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目指すべきは荒野

2007/02/28

2007年02月28日


ブルーオーシャン戦略

うろ覚えの人名を確認したくて、ネット検索でたどり着いたスピリチュアリズムの某サイト。本来ならば、サイト名をきちんと紹介したいのだが、いささか引っかかる点があって自粛する。……嫌ってのことではなく、先方に遠慮してのことだ。――そのサイトは、昨年の六月以降、更新が止まっている。何があったのかと臆断する事は避ける。

肝心の探し物はこのサイトになかったが、ザーッと読んでみてガッカリしてしまった。このサイトに不満があったからではなく、表立った更新が無くなったことがだ。

どうもスピリチュアリズム(spiritualism ではなく……つまり".jp"限定で)には原理主義的な傾向が色濃い。いまだ私が、".com"を収得する前のこと、当時、心霊で怪奇系以外のサイトを数えるのが片手で足りる頃の話であるが、やたらとケンカ腰の某心霊サイト管理者と関わっていささか辟易の感を受けた。いい加減あきれて背後の霊たちに進退を質問をしたところ、返って来た答えが……

『なに、品格卑しい者が威張っているとな? そは、不可思議な事。汝、道を間違えたるや?』……と言われて、カチンと来た。霊たちは、正しき心霊の道に、心得違いの者がいるはずがないというのである。

とはいえ、不愉快ながら、得心が行った。なるほどその通りだ……私にはその問題を瞬時に悟ることのできる知識があった。――高校生自分の頃に、講談社の新書・ブルーパックスで「ゲームの理論」を読んでいた。……これは自慢というより、情報が古い事への言い訳である。……ゲーム・競争は大きく分けて、ゼロ和《サム》ゲーム、非ゼロ和ゲームに分けられる。つまり、一つのパイをいかに分け合うか(プレーヤーの損得の総和はゼロ)であるか、どちらがより新しい領土を獲得するか(プレーヤーの損得の総和はゼロにならない)という事である。

この知識は、心霊問題と直面しても有益であった。別段、ゲーム理論を適応して心霊問題を解いたわけではない。だが、たとえば、良い学校に入れますように、良い会社に入れますように、良い恋人を獲得できますように……という相談を受けたとする。これらはゼロ和ゲーム、つまり、祈祷が成就すると、誰かが泣かねばならないのである。――もしかしたら、相談者よりも多くの努力をしている人が、私の祈祷が成就すれば不幸な思いをする事になる。……したがって、こういう相談ごとにはあまり肩入れしないようにする、という配慮の元となったのが、「ゲーム理論」に関する知識である。

反対に、誰もやった事のないことならば、どれほどムキになって祈祷しても罪を犯す恐れがない(実際には、未来の事業家の可能性を奪う事になるが)、というわけで、相談者の願いが、ゼロ和(領土の奪い合い)であるか、非ゼロ和(荒野を目指す)であるのかは、私にとって重大な判断基準となった。

そう、妨害者などいるはずがないだろう、といわれて、カチンときたのは、そこに背後霊たちの嘘を感じたからではなく、

『お前は、他人の領土を欲しているのか?』……と非難されたと感じたからだ。 目指すべきは荒野であって、既存の農地ではない。確かにそうだ。いや、荒野を農地にすれば結局、相手の顧客を奪う事になるかもしれない。だがそれは別な話だ。

まあ、いろいろと縁あって、心霊書籍、特に浅野和三郎氏の著作のフリーテキスト化に協力はしているが、これは一つにはセルフコントロールに苦労している霊媒初心者への援助と、心霊研究者等の質的向上を願っての事である。したがって、私は改竄はしていない……誤字までは否定できないが、少なくとも意図的には……つまり、著者が「神霊主義」と書いているのを「スピリチュアリズム」と書き換えてはいない。

(こういう書き換えは慰謝料の請求対象である事もわきまえている。つまり、いくら非営利のサイトであろうが遺族から賠償を要求される可能性がある。なにより著作者人格権の侵害というのは心霊を学ぶ者としてあまりにも恥ずかしい過ちだ)

そして、私の本来の意図とは別である事を明らかにするために、主サイトとは極力別個に運営している。

そう、老神いさおは、荒野を目指している。

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最近の経営哲学に、「ブルーオーシャン戦略」なるものがあるらしい。この定義は、競争相手のいない(つまり外洋)を活動の場にするという選択との事。私の目指すのもまさにこれである。……現実のHP運営にはまるで生かされてはいないが、やむをえない。読者がついてこれなければHPを維持する意味がないからだ。

ところで、多くのスピリチュアリズム関連サイトの運営者が、往々、互につぶしあいを繰り返すのは、スピリチュアリズムが抱える本質的問題を浮き彫りにする。

彼/彼女等にとって、スピリチュアリズムは一つのパイに過ぎないということだ。端的にいえば逼塞、新しいものがないから、後は、既存の知識の解釈違いで差別化を図らざるを得ないのだろう。そこに競争どころか、つぶしあいの構図が浮き上がる。

確かに、私達、霊魂論者(心霊思想全般の持ち主)は「シルバーバーチの霊訓」などといった、高度な霊界通信から、大宇宙には大霊が存在する事までも思いを馳せてはいる。だが、新規市場の拡大が図れないのであれば、より多くのシェア(市場占有率)を確保するために、同業者を排除するしかないではないか。

当然、このような動きは、交霊の手段を持つ(つまり霊媒)スピリチュアリストには、市場の新規開拓が可能ということで関係のないことである。したがって……霊的能力に乏しければ他の足を引き、霊的能力が充分にあれば他を無視し……という構図が出来上がる。

その選択のどちらが正しいのか、という質問もあるだろうが、それこそが、実はすべての心霊思想と相容れない。……永遠の進歩向上とは荒野があればこその話である。既存の知識にしがみついていれば、それは向上ではなく独占でしかない。

はてさて、では、霊媒能力を持たなければ、スピリチュアリズムを語ってはいけないのかどうか?

