‘2006/07’ カテゴリーのアーカイブ

宗教と人権

2006/07/31

2006年07月31日


宗教活動に熱心な人は、人権意識で二大別出来ると思う。他者の救済活動に熱心な人権主義者と、他の人権をまったく考慮しない傲慢な人とだ。現代日本人の多くが宗教嫌いなのは、日本には傲慢な宗教家・宗教者が多いことの傍証であろう。人権軽視とは強引な布教、無思慮な宗教活動、神罰・仏罰での恐喝・強要などが挙げられる。……信仰は個人の人権に属するのだ。ならば信仰を他者に押しつける布教活動は人権侵害である。

信仰は基本的人権に含まれているのに、宗教が人権を軽視するのは一種矛盾を感じる。本来が人智を超越したものを扱っているのが宗教なのだから、人々の平均的良識では推し量れなくてむしろ当り前にも思えるが、いきなり不可知な事情に身を委ねよというのは超越というより暴挙である。人々の良識を押し高めてこそ有益なる宗教ではないか。

人々の穏やかな変化を待てない、いかなる事情が神仏にあるというのだろう? 第一、時間の制約というのは地上を生きる人にとってこそ顕著である。待てないのは「神仏」ではなく「人間」であろう。……そして「人間」の都合で運営されるのであれば、宗教団体には良識を超越して良い根拠などありはしない。あるとすれば思い上がりだけである。……古典的宗教の持つ優雅さと一種の頼りなさは社会良識と超越者の論理との融合の成せる業だ。……完成を待てないのは人としての器の小ささ、多くの宗教は次世代に大事を委ねて超然と存在し続けている。

人を人らしくするのが文化であり、宗教であるはずなのに、自らが救われるために焦って人権を顧みない人がどうして多いのだろう?

……宗教的救済以前に、焦るのを止めるべきであろう。


(さらに…)

逼塞

2006/07/30

2006年07月30日


人は本来充分に豊かに産れてきている。その才能、その運……それらを育てることなく、省みることなく、それどころかあることすら信じようとしないで、他人を妬み、不運と怨み、不平を言って恥じることがない。

とんだ思い違い、とんだ勘違いをしているのに、いずれ死んだら神仏に食ってかかる腹積もりさえ抱いている。

……相手にされていない。その事の重大さにいつ気づくのだろう。

すでに気がついたつもりでいても、打開策が思い浮かばない。それが現実を表わしている。

逼塞している。……その境涯が意味するところが、つまり地獄である。


自慢のしつこい人

2006/07/29

2006年07月29日


ストレス発散行動としての自慢話

自慢が好きな人のうんちく話はとかく鬱陶しい。せめて話し上手や、有益な話題ならば鬱陶しくても役にも立つが、しょせん、好きなのは自慢であって、真理の究明ではないから、内容にとんと信頼が置けない。明らかなガセがたっぷりと交じっている。たとえ金の鉱石でも精錬するのに手間が掛れば価値は乏しい。……だぼら話に付合わされた挙句に恩を着せられるのだから、カカシでも身代りに置きたくなる。

だが「全く迷惑だ」という視点を一時棚上げして、相手を観察してみると面白い。

話を中断させると声がうわずる。最後まで話を聞けば声が柔らかくなっている。……素人観察ではあるが、自慢話とストレスとの間に関連があるのは容易に予測が付く。ストレス発散のために自慢話をしたいのだろうということも。

温和しいのは心が穏やかだから。話がしつこいのはストレスが溜っているから。……善意の誰か、もしくは服従的な誰かがいなければストレスを発散できない人なのである。そう考えると、話や性格もしつこいのがむしろ当り前に思える。他人に依存しているのだ。自由意志を持った誰かに依存しているのだから、相手に逃げられてはどうにもならない。必然的にしつこくならざるを得ない。つまり、良縁切れやすく、悪縁切りがたいのと同じ原理である。他に依存する必要のない人は他が逃げることを恐れないからあっさりとした人間関係を維持できるが、依存心が強ければ粘着的にならざるを得ない。……依存するからこそしつこいのに、そのしつこさがまた嫌われる要因となっているのはある意味滑稽ですらある。

他人の失敗を見聞きして、いつまでもぶつぶつ言う……「あいつはバカだ、バカでどうしようもない、全くどうしようもない」……直接関わりがあるならともかく、どうして我関せずという態度が取れないのは、自分よりもバカでどうしようもない相手がいることが救いなのだろう。

意図するところが異なる筈の他人とは、どうしてもすれ違い、ぶつかり合うことがあるはずで、他人と接することがストレスを生み出す大きな要因であろうに、そのストレスを発散するのに他人の善意か、服従かを必要とするのはまさに矛盾である。しかも、ストレスコントロールは人生の重大要素であり、そこに矛盾を抱えているのは大きな矛盾ということである。……それは同時にとても大きな不幸を抱いているのに等しい。しかもこの場合の不幸とは結果ではなく、結果を生み出す原因なのである。今後、どれだけたくさんの不幸を生み出すのかは、想像も出来ない。

矛盾の表れ

話を元に戻す。自慢が好きな人のうんちく話はとかく鬱陶しい。全く迷惑である。……さてそれは、その人の霊性が悪だからであろうか? 低級または下劣であるという身も蓋もない回答は棚上げするとして、上述の事から注目すべきは、そのような人が大きな葛藤を抱えて生きていることだ。鬱陶しいのは自慢話や出鱈目なうんちく話であるが、その鬱陶しさは心中の矛盾の表れなのである。

原因の考察

ここで、ふと疑問に思う。なぜこの矛盾が断ち切れないのだろう。他人に依存しながら、他人に嫌われる行動をとらざるを得ない……こんな非論理的な行動をなぜ止められないのか?

