2006年08月14日
負けず嫌いと表現してしまえば、身も蓋もない。――たとえ結果として見れば、まごう事なき「負けず嫌い」でも。
多くの心霊家によって、肉体は魂の乗り物に例えられる。だが、乗り物というのは素直な存在であろうか? 大量生産で乗りやすさを工夫された自動車と、肉体とを無意識に同一視しては……誤る。
肉体には癖がある。一人、一人、大きな差がある。……多くの者は人生に不平をいうが、果たしてそれぞれの癖を適切に補正しているのだろうか。
急ハンドル、急ブレーキが苦手な身体であれば、周囲があれこれと指示するのを嫌うだろう。
あれをして! これをして!!……急にハンドルを切れと強いる。
あれをするな! これをするな!……急ブレーキを踏ませようとする。
言うことを聞く、聞かない、ではない。身体の癖・特性に合わない行動はとりようがないのである。ところが周囲は、言うことを聞かなければ昂奮(怒る)する。特に、この癖の持ち主が幼い子供の頃に、親が無理を強いるだろう。
特性に合わないことを強いればどうなるか? 出来ないのである。やろうとすれば苦痛を感じる。そして苦痛を強いられ続ければ、後は怒り、憎むか……開き直るか、であろう。
急ハンドル、急ブレーキが苦手な相手であれば、早め早めに指示すればよいのだ。例え行過ぎても、回りまわって戻ってくればいい。
そうするのが適切な身体なのである。ならば適した運転を心掛ければよい。……だが、親は我が子に不適切な運転を強いる。いや、適切な運転をさせようとしない。その躾けに飽きた子供は、だからといって、適切な運転法を身につけるとも限らない。大抵はただ得意なアクセルを踏みたいだけ踏んで後で後悔する。場合によっては、右といわれれば左に曲がり、止まれといわれればそのまま進む。ならばといって右を左といえばその時ばかりは右に回り、行けと言われてそのまま進む。
「小回りが効かない」という欠点を補ってあまりある行動力が備わっているのに、行動力は評価せずに融通が利かないとなじる。その挙げ句に、拗《す》ねた相手に小細工を弄するからかえって拗《こじ》れる……問題は、その身体に適した対処法があるのに、皆(当人も含めて)それに反して行動させようとすることから生じる問題だ。
明白な目的と、期限や予算といった条件を与えた後は、任せてしまえば上手にやるのが、いわゆる「負けず嫌い」なのである。……長所を殺すから、その人を生かせない。
あなたは負けず嫌いだ!
2006年08月26日
遠慮が出来る
最近、負けず嫌いについて、色々と書いているが、一つ確認すべき事がある。
個性とは、他と異なるから存在し得る。異質は概ね対立を生み出す。協調や調和が大切であるといわれるのはそもそも自他が異質、または対立しているから生じる必然だ。もしも周囲に埋没すれば個性は表われない。その埋没した個性はただの風景でしかないだろう。
従属や埋没を嫌うからこそ個性が確立するのだ。……つまり、自己を持つということは、他から見れば(特に服従を強いたがる人から見れば)、負けず嫌い的な行動であろう。
何のことはない、「負けず嫌い」といわれて当てはまらない人はいないのだ。いや、こう言う方が適切かも知れない。
世の中には、自分が負けず嫌いであることに、遠慮のある人と、遠慮のない人がいる。
さて、ここでもう一つあきらかにすべき事があるだろう。私のサイトを見て、反省しきりな人は、つまり負けず嫌いであることに遠慮のある人だ。……くれぐれも自分を虐めすぎず、かといって、遠慮のない人を相手に堪忍袋の緒が切る事の無いようにしていただきたい。
遠慮――あなたは「遠くを慮《おもんばか》」れる人なのである。
遠慮のない――足下さえ見えない人を相手に、遠慮を失っては躓《つまづ》きの元だ。
遠い先のことを心配(慮)出来る人だからこそ、遠慮する。その事に誇りを持ち、遠慮どころか、「近慮」もできない人に従属・埋没しないでいただきたい。
生命はエネルギーの表われ
最近、しみじみと、生命とはエネルギーなのだと痛感する。
……まあ、それは背後霊が哲学的な思索を促しているのだが、生憎と日々の生活が忙しくて……
人はそもそもエネルギーの奔流なのである。つまり、上から下に流れるのが自然……と同時にあまりに自然すぎて、存在に意義がない。時代を導く人は、不自然にも下から上に流そうと努力している。
ところが、同じ自然に反するのであっても、大多数、いや、普遍的な人々は、往々、流れをせき止めようとして努力する。
是非考えてみて欲しい。……動かぬのは死体だけだ、ということを。これは簡単に実験できるはずだ。たったの15分で良いから、身動きせずジッとして見て欲しい。むろん、心臓や呼吸器系統、瞬きまで禁止はしない。むろん横たわっても良いが、寝返りはいけない。
とても辛いことに気がつくはずである。……人は動くように出来ている。寝ていても寝返りという形で時々刻々と活動しているのである。
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私が指摘したいのは、生物は、生きている限り、動作することが自然であり、停止することが不自然であるということだ。ところが、人は躾《しつけ》と称して、子供に「動くな!」、と命じる。
いや、動作することが自然であるのだから、それでも敢えて動作しないことは、とても高度で有益な訓練ではある。問題なのは、果たして人は、その難易度を理解した上で、停止を求めているのか?
落ち着きのない子、言うことを聞かない子……子供であれば、生命力に溢れて、なおかつ、制御力に欠けているのだから、落ち着きが無くて当たり前、言うことを聞けなくて当たり前なのである。当たり前ではないこと、不自然なことを、子供に強いるに足りる覚悟はあるのだろうか?
……あるはずがない。
子供の有り様を、静かに見守ることも出来ず、落ち着き無く、口うるさく叱る親ども……心を静めて子供を見守ることの出来ない親が、自分の血を引き、似た体癖を持ち、しかも未熟な子供相手に、適切な態度が取れるはずがない。
もしもあり得ないはずの覚悟を、持っていると自認する親がいるなら、遠慮の無さを反省すべきであろう。
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皆、不自然なことを身につけようとして努力し、身に付かないで、フリだけしている。……その程度の嘘、しかも自分相手の嘘を指摘して、あなたを非難しようという気はないが、だが、その意味するところを共に考えようと提案せずにはいられない。
素直なようでいて、人は沢山の嘘を自分についている。……善良なあなたには、耐え難いことかも知れないが……嘘は減らすべきである。たとえ被害者は自分一人であろうとも。