‘2007/03’ カテゴリーのアーカイブ

自分探し

2007/03/29

答は内にある

2007年03月29日

どんなに素晴らしい叡智に接しても、理解できなければ人生に生かすことは出来ない。人生に生かすことが出来なければ、その叡智なるものは絵に描いた餅に等しい。その智慧は本当に有益であるのか? 単に美句麗文が並んで魅力的である、というだけかも知れない。または、他を感心させるのに便利なのかも知れない。

知ることによって、人生が変わっていくのを感じる体験、その体験は霊性を活性化させる……いや、霊性などという曖昧な表現を避けるなら、清潔な創造性というべきか。他者を恨んだり、復讐を考えたり等という暗い想念、ある意味は現実逃避、自己逃避。……それまでの自分が出来うる、もっとも気の晴れる心の用い方が、突然くだらなく思え、自分が進む未来の光景が感じられて、早くそれに、それに一歩でも近づきたくなる感覚……生きるって楽しい! と実感する。

本当に嫌な相手であれば、憎悪するよりも、煩わされずに前に進む方がよい……その理屈が実に当たり前に思える心境・境涯だ。

そう、実をいえば、人を恨む気持ちのどこにあるかを私は知っている。自分の良き未来に確信を持っている人なら、憎悪するよりも前に進むものだ。人を恨んで、その恨みを捨てられないのは、自分の未来が今よりも暗いと確信している人なのである。一人で落ちるよりも、他を道連れにしようという魂胆。……そんな不毛な考えに囚われるのは、論理なく、知識でもない。自分の何を信じるかなのである。……自分を理解してこそ、叡智が役に立つ。

同時に、表面を取り繕ったところで、自分の未来を明るく思い描けない人には、どんなに誠意をつくし、論理を駆使したところで説得や感化は出来得ない。なんとなれば、自信を失った人は投げやりになって他からの説得に価値を見出さないからだ。……その意味では、人の理解力とはつまり「自信」と同義ではなかろうか。

たとえば仕事で何らかの提言をする。部下の才能を妬む上司は、それを圧殺しようとする。自信を持っている管理職でないと、部下の才能は引き出せない。

人生が順調にいっていた人は、他者の言葉に寛容な態度を取るが、一転、たとえば婚約が破棄されたりすると、一々他人に突っかかるようになる。

……など、など。

理解には自信が必要だ……外部にどんな素晴らしい知識があっても、内面に自信がなければそれを生かすことが出来ない。つまり、答は内にある。

兎角、焦る人は、内なる答に気がつかない。目が外に向けられているからだ。

・・・・・・・

人生の打開策を模索して、いろいろと情報を集め、自己啓発のための勉強をする。だが至った結論は、何をやってもダメだ……という諦め。小細工を重ねて、誠意が欠けていることに気がつかない、いや、「誠意」という、曖昧な理由を提示されて腹が立つ。

実をいえば、自分がやっていることの意味をちゃんと理解しているか、どうかの差なのだ。小細工とは不完全・不十分な物まね……良さよりも間抜けさが目立つ行為である。

自分の行動の意味を十分に理解せず、気がつかずにただ、自分を認めさせるために行動しているから、良い結果も出ず、ただ、周囲から面倒がられ、自己顕示を鬱陶しがられるのに、その対策として、また稚拙な行動を取るから信頼が更に失われる。

……答は外ではなく、内にある。いくら学んでも、理解するためには、理解するに足りるだけの自分が必要なのだ。

自己顕示欲の現れと、指摘されて又腹が立つ。別に進んで目立とうとしているわけではない。いや、目立つのは好きだけど。……人生を好転させるためにいろいろと勉強しているのに、自分の性格のどこから来るかを知らない。

……問題解決の答は内にある。上手く解決できぬなら、解決の障害となっている原因をなぜ追求しないのか? 答だけでなく、苦しみが長く続く体質も、内にある。

兎角、顕示欲が盛んな人は、内なる答を軽視する。目が外に向いているからだ。


自分探し

2007年04月01日

私は幸か、不幸か、自分探しの旅なることをしたことがない。ただ、忙しくなると無性に籠りたくなる。いわゆる「引き篭り」と似ているかも知らないが、引き篭り先は自宅ではなく、むろん、どこでも良いわけでもなく、やはり霊的に清浄なところ――精神統一の邪魔の入りにくいところ、出来ることならば、高級霊等の助言が得やすいところを望む。

そもそも、答が内にあるなら、探すのは自分の中だ。出歩けば見つかるというものではない。むしろ外を出歩けば問題がすり替わりかねない。……もっとも、精神統一の大切さを知らない人は、往々、自らをクタビレさせ、諦めて始めて自然に精神統一に入る。その為に……疲れ果てるために旅が必要だというのであれば、なるほど自分探しの旅にも意味があるのだろう。

いや、非日常だからこそ出会えるもの、知り得るものもあるかも知れない。……無いかも知れない。そもそも、シャイであるが故に自分らしさを失っている人なら、果たして見知らぬ人に囲まれて、自分らしさを見いだせるかどうか。

それは果たして確率の問題いか? 「縁《えん》」という、捉えがたい言葉は、論ずるに値するとは思うが、煩を避けて今回は避ける。その上でいえば、足りないのは、環境の変化であるのか? 当人の努力であるか?