単に、自分の持つ、矛盾や問題点に気が付いていないだけ、という場合もあるだろうが、反省している人も皆無ではあるまい。頭の良い人はつい見落しがちだが、人は誰も論理に従って生きているわけではなく、状況に対する反射で次の行動を決める人もいる。つまり道義的に正しいかどうか、論理的に最善かどうかよりも、単純に、好き、嫌い、で次の行動を決めてしまうのである。しかも当人の心の中では、好きが即ち善、嫌いが即ち悪である。ところが好き嫌いは論理ではなく、単なる主観に過ぎない。そして人の数だけ主観は存在して他人と共有するのは難しい。するとどうしても論理や他人との間に善悪観の相違が出来やすくなる。

好き嫌いの違いならば、単なる価値観の相違である。……価値観の違いは共存しやすい。たとえば誰もが同じ人に恋をしたらどうなるか? 地上は失恋に支配されるだろう。だが、善悪観の違いは共存がとても難しい。あなたが良かれと思うことが他人にとって悪であればどうなるか。たとえば長野で育った人なら、蜂の子やイナゴの佃煮はごちそうかも知れないが、なれない私から見れば、蜂の子やイナゴを食べている人と同じ食卓を囲むことにも抵抗がある。

論理的な人、少なくとも論理を尊重する人であれば、自身の価値観よりも上位に論理を置くことで、他と妥協することが出来る。イナゴの佃煮だって単に食べず嫌いで、食べてみれば案外好きになるかも知れない。まして、突然に食糧難に襲われたらどうなるか。または遭難したら、好き嫌いなどいってはいられない。……つまり、私の価値観は論理の下位にあり、論理が示せば妥協ができる。が、好き嫌いが中心であれば、妥協の仲裁者が存在しないから、後はただ勝ち負けしかなくなる。

この考察が正しいか、否か。……ところで、本来、とても素直な(デリカシーがないともいうらしい)私は、他人の発言に間違いを感じると反射的に訂正してしまう。……その癖を自分では欠点と思っていない。なんとなれば間違いを素早く見つける力は、正しく生きるには有益だからだ。が、ある種の人はそれをとても憎むのである。……自慢が好きでうんちく話の鬱陶しい人がである。いや、実はもうちょっと幅広い。ある種の人は私のこの癖を嫌う。どちらにせよ、そういう人々に共通してみられるのは、論理を軽視する、または、主観に支配されやすい人ということだ。……平気で、「そんなことはやってみなければ判らない!」とか、「やりもせずに理屈ばかりこねて!」という人である。……理屈をこねるのは討論の場だからで、本来の私は黙って行動するのを好むのだけどね。

獣性の人

人は「論理の奴隷」となる必要はないと思う。少なくとも個人的な判断であれば、好悪は十二分な判断基準と考えて良いはずだ。だが、第三者と協調するには、「論理の仲裁」を活用しなければ争いが生じてしまう。……そして、争いを無用とは思わないからこそ、好き嫌いの別を論理に優先させるのだろう。当然、うんちく話においても、正しさよりも興味深さを優先している。だからこそ、論理を尊重する人から見れば噴飯ものなのだ。だが、笑えば、または、訂正すれば相手が憎み、無駄な争いを生じるから極力黙っているのである。……正しい側が黙らなければいけない。なんとなれば、間違いを理解しないが故に相手は間違えているし、争いを無駄と思わぬ相手なのだから。

まったく、なんと下らぬ行為なのだろうか。……その行動の原点が、思考の帰結ではなく、反射動作の帰結……つまり肉体の働きが精神性の主導権を握っているということなのだ。

これは必ずしも相手の頭の悪さを意味しない。単に、頭が答を出す前に身体が反応を示しているに過ぎない。そういう体質、または、体癖なのである。その体癖になれているが故に、反射動作に後からいい訳をつけて、それで自分は論理的だと思いこんでいる。

「判っていてもなかなか直らないよね」……それは論理の修正ではなく、癖の修正に対する一般回答だ。

「論理的にどうであれ、私は好かないな」……あっさりと論理を放棄する。

好悪主体、主観的な人とは、反射動作が主体を占めている、と私には思える。……それはつまり、心霊思想でいうところの獣性の人、霊性の働きの劣る人なのである。もしも霊性を育てる気概があるなら、

「なかなか直らないけれど、努力しなければね」「好き嫌いはともかく、論理的に正しい物は受入れなければ」となるはずなのだ。そういう人々が主導してこそ、文化は向上し、争いが減るのである。

……逆にいえば、文化を停滞させ、争いを増やすのは、好悪を絶対視する、主観に支配されがちな人といえなくもない。だが、その真の問題は、霊性の低さや獣性の強さにではなく、反射動作で行動を決定しがちな癖を、是正しない事にあると私には思える。

本当に「霊性向上の修行場」なのか?

ところで、心霊思想では、地上を「霊性向上の修行場」であると位置づけているが、以上を通じて感じられることは……というか、私が常々感じているのは、「獣性教化の調教場」が、地上の実体なのではなかろうか、ということである。……ああ、一々人の内心に気が付いて腹を立てるという、私の獣性ゆえにそう感じるのかも知れないが。

補足

補足を指示された。……以上の考察は、論理よりも反射動作が優先される事を指して悪い癖であると否定するものではない。

私が問題視するのは、論理と好悪とのすり替えである。つまり、自分が好むものを善と呼び、嫌うものを悪と呼び、その価値観を他者にまで押しつける事である。


自由の意味

2006/07/28

2006年07月28日


自由に憧れる人が多いのは、皆が、不自由を感じているからだろう。だが、いったい何が不自由にしているというのだろう?

答が見つからないときは、難しいところに有るのではなく、探している人が一番あって欲しくないところにあるものだ。この場合、自由を阻害しているのは他の誰でもないのだろう。つまり、不自由が生み出す怒りを決してぶつけることの出来ない相手が、あなたを不自由にさせているのだ。

自由とは、「自らに由る」と書く、他に由るのではなく、自らに……である。つまり、他の誰かに期待し、依存していれば、自由になれるはずもない。他への期待、依存から脱して始めて自由になれるのだ。なのに自由になることを願うのは、いったい誰の力を期待してのことだろう?

例えるならば、自ら働いて得た金を、自ら使うことが自由である。金がないから使えないというのは確かに不自由ではあるが、働かないで使う金を得ようという空想は依存心の表れである。いや、そう妄想するのは自由ではあるし、一度得た金をどう使うのもまた自由ではあるが、依存心を棄てることなく自由を求めることには矛盾があり、矛盾があるが故にいくら空想しても実現には近づかない。俗に、「買わなければ宝くじに当ることもない」というが、空虚な妄想があろうが、なかろうが、それが幸運とどういう関係があるというのだろう。……するのは勝手であるが、金銭的自由からはますます遠ざかっているのが現実であろうし、金を欲しがって金を棄てているような人では……私には論理的な対処法が見いだせない。

依存心が強いが故に自由に憧れる。……憧れているだけだから、いつまでも自由になれない。……人が不幸と感じることは、不運の結果というより、往々にして間違った努力の結果なのである。その間違いを正すことなく、幸運を願う……不運に懲りていないのだろうか?


