‘2006/06’ カテゴリーのアーカイブ

負けず嫌い

2006/06/30

2006年06月30日


一口に、負けず嫌いというが、第一義的に相手に勝ちたがる負けず嫌いと、負けたくないという負けず嫌いがある。

前者は進んで争い……争わなければ勝てないからだ。

後者は争いを避けようとする……争わなければ負けないからだ。

むろん、勝利を求める人もすべてに勝利できるはずもなく、勝てぬ戦いはしたがらないし、負けを恐れる人も、勝てる競争まで放棄しようとはしない。

・・・・・・・

地上での生活には、どうしても生存競争的な闘争がつきまとう。たとえ人とは争わぬ覚悟でいても、商業活動や勉強さえも、大抵はゼロサムゲーム……つまり、誰かが多くを得れば誰かが得られないという仕組で成立っている。従って、闘争心のない人はむしろ病的であって、誰にでも多少の負けず嫌い的傾向はある。また、競争すれば昂奮し、勝っても、負けても昂奮の余波が続く……負けた人が昂奮の余波で復讐を誓うのは、ストレスに心を支配された結果であって、その人が本質的に負けず嫌いであると判断する材料にはならない。

さらにいえば、現代日本人は学校で競争を強いられるのである。……その過程で負けず嫌いの傾向と無縁で居られる人がいたとするなら、よほど能力の隔絶した才能の持主だけだろう。

つまり、負けず嫌い的な傾向に神経質になる必要はない。……以下は、負けず嫌いが過ぎたる場合である。

 

負けず嫌いは操りやすい

負けず嫌いな人は自負心が強く、他人に隷属・従属することを極端に嫌う。だが、知る人ぞ知る。負けず嫌いな人ほど操りやすいのだ。

「この仕事が出来る人が居るとしたら、君しかいない」……という言葉で、歓んで火中の栗に手を出す。おだてと判っていても、本能に逆らえずに手を出す。むしろ、おだてと判っているから騙されても腹を立てにくかったりする。

ある意味、負けず嫌いには、「無能な騒ぎ屋」と、「社会の奴隷」の2種類いることになる。……勝った負けたと一時の勝敗に歓んでいるが、太極から観れば負けず嫌いな人は皆、運命の奴隷だ。

いや、別に奴隷になるために地上に生を受けたわけではあるまい。自分の背負った業《カルマ》、つまり、負けず嫌いという性質を、有益な努力のために活用し、無益な時には慎むように努力することが、人生の課題の一つなのだから。

 

勝ちたがる人の弱さ

「弱肉強食」という言葉がある。ピラミッド型の食物連鎖の上部に位置するのが肉食動物であるが、それをもって強いといえるかどうか。他の動物を食いつぶしたなら、いったいどう餓えを凌げるというのだろうか。強い動物は弱い相手存在に依存しているのである。さらに、ネズミのオリに猫を入れた場合と、ライオンのオリに猫を入れた場合の差を思い浮べて貰いたい。天国と地獄の差が出るであろう。

同様に、他に勝ちたがる人は、他人への依存や甘えがとても強い。……自己の存在意義は、弱い相手の存在の上に成立しているのである。では周囲のすべてが自分よりも優れているなら、負けず嫌いの闘争心はどこに向うだろう?……ここでは、さらっと流すが、理解が進めば、これが大きな社会問題の要因であることを知ることになる。

 

争わず

負けず嫌いだからこそ、競い合いを嫌がる場合が多い。……競えば勝敗が付き、勝てなければ自尊心が傷つくからだ。むしろ平和主義者の方が安易に競う……勝敗を重要視しないからだ。

それが何を意味するか……競い合いを拒まれたなら、しつこくしないことだ。たいていの場合、相手は遊びでは競おうとしない人なのだから。競えば真剣になり、真剣になれば、勝っても負けても傷が伴うだろう。

安易に競争したがる人には、きっと理解できない事だろうが……


自由を探す

2006/06/30

2006年06月30日


「自由とは、案外近くにあるものかもしれません。」……とのメールを受取った。いや、近いなんてものじゃない。探そうにも見えないほど近いのが自由である。それをわざわざ探すから、見つからないと思い込んだり、遙か遠くに思えたりする。

捜し物が見つからないときには、一番あって欲しくないところにあるものだ。つまり、大抵は、見ようとしないから見つからない。それはつまり、本当に見つからないのか、見なかったことにしているのか、見なかったことにせよというのか、どちらであろう?