私は一つの俚諺をもって、これに答えたい。

青は藍より出でて藍より青し……ここでもしも、藍色は青とは無関係と言い張る人々がいるとすれば……バカバカしい。レトリック・言論術と真理追究とは全く別なものである。


業《カルマ》とどう向き合うか

2007/02/25

2007年02月25日


メールの返事を読んで、話題とは違う事に気がついた。……話題はともかく、要するには認めてもらいたいのだ。

『頑張っているね!』『すごいね!』と。……いや、当人にその自覚があるかどうかは知らない。そこまで深入りしたいとは思わないし、相手もそれを望んではいないだろう。おそらく、ここでこうやってネタに使われる事すら望んでいないと思う。だが……善悪は相対的なもの……かもしれないが、少なくとも正誤は明らかに存在する。

私は相手をちゃんと……いや、それなりに認めている。――おそらく当人が願うほど高くは評価していないが、一方で、当人が自認するよりは高く評価しているのではないか。

他人に自分を認めさせようという態度は、おおむね、誰よりも自分が自分を認めていない。何しろ、巧妙に逃げ道を用意している。……いわゆる、腰が引けているのだ。

他人の言葉を引用するが自分は隠れて、でも相手の評価が気になって仕方がない。その態度自体には別段の是非もない。人間には大なり小なりそういう所、または、そういう時がある。

しかし、問題は「何を認めさせようというのか」という点だ。あるがままの自分を認めさせるというなら、自分の言葉、自分の行為で認めさせるべきであろう。ここ、または今は……ありのままとは違う自分を他に認めさせようとしているのだ。

だがこの時、そこに認めるべき点があるのか……存在しないものを他者に認めさせようというのは、他者に迷惑をかけるという点において、悪とみなして差し支えもあるまい。行う者がいくら正当化したとしても被害者が不快に思わずにはいられない。

いや、この相手などは別段、害もない。強いて言えば、落ち着きがなくて、あてにならぬというだけだ。むしろこの一件を通じて、かつて出会った不可思議な性格の人たちが理解できた気がする。

・・・・・

たとえば心霊思想に触れて宇宙の真理、霊界の法則まで学びながら――浅知恵を振りかざして馬鹿にされる、論難を吹っかけて無視される、世話を焼いて疎まれる、それらは皆、その者たちの秘めたる動機が原因となって、現れた結果、因果律・因縁果の具体例でしかない。そして最も初歩的な真理である、因果律の法則ですら生かせずにいるとしたら、皮肉といえば皮肉であるが……もっと大きな皮肉が潜んでいる。

なぜ行き詰らないのか?――初歩から間違っているのに、行き詰まりを感じることなく延々と努力する。行き詰れば容易に道を改めるだろうに。……それは果たして強運なのか、悪運なのか。

・・・・・

話を先に進める前に、少々強引だが問題を整理しよう。なにしろ、インスピレーションは散漫さから集中していくべきものだから。

  1. 人は無自覚、無意識下の裏面的動機を持つ事がある。
  2. 意識がコントロールする表面的動機と、裏面的動機の間に差異があると、他者には理解しがたい行動を取る。
  3. 裏面的動機の成果が、往々として思わぬ結果の原因である。……つまり、人は無自覚・無意識に、意図せぬ結果を得るための努力をしている。
  4. 当人の目的にそぐわない行動をしているから、第三者には支離滅裂に見える。
  5. それを称して業が深い(因果の働きに振り回されている)という。
  6. だが問題があるのに、行き詰らないから修正ができない。

経験を積むことが大切です?

2007/02/24

2007年02月24日


静岡オフ会の車中で、心霊思想の本を読んだという、某氏が

「いろいろな経験をするために人は生まれて来た、と書いてあるのを読んで、気持ちが楽になりました」と話し出した。

いや、確かに私の師や、そのまた師も頻繁にそういう表現を使っているが……「それは、ポピュラーな心霊思想だけど、真理とはいえない。何しろ矛盾があるんだ。霊魂同士は経験を共有する事ができると言う一方で、経験する事が大切だという。いったい、共有する事ができるのか、それとも経験が本当に大切なのか?」

「でも、そう信じれば気が楽です」

とりあえずこの辺で、話題をずらした。

・・・・・・・

……信じていられれば幸せだけど、たとえば勤め人がノルマも果たさずに「私はいろいろ経験しました」といって、澄ましていられるか?

たとえば、子供がお腹を空かしているのに、「お父ちゃんがんばったけど、給料もらえなかった。でも経験したからいいだろ」といえるか?

揚げ足取りに聞こえるかもしれないが、地上は、経験を得るためだけでは生き抜けない。確かに経験は死後も持ち越せる貴重な財産ではあるが、地上生活の特質を言い表すのに、経験という表現は不適切ではないか、と思う。

私が理解するのは、「実現するために生まれてきた」……である。想念の中で実現不能な妄想と遊んで暮らす霊魂たちに、真実と向き合わせるチャンスをもたらすのが地上での生である、と思うのだ。

・・・・・・・

……と、聞いたらきっと、気が重くなるだろうな。というわけで、静岡オフ会に向かう道中では、気が重くなったら可哀想なので、あの時は、私の本音はいわずにおいた。

・・・・・・・

畳み掛けるようだけど、「人生の目的は経験」という表現は、霊媒・霊能者――ひいては、通信を送る霊たちにはとても都合のいいものだ。たとえば、何とか楽して成功をつかもうとしている強欲な人を拒むのに便利である。

『楽をするのが人生ではないのだから……』……確かに。したがって、決してでたらめな理屈ではない。実際、苦労すべき苦労を免れる方法はないのだから。

一方で、しなくてもいい苦労までも、進んで背負うのはどうか? なるほどやりたければやるがいい。いや、その努力が報われるかもしれない。……稼ぐための本業や人生の本懐がおろそかにならぬ範囲でならば。……だが熱心家はわが身を省みずに他人の為すべきことに熱中するものだ。

たとえば、他人の金の利殖まで心配したあげくに失敗し、残った金で自分の生活再建を心配する羽目に陥った人などは……いい経験が積めたというべきなのだろうか?

