ペットの安楽死
2006年11月16日
老衰で死に瀕している、ペットについての相談を受けた。……何とかしたい。それが情である。だが、老いは巻き戻すことが出来ない。長生きさせようとするのは、つまり、老衰の苦しみを長引かせるということだ。
……引き留めるな。と私は思う。情は解る。だが、老いは巻き戻せないという理を理解すべきである。少なくとも現実と妥協すべきだ。
生きているものはいずれ死ぬ。死したるものはいずれ生まれくる。変化は自然であって不変こそが不自然だ。だが、人は不変を求める。永遠を求める。自然に反して不自然を尊ぶ。その不自然さこそが苦しみの源泉であるのに。
生は苦である……それがすべてではないが、それが現実でもある。
愛情を注ぎ、幸せを願っていればこそ長く幸せに生きてくれと願う。だが、それが本当の優しさであるのか? 相手のことを思っているのか、それとも相手に執着をしているのか?……と、私は問題提起する。
すると、次の問題が生じる。
老いて苦しむだけのペットに何をしてやれるのか?……安楽死という選択はどんなものであろう。
……老衰の苦しみは人生に伴う責任の内である。無駄な苦しみはせずとも良い。だが、責任を逃れは苦しみは来世に持ち越すことになる。
そもそも、野生動物は老衰に至る前に寿命が尽きる。人に飼われているペットは安逸な日常の代償として老衰の苦しみを味わうのである。……生のツケ、長生きのツケを支払うのである。支払えるのはまだ幸せだ。いずれ支払わなければならないのであれば。
老いて苦しんでいるペットは哀れむべき存在ではない。苦しんでも死を投げ出さないその生を誇りに思うべきなのである。一生懸命に生きているのに、人は勝手に安楽死などという事を考える。
ペットの安楽死は、話題にしやすい。だが、本当の話題は……人も老いる。誰もが老いる。そして誰もが死ぬのである。
死の準備
2006年11月17日
人はいずれ死と直面する。だが人は、死の何を知るだろう?
私たち心霊家は、死後の生活を研究している。……研究と呼ぶにはあまりに主観的な方法かも知れないが……だが、悲しむべきかな。主観的な研究は、主観的な心に支配されがちだ。
死後の生活の楽しさには関心が向くが、その生活を得るためには死を乗り越えなければならないことを充分に理解している人がどれだけいるだろう?
つまり……死の準備の出来ている人が?
死の準備が出来ている……そう聞いた人がどう受け止めるか?
以前オフ会で、「私は殴られても腹が立たないが……」と言いかけたところ、すかさず参加者から、「じゃあ、蹴っ飛ばしてみて良いですか?」と突っ込まれた。彼は言葉の一部だけで判断を下している。私は殴られるよりも腹が立つことがあると指摘したかったのだ。それは「悪意」である。つまり、悪意無くぶつかったというのであれば、私は腹を立てぬだろうが、悪意があるなら実際に殴られなくても私は相手を敵と見なすだろう。
大抵の人は、相手の行為で善し悪しを判断する。だが行為は結果に過ぎない。人を善くするのも、悪くするのもその心である。そして残念なことに善き動機が悪い結果をもたらすことも無いとはいえない。いや、多くの人々は思わぬ結果に言い訳を飲み込んだ経験を数多く持っているのではないか?
行為や結果で人を見るのは正しい分析法ではない。だが、誰が人の心の真相を判断できようか? 有力な霊媒だからといって……人の心は安易に把握できるような単純なものではないのだ。結局、人は不確実な簡便式検査法に頼らずにはいられないのだ。
死の準備とは、死の恐怖を克服したとか、死後生の知識を充分に得たとか、そういうことを言うのではない。何となれば、怖くないといったところで実際に死に直面して平然といられるかどうか、どう試せるというのだろう? そして死後生の知識が実際に役に立つのかどうか?