・・・・

自由とは、「自らに由る」と書く。自らに由る……ここで必要なのは自分であって、他の何物でもない。自由とは他の何かに頼ることではなく、ただ、自分を頼ることなのである。

・・・・

自由を求める人がいる。だが、一体自由はどこにあるのか? どうすれば自由になれるのか? 嗚呼、誰か私を自由にしてくれ!! ……

・・・・

自分に頼ることを自由というのに、自由がないという。

……つまりそれは、自分が頼りにならぬということか?

他に依存しないことが自由であるのに、誰かに自由にしてくれと願う。

……矛盾していないか?

・・・・

自らに由る……それ自体に矛盾はない。むろん、人は一人では生きられない。だが、特定の誰かに頼らずに生きることは出来るはずだ。……だが、人は頼るべき誰かを捜しながら、自由ではないと嘆く。

強がりつつおのれの弱さを嘆く矛盾……ある年代によく見られる矛盾・葛藤…… まるで反抗期の青年のようだ。

・・・・

だが……

恋人を失ったら生きていけない、この家族を失ったら生きていけない……ああ、そういう不自由さは、大人なら喜んで引き受けるものではなかろうか?


随伴霊

2006/06/25

随伴霊

2006年06月20日

ある職場に、新人が配属されたとする。

この新人さんはしばらくの間、見習いとしてその職場のベテランに委ねられるであろう。大抵の場合は。むろん、「事実は小説よりも奇なり」で、様々な例外もあると思う。だが、あなたが新人として配属されたなら、いきなり本業を任せられるよりも先輩の仕事を見習いたいと思うだろうし、どうせ指導を受けるなら、無能な先輩や、残酷・冷酷、短気や独善的な人の指導はイヤだと切望するに違いない。

そう、世間には、様々な新人の扱い方があるだろうし、指導役の悲喜劇もあるだろう。当然、見習いの悲喜劇もだ。

・・・・・・・

さて、ここに修行が必要な低級霊がいるとする。何しろ、ヒマになるとろくな事をしないのは人間の性《サガ》であり、性は死んでも容易に治らないからこそ、霊の祟りなどが生じたりする。

……そういった事情があるから、一種の見習いとして地上の人に憑《》けられる場合がある。これを「随伴霊」と呼ぶ。

さて、あなたが見習いとして働くなら、どのような人の元で働きたいか。そして、あなたが管理職であれば、どのような人に新人の指導を任せるか。……随伴霊は、そういう人につけられる。

たとえば高徳の僧侶、神官、神父などの聖職者が、軒並み低級霊を引き連れて歩いていると聞けば、霊感のない人は容易に信じないに違いない。一方、霊感過敏の人は「やはりそうか!」と頷いてくれるかも知れない。他方、霊感があっても「まさか!!」という人もいるだろう。

まず、霊感があっても見えないのは無理もない。私自身、その様な随伴霊を当たり前のように見ていたのは、自分の霊感をコントロールできない時期であった。……そして、随伴霊は大抵、霊媒の目から隠されているのである。なにしろ、低級霊を見れば除霊したがる乱暴な霊媒が多い世の中である。手柄に焦る霊媒に目をつけられては、低級霊が向上するチャンスが失われてしまう。

一方、低級霊がついているからといって、その人の人格が劣っているとは限らない。その人が低級霊にコントロールされているならば大問題であるが、ただ引き連れているだけなら、それは大抵、随伴霊、つまり、見習いの霊魂なのである。