産土神

2006/07/23

守られた。

2006年07月23日

母親を伴い、祖父母の墓参に出掛け、先ほど帰宅した。生憎の空模様であったが、とにかく無事に両親の祖父母の墓……都合二カ所を回ってこれた。そして、車から荷物を運び込んで、シャワーを浴びていると、フッと、私の脳裏に、父の故郷の産土神社の光景が見え、声が聞こえた。

『無事に帰宅したか?』

ハッ!、と思う。危うく礼を失するところであった。

・・・・・・・

無事と、表現したが、実際には小トラブルが合い続き、実はいささかウンザリとした気分に蒔かれていた。出発前の母の用足しに付合わされて用が足りず、出発後三十分にして、母が薬を忘れているのに気がついて戻ったり、縁石で車に傷が付いたり、私は何度もこっそりとため息をついたのだった。

更にいえば、出発当日、雨がちだった地元で、何度も強引な運転をする車と衝突しそうになった。……二度あることは三度あるというが、ヒヤリ・ハッと体験が続く場合、後に大事故が来る確率が高いことは常識として知っている。いや、端的にいえば、道中、ずっと追突事故の幻影に悩まされて、ハンドルを握る手に力が入り、交差点などでは普段以上に緊張を強いられていた。

そして、父方の本家の墓地を訪れたとき、その足で父の産土神社に詣でて、帰路の無事と、仲違い中の親族との和解を祈ったのだが、その後はすっかりと忘れていた。

……そして帰路は、確かに無事に……正に無事にたどり着いたのである。

アラを探せばなくはない。途中、母が望んだ定義山には真っ直ぐたどり着けずに途中、秋保大滝に寄ることになったが……なかなかの名瀑であった。しかも、面白いそば屋で昼食をとり、また、帰路のスケジュールは10分と変わらなかった。

また、首都高は事故渋滞が二カ所有り、渋滞を抜けるのに三十分以上ロスはしたが、渋滞のない首都高は想像するのが難しくもある。

であるから、喜んで父の産土神に感謝の祈りを捧げたし、途中、他に寄った社寺などで思わず安全祈願をして、礼を失していないか、守護霊に願解きを委託したりもした。

本来はちゃんとこちらが気がついて、感謝の祈りを捧げるべきなのだろうが、忘れるほどに安心して帰ってこれた事もまた、感謝すべき事なのだろう。

・・・・・・・・

渋滞手前の首都高の南池袋PAで、トイレ休憩を取ったときである。バックで駐車しようとしていた私は、強烈なライトに一瞬、身がすくみそうになった。スピードを充分に落とさぬままに、狭い首都高のPAに飛び込んできたものがいるのである。いや、相手は無事に私の車の数メートル手前で駐車したが……その時まで、私の頭に重苦しくのし掛かっていた、追突事故の幻影が、その後、ぴたっと消えたのだった。

・・・・・・・・

途中、立ち寄った知人宅で、ふと見ると知人の車に黒い影が差している。私が出発前に自分の車に感じていた、災難の予感と似ているのである。何とか、取れないものかと念じてみたが、そもそも自分の車さえも手に余り、また300キロほど走って、空腹気味であった私には手に余る感があった。

……なあに、こういう時には餅は餅屋、専門家に任せるのがよい。むしろ、複利効果も期待できるはず。そう思って、自分の除霊能力は棚に上げて、すぐに知人に言った。

「あの車、神社でお祓いを受けた方が良いよ。今すぐどうこうはないけれど、悪い雰囲気がするから……」

神職を通じなくても、先方の産土神に祈るという手も充分有効なはずであるが、その時の私には、神職に仕事を依頼することのメリットを強く感じていたのだった。

仕事を頼むから、相手も仕事をくれる……神職も一つのビジネスだからね。


産土神探し

2007年01月06日

 

個人を守護する霊には何種類かあって、個人レベルでは、祖霊(祖先の霊)、守護霊がいて、集団レベルには、高級祖霊(氏神)や産土神等と呼ばれる。

その、氏神、産土神などと呼ばれる霊は、担当する神社が決まっていて、初詣やお宮参りというときには氏神、産土の祀られている神社を訪れる方がよい。

ちなみに、氏神とは血縁関係、産土とは地縁関係と置換えるとそう大きな間違いではないだろう。……曖昧さが残るのは、地上の概念と霊界での概念が異なるからである。また、氏神・産土神を欧米のスピリチュアリズムで扱わないのは、キリスト教やイスラム教が土着の宗教を駆逐したからであろう。

そんなわけで、私も初詣には産土神、氏神をお参りするのが習慣となっているが、知人から産土神の鑑定を頼まれて、いくつかヒントを出したのだが、思い当たるところがないということで、頓挫してしまった。まあ、頓挫の話は後回しにする。また、霊査内容は個人の物であるから秘す。

一般的にいって……

氏神は神社名が自分の氏名と同じであるか、漢字が違っても呼び名が同じであるか、家紋が同じであるか、ということが目安になる。ただ、ちょっと複雑な事情もあって、歴史上で時の権力者、大抵の場合は朝廷に反逆した者の氏神は祭神の名前を変えている場合などがあり、こうなってくると判断は難しい。

産土神の場合には、出生地の近所、まあ、お宮参りに行った神社と見て良いが、親が頑張って伊勢神宮で祈祷して貰ったとしても、天照大神が個人の産土となることはないし、各地の一宮などの御祭神も産土にならない。

また、引っ越しの先々で同じ社名の神社があるというのが一つの目安になる。これは大抵の場合、珍しくもない。稲荷社、熊野神社、出雲神社、浅間神社、八幡神社(順不同です)などは全国にありふれているからだ。……見いだせない場合もあるだろうが、これは致し方がない。誰もが神心に感化を受けて生きているのではないからだ。

守護霊や祖霊が、個人の利益を中心に考えてくれるのに対して、産土神は複数の個人の利益を仲裁する役目がある。だから、それこそ賄賂でも贈るかのように強欲に接するのではなく、真剣に接するのがよい。 もしもあなたが産土神を見出しているなら、人生の節目節目に訪れるのがよい。たとえば誕生日や結婚の報告、特に重要なのは、死の報告である。


……知人から頼まれた産土鑑定から、かれこれ半年はたつのではないか。現住所の近所にあるとしつこく霊査が出ているにもかかわらず。それが元日の初詣の帰路に偶然見つけたという。全国に三万以上の分祠のある稲荷神社ならいざ知らず、出身地で縁ある神社の、日本全国に五つしか分祠がすぐ近所に。

いくらヒントを出しても、受け手の目が節穴ではどうしようもない。……他人事ながら、私は目の前が真っ白になった。

「ゆとりが出来たって、ポジティブシンキングではダメか?」と言い訳のメールが届いたが、問題の意味が違う。

そもそも心霊では、善悪よりも可否を重視する。私は、今までの見落としを非難しているのではない。これほど分りやすい見落としがあったのだ。他に見落としはなかったか?……そしてこれからは見落としが減るのか? さらにいえば分不相応のお印を求めていないか? または、不幸な出来事の原因もまた、見落としになかったか?