場当たり的な努力が実を為すには、よほど祖先の引きが必要だと思う……それこそ「縁《えん》」が足りないということだが。

世の中には、いろいろなことを試す人がいる。心霊を学ぶ身にとって何とも遠回りに見えて、もどかしくも感じるが、でも、遠回りでも道は道だ。遠回りだからこそ出会うこともあるだろう。その上でいえば、出会うなら、なぜ出会ったのか、出会わなければ、なぜ出会わないのか、それを考えることこそが本当の意味での自分探しでは無かろうか?…… 一体自分は誰に生かされているのか……生かされずに生きている者であるのか……そう思える人も世の中には多かろが、全ての人が能動的にのみ生きているわけではない。

少なくとも、正しいことを為すよりも、正しい形で為すことを大切にするのはなかなか難しいことと思う。


苦境

2007/03/25

 

2007年03月25日


苦境を歎く者を、救わんとする霊も多い。だが私は苦境を尊ばぬ。人に苦しまねばならぬ理由など何もない。ただ、為すべき事を為さぬから、前に進めと、ムチ打たれるのである。そのムチ打つ者は神でも悪魔でもない。愛でも憎しみでもなく、ただ「必然性」である。

時折、苦境を歎く者をハタと見据える。無論、それぞれに性質の長短、能力の長短はあろう。だが、足りぬのは、時でも物質でもなく、努力である。

その努力が辛いという者も多い、だが、何を努力しているのやら。

不自然な生き方に疲れているだけではないか。欲望をいささか削ればもっと楽に生きられるだろうに。貧しき者には不平が少なく、豊かな者に不平が多いと同様である。要は豊かさではなく、その慾の大小が苦しみの元なのである。

生きる術は誰にでもある。だが時として生きることよりも大切なことがあって、そこに真の苦しみがある。……だが多くの人は、生きるよりも大切なことに悩むのではなく、なくとも命に別状のないことで悩んでいる。

その様な者に本当に必要なのはなにか? 永遠に不足を歎き続ける在り方であるのか、それとも、真の実現を追求する生き方であるのか?

そう、生きるとは生むことである。充分に生み出していれば、大きな不足に悩むこともない。苦しむ者は、消費するばかりだから不足に苦しむのだ。


楽を求める人々

2007年03月24日


「また説教か!」と、うそぶく人がいる。内心で舌打ちする人もいる。……「知りたいのは楽に得る方法なのに!」という。

苦労さえすれば成果が出るというわけではない。にも関わらず楽を求める。 彼らの欲するものは、なんであるのか?――楽か? それとも成果か?

楽を欲するなら、何もしなければよい。

成果を欲するなら、努力すればよい。

その単純な判断に迷えば無駄が生じる。無駄の克服には更なる努力を必要とするだろう。――なぜにわざわざ苦しみを増やすのか? 楽を求めて苦しみを増やす。

思うほど出来ぬ事への焦り、何も出来ぬ事への焦り、どうして良いのか判らぬ事への焦り、焦り、焦り、焦り、――挫折、そして、自己損失へと至る奈落をのぞき込みながら、あがくことで破局を早めている人々。

彼らが求める楽とは、他とは競わない境涯であるのに、楽に勝つ方法と問題をすり替えるから、人々の助言が役立たず……むしろつけ込まれて食い物にされる。

利口そうに見せようと努力して、かえって愚かさをさらけ出す人々。必要なのは、真実を言わぬ人々、真実を知らぬ人々……嘘の共犯者だけを大切にして、この世から真実を追い出そうとする人々。

神々は皆見ているというのに。

楽を求める人々……過大な自尊心は降ろそうともせずに。

楽を求める人々……見栄はりな憑依霊を追い出そうともせずに。

楽を求める人々……苦難の道を選びながら。

楽を求める人々……それで本当に幸せなのか?


「苦境」、質問に答えて。

2007年03月26日

苦境」に関する、質問に答えて。……メール及び、掲示板にて、ご意見・質問等ありました事へ、私の感じたことを下記、記します。


仏教では善因善果といい、キリスト教でも、種を播かねば芽が出ない等といい、因果律を知ることの大切さを説いております。しかし、現代人の多くは、その因果律が間違いとはいえないまでも、往々正しくないことについて、いろいろと複雑な感情を抱いております。

うまく行かぬなら、なぜ疑わないのか? なぜ考えないのか? なぜ尋ねないのか?

