‘2006/12’ カテゴリーのアーカイブ

声(霊?)が聞こえて辛い

2006/12/12

声が聞こえて辛い (1)

2006年12月12日

「(霊から?)声が聞こえてつらい」という悩みは、心霊に関心のある人の良く聞く悩みである。今まで、この件に関して、私は深く掘り下げることを敢えてしてこなかった。敢えてこの話題を避けた理由も含めて、そろそろ解説することにしたい。

矛盾

いの一番に指摘したいことは、私は、多方面からこの問題について解説してきたことである。だから、多くの人が得心がいかずに突っ込んだ質問をしたくてうずうずしていた(はずである)。それどころか、『どうせ判ってくれないのだから!』と、立ち去った人も多い。

第一の問題点がそこにある。……なぜ、ちゃんと質問できないのか? はっきり言われたくないが、でもしっかりと聞きたい話、そういう矛盾をはらんでいるからこそ、私ははっきりと書くことをしなかったのだ。

羞恥心

次の問題点は、私は解決策を提示しているが、実行する人があまりいないという点だ。……道路や公園などの掃除、つまりは社会奉仕だが、一方では、人目に触れやすく、慣れぬ人だと羞恥心からなかなか実行できないことだ。

矛盾羞恥心、と、整理されてピンと来た人は幸せである。

さらに気が利く人であれば、これがどれほど危険な話題かも予測が可能だろう。……秘密を守るために人は何をするだろうか?’


声が聞こえて辛い(2)

2006年12月13日

声の源

いわゆる霊感・霊信として感じられる声は、三大別して考えるべきである。

  1. あなたを必須の相手とする通信。
  2. 聞いてくれるなら誰でも良い通信。
  3. 聞こえた気がするもの。

1項が、本当の意味での霊界通信であるが、これは心霊相談として持ち込まれることは滅多にない。互いに充分に理解し合えるため、誰かの助けを必要とする程、拗れないからである。従ってここでは論じない。

3項となると、通信ではなくただの勘違いであるが、そもそも、勘違いであろうともそれを自身の霊感と信じられるなら、それなりに経験があり、つまりは感覚が発達している人であろう。……だが、霊感があろうと無かろうと、人に誤解や勘違いはつきものであるし、なによりも問題なのは、なぜ勘違いで苦しまねばならぬのか、という点だ。

2項の問題点とは、たとえるなら、「他人の愚痴」と似ている。相手が真剣で「聞いてくれ」というので耳を貸してみれば、話の内容がまるで要領を得ない。『一体、私に何をさせたいのか?』……長時間、話を聞かされた挙げ句にようやく気がつく。用事があるのではなく愚痴を言いたいのだ。……そして、愚痴は聞き苦しいものと相場が決まっている。

愚痴の判別法

具体的なアクションはむしろ邪魔、ただ「あなたが悪いんじゃないよ、」といって欲しいのだ。それが非現実的であったとしても。いや、言っている者が、愚痴を愚痴として自覚していることは稀である。むしろ、当然の意見、正規な意見と信じているだろう。……では、それが愚痴であるのか、そうでないのか。

その判別は、案外簡単だ。……正しき結果に至るのは正しい過程だけなのである。たとえ間違って選んでも、その結果が正しければ、選んだ過程は正しいということだ。

正しい意見・正しい考えの持ち主であれば、努力の果てが良い結果に結びつくであろう。だが、巧く行かぬから他者に意見を求めるのではないのか?……これが「自覚無き愚痴」である。

自覚ある愚痴、というのもある。たとえ正しい見識を持っていても、時期や状況が忍耐を強いることもあるのだ。すると、時機(チャンス)を得るまでは、耐えなければ仕方がない。が、耐えることに辛いときに誰かの共感に触れたいと思うこともあるだろう。そういう時の愚痴には薬効がある。……用法・用量さえ間違えなければ。

少なくとも、愚痴を、愚痴と指摘されて、ハッと反省できるならば、まだ大丈夫だ。だが、愚痴を愚痴と認められないと、あとは話にならない。

羞恥心が邪魔する愚痴

「声が聞こえてつらい」という問題の、解決を邪魔している最大要素は、羞恥心、もしくは自負心の強さである。そして、羞恥心・自負心が強い人は愚痴をこぼすことを潔く思わない。愚痴をいったという事実さえも、認めることに苦痛を感じるものだ。

ここにもう一つの障害が存在する。愚痴を愚痴として認めないから、どんどん嘘、言い訳が厚くなってしまう。


声が聞こえて辛い(3)

2006年12月15日

狂気に見える

「声が聞こえてつらい」のであれば、声を無視するように努めればよい。……実際、そう指導する霊媒もいる。だが、それが出来ずに苦しむ多くの人がいる。……まずそこからしておかしい。

さすがの霊媒も思う。たとえば私だって第一印象は……ゆとりがなければ……相手を信じようとする気持ちがなければ……適切な、合理的な思考が出来なければ、それは狂気と呼ぶしかないのではないか?

嫌ならばなぜ、その声を無視することが出来ぬのか? 私はそこに、別な問題を感じ取る。相談者は自覚しつつ、または、無自覚で、真の問題を隠す。自覚があるならまだ上手に隠す。だが、無自覚に隠すと、どうもボロが出る。それも不自然に。

たとえば会話に置換えてみると、隠すから話がよく見えず、時々現われる秘密は突拍子もない。脈絡もなく、馬鹿にした印象すら受ける。

それらを一言で表わすと……狂気だ。

当人は、精一杯に、誠実に対応しようとしているのだろう。だが、当人にはどうしようもない理由から、言動に矛盾が生じ、それが周囲に狂気を感じさせる。そして周囲から狂気を疑われて……孤立していく。だが、脳、もしくは身体の故障から来る狂気ならば、医者で治るかも知れない。しかしもしも、何かを隠そうとして無意識に振る舞っているなら?

真の狂気は治るかも知れない。だが無意識の演技を誰が直せるのか? 当人以外に。

刺さると抜けない

解決の難しさばかり列挙されると、解決に焦る人々は、逃げ口上を並べているように思うかも知れない。だが、この問題は、釣り針などのように、刺さり易く、抜きにくい返しが附いているのだ。

そう、私が列記する「解決の障害」は、何一つ、治療者を苦しめない。苦しみの対象はあくまでも当事者なのである……つまり……つまり……つまり。

刺さるよりも抜く方が痛い……であれば、矢を抜く患者がいるだろうか?

刺さったままでは痛いが、抜くのはなお、痛い。

抜くのが痛い、それゆえに、当事者にしてみれば、治療者が下手だからと結論をしやすい。だが、痛みもなく解決するという人を信じて歓び、そしていずれ気がつくのであろう……治っていないことに。

私の相談者の中には、治すよりも恋人をつくって慰めて貰う方が楽だと気がついた者がいる。だが、慰められるのは楽しくても、慰め続けるのは楽しいのだろうか? その通りに、何度も破綻したようだが、痛みを嫌うだけで、治す気の不足する人では、この問題を解決できるはずがない。

もっともこれは、痛みの強さと、恋人の忍耐力や人柄、さらには当事者の魅力も絡んでいるから、必ずしもこの選択が破綻するとは限らないが……世の中の公平さとは、チャンスの公平さであって、結果の公平さではない。


声が聞こえて辛い (4)

2006年12月16日

なぜ拒まぬのか?