責めたくて言うのではない。泣きを見る前に明らかにしたいのだ。神の加護よりも、自分の足元を見ることの大切さを。


産土神とは

2007年02月08日

 

小桜姫物語などの日本産、霊界通信からの帰納だけでなく、演繹……つまり、人に守護霊があるなら、その守護霊を任命し たのは誰か、また、守護霊を統括するのは誰か、個人を受け持つ守護霊以上の存在、つまり、家系や地域や社会・国家という、集団の利害調整を司る霊はいない のか……等々を考えれば、守護霊よりも上位にある霊の存在を考えざるを得ず、それを産土神と呼ぶのは、科学風ではなくても和風で、雅ではあります。

さて、神社なるものは日本人の霊的イマジネーションが生み出したもの、と考えれば、地上・霊界とに相似の施設・組織があると考えるのが自然な流れでしょ う。ですが、地上には、時代の権力者を神に祀った東照宮なども多数存在しますが、霊界にも同様に数多いと考える理由はありません。(参照:仙界真語)

つまり、神道理論は地上の都合が支配的な要件で、霊的要件を優先する(とはいえ、地上との比較することなく、人間は霊界を説明できない)心霊理論とは必ずしも合致しません。

神社で祀られる産土神と、心霊家がいう産土神は必ずしも同じではなく、ただ、本質的に手掛かりの一つに過ぎないのです。

・・・・・・・

産土神の探し方として、生まれた土地、引っ越し先双方に同名・同系列の神社がある……というのは、以前紹介した事例のように、分祀が五つしかないような 特殊な神社ならば、迷う余地もないでしょうが、「あなたの産土は八幡社です」……または、稲荷社などとやったらそれこそ全国に数万もの社があるわけで、よ ほどの山中ならばともかく、ある程度大きな市町村なら出雲・熊野神社などあっても不思議はありません。つまり、いくらでもねつ造が可能なわけで、みだりに 用いられる論法ではありません。

さらにいえば、ある意味滑稽なことに、霊媒である私の自宅周辺・勤め先、要するに生活圏内には氏神も産土神も祀られていない始末。……所詮は手掛かりであって、法則ではありません。

誰もが産土神社を見いだせるわけではない……複数ある産土神の定義の真偽を特定するのも無理がある、いやむしろ、人智を越えた、と捉えるべきでしょう。

ましてや……守護霊の使命や正体すら、特定するのが困難なのに(学生が教師の実力を計るようなものです。決めつけたところで追いついたことにはならな い)、直接接触する機会のない産土神を理解することは難しい……機能だけで推測すれば、太陽は大地の周囲を回っている、と想像するのと同じ過ちを犯すかも 知れません。……実際に世には、人に奉仕するために守護霊がいるかのような「守護霊論」が多く見られます。(何とご都合主義な発想であるか)

守護霊・鑑定すら容易ではない(職業霊媒が守護霊として鑑定しているのは、心霊研究家のいうところの指導霊・祖霊だ)……容易ではないというより先方が隠したがっているのに、真の産土神を明らかにするのはさらに難しい。

前述の事例は、携わってそれなりに楽しく、大きな示唆を含んではいましたが、心霊研究的意義・普遍的な教訓が果たしてあったのか、どうか。……私は内 心、摂理や法則を学んだというより、有情の縁……つまり、霊・人間関係の一つの事例を見たに過ぎなかったのだろうと考えます。


心霊小片集

2006/07/17

ワガママな子

2006年07月17日

ワガママを言うから引っ込みがつかず、引っ込めないで傷つき、すすり泣いている。

痛い思いはたくさんだからと、反省しながらワガママを繰り返す。

そのワガママが、性格ではなく癖であること、気がつけばもっと楽に生きられるのに。

自分が解決すべきものを、自分の大切な人に押しつけて……


一言多い子

2006年07月18日

黙っていれば良かったと悔やむ。

いつも、いつも、いつも、

何度も失敗を繰り返して、自分の性格が嫌になる。

なんで性格が悪いと思うのだろう。……自分の性格を。

個性と癖では、対処法も違うのに、

自分のうわべを変えようとして、うまくいかず、自己を嫌悪する痛々しさ。

……笑顔を忘れて、自己嫌悪に耽る……嫌われなければいいけど。 ‘


見つからない

2006年07月18日

「自分の美点はどこにある?」……長所が見つからないと悩む子等。

長所のなんたるか……人に必要な資質……人生の基本。

基本を学ぶことをおろそかにして、いきなり長所を知ろうとする。

長所を知っても、確かめるすべがないのに。

毎日のことを大切にしないで、毎日が退屈だという。

日々の楽しさも知らないのに、日々の苦しさだけは知っている。

目の前にあっても見つからないなら、どこを探せば見つかるのだろう?

探すべき場所も見つからないもどかしさ。

間違いに気がついても、後戻りできない情けなさ。


大切なもの

2006年07月18日

大切なものを乱用して……壊す。

大切なものなら、大事に扱えばよいのに。 「もっと大切になさい」といわれても、

……どうして良いのか解らない。

大切にされたことがないから?

大切にしたことがないから?

……持つ資格がないから? 今、あなたが大切に思うもの……

それを大切にしようとは思わない?

どうすればよいだろうと思わない? ‘


むずかしい

2006年07月18日

他に相談を持ちかけておきながら、

「難しい」と、肩をすくめる。

「でも……」と、言い返す。

他からの助言に何を期待するの?

もっと簡単な方法?

もっと都合の良い結果?

努力のレベルを落として、あなたが得るのはなんだろう?

真に価値あるもの? それともイミテーション?

相手と自分の時間をかけて、何を得るの?


出来るかな?

2006年07月18日

人生に様々な夢を描く。

出来るかな? 実現するかな?

 

夢に向かって努力するなら、

精一杯に応援するのに。

いつも夢見るばかり。

いつまでも夢見るばかり。 そうしている間にも

時は流れ、年を重ねて、

気がつけば、あなたは老けていく。

あなたは夢見る間に、

何を為しただろう?

何が出来ただろう?

 

現実と妥協しないで、夢にしがみつく滑稽。

現実においていかれる惨めさ。

これから何が出来るだろう?

すべてをあきらめる前に、

一つだけでも挑戦してみない?


今日やるか? 明日やるか?

2006年07月24日

「今日できることは今日やろう!」……という標語が有る。最近ではそのパロディーか、「明日でよいことは明日やろう!」ともいう。どちらが適切であろうか。私には「明日やろう」という提言が無責任でふざけたものと感じられる。

だが、ベストと感じる人の心には恣意が働く……つまり、選ぶのは好みの問題だ。

何でも先送りにしたがる人には、「今日できることは今日やろう!」という標語が耳に痛かろうが、「良薬口に苦し」という。耳に痛いからこそ聴くべき言葉である。

ところで、周囲を見回すとどうも「今日できなくても今日やろう! 自分で出来なければ他の好意をあてにして今日やろう、それでもダメなら神仏の助けを借りて今日やろう!」という、焦って生きている人が多い。このような人には、「明日でよいことは明日やろう!」という提言が耳に痛いのではないか?