多くの人は、聖なる教えを、ただ知って行いません。それではどんな智慧も役には立ちません。基本的なところでつまづいているのに次の教えに進んでは、多くを知って行わず、更に多くを知ってなお行わぬことになります。

行わないから理解せず、理解できないから学んで行わず……このような悪循環に陥ることが、人生を無駄にするということです(穀潰し)……今、他から穀潰し、との声が聞えましたが、生活の糧を犠牲にしているのに価値ある行いを怠るなら、それは大いなる簒奪というべきです。

(注;簒奪とは君主の位を奪うこと、つまり、人としての義務を果さず、人としての権利だけを行使する。という意で用いている。)

・・・・・・・

さて、因果律が巧く働かない、その事についていうなら、まず人が最も困惑をするのが対人関係においてのことです。相手もまた因果律に従うのですから、あなた一人が努力したところで事態が緩和するとは限りません。相手は因果律に逆らうかもしれず、また、あなたが善かれと思うことに相手が同意するとは限らず、相手が忙しければあなたの親切を迷惑に感じるかもしれません。ましてや、相手も人なれば、時には苦痛や悲しみといった情念に囚われて、理知的な行動を取れるとは限りません。

原則は至って簡単ながら、行うのは決して楽ではない。でも、原則を無視しては解決の目処も立たない。そういうことなのです。

(物理学を知っても飛行機が作れるわけではないが、物理学を知らずして飛行機は作れない)

知ることは第一歩であって、最後ではないのです。

・・・・・・・

苦労の意義についてですが、これは意見の分れるところです。受取り方だけの問題ではなく、それぞれの覚悟によっても見方が大きく変ります。

人がなぜ苦しむのか、といえば、人々(複数形であることに注意)が未熟だからです。適切に行っていれば、少々の逸脱はお互いの協力の下、適正な方向にたちまち修正されるでしょう。ところが、現実の人の世は、少々の逸脱が多くの反感を受けて追出しの対象になりかねません。……誰もが神の手の上におりながら、その乗客たる人々が勝手に互いを追出しあっているのですから、その様は一見地獄絵図のようなものです。争うことを止めればまだまだ大勢乗れるのに、争い、競うから窮屈に感じて、ただ居るだけでも内心に苦しみが生じるのです。

しかし、「苦」は達成を得たときに総て悦びに変りうるものです。……本当に問題なのは、互いに苦しめ合う世の中に生きていることよりも、苦しみの中に意義を見いだしかねることかも知れません。意義を見いだし、その意義を満たすことで、苦を解消する達成を得られるのですから。

その意味において、苦の在り方に意義を見いだすのは大切なことです。

また、人より不幸が多いというのは、二つの問題が見て取れます。他よりもチャンスが多いと同時に、チャンスを生かすのが巧くない……困難をすり抜けても結局スリ傷だらけ、これでは痛くてたまらない……なるほどそう感じるのも無理はありません。

その理由には様々ありましょうが、質問者に見られるのは、愛情不足です。神の愛を願っているから、それぞれの困難にあっても、自力よりもまず、誰かの救いを期待している。いよいよと成らなければ(自力での)努力をしないから、出遅れて避けきれずにいるのです。

しかし、神の愛は別なところにあります。あなたが避けきれぬ問題にあわなくても良いように……それこそが神々のはかりごとなのです。

苦は無駄ではない。……それは確かです。質問者の方はしっかりとそれを受け止めていらっしゃいます。ですが、努力の対象と、苦痛とは分けてお考えになる方が、より、真実に近づくことでありましょう。

神は試練を与えはしますが、ただの苦を与えるとは考えられません。

より努力する人は多くの試練を得ますが、多くの苦を与えられるわけではありません。

あなたは、苦ばかりを気になさっていらっしゃいますが、一方では多くのものを獲得なさっているはず。そのバランスを考えずに、御自分の不都合の多さに事実を歪めてはいらっしゃいませんか?


不満

2007/03/25

2007年03月25日


個々それぞれに、いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。歩み去った後に不満が何になるのか。今日足りるものは明日足らず、今足らぬものは明日余るやも知れぬ。それが物質世界で生きる日々の営みである。好意的皮肉家がいうとおり、不満のない人はなく、ただ、不満に気が付いた人と、気が付かぬ人とがいるだけのことだ。

ならば、ただ不満を口にし、心を悩ますことに何の意義あるか。たとえ不満があろうとも、前に進めるなら前に進め。目的は進むことであって、充足することではない。充足を目的にしているから、不満が気になる。本当に理解する人ならば、歩まぬからこそ不満が生じるとも理解するだろう。


