無くても霊障を受けていると思い込んでいる人は、除霊では救えないのである。

この事では更に困ったことがある。――何らかの事情で、自分に霊感が備わっていると良いのだけど、と思っている人が、霊障もないのに自分が霊障であると信じた場合である。霊障があるといわれたくて霊媒通いをしたりする。

清潔好きな人でも、その体内には大腸菌などを抱えているのと同様、霊媒が見れば、未浄化霊の若干を引き連れない人は居ない。その様な未浄化霊は大抵の場合、いわば人としての見習いであって、見習いすら持てぬ人は人として飛んでもなく未熟と考える方が良いぐらいだ。……当たり前すぎて、神経質な霊媒からはわざわざ隠されるぐらいである。

・・・・・・・

一度、霊障に苦しむと、霊感が開いたのと同様、それを再び閉じることは非常に困難だ。それは、泳げない人が溺れて泳ぎを覚えているのに似ている。本来誰にでも備わっている霊感が、ただ、発揮するチャンスがなかったために使い方が判らず、結局、交霊できなかったものが、たとえば霊障であろうとも、交霊経験を持つことで、自身の霊障を切っ掛けに霊感の使い方を覚えてしまうのである。

実際の所、霊障に苦しむのと、霊感が開くのとでは、違いはただ憑依・通信相手の霊の格の違いでしかない。つまり、迷惑な霊と有益な霊との違いだ。

だからこそ、職業霊媒は訓練で後継者を育てることも出来るし、霊媒の友人。知人に霊感が開くのも同様である。だが、一度泳ぎを覚えた人に、忘れろというのが無理なのと同様、霊感が開けば否応もなく、霊との交通が始まる。その新米霊媒の霊格が充分に高ければともかく、悪霊・低級霊しか懸ってこなければどうなるか、ということである。

そう、大きな問題が、その開けた霊感の通信相手の霊格である。優良な相手で無ければ霊感が開くのは地獄のフタが開くのと同じである。霊感を開くつもりで、霊障を受けては意味がない。――いや、そんな状況があり得ることを知らない人が多すぎる。

心霊知識を真面目に学ぶ人ほど、霊感を得ることの危険と難しさを考える。そして、自身の霊感を知るものはどうすればよいかを考えるが、おそらくまともな選択肢は、ちゃんとした霊媒になることだけであろう。だが、安易に霊感を欲しがる人はいつまでも夢を見続けるか、さもなくば、現実の厳しさを知ることになる。

結局……何を求めるかではなく、誰が、いかなる存在が、あなたに応じるか、なのである。多くを期待すべきでない。何となれば、あなたがそれに相応しい人なら、そうなるであろうし、相応しくないなら、努力しても拗らせるだけだからだ。


知ることが出来ない

2007/04/10

2007年04月10日


衣食足りて礼節を知るというし、忙しければ寛大さもおざなりなのが人の常であるが、一時の情や都合に流されず、理をわきまえて物事に接するのは当たり前のことである。それが出来ないのは、告白であって言い訳でなく、ましてや自慢の種でもない。

都合の良い時には寛大であろうとも、いざ自分が窮地に立てば、わきまえもなく大騒ぎをするのは、ただ人の性が素直に現れて霊性の働き薄く、風に旗がなびくのと同様、風の働きとも、旗のあり方とも区別かつかぬ。

人足るもの、風に吹かれて容易に動かず、波にさらわれても、ただでは流されずにあるようでなくては、人生の吉凶も激しいだろう。すると往々、人は不幸に会っては世を妬み、幸運にあっては増長し、運の善し悪しを喜怒哀楽だけで感じ取って、失敗から学べず、成功を保てず、物事の道理を深く掘り下げない。