たとえば霊感初級者は、神社仏閣に低級霊がうじゃうじゃいると騒いだりするが、これと同様の問題だ。果たして、病人の大勢集まる病院は悪い病院なのか……否、病人の寄りつかない病院こそが危ういのである。

つまり、随伴霊のついていない人であれば、その人格は、見習いを預けるに値しない人である可能性が高いということだ。

・・・・・・・

ここで勘違いしないでいただきたいのは、人徳者が低級霊を連れていても不思議ではないが、低級霊を引き連れている者が必ずしも人徳者とは限らぬ事だ。まして憑依されている者を人徳者と呼んでいるわけでもない。

整理する。……

1,人徳者が低級霊を引き連れて歩いているのはむしろ当たり前であって、不思議ではない。

2,低級霊を引き連れていなければ、本当の人格者か疑わしい。(が、見えるとは限らない)

3,憑依されるようでは、見習いを持つ資格がない。

……だから、常に低級霊(随伴霊)に飲み込まれないように注意を怠らない人が、霊界から認められる人格者なのだと私は考える。

・・・・・・・

ところが、この見習いの配属先が霊媒であったりすると事は面倒になる。面倒を承知で配属しているようなのだが……低級霊を察知すれば霊媒はむしろ本能的に除霊を試みる。だが、除霊能力の源泉は守護霊であり、随伴霊は守護霊の認知の上でついているのだ。……つまり除霊できない。これを霊媒がどう感じるかはケースバイケースらしい。ある霊媒は、除霊しても除霊しても霊が寄って来るという。また別な霊媒は、どうしても除霊が出来ないという。

実力の問題もないとはいえない……が、除霊すべきではないという発想はないのだろうか。


随伴霊 2

2006年06月21日

トラックの荷台に、ドラム缶を積み込んだとしよう。そしてドラム缶は固定しない。

車が走り出せばドラム缶は後ろに動き、ブレーキを掛ければ前に動く。そのうち転げてハンドル捌きに合わせて左右に揺れ、ブレーキを掛ければ運転台に当たり、走り出せば後ろから転げ落ちる勢いで動き回る。右にハンドルを切れば左にぶつかり、左にハンドルを切れば右にぶつかる。……兎角、車の動きを邪魔する動きをするだろう。

・・・・・・・・

人には大抵、随伴霊と呼ばれる低級霊が、一種の見習いとしてこっそりと憑けられている場合がある。その存在は、大抵の場合、当事者の守護霊によって隠されているが、敢えて教えられる場合もある。……意識的な問題解決努力を促すためだ。

その随伴霊が憑いているとどういう作用が生じるかというと、上述の「トラックの荷台で暴れるドラム缶」の動きに似ている。努力しようとすると邪魔(誘惑)され、辞めようとすると焦りに煽られ、右といえば左、左といえば右と……つまり逡巡が生じる。不満が生じたり、疑惑・疑念が心にきざしたりする。

この事を読み流さないで貰いたい。……自分の目指す向きとは反対の動きが随伴霊の働きなのだ。 にも関わらず、人はそれに従おうとする。不思議に思わないか?

人は我が心を自分の主と見なし勝ちだが、心というのは身体から多大な影響を受けていて、疲れていれば悲観的になり、元気があれば楽観的になる。そして……霊的影響も受けることがある。そんな、本来とても感化を受けやすい我が心の求めるところに、絶対的に従おうとすることは、随伴霊の影響を受けやすくなることでもある。

すぐに諦め、一心に努力すべき時に雑念・妄想と遊んでみたり、その一方で、何ら勝算のないことにのめり込んでみたり、人をバカにし、侮ってみたり……本来自分が至っているはずの心境・境涯をそっちのけで、俗信であるところの心の絶対性を信じて、随伴霊の意図に従うのだからナンセンスである。