私はというと、むしろそれぞれの提言が不完全に思えるが故にさして心が動かない。物事には順序があり、段取りよく片付けていけば、大変そうに見える案件も案外簡単に片付くし、簡単そうに見えることも段取が悪ければかえって拗れる(他の手伝いをしていて、段取が悪いとウンザリする)、どうにもならない問題は、どんなに差迫った問題であろうと、時機(時期ではない、いわばチャンスのこと)が来るまでは問題を棚上げせざるを得ない。

今日やるか、明日やるか……それぞれの問題毎に考えるべき事で、一律に考えるべき事ではない。

とはいえ、部屋の掃除やゴミ出しなどは、……今日やるべきだろうな。


痛いヒント……騙された!

2006年07月25日

 

この不景気な時代、支出はなるべく少なくして、お金を有意義に使いたいと思うのは、ケチではなくて、工夫と努力と呼ぶべきだ。だが一方で、「安物買いの銭失い」という言葉がある。実際に、安く買えた品物が欠陥品やインチキ商品であるのは稀であろうが、「うまくいった!」……という幸福感が、一転、「大損した!」と地獄に突き落とされるのだから、印象に深く焼き付けられるのは避けようもない。では、高い物を買っていれば安心かというと罠にはなかなか粗漏がない。まったく悪党の罠はひょっとすると神仏の救いの網よりも細やかなのではないかと思わざるを得ない。

知人が、ネットオークションで騙されたという。夕食を奢って貰ったのでゴマをするわけではないが、この知人は節約をしても決してケチな人ではない。……被害には深く同情するが、その場で私の口から出た慰めの言葉も何やら安っぽい。「人を騙さずに生きられるのだから、あなたは幸せだよ」……安っぽい慰めで友情を押し売りしては、ネット詐欺師を非難出来ない。

さて帰宅後、入浴中にふっと聞こえた。

「リスク・マネジメントも代金が取れる」……買い物をする際には、安全対策費を上乗せして買えということだろうか? それは大切なことだと思う。すると、また聞こえた。

「リスク・マネジメントも売り物になる」……で、ようやく気がついた。彼の職業にそれを生かせというのだ。

単に客から要求された仕様を満たすだけでなく、リスク・マネジメントを提案することで商品の価格を引き上げるべきだというのだ。……いや、何も彼がリスクを軽視した仕事をしているとは思わないけれど、日常生活中に安全対策費の必要性を感じたのであるから、仕事も積極的に見直すべきであろう。さらに、代金の引き上げを含むリスク・マネジメントの積極的な提言をしているだろうか? 失敗から学べる人は強い。ならば、失敗談を多く抱えている人はなによりも強いのではないか?

一方、心霊相談を通じて感じるのは、自分の失敗を無視して被害を増やし、言い訳の論理が破綻した人が、その原因を霊的障害に求める相談者の中に多いことだ。

……失敗から学ぶ人は強いが、失敗を無視する人はとても弱い。

・・・・・・・・

が、先方から反論を受けた。

誰もが戦える訳じゃない。争いを避ける生き方を大切にする人もいる。

……はしなくもここに私の特徴が明らかになる。

確かに負けず嫌い。 悪くいえば闘争的。だが自分では、強い向上心と信じている。

それが元で巧くいかぬ事もあるし、拗れることもある。――だが一方で、穏和ゆえに巧く行かぬ人、苦労する人もある。


良薬口に苦し

2006年07月26日

苦い思いは誰のせい?

「良薬口に苦し」というが、苦いものが皆、薬というわけではない。仮に薬であったとしても症状に合わなければ害になる。

苦い薬は嫌だというが、ならばなぜ、薬を必要とする状況に至ったのか。……不摂生だから苦い思いをする。そこに気が付けば、少しは温和しくしなければなるまい。

甘い薬ではダメか?

「良薬口に苦し」だが、すべての薬が苦いとは限らない。……だが、症状で薬は選ばれるのであって、味で薬が選べるわけではない。

口に苦い薬を必要としながらも、甘い薬を求める。その甘えた考えが薬を必要とすることにいつ気が付くだろう?

苦い思いは誰の為?

苦い薬をあてがうのは、助けたいからであって苦しめたいからではない。だが、苦い薬をあてがわれて相手を恨む者もいる。……いったい誰があなたを苦しめたのだろうか? 苦い薬をあてがう人か、それとも薬を必要とする状況に追込んだ自分自身か?

自分の過ちは責められぬ、という人がいるが、必要なのは責任を問うことではなく、過ちを繰返さぬ事の筈だ。


心が痛い

2006年07月26日

 

心の傷が痛む……?

「心の傷が痛む」と騒いで転げ回る……なるほど、確かに痛そうではある。だが、騒いで転げ回るのは痛くないのか? 傍から見ると、苦しむ様よりも、転げ回り恨み言を言う様の方がさらに痛々しい。

黙って痛みに耐えよ、というのではない。痛みを増すために努力してどうなるのかと思うのだ。 泣けば甘やかせてもらえる赤ん坊ならいざ知らず、自傷すれば助けが得られると思うのだろうか? 自傷を止めない人を助けようとするのは盗人に追銭をくれてやるようなもの。心中に盗人、いや強盗を大切に隠しておきながら、助けが欲しいと望み、助けてもらえぬと憎む。……そんな心掛けでどこに行くのか?

 

辛い! と騒ぐ。

「なぜこんな辛い思いをしなければならないのか!」……自分の非を認めぬ者が騒ぎ廻る。それが明らかだから騒ぐ者の救済は後回しにされる。もっとも、平然としていれば、やはり後回しにされて不平等感を味わうことになる。……待っていればご褒美が得られるか? さあどうだろう。残り物には福があるとはいうが、残った場合の話である。

昼過ぎに起きてきて、朝飯をねだり、挙句に残り物の福を求めるのは果してどうか? 昼食の食べ残しでもあればよいが、準備と後片付けにも手間がいる。何事も時機を失すれば高く付く。

レールの敷かれた人生は嫌だ! というが、人は一人で生きられず、多くの助け合いを必要とするのに、レールを外れて何を求めるのだろう? 人は努力しているようでいて、実はコース料理を順番に食べているのに等しい。番狂わせは料理人と給仕を困らせるのである。……困らせてもなお、給仕してもらえる人ならばよい。だが、大抵の人ならば、さらに待たされた挙句に冷えた料理を出されるか、食べられるならまだ幸せで、うるさいからと、つまみ出されてしまうだろう。 給仕されない不幸を歎くなかれ。さしたる善行も無しに不平不満をいえば、次の機会も失うだろう。