忍耐の果てにある達成感や、カゲロウのように儚い幸せなど、知ってはいてもおとぎ話の一小話でもあるかのようにうわの空で、いざという時に思い出すこともない。

物事には仕組がある。往々、その仕組には手が届かぬが、多くの場合、善く行うから善い結果を得、悪く行うから悪い結果を得るのが人生だ。

災難に遭っては誠意を尽し、幸運に合って身を慎しんでなお、大変なのが人生であるのに、その反対に生きてどうするのか? ――事実は、何とか成るものである。ジタバタして自滅しない限りは。

真面目な人は、ただ真面目であるから真面目に生きるだけだが――それを見て、疑問に思う人もいるだろう。「一体、真面目に生きる価値は何か」と。

ただ、期待を裏切られることが減って、将来の恐れも消え、納得が増えて、努力が苦にならなくなること――せいぜいがその程度か? だが、その程度すら手に入らずに懸命に救いを求める人もいる。

禅者はいう。「生きる時は生き、死ぬときは死ぬ。病なら病なりに生きよ」と。その言葉を聞いて安らぎを得るものもいる一方で、仏教の教えなどクソの役にも立たぬという者もいる。―確かにそうなのだ。内容が同じでも、会得する者はそれを活かし、理解できぬ者には役に立たないのが智慧であるのだから。

一つの智慧で、救われる者と、救われぬ者がいる。智慧に力があるのではなく、智慧を生かす力の有無なのである。

同じ無智にも、理解する力があるが、ただその機縁《チャンス》に巡り会えなかった無智と、たとえ機縁《チャンス》があっても、理解する力が無くて知り得なかった無智がある。

答は内にあり、知り得る答えも、為し得る実力も決して平等ではなく、要求される努力も異なる。――そして、努力が必要なのに、努力を惜しむ者が苦悩して得るものが少ない。無駄な苦悩はなるほど無いが、苦悩を無駄にしている人は数限りない。

知らないのではなく、知ることが出来ないのだ。答がないのではなく、理解できないのだから。――遠い道を行かねばならぬのに、近道を探す。近道とは、迂回している人の持つ特権であって、ただひたすら歩かねばならぬ人の持つはずのない道である。


イジメッ子を虐めるのか?

2007/04/07

2007年04月07日


散歩の最中、女性の声が聞こえる。

『社会問題となっている虐めの原因は何だと思いますか?』

世の中には、いろいろ言われていることもあるだろうが、それはそれ、面白い意見があるなら是非聞きたいと耳を貸す。

『虐めの原因は、自己表現力の不足です。相手とちゃんと分かり合えるなら、虐める必要がありません。むしろ、気持ちを理解できる相手なら、誰に虐められても痛みを共感してしまいます。他者が虐めていても辛いのに、自分が虐めて苦しくならないはずがありません。』

……しかし、いくら自己表現が上手でも、相手の理解力が悪ければ、やはり腹が立つのでは?

『なぜ、自分よりも理解力の劣る相手に、腹を立てる必要がありましょう? 劣っている相手なら、腹を立てるよりも情けを掛けるなり、優越感に浸れば良いではありませんか。』

それはまあ、確かに……

『いえ、確かに、子供により小さな子供の世話をさせるのは難しいものです。何しろ忍耐が出来ませんから。

『多くは、相手が愚かに見えるから腹を立てるのではなく、相手が自分の意を汲んでくれぬから腹が立つのです。つまり、赤子がつれない母親相手に泣き喚くのと同じです。これがもし、更に幼い弟・妹に手こずっている子供であれば、一緒に泣き出すことでしょう。』

なるほどそうだ。

『そもそも、「相手の気持ちを察して!」ということに無理があります。自分の気持ちさえ、充分に表現できない人が、どうして相手の気持ちを察することが出来ましょう? 自分の気持ちすら理解できないのですから、他者の気持ちを理解するなんて、それこそ冗談の対象です。まして、大人ですら難しいのが自己表現なのに、子供達に何を期待するのですか? ダメ、ダメ、ダメ、もっと相手の気持ちになって考えなさい!! と、叱るばかりで、ちっとも子供の理解力を理解しようとしない大人達が、結局、自己表現できない子供達に、高圧的に愛する者と接するやり方を教えているのです。