餓鬼の心と救い方

2007/03/24

2007年03月24日


とある女性の供養を頼まれた。……かいつまんで話すと、その人の修行の妨げになっている霊を引き出し、別な所・境涯に送るという手順だ。アー、たいして珍しい話ではない、ないが……今日は珍しく、引き抜かれた霊の行き先を見せられた。場所は広いお堂(大寺の講堂)のような所で、畳の上に板が引かれて、その板がテーブル代り、アグラをかいて一列に座っている霊達(ほとんど亡者という雰囲気、以下は亡者と呼称する)に、一人の僧侶(霊)が、椀に入った薄そうなお粥を配っている。

今さっき、引き抜かれた亡者の前にも、その椀が置かれた時、亡者は不遜な態度でお椀をひっくり返した。すると、品のよさげな着物姿の女性がさっと私の視野に飛び込み、それを片付け始めた。とっさに私は、この女性が除霊対象者の守護霊であることを認識した。

が、お椀を配っていた僧侶がそれを見咎めて言った。

『自分でやらせるのです。そうしなければどんなに飢えても次は与えられません』

女性守護霊は、やむなくお椀を置いた。

亡者は、と見ると、ひきつけを起している。席を立ってどこかに行こうとしたのだろうが、床に縫いつけられたかのようにもがいている。

僧侶は続けて言う

『彼の霊は、生前もろくに働くこともなく、母親の差し出す食事を蔑ろにしたものです。だから飢えて餓鬼のようになっている。粗末に思えるものも大切にしてこそ、この者の罪は許されます』

女性守護霊はいう、

『なるほど自分の責任を果たすまでは、許されないということですか』

……理屈はそうだが、正直、三文芝居というか、子供だましの仏教説話にも思えて気が萎えてしまった。

すると、眼前に私の守護霊がにこやかに現われて言う。

『つまらぬか。お前の性格ならばそう思うだろう。では、もうちょっとひねった解説を聞かせてやろう。

『霊界で粥など啜ったところで腹はふくれぬ。まして見るからに薄そうな粥のこと、その水のような粥ですらご馳走に思える者ならいざ知らず、お前のように普段充分に食べてきた者であれば、こんな物、食べればかえって腹が空く、位に思うことだろう。』

……確かにそう思う。

『かえって腹が空くと思うから突っ返した。苦しみを救うと言うからついてきた所で、責め苦が待っていたのかと思ったから出ていこうとした。だが、そうはさせぬと皆が思うから、地面に張り付きもがき苦しんでおる。』

『やれやれ、まったく気の利いた霊共の慈悲などというのは乱暴で敵わん。と、助けまで求めておる。……ほら、お前が助けてくれるのではと、哀願しているのが見えぬか?

『だが、本当に足らんのは何か? 餓鬼だというが、一体誰が飢えさせているのだ? わし等(僧侶の霊達)は、水のように薄くともまずは一杯の粥を与えたぞ。 足りなければ何杯でもくれてやる。もっと固い物がよいのならば、それだってくれてやろう。

『だが、彼の霊は、欲しがらず、受取らず、蹴り飛ばしたのだ。……とっくに死んで胃袋もなく、時間の流れも分らぬというのに、空腹に苦しみながら、でも、与えられた物を欲しがらず、受取らず、蹴り飛ばすのだ。

『彼の霊が欲しがっているのは飯ではない。彼の霊は喰いたいのではない。目の前に、自分のために、ご馳走を並べて欲しいのだ。自分のためにわざわざ用意して欲しいのだ。チヤホヤされることに飢えているのだ。足らんのではなく、欲しいのだ。

『足らん物なら満たせば終わる。だが欲しがる事には終わりがあるか? 味も見ぬまま、もっと良い物、もっと良い物と、欲しがるばかりで切りがない。それでは相手をするのも面倒になるし、なによりも不毛である。……くだらなかろう?

『その心の餓えを癒すには、与えることよりも、自ら生み出すことの喜びを教えることが大切なのだ。

『こぼれた粥など、どうでも良い。あの世でこぼれた粥など、まったく幻想となんの違いがあろうか。皆が忘れれば、そこには無が広がる。そういう世界なのである。こぼした事さえ忘れれば、そこは綺麗さっぱりと新品の如き床が現われる。

『わし等がさせているのは後片づけではない。……こぼした物から椀一杯の粥を生み出す作業だ。それが出来れば、次は亡者達への食事の仕度を手伝わせる。その後は子孫の者等の世話係だ。

『説教臭いことなど、実は何もしておらぬ。わし等がさせているのは、理屈ではなく、物を生み出すことを楽しむことである。散らかしたから片付けろというのではなく、それを材料に生み出せというのだ。』

……ふーん。面白そうだけど、でも、出来るかな、意地悪じゃない?