本当に経験が大切なのか? すべての人に大切なのか?……誰の言葉かは知らぬが、「愚者は経験から学び、余は本から学ぶ」という言葉を知って、私はこの霊的真理といわれているらしい「経験を積むために生まれてきた」という言葉を、あしらい言葉とみなすようになった。

無論、経験のすべてが無駄だとはいわない。たとえば美食に関する本を読むより、食べてみたいではないか。その他もろもろ……下品に流れるのを避けるが……本で読むより実際に経験したい事は多々ある。

ましてや、手伝いを必要としている人に向かって本を差し出し、「これを読めばあなたも救われます」という人には、(宗教かぶれの中に多い)……今回のオフ会参加者にはいないが……確かに、経験が不足しているというべきだろう、いや、経験から学ぶ事が足りないというべきか。

ではいったい、人生の目的とは何か?……なにやら、私の支配霊が、良い話題だと口を出したがっているようだが、普遍的な助言を聞き取るには、今夜はもう時間がない。

人の数だけ人生があるのだ。向かうべき結末は決してひとつではありえない。結局、自分が為すべきことを無理なくすばやく感知する力を得、活用し、使いこなせるようになる事が大切だと思う。(その感知する力を、霊性とか、神心などという)

必要なのは苦労する事でも、経験する事でもない。……夢を実現する事だ。

その上で、苦労は、生き方に無駄のある証、人はさまざま経験の中で、最適解を見出していくべきなのである。経験は資材であって製品ではない。経験を加工して生かし、無駄な努力を減らしてこそ、夢の実現に近づくのである。

……と、私は思うのだが……その考えを知ってもなお、あなたは苦労や経験を、何より大切に思うか? もっと、自分の夢の実現を大切にすべきだと思うのだが……それとも夢を忘れてしまったのだろうか?


あれは八岐大蛇だ。

2007/02/22

2007年02月22日


 心霊研究会発足後の浅野和三郎氏の大本教批判は熾烈だ。が、太平洋戦争中の空襲被害や物資欠乏、さらには広島・長崎の原爆被害を知ってもなお、その筆は変らずにいるだろうか。興味のあるところだ。なるほど出口直氏のお筆先の表現は拙かったかも知れない。だが、その誠意が注がれている先を浅野氏が見通していたとは到底、言い得ないとおもう。

 大本教批判も、大本教擁護も、私の念頭にはなく、あえてこの話題は、霊界通信の奥の深さを指摘するに留める。高度な用語を多量に駆使しているからといって、その意図が高尚とは限らないし、幼稚な表現の短文が、えてして的確に真相を言表わしている場合もある。

……さて、結論からいえば、以下に紹介するのは、別段、高尚・高度な内容を紹介しようというのではなく、童話的表現だからといって看過してはいけないということである。


 テレビの報道番組で、中国の話題が取上げられていた。見ている私の霊耳に、かく聞えた。

『かの国等は「八岐大蛇」だ。信用ならぬ』

……いやぁ、古事記・日本書紀ですか?

『そうではない。一つに見えるが、顔・頭が沢山ある。つまり、誰と交渉して良いかが見えない国だ、ということだ。

『すべてがそうだとはいわぬが……ある頭と仲良くなっても、他の頭から狙われる。他の頭とも仲良くしようとすると、仲が良かった頭からも狙われる。全体の論理よりも派閥の論理が優先し、担当者が変れば方針も変る。

『交渉で相手の考えを変えようとしても、他の頭が邪魔をしてうまく行かない。何しろ、派閥抗争に忙しくて、対外的な妥協が出来ずにいるのだから、本質的に交渉の余地はない。かような状況では、相手に理性を求めるのは難しく、ただ、先方の内情が流れ着くままを受入れるしかあるまい。

『そういう内情を抱えていることを指して、「八岐大蛇」に例えたのである。いくら霊界の住人だといって、生きた八岐大蛇を見た事はなく、無意味にその名を使うこともない』

……なるほど、八つの頭、というより、たくさんの頭、一つ一つの頭にはそれなりに理知的な理由があるのだろうけれど、全体としてみると野獣の本能的な反応しかできない、ということ?

『軍事開発(衛星迎撃)が国際的批判の対象、それも軍事的脅威が問題ではなく、環境破壊が問題視されるなど、ナンセンスとしか言いようがない。国威を掲揚しているのだか、卑しめているのか。国を守っているのだか、食いつぶしているのだか……』

……かつての日本も、陸軍は中国と、海軍は米国と戦争を始めて、結局は負けたわけだけど……

『三人寄れば文殊の知恵、とは、助け合ってこその話である。意志の統一がうまく行かなければ、船頭多くして船山に上る、であろう。葛藤は自滅の第一歩だ。そして、葛藤は古今東西ありふれた事である。』

……ところで、北朝鮮の行動なども、八岐大蛇なのだろうか?