『彼らの心に憎悪があるとしても、憎悪で虐めているのではありません。愛から虐めているのです。もしも本当に愛がなければ、虐めようとすらしないでしょう。関わりを持たずに抛っておかれるでしょう。……皆で無視することも虐めの一つだと思うかも知れません。でも、いじめの対象にならない人であれば、誰かしらと友好を結べるものです』

でも、対人関係の下手な人は大勢いるけれど。

『つまり、自己表現が下手な人です』

確かにそれは当て嵌まる。

『自己表現が上手であれば、いつまでもイジメの対象にはなりません』

でも結局それは弱い者イジメでしょう?

『虐められる者が悪いというのではありません。また、虐めることが良いというのでもありません。ただ、虐める者が強い者であるという偏見を正していただきたいのです。

『心が弱いから、腕力の弱い者・意志の弱い者・自己表現の下手な者を餌食にするのです。そうしなければ、自分が餌食になると知っているから。人々には、または社会的には、強者が弱者を虐めているように見えるかも知れません。でも実際には、弱者が弱者を責めているのです。やらなければ自分が虐められるという恐怖から。彼らもまた、イジメを止めたいという気持ちを持っています。ただ、それを自己表現する力に不足しているのです。

『止めたいけれど、止められない。……それを周囲が・大人達が「止めろ!」というのは、結局、虐める側の弱者を虐めているのに過ぎません。虐めてはいけません。どうすればイジメを止められるか、どうかその相談役に大人達が成ってください』

言わんとする趣旨は判るけれど、社会的認知を得られるかどうか?

『確かにそうですが、更に話を進めます。――子供達が心の危険に直面して、悲鳴をあげ、訴えても聞いて貰えず、非常な手段に訴えてまで自己表現しているのに、気がつくどころか、悲鳴を圧殺しようとさえしています。

『自分と意見の違う者は、圧殺して良いものでしょうか? それは、子供達が意見の違いを理由に他者を虐めるのとどう違うのですか?』

確かに同じに見えるけれど、何もしないのは更に悪ではないか?

『そこなのです。……イジメは、原因不明なのではありません。人が他を虐めるのはむしろ自然なのです。それではいけないからこそ、愛することが大切なのに、虐められている人間ばかりを助けようとして、虐めている人を助けようとしません。なぜ、人が人を愛することが本質であることを信じようとしないのでしょう? 虐めることが異常だと、異常であるが故に救いが必要であるとなぜ思わないのでしょう?

『大人が薄情で、悪しき者を攻撃することだけをするのです。子供達が、子供達なりのルールで、ある子供を攻撃することがどうして不思議なのでしょう? 誰もが当たり前のことをして、事態がどんどん悪化しているのです。

『いえ、押さえ込みには成功し、このままでは、いずれイジメは無くなります。しかし、そんな強権的な社会に属して、あなたは幸せでいられますか?』

私は絶句した。

『自己表現が下手だからこそ、意が伝わらぬことがもどかしくて、暴力や嫌がらせに走ります。伝える努力を放棄しながら、相手の理解には執着して、広がる溝と、嫌悪には気がつかずに、ただ得られぬ理解にもどかしさを感じています。人は一体、好かれたいのか、嫌われたいのか? ――目的と手段とが食い違って見えることでしょう。それは、間違っているからではなく、幼いからなのです。

『地上の法律でも、大人よりも子供への暴行の方がより罪が重いもの。そして大人の罪よりも子供の罪の法が寛大に扱われるもの……でも、地上では、幼い魂ほど、より重い罪に服させようといたします。

『子供の行いは、大人達の鏡。――精神的に幼い者を叱るよりも、成長を促すために努力なさってください。それこそが、社会の成熟に大切なことです。幼い者達と本気で争わぬように、それでは幼稚なままで社会が推移いたします。