すると、私のよく知る笑顔がそこにある。底抜けに無心なようでいて、何やら意地悪げな笑顔が。

『たとえ真意に気がつかなくても、それを考えているうちは他に迷惑を掛けまい?』

……え!? それで良いの?

『わしはお前の守護霊であって、あの亡者のではないわ!』と、笑いながら視界から消えた。そしてフッと見ると、亡者はしきりに謝っている。自分の行いに、自分の過去に…… 一体いつまで続くかは知らないが。

・・・・・・・

与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。…… 一方で、与える者から見れば、この苦労を誰が判ってくれるのか、と不平を募らせている。与える側も、与えられる側も、不足を感じて苦しんでいる。

餓鬼の心って、地上では本当にありふれているのかも知れない。たとえば新しい心霊知識を欲しがりながら、でも、霊媒を嫌っている人など……自分で蹴りながら、でも欲しがるという苦しみの中で生きている。

ああ、そして。

こんな餓鬼を引きずって生きていたあの方は、やはり、苦労を認めようとしない世間に対して、知らず知らずに不満を溜め込んでいたのかも。改めて手を合わせてみる。誰のためでなく、認めるのも恥ずかしいことだけれど、努力が報われぬと、時々不平が心によぎる自分のために。

ちょっと意地悪で、でも、温かい、我が守護霊の願いに触れる。(というか、スパイスが効いていない配慮は私の心に届かぬのか) この一件は事実であったのか、やらせであったのか。どちらにしても、この願いはあったのだろう。自分を見失わぬようにと……第三者の例を題材にして、私に、自分の置かれている立場を客観的に観察するチャンスをくれたのだ。


尊敬される個性とよそ者

2007/03/23

2007年03月23日


なぜ、かくも人々は「在ること」に苦痛し、恐れるのだろう? 常識なるものによって責められる人々。個性よりも常識をもって人の価値を計るというのか?

他が持たぬ資質を持つことがあまりに軽んじられ、時としては責めを負い、標準的であることのみがただ罪を免れる。だが、他より多くない者が、また、他より少なくない者が何所にいようか? 人に標準があろうとも、標準を具現する人はいない。あり得ぬ有り様を目指すことに苦しみが生じぬはずもない。

西洋では魔女狩として知られた蛮行が、その残酷なる処罰方法を取除いた上で東洋には未だに残っている。あまりに強い差別、差別、差別。誰もが当り前に差別し、当り前であるから差別と気が付いていない。

その差別をする人がただ、己の意に沿わぬ者に「不要」という意を表すだけとしても、神でもあるまいに、人が要・不要を決めて何になるか?

世は教場、しかれば人に要・不要はなく、総ては向上を必要とする人々である。そして、自らの向上に努めている限り、どれほど未熟で愚かであろうが、それは善い生徒であり、他の学びを邪魔するのは悪しき生徒のすることである。

他の愚かさを歎く前に、己の修行の進まぬ事を歎け――不満こそが人の眼を暗くする。――真に不要と感じたならば、関わることで時間をつぶすな。それを忘れて人は道を外れる。(無駄なことに構い過ぎる)

つらい時、行き詰った時にこそ、人の本性が顕れる。――行き詰ってこそ、創造力が求められるというのに、己の霊性を省みずして、書をあさり、人にすがり、ひいては、責任を転嫁し、他を責める。これらは、霊性の何たるかを知らぬ人である。その修行は未だ始ったばかりで、次の段階に進む事のいつ終るか判らぬ人である。

知識も経験も、霊性の必要性を示唆するだけで、霊性を生み出しはしない。たとえ行き詰っても、あなたは焦らずに心を落着け、知識や経験から生じる偏見を鎮めて、心、その心だけが共鳴できる「総てを支配する存在」を感じよ。……あなたは決して独りでない。ただ、独りであると信じすぎているだけだ。

繰返す、「非難するな。」――他を非難することは、己は違うと主張することだ。己を主張するから、「総て」から離れて「孤(個)」にいたる。たとえその非難で賛同者を得、仲間を得ても、それは「総て」から離れた「孤(個)」なのである。

地上では、それもまた個性と尊ぶかも知れない。だが、全体の中で個を確立した者達は、全体から離れた個を単なる部外者(相容れぬ者)として扱うのだ。

あなたは尊敬される個性を目指すのか、邪魔なよそ者を目指すのか、どちらか?

己の個性に惑う人よ、己の個性を誇るのと同時に、全体も愛し、敬意を払うことだ。……全体に対するあなたの理解力、それこそが、あなたの霊性の限界である。


失敗を恐れるな。

2007/03/20

2007年03月20日


あちこちから悲鳴が聞こえる。


なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。

人の思うとおりに環境は変わらない。もしもあなたがより良い未来を求めるのであれば、環境と争うことなく、むしろ利用するつもりで行かねばならぬというのに。物言わぬ、いや、物言えぬ環境と争って人は力をすりつぶす。

本当の、本当の敵は自分であるのに、自分と争うことを嫌って変わるはずのない境遇や環境の変化を願っている。だが、本当に自分と争うのは悪いことなのか、辛いことなのか? ――なぜ、達成感を楽しもうとしないのだろう?