「心の中に霊の声がする」……といえば、大抵の人から見たらオカルトである……その割には犯罪者の言い訳によく使われているようだが… …なぜ断らないのだろう? なぜ、後でそう言い出すのだろう? 仮に悪霊・低級霊(そして随伴霊)から悪事の誘惑を受けたとしても、だ。その誘惑に従ったら共犯なのだ。しかも主たる実行犯なのである。

「神様(仏様)が見ていらっしゃる」……等という。誰も見ていないからと言って、悪事やだらしないことをしてはいけないというのだが、体感的にいえば、善い行いをしても認められることは稀で、その割には悪事が露見しやすいと感じないだろうか。

心霊家としての観察を含めていうなら、この言葉は一面の理でしかないと思う。同時に「随伴霊が見ている」ということも大切だと思う。人が見ていないからと生き方に手を抜くと、随伴霊から舐められてしまう。『その程度の霊格で何を威張っているのだか』……というわけだ。

すると、叱りつけても相手はいうことを聞かなくなる……すると、チャンスを見失いやすく、大事なときに失敗し易くなり、努力すべき時にだらしなり、ついつい、愚痴や不満が多くなって、口は動いても身体が動かなくなる。

人は高級霊の感化よりも遙かに、低級霊の感化を受けやすいものなのだ。


補助霊

2006年06月21日

あまりオフ会では話せない、オフ会での話。

幼稚園や小学校での入園・入学時に親が付き添うように、オフ会の参加者も初参加の際には付き添いの霊がいる。……「いわゆる守護霊」ではなく、もっと霊格の高い存在らしい。そして大抵は女性の霊だ。精神統一の指導に経験があるらしく、そのおかげか、初回の参加者は大抵、綺麗に座る。……ある意味、ビギナーズラックと似ている……次回以後も同様に座れるとは限らない。というか、座れない。その為、二度目以降が本当の指導になる。

むろん、私も初参加者には態度が甘い。それでなくても緊張しているだろう初参加者に一度に全部を要求しても無理が生じるだろう。

だからといって、二度目以降に急に厳しくするつもりはない。基本的に私は霊媒としての態度をとる。つまり、霊と人との媒介者……ニュートラルな存在である。だから、自分に厳しい人には厳しく当るが、自分に甘い人にはさほど強く接することはない。

戸を叩くのはあくまでも参加者の努め、そうして出てきた主と客との仲介役が霊媒なのである。……まあ、それだけで済ませるのは主催者として不親切であろうが、いささか不都合な事情がある。

何しろ人間は、思い込みやすく、ガッカリしやすい……五感という五つの穴から外を窺う囚人の様なもので、その心象は実感よりもむしろ、当人の思いこみによって形作られているのである。であるから、着実に歩を進められる人はなかなかいない。走っては息切れし、息切れしては諦めてしまう人が大部分なのである。歩いて行けばたどり着けない道ではないのだが……だから、手を引いてくれる者(霊)が必要となる。

が、心霊知識の不足が生む悲劇……手を引かれる代りに、人が霊の手を引いて歩みたがる。不安と焦りに身を焦がしながら。

……オフ会初参加の時に、知らずに引かれた手を、思い出せる人は幸いだ。

心霊を学ぶというのは、幽《かす》かなものを感じ取ることだから。

……チャンスを生かしてこそ、真に学んだといえる。


妄想に駆られる・随伴霊

2006年06月25日

Q「車を運転中、ふっと妄想にかられ、その理由に悩んでいたが、随伴霊のせいではと気がついた。妄想のあと、どう対処すればよいのか?」

随伴霊に限らず、低級霊が身の回りに多いと、雑念・妄想が湧きやすくなります。また、基本的に感応というのは同波長……すなわち、似たような境涯の者同士に起るものでして、低級霊と感応しやすいのは境涯が低いのが普通です。ですから、感応しやすい…… 低級霊に懸りやすい人は、自身の霊格を上げることが必要と教えます。