不満が危うくするのは、あの世とのことよりも、むしろこの世のことである。あまりに不平不満が多くて、面倒がられてせっかくのチャンスを失っている人のなんと多いことか。それに気が付かないのも愚かであるが、気が付いて悩むのも相応に愚かである。

つまり……やり方を知らなければ出来ないが、知っていても不器用ならやはり出来ないのだ。不器用な癖に練習も積まず、「知っても出来ない」、「判っていてもどうにもならない」と思っている。挙句に、「どうにもならないのが人間だ!」等と開き直ってみたりもする。来世もまた初級コースを歩むのだろうか? いい訳が多いと指導霊からも嫌われて一人で苦労することになるのに。

「良薬口に苦し」というが、薬を飲まずに悪化する人、薬と信じて苦い思いに耐えるだけの人、症状に合わない薬で返って悪化させる人と、使い方はいろいろだ。……そんな生き方も確かに修行の一つだろうが、躾と勉強を混同してはいないか? 授業中に叱られるのも勉強のうちかもしれないが、学生・生徒の本分は学ぶことにあって叱られることにはない。


矛盾 葛藤 …… 非論理の報い

2006年07月26日

矛盾・葛藤

なぜ苦しみから抜出られないのか、努力が、いやそれ以前に思考が論理的でないからだ。実現手段を欠いた妄想だけで行動を始め、まちがいに気が付いても行動を改めない。一括りに悩みというが、大抵は矛盾・葛藤に陥っているだけだ。当事者が葛藤を放棄しない限り、助けるには矛盾の実現を必要とする。それはまた大きな矛盾だ。……バカらしいと思う。矛盾を抱え込むことが自分を苦しめるのに、少なくとも私は進んで矛盾に陥りたいとは思わない。

だから……自傷する人を救う方法よりも、自傷に巻込まれない方法を私は知りたい。


疲労・過労

2006/07/17

2006年07月17日


「心霊主義掲示板」より

Q「スケジュールを間違え、仕事に遅刻してしまった。仕事に対して傲慢になっているのではと反省している。」

あなたは、「慢心」というキーワードに特別な感情を持っていらっしゃいますので、「自分が慢心していた」という発想に思考停止するところがあります。くれぐれも気をつけてください。
反省なさるのは大いに結構ですが、順番を間違っては意味をなしません。人は、感じ、思考し、行動するわけですが、行動に過ちがあるとすれば、原因は思考か、それ以前の感覚にあると考えられます。ところであなたは、約束の時間を間違えるという感覚上のミスから、スケジュールの立案という思考をしたわけですから、思考よりも感覚に問題がありと認めるべきです。
単調な仕事に飽きが来たのか、それとも注意力が散漫になっているのか、いずれにせよ、私ならば、それを過労のサインと受け止めます。仕事の変更に不満を抱いたということですが、それもまた、疲労・過労のサインと見なせます。
……まずは疲れをとることです。本当の反省はそれからでも間に合います。

学ぶということ

どうも現代人は、学ぶことと知識を得ることを混同しています。しかも、その混同は単なる勘違いではなく、繰り返し反復仕込まれた一種の習性、いわば癖であることに気がついていません。

癖であるのに、「ハッ!」と気がついた瞬間に、それを悟り、会得したつもりになるけれど、「ハッ!」とした10分後ぐらいにはもうほとんど覚えていないのです。

なによりいけないのは、知ることを学びと誤解しているから、知っただけで満足して、検証せず、応用せずに終わらせてしまうことです。だから誤解があってもいつまでも気がつかない。

そもそも、学ぶとは「まねる」が語源だとか。まねることをせずに知るだけで知れると過信する……つまり人の仕組を知ることから始めなければ、知識が生かせないのです。

身体を動かしながら休む!

いくら教養があっても、応用が出来なければ価値は激変しますし、正しく知らなければ迷信に陥ります。

疲れたら休む……さほど間違った話ではありません。

ですが、休む=家でダラダラする……これは迷信です。身体を動かしながら休まなければ、身体の芯に疲れが溜まります。この誤解の事例として、疲れが抜けないから温泉でも行ってゆっくりしたい……等という話がありますね。でも、体の芯を温めたいなら、特に気温の高い時期では、表で身体を動かすだけで十二分です。逆に、身体を動かさずに温泉につかっていたら、充分に汗をかくよりものぼせる方が早いでしょう。

もしも、家でダラダラしたいと心底感じているなら、それは「疲労」というよりも「他人の視線に負けている」のです。いわゆる引き籠もりといわれる人々も、事情は色々あるでしょうが、その行動の決定的な要因は他人の視線に負けていて、視線を避けているのでしょう。

むろん、疲れて闘争心が萎えている場合にも、他人の視線に負けがちですが、だからといって家でゴロゴロするというのは最悪(非効率)の選択肢です。ならば、家族や友人等と表で発散する方がよほど効率よく疲れが取れます。

さて、疲れは身体を動かしながらとる……という考えが不可思議に思える人もいるでしょうが、体育授業を思い返してみてください。激しい運動の後には、必ず、クールダウンのための軽い体操などを行ったはず。……知っているのです。でもやらない。激しい運動の後にはクールダウンをするのに、仕事で体力や脳力を酷使した後には、何もしない人が多いのです。

一事毎に良い方法を必要として、一つの方法を他の事々に応用できずにいる……つまり、せっかくの自分の教養を利用できず、他人の浅知恵に頼っているのです。

いやむしろ、疲れが取れないことよりも、疲れの取り方すら知らないことの方が大問題です。それは単に知らないのではなく、詰め込むことに満足して、使いこなすことを忘れていることの問題なのです。……しかも、知るだけで満足してしまうのも、誤解というよりは習性・癖なんです。

自分の疲労に気がつかない!

自分で自分を気遣うのは確かに大切です。……ところで、ここにも知識の落とし穴があります。

人には、疲れていてもやり遂げなければならないことがあります。少なくとも仕事の最中に、疲れたからといって、勝手に休憩することは出来ません。……どうしても過労が多々生じるでしょう。

が、疲れは過ぎると、感覚が麻痺して自覚が難しくなります。……ここで思い起こしてください。疲れをとる一番効率の良い方法は、動きながらとることなのです。当然、疲労の自覚が無くなり、無意識に疲労をとろうとすると、身体(反射)は、最短コースを選ぼうとします。

ある場合は昂奮。場合によっては苛立ちという形でそれが現われます。つまり、身体を動かす事を促されるのです。……この場合、困るのは苛立ちです。つまり、誰かを虐めたり、喧嘩するという形で身体を動かそうというのですから、同僚や家族、友人は迷惑します。

疲れている人にとってなによりも必要なのは、やはり、周囲のいたわりでありましょう。……それをしないでいると、大切な人を過労・病気で失ったり、過労から来るイライラから仲が悪くなることもあります。

(こういう自然な流れが生み出す帰結を指して「摂理」と呼び、心霊思想では論理薄弱な霊感よりもむしろ、正しく摂理を理解することを重要視します。本来霊感は摂理に視線を導くのです)

殴られたら殴り返せ?