勝ち負けに置換えて、負ければ終わりだと焦っている。――競うが故に努力に夢中になり、競うが故に進むことが楽しいとなぜ思えないのか? 人の心を支配しているのは敗北感、敗北への畏れ、敗北に不安になって、競争すら負けている自分。負けたが故の敗北ではなく、勝負に逃げる敗北。

だが、本当に勝ち負けは逃げなければならぬ事であるのか? ――嘲笑したいが故に他者を貶す人々、そんな人々との競争と、人生を完成する努力とを一緒にしてはいないか?

人は未熟として生れ来て、完成を目指して日々を過ごすべきなのに、つまらぬ中傷を嫌って人は努力を避けようとしている。……今日の負けは明日の活力と思えぬ人々。敗北をかくも恐れる。

胸を張って生きよ人々。――我らは皆、神の申し子、神と共にある。失敗も敗北も、全ては神の御心の内、負ければこそ見えるものがあるからこそ、人は負けるというのに、神の慈悲を知らぬ人々が、勝ち負けにささやかな幸せを求めるが故に、社会は敗北を嫌うようになったのだ。……ことさらに勝ち負けを大騒ぎするのは悪魔の使い、我らは、明日の価値のために、真の価値のために、その時々の敗北感を努力に繋げるのだ。


自己主張

2007/03/18

2007年03月18日


時計を横目に見ながら、今日のネタを考える。『もうこんな時間だから、短いネタが良いな……』そう思って、フッと冷静になる。むろん、事情はある。だが、事情を優先していたら、いつまで経っても短文を拾い集めることしかできない。そんな手抜きをしてまでも、わざわざ更新しなければならないことか。私にとっても、読者にとっても、あまり有益なことには思えない。なによりも……義務感から更新しているようなものだ。すると……

・・・・・・・

『人はなんとも、自己を主張し、自らを確認したいものか。求めるものと、必要なものが果たして同じかどうか。そもそも、人の考えることに不足がなければ、信仰心など生まれるはずもない。

『人はもとより、己に必要なものを理解していない。理解しないまま、あれこれと欲しがり、試行錯誤を繰り返す。繰り返したところで、理解が深まるというわけではない。そもそも、知っている者は教えられるまでもなく、知らない者は、教わることさえも嫌う。……口出しすることに意義などはない。

『正しき道を歩むものは歩み、間違った道を選ぶものは、どう引寄せようとも歩む。人々を導く霊達の為すことなど、誰を救うでもない。人を救おうというところに価値がある。そう、救われた人に価値があるのではなく、救おうとする人に価値があるのである。……それは意図した結果ではなく、摂理が導いた結果だ。結局、何をしたかが問題ではなく、その人が何を思って行うかが大切なのである。

『結果が大切だというのではなく、動機が大切だというのだ。……徒労に終わっても構わないというのではない。結果が出るべく用に努力したかどうかが問題なのだ。

『目的と真の動機があまりに違う、……結果として不幸になるための努力を続ける者はあまりに多い。』

・・・・・・・

要約すれば……「何をやっているのか?」ということだ。やりたいこととやっていることが異なる。まあ、それはよい。だが、私の師の支配霊などがいうことは実に興味深い。疑問を抱く前に切り捨てる……自らの志を要約できない者など、意見を語る権利はないかのように。驚くなかれ、私もまた、それこそが正しい答だと信じつつある。

どうせ、失敗し、行き詰まるまで、他者の言葉に興味を持たぬのだから。

自らが勝手するか、他者に全部を背負わすか。――それでは誰も上手くならない。


見ると信じたくなる

2007/03/17

2007年03月17日


心霊否定論者の意見として、「見たことがないから信じない」というものがある。反対に、

体験から心霊肯定論者になったという人も多い。……その経験が、正しく心霊現象であるという根拠がどこにあるかは、別としてである。

反対に、心霊否定論者の意見として、「見たことがないから信じない」というものがある。……見たものが正しく心霊現象であると判断できるだけの心霊知識があるのだろうか、ということも別としてである。

・・・・・・・

一時、テレビの情報番組でのねつ造が、大問題となったが、今朝方、テレビをつけた時に、インタビューを受けている人が「見せられると信じたくなる」と言っていて、ハッと感じた。そして……


『見ると信じる、見ないと信じない。人間の霊性は眼球に宿るというのか? それもまた、その人の有り様である。切っ掛けは人それぞれであるが、いつまでも眼球に信・不信の判断を任せているのは、つまらぬ事である。