『あれは、虎の背に乗る、というべきだ。小心であるほど、一度走り出した席から降りる事も出来ない。皆おびえながら威張っている……相手がおびえている事に気がつかずに迎合する者もいる』


他を嫌うな

2007/02/20

2007年02月20日


浮世を見回して思う。「大人気(おとなげ)ない」ということに、羞恥を覚えない人が多すぎる。舐められないようにするんだ!!……と、屁理屈を押し通す。

舐められぬ代わりに向けられる侮蔑。――「あの人は大人気(おとなげ)がない人だから」との周囲の人々が気遣い、大人の態度をとって取り繕う。……当人はよほど恥ずかしがり屋のはずなのに、恥ずべき状態を理解せずにいるのだから、なんとも幸せな事だ。


いつまで庇えるのか? いずれ破綻する矛盾なのに。……だからといって、私が率先して現実を示す気もない。何しろ不毛ではないか。間違いなら正せばいい。でも、出来ない人を出来るように手伝うのにどれほどの手間が掛るのか? 私は他にいくらでも仕事があるのだ。――いや、本題は愚痴ではない。

『好きにならなくても良いから、嫌いになるな』とは、私の師の、そのまた師の言葉である。……私はこれがなかなか守れないのだが、ある意味情けないことに、私の師も、言い出したそのまた師も『嫌いになるな』という、霊智を苦手とした。理由は実に自然……未熟な私でさえも、相手の腹の底に潜むものに気がつき、辟易とするのである。私よりも敏感な師等のことは推して知るべしだ。

くだらない奴に限って、それをごまかすために受け売りと言い訳が多い。で、わざわざ受け売りを聞いて何が楽しいのか? どうせなら直に本物と接するほうが良いに決まっている。所詮、広告は広告。広告だけを信じて商品を買うのも良いが、後悔の有無は自己責任である。

いや、この商業主義の世間において、わざわざ広告を打つのは大抵は中身が伴わないものでないか? さもなくば抱き合わせ商法か。……というより、ピン!とくるものがなければ相手をしたくない私にとって、ピンとこない説明文は助長で迷惑でしかない。……ゆえに辟易とするのである。

では、もっと敏感な我が師、そのまた師等はどうであったか? ……実はいろいろと武勇伝を聞いているが、多くの方々にはまるで関係のないことであろう。

以前、とある喧嘩っ早い、自称スピリチュアリストについて、我が師に意見を問うてみた。ろくに説明も聞かずに我が師から返って来た答えは、

『くだらない。相手にするな』であった。

思わず、噴出してしまった。……前述の霊智、『好きにならなくても良いから、嫌いになるな。』とは、要するに「相手にするな」という意味だったのである。

たしかにそうだ。人間性の円熟さが感じられない人が、どんな立派な事を言ったところでどうせ受け売り、言葉と目的とが違うのだから、理解に間違いが隠れていないはずがない。……最初から美言・至言が、ある意図の元に捻じ曲げられているのだ。業の深い言葉に相手をする意義はない。

まして、志の低い人と話をすれば、どうしても話題が下品に流れる。……相手を理解させようと、すればするほど、相手のレベルに話題を下げて、気がつけばくだらない話題になっている。

いくら相手に合わせて話題を下げたとしても、それを見た周囲の人は、私を笑うであろう。「一緒になって、なんとくだらない事を言っているのか!」と。……私はずいぶんと時間を費やし、多くの事例を経て、ようやくそれに気がついた。


ところで、心霊知識はいう。霊格が相対的にあまりに違いすぎると、コミュニケーションは出来ないものだ、と。自分と比べてあまりに高い相手、あまりに低い相手とは話にならない、というのだ。……それは霊相手に限らないのである。……何せ人間は、肉体をまとった霊魂なのだから。

話が合わなければ、話の会う相手に任せればよい。一人ですべてと渡り合おうとするのはナンセンスなのだ。それに気がつけば、ほどほどに距離を置いて、嫌いにならぬ付き合いも出来るだろう。……それも程度もの、相手の、腹の底の澱み具合によりけりだが。

いや、いまさら誰かを侮辱したいわけでも、また、過去の下品な言動を弁解したいわけでもない。ただ、こう伝えてくれと聞こえたのである。

「おい君、下品に流れるな。自ら進んで魔界に落ちるな」と。……大した問題ではない。日々感じるインスピレーションのうち、比較的明確な一例に対して、表現を尽くしただけの事だ。

どうせ相手は、理解などしないことは、皆、百も承知だし。


霊査事例: 2007年02月17日 横浜オフ会

2007/02/17

以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


総論

失敗ではなく、方向転換。季節の変わり目に、相応しきイベント。……くよくよと、不毛な時を過ごすよりも打開策を考えよう。

事例1

  • 『小細工をするな。真剣が一番』『売上げを失っても得たノウハウに大きな価値がある』……失敗したからといって、取り繕うかのようにいろいろと工夫をすれば痛くもない腹まで探られてしまいます。
  • 『疑心暗鬼』――悪魔は存在する、と思うから不幸の中に魔の働きを感じてしまいます。「雨降って地固まる」――そう思えば、いわゆる悪魔だって、福の神に転じてしまいます。
  • 『この程度は不幸の内に入らぬ』
  • 『恨むより、知らぬ事こそさびしけり』……災難を恨むより、そういう問題があることを知らないことのほうが人生にとって寂しいものです。

 

事例2

  • 『案じるより為すことです』――人の数だけ意見があります。だから、人がどう思うかを心配しだしたら切りがなく……心配するだけで対策がおろそかになります。あなたが今出来ることに最善を尽す、それが一番有益なのです。
  • 『心霊を学びて良かったと、心落ち着け、君は想う。見よ、眼前に光有り、最悪を覚悟しつつも希望を捨てぬ、あなたの心は正しく未来を見ている。(神に)手を引かれて歩む(生きる)者の、強さがそこにある』……不幸な人が突然に信仰を始めても、急に幸せになるわけではありません。ただし、順調な人が突然の災難に出会ったとき、信仰心の有無が、その後の展開に大きな差をもたらします。

事例3

  • 時季的に……『間違いを探すより、間違いそうな人を探した方が早い時があります』
  • 『心を働かせすぎるから、疲れて、疲れが抜けません。もっと論理で割り切って良いのです。』……たとえば人に意見するとき、受け手の気持ちになりすぎて考えると、いくら心配しても足りなくなります。それはそうでしょう? そもそも注意されること自体が不愉快なのですから。くよくよと悩むのは相手に任せてもいいのです。慎むべきは、虐めであって、叱ることではないのです。