2006/07/17

2006年07月17日


「殴られたら殴り返す」……小学生がそういったなら、大人はこぞって反対するに違いない。では大人がいったなら? ……さらには周囲の者達がそれを諫めたとしたら、羞恥すべき話ではないか。

北朝鮮のミサイル発射問題で、敵基地攻撃の是非……その内実は対地攻撃ミサイル保有の是非が論じられているが、果して大人の議論すべき事か。

ミサイル開発・実験という、北朝鮮の恫喝に対して、日本も対地ミサイルを保有するという議論で北朝鮮に圧力を掛けるつもりであるなら、あまりにも子供じみた議論だ。

中露韓国は日本政府の対北朝鮮強硬姿勢を揃って非難している。……報道はその理由をなかなか解説しないが、ようするに北朝鮮の存続が自国の利益とする国が、北朝鮮を擁護しているのだ。では、日本が北朝鮮のミサイル基地を攻撃したら、いったい世界のどれだけの国が日本を擁護してくれるだろう? 現状で北朝鮮を非難する米国や欧州諸国が、日本の先制攻撃を支持してくれるだろうか? むしろ反対するのではないか。

攻撃に至らなくても、日本が対地ミサイルを保有することにどれだけの国が擁護してくれるだろう。弾道弾を鋭意開発中のインドぐらいのものではないか。

そういう力押しで自説を通す心の有り様は侵略者と変りがない。北朝鮮が非道であるからといって日本も非道に陥る必要はない。

・・・・・

そもそも、なぜ、日本同様に北朝鮮のミサイルの射程範囲に国土を持つ中露韓国が北朝鮮を擁護するのかを考えるべきだ。

中露国は友好国を失う……失って困るほどの国であるかどうかは知らないが、少なくとも米軍基地のある国と直接国境を接したくはないのではないか。

そして日本と共に米国と同盟国である韓国すら、北朝鮮を擁護する理由……北朝鮮が無くなれば、米国との競争国である、中露二大国と国境を接しなければならず、仮に北朝鮮を併合すれば、援助すべき貧乏な親戚を抱え込まなければならなくなる。国内的にも大混乱であるし、国境警備……軍事的な理由だけでなく、密輸や犯罪者の逃亡阻止などの人的・経済的な負担も予測される。

今後生じる、または激しくなるであろう、米中露の対立の最前線に位置するのが北朝鮮併合後の韓国であり、日本も最前線といえなくはなくても、一衣帯水……陸続きでないことがどれほど負担を軽減してくれることか。

中露韓国は、日本よりも冷静に事態に対処しているのではなく、日本よりも遙かに複雑な事情を抱えて騒げずにいるのだ。北朝鮮のミサイル問題で大騒ぎできる日本はとても恵まれているのである。

そもそも、陸上に国境線を接している国同士が将来の国境問題に頭を悩ませているというのに、北朝鮮が消えても利あって損のない日本がなぜ、対北朝鮮の強硬論ばかりを論じるのであろうか。……韓国に崩壊した北朝鮮を抱え込ませ、中露韓国に国境警備の重圧を掛けるため? ……いやはや、品はないがそれも国家外交戦略の一つの選択肢かも知れない。だが、戦略を持っているにしては無芸な力押しをしていないか? また中・韓国はそう思っているからこそ、日本の言動に批判的なのか? これでは日本の思惑通にいっても恨みを残す。

・・・・・

拉致被害者の存在も、日本が強硬になる理由の一つとしてあげられるが、制裁案を引込める代りに拉致被害者の返還に関する協力を、中露に求めるという手段もあるのではないか? ……相手に押し勝たなくても、相手の弱点を突くという勝ち方もある。……既に実施しながら、北朝鮮の対面をつぶさぬ為に隠しているのかも知れないが。

なにせ変である。根回しは日本の政治家のお家芸ではなかったのだろうか?

・・・・・

世の中にも、悪しかるものは沢山あるが、なぜなくならないのか。……力押しでの解決よりも、何が、または誰がそれを必要としているのかを考えるべきかも知れない。代替を用意せずに根絶しようとすると無理が生じるだろう。


運が窮する

2006/07/17

2006年07月17日


不景気からくる不機嫌

その日、ばったりと出会った知人は怒気を含んだ雰囲気を漂わせていた。……不景気で不機嫌なのだろうと察した私は、そうそうに辞した。

助けが必要な時ほど雰囲気が悪くなる人は多い。……当人は、「神も仏もないものか」等と思っているのかも知れないが、神も仏も追出しているのは誰であろう? いや、それ以前に問題があるのかも?……ここでいう「神仏」とは、宗教的な存在や心霊でいうところの高級霊の話ではなく、抽象的な概念である。

この不機嫌さは、不愉快なことがあったためか、はたまた病気が原因か……不愉快であれば問題収拾の努力が、病気であれば治す努力が必要だ。自ら為すべき事が多いだろうに、怒気を周囲に放っているのは、内省するよりも外攻、つまり関心が外に向いている。これでは自らの問題は拗れ、周囲との摩擦で別な問題も生じる。

以前、試みに声を掛けたことがある。

「不機嫌にしていると、幸運が去るというよ」……相手はますます不機嫌になり、そして感じた。彼は幸運が去ることを恐れていない。そもそも幸運と縁がないのだ。

不愉快な事態になって神仏を追出しているのではなく、神仏不在の生き方をしていて不愉快な思いをしているのではないか。……自らが不愉快な事態を生み出しているなら、なるほど運不運は関係ない。

・・・・・・・

井戸が塞がっているなら掘り直せば済むが、水源が枯れた井戸には打つ手がない。せめて山に雨でも降れば水源がよみがえるかも知れないが……

 

墓参で心機を転じる

以前、行き詰り、悩んでいる人に、「墓参して心機を転じては」と勧めた。果してその後に事態は好転し、彼は先祖供養の有難さを理解したかのようだった。

その後、この人の言葉遣いが荒れているのに気が付き、私は再び墓参を勧めた。が、彼は面倒がって拒んだ。

・・・・・・・

貧すれば窮するというが、窮するから貧するのではないか。つまり、金が流れなくなって行き詰るのではなく、金の流れが窮するから貧し、そしてすべてが窮するのだ。そして私は霊感云々以前に、言葉遣いの荒れ、つまりは心の荒れに気が付き、その転機を計るべく墓参を勧めたのだった。

さらにいえば、墓参を面倒がる時点で、既に窮しているといえる。道がなくても人は窮するが、いくら道があっても行動しなければ身動きが取れない。こういう自主的な窮地に陥っている人のなんと多いことだろう。たとえば引き籠りや自殺は、他にとるべき道のない、やむを得ない選択であるのか、それとも自ら他の可能性を拒絶しての結果であるのか?……いずれにせよ窮地ではあるが、自ら他の可能性を拒絶しているのであれば、第三者には救い出すすべもない。

同様に、面倒だから墓参しない、というのであれば、道がなくて窮するのか、道があっても窮するのか、どちらであろう?