『事は、善悪の問題ではない。うわべの良さに手を伸ばして、ガッカリすることの繰り返し。その経験から学ぶことがなければ人生は労多くして実り少ないことになる。

『何かを為すためには人生はあまりに短いという人は多いが、効率よく生きようと心掛けている人はあまりに少ない。そして、無駄を惜しまず不平が余計な者はあまりに多い。だが、自らが疎かにしているものを、誰が与えてくれるのか? 無駄があなたの人生を蝕んでいるに。

『結局は、自分を疎かにするということなのだ、安易に信じ、安易に疑うことは。

『もっと真剣に生きるべきだ。見たものを信じるというのは、あまりに感覚的、反射的な生き方である。』


不足という祝福

2007/03/15

2007年03月15日


地上の人々は(地縛の霊も含めて)、肉体がいかに厳重にして、光の差込む余地の乏しい牢獄であるのかを理解しない。心霊を学びて知識に溢れると自負する者ですら、いや、自負する者ほど理解しない。

牢獄に囚われ、乏しい資料と経験とを持って霊界の様相を理解に努める……それがいかに陳腐な学習法であるのか。……物質的な障壁のない霊界においていう障壁とは、移動を妨げるものでなくして、理解と認識を妨げるものである。

世界は余りに広く、人の知り得ることはわずかしかない。……それを知識として知りながらも、人は己の知ることを鼻にかけ、十分に知りたることを誇り、そして、新規な物を嘲笑する。……それは、魂の本来の有り様ではなく、永く幽閉された囚人が自由の何たるかを見失った痛ましき姿である。

彼等は真の自由を恐れる。……真の自由が意味することは、己の境遇の余りにみすぼらしきを認識することだからだ。

ああ、牢獄に囚われようとも、心の自由までは失ってはなるまいに……偽の自由に没我してまでも、人は己の自由を信じたいのか?

この拘留は永遠には続かない。……なぜなら、自由の真義を理解するための体験でしかないから。だが、もしも地上で、真の自由の何たるかを見失えば、人は何に拘束されるのか? 肉体を捨去っても、誤解に縛られれば、人は死しても自由を選べず、地縛の霊として救いを夢見る……それは決して珍しい姿ではない。

あなた方は知るまい。……真実は向上の何よりの助けとなるが、誤解がどれほど多くの障害になるかを。真実は人を解き放つが、誤解は人を縛るのである。……己の間違いを恐れる人ほど、強く誤解に縛られる。

そしてあなたは、真実と誤解の区別が付くか? 地上に縛られし、狭い視野で。地上に溢れる情報すら、真偽を選びかねるというのに、真理の真偽を見抜けようか?

地上の知識のいかに危ういかを、知りたる者こそが霊的真理を求めるというのに、地上の知識の中に霊的真理を求めるのは何事か?

言葉は手がかりに過ぎない、真の意図を察するための……その、意図を察する力こそが霊性であり、その霊性を磨くことこそが、地上における魂の修行の目的である。

不自由な暮しの中で、いかに真実を選別し、吸収していくか。……満足するなかれ、囚人の有り様に。あなた方は不自由で、心貧しく、そして愚かだ。その惨めな境遇の中でベストを尽すからこそ、恵まれた境遇よりも遙かに早く向上するのである。

・・・・・・・

豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……惨めな人よ、その惨めさこそが、あなたが一番に誇りに思うべき事なのだ。

飛躍の可能性を秘めたる人よ、惨めな境遇は決してあなたを呪うものではなく、あなたを祝福するものなのだ。それに気が付いた人こそ幸いである。

知らぬ事も、出来ぬ事も、手の届かぬ事も……あなたが成長し、達成の悦びを知るための祝福なのだ。肉性に囚われたる囚人達よ、あなた方が牢獄と信じるのは祝福である。祝福に挫折し、祝福から目を背けて、囚人であることに幸福を求めてはならない。

たとえ、死後の生を信じぬ人であろうと、死した後にも自我の継続することに気づいたなら、誰もが天国を目指そうとする。……が。地上の生が牢獄であることに気がつかなかった者は、牢獄の天井を目指して、天国とは異なることに挫折する。

人は自由である。たとえ一時は幽閉を強いられるとしても。だが、自ら外に出ようとしない限りは、ずっと牢獄の中である。それこそが地縛であり、自縛である。

不足を素直に認めよ。そこから、真価の追求が始まる。

不自由を認識せよ、そこから自由への旅立ちが始まる。

人の弱さを理解せよ、そこから霊性の発揮が始まる。

限界を意識せよ、そこから進化が始まる。

貧しい自分、不自由な自分、無能な自分、それをどうすることも出来ない自分、霊性進化はそこから始まる。……そして豊かな者は、自由を過信する者は、己を誇るものは、限界に気がつかない者は、牢獄の中を踊り回っているだけであることに、死してもなかなか気がつかないのだ。