「(霊)声が聞こえてつらい」という問題は、インターネットの利用者にとって、「BBS(電子掲示板)の荒し問題」に例えると、冷静に考えやすいかも知れない。

「相手にしないのが一番だ」……声の源を三大別(実は五大別)した理由がここにある。

1項、あなたと話をする必然を持っている霊であれば、あなたがどんなに無視を決め込んでも、何とか話に持っていこうとする。……友好的に。あなたと会話する必然があるのに、敵対的ということは考えられない。真に敵対的ならば恐喝するより、油断させて攻撃する方が利口だからだ。

2項、誰でも良い霊であれば、一時的にはあなたの態度に腹を立て、仕返しを続けたとしても、いずれは興味深い相手を見つければそちらに移っていくだろう。……従って相手をしないことは有益な対策である。

だが、そもそも、会話とは一方の気持ちだけで成立するわけではない。少なくとも最初の一言に、あなたが答えてしまったからこそ、相手も話しかけてくる。そう考えるなら……後述する。(#1)

3項、その声があなたの錯覚であれば、無視を決め込むその態度が、結局、あなたを冷静に戻し、錯覚を消し去るだろう。

だが、なぜあなたは声が聞こえると思うのだろう。そして、その声はなぜあなたをいらだたせるのであろう?……後述する(#1)

(#1)

真の問題は、聞こえる声ではなく、何かを聞き出そうする、あなたの潜在的な欲求にあるのだ。しかもそれは、単に答を聞きたいのではない。状況変化への予言である。……本当に欲しいのは状況の好転であって、単なるお追従やおべっかではない。開運を待ち続けている者にしてみれば、単なる知らせですらありがたく感じる。だが、お知らせが実現しなければ、なまじ喜んでいただけ現実の冷酷さがなおさら辛く感じられる。

これは、霊感の使い方としては最悪である。……有る物を分けて貰うこと(融通)は出来る。だが無い物をねだって何になろうか?……しつこくねだれば高級霊は嫌がり、低級霊は隙を嗅ぎつける。いや端的な表現がある。波動の低い者に低級霊は群がるのだ。

かくして事態は拗れに拗れる。

本来であれば、努力で乗り切るべき事を、霊の力をあてにして援助が得られず、援助の代りに亡者を呼び寄せて健康を害し、集中力を失い、精力も奪われて根気もなく、努力で出来ることも、努力が出来ずに諦めねばならなくなる。……解決策のつもりが全てを失いかねない大失策なのだ。

……いや、念のために明言する。「声が聞こえてつらい」……というのは、心得違いの結果であると思うのではない。多くの場合には、無理からぬ必然がある。強いていうなら、楽そうな道を選んで破滅するのではなく、一番安全そうな道を選んで破滅しかけているのである。

……努力を嫌うのではなく、安全を求めているだけ。だが、往々、安全を求める心は依存心と相性がよい。しかも、失敗が続けば自信を失い、自信を失えばなお依存心が強まる。

もう一つの問題がそこにある。……痛みと共に育ってしまった依存心が問題解決の障害になるのだ。

くどいようだが、整理する。「声が聞こえてつらい」という問題の、苦痛要素はただ一つであっても、問題そのものは悪意有る誰かを原因とする単純な結果ではなく、多くの条件が重なった結果、いや、過程である。それらの諸条件の全部、少なくとも充分を取り除かなければ快方には向かわない。

あなたが一人で解決できないのは、弱いからではなく、問題が複雑だからなのである。


声が聞こえて辛い (5)

2006年12月21日

雨漏り

雨が漏るのは雨が悪いのか、屋根が悪いのか?

声が聞こえて辛いと考える人は、どうも雨(霊)が悪いと考えているようだ。だが、環境は誰もが同じである。

……因縁に差があるにしても……屋根を治さずに天気を呪っても、あまりスマートな態度には見えない。いや、そういう態度が事態を拗らせている。

傾向と対策

欠点の無い者はいないだろうが、他者の言葉になぜ振り回されるのであろう? たとえば失敗した、失恋した、等といった触れられたくない話題が有るからこそ、声に対して神経質になる。触れられたくない話題に触れられるから無視するよりも復讐に走るのではないか?

これには二つの対処法がある。……ただし、魔法ではない。

1,『それが何だ?』という態度を貫き通す。……あなたは秘密を守れるつもりでいるかも知れないが、どうせあの世では皆、明らかになるのである。霊媒が気がつかぬとしても、それであの世を騙し通せるわけではない。なんとなれば、知れば責任が生じるから、見て見ぬフリをしていることも多いのだから。まして、他人に意地悪をしているようなヒマな輩なら、きっともっと酷い失敗をたくさん抱えているに違いないのだ。だからこそ成仏せずにいるのだから。

2,『笑い飛ばすことだ』……秘密を探るにの「カマを掛ける」わけだが、人間よりも霊の方がよほど探りを入れるのが巧い。隠そうというのはナンセンスである。ならば、隠すよりもバレることを前提に生きる方がよい。

私の感想

私が取り扱った事例では、当人は一様に認めていないものの、誰かに何かを言いたくて言えない、何かを持っている様に感じられた。他者に言えないことが心の弱みとして存在するようだ。

たとえば両親の生き方に意見がある。具体的にいえば侮蔑しているわけだが、両親の方が自分よりも社会的地位や経済的な優位に立っている。……正しいと思うが現実に合わないことと、間違っていると思うが現実に合っていること……そのギャップに沈黙を守っている人も多い。

第三者的意見をいえば、論理に問題があるのではなく、行動力に差があるのだ。

ここにも解決策の一端が見える。……思考に行動がついていかない人が妄想に走る。いや、見えざる者の声に悩むのだ。

いや、こうもいえる。

他者から秘密を守ることは可能かも知れない。だが、自分の内面にも秘密を守ることが可能であろうか? ……葛藤、または、自己嫌悪。屋根に穴が開いていれば雨漏りは直らない。

低級霊に悩まされるとする。……一体なぜ、あなたの守護霊や祖先の霊は、低級霊何ぞに手を焼くのか? あなたを守る者はいないのか? 低級霊の害よりも、あなたが霊的な保護を失っていることのほうが問題ではないか?

何となれば、あなたは死後にどのような境遇に行くのか、考えてみると良い。 低級霊になぶり者にされて、しかも助けのない境遇。声に悩む以前に、地獄に堕ちることを恐れるべきではないか?


声が聞こえて辛い (6)

2006年12月22日

大多数にとっては無駄な助言

この話題に関しては、書き出しを除いて筆が重かった。また、私の覚悟に反して纏りも悪い。……背後の霊達が無駄と判断したのであろう。インスピレーションは天(霊界)の支持が合ってこそ豊富に得ることが出来る。

何が問題なのだろう?

姿無き声を問題にするのは、声が聞こえることではなく、霊を利用できないことではないか? 例えるなら、ドブに落ちても良い匂いをさせて上がってくるとか、転んだら宝石や大金を拾って起きあがるとか……そういうことを目論んでいる。

よほど福徳があるならそういう局面もあり得るが、もしもあなたがドブに落ち、または、転んでも、損ばかりで得ることがないと悩んでいるなら、利益を忘れてまずは復することを心掛けるべきだ。損を最小に押さえることが回復の第一歩なのだから。

自分の強欲さに押しつぶされてはいないか? または、両親や自尊心の強欲さに?

体質・気質

この問題に悩むのは、いわゆる、石橋を叩いても渡らない、慎重なタイプの人だ。たとえば、考えるよりも先に行動する人であれば、いかなる声が聞こえようともそれが問題になることはない。……つまり、声が行動を左右することもない。すると、行動よりも考えることを重視する人ほど、この問題で悩むのだ。

私も、考えることを重視する人間であるが、同時に奇をてらうところがある。考えても答が出なければたちどころに行動に移すし、考え方を改めもする。その変化に富んだ気質が、自分を救ったのだろうと振り返れば思う。

体質・気質、もしくは体癖によって、この問題の影響力が違う……であるから、こう考えることも出来る。

もしもあなたが行動を尊べる人であれば、利を得ることを諦めて、損を減らすように直ちに行動すべきだ。それは単にあなたを救うどころか、最後にあなたに利……勝利をもたらす。

もしもあなたが、充分に考えることを欲するなら、根本に帰って考えるべきだ。少なくともマンガ・アニメを参考に心霊問題を考えるべきではない。何となれば、大衆娯楽はしょせん、大衆に理解しやすく問題を簡素化しているのだから。

もしもあなたが、利を最優先にするなら、私などをあてにすべきではない。一得一失、無料相談の与える物などあなたに満足できるはずもないのだから。むろん、どこにあなたの納得する物が有るのかは私は知らない。だからこそ、私は無料で相談に乗ってくれる師を持ち、そして私も無料で相談に乗っていたのだから。


声が聞こえて辛い(7)

2007年02月05日

霊聴がうるさくて、というかつての相談者がどうしているのか気になって、精神統一を試みた。すると、私の心に飛込んできたものは、霊達からの激しい非難であった。

『間違った方向に心を向けて、それでうるさいだの、しつこいだのとイライラしている。本当ならば投出したいが、世の中、悪霊ばかりだと思われるのもしゃくに障る。でも本当の問題は、その人の心が悪霊と同調しているのだからどうにもならない』

社会に不満を持つ……チャンスさえ与えられれば、決して愚かではないのだからそれなりに成果を出せるとしても……そのチャンスも又、代償無くして得られぬものであると知っているだろうか?