座学だけで実技を避けている人ならば、なおのこと、言うに足りぬと思うべきだろう。
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私のいう、準備とは、死後の生に地上の生を持ち込まぬ覚悟である。
死後の世界でも飲食できる、死後の世界でも娯楽がある、死後の世界でも恋愛できる、死後の世界でも夫婦は一緒だ……地上と一緒だ!、という考え方が死後の準備の無いことを表わす。
郷に入っては郷に従え……あの世にはあの世のライフスタイルがあるはず。だが地上の生き方を持ち込もうというのでは、あの世で軋轢を感じはしないか。
昔は良かった……過去を引きずる。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう?……過去を引きずる。
誰も私のことを~~……依存心と責任転嫁。
寂しい……依存心。
まるで境遇に従わないで、不平不満をいう。境遇を生かさずに境遇に殺される生き方というべきだ。これでは変化が不幸に繋がる。……生から死へ移ることで不幸になるなら何のために死語の勉強をするのか。心霊を学ぶのであれば、生から死へ移ることでさらに幸せになるべきではないか。
死後には、死後に相応しい生き方をする。……それが私のいうところの、死の覚悟である。むろん、死の恐怖も乗り越えられるなら乗り越えた方がよいだろう。だが、吃驚するのまで克服するのは、精神的向上というより生理的な故障と見るべきではないか。
だが、死後に相応しい生き方をするどころか、……今現在の地上の生の中ですら「判っているけどなかなか変えられないよねぇ」などと業の深さを言い訳しているのであれば、それは死の準備どころか、生を全うする準備もあるようには見えない。結局、与えられた目的を人生で達成するための、準備段階の生、生きることに慣れるための生を歩む人なのだろう。
愛猫・逝く
2006年11月22日
知人の飼い猫が亡くなった。老衰と病気とで弱っていたが、友人の脇で寝ていた愛猫は、友人が目覚めたときには、すでに息を引き取っていたという。
人によっては、「たかが猫」。別な人にとっては、「ペット・ロス」なる大問題に見えるだろう。
読み手の時間を節約するために事前に書くが、当稿は、「ペット・ロス」への癒しは眼中にない。
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友人は結局、安楽死を選ばなかった。苦しむ愛猫の姿を見ることはとても辛かったことと思う。だが、努力を尽せば、結果が悪くても後悔は薄い。
「もしもあの時……」という、妄想の余地が少ないからだ。
いや、死別の悲しみよりも、「充分苦しんだのだから、後はゆっくりお休み」という気になるのだろう。
それこそが生である。全ての生き物は死を免れないが、全ての生き物は死ぬために生まれてきたのではない。生きるために生まれてきたのだ……死のその時まで。死ぬために生まれてきたのであれば安楽死も幸福に思えるだろうが……。
なるほど価値観は人の数だけある。だが、スポーツにたとえてみよう。勝ち目がないからと言って試合を放棄したら、その選手は何と評価されるだろうか?
逃げるのも戦略の内? 確かにそうだ。だがそれで観客が集まるか? 少なくともプロスポーツは観客無くして成り立たない。そしてアマチュアスポーツを成立させるためには、他に収入がなければなるまい。
逃げるなら勝手にしろ……無駄に思えても努力するから支える者が表われるのだ。
無駄な苦しみに思えても、懸命に生きている者は賞賛されるべきだ。……いかなる言い分があるとしても、負けと逃げとは評価はまったく異なるのである。
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だが、友人は、愛猫の死を看取れなかったことを残念に思っているらしい。だが違うのだ。
燃え尽きて逝った者には穢れがない。……くだらぬ比喩ではあるが、度数の残っているプリペイドカードを紛失したとしよう。失えば諦めるほか無いのに、あれがあれば、と、残念に思わずにいられようか? だが、度数が無ければ、プリペイドカードなど、ただのゴミに過ぎず、未練も何もあったものではない。
つまり、寿命の尽きる前に死んだ者には念が残る……残念、つまり未練が残るが、寿命が尽きたものには念が残らぬのである。
未練の残る者であれば、死後に浄化が必要で、供養などを要求するかも知れない。まあ、供養を要求する猫というのは聞いたことがないが……だが、未練がなければ、一体何を必要とするのだろう?
浄化が必要で、誰かの助けなくして死ねぬのであれば、愛猫も飼い主を起したかも知れない。または死にきれずに飼い主が目覚めるまで生きていたかも知れない。……だが、助けを必要としないほどに、穏やかな死に方だったらどうか?
ひっそりと死ぬことは、飼い主に何の義務や責任の無いことの証と受取るべきなのである。
この友人が、以前、お父様を亡くされたとき、随分と長いこと、泣き言を言っていたことを思い出す。お父様も、朝、目覚めたときには息を引き取っていたのだった。
残された者にとってみれば、息を引き取る直前まで何彼と世話を焼きたいのが人情かも知れない。だが、特別な事情のない限り……世話を受けなければ死ねないのは、心霊家にとっていささか面目のない死に方かも知れない。
私は思う。静かに逝けたのは、天の祝福であって、後は何も心配がないという証であると。そういう死別の在り方は、人情として寂しいかも知れないが、無事に送れたことを誇りに思うべきだろう。
泣き喚いて引き留め、愛する者が死んでもなお、いつまでも未練を口にし、仏事に金をかけて愛する者の浄化を祈る……だが未練は相応す。相手の幸せを祈ると言いながら、実は未練で地上に縛り上げている独善的供養は、死者にとって地獄である。