2006年05月14日
方法論
どうも先祖供養について話題にすると、法事の形式といった方法論の違いに話題に傾きやすい。年に何回墓参に行くとか、仏壇に何を捧げているか、といったのは末節の話で、当事者がそれで満足し、特に怪異に襲われたり、不幸が続いたりしなければ、それで良いではないかと思う。
墓石や仏壇の向きに色々な意見もあるだろうが、霊媒の立場から見れば形式に拘るのは……いや、余計なことはいうまい。但し、一つ明確にしておきたいことがあるが、人が死ぬのは大安だけであろうか? 仏滅に死ぬ人は地獄に堕ちると思うのか? 友引に死んだ人は祟りを起して知人を道連れにするのか?……では人が生まれてくるときはどうか?
天が定めた人の死に、大安仏滅の別がないのに、人がそれを為す。……私は、暦よりも天の意志に耳を傾けたいと思う。
事例
Q「父の先妻の位牌を処分してから具合が悪くなった。数十万円を払って霊媒師に除霊をして貰ったが良くならなかった。どうしたら良いだろう?」
A「後妻の子であるあなたにとって、父の先妻とは縁が薄く、また、場合によってはあなたのお母様を苦しめたかも知れない人ですが、あなたが生まれた『家』を支えた一人が先妻なのです。あなたが気がついていないだけで、沢山の恩を受けているのです。その恩を仇で返すようなことをしてはバチが当ります。これは祟りではなくバチなのですから除霊などの効き目があるはずもないのです。縁あるお寺さんに頼んで位牌を作り直してご覧なさい。必ず良くなります。それでも良くならなければ改めてご相談下さい。」
相談者への返答の後、直ちにこの先妻に向けて祈りを捧げる。
『どうかお怒りをお鎮め下さい。彼も良いことを学んだと思います。これからも彼を御守下さい』……祟ったのではなく、叱ったのだ。叱られたのだから、悟った暁には礼をいわねばならない。でなければいくら位牌を作り直し、お祀りをしたところで許しては貰えまい。
その後、幾ばくもなく礼状を受取った。位牌を作り直した直後からだいぶ良くなったとのことだった。
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この相談事例は私にとって印象深いものだった。除霊一辺倒の無茶な霊媒とは一線を画したことで誇りも感じたし、無料心霊相談で、謝礼数十万円の霊媒が解決しない問題を解決したことにもやり甲斐を感じもした。
もっとも無料といったところで私が謝礼を受取っていないだけで、位牌の作り直しにはお寺さんへの謝礼が掛っているはずで、相談者にしてみれば完全無料とはいかない。まあ、相談者にしてみればこれで解決すれば安いものだろう。
また、私は、心霊相談が全て無料であるべきだ、とは思っていないことも、ここに明記する。下品な例えであるが、安酒屋に集まる酔っぱらいは安上がりに酔うことばかりを考えて、人の懐をあてにする者も多い。…… 働けなくて礼金が払えない人ならいざ知らず、他人の手間暇を必要とすることには、きちんと謝礼を用意する気持ちを持たねば、その無思慮さ、または強欲さから別な苦労をすると思う。
まあ、心霊相談はかくあるべきだという話題は別な機会として、先祖供養について考えてみよう。
考察
まず、上記の例であるが、先祖供養は血族中の尊属へのお祀りを意味せず、血族を支えた恩人への感謝が大切であることの傍証である。… …実証といわないのは霊媒の主観に依存した証明だからだ。ところがどうも、先祖供養という言葉が惑わせるのか、先祖を拝むことを先祖供養と勘違いしている。
本来の仏教行事としてみても、先祖供養というのは、死んで地獄に堕ちた故人を救うため、故人の代りに善事を行うのが目的の筈。(目連尊者が、地獄で苦しんでいる母親を救いたいと仏陀に申し出たところ、目連一人の力では救えぬから、十方の僧に供養せよ、といわれて始まった)
ところがなぜか、僧に供養(この場合は謝礼)をする代りに、死者に供物を上げることを指して先祖供養と化している。挙げ句に、「先祖供養なんてばからしい、いっそ子孫供養して貰いたいモンだ」という暴言まで聞かれる始末。
