2007年02月02日
人は不平不満をいっているうちにチャンスを逃し、悲しみや寂しさを癒そうとして余計な苦労を背負込む。
もしも人としての幸せが、境遇・物質的環境ではなく、心の在り方・境涯にあると信じるなら、目を向けるべきは「天」にあるだろうに、わざわざチャンスを逃し、苦労を背負込む人は、いったいどこに「天」があると思っているのだろう?
誰かを、幸せにしたいと思う……いわゆる母性や父性の表れ……は、大変に結構なことだ。それが現実逃避の手段でなければ。
内心のドロドロとした欲求のはけ口に、愛だ、恋だと綺麗なラベルを付けて自らを誤魔化す……決して少ない事例ではない。むしろ、大なり小なり、というべきだ。
私は、恋愛を否定しない。だが、恋愛という名の現実逃避で、辛く悲しい思いをしている人を数多く見てきた。
恋をして美しくなる人と醜くなる人。……好きな人の前で醜くなって嫌われる。追い掛けて嫌われ、嫌われるから追い掛けてますます醜くなる人。
何のために努力するのか? 努力しなくてはいけないのか?……努力が結果に結びつく人ならば疑問にも思わぬだろうに、「その方法」に疑問を持たずに「努力」に疑問を持つ人々。設問を間違えば、正しい答が得られるはずもないのに。
世間知らずの癖に、隙あれば他を利用してのし上がるつもりでいる。……テレビドラマ、しょせんは娯楽向け、一般向けのドラマから、楽しんで人生の処世術を学んだつもりで、生かすチャンスがないとくすぶる人。
「事実は小説より奇なり」というのに。
世間知らずならばなおのこと、誠実に生きれば、味方も現われるだろうに、あからさまにずるいから敵ばかり増えて、味方が去っていく。
利用価値があるうちだけ愛されるというのに、自分の価値を高めようとせず、姑息に生きて侮蔑される。
方法を間違う人は、どこまでも間違う。……無思慮な行為(業)が苦を生み出していく。まったく人は業《カルマ》が深い。
……が、業が深いといわれると、霊媒でなければ気づき得ない不可思議な因縁を思い浮かべて、今の自分の悪癖がどれほど大きな害をもたらしているかを無視してしまう。
縁の浅い悪霊よりも、縁の断てない自分の無思慮さの方がどれほど重大で危険であるのか。……まったく人の業は深い。