ただし、随伴霊の説明に見るとおり、霊格が大きく違っても必然があれば感応することがあります。

・・・・・・・

ところで、「心境」は環境の影響を受けやすいもので、たとえば仕事に打ち込んでいるときには低級霊の感化は受けないが、帰宅して酒を飲めば低級霊の影響を受けやすい……等という事例はざらにあります。

この事例は含蓄に富んでおります。人の視点というのは、何かしらの基準を必要とします。この場合、平常時を基準にして、低級霊の影響時を異常と見なし勝ちですが、仕事に打ち込むというのも、その指導霊の影響下にあるのが普通で、このような人格の変化の幅が大きい人は霊媒的要素が多分にあると考えることが出来ます。…… 進んで高級霊との交渉を望まなければ苦労が絶えぬ事でしょう。

・・・・・・・

さて、質問の「運転中の妄想」ですが、これはつまり、「一人っきりで、リラックスすると同時に適度の緊張がある」ということでありましょう。……単なるリラックスだけでは、妄想していても自覚することが出来ない筈です。

こういう時に生じる妄想については、私にも覚えがあります。こういう状態でブログの更新ネタを仕入れるときもありますので、霊感の働きが活溌になっているのは事実でしょう。

ただし、妄想……その内容が無意味に思えても、否定なさらぬ方が良いかと思います。

人間の視点は基準を求めます。……相対的に物事を受け止めるからです。普段の自分の精神性を基準にして、「妄想」を判断すると、なるほど心配にもなるでしょう。その際、実際に低級霊の感化も受けている筈です。

どんなに高い精神性を備えた人であっても、物質世界に生きている限り、物質的欲求という低レベルの環境に迎合しなければなりません。否応もなく低級霊的な欲求に支配されているのですから、そこにストレスも生じます。…… ストレスが生じればそこに調整が働くのが普通であって、調整作用が何ら存在しなければ、爆発を待っていると考えるべきでしょう。

つまり、質問者は本来、高い精神性に憧れるあまり、低レベルな日常生活に不満を感じているのではありますまいか。そのギャップの調整作用として、普段無視できない相手を、無視できない状況が生じているのだと思います。

Q「徳を積み、随伴霊とともに生活の中で修行をしていくしかないのかなとは思っています」

随伴霊・低級霊と論理的に対決するのは、ありがちな発想ですが無意味です。……誰が望んで低い境涯に留まるのでしょう? 大抵は、「分っているが直せない」と思っているわけで、少なくともそこに論理的な解決策はありません。

すると発想の転換が必要になります。

端的にいえば、質問者の生き方が、先を急ぎすぎているから、見習いであるところの随伴霊から愚痴が出ている……同時に、質問者が本来無視してはいけない問題が潜んでいるから、適度な緊張を伴う時……問題点を自覚しやすい状況下で、妄想が生じているのでしょう。

つまり、徳を積む、修行をする、という本人の意志が、急ぐあまり、危うくなっている暗示であると、私は考えます。

妄想が生じたら……精神的な疲労が溜まっているのです。パッと、気が晴れるような休養の取り方が必要でしょう。


御利益信仰……神仏を値切る

2006/06/25

神仏を値切る

2006年06月25日

 

「御利益信仰」という言葉がある。文字通り、御利益を得るための信仰、代償を求めての行為を意味する。

代償を求めることに罪があるのではない。……何となれば、全ては一得一失、代償なしに何が得られるというのだろうか?