『我慢できない子供達より、我慢するだけで本質的な解決をしない大人達が善良であるというのですか? 子供がイジメに走るのは、大人達が子供を虐めるからです』

判るけれど、子供をのびのびとさせていたら社会が破綻するのではないか?……そう、判るけれど、出来ぬ話だ。

『いえ、あなたは知っているはず。親たちは、子供を放置するか、叱りとばすかだけ。口にエサを運んで体は大きくするけれど、その心をなんら豊かにいたしません。……ここでイジメを根絶しても、それは人を救いません。』

反論するのも切ないが……しないよりマシではないか?

『いずれは破綻する――いずれは行き詰まる選択肢なのです。行き詰まるまで前に進むというのは決して利口な解決策ではありません。いえ、子供達は行き詰まって苦しんでいるのに、大人まで行き詰まるまで突き進むというのですか?』

……ぽんと手を打ち、私は言う。 「いや。私ならばそうしないが。」

『そう。事態は、あなた一人の同意を得てもどうにもなりません。でもあなたはイジメに荷担しませんように。それを願って私は退きます』

そして声が止る。

……進んで虐めることはしない。だが、無意識に誰かを虐めていないか? それは私には知りようもない。


愛着気質の失うもの

2007/04/06

2007年04月06日


時々、フッと自分の気質について思う。私は小器用な性質で人の助けを借りずにいろいろとこなすことが出来る。一方で、特に秀でた才能もない。その性質は、他に助けを求めることを嫌う気質から来ているのか、どちらが先にせよ、互いに関連していることは間違いないだろう。

よく言えば独立心旺盛、悪くいえば可愛気が足りない。……それゆえに、親分肌の人からは嫌われることが多い。自覚がないがおそらく、私も親分肌の人を避けているのかも知れない。

……などと、自省するのは、周囲の人の気質や性質を見て不快に思い、相手を不快に思うのは、自省を促されている時、と考えてのことだ。

・・・・・・

ああ、これがいわゆる愛着気質という奴か、と思う人が何人かいる。愛されることに懸命で、献身的、健気とも見える。

ちょっと悪口めいているが、まず、問題点をハッキリさせるためにその性質を描写する。

(私は相手に悪意を抱いていない、何となれば、因果応報というではないか。ただ、巡り合わせに迷惑は感じている)

・・・・・・・

自分の気に入らない相手とは、仕事の話さえも知らん顔。周囲が大人気無いといってもどこ吹く風。そのくせ相手にされないと、「馬鹿にされた!」と激怒する。

一方で、そこに困っている人がいれば(気に入らない相手でなければ)、専門家をかき分けてまで助けようとする。御自分の専門分野であればいざ知らず、素人解決を押しつけて相手に迷惑を掛けても、善人気分で気がつかない。

ある人……というか、異性からは親切であると受けが良いが、同性からは、面倒を避ける態度で接せられているのが、それがどうも尊敬されていると誤解しているらしい。不在時にはどんな噂をされているか気がついていない。

新しもの好きで、「また自慢話をしているよ!」といわれ、「まだ自慢話をしているよ!」といわれる。たまには有益なこともいうが、油断すると知ったかぶりを掴まされる。

・・・・・・・

そういう人の物言い(日常会話)が、どうも生理的に嫌で仕方がなかったのだが、「好きにならなくても良いから、嫌うな!」という、(建前を鵜呑みにしてはいけないと知りつつも)師とそのまた師の教えに沿って、極力聞き流すようにしていたが、あまりしつこく気に障るので、しばらく観察してみて気がついた。

すっかり自慢話だ、とか、余計なお節介だ、と思っていたその人の言動には、なんら悪意も、侮蔑感も含まれていない。ただ、身構えている私が、相手の侮蔑感や、拒否感や、悪意を感じていたのだ。