 

不機嫌で貧する

自営業者が、不機嫌であれば客が遠退くというのは理解しやすい。では、勤め人、特に固定給の勤め人が不機嫌な場合になぜ貧するのかは、判る人には自明であろうが、分らない人には現況脱出の大切なヒントかも知れない。つまり、いくら大金を稼いでもそれ以上に出費が多ければ貧乏となる。金が入らぬ者が貧乏なのではなく、入る金よりも出る金が多いことが貧乏なのである。……往々、不機嫌な人は無駄な支出が多くなりがちで、それ故に貧しやすい。これが、不機嫌で勤め人も貧乏になる原因だ。同様に、自営業者であれば、同時に入金も減って更に貧しやすいかもしれない。

 

間違った先祖供養

ところで、墓参にどういう効果があるか、も、知っていた方が良いと思う。むろん心霊的に見れば、祖先の霊の加護が増えて……ということだが、別段、墓参したからといって新しく祖霊が増えるわけではなく、自身の謙虚さが祖霊の意念を通じやすくする……祖先の霊の働きやすさを増すと考える。だから、幸運を買取るつもりで、先祖供養に大金を掛け、大騒ぎしたところで、無心に墓前で頭を垂れる素直にはかなわない。むしろ、「これだけやったのだから……」という、代償を求める観念が祖霊の働きやすさを阻害する事が多い。

というより、私は墓参で運気を変えるという考えがそもそもナンセンスに思える。人間が死んだからといって、急に神仏に転じて神威を具えたり、万能になれる筈もなく、大抵の祖先霊はおろおろするだけの役立たず、むしろ足手まといである。人の運不運を左右するのは、孫を溺愛する亡くなった祖父さん、祖母さんというより、もっと普遍的な慈愛を備えた霊達であり、そういう霊達に墓や仏壇、線香や生花といった供物などは無用の筈である。

要は、当人の心掛け、ただ、日常の強がり、頑張りから離れて、素直な自分を取戻す時間を作るのに、適当な場として墓参を勧めているのだ。……ならば精神統一などの修行者には、墓参は不用である。が、正しい修行を経た人ほど墓参を好むのは、親しい者と感応する歓びに気が付くからだろう。

先祖供養の諸儀礼は真の目的ではなくただの過程であり、その過程の先にある真の目的が先祖供養……親しい者と感応する歓びなのである。


相談して良いこと

2006/07/12

2006年07月12日


「こんな事を相談したら、厚かましいと思われないか?」……あなたがそう躊躇したとすれば、あなたは善良かつ……おそらく間違っている。

妥当か、厚かましいかは、一体どうやって線引きするのだろう? その線引きが、単に回答者の主観に関わるのであれば、とりあえず訊いてみなければ分るまい。まして、それが客観的に区別が可能であれば、ぜひ訊ねるべきである……厚かましいとはどういう事かを。

幸いにも私は、その問いを受けることなく……そして今は、おそらくそれに答えられる。

・・・・・・・

私が元々無料心霊相談を解説したのは、至って単純な悟りの結果である。トラブルの大部分はケアレスミスが原因であるという認識だ。例えるなら……この文章を読む人のほとんど全部はPCを利用しているはず。ならば……

PCが動作しないとする。……その原因が操作ミスや電源の入れ忘れ、ケーブルの緩みなどであれば、単純な助言で解決するだろう。

そして、ひょっとすると……そう、ひょっとするとだが、心霊相談を職業としている人が、そのケアレスミスを大袈裟に騒いで見せて大金を稼いでいるかも知れない。稼ぐ人にとっては好都合でも、稼がれる人から見たら霊障よりも、たかられることの方が甚大な被害をもたらすかも知れない。ならば、無料相談には重大な意義があるのでは、と思えた。

だが、現実には本当の故障もある……霊障の大部分は、相談者の思い過ごしであるにせよ、全てが思い過ごしとは限らない。再度、PCに例えるなら、実際に故障があった場合は、部品交換などの実費が生じる。問題がこういうレベルであれば、無料相談で応じるのは難しい。

具体的に実例を挙げるなら、祖先が悪行で財産をなし、それを相続したり、利用したりしている人は、その因縁から無料で逃れることはまず無理だ。得た以上に出費するまで霊障に責められるだろう。これは、嫁ぎ先の因縁であっても同様である。

自分の実力を発揮できない人が、充分に発揮できるようになるのは、つまり、ケアレスミスの問題であって、無料で応じることも出来るだろうが、実力以上の結果を得ようと思うのは、厚かましいの部類である。それは有料相談ならば何とかなるという問題ではなかろう。何となれば、軽自動車に大馬力のエンジンを積んでも、車体やブレーキに無理がかかるばかりで、高級車にならぬのと同様である。……妄想に過ぎない。

つまり、実費不用のレベルであれば、無料で質問・相談しても、厚かましいといわれるほどの話ではないと思う。だが、実費が生じるようなことまで無料で願う人は厚かましいというべきだろう。

どうせ無料なんだから、頼んで受けて貰えばめっけもの的な発想の人も多いが、愚問を発すれば、利口には思われまい。つまり、自分の評価、信用を下げることに通じるし、自己の評価、信用を疎かにする人は、大切にされない……つまり、実力よりもランクが下げられる事を恐れるべきだ。

・・・・・・・

ところで、実際の心霊相談の内容だが ケアレスミスどころか、操作方法が分らずに、「動かない」と騒いでいるユーザーばかりが実体であることに気がついた。操作方法を説明して、「分らない、動かない」と騒ぐだけ……結局、心霊相談を中断したのは、心霊相談が出来ないのではなく、本来の意味での心霊相談が来なくなったからなのだ。……人の手を煩わせるのに、挨拶も出来ず、挨拶もないといえば、挨拶の仕方がわからないと返事が来るのだから、私ももう、途方に暮れてしまう。……相手の守護霊も、祖先の霊も途方に暮れるばかりで、助ける手段が見いだせないのである。

(さらに…)

お知らせBy老神いさお。

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