問題はこれを信仰に持ち込むことである。……なぜ、信仰に持ち込むのが罪なのか。

たとえば価格が百円の物を二百円で買いたがる者がいるだろうか……買い物は安く買えばこそ嬉しいもの。では、御利益信仰する者は、御利益に妥当な価格を支払うのだろうか? まして、人が信仰の結果として求めるのものに、いかなる価値がつけられようか……そして人は、それに見合う代償を支払えるのだろうか。

神仏を値切る。自分の未来を値切る、自分の来世を値切る。……支払えないなら、せめて誠実さで対処すべきなのに、姑息な値切り方をするのは、他に対処の方法を知らぬからか。

・・・・・・

誠実な対処とはどういうものか……言葉だけで行為を会得できるなら、何と楽なことだろう。体操も球技も武術も……教科書を読むだけで会得できるというのだろうか? ナンセンスである。

だから祈りが大切になる。……無私の愛が大切であるとか、慈悲が大切だとか、宇宙との一体感であるとか、色々な表現をする人もいる。だが実際のところ言葉だけで理解できるものか。

だから練習が大切になる。祈ってみる。祈って手応えが得られたら、さらに祈ってみる。手応えが確実なものに変わるまで祈ってみる。それが練習である。でも、手応えと信じていたものに疑問が生じ、疑問が育っていったらどうすべきか……手段を変えることだ。

そうして人は向上していくのである。……小手先の手法に満足するのもよいが、真の成果は死後に明らかになる。

・・・・・・

心霊家の大部分は、御利益信仰を否定する。だが、心霊家の多くは困った時には守護霊等の助けを得られるという。……それは御利益信仰と違うのか?

もしも困った時に守護霊等の助けが得られるものなら、なぜ世の中には困っている人が多いのだろう? 助けを得られる人と、得られぬ人とは何が違うのか。……守護霊の実名を知れば助けが得られるとでもいうのだろうか?

ナンセンスであると私は思う。なぜ、真に守護霊を知る者が苦境に陥らねばならぬのか? そうなる前になぜ守護霊は救ってくれぬのだろう……修行としての困苦があるなら、どうして困苦に耐えきれずに命を断つ者がいるのか。命に守護霊を動かすだけの価値がないなら、守護霊は何を救うというのか……堂々巡りだ。

人生の責任、行為の責任は誰に帰すのか……因果律の法則を知る者ならこのような誤解を抱かぬであろう。自ら進んで困苦に陥るなら、それは自ら進んで解決せねばならぬ存在であり、そこに守護霊の援助を期待すべきではないはずだ。

心霊を学んで御利益信仰すべきではない。心霊の名を借りた御利益信仰に惑うべきでもない。


御利益信仰

2006年10月02日

利によりて行えば恨み多し――人間、どうも不幸よりも不平等を嫌うようだ。自分だけが不幸ではない。または、もっと不幸な人がいると思えば、不幸を我慢しやすい。でも、同じ苦労をしながらある人が幸せを掴み、自分が不幸せであると、なかなかそれを受入れることは難しい。その違いの影に何か別な要素が潜んでいるのでは、と思えるものはまだ幸せである。

安易な開運法に頼った挙句、うまく行かなかったと相手を恨む……だが、開運しないのは開運法の問題なのか?

・・・・・・・

心霊ブームの影で、一種守護霊信仰が興っている。

こうすれば、こういう良いことがある……それが平等ならば良いが、実態は必ずしもそうならない。実を言えば、守護霊に強く願う人ほど、思い通りにならない人生を歩んでいないか?

思うよりも先に体が動く人ほど、守護霊の加護を篤く感じる……体験により守護霊のありがたみを知る人ならば、当り前に知っていることが、本などで守護霊の存在を学ぶ人にはわかりにくい。

なんということはない。理屈を想う人が理屈どおりにうまくいくなら何を悩む必要があるのだろう? 理屈どおりに行かないから悩む……その理屈を考えているのは一体誰か? 船頭が悪くて船が進まぬのに、次々と漕ぎ手を雇ったところで船が進むはずがないのである。

・・・・・・・

個人個人によって、人生の障害は異なる。だが、共通項が「人間」という、大雑把な括りで、不平等を想うのはナンセンスだ。……だが、思うように生きられぬ人は、身体を動かすよりも不平不満を想うことを好むのだろう。そして、行動しないからなお、思うように行かない。……そもそも、なぜ思うように行かないのか、が判っていないのだから、行動しても拗らせるだけ。体験上、積極的に行動すればうまくいかないことを知っているからこそ、妄想して発散しているのだ。