(あ。個人的な憎悪は向けられているだろうが)

彼の動機は実に単純。――私はこれだけ高機能なオプションを装備していて、便利ですよ、あなたにとって有益な人物ですよ、と、アピールしているのだ。……無意識に。彼に他を貶す意図や悪意などは本来無い。単に自分をアピールしているだけなのだ。それを認められれば相手に好意を抱き、拒絶されると、力業に出てエスカレートし、上手く行かぬことが敵意や悪意を生み出すのである。

いわば、高機能商品の宣伝と同じ。便利な機能は沢山ついているが、便利だからといって必要だとは限らない。そういえば、会話も宣伝と同じで、トピックは並ぶが一貫性が無く、売り文句はあるが意味不明、挙げ句、何か新しいオモチャを買ってくると、最後に値段をいって「安いだろう!」という。

・・・・・・・

でも、相手も同じ人間。いわば一種の競合商品だ。すると熱心なる売り込みは、相手をけ落とすのと同じこと、それでは相手が不快に思わぬはずもない。商品を探している相手に売り込んでいるのではなく、同業者に売り込んでいるのだから、周囲に不快感が漲るわけである。

家族だって、面倒がらなければむしろ不思議、家でゴロゴロしていれば邪魔にされる……ただ、便利に使われているだけ。それはそうだ。当人がそう、し向けているのだから。

愛されたいなら、愛される人になるべきだろうし、尊敬されたいなら、尊敬される人になるべきだ。……便利な人を演じれば便利に使われて、用がなければ邪魔にされるだけ、競技場以外でも競争を仕掛ければ周囲は白け、嫌う相手にごり押しては溝が深まるだけ。不快感を抱く人が増えればそれが噂で伝染する。――どう考えても、愛されたいという目的と、便利さと有用さとをアピールするという手段とは合致しそうにない。

結局ただ、便利さを利用し、つまらぬトラブルを避けるための態度で接せられているだけに過ぎない。まあ、もっとも、愛されているかどうかなんて、人の心を読めぬのでは、当人の思い込み、一種の幻想に過ぎないわけだから、それでも当人は充分に幸せなのだろうが。

私は説教臭い結論を意図しない。ただ、こういう極端な事例を見て、思うのだ。

私の望むことと、私がやろうとしていることは一貫性があるのか、と。手段と目的とが正しく関連していなければ、どこに行き着くかは判らぬではないか。――実際、困って相談を持ちかける人の多くは、手段と目的との食い違いに気がつかずにいる。


蛇足だが――建前を鵜呑みにすべきではない。

相手を嫌わぬように努力するのは結構だが、その為に相手の欠点から目を背けなければ行けないとしたら、自分の欠点の中だけに、修行・向上のチャンスを見出さなければいけなくなる。他者の欠点で、修行・向上することが出来るなら、それもまた早道であろう。最も、それでは敵が増えるかもしれない。増えた敵は、果たして修行の助けとなるか、邪魔となるか、それも判断が必要だ。


しかし、便利さで気を引き、大人気なさで反感を圧殺するのは、元気だから出来ることだ。――いつまで、それが続けられるのだろう? それこそどうでも良いことか。


経験から学ぶのでは遅い

2007/04/05

2007年04月05日


袋小路には道がある。……ただ、先にいって塞がっているだけだ。決して入り口が塞がれているのではない。

・・・・・・・

「そんなことはやってみなければわからない!」という。もしも道を間違って直ぐに気がつくならば、試すことのリスクは少ない。だが、延々歩んだ結果、違う道であればどうなるのか、そして、行き止まりであれば。

再び進路を変えるだけで済むならばまだ良いが、せっかく歩んだ道を後戻りするのは空しいものだ。それにもまして……やってみなければわからないのに、行き詰まって、努力が足りないのか、道が違っているのかの判断がつくのか? まして、失敗してみなければ良否が分らぬというのであれば、正しい道を選ぶことが出来るのか?