それでなくても社会は、利己心で廻っている。他者の才能を活用しようなどという御仁(ひと)は、なかなかお目にかかれない。大方の雇用主・使用者は、いわ れ たことを充分にこなせばそれで善しとし、それ以上も、それ以下の働きも嫌うのが普通である。……機構的にそれで巧く廻っていくはずもないのだが。

世に不満を持つ者等の主張に、間違いがないとしても……大抵は大きな欠落をもって居る。……努力不足、経験不足、認識不足に、人脈なくて、人徳・人望もな い。――だれもが『こいつに大事な仕事を任せて大丈夫か?』と不信を抱かれているのに、望みの大きさと実際の能力とのギャップが、更に周囲の不信を助長し ている。

正しいことを主張するばかりで労せずばうだつが上がらなくてむしろ当然。いや、たいていの場合、出る杭は打て、とばかりに阻害されるのが落ちではないか?……役立たずの小うるさい小僧という世間のイメージを壊すことが出来るだろうか?

いや、そんなことは当人も充分に理解しているのだろう。だが目を背けたい。なんとなれば、依るべきものがすでに正義しかないから。だから、他者の間違い ばかりに目がいって、他者の善い部分が目にとまらない。……たとえ多くの欠点があるにせよ、長所もあるから仕事をこなしている。(いや、中には仕事を混乱 させているだけの人もいるだろうが、長所もあるからクビに成らない)、それを、自らの長所を伸すことを忘れて、ただ、相手の欠点と自分の誇りとを比較して 他者を見下すのは、なんのことはない。自信を失っているからだ。

自分より優れているものを認めたくない気持が、世の中を暗く悪いものにイ メージさせる。暗いものしか見たくない気持が、悪霊・低級霊と感応する……本来 なら目を背けるべきもの(悪)に目を向け、本来目を向けるべきもの(善)から目を背けている。……高級心霊に眼を向けようとしても、気持が利に囚われて、 お守りとかおみくじとかばかりが気になる。"印刷された紙様"を見るばかりで、人のイメージを超越する"神様"を信じられない。

巧く行かぬなら、巧く行くように方向を定めるべきなのに、巧く行かないままに悪循環にはまり込む……この様子では日陰から、まだまだ出てきそうにない。


うるさくて仕方がない!

2008年02月05日

このページは騒音問題や耳鳴り治療の解決法ではありません。――当サイトは心霊サイトです。

目的は霊障問題、とくに霊感が制御されない場合の対策を暗示(解決ではなく)するものですが、霊感なくして人は死後、他とコミュニケーションが成立しないことにご留意下さい。……

以下は、霊感発現以前に、精神統一の実習をしたことのある人ならば判りやすい。または、瞑想や座禅のたしなみのある人なら、ば、である。

ひっきりなしに霊の言葉が聞こえて、うるさくて仕方がない、という人がいる。ハッキリ霊の声とはいわず、または自覚せずに、物音や耳鳴りや、動物の鳴き声に平常心を揺らがされている場合もあるが、上述のようにこのページで扱うのは騒音問題ではない。

その音が他者の耳には聞こえず、また、健康上の問題もなく、さらにはお札やお守りが効果なく、お祓いもまた効果なく、霊能者に相談しても効果なく(この場合、事情を知って相手にしないのかも知れない)……

このような問題は、精神統一の実習や座禅の指導を受けた経験(自己流は勘定に入れない)があれば、本質的な取り組み方が間違っていることを理解しやすい。

無念無想を心かければ雑念が沸いてくる。

雑念を懸想とすればするほど雑念が強くなる。

……湧き上がる雑念は、心では抑えきれない。例えるなら、網戸で風が防ぐようなものだ。 つまり、本質的に手段と目的が適合していないのである。

さて、霊感というのはつまり感応であり、共感であり……話題が合わなければコミュニケーションが成立しないのと同様……合い応ずるところがなければ本来成立しないわけだが、自分ではコントロールできない雑念に感応している場合は、どうなるだろう? ――そう、止めたくても止められなくなるのだ。

……では、「どうすれば解決するか?」という、問いが寄せられそうなものだが、それに答えるのは難しい、比喩は必ずしも答にならないが、「戸締まりもせずに泥棒に入られない方法はないか」と問われるようなものだからだ。そんな都合の良い方法を私は知らない。


不満は助けを遠ざける

2006/12/11

2006年12月11日


「風邪をひいて具合が悪い」……良く聞く定型文だ。だが、私は違うと思う。

「体調が悪いから風邪をひいた」ひいては「具合が悪いから風邪をひく」のであろう。

日常生活の乱れや、無理、無駄、虚弱……そういう自己責任を棚に上げて、病気を敵視しているから、なかなか治らない。風邪を治しても、具合の悪さ、ひいては生活態度を改めないから……

不幸は嘆き、救われないことを呪う。――相手だけが悪いのか? 自分に非はないのか?

状況が悪いことにふて腐れていては、誰があなたの状況を良くするのだろう?……誰があなた自身の生活に責任を持つというか?……みな自分の事だけでも、充分に忙しいのに。

そして、自分を改めず、周囲の変化だけを求める者を……自分を改められぬ者が、一体誰を、そして何を変えられるのか?

色々言い分はあると思う。だが、誰の人生なのだろう?


霊査事例: 2006年12月09日 横浜オフ会

2006/12/09

以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


個々人に対する助言というのは、多分にプライバシーが含まれておりますから、人数を集めて一度に霊査を取るというのは、プライバシー上では余りよいこととは思われません。ただ、人というのは嫌な言葉がなかなか心に届かぬものです。

その為か、たとえばAさんの明らかな欠点が、それほどでもないBさんへの霊査として現われることが往々にあります。他者宛の霊査であるから素直に自分を反省する……少なくとも遮ることなく最後まで聞く事が出来ます。

いや、参加者宛の霊査のつもりで、実は霊媒宛の霊査という意味合いが強いこともあるでしょう。大切なのは、一々指示されることではなく、様々なことを切っ掛けにして自分が向上していく努力でしょう。

今回は、「我のなだめ方」と、「停滞感」の二点が、特定個人の命題というより参加者全員の問題意識を刺激したようです。

事例1

  • 『落着き……心の平静を求めるのに、状況の変化を期待してはいけません。落ち、着く、つまり積極的に心を静めることが必要です。』
  • 『過ぎた時は戻らぬが(過去は直せぬが)、記憶が積み重なって今の自分を作っている。……恐れるな、進め!』……失敗、事故の記憶から、どうしても慎重になるのは理解します。でも、辛い記憶もまた、あなたの心を作っている一部なのです。
  • あなたが灰色の部屋、灰色の背景の中で一人、立っている姿が見えます。……「俺が、俺が、」……我が強くなっているようです。『何かを夢中で見ている時には、「俺が!」という気持ちを忘れている。俺が、という気持ちが強くなるのは周囲を見ていないからだ。』
  • 子供の頃から、我慢強い人と思われて来たので、あなたには、我慢に対する強い反感が潜んでいます。でも、我を出した結果として辛い思いを何度もなさったことでしょう。我慢するから反動が出る、我慢と反動との両極端を行き来しては良いはずがありません。やはり我とは上手に付合うべきでしょう。……『(わがまま心は)神仏に預けて自由になりなさい』とのことです。
  • 『あなたはあなたのままで良い』……最初、『役職を求めて努力なさい』と聞こえたのですが、別な声でそれを打ち消すように『無理をしてもいらぬ苦労をする。慌てることはない、「あなたはあなたのままで良い」と伝えなさい』と聞こえました。

事例2

  • 『笑顔とは表面の良さに過ぎない。だが、表面ににじみ出ない内面の良さというのはない。相手の心を認めるためには、まず、相手の笑顔を見る、それも大切だ』……人の笑顔を見て、内面を疑うのはやめましょう。
  • 事務所の移転につきて……『周囲に期待されすぎてうるさく、落着かぬ。だが、断ることも出来ないだろう。心配し、悩むよりも、移転した先で良い環境を作るように努めるべきだ。』
  • 『我が立つのは、動きたいからだ。思い切り動かせばあとは静まる』……我が立つ、という表現はあまり耳にしませんが、霊示の通りです。これは「寝ていたものが起きる」の、ニュアンスで使われました。つまり、「眠っていた我が起きてしまった。寝起きの直後にすぐ寝かせようとしても無理だから、働かせ、疲れさせてから、寝かしつけなさい」と解釈できます。――我が出るのはむろん善いことではありませんが、摂理に反して我を収めようとしても無理です。