そのような人が心霊を学んだところで、妄想のネタが増えるだけである。……それでもうまくいかずに、悪想念を世に放つだけだ。・・・・・・・

現実には粘性がある。……つまり、変化には相応の時間がかかる。たとえば、人が努力したところで、朝日が昇るのは明朝と決っている。

「水は器に従う」というが、高いところから勢いよく飛込めば、水も堅く感じられる。……思わなければ変らず、思いすぎても抵抗に逢うのである。

「一生懸命にがんばったのに!!」――無理をするか、何もしないかの両極端では、人生はかなり効率が悪い。

一体、悪いのは守護霊の怠慢であるのか、それともあなたの焦りであるのか?

・・・・・・・

うまくいかないように生き、うまくいかぬからと行って、不可知なものにすがる。……妄想ではないのか?

心霊研究は人の為すべき正しい道であると、私も信じているが、利があるからと心霊を学ぼうとし、利が得られないからと恨む人が多くはないか?

利があるのは心霊知識ではなく、知識を生かして生きることなのである。……例え強力な守護霊をもっていようと、守護霊の意を無視してただ自分に都合よく働けと思うのはただの妄想でしかない。

そもそも、船頭が悪くて進まぬ船に、漕ぎ手を増やしても進むことはないのだ。……船頭を変えるか(人生の船頭、つまりあなたを変えることは出来ない)、出来なければ、船頭がちゃんと学ぶかなのである。

行き当りばったりに、その場しのぎの知恵をもらってそれで何とかしようと言うのは、いずれ恨みを心に貯めるだけの不誠実な生き方である。


口は慎む

2006/06/25

2006年06月25日


機会は得がたく、失いやすいものだから、

耳目はしっかり働かせて、でも口は慎む。

不運を嘆く者は、無駄口が多くて、自分の過ちには耳目を塞いでいる。

幸運を得る者は、口に無駄なく、他人の過ちに耳目を塞ぐ。

「非を許せ」というのではない。「他の非に逃げるな」というのだ。

己の非を正すべきは誰か? ……他に責められれば、改めることを忘れて恨むだろうに。


永遠の自由

2006/06/22

2006年06月22日


努力してもうまく行かず、困った挙げ句に奇蹟に解決を求める。――障害には原因があるはずだ。それを抱えて生きるのか?

必要なのは解決なのか、それとも障害を減らすことか。……本当に価値あることは一時の解放か、永遠の自由であるのか。

模造品を得るのに家宝を売る……答を見落としているのではなく、真の問題を理解できずにいるのだ。

・・・・・・

金持ちになるおまじないを聞いた。サイフの中のお札の向きをきちんと揃えておくのだ、という。種を明かせばこういう事だ。

価値あるものは有益に用いるべきだ。……与えるならば大切にしている者がよい。

なぜ金が足りないのか。……お金を大切にしないから。

大切にしないから足りず、大切にしないからチャンスも与えられない。……悪循環である。それを打破するのに、まず、お札の整理から始めろ、というのである。はっきり言って迂遠な話で、金の足りぬ人には耐えきれぬ事だろう。

ここでも一つの問題が見える。……本当に価値あることは、貧困からの一時の解放か、永遠の自由であるのか。


忍耐の意義

2006/06/16

2006年06月16日


私が忍耐と呼ぶのは、「チャンスを得るための我慢」である。打開を諦めているなら忍耐ではなく、ただの耐久だ。…… そこに希望があるのが忍耐。希望が無いのは耐久でしかない。

ただ我慢するだけでは、気が滅入ってしまうだろうが、気晴らしの遊びに夢中になって、本来の目的……チャンスを得る為、を忘れては意味がない。反対に気が滅入って自暴自棄に陥るのも人生においては意味がない。