事例4

  • 相手の顔を見て話しなさい……というのは、相手の言葉(反論)を待つのではなく、相手の顔色を見て、直ちに自分の会話の善し悪しを判断できるからです。

事例5

  • 『職業上の人間学』……仕事で関わる相手をよく観察研究しなさい。開発現場で働くよりも企画・営業に徹すべき年齢なのですから。
  • 『考えても良い智慧が浮かばないのは、質問の定義をしないからです』……その問題を解決したいのか、解決の為のツールを作成したいのか。事前に定義をしなければ背後の霊達も迷います。
  • 『間違いを探すより、間違いそうな人を探した方が早い時があります』
  • 『血気あふれたる若き自分は他人と思え、今の自分が本当の自分、落着きてこそ真の仕事が出来る』――血気が失せて老いたなどと想わぬ事です。まして昔の夢に拘るなんてナンセンス。今だからこそ、想えることがあり、出来る仕事があります。

事例6

  • 『回り道、ただ歩けば回り道。良く見て歩けばそれは経験』
  • 『道々に、出会うもの多し、業の果て。知らぬが幸せとは、誰が決めたるや?』……災難にあって対策にかけずり回る。そうせざるを得ないのはカルマの結果かも知れません。でも、災難があるから多くの出会いを得、多くの事を学ぶことになるなら、一体、災難に遭うことが不幸と決めつけられましょうか? 反対に、災難に遭わないことが幸せだと決められましょうか?
  • 『本よりも、赤子に教わること多し。人の知恵よりも自然の摂理、知識で我が子の心を歪めるなかれ、本に騙されるなかれ。』
  • 『花咲く頃、君と行く、京の都』……旅行のお誘いなのか、行く事情が生じるのか。よく分りませんが。

事例7

  • 『幸せを祈るとは、相手の良さを認めて、それが伸びますようにと念じること。相手を呪うとは、相手の欠点を見てそれが全てと思い込むこと』……意味深です。本来なら二つに分けるべきだと思うのですが、分けてはならぬと釘を刺されています。ならば私が解説して良いものかどうか。間違った祈り方は、相手の良さをちゃんと認めもせず、幸福を祈ること、いわば祈祷の投げ売りです。反対に、人々が他を呪うときには、相手にも美点があることに気がつこうともせず、ただ欠点だけを敵視します。いわば憎悪の丸抱え。人を祝うならば、相手の美点を神様に推薦するような気持ちで。また、相手を呪いたい気分の時には、相手の欠点を神様に告発するつもりで行きましょう。……まあ、呪わぬに越したことはありませんが。

開運法ブーム・・・不幸になるために生きているのか?

2007/02/16

開運法ブーム

2007年02月16日

買い物をしてレジの行列に並んでいたら、脇に雑誌が並んでいた。相変わらず開運関連のタイトルが多い。……やれやれ、と思う。持って生まれた人生の意義をおろそかにしながら、どんな開運法があるのだか……

神様はそれぞれに使命を与えて人を地上に送り出しているのに、人々が地上で何をするかというと、使命をそっちのけで、豊かになりたい、幸せになりたい、と心がフラフラとしている。

で、豊かになり、幸せになって、その後はどうするのだろう?……今度は人生の意義を見いだせずに退屈するのではないか? 目標に向かって、努力すればこそ、努力が苦にならず、豊かさにも喜びを感じるだろうに、順序が逆ではないか。……などと説教臭いことが心中に湧き上がるのは、私の内心に不満がわだかまっている証であろう。

やれやれ、反省すべきは我が身にあり。 と、私の批判精神が一回りしたときに、フッと声が聞こえた。

・・・・・・・

『目くじらを立てるな。対した問題ではない。あんな本を買う家には、使われない健康器具や健康食品が山と有り、賞味期限の切れた食材が冷蔵庫を塞いでいるのだ。使われなければ無いのと同じ、物質的豊かさの空しさがそこにある。

『心が豊かならば浮ついた本などを必要としないし、心が貧しければ浮ついた本など役には立たぬ。ただ、金が流れるだけ。不満をいいながら稼いだ金が、無意味な浪費に消えていき、苦労して稼いだ金なら有益な買い物に使われるのだ。

『存在感に階層があるのは、霊界だけではない。しっかりと地上にも階層があるのに、その事を見抜ける人と見抜けぬ人がいるだけだ。』

……レジで支払を済ませ、私は歩き始める。

『人と幸福とを絶縁するのは“不満”である。なるほどお前のいうとおり、時として愚痴は有益だ。……いわぬに越したことはないが。

『だが、愚痴をこぼす人々を見よ。愚痴をこぼす間は手が休み、足もおろそか。有益なことには気が散漫なのに、愚痴をこぼすことには集中する。一体どちらが人生にとっての大事であるのか、見ているとまるで愚痴をこぼすために生きているようだ。

『その挙げ句、愚痴をこぼせばとりあえず満足して、改善のための努力も忘れてしまう。愚痴を聞いてくれる人が見つかるまでは、あれほど改善向上を妄想していたというのに。

『そうして大人しくなったと思えば間もおかずにまた、同じつまずきで再び大騒ぎを始める。……何度も同じ事を繰り返して飽きることがない。よほど愚痴をこぼすのが好きらしい。

『人生の試練は、人が現状に安住しないためにあるというのに、これではまるで、愚痴という娯楽に興じる為の口実ではないか。……そんな人々の「不幸の嘆き」など、真面目に聞くのがバカバカしい。大部分の人はただ、不幸を口実に愚痴をこぼしたいだけだ。その願い通り、好きなだけ愚痴をこぼせばいいのだ、せっせと自分を不幸にして。』

……ひょっとしてそれも愚痴では? と私は問う。

『ハハッア! そら、目を向けることが無駄と気がついたであろう。見て「くだらぬ」と想ったら、くだらぬ、くだらぬと分析するより、有益なことに気を向けよ。』

……いや、有益なネタに詰っているのだけど?