事例3

  • 『目的に応じた思考法を身につけましょう。今はワンパターンで、無駄があります。』
  • 「落着き」……心の平静を求めるのに、状況の変化を期待してはいけません。落ち、着く、つまり積極的に心を静めることが必要です。
  • 『停滞――為すべき事に停滞がある。そういう時期《とき》には別な仕事を片付ける』……あなたの仕事が捗らないのは、あなたに問題があるというより、プロジェクト・組織全体に停滞感があるからです。そして、停滞を打破するのは努力よりも改革、改革が必要であるなら、今の努力が無駄になる恐れもあります。焦って前に進むよりも、他に片付けることがあれば、そちらを優先した方が良いでしょう。
  • 今の内にスキルを高めておきなさい。

事例4

  • 『無心に子育てをしている。……善し。だが、批判が過ぎる。献策を大切にせよ』……あなたは頭が良いから、つい色々と他の欠点や問題点に気がついてしまいます。
  • 『世間は冬だが、あなたの心は春の様。たとえ逆境にあろうとも心だけは(今のように)穏やかでいたいものです。』
  • 『その場所には、その場所の意味がある』……引っ越し相談に関連してのことです。なぜ今の場所に住むことになったのか、それを理解せずには良い引っ越し先が見つからぬ、という意味のようです。

事例5

  • 『金勘定に忙しいときほど、自らを反省する。それが難から逃れる妙法である。』

事例6

  • お子さん達が、「遊びに連れて行け」と、せがむ姿が見えます。……『子供と遊ぶには、情と遊ばず、理知と遊ぶべし。子供の内から、退屈だから、ヒマだからと、遊んでやると、怠け、暇つぶしの為に遊ぶようになる。』……仕事も勉強も楽しみながらやる、そういう気持ちを育てるために、お子さん達と遊ぶことを心掛けてください。

事例7

  • 『たとえ事情があって(精神統一に)参加できなくても、時間の合間に、心を静めて、魂だけでも参加する気持ちが大切です。』

総論

2006年12月10日

 

停滞」……世間が停滞しているのに、自分らだけが向上しようとしても、環境・境遇に対して不満や批判が生じて、心を穢す結果になりかねない。向上しようという目標を忘れて、状況に従って生きる方が結果として建設的かも知れない。

個人の停滞は、職場や学校の停滞感に支配されるし、職場や学校の停滞は社会の停滞感に支配されている。いわば、器が悪いのに中身が良くなると思う方が難しい。

私は「向上無用論者」というわけではない。ただ、個人が突出することの危険を指摘するのだ。全体が向上していき、自分もその中で向上する。それが全体にとっても個人にとっても幸せな選択肢なのである。ようするに、場合によっては自分の修行を投げ出しても社会に奉仕する必要があるということだ。……勘違いしてはいけない、ただの批判者ならばこの世にもあの世にも余っている。


成長の助けに

2006/12/08

自分を知る

2004-12-07

 

基礎を大切に

 地上には千年を経た建物は滅多に見られませんが、数千年前の建物の基礎は、各地で見つかります。立派な建物、豪華な建物も人々の前には見えない、又は、人々が見ようとしない基礎の部分が支えているのです。

 さて、あなたがなにかを学ぶに当たって指導者に師事すれば、たとえ面倒であっても、基礎からキチンと指導されることでしょう。ところが、独学者は往々に、自分の興味の対象を追いかけるばかりで、基礎をなおざりにしてしまいます。

 ただし、「人はすでに霊界で正しい心霊知識を学んでいるから、学習の意味と目的を間違えない限り、独学でも一向にかまわない」と心霊知識は教えています。ですが、傲慢な人であれば、いかなる素地素養があろうとも、何を学ぼうと、誰に師事しようと、結局は身勝手な解釈しか出来ないものです。結局、あなたが学べるものは、あなたの人間性なりのものでしかないのです。

 しかし、学校の勉強ならば、成績は知識の目安に過ぎませんが、心霊の勉強というのは人間性をどう磨くか……であり、正しいか、否かというのは、そのまま人間性の評価に結びつくのです。 つまり、傲慢な人が勝手な解釈で心霊を学べば、その人はますます傲慢に見えるようになるでしょうし、謙虚な人が心霊を学べば、謙虚であることを幸せに思えるようになるのです。

未熟さを楽しむ

 趣味や芸事に命をかけるのも、その人の人生ですし、何事も突き詰めてみると、異なるものが見えてくるものです。ちょうどふもとから見ると雲にさえぎられて山並みの山頂が全く見えなくても、一つの山に上れば、雲の上に飛び出た数々の山の頂きが見えるようなものですね。

 ですが、心霊は知識の多さを競うものではなく、自分の人生を賭けた大勝負である事をご自覚ください。心霊を学べば否応無く、自分の欠点や未熟さ、何よりも悪行の数々、それも前世に及ぶ悪行の数々があらわになっていきます。それらをひとつずつ償い、繕いながら学ばなければならないのです。

 自分の過去を振り返った時、羞恥心を感じないとすれば、立派な人生を歩んだのではなく、成長が無いという事なのです。過去の自分の未熟さを喜ばしく思える人でないと、心霊はとてもとても学びつづける事が出来ないのです。

 知識の矛盾

 高度な医学に支えられながらも人々は出産に苦しみ、犬や猫は誰の介助がなくても子を産み育てます。人は大自然に生かされているのであって、知識に生かされているのではありません。むしろ、知識があるために人は不安におののき、妄想に時間を無駄にするのです。

 知識を尊ぶ人こそが尊び、人生を尊ぶ人は実践に裏付けられた知識だけを尊びます。人がただ生きるだけならそう多くの知識を必要とはしません。ですから、どんなに莫大な知識を蓄えても、その知識で人間を屈服させることは出来ないのです。

 一体何が行えるのか。それこそが真の知識の有無を計る目安となるのです。


人生の意義

2004-12-08

 

  一体、私たちの心はどこから生まれ、死んでどこに行くのでしょうか。

 

 無から生じて無に帰っていく……だとしたら、なんと寂しい事でしょう。心霊思想の中には輪廻や再生と呼ばれる「生まれ変わり」に関するテーマもありますが、ほとんどの人々は前世の記憶を持ちません。

 もしも、人々が前世に関する記憶を持ったまま生まれてくるのであれば、誰も死を恐れず、科学的な証拠がないからといって、心霊思想を否定する事もないでしょうに、再生論を信じるかどうかは別として、誕生は前世との断絶であり、死は現世との断絶であるのは、こと、心に重点をおく限り一般的な事実として認めざるを得ません。

 そう、私たちの人生の前には、死が恐怖を伴なって立ちはだかっています。

 生まれてこなければ死を恐れる必要がありません。もしも、世のオカルト話がみな本当で、死後の世界が怨霊の跋扈《ばっこ》する恐ろしいところであるなら死とは単なる恐怖に留まりません。

 反対に、霊界がすばらしいところならなぜ、わざわざ地上に生まれ変わり、労働に従事し、天候を憂い、飢餓や病気、そして老衰と争わなければならないのでしょうか。

地上に生を受ける事、それに一体いかなる意味があるのでしょうか。

 人生の意味、それを知らずに、どうして人生の意義を感じ取ることができるというのでしょう。


調和

2004-12-09

 

「人は死後も個性を保ち、肉体が滅んだ後も人生は継続する」

 この「死後の個性存続」こそが心霊主義の大前提といえます。そして死後により良い環境を得ることは、心霊知識の正しさを測る、一つの試練といえます。

 さて、物質的な助けがなければ人生を維持できない人の世において、助け合うのは義務というより必然性が大きい事は誰でも思うことでしょう。様々な雑事に付き合わされてなかなか、自分のやりたいことに没頭できない。その事に苦悩する人のなんと多いことでしょうか。

 しかし、必然性があればこそ、どんな嫌われ者でも、全くの孤独に陥ることがありません。理解者がいないというだけで、人は十分に孤独ですし、孤独は人を死に追いやることもありますが、必然性に結びついた人間関係がある限り、理解者を得るチャンスは無ではないのです。

 それに対して、霊界では衣食住の心配がありません。義務さえ負わなければ、好き勝手にいくらでも時間を浪費することが可能です。それは同時に、身勝手な人が容易に完全なる孤独、全くの虚無の中に閉じ込められかねない事や、理解者を得るチャンスが地上よりもはるかに少ないことも暗示しています。

 それ以外にも、人は死後にとても孤独に陥りやすい様々な事情があることを、心霊を学ぶ上であなたは知ることになります。しかし、あなたはまだ、地上にあってこの文章を読んでいます。そして死後の苦しみを少しでも減らしたいと考えるなら、調和の大切さを理解しなければなりません。

