‘2007/01’ カテゴリーのアーカイブ

受売りする機械

2007/01/30

2007年01月30日


『柳沢厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械」と発言』という、ニュースを聞いて、「おやまあ、女性の人権を守るべき厚生労働大臣が?」との印象を受けた。あまりにも杜撰すぎてむしろ興味が湧かなかった。その後、野党がこぞって辞任要求を始めるのは、ただの足引き合戦とも受け取れるわけだが、ヘッドラインだけでなく、ちゃんとニュースを読むと当然のことながらなかなか事情は深い。

柳沢大臣のいわんとすることは、女性の人権がテーマではなく、人口統計の話題だ。発言全文は知らないので、以下は私の好意的解釈であるが、「老齢化が進めば相対的に出産可能な女性の数も減る。だから女性にがんばってもらいたい」ということなのだろう。表現はともかく、発言の趣旨には女性蔑視の意図はあるまい。ましては講演後に発言を訂正したのではなく、講演中に訂正したのであるから、「機械扱い」を非難するのは「言葉狩り」にも思える。それゆえに安倍首相も辞任の必要はないと庇うのであろう。

さらにいえば、この発言には、技術系分野で多用される「ブラックボックス」解決法が見てとれる。その機械の仕組みはわからなくても、働きがわかれば使うことが出来る、というわけだ。

「女性それぞれの都合や境遇をとりあえず棚上げして、出産問題に絞るなら……」という趣旨なのだろう。ならばなおのこと、女性蔑視の意図どころか、そもそも女性を論じているのではない。完全に出産率の向上の話をしているのである。……むろん、女性の権利を抜きにして出産率の話をしようとするのも十分に問題だが。と同時に、もう一つの仕組も見て取れる。人間性を無視してただ統計的な数字の操作をしている官僚等の受売りをしていただけではないか? だとしたら、善悪の問題でなく、可不可の問題になる。つまり、官僚の受売りをするだけの機械なんていらない。公的機関の仕組に血肉を通わせ、愛情を持って国民に接することも大臣の仕事であろう。

対して、野党や報道関係の批判には機械扱いを対象とした言葉狩り、つまり感情論じみたものも多いが、民主党や国民新党の非難は、いい線をついているとおもう。

「女性に出産努力を求めるのではなく、女性が子供を産みたくなる環境を作るべきが、厚生労働省の仕事だ。」……という趣旨の批判も、柳沢大臣の発言の一部だけを取り出してのものかもしれないが、本来、柳沢大臣が率先して発言すべきことであったろう。

すると、端的に言えば、柳沢大臣は、女性を機械扱いした発言を謝罪するよりも、がんばる女性等への支援策を提示しなかったことが大きな失策だったのではないか。……足を引っ張られたことが罪なのではなく、しがみつく場所のないことが問題なのだ。

私は柳沢大臣に大きな罪(相対的ではあるが)があるとは思えない。だが、大臣にふさわしい理念や力量があるとはなお思えない。

問題点を提示するのは評論家の仕事だ。政治家がなすべきことは解決策を示すことである。具体的な解決策を提示さえしていれば、言葉遣いの下品さはおおむね容赦されるであろう。容赦されないのは厚生労働大臣の発言としての価値・内容がなかったからではないか?

だがそれはひとり柳沢大臣に限った話ではなかろう。……そもそも安倍首相の「美しい日本」という理念もなにやら具体性が捕らえがたい。「明確にして空虚な理念」の元に集まったスタッフなど、烏合の衆とどう違うのだろう? 格好のいいことさえ言っていれば、何をやってもいいんだ……安倍首相の側近からは、そういう手合いとしか思えぬ人々の不祥事がぽろぽろとニュースのネタになっている。

正しい理念の欠如こそが、今の政治の抱えている問題であろう。だが、それだけか? 政治家は国民の代表……ならばつまり国民の理念の欠如、それどころか、理念の何たるかを知らない人が国民に多いということではないか?

格好よく暮らせるなら、借金だらけでもいい、犯罪を犯してもいい、他者を泣かせてもいい……そういう世相の行き着いた結果、見てくれ優先の価値観が日本の政界トップにまで行き着いた結果がこの事件ではないか?

人口推移の問題に女性の献身的努力が必要であるとしても、男性の協力も必要であろうし、何より政治家の努力が必要なわけで、失言の取り繕いよりも、責任の順番の訂正こそがまず、柳沢大臣のなすべきことではないか?

なにより、出産対応のできる病院を増やすことが急務であろう。器を用意せずに中身を欲しがるのはナンセンス極まりない。それでは、世の女性らが感情を破裂させないはずがない。

失言そのものよりも、失言に慌てていること、つまり他にやるべきことがおろそかになっていることこそが本当に大きな問題に思える。

官僚の受売りをする機械では困る。官僚組織の非情さを人間らしい愛情で包むのが、政治家や大臣に科せられた第一の使命ではないのか。


修正

2007年2月1日

さらに補足。……機械扱いという暴言・失言を、機械扱いで揶揄しようとすることのナンセンスは自覚している。が、私が問題視するのは、なんら理念の示されないことだ。ただ失敗を恐れるだけでは物事が良くなるはずもない。……失言が問題ではなく、良い未来が見えてこないことが問題なのだ。

と同時に、問題を自覚していると錯覚している人々の多いこともまた、暗い未来を暗示している。

さらにいえば、こんな事柄は世にあふれている。


謎かけ

2007/01/29

2007年01月29日


この言葉の意味が分るなら、あなたはきっと十年以内に大きな幸せを掴んでいるだろう。

人の手を煩わせる。それこそが孤独でない証だ。

人の手を煩わせる。だからこそ人は孤独となる。

・・・・・・・

一得一失――何かを得るのに代償を支払う。

貪るな。自分の未来を今、食いつぶすな。

明日のために何かを残せる人が、明日、幸せを掴める人なのだ。


異なる見方

2007/01/28

2007年01月28日


人の行為は思わずして大きな影響を及ぼすこともある。

だからといって、自分の行為が相手に及ぼす影響を心配しすぎるのもナンセンスだ。送る側にも責任があり、受取る側にも責任があるのだから。

・・・・・・・

人を信じよといい、信じなくても良いという。

大きな影響があるといい、影響を心配しすぎるなという。

その時々で言うことが違うと、戸惑う人もいる。……だが、人生というのは決断の繰り返しではないか。ただ、同じ事だけを繰り返して生きられるほど人生は単純でない。

私は、人生の指針を与えているのではない。ただ、あなたとは異なるであろう視点を提示しているのだ。違う見方があるということを、あなたが認識すれば、それが最大の成果なのである。


気の持ちよう?

2007/01/26

2007年01月26日


心霊や占いなどの成果を、「気の持ちよう」と切り捨てる人は多い。

ほう……では、「気」とはどう持てばよいのだろう? 不幸な人が幸せになり、病気の人が健康になるような、気の持ちようというのは、たいそう価値があるのではないか?

スポーツマンや音楽家なども、技術を磨くだけでなく、精神修養を大切にする。……気の持ちようを重視する人は案外多い。だが、気の持ちようを知らぬ人はさらに多くはないか? 上記の話題も、本当に気の持ちようを知っている人であれば、具体的な心掛けなどを説明するだろうに。神秘的な事を「気の持ちよう」と、まともに取り上げないが、その一方で、気の持ち用の何たるかを知らない。何のことはない。神秘を学ぶ準備が出来ていないだけだ。……揚げ足をとらんとするのではない。議論の無駄をいうのである。

一方で、他者から「気の持ちよう」といわれて躊躇するような人が、神秘的な事柄に関わるのは決して良いこととは思えない。……なにしろ、気が座っていない。

釈迦は最後に、「自分を州(または灯、つまり心の拠所)とせよ。真理を州とせよ」と説いたというが、神秘への接し方に迷う者は、他者を頼るに、いかなる根拠を持っているのだろう? 信念か、理論的な知識か? そのどちらも持たず、人が「良い」というものに心なびき、人が「悪い」といえば目を背ける。自らの精神修養には無関心で、ただ、神秘を利用しようとしているだけではないか?

利に釣られやすい人ほど騙され易いとは良く聞くが、心構えの出来ていない人が、「利」以外の何を信じるというのだろう? 釣るつもりが釣られはしまいか? 信念や知識が不足すれば、口の上手い人にいいように利用されかねない。 いや、利用されるならまだ幸せかも知れない。……信念や知識は、信じるためだけでなく、真実を適切に理解するためにも必要なのである。不足があれば、正しい相手の言動を誤解して『騙された』と思い込むなら、その過ちはいつ正されるだろう? 誤解が正されるまで延々と間違った行いを続けなければならない……かくも傷つくために神秘に近づく人が多いから、神秘が蔑視される。神秘が賤しいのではなく、卑しい人が神秘に群がりすぎるのである。


己を磨く

2007/01/25

2007年01月25日


悩みにも人それぞれ、色々とある。

自分を取り繕う者もいれば、

最善を尽そうとする者もいる。

つまり、今ある姿を歪めようとする者もいれば、

今ある姿を研ぎ澄まそうとする者もいる。

……君は後悔しているのではなく、身をすり減らして、磨いているのだ、と、言えないことの切なさ。いや、その切なさには希望がある。だが、苦悩で身を切り刻むだけの人もいる。その切なさには希望がない。

どちらが正しい、という問題ではない。

あなたにも夢があるだろう。……よろしい。

だがその夢には希望があるか? それとも絶望が支配しているのか?

希望のある者は、希望を受け止めるために身を慎み、

希望のない者は、絶望に支配されるが故に身を慎むことがない。

古来、聖人は身を慎んだというのは、つまり、希望を抱いているからなのだ。一方、小人(つまらぬ人)は、絶望に支配されているが故に身を慎むことがない。……どうせ失う物など何もないのだから。


誰を信じないのか?

2007/01/24

2007年01月24日


天気が悪いから信じない、

体調が悪いから信じない、

あいつの声が嫌いだから信じない、

あいつの雰囲気が悪いから信じない、

あいつに裏切られたことがあるから信じない、

要するに不機嫌だから信じない。

……論理をおろそかにして感情で信じるか、どうかを決めていないか?

人として大切な判断をするのに、人として恥じるべき手段で決めていないか?

人は生かされているのに、信じるものがなければ、何を頼れるのだろう?……流されるだけの人生では、疲れ、そして心細い。

「信じよ」といわれて「信じられない」といい、「信じなくていい」といわれて、戸惑う。……問題は本当に、信じるか、否か、ということなのだろうか?

巧く行かないことに苛立っていないか?

突破口が開けぬ事に苛立っていないか?

振り向いて貰えぬ事に苛立っいてないか?

失うものの多さに苛立っていないか?

信じるべき相手に、八つ当たりしていないか?

相手を信じるか、信じないか、それ以前に、ちゃんと自分を信じているのか?

判らないのではなく、判りたくないのだ。信じられないのではなく、信じたくないのだ。……自分の本心に気がつかずに、他者に翻弄されてはいないか。


向上心の空回り

2007/01/22

2007年01月22日


Q 「向上したいといいながら、騒ぐばかりで、どうにも進歩のない人がいます。なぜ、こういう事になるのか? また、どう受止めればよいのでしょう?」

頭が滑る……やりたい事が多すぎて努力が追いついていない。気分は舞上がり、うまく行かぬから気が焦る。自分の力を一喜一憂するためだけに浪費し、夢を実現し、また、自己を向上させていくことにまで力が廻らない。そもそも、自己の向上という現実的な成果を求めている相手ではない。ただ、向上した自分の姿を思い浮べて良い気分に浸りたいだけである。

これは若さの持つ副作用の一つである。生気溢れる人は、呼吸しているだけでも幸せなものだ。と同時に、他にも幸せのあることを想像も出来ない。反対にコツコツと物事を為そうとすると、溢れる生気を持て余して苦痛を感じる。

Q 「発散がヘタ?」

こうもいえる。今までの人生を、ただ、親など、自分より上位にあるもの、優位にあるものへの対抗心(反抗ではない)で過してきた。……見下している、ともいえる。だが、見下した相手の真価に気づいた時、自分の本当の価値も知る。

たとえば養育されているときには、親の収入を内心侮蔑するが、いざ働こうとすると親の収入に敵わぬ事に打ちのめされる。誰かに侮辱されるのではない。自分が侮蔑してきた相手に、敵わぬ事で打ちのめされるのだ。

それまでは色々な人々を侮蔑することで発散していたが、侮蔑する相手を失って鬱屈してしまうのである。

その後の人生は大きく二種に別れよう。おまえが問題にするのは、その鬱屈した気持を「霊障である」と思いこむ者であるが、内心の侮蔑・対抗心を、あからさまな攻撃・反抗心に変じる者の方が圧倒的に多いだろう。

優越感に浸る間は、本心を隠すが、優越感を失った後は、見てくれに構うことなく利己的な行動に流されていく。

Q 「子供の頃は良い子だったのに……」

親を尊敬し服従していたのではなく、親を相手にしていなかったのだ。……むろん、誰もがあからさまな攻撃心を露にすることはないだろうが、見る限り、多くの者が親への侮蔑と現実の自分との差に苦しんでいる。

Q 「どう受止めればよいのでしょうか?」

若さのもたらす気分の高揚、溢れる生気に陰りが出れば、いやでも人は冷静に戻り、現実との妥協が当り前に受止められるようになってくる。時間に任せるのも一つの手ではあるが、当然それは莫大な後悔と共に生きることを意味する。だが、同情が必要であるのか?

Q 「確かに自業自得ではありますが、家族にすれば大変かと?」

かつては侮蔑し、今は憎んでいる相手の助言や親切さをどうして受入れようか? 今まで見下し、侮蔑してきた相手の親切ほど、イヤミなものはないだろう。一体、救いたいのか、報復したいのか?

Q 「上手に下手に出る、ぐらいでしょうか?」

取繕いは、たちどころに破綻する。……こういう子も、その親も、侮蔑し、侮蔑されていることに気が付かなかった罪を罰せられているのである。

価値あるもの、自らを生かすものを侮蔑する。限りある人、制約に縛られている存在が決してやってはならぬ事だ。その罪を許されるまで苦しみは無くならぬ。

Q 「何か話題が、とんでもない大事に転じた気がしますが」

だらしなく生きる、それは人として大切な何かを学び忘れたということである。それがどうして大事でないと思うのか?

大事なものが欠けているのだ。地上のものさし、つまり結果だけでその罪を判断すれば、さしたる罪には思えまいが、それはただ、手段を持たぬが故の結果である。歴史を振返れば、大事なものが欠けている(世襲の)君主等がどれほどの被害を社会に及したか。

この罪は重い。ただ、害が外に及ばぬ事だけが救いともいえる。

Q 「自らを生かすもの、助けるものを侮蔑する……大なり小なり人がやっている悪行ですね」

社会を汚し、環境を汚し、子孫の未来を汚している。……人々は過去の時代の人々を未開であると侮蔑するが、未来を汚すことにかけて、今の時代の人ほど悪辣な存在は無い。現代は霊性の暗黒時代である。……良い自分であろうとするが、未来を汚すことを止められないのだから。

Q 「皆同罪だと……」

そうまではいわぬ。ただ、害が少ないからと簡単に考えるな、ということである。また、家族がかわいそうだからと、安易な解決を求めるな、ということでもある。

だらしなく生きるすべての人が、だらしない心の持主であるとはいわぬ。病気もあるだろう。霊障もあるだろう。他にはいえぬ不都合もあるのだろう。

だが、溌溂と生きる人々であろうとも、未来を汚していることに気が付かぬ人が多い。

自分を生かしているもの……地球、環境、社会、家族もまたあてはまる。それらの大切さに気が付かずに生きることが、結局は自分の可能性を狭め、また未来を汚す大罪となるのだ。


人は信じるべきだ

2007/01/20

人は信じるべきだ

2007年01月19日

人を信じる……だがそれは、騙されたことが無いが故の信念であるのか、疑うことの苦しさから行きついた信念であるのか。

前者は一度騙されると揺らぐ甘さがあり、後者は騙されることを恐れぬ強さがある。

人は信じるべきだ……その信念をきれい事と呼ぶのは、信じる心にも二種類あることを知ってのことだろうか?

・・・・・・・

 人が騙されるのは嘘ばかりではない。他者の錯覚を鵜呑みにしても人は騙されたと感じるだろう。だが人は、己の錯覚や理想や希望からも騙されるのだ。人を信じてみないと、自分の過ちに気が付かなくなる。

過たぬ方法はないから、人は真理を学ぶべきだ。たとえ、真理なる物が現実とは相容れない夢想に思えても、進むべき方向性を見失うよりはよほど心強いのだから。

・・・・・・・

 疑うことに疲れ、信じることを恐れる多くの人々。……証を切望し、証を切望し、証を切望する。だが、その証が正しいとどうして知ることが出来るのか? 騙される者を愚者と笑えるのだろうか? 正しきものを知らず、ただ疑うことしか出来ぬ者が。

学びは、信じることから始まるのに。学ばずしてどうして正しきものを見分けられるというのだろう?

本当に恐いのは騙されることなのか、むしろ、己の無智を、己の強欲さを見抜かれることではないのか?


信じることが出来ない

2007年01月20日

「人は信じるべきだ」というが、やはり信じられない相手がいる、というメールが来た。

“信じるべきだが信じられない”……なぜこのような堂々巡りに陥ってしまったのか。そして、どのようにこの堂々巡りからどう抜け出せばよいのか?

……信じるか、信じないかよりもさらに重要な問題、心のシコリを明らかにするための良い話題、つまり「循環の一端」を掴む話題だと思う。

・・・・・・・

 信じるということが、単に騙される恐れを知らぬ事なら、たった一度、大きく騙されただけで人間不信に陥る。……だがそれは、真実の何たるかを知らぬからだ。確信の持てることだけを信じるなら、人はどうして成長できよう? 未知を信じることから成長が始まるのである。

だが、なぜ、信じられない相手まで信じようとするのだろうか?

私は「人に騙されよ」とは言わないし、「人の過ちに付合え」とも言っていない。だが、誰もが正しいと確信できることが一体どれだけあるだろう? 時には確信が持てなくても信じて行わなければならないことがある。……私が信じよ、と主張するのはその程度のことだ。なぜそれを大袈裟に受取るのか?

暗に、相手を非難していないか?

暗に、自分を過剰に庇っていないか?

相手の嘘を、相手の過ちを自ら見抜けなかったことから、目を背け、忘れようとはしていないか? 自分が悪いのではなく、騙した相手が悪いのだと、大声で泣き叫んでいるのではないか?

あなたが、目を背け、逃げようとしているとしても、私は非難しない。 だが、あなたが騙されることを恐れて何も信じられなくなったら、大切な何かを失うのは誰か?

私は、逃げるな!、というのではない。逃げる必要があるのか? と問うのだ。

誰も追い掛けていないのに、逃げ回る人があまりに多い。しかも、自分が逃げていることにも気がついていない。……いつも息切れして、心が安らがず、頼るべきものを探している。そういう人に、「逃げる必要はないのですよ」といっても信じない。たとえ嘘でも除霊をしました、といえば、感謝の涙を流すのに。

なぜ、信じないのだろう? ……正しい知識がないからだ。

なぜ、嘘を喜ぶのか? ……真実よりも自分を大切にするからだ。

なぜ、嘘を受け入れるのか? ……真実の大切さ、信じることの大切さを知らぬからだ。

たとえ善意から出たものであろうとも、嘘は嘘だ。正しい嘘と、間違った嘘との間にどれほどの差があるのか一体あなたは知っているだろうか? いや、そもそも正しい嘘などというものが本当に存在するのか?

……私は知らない。だから、嘘をつくぐらいなら、ただ、口を噤む。

・・・・・・・

 私の言葉にも無意識の嘘、つまり過ちが含まれないとはいえない。だが、失敗を恐れて沈黙しては、何のために生まれてきたのか判らなくなる。

善いと思うことを世に問い、切磋琢磨してこそ人は成長するのではないか?

逃げるなとはいわない。だが、本当に逃げる必要があるのか?

……悲しいかな、人は真実以前に、人間と付合わなければならない。

多くの人は、真実よりも都合の良い嘘を喜ぶ。たとえ出来が悪い嘘であっても、都合の良い嘘を喜ぶのだ。昨今のニュースに多い、不祥事の隠蔽。 それらは結果から見れば隠蔽工作と呼ばれるが、彼らの内部では、都合の悪いことを、都合良く解釈しただけのことなのだ。それぞれが小さな取り繕い、それが集まって大きな社会悪として取り扱われている。

結果から見れば明らかなように、その小さな取り繕いは決して軽い罪ではない。……だが、世の責任者等は、その取り繕いが重大な罪悪であるとは考えようともしないものだ。

真実は大切だ。だが、真実は、真実であるが故に、重大な影響を及ぼす。……責任ある人々が心を閉ざしてしまうほどの。

真実を口にするときには、よくよく考えるべきである。……不幸ではあるが、地上で生きるには必要なことだ。真実を口にする時には、よくよく自分の逃げ道を用意しておくべきだ。

くそ、くそ、くそ。 これが、魂の修行の場であるというなら、地上は悪魔の養成所だ。


第三の答え

2007/01/18

2007年01月18日


今年に入って、「どちらを選ぶべきか?」という相談を二人から受けた。つまりは二者択一である。私の答は、三番目の物であった。

二者択一に対して、三番目の答え……裏切られたと思う人は多いだろうが、なぜ、答が二者択一であると決めつけるのだろうか? ただ単に、答はその二つしか有り得ないとあなたが思うからではないか。

いや、二者択一に限らない。三者択一でも、四者択一でも……答は選択肢の外にある物だ。何となれば、どちらがよいか選べない、という段階で、すでにどちらも真の解答とは認めがたいではないか。

なぜ、どちらがよいのか選べないのか? ……特に秀でた部分がないのか、はたまた、あなたがその問題を正しく理解していないのか、さらには、その問題を解決する力がないのか。

いずれにせよ、その問題はあなたの手に余っているのである。手に余る。それを受け入れれば、なぜ悩むのかが判るはずだ。どちらも適当ではないのだ。

二者択一に集約できるようでいて、集約できない。その迷走の理由が実は、自分の手に余ることを理解できたなら解決の道も開けてくる。そう、三番目の答を受け入れられた人は幸せである。だが、納得できない人はさらに二者択一を持ち出す。その答は相変わらず三番目の物だ。

たとえば、「この問題は一人では解決できない。」……なぜ一人で解決せねばならぬのか?

結局のところ、助けを求めたいのではなく依存したいのかもしれない。


設問が不適切だから迷うのに、その不適切な選択肢に囚われては答えを得られない。

答を絞り込むから選択肢が生じるつもりでいるが、結論が下せぬのであれば、実はなんら絞り込んではいないのだ。

答が出ぬから延々と悩む。それはつまり、空回りということだ。……悲しいかな、それは無駄であって、意義はないのである。


補足: 霊障が酷い

2007/01/18

2007年01月18日


題には「補足」と入れたが、最近の投稿に対する補足ではなく、常日頃私が周囲に漏らしている言葉への補足である。有り体に言えば、霊障の問題に対して充分な取り組みを避けただけである。


長期間霊障に悩んできた、という人に感じる共通性は、悩める霊に対する同情心である。

……相手のきっと悩み苦しんでいるのだから、無碍に扱うわけにはいかない。取り除くのではなく浄化・説得しなくては。

一見正しい。しかし、大きな勘違いがある。私たちは何をしに地上にいるのか。そして死者はなにゆえに死者なのか?……それが判れば答は明白だが、判らなくても答に容易にたどり着く。

死者が生に拘るのはなにゆえか?……理由も分らずに拘るとは何事か? そしてあなたは理由を明らかに出来るか!?

あなたがその理由を明らかにし、相手を説得できるのであれば問題は解決するだろう。それが出来なければ、つまり、あなたには手に余る問題だということだ。その手に余るの意味をあなたは本当に理解しているだろうか?

あなたには、悩める霊に同情する力はないということだ。……力もないのに同情し、決着をつけなければ、お互いに時間を無駄にすることになる。いや、いくら時間が掛ろうとも解決するならばまだ良い。解決しなければ希望が裏切られるのだ。……時とすれば、拒絶されるよりも、希望が裏切られることのほうが辛いものだ。

あなたは果たして、相手のために同情するのか、相手を苦しめるために同情するのか、一体どちらだろうか?

あなたに解決力があるなら良い。解決力がなければ任せるべきなのだ。……誰にか? そう誰に任せるべきかそれが大切である。

あなたがこの世に生まれ出た理由は何か? ……たとえそれが分らなくても、偶然に生まれたのではないと、あなたは信じているはずだ。理由があるならそれをおろそかにすべきではない。つまりあなたは生きることに専念すべきである。……そしてあなたが生きることに専念すべきであれば……死者は死に専念すべきなのである。

この世のことはこの世で、あの世のことはあの世で解決すべきなのだ。

死者に同情して、生きることの大切さをおろそかにしていないか?

生をおろそかにする、その事情が複雑であることを私は知ってはいる。だが、それはそれだ。あの世のことはあの世で解決すべきである。

死者を導くべき、産土の神々。その産土神に背いているのが迷える霊なのだ。……地上ではなく霊界で救いを求めよ、と答えるべきなのである。


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