『それこそ、開運法に飛びつく手合いと同じ事だ。有益な何かに手を伸ばすよりも、まずは自分の抱える無駄を見つけて、減らすことだ。それが出来れば後は簡単と気がつくだろう。何となれば人々は、無駄が多くて飢え、飢えて焦るから無駄多く生きているのだから。餓えが収まればじっくりと向上していけるのだ。険しい道はいつまでも続かぬ。』

何やら結局、また話題が一回りした気がする。


ところで、この通信を文書に纏めている最中に一つ疑念が沸いて確認した。

Q 『つまり、人は不幸になろうと努力しているというのか?』

人が意識して欲しがるのは、金や物や、色欲の成就だ。だが、なかなかそれを意識出来ずにいるが、人が内心で一番に欲しがって、「他の好意」なのである。

功上げ、名を得て自慢話が出来ればなお気持ちよかろうが、残念なことに自慢話は嫌われやすい。容易に他の好意を獲得するには、不幸になって泣き言を言うのが簡単と人は本能的に知っているのである。

なにしろ、人は赤子の頃に、泣き喚けば誰かが構ってくれることを経験から学んでいる。笑みを浮かべていれば大事にされるような恵まれた子供でなければ、なおのこと、泣き言だけが他の好意を得る手段と想っている者こそ(つまり不幸な人ほど)不幸になることに幸せを感じて、しかもそれに気がついていない。

一方、世の中には、我が身の不幸を口にすることを恥じる者もいるというのに。 ……誰もが幸福を求めるが、不幸であることに幸福を見出している人はなにより不幸であろう?

Q「ひょっとして現代の心霊ブームも……」

大衆が愚痴をこぼす相手を見つけただけだ。……だから見よ、苦しいという相談は来るが、より幸せになるにはどうすべきかという相談が来ない。それこそが大切なのに。


不幸になるために生きているのか?

2007年02月18日

Q「大多数の人は不幸になるために頑張っている、といわれてショックを受けています。本当でしょうか?」

言語の限界が生む錯覚――人々が幸せになろうと努力することは間違いない。だが、何を持って幸せと呼ぶのか? 幸せがあって人々がそれを目指すのではない。人々が目指すものを得て、それを幸せと呼ぶのである。
幸福が長続きしないのは、人々が長続きしないものを追い掛けているからである。

Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょう」

人は過つために生きている――人々は自分の過ちを正すために生きている。正しき信念を貫くためではない。見よ、人が正しく生きて、何が生じるのか? 妬みだけである。では、人々が誤って何が生じるのか? 同情か、または、批判か?

人が正しく生きても批判は生じる。ただ、同情が寄せられるのは誤ったときだけである。

Q「確かに、幸せとは何かと問われて答えられない人が大多数でしょうが、そういわれては人生が空しすぎます」

人生に価値などない。価値があるのは努力だけである。

Q「努力しても役に立たぬ人は社会の迷惑です」

見よ、あなたにとっても人生に価値などはない。価値があるのは価値があることだけである。そもそも、価値がないものを、「くだらぬ」と言えぬのはなぜか。意義のあるものがあまりに少ないからだ。人々は、自らの価値を認識するために生きている。他を生かすためではない。

Q「そういう考えは、何か違うのではないか、と思えるのですが」

一貫性がないのはあなた方である。他人の努力を認めぬ癖に、自分らの努力は必要以上に認めさせようとする。だが、そもそも地上にあり得る可能性とは何かを考えてみるべきである。想うことの半分も実現しないのはなにゆえか。

人々が求めているのは結果ではなく評価である。評価を欲しがって結果は二の次、そんな曖昧な気持ちで何が為せるのか?

人々が、不幸を目指すというのは、決して不思議ではない。何となれば、幸福の中よりも不幸の中にこそ、たくさんの教訓が潜んでいるのだから。だが、不幸の中に学ぶよりも、幸福の中で学ぶことの方が本来は多いのである。なぜ、かような食い違いが生じるのか。

不幸の中でしか、人が素直に成れぬからなのだ。……上手く行っているときには、人々は己を過信し、反省することがない。結局、人々は痛みなくして学ぶチャンスを軽んじすぎているということだ。

痛みなくして学べない、それが人々の苦悩の源である。

Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」


不幸になるために生きているのか? 2

2007年02月19日

Q「なるほど確かにそうかも知れません。でもそれは、摂理に反しています。なぜ、かような不自然な在り方を人々が選んだというのでしょう?」

言語の限界が生む錯覚――繰り返す。あなたの質問は言語の限界によって問題を取り違えている。

「幸せ」とは、満足の別名に過ぎない。そして、人々が哲学する「幸せ」とは、「より永続する、または、後悔の少ない満足」という意味だ。そして人々は幸せを追求する。ただ、それが努力に費やされた時間よりも長く保たれるとは限らず、後悔が伴わないとも限らない。

そして、たちまち消え去り、そして、一時の幸福よりもはるかに大きな後悔が伴う満足を人々が求めることを指して、「不幸になりたがる人々がいる」と、いうのも間違いとはいえない。

と同時に、あなたが考えるとおり、「幸福観の未熟さから思うとおりの満足を得られない人がいる」と、理解することも出来る。それらの解釈は、いずれも一面の捉え方に過ぎない。