不平にしがみつくなかれ、不平は、不足を克服するための動機なのである。

不足に諦めるなかれ、不足は向上を促す仕組なのだ。


忙中小言有り

2007/03/13

2007年03月13日


手持ちの書籍の整理に手間取って、メールの返事もサイトの更新も滞っています。お返事が出来ずに申し訳ありません。

・・・・・・・

心霊を学び、修養を積んでいれば経験することですが、心を開けば、答が飛び込んできます。……ところが、長らく放置された問題に対して心を開けば、パニックを起しかねぬほど大量の答が飛び込んできます。

無理に解決しようとせず、一つずつ片づけていけば必ず片付くものですが、あいにくと私も読書が好きなものですから、どうしても手が止ってしまいます。……霊感がなくても出来る仕事に懸命になるのは本末転倒の感がありますが。

というわけで、私の耳元に届いた小言(一部は私宛、または、出しそびれた返事用)を纏めてみました。


本は程々に。

『地上でどれほど本を集めてみようとも、死して霊界に入れば、それが実につまらぬコレクションであることに気がつく。時にも場所にも縛られないのが霊界である。その図書館の豊かさは、地上と比べるなら日光とロウソクの灯火の差ほどもある。

『なれば死者と知識の量を比べることに意義があるか? 地上には地上でしか出来ぬ事がある。……行為をおろそかにしてまで知るべき事があろうか?

『無駄とはいわぬ、だが極端に走らぬように。知と行いとを両立させなければ、成果は得られぬ。どちらが欠けても後悔を招くのだ。』

 

辛ければ手を弛める

『不平不満を心に溜めた、醜い自分に気がつきながら、愚痴は三度までなら許されると、改めようとしない。

『是非を問うのではない。だが、それであなたは幸せか?

『不平不満が生じるから醜いというのではない。不満を溜めたままでいるから醜いというのだ。それであなたは幸せか?

『真剣に生きるから、真面目に努力するから、あなたは周囲とぶつかり腹が立つ。車だって、自転車だって、歩行中だって……前の人よりも速く進めばぶつかることに気がつきそうなもの。

『心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。……それでもなお、気が焦るなら、何か他のことを始めなさい。』

 

焦るから苦しむ

『試して上手く行かないものを、焦ってはなおのこと上手く行くはずもない。焦っているなら他人の忠告も耳に入らず、冷静でいれば気がつくはずのミスも見逃す。

『どんな知識も、行なえなければ役に立たない。知識を役に立てられなければあなたは役立たずだ。知と行いのバランス。あなたに必要なのは行うことだ。

『だが行うと聞けば、直ちに頭と身体を動かし始める。どうやってやろうか……と……考えながらも身体が動いている。

『だが、どんな時でも、一呼吸、二呼吸するヒマぐらいはあるものだ。まずは深呼吸、ついで、よく事態を見極め、タイミングを計って動き出せ。

『失敗が多いから、評価を取り戻そうとしてなお焦る。そして焦るからまたしくじる。……だから、本当に問題なのは、あなたの失敗ではなく、あなたの焦りなのだ。

『人が人である限り、失敗を無くすことは出来ないし、過去の失敗は消すことが出来ない。だが、焦ることは減らせるはずだし、その努力には手が届くはずである』

 

不安とは

『人は未来を予測できても、全ての事態を予測は出来ない。なるほど、人が不安になる要素はいくらでもある。だが、思いつく限りの悪しき要因は、解決や回避の努力が出来よう。

『それでも不安が残るとしたら、何が悪いのか?

『悩んでも仕方のないことを悩み続けて、どうなるのか? 不安に身がすくんで難にはまりはしないか? 難を避けそびれはしないか? 不安が災難を呼んではいないか? 不安が悪霊を招いてはいないか? 不安が不安を集めていないか?

『……そんなことは百も承知というか? よろしい。つまりあなたは、なぜ不安になるかが分らぬということだ。ならばきっと、問題は外にある。

『霊障……あるかも知れぬ。だが地上でもっとも良く目にする不安性は……かんしゃく持ちの親に育てられた心の傷だ。

『それは自分の不安なのか? 自分が取り組むべき不安なのか? 不安を感じていてはいけないのか? 不安だっていい、諦めて前に進むなら。不安だっていい、とにかく前に進めるなら。不安だっていい、希望を捨てずにいられるなら。不安だっていい、心の清さを大切に出来るなら。

『自分の心とケンカをするな。黙って受け入れて前に進め。前に進めば自信が身に付き、自信があれば、不安は自ずと去っていくのだから。自信を育てずに不安だけを追い出そうとするから、挫折するのだ。』


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
みにみにぶろぐ
  • ・原発全廃
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

More »

サイト内検索
アーカイブ
サブ・サイト