 霊界では人間同士が助け合う必然性がとても薄いのです。ですから、仲良くする、調和を保つという感覚に薄い人は、人間関係も同様に希薄になります。何より、あなたに調和の気持ちがないなら、どうして霊界からの援助や支持を受けられるというのでしょう。


善悪を論じない

2004-12-10

 

口を持って生まれた以上、誰も罪なく生きることはできません。

正しく善悪を論じるなら、裁きの刃からは誰一人逃れることができません。

人々にできるのはただ、罪よりも多くの善事をなして死の時を迎えることだけなのです。

 

 私どもは、ことさら善悪を論じません。それは善を軽視するのでも、悪に寛容なのでもありません。誰にでも多少の罪があり、そして純粋に善悪を語れる人はごくわずかです。結局、善悪を論じようとすれば、自分を守ろうとして真実をゆがめ、その矛盾が議論を非難合戦に変えてしまいます。

 いくら互いに思い遣りを抱いていても、真実を語れないなら、そこに友好はあっても誠実さがありません。目の前の誰かを庇おうとすると気が付かぬうちに別の誰かを非難しかねません。気配りは小さな誠実さであって万人に対する誠実さとはなりません。

 たとえ真実は、避けがたく痛烈な刃だとしても、真実こそが万人に対して平等に誠実なのです。何よりも、真実を受け入れられぬことほど哀しい人生がありましょうか。配慮すべきは、真実を隠すことではなく、痛み少なく真実を受け入れる助けをすることと言えましょう。

 特に心霊学は、よりより善い心を持つことが楽に生きられること、悪しき心の持ち主が葛藤の泥沼に陥ることを提示します。すべてはあるべき様になるから、ことさら罪を裁く必要を感じません。それが天、又は、神の摂理に従うということです。


何を求めるのか

 2004-12-11

 

 「健康は大切です!」……確かに、しかし、健康に関心を持つのはどういう人でしょうか。 溌剌と日々を過ごしている人なら、わざわざ健康論に関心を抱く必要はありませんね。健康論に関心を持つのは、むしろ不健康な人でしょう。

 たとえば、手の存在を認識するのはいつか考えてみてください。手が不自由なときか、怪我などで痛みを感じているときではありませんか? もしも手足が順調に動いているなら、人はわざわざ、『腕を挙げ、ひじを伸ばし、指を伸ばして、物を包み、指を閉じて掴み挙げる……』などと考える事はありません。順調に動いている限り、人は手の存在を忘れているものです。

 では、人はいつ自我を認識するのでしょうか。多くは迷い、悩み、そして葛藤する時に、ふと、『私とは何者だ?』と思う瞬間があるのでしょう。自分自身が思うように成らぬとき、初めて人は自我に直面するのですね。

 さて、私ども心霊主義者は、死後の個性存続を信じ、そして、感情のうねりに自己を任せず、永遠不滅の魂を自己の中心としようと努力をしているわけですが、その肝心な、魂が果たしてどこにあるのか、いったい何時《いつ》気がつくというのでしょうか。魂に気がつく瞬間が無ければ、どうして自己の中心を魂に置くなどといえるのでしょう。

 その多くは、霊障などの障害時であることは、以上のたとえから容易に想像がつく事です。でも、それが全てだとは思いません。


すべてを大切に生きる

 2004-12-12

 

 よい人生を歩みたい……人として生まれてきて、そう思わずにいられるものでしょうか。

幸せに生き、そして心安らかに死んでゆく。

 今はまだ若さにあふれ、老いや死などカスミの向こうにあると思っている人も多いでしょうが、死の直前にあわてても手遅れであることは、賢明な方々にはいうまでもありません。仮に死の直前に、救いや意義を見いだしたところで、急場しのぎの安易な結末を免れません。

 あなたが人生の中で体験してきた様々な経験、その中には決して思い出したくない辛い想い出もあるでしょう。そして恥ずかしい想い出、愉快な想い出、暖かな想い出、ハッピーエンドには終わらなかったけれど、時折は回想に浸りたい甘酸っぱい想い出……これらの想い出のすべてはあなたそのものです。

 人生の意義を考えるに当たって、過去の記憶を振り返えるなら、楽しく、美しい想い出は、決して外したくない大切なもののはず。では、辛い記憶や恥ずかしい記憶はどうでしょうか。たとえどれほど消し去りたくても、忘れたくても、あなたの人生の一部であり、捨てたいという願いが叶ったとしても、一部なりとも捨て去れるような、あなたの人生とはそんなに軽薄なものなのでしょうか。

 辛いからこそ、恥ずかしいからこそ、そして記憶から消し去ることが難しいからこそ、それを成功や大成にむすびつけたいものですね。

 『あの時は、辛かったけど、それを乗り越えて今の自分がある。私の人生はいい人生だった』……今は忘れ去りたい失敗も、振り返って良い思い出になる、いえ、それどころか、『私以外の誰が、これらの苦難を乗り越えてこれだけの成果をあげうるのか!』……そう誇れるのならなんと素敵な人生となるのでしょうか。

 人生は無駄に出来ない。無駄にすべきではないのです。人生を無駄にするのは、生きた自分を無駄にする事なのです。死の直前、いえ、可能であるなら死後においても、人生を、生前を振り返ってみて、『ああ、いい人生だった』と思える。そういう人生を歩むために私たちは生まれて来たのです。それが出来ないなら、生まれて来たのは愚か者でしかありません。

 苦しむために生まれてきた愚か者なのか、人生の真義に気がつかぬ愚か者なのか、いずれにせよ、いい人生を歩めた人から見たら、不幸とは愚かと同義であるといえましょう。

 幸せになりたい。幸福に暮らしたい。あなたが自らを幸せにしないで、誰が幸せにしてくれると言うのでしょう。そして、あなたが自分をおろそかにするなら……一部とはいえ自分の記憶を消し去らんとして……誰があなた以上に、あなたを大切にしてくれるのでしょう?

 ご自分を大切に生きてください。それが幸せへの第一歩です。人生の全てを、何一つおろそかにせず生きてください。悲しみも、苦しみも、別れも、そして老いや病気さえも、あなたが幸せに生きるためにあるのです。そして、死さえもあなたを生かすためにあります。…… その苦しみの意義がわからぬだけで、自分を不幸と決め付けるのはやめましょう。


死もまた生の為にある

2004-12-13

 

 ここで問題になっているのは、人生の最も基本的な葛藤です。

「己の心の赴くままに生きたい」……独善的な動機に思えても、自由への渇仰が人間の本質である事は否定できない事です。

 しかし、どんなに強く願おうと、人は境遇や環境の全てを覆す事は出来ません。長生きしたくても永遠には生きられず、人の心は変えられず、時が移り行く事は止めようも無いのです。

 人と文化の向上によって、人間の自由度は増したかもしれません。でも、何もかもが自由になるわけでもありません。……やりたい。でも出来ない……私たちは、より自由に生きるべく努力を重ねる一方で、現実と妥協する事も必要になるのです。

 つまり、「老病死苦」といった諸問題を人生の敵としてみなせば、その闘争に多くの時間を費やし、闘争はまた苦痛も生み出しますが、これら諸問題を人生の味方とみなせば、人生のより多くの時間を幸せのために費やす事が出来ますよね。

 たとえば、一生同じ楽しみを追いかけたければ、老いは楽しみを奪う敵となりますが、年齢なりの楽しみを見つければ、人生を通じてさまざまな楽しみを味わう事が出来ます。

 また、死を恐れればこそ、一瞬一瞬を大切にもするでしょう。明日は死別するかもしれないと思えば、大切な人と喧嘩していつまでも仲直りせずにいることは到底出来なくなるでしょう。「続きは明日にしよう」……そうやって、明日の自分に雑用を押し付ける事も減る事でしょう。

敵味方は心得次第。敵が多い人生は、無駄が多い人生でもあります。

 確かに世の中には、「他人との闘争・競争が無ければ人生がつまらぬ」とばかりに、わざわざ敵が多い生き方を選ぶ人もいます。砥石がなければ刃物は研げませんから、わざわざ摩擦を生むような人と同じ世界に暮らすのも、いわば修行の一課題ともいえます。

 しかし、人生が魂の修行の場である事を知ったなら、もっと静かで敵の少ない生き方を選ぶべきです。たとえば、宝石を得るには、ハンマーで余分な部分を落とす作業も必要ですが、未だ光らぬ原石を扱うための初期の一工程に過ぎません。研磨とは、乱暴な課程をすぎた後のデリケートな作業なのです。