一面の捉え方では、真に満足する答えは得がたい。

人々はそれぞれに好む目的に向かって努力する。そして、達成だけを思う者もいれば、達成し、長く持ち続けることまで考える者もいる。……

『では、いかなる目的こそが真の幸福となりえるのか?』……その問いが不適切であることに気がつくであろう。目的は人の数だけあってしかるのである。たしかに、一個人の利よりも、複数の、多数の、大多数の利を追求するほうが、失い難くはある。それゆえに、先見の妙ある者が示す幸福観は決して無益ではない。……他者の智慧を尊べる者にとっては。

だが、人々の多くは、自己の成長を目的として地上にいる。他者の智慧を尊ぶよりも、自分らしい意見の何たるかを模索している。……つまりは、他者の意見など反抗の対象でしかない人が多いのである。

人々が従うべき知恵とは、人々が抗う知恵である。

いかなる目標が大切なのか、ではなく、大切な人生の目標には、大切に出来る目標を選べ、と助言するほうがまだ有益であろう。……そんな長ったらしい表現で相手が理解しないというのであれば、間違った助言以外は有益とはなるまい。

Q「ただの表現違いにしか思えないのですが、あなたもまた、『人々は不幸になるために努力する』……それをあなた流に表現するなら、『人々は自分が大切に思えないことに人生を費やしている』……というのであろうか?」

いや、もっと単純である。自らが大切に思えるものを見つけられずにいる……そういう人々が不満を解消できずにいるのだ。

Q「念のためにお聞きします。その状態を脱するために出来ることがあるでしょうか?」

むしろ、何が人をそこに縛り付けているのか、が大切である。 結果を求めて……過程を大切にしないこと、それは同時に、未熟な霊魂が想念の世界にあって耽る過ちと同じ種類である。


見えるもの、見えないもの

2007/02/15

2007年02月15日


私は普段、眼に見えぬものを扱う仕事をしている。(電気設備の設計ともいう)……そして、どうも眼に見えるものを対象とした職業の人と折り合いがわるい。仕事もかち合うが、価値観も論法もそりが合わない。

たとえば工事中、扉の開く方向を変更したとする。……多くの方々はただ、扉の使い勝手の違いしか思い描かないかも知れないが、電気のスイッチは、取手側に取り付けるのが普通だ。すると、ドアを開けたその手をちょっと動かすだけで電灯が点けられる。……自然な動作として。そして、この位置が変わると扉の蔭になってスイッチが押しにくい。

扉の方向を変更するのは、大工にとっては簡単なこと。簡単ついでに、電気工に、「スイッチを動かせ」と言うのだが……スイッチは壁の内部で電線が繋がっている。

眼に見えるものを扱う者と、眼に見えないもの、壁に隠れているものを扱う者との相互理解は、なかなか難しい。(眼に見える部分だけで事足りる人には、往々配慮が足りないと思うが、先方にも言い分はあるのだろう)

たとえば霊感の持ち主が、二人の霊を見、そう主張したとする。私は思うのだ。『影響を及ぼしているのはその二人だけか?』……手の内を簡単に表すのは素人だ。もしも私が悪霊の親玉なら、手下を交互に襲わせて、何人で祟っているか判らないようにするが……敵(祟られている者)は、見えざる相手(存在しない敵)にまで対策を立てなければならなくなるだろう。

いや、悪意が無く、ただクレームをつけているだけの霊であれば、手の内を安易に表すのは不思議でもないが……それにしてもだ。ただ不愉快だからといって化けて出ることが出来るなら、世の中、もっと心霊に対する認知が多くて良さそうに思う。

たとえば、幼い子供を残した母親、熱愛中に死別した恋人は、なぜ想い人の前に姿を見せることが出来ないのか、不思議に思ったことはないか? 恨みならば化けて出られるのに、愛する人の前に姿を見せられないとしたら、霊とは、愛とは、何と非力なものだろうと思わないか?……どんな仕組があって、生きている人の前に姿を見せる事の出来る霊と、出来ない霊とがあるのだろうか……単純に考えれば、一個人の都合では手に余るのが化けて出ることなのだろう。(実際にそういう霊界通信もある)するとだ、霊が姿を見せたとしたら、その背後にある仕組、または黒幕の意図についてまで思いを巡らせるべきではないか?

霊が見えるという人は、ちゃんとそこまで気を回しているのだろうか?……どうにも私には、霊媒の中にも、見えるものだけを対象にする気性の持ち主と、見えない部分にまで気を回す気性の人があると感じる。

私が内心で『表面的な捉え方だけで』等と思っている相手も、私のことを『何をクドクドとうるさい奴だ』などと想っているのだろうが……。

まあ、その違いは必ずしも、正否の問題とは言い切れない。見方の違いがあればこそ、多くの人が納得しやすい環境が出来るのだから。

だが、車の運転だって、見通しの悪い交差点での飛び出しを警戒しなければならないはず。多くの車は狭い路地もビンビンと走るが……やはり私は、見えないものをおろそかにする人々とは、どうも相性が悪い。


死を恐れる心

2007/02/10

2007年02月16日


友人からいわゆるペット・ロスがらみのメールを受けて返事につまっている。質問や返事の請求は特になかったからもあるが……この件について、先日、「業が深い」といささかきつい返事を出した。この調子、この論法で返事を書けば友人を追いつめかねない(などとHPで取り上げる自体が心ないといえばそれまでだ)

衰弱した野良猫を獣医に連れて行く……等というのは、人によっていろいろ見方があるだろうが、やはりなかなか出来ることではない。それが猫にとっての救いになるかどうかは別問題だが、一体何が救いであるのか? 人に出来ることはその時々にベストを尽すこと。その意味において、私は代案が提示できない限り、友人の行為を批判はしない。理屈を述べるのも慎みたい。

ただ、そこまで猫に肩入れする友人は、猫の死に深く傷つく。……にも関わらず、瀕死の野良猫を助けようとし、思いあまって私にメールを寄こす現状は、業が深いと嘆かざるを得ない。わざわざ悲痛な思いをするために努力しているようなものではないか。それを淡々と一人で背負えるならばともかく、誰かにそれをいわずにはいられないのはなぜか……本当の問題は別にあるのだ。だが、友人がそれを見ない以上、私が詮索して良いことではない。