だがなによりも問題のなのは、希望を見失って、心があらぬ方向に向かうことか。 たとえば妄想、たとえば現実逃避、たとえば言い訳、たとえば快楽。……なにより、悪事に対する開き直り。

「良心の痛みをちょっと我慢すれば」……それは妥協、もしくは堕落であって忍耐とはいわない。


不安に関して

2006/06/16

2006年06月16日


不安を訴える人がいる……バカだな、と思う。だがそういえば、きっと相談者は開き直っていうだろう。

「バカだから、あんたに相談してやっているんだ。ありがたく思え」

なるほど、確かにその通りだ。他から必要とされることは、なるほど有難《ありがた》い。望んでもなかなか得られる評価ではないのだから。

だが、私のいわんとするところは意味が違う。犬を犬といって何になるか? 少なくともあまり利口そうには見えないだろう。同様に、バカをバカと呼んで何になるか? バカをバカ呼ばわりするのも、やはり、あまり利口そうには見えない話だ。

だが、私が、「バカだ!」というのは、バカがバカをしているからではなく、本来利口な人がバカをしているからなのだ。猫が犬の真似をしていたら、「犬だ! 犬だ!」といってもさして変では無かろう?

未だ起らぬ不幸に苦しむのが不安なのである。……本当に愚かな人なら、未だ起らぬ事などを不安に思う必要もない。気を回しすぎるから不安になるのだ。つまり、真の愚者なら不安には陥らない。

しかし、どうせ気を回すなら、どうして不安の先回りをしないのだろうか? つまり、安心できるような準備をしないのか。

どうせなら心配事を無くすために頭を使うべきではないか……なのに不安を募らせるために頭を使っている。その頭の使い方は不毛である。だから私は、バカだ、という。


綺麗に生きる

2006/06/15

2006年06月15日


善良な人が忌嫌う悪想念、たとえば……妬み、憎しみ、裏切り、詐術、陰謀……世の中、それら無くして廻ることはない。だから物事を考えるに当って、汚いことから避けて発想すべきではない。むろん、あなたに汚いことをせよ、というのではない。だが、目を瞑って歩けば、穴に落ちるし、目を瞑った人に手を引かれたら穴に落ちるだろう。

まして、汚物と宝物との違いを知らなければ、どうして汚物を掴まずにいられるのか、どうして宝を得ることが出来るのか。

綺麗に生きるというのは、「汚いものを知らない」ということではない。知らなければ汚れを落すことも出来ない。綺麗に生きるとは、汚いことに手を染めない、ということなのだ。

あなたも嫉妬する。だから公平に分けようとするが、分けて良いものと悪いものがある。

あなたの憎悪する。でもそれを表に出さなければ、昂奮はどこに行くのか?

あなたも怠けたい。ではいったいどこの手を抜くのか?

あなたも餓える。ではいったい、どうやって満たすのか?

――綺麗事を言えば矛盾が生じ、矛盾は実現し得ないが為にどこかにしわ寄せが生じる。

「私は善良です。私は優しく、親切です。」――矛盾なくそれを実現しているならばたいしたものだが、誰よりも善良であろうとし、誰よりも優しくあろうとし、誰よりも親切であろうとすれば、ますます矛盾が生じ、大きなしわ寄せがどこかに潜んでいる…… 又は明らかに存在する。

矛盾の存在に気が付かぬのか、隠しているのか、無視せよと強要するのか――


許されると考える傲慢さ

2006/06/11

2006年06月11日


おのおの己の罪深さを自覚しながら、それを改められず、いつか、神仏にでも出会ったときに、懺悔するか、開きなおればよいと高を括る。

イタズラをもくろむ子供ではあるまいし、それが大人の考えることか!

人は本当に業が深い。知らずに罪を犯すことよりも、知っても改めようとしないことこそが大罪である。

罪で裁かれるよりも、赦されると考える傲慢さが、導きの手を遠ざけていることに気が付かない。


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  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

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