歩む道を後戻りすることは出来るが、無駄にし、失われた時間は巻き戻すことが出来ない。……多くを失う可能性を賭けてまで、その選択は試す価値があるのだろうか? いや、行き詰まるまで判らぬ人に、選択肢の価値が判断できるのであろうか?

経験から学ぶ事の至らなさがここにある。……もっと良否を思慮すべきだ。

・・・・・・・

「私にも霊感があれば、道の正しさを判断するさ」と、うそぶく。

では、あなたは霊感の正しさを判断できるのか?

あなたは騙されぬというのか? なりすましを見抜けるというのか?

情報が多いことは必ずしもあなたを救わない。もしもあなたが判断出来なければ、情報の多さは迷いのもとであろう。または……引用して言い訳上手になるだけかも知れない。


繰り返される失敗

2007年04月17日

そもそも、成功する人は成功するし、失敗する人は失敗する。その事を、成功する人は当たり前に捉えているし、失敗する人はそんなことがあるはず無いと信じている。つまり、判っている人が成功し、判っていない人が失敗しているのだ。……そこには断絶がある。

ある種の人は、努力しないが為に何も得られぬ。まあ、それは論じるに値しない。

また、別な種類の人には、――上手く行かなければ、当たり前に人は頑張る。それでも上手く行かなければ更に頑張る。……破綻するまで。頑張っている内には種々の問題が目に入らず、破綻して始めて空しさに襲われる。

まるで、降るような星夜に、星に手を伸ばすのに似ている。どうせ届くはずがないと諦める人、または、屋根にハシゴを掛けて一歩でも近づこうとする人。「どうせ手が届くはずがない」または「星に手が届きそうだ」という、主観に支配されて生き方を定めている。

更に一方は、諦めているが故に何も得られず、もう一方は、挫折するまで間違いに気がつかない。ものぐさか、努力家かの違いはあるが、どちらも結果でしか、方法の善し悪しを判断できない。

ああ。そういう人々をいう俚言があるが、ここではそれを振り返らない。


人生の意義/生き甲斐

2007/04/03

2007年04月03日


生はつまるところ困苦である。その困苦・労力に値することがあってこそ、幸せを感じるものだ。世の中には、自分の価値や、生甲斐を見いだせずにいる人も数多いが、そういう人で幸せに生きている人をまずみない。もしも生甲斐がなくても幸せという人があるなら、それは単に自覚がないだけであろう。

……いったいどこに自分の価値があり、何を生甲斐とすればよいのか。 ……煎じ詰めれば、一体幸せは何所にあるのか?

答は明白であろうに迷うのは、理窟と現実と理想との三者のギャップに悩まされているのだろうが、なぜ歩み寄ろうとしないのだろうと思う。人にとって不幸とは理想が成らぬことをいうのだろうが、現実が不幸と思えることこそが、なによりも不幸かも知れない。人生、至る所にチャンスはあろうが、人に老いがあり、死があるなら、チャンスはいつまでも待っているはずがない。

楽をして生きようが、苦労して生きようが、いずれ人は死を迎えて人生の決算をせねばならないが、老いや死という苦難……少なくとも世間一般が苦難と見なすところの……に、報いて足りるだけの価値ある人生を歩めるだろうか?

あなたは気がつかずにいるかも知れないが、人は時の区切りと共に、価値ある事を為したかと反省をするものである。たとえば日曜日の夕刻、明日から仕事や学校が始まることを思って、休日の一日が無駄であったと後悔することはないか? たとえば夏休みの最終日や、大晦日になって一年を振り返りはしないか? ……そして、死の直前に置いても。

……嫌なことから逃げてしまうと、後悔が増える。時として逃げることも仕方がないとしても……その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?