誤解を元に物事を判断すれば、間違った結果が出るのは当たり前だが、前提、もしくは、結論のおかしさに気がついたならば、どこかに間違いがあると疑ってみるべきであろう。疑問を持つことをしなければ騙されやすくなるのは仕方がない。
確かに、日本(東アジア全般か)では、祖先は一番身近な「神(仏)」でもある。神であるから供物を捧げることは当たり前に感じる。… …だが、心霊学的にいえば、高級霊界に登った霊魂に物質的な供物は本来不用である。むしろ物質的な供物をすれば、物欲を断ち切れない低級霊が集まりやすい。
高級霊からの引き上げを狙って、ワイロ(供物)を用意し、かえってその心根を嫌われる一方で、低級霊に好かれ、集めた挙げ句、苦労が続くと嘆くのはナンセンスだ。
霊界が先祖供養を顕幽両界の交流・親睦会と見なして、物欲に集まる低級霊を、高級霊界に引き上げるチャンスとして利用する場合もあるが、そこまでの指導力を発揮できる高級祖霊を背後に持つ人がどれだけいるかは不明だ。
ましてや、祖先の霊達が、死後の修行の結果(死んでからだって勉強や修行は出来る)、高級霊界に上がっていったとしても、生前に罪を犯し、また他に迷惑を掛けていれば、償いたいという気持ちもあるはず。別ないい方をすれば「神(仏)」として祀られることが後ろめたいともいえる。
祖先の霊の代りに子孫が償うこと、少なくとも償いの意志を持つことは、祖霊の負担を減らす事にも繋がる。それが間接的に自分への報いとなることを考えてみるべきだ。
そう、供物を捧げるべきは低級霊、そういう表現が悪ければ、彷徨う霊魂が救われるチャンスを作ることが大切なのである。
「子孫供養をしてくれ!」……というのは、足手まとい(低級霊)を省みることもなく、ただ上ばかりを見て「引き上げてくれ!」と叫ぶのに似ている。と同時に、「どうして助けてくれないのか!」と、恨み言も叫んでいるのだ。
だが、引き上げを望むなら、同時に身軽になる努力も必要であろう。一方だけを見ていると、そういう勘違いをする。見捨てられているのでも、祖先に力がないのでもない。ただ、自分自身が難しくしているのである。
まず、自分の重荷になっている、低級霊を引き上げさせ、または、追い立てさせ、身軽になって始めて自分の番が来る。…… 問題解決には手順があるのだ。
そして、先祖供養に供物を整えるのは、低級霊を引き上げさせる手段ともなる。そこに自分自身が不平不満を持ち込み、祖霊の邪魔をするから自身が救われない。
一体、人が求めるべきは、良き結果か、好む手段か? 楽だからといって下り坂ばかりを選んで歩けば、どうあっても山頂には立てない。 ――楽な手段を望んで良くない結果を得るなんてナンセンスだ。
結論――多くの人の先祖供養は、手段と目的をはき違えて、かえって害を受けている。先祖にゴマをするよりも、先祖の残した悪業・悪因縁の解消に努める方が良い。
自助努力としての先祖供養
2006年05月15日
遠回しであるが、以下も先祖供養に関連する話である。
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ここ数日、メールのログを読み返していた。中の一通に目がとまる。
「思いこみを廃して冷静になれ」との私の回答に対して、相談者の「どうせ見えていないんだろう」と返事だった。
その返事こそが、私がちゃんと見えていた証拠なのだと今でも思う。
私が無料で心霊相談をやっていることは、該当相談者の関知するところではあるまいが、たとえ気に入らぬ回答であろうとも、相手の時間を費やしたことに礼の一つもいうのが常識の筈。……そこまで精神的に追いつめられているとしても、だ。いや、追いつめられていると看取ったからこそ、冷静さを求めたのだ。
むろん、冷静になれといわれて、冷静になれるなら人生はどんなに楽であろうか。私も彼の相談者が冷静になれるなどと信じてはいない。だが、当人が心を静めようとしているか、していないかは心霊相談を受ける上で重大な違いである。
(可能であるとして……と言葉を濁す)当人の意に沿わぬ事を強いることが果たして人道に適うであろうか? それが守護霊とか、高級神霊であったとしてもだ。……当人の意志が大切なのである。