ところで、死を考えるにつけ、私には思い出されることがある。以前受けとった「死ぬのが恐い」という相談についてだ。私は、自分が感じたまま……霊感で得た答をそのままに告げることが出来なかった。それは、そうする事を背後の霊達から、と同時に、おそらく相談者から期待されていたからだ。真実は必ずしも救いにならない。何となれば……恐怖は一個人が克服できるものではないからだ。

……なぜ、人は恐怖に慄くのか。一人で戦っているからだ。しかも前線で。

なぜ前線で戦うことが問題なのか……戦いを目の前にした人には戦い以外が見えないからだ……特に希望が。希望が目に入らない。

信仰が足りない、といえば語弊があるかも知れない。だが、少なくとも、彼・彼女を守っている背後の霊達との信頼関係に不足を感じる。同時に少なくともそれは、何かを知ったところで解決に繋がることのない問題である。

いくら信じたところで手応えがなければ不安になるのが人情だ。……ところで、悩める人々よ。あなたは守られていることを信じるために様々な努力をなさっているだろうが――守っているための努力をしているだろうか? つまり、我が身を安全にするための努力という意味だが……

前述の「死ぬのが恐い」という相談では、安全にするための努力を何も感じなかったのだ。さらにいえば、なるほど私の解答も決して素直なものではなかったが、それなりに手間暇掛けた返答に礼もなかった……礼の言葉が欲しかったわけではない。ただ、他人の無償の労力に対して、礼の言葉も言えない人であれば、その背後の霊達が何に重点を置いているのかが判った気がしたのだ。

容易に手に入るものはそれなりの価値しかない……命の価値・人生の価値は、相応の代償を払ってこそようやく手に入るものだ。つまり、求めるものがあるなら、それに相応しい態度が必要なのである。


何かを助けようというのなら、やはり、それに相応しい態度が必要なのだ。


今だからもう少し詳しいことが書ける。自分を幸せにするために努力はしても、人を幸せにすることに努力が足りないから、死ぬのが恐いのだ。……つまり、あなたを生かし、幸せにしようとする人が、充分にはいないのである。

そう、あなたの幸せを祈る人が足りないのだ。


主たる業(カルマ)の在りか

2007/02/07

2007年02月07日


人の思考は合理的であろうとする。無駄なことを嫌い、最短コースで成果を得ようとする。

だが、身体は動かさないと怠くなるし、頭がヒマになればくだらぬ事を考え出す。ヒマであろうと時間が来れば腹が減る。そう、身体(脳や内臓も含めて)は、毎日、一定量の活動を必要とする。現状を維持するためだけでも……である。

人は合理的に行動しようとするが、身体は合理的理由が無くても活動を必要とする。……意志と身体との必然性/利害の違い。ここに大きな矛盾のタネがある。

理由が無ければ身体を動かしたくない。……だが、身体は活動を欲する。衝動に駆られて結局は身体を動かすわけだが、動き出すに当って、思考は身体のわがままに対して、理由をコジツケずにはいられない。

「買い忘れを思い出したからちょっと買い物に!」、「ヒマだから散歩」……という程度ならばまだ良い。ただの思いつきを天啓やお告げ、といった、不思議系 のコジツケ解釈をしたらどうなるか? 非論理的な論理に当たり前に思えるようになると、人として危うい。……変な人と思われるだけならまだ幸せだ。

活動を欲するのは身体だけではない。脳もまた活動を欲する。……妄想を妄想と思える人、「夢見て何が悪い」と開き直れる人であれば、まだ良い。

無駄な考え、非合理的な思考を嫌う人ならどうか……マイナーな思想にかぶれたり、自己中心の思想に走ったり、無闇に論争を好んだり……良識を保っていられるなら幸いだ。

内臓や生理的器官の欲求も難しい。止らぬ飲酒癖は果たして低級霊の誘惑によるものか?……果たしてそれだけなのか?

疲れる恋、不幸な恋はいかにして生まれるか?……淫欲の霊の誘惑によるのか?……果たしてそれだけなのか?

……自分を不幸にするために努力する人。その努力の在り方は決して合理的ではない。理知的でもない。ならば、その動機は一体どこから生じるのか?――悪霊・低級霊? それもあるだろうが……身体・脳・内臓や生理的器官の退屈は侮りがたい。

いや、単なる身体的欲求だけならば害の生じるはずもない。ただ、本来ならば単純極まる身体的欲求に、合理的に解釈しようとして陥る、論理的矛盾こそが重大な問題を引き起こす。

ただの身体的欲求、運動などの発散で解消される類の物……を、大袈裟な話にして、引っ込みがつかなくなっている人の何と多いことか。

本当は単純な問題なのに、引っ込みがつかなくなって大騒ぎにしてしまう……わざわざ自分を不幸にする人々。自分で自分を振り回していては、なるほど難か ら逃れにくい。それを、業が深い、カルマだ、といわれて納得してしまえば……いや、納得してしまうのは、そもそもコジツケ論に弱い人だからだろう。

コジツケ論に弱いだけならばまだ幸せかも知れない。真実よりも迷信の方が人受けする……迷信の方が信じられるという人は決して少なくないのだから。

人間の動機というのは案外にくだらない。……人の動機のくだらなさを知って、幻滅するのは哀れである。身体というのはしょせん、一つの動物。社会性は備えていても獣なのである。それを飼い慣らし、誘導し、有益に働かせるのが人の心、ひいては霊性ではないか!

恥じるべきはくだらぬ動機を持つことではなく、くだらぬ動機に支配されることだ。頑張るためには、自分自身のくだらぬ動機を利用しても良いのである。たとえば努力した後に美味しい物を食べるとか……


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