虚栄と誇り

2004-12-14

 

 苦しみが耐え難いのは、誇りを失ったときです。周囲を侮蔑してまで己を誇ろうとする……「虚栄」は醜いものですが、逆境や差別にも自分らしさを捨てない……「誇り」は人を強くします。

 「虚栄」と「誇り」の違いは、むろん、自分の価値を正しく評価できるか否かにあります。そして自分が虚栄に陥っているか否かを自己判断するのは難しいものですが、自分に不都合な意見に対して、どれだけ客観的になれるかが一つの目安となるでしょう。他の意見に耳を貸す事は大切とはいえ、感情的になりやすい人の意見は、大抵が独善的で役には立ちがたいものです。

(役立たぬというのは、人生を無駄にする事であればこそ、役立たぬ意見からも学べることがあります。)

 他人の感情的な意見が嫌だと思えばこそ、人には意見をするときは、冷静・平静で、かつ論理的であるように心がけなければなりますまい。そうでなければ相手にとって自分はつまらぬ相手になるということであり、それはつまらぬ自分であるということなのです。まして、不都合に対して感情的になるというだけで、虚栄家である事を世に知らしめているのですから。こんなばかげた事はありません。

 そして、他人の感情をぶつけられてもなお、平静さを失わず、感情論に妥協しない事が誇りであるということであり、感情論にさらされるのは誇りを試されていると言う事なのです。

・・・・・・・

 「誇り」の宿敵を「侮蔑」であると勘違いしてはなりますまい。誇りとは自分らしく生きるということであり、人の数だけ生き方がある以上、誇りのありようも人それぞれで、他人の評価、特に侮蔑が入りこむ余地はありません。

 むろん誹謗中傷は不快なものですし、なにより、誹謗中傷を行う人が不快なものですが、他人に見せびらかそうとする虚栄心だからこそ他人の侮蔑が苦痛に思えるのです。もしも、人の侮蔑で傷つく事があるなら、自分が誇りと信じてきたものは、虚栄心であったと知るべきでしょう。

 己の誇りを真に汚すのは己の増長であり、増長を許すのは、誇りと虚栄の区別をしない自分自身なのです。

・・・・・・・’, ‘

「虚栄と誇り」を最後までお読みの方へ

 あなたの未来には希望があることをどうぞ確信なさってください。己の虚栄心を恥じ入り、暴かれた事に苦痛を感じたからといって絶望する必要はありません。

人間社会、特に競争を重視する社会には、虚栄を必要とする仕組みがあります。

 虚栄心を持たずに生きられる人は稀というより奇跡と呼ぶべきでしょう。いえ、虚栄心を持たずに生きたいというのは生に対する甘えと呼ぶべきかもしれません。

 そうであればこそ、虚栄と誇りの違い対する知識は、魂の修行において大きな分岐点を成すのです。つまり地上で生き抜く上での技術(虚栄)と善く生きるための技術(誇り)とを混同してはなりません。生活の糧を得るのに虚栄しても、善良であるかのように虚栄してはいけないのです。

善悪で物事を捉えずに、適うか、適わぬかで判断してください。

 虚栄と誇りの違いを知り、そして誇りの大切さを知った人は、少なくとも虚栄のもたらす袋小路に囚われる恐れは無いのです。そうであるなら、あなたが学びの途中で羞恥や悔悟に苦しんだとしても、それはより向上するための一経過を歩んでいると言うことなのです。


悪霊信仰の否定

2006/12/07

 心霊というと、悪霊の祟り、低級霊の障り、先祖供養、水子供養などという言葉を連想なさるかもしれません。ですが、考えてみてください。地上には親切で優しい人もいるのに、悪逆非道、無慈悲で依存心が強い死者ばかりのはずがありません。

 善良な人も死を免れる事が出来ません。ですから霊界には悪辣な魂だけでなく、善良な魂もいるのです。そして、悪霊や低級霊は、死者の一部に過ぎません。その一部の魂をだけを相手にしていて、あなたは死後に、いかなる世界に行くというのでしょう。わざわざ治安の悪いスラム街に漂っていきたいのでしょうか?

 一般にみられる心霊知識は、どうも品性に欠けています。祟る、障るも霊から人への一種の暴力ですし、除霊は直接的な暴力で、浄霊は洗脳といった間接的な暴力ともいえるのです。暴力に対して力でねじ伏せるような解決は、果たして真の解決といえるでしょうか。

 どちらが争いの発端であるのかはともかく、力による解決は恨みを残さずにいられません。短期的には解決しても、長い目でみれば問題の先送りである事も多いのです。

 これを踏まえてもう一度良く考えてください。力による解決が必要な相手とばかり関わっていて、あなたは死後にいかなる世界へ流れ着くというのでしょう。

どうせなら友愛と奉仕の溢れる世界を選びたいとは思いませんか?

 それとも、友愛や奉仕と関わるのは面倒でしょうか?

パワーバランス

 霊界では善悪よりも摂理を重視しますが、霊界の治安の良し悪しは、死を免れることが出来ない私たちにとって重大な関心事である事ですね。一体、霊界とは善悪どちらの魂が大きな勢力を持っているのでしょうか。

 霊界では衣食住といった生活のための雑事がそう多くはありません。とはいえ、それぞれに目的を持地、そちらに忙しいですから、いくら親切な魂が多いとしても、いくら悪事を成しても、かならず助けてもらえるほどには親切を受けられない世界です。

 人は助け合う事でより多くのことが成し遂げられるものですね。ですが、わがままであったり、独善的で人とは相容れない価値観の持ち主は、なかなか人と協調することが出来ません。いえ、利益さえあれば、多少の目的の違いなど乗り越えて人々は助け合うものですが、目先の利益を追いかければどうしても周囲と衝突しがちとなります。

 そう、個人的な利益や目的で行動しても、協力者の数は限られていますが、霊界全般、地上世界全般の利益のための行動には、非常に多くの協力者が得られるのです。結局のところ、いわゆる悪霊や低級霊と呼ばれるような存在は、大きな集団を作る事が出来ず、調和を望む霊たちの敵ではないのです。

 つまり、あなたに助け合いの気持ちさえあるなら、不安を感じる必要は無いほどに、霊界の治安は保たれています。

善良さは義務

 結局、霊界を支配しているのは、善意ある霊たちです。ですが、決して勘違いしないでください。すべての魂は善良であるべきで、善に従うというだけで称えられる事はありません。

 つまり善良である事に何らかの代償を求めても、誰もあなたの善行に義務を負うことはありません。ただ、どうせ大切にするなら、善良な人を大切にしようとするだけの事なのです。

それでも苦しい

 霊界を善意が支配しているのに、なぜあなたが苦しみから救われないのでしょうか。

 災難をもたらすのは、他の悪意よりも己の未熟さですし、不運よりもあなた自身の要領の悪さなのです。また、間違った努力も困苦を終わらせる事はありませんし、途中で諦めても困苦を逃れる事が出来ません。

 世界がどれほど善意に満ちていようと、あなたの心にそれを受け入れる余地が無いなら、あなたに善意は届かないのです。

 何よりも、自分自身に出来る努力もせず、救われる事ばかり願っている人を一体誰が助けたいと思うのでしょう。

 世の中には、苦しくとも助け合える人もいれば、苦しければ人を犠牲にしてでも楽になろうとする人がいます。さて、善意が世界を包み込もうとするのを妨げるのは一体どちらのタイプの人でしょうか?

悪霊になるな!

 結局、世界を支配しているのは未熟さですが、善意がそれを補っています。

 世に災難は耐える事なく、未熟さゆえの嘆き、妬み、恨み、そして苦しみの声が地上に満ちてはいますが、人々の魂の所在は、この地上の限られた可能性に留まる事はありません。

 あなたが苦しみ、悲しみから逃れる事が出来ないとしても、チャンスはすべての人に用意されているのです。ただ、あなたが霊界の用意した「幸福」を得て、喜びに思うかどうか……豊かな浪費生活から見たら、それはごく平凡で、つまらなく思えるかもしれません。

 それがつまらないと思ったところで、一体誰を責められましょう。あなたは、あなた自身の責任において、幸せになるべきであり、用意されたチャンスが嫌なら、あなたが自力で望む未来を得ればよいのです。

 ですが、あなたが幸せになるために必要以上の豊かさを求めるなら、それは誰かの豊かさを奪う事に繋がります。気が付けば、あなたが幸せになろう・豊かになろうとするのは、人を苦しめてまで自分を幸せにしようという行為になりかねません。

 そう、心霊主義の立場から見て、あなたが幸せになるための最大の障害は。悪霊・怨霊・低級霊の類いではなく、あなた自身が悪霊になってしまう事なのです。


2004-12-06

自分の偏見に苦しむ

2006/12/06

2006年12月06日


こうでなきゃ! …… こうでなきゃだめだ!