善く生きた、と胸を張れる人もいれば、ひたすら死を恐れる人もいる。そして、年老いてから慌ててもどうにもならないことがある。


いわれなくても判る人はわきまえてなお、そういうこともあるのだと勉強に関心を持つ。

いわれても判らない人は、人生の何たるかを学ぶ気もない。……それを称していう。「付ける薬がない」と。


業で身がすくむ

2007/04/01

2007年04月01日


原子力発電に関する番組(ガリレオチャンネル)を見た。―― 番組・コメンテーターのいうほど、原子力にメリットがあるのか、デメリットは少ないのか、という疑問はさておき、原子力エネルギーの利用を難しくしているのは、一般大衆を覆う生理的恐怖感であると思う。……恐怖が議論を歪めている。

確かに必要性はあるのだろう。そして、知られている以上に危険性もあるのではないか。だが、これは心霊研究に関心のある者ならば、よくわかることと思う。……関心があり、恐怖感があれば、怪談が生じる。そして迷信も。

恐怖感を煽らぬようにするため、情報を隠す。隠すから安全が疎かになる。……原子力発電所の記録偽造問題はかくも問題視されるが、私は、水力や火力発電所の記録偽造問題がニュースとなったことを目にしたことがない。

これは恐るべき問題だと思う。記録偽造がではない。かくも重大な問題が、きちんとした議論が出来なくなっていることがだ。……反対するのも国民の義務ではある。だが、原子力の危険性を研究しているのは誰であるのか。当然、原子力の研究家であり、その二次情報を基本にしていることだろう。だが公式情報の分析だけで本当に危険性が理解できるのか。そして原子力は設置反対を理由に、設備や資金面で充分な研究ができるのか? 賛成論者から情報を依存しているのに、情報操作の心配性がないといういのだろうか?

知らずに怖がる……恐怖も又、人類を存続させてきた要素の一つだろう。だが、知らなければ逃げることしか出来ず、逃げても逃げ切れるとは限らない。

そもそも、原子力の必然はどこから生じたのか? ……二酸化炭素の増加と化石エネルギーの枯渇という障害と、さらに多くのエネルギーの必要性である。 端的にいえば、豊かさの代償、豊かさを捨てる覚悟なくして原子力から逃げることが出来るのか?

さらにいえば、我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。つまりグローバルな視点で原子力を論じなければならないわけだが、他者に「豊かさを追い掛けるな」と価値観を押しつけることが道義的に出来るのだろうか? ……太平洋戦争での侵略者である我が国が?

恐怖心は、決して無駄ではないと思う。だが、理性を捨てるほど恐怖心が大切とも思えない。いや、獣や盗賊、災害などの眼前の障害から逃げれば良かった時代ならば、恐怖心が人を救ったかも知れない。だが、事情があまりに複雑になった現代において、恐怖心はむしろ、危険性の巣となってはいないか?

拡げて考えるなら、平和運動・戦争の反対も、むろん正しいと思う。だが、戦争が恐いから、飢餓が嫌だから、という理由で反対するのはやはり議論を成り立たせないのではないか。恐怖に支配された戦争反対論では、国外の戦争を放置し、飢餓を放置することにならないか。資源の輸入が発展途上国の利権争い、ひいては内乱を助長しているかも知れないのに。……もしも資源国が平和で安定し、結束して値段をつり上げたとしたら、日本はかくも豊かでいられたのだろうか?

恐怖心が危険を疎かにし、豊かさの追求が苦悩を有む。そして一番素直な解決策は豊かさの放棄である。……現代社会において、様々な技術の産物を、恐怖を理由に放棄せよというのであれば、そもそもなぜ豊かさを追求したりしたのだろう? それこそが全ての苦しみの源だろうに。

今さら後戻りできないのに、前に進むことに躊躇する。どちらにもリスクはあるのに。……それが人間であるとすれば、心霊思想が輝かしい未来を提示しつつ、人々の妬みや怠惰な心さえも克服できないのも、実に同様の理由であろう。


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
老研イベントリスト
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト