自分探し
2007/03/29答は内にある
2007年03月29日
どんなに素晴らしい叡智に接しても、理解できなければ人生に生かすことは出来ない。人生に生かすことが出来なければ、その叡智なるものは絵に描いた餅に等しい。その智慧は本当に有益であるのか? 単に美句麗文が並んで魅力的である、というだけかも知れない。または、他を感心させるのに便利なのかも知れない。
知ることによって、人生が変わっていくのを感じる体験、その体験は霊性を活性化させる……いや、霊性などという曖昧な表現を避けるなら、清潔な創造性というべきか。他者を恨んだり、復讐を考えたり等という暗い想念、ある意味は現実逃避、自己逃避。……それまでの自分が出来うる、もっとも気の晴れる心の用い方が、突然くだらなく思え、自分が進む未来の光景が感じられて、早くそれに、それに一歩でも近づきたくなる感覚……生きるって楽しい! と実感する。
本当に嫌な相手であれば、憎悪するよりも、煩わされずに前に進む方がよい……その理屈が実に当たり前に思える心境・境涯だ。
そう、実をいえば、人を恨む気持ちのどこにあるかを私は知っている。自分の良き未来に確信を持っている人なら、憎悪するよりも前に進むものだ。人を恨んで、その恨みを捨てられないのは、自分の未来が今よりも暗いと確信している人なのである。一人で落ちるよりも、他を道連れにしようという魂胆。……そんな不毛な考えに囚われるのは、論理なく、知識でもない。自分の何を信じるかなのである。……自分を理解してこそ、叡智が役に立つ。
同時に、表面を取り繕ったところで、自分の未来を明るく思い描けない人には、どんなに誠意をつくし、論理を駆使したところで説得や感化は出来得ない。なんとなれば、自信を失った人は投げやりになって他からの説得に価値を見出さないからだ。……その意味では、人の理解力とはつまり「自信」と同義ではなかろうか。
たとえば仕事で何らかの提言をする。部下の才能を妬む上司は、それを圧殺しようとする。自信を持っている管理職でないと、部下の才能は引き出せない。
人生が順調にいっていた人は、他者の言葉に寛容な態度を取るが、一転、たとえば婚約が破棄されたりすると、一々他人に突っかかるようになる。
……など、など。
理解には自信が必要だ……外部にどんな素晴らしい知識があっても、内面に自信がなければそれを生かすことが出来ない。つまり、答は内にある。
兎角、焦る人は、内なる答に気がつかない。目が外に向けられているからだ。
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人生の打開策を模索して、いろいろと情報を集め、自己啓発のための勉強をする。だが至った結論は、何をやってもダメだ……という諦め。小細工を重ねて、誠意が欠けていることに気がつかない、いや、「誠意」という、曖昧な理由を提示されて腹が立つ。
実をいえば、自分がやっていることの意味をちゃんと理解しているか、どうかの差なのだ。小細工とは不完全・不十分な物まね……良さよりも間抜けさが目立つ行為である。
自分の行動の意味を十分に理解せず、気がつかずにただ、自分を認めさせるために行動しているから、良い結果も出ず、ただ、周囲から面倒がられ、自己顕示を鬱陶しがられるのに、その対策として、また稚拙な行動を取るから信頼が更に失われる。
……答は外ではなく、内にある。いくら学んでも、理解するためには、理解するに足りるだけの自分が必要なのだ。
自己顕示欲の現れと、指摘されて又腹が立つ。別に進んで目立とうとしているわけではない。いや、目立つのは好きだけど。……人生を好転させるためにいろいろと勉強しているのに、自分の性格のどこから来るかを知らない。
……問題解決の答は内にある。上手く解決できぬなら、解決の障害となっている原因をなぜ追求しないのか? 答だけでなく、苦しみが長く続く体質も、内にある。
兎角、顕示欲が盛んな人は、内なる答を軽視する。目が外に向いているからだ。
自分探し
2007年04月01日
私は幸か、不幸か、自分探しの旅なることをしたことがない。ただ、忙しくなると無性に籠りたくなる。いわゆる「引き篭り」と似ているかも知らないが、引き篭り先は自宅ではなく、むろん、どこでも良いわけでもなく、やはり霊的に清浄なところ――精神統一の邪魔の入りにくいところ、出来ることならば、高級霊等の助言が得やすいところを望む。
そもそも、答が内にあるなら、探すのは自分の中だ。出歩けば見つかるというものではない。むしろ外を出歩けば問題がすり替わりかねない。……もっとも、精神統一の大切さを知らない人は、往々、自らをクタビレさせ、諦めて始めて自然に精神統一に入る。その為に……疲れ果てるために旅が必要だというのであれば、なるほど自分探しの旅にも意味があるのだろう。
いや、非日常だからこそ出会えるもの、知り得るものもあるかも知れない。……無いかも知れない。そもそも、シャイであるが故に自分らしさを失っている人なら、果たして見知らぬ人に囲まれて、自分らしさを見いだせるかどうか。
それは果たして確率の問題いか? 「縁《えん》」という、捉えがたい言葉は、論ずるに値するとは思うが、煩を避けて今回は避ける。その上でいえば、足りないのは、環境の変化であるのか? 当人の努力であるか?
場当たり的な努力が実を為すには、よほど祖先の引きが必要だと思う……それこそ「縁《えん》」が足りないということだが。
世の中には、いろいろなことを試す人がいる。心霊を学ぶ身にとって何とも遠回りに見えて、もどかしくも感じるが、でも、遠回りでも道は道だ。遠回りだからこそ出会うこともあるだろう。その上でいえば、出会うなら、なぜ出会ったのか、出会わなければ、なぜ出会わないのか、それを考えることこそが本当の意味での自分探しでは無かろうか?…… 一体自分は誰に生かされているのか……生かされずに生きている者であるのか……そう思える人も世の中には多かろが、全ての人が能動的にのみ生きているわけではない。
少なくとも、正しいことを為すよりも、正しい形で為すことを大切にするのはなかなか難しいことと思う。