・・・・・・・

何を持って目標とするか。価値観の問題である。

だが、あるべき姿、真実の姿を知るのは誰だろう?

いや、あるべき姿を知って、それを目標にしているのか?

つまりは、流行に踊らされてはいないか?

・・・・・・・

多くは、自分の持つ偏見を目標に努力して挫折している。――理想の高い人ほど挫折が身に沁み、苦しみと感じるのであるが、それはつまり、人の持つ偏見にヤスリがかけられているようなものである。

うまくいかなければ反省し、方法を確かめるつもりで、手ごろな事々を片付けてみる。……こつこつと前に進むのは、傍から見ればもどかしく思えても、成果を手に入れやすくて当事者は苦にならぬもの。いや、やってみれば案外に楽しいものなのだ。

だが……、怠けた者、正しい知恵のない者は、一挙挽回を目指して、あてにならぬ大博打をやる。可能性の問題であるとどうして割り切れるのだろうか? バラの木にバラの花が咲くのは無理もないが、トンビがタカを産むには無理がある。

そう。一歩一歩進むことの自然さと楽しさを知ることのない者が、不条理に陥る。……そして、こつこつと努力するのが嫌だと泣き喚く。

「そうしなければいけないことはわかるけれど」……表面上の理解でしかないことに気がつくかない。こつこつと努力することの大切さとは、耐えることの大切さではなく、楽しさを見出すことの大切さなのだ。

表面的な理解だけで知った気になり、偏見と誤解を知恵と信じて他に誇る。その偏見と誤解こそが、あなたに挫折を与え、苦しみを与えているのに。……当たり前であろう。間違った方向に努力して、どうして正しい結果にいたるのか? 意味もなくトンビがタカを生むはずもない。

カエルの子はオタマジャクシだって? ……、だが、見た目は違ってもカエルの子はカエルなのである。いずれはカエルになる。一時の見た目に惑わされることなく、あるがままを見るべきだ。偏見を捨てて。

・・・・・・・

嫌なことがあるとすぐ挫折する。失敗や苦労は、成功までの一過程であるのに、過程を惜しんでどんな結果が得られるというのだろう? 苦労を嫌っているのではなく、成功を捨てていることに気がつかない人々。それを助長する現代人の価値観。

あるべき姿を知らずに、あってほしい姿を追いかけて……努力や苦労を嫌って、不毛な行為に勤しむ。

誰が苦しめているのだろう? 誰が賤しめているのだろう、あなたのことを。


あの世に地獄があるのか、ないのか。あるとして、どうして亡者はそこから出られないのか?

地獄はあるのではなく、その人の心が生み出すのである。

出られないのではなく、出ないのである。

不幸や苦労を他のせいにして正しく思わず、目先の苦労を嫌って、目先の楽に飛びつくから。

他の誰かが苦しめているなら助けようもあるだろう。だが自らを苦しめているなら、どうやって助けるのか? 助けを願いながら、自分を苦しめている愚者を。


頭が悪いのか?

2006/12/04

2006年12月04日


最近の私は、仕事に対する不満を抱きやすい。仕事環境の変化も要因であろうが、精神統一中に、ふっ、と気が付かされたのは、適応能力の劣化……端的にいえば、老化の結果なのではないか、ということだ。

手に余る……が、自己責任の部分に気が付かないから、なおのこと他に対して不満が生じるのだ。たとえば周囲が揉め事を持込んでも、私にとって容易なことであるなら、黙って、(でも無意識には誇らしげ)に受止めることが出来たに違いない。自分には手に余ることを自覚していれば、それなりの工夫もあるだろう。重たい荷物は必ずしも抱えなければ成らぬわけではない。背負えば更に多くを運べる。運搬具をつかうという手もある。……何とか出来ると思うから、何とかしようとして、何とも出来ずに腹が立つのだ。

分相応にやればよい。……そうすれば気を乱す必要もない。

・・・・・・・

ところで、最近、脳力開発の書籍・ソフトウエアをよく見かける。需要が有るから供給があるのだろう。

むろん、脳の処理能力は大きい方がよい。ああ、ついでにPCも高性能のものが欲しい。PCが遅ければ、イライラしてしまう。いや、案外、新しいものを買えない財布の小ささにイライラするのか?……で、PCで何をするのかといえば、WINDOWS 付属の ソリテアにフリーセル。ちょっと気張らしに……が、ついついそちらが目的になって、気が付けば本業がおろそかになっている。なにより、アクセサリーソフトは高性能なPCを必要としない。

あるから使う、使うから……他がおろそかになる。この悪循環。

必要なのは頭の高性能さなのか? むしろ、真面目に頭を使うことの方が大切なのではないか?

そう思うと聞える囁き声……「イソップ寓話のウサギとカメ」

ああそうだ。子供でも知っているのに大人は忘れる。足が速くても怠け者のウサギは、勤勉なカメに追抜かれる。

むろん、脳の処理能力は大きい方がよい。だが、その処理速度を何に使うのだろう? 仕事を早く終らせて余技に専念するために……が、処理速度が速くなるほど余技が重大になって仕事が更におろそかになる。

たとえば酒飲みが、もう一杯飲んで止めようとする。だが、酒を飲めば自制心も麻痺して、更にもう一杯飲もうとするのを止めることが出来なくなる。……同様だ。本業以外に関心が向くのは、脳の欲求なのである。脳力が向上すればより脱線への誘惑が増すのに、能力向上を役立てることが出来るのだろうか?

穴の開いたバケツで水を汲む……だからイライラする。

で、大きな穴の開いた大きなバケツで水を汲む……更にイライラしないか?

例え小さくても穴の開いていないバケツの方がより効率よく水を汲めるかも知れないが、どうにも人は、「いざとなれば頑張るしかない」と、青臭い考えに潜む矛盾が見て取れない。……怠け者であることに罪悪感があるのか? だから反省し、真面目になるというのか?……怠け心が生じるのは、努力がバカバカしく思えた結果であると、想像することが出来ないのか?

だとしたら本当に間抜けだ。間抜けが間違った努力し、その挙句に自滅したとしたら、何とも自業自得だ。……自分の間抜けさに気が付かず、「こんなに努力しているのに!!」と、天を恨み、神仏を恨み、周囲を憎んで拗ねている人のなんと多いことか。

それでも、脳の処理能力は大きい方がよい。だが、処理速度を上げるだけでよいのか?

軽自動車にスポーツカーのエンジンを積むとする。……早くなるかも知れないが、ブレーキは利くのか? ブレーキが利かぬほど速く走って……ぶつかる。壁に突き当ったのか、壁を作ったのか、どちらだろう?

人生が巧くいかぬから、巧く生きられぬから、頭がよくなりたい、未来を知る力が欲しい、霊感が欲しい……経過があるから結果があるのに、経過を無視して結果を欲しがる。……それは天国への道なのか、地獄への助走なのか、どちらだろう?

・・・・・・・

知人等と連れだって、山寺を参拝した。私はめざとく仏像の頭を撫でている友人に気が付いた(気が付かされた)

「頭が良くなりたいの?(^^)」

「そりゃ~。ちゃんと決断できるようになりたいし。(–)」

……頭が良くなれば決断できるのか?

頭が良くなれば、色々なことに気が付いて、更に迷いを深めないか? いっそ、愚かで、流されて生きていれば決断する必要もないだろうに。

なまじ頭が良くて、決断することに責任を感じたりするから、自分の脳力を心配しなければならなくなる。ならばどうして、産まれてくるときにもっと良い頭を用意しておかなかったのか?

「選べるものなら選んださ……」

……自分ではどうにも出来ないことで悩んでどうするのか。そんな無駄なことに頭を使っていながら、自分の頭が悪いと悩む……確かに頭が悪いようだ。ただし、使い方が。

必要なのはハードウエアの向上か? ソフトウエアの改良か?

いや、今、為すべき事は何であるのか?

あなたは穴の開いたバケツで、いつまで水を汲続けるのか?……無駄なことに気が付くから、努力が嫌になるというのに。

・・・・・・・・

たとえば金遣いが荒い道楽者に、誰が金を貸すというのか?……無駄が多いのに、力が足りないからと助けを求める。だが、誰が無駄なことに援助したがるのか? より高みに登った者ほど、無駄を嫌うのは自明なことなのに。

無駄が多い人なら、どうして守護霊の助けを生かせるのか?

『背後の霊達は、穴を塞ぐことに懸命なのに、あなた方は、水を流し込むことに夢中である。』

進むばかりではなく、時には立ち止り、振返ったなら気が付くであろう事に、……気が付かない。足りないのは力ではなく、反省……より良い方法を見いだすための努力ではないか?

餓鬼のように生きる……それが地獄の境涯であることに気が付かず。

求めるよりもまずは無駄を減らすことが大切とは思えないか?……いや、なによりも無駄なのは、私の説明かも知れない。

今、あるものを上手に使いこなすこともなく、ただ不満をいう。……こういう人を手助けしても、「助けが足りない、まだ足りない、助けてくれているこいつは力不足で役に立たない」……と、助けを求める自分の不甲斐なさを棚上げして、感謝されるどころか、恨まれるのが落ちではないか?


優しいから迷う

2006年12月08日

頭が悪いのか? 」……で、取り上げた話題である。

『頭が良くなるように』と、願掛けをしている友人にそれが無駄であることを私は指摘した。

……頭が良いから迷う、悪ければ迷うこともない……

学識があればこそ、または、より多くの問題点を発見してしまうような明晰さを持っていればこそ、より迷わなければならないではないか。

逆に、自分の事は棚に上げて、他人の受売りで、他人の批判をしているような人は、果たして迷っているのだろうか? ただ、自分の業に流されて行き着くところに行くだけのこと。その様な「迷いの無さ」が、果たして第三者から見て幸せであるのかどうか。幸せなのは、他人を批判して喜んでいる当人だけであろう。

からかわれたと思ったのか、はたまた、迷いの中にいるのか、友人は私に問い返さなかったし、私も敢えては踏み込まなかった。

が……もう一人の参加者は、頭が良いのに良く迷う。というか、よくよく考えてみれば、オフ会の参加者中で、私が一番の低学歴者ではないか。……いや、学歴と頭の良さは別物という、慰めとも、言い訳とも取れることは他に置いておく。

で、帰り道には、迷いの深い某君をねちねちとイジメ、解散後に生じたちょっとしたアクシデントをネタに、また、ねちねちと「決断力……云々」と、イジメ……いや、いじっていたのだが、そういうイベントが一通り終わった後に、待ちかまえていたかのように、私の背後霊と、いじめ、いや、弄られた対象者の守護霊が、そろって現われて、私にこう指摘した。

『決断せぬ事が問題ではなく、どうして決断出来ないのかを究明すべきではないか?』

……うん。もっともだ。で、どうして決断出来ないのだろう?

『端的にいえば、真剣でないからだ。』

……はい。解決しました。さて○○君。みんなと旅行するときには、もうちょっと真剣になりましょう。

『非論理的な相手に対する、処世術もある。』

……をを! 私も学ばねばなりませんね。

『なによりも、大切なのは……あなたを大切に思うから、あなたにとって良いことを願うあまりに、決断出来ないのだ。』

……うう?

『どうでも良ければ、迷いはしない』

……屁理屈?

『いや、表面的な理由を並べたのだ』

・・・・・・・・

『人生の選択肢、つまり答はそう多くはない。複数の答があるとせよ、損得で並べ替えれば最善を選ぶことも出来る。……たとえ、思うとおりにならなくても、修正可能であれば充分である。

『たとえ、知識や経験不足から最善を見出し得なかったとしても、それを悔いる必要もあるまい。なぜなら、人は結果に対して、好き嫌いを抱くことは出来ても、実際の損得を計れる者が、地上のどこにいるのか? 計算上の最善値は、事故で消去されるかも知れないのだ。』

……たしかに。結果が出てみなければ、本当の評価は出ない。

『確かに彼の者は、お前から見れば決断力に劣るだろう。だが、本当に問題なのは決断なのか?

『最善を選ぶつもりでいても、物事には事情も絡む。思うとおりにいかぬなら、大切なのはむしろ、最善を追うよりも、最悪を避けることではないか? いや、お前もまた、最悪を避けようとして、別な案を提示したのであろう? 最悪を避けて。でも、最善を選べなかった点において、お前は非難する権利を失う。』

……いや、ああ……屁理屈は捨てよう。

『相手に決断を押しつけた結果ではなく、互いに、最悪を避けようとした結果なのである。その点を、もう少し評価してくれ。』

……確かにそれは分る。大切にするからこそ、切り捨てられないからこそ、優柔不断に見える人はいる。だが……

『判断力が不足しているのではなく、情が篤いのだといってくれ。真理を話すには、まずそれを踏まえなければなるまい……』

……それを踏まえて、話題は続く……


死別の悲しみ

2006/12/01

2006年12月01日


たとえば、あなたが誰かから延々と愚痴を聞かされているとする。苦痛ではあっても、あなたは耐えて聞き続けるだろう。だが、愚痴話に忍耐は通用しても、生理的欲求には敵わない。……中座してトイレに行こうとした途端に罵声を浴びせられる。

「私をおいて逃げるのか!!」

いやな話に誠実に付き合っていたのに、トイレに行くだけで詰られるのか? それはあまりに不誠実な態度ではないか!!

・・・・・・・・

または、たまたま耐え難い出来事があって、いつも愚痴を聞かされている友人にこの時ばかりは聞き役を変わってもらい、つい自分の愚痴をこぼした時に……

「ああ嫌、愚痴なんて聞きたくないわ!!」……と拒絶されたら?

今まで散々愚痴を聞かせておいて、自分は聞きたくないなんて、身勝手じゃないか!!

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『自分もつらいが、相手にも余裕がないのだろう。』……理性はそう受け止めることができても、感情が収まらない。もっともこの場合は、興奮物質であるアドレナリンが体内を駆け巡って、行動的になっている、つまり何らかの発散を必要としている生理状態というだけなのだが、ほとんどの人はこの状態を『正義の怒り』と解釈して報復することを正当化してしまう。

まあ、その腹立ちは別な話題として脇に置くが、少なくとも自分が誠意をつくしている相手が、不誠実な態度をとるのはとても裏切られた気がして、それまで抱いていた好意がいっぺんに吹き飛びかねないものだ。

そうであろう? 誠意をつくすのは相手にも誠意を期待するからだ。たとえ相手が裏切っても自分は誠意をつくすというのは、人としては立派な態度かもしれないが、大人が子供を接するかのような視点であって、つまり相手を見下している。……やむをえないかもしれないが。

話が回りくどくて申し訳ないが、私がここで指摘したいのは、

好意があればこそ、相手を強く嫌う状況も生じる。ということだ。

たとえば、嫌いな相手が(いたとして)、延々と愚痴をこぼしているとする。それは面倒ではあっても、また、顔に出すことはできなくても、同時に愉快なことではないか? 敵の敵は味方なのだから。つまり、嫌いな相手ならば苦にならないが、好む相手から受けると、耐え難い苦痛があるのだ。

そして、自分が不快に思うことなら、他の誰かにそれを味合わせないようにすべきであろう。

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よんどころのない事情があって、立ち去らざるを得ない……後ろ髪引かれる思いである。離れがたい気持ちは同じであるし、できればそのまま残りたい気持ちもあるのに、残された者が嘆き、悲しみ、苦悶する。

去らなければならないことに、自分自身が泣きたいのに、残された者が泣き叫んでいては、まるで立ち去ることを詰られているようではないか。

好まずとも……去らねばならぬのである、なのにどうして行く先の無事を祈ってくれないのか? 残され、別離を嘆くものから見れば、行く先などというのは想像もつかないかもしれない。だが、行く者にとって、行く先とは目の背けようのない現実なのである。

人は現実を目にすれば覚悟が生じるが、現実から目を背けたい人はいくら泣いても覚悟は生じない。つまり、行く者と、残される者との間には大きな認識の差がある。

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論じてきたのは他でもない。「死別の悲しみ」の害である。

嘆いて何が悪いか? それが人情ではないか。・・・・・・確かに。だがそれがどれほど身勝手な人情であるのか。

逝く者から見れば失われる肉体よりもはるかに永続性のある、つまりはより実感のある現実が、死後の世界であるのに、残された者どもは死者を哀れむのである。本当に哀れなのは、行く先の豊かさを知らずに生きている人間であるのに。

・・・・・・・

もっとも、あの世の現実以前に、この世で身勝手さの報いを受けるかもしれないが。


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