具体的は方法については、比喩で説明したい。たとえば、騒音が酷くてノイローゼになりかけた人がいるとする。「気にするな!」と周囲からいわれ、また、当人も懸命(?)に気にしないように努力しても……努力するからかえって音が耳についてしまうだろう。
そういう時には、むしろ別な音に注意を向けさせた方が良い。好きな音楽を流すのも良し、気の合う人と会話をするのでも良いだろう。他の音、それも気障りでない音に集中すれば、騒音は気にならなくなるものだ。
だからたとえば霊障で頭の中がうるさくなっている人なら、心静かな善霊にしばらく語りかけて貰ったりすることで頭が静かになるのである。……この手法で成功した事例もあるが、事例にならない場合もある。
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そもそも、苦しいから助けを求めているのに、その回答が「落ち着け」というものなら、かえって腹が立つ……そう感じる人もいるだろう。いや、実際その通り、それが人間の生理的な反応であろうと思う。
だが霊媒である私は、霊障を抱えている人に四六時中ついて静かに話しかけることなど出来ないことだ。そんな手間が掛ることを無料でやったら、私は生活に困窮してしまうだろう。当然、霊界の助けを求めるわけだが……霊にも自由意志があり、助ける相手を選ぶのである。それを私が強いることは出来ないし、したいとも思わない。何しろ私だって不快なメールを受けたのだ。それでも見捨てずに助けたいと思うのも私の自由ではあるが、それを他者に強いる権利はない。
つまり、助ける手段があっても、その手段が適用できるとは限らないし、適用できるか出来ないかの差は、霊媒よりも相談者自身の選択するところなのだ。そして……特にこれを明記したい。見ず知らずの霊が助けようとしないのは当然としても、身内の霊、相談者自身の祖先の霊は何をやっているのだろうか、ということだ。
私はいつも不思議に思うのだが、祟りとかを恐れる人は、自分を愛してくれている尊属を持たないのであろうか。自分には霊に対抗する力が無くても、自分の祖父母ならば……祖父母が無理でも、祖父母が神様・仏様の助けを連れてくるとは期待しないのであろうか? まあ、それは個人の都合であろうが……我が師は、霊感商法の被害者を指して「仏事をケチるから霊感詐欺に騙される」と看破していた。祖先の助けを期待できないのは、自分が祖先を大切にしていないからだというのだ。
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私は心霊相談に謝礼を強いたことはない。しつこく出張鑑定を求めてきた人に交通費と会社の休業補償分を提示したことはあるが……だが別に義人ぶっているつもりもない。人に善事を施せば、功徳か福徳で報われるものだからだ。功徳とは、つまり経験が自らを救うことを意味し、福徳とは、天と人の善意を得られることを意味する。霊媒としてみたら人間が差し出す報酬は喰っていける程度でよい。贅沢をしたければ悩める人の謝礼をあてにするよりは、汗して稼いだ方が気が楽であるし(その選択は充分に贅沢ではあるが)、どうせあの世や来世に持ち越せないのだ。地上の年金額程度は、天に預金を作っておきたいものである。
たとえば問題が解決しても相談者が礼状の一つも寄こさなかったとしても、経験を積むことは私の利でもあるし、大抵の場合は相手の祖霊等が私のために相応に働いてくれる。私は充分に元を取っているのだ。が、祖先の霊ですら助けようとしていない人に手を出すのは、私も躊躇するし、その打算を私は恥じない。
第一、他人に手間をとらせて罵る人では、一つの霊障を解決しても、終わりとはならないのではないか。まず礼儀を正さなければ、なかなか人の善意を動かして、自らの味方にすることは出来まいと思う。
ここまでいうのは酷であろうが、泣いて助けが得られるのは、赤子が親に期待するべき事で、そんなささやかな期待さえも暴力で……赤ん坊の泣声がうるさいからと死に至らしめる親が散見されるのである。他人ならばなお危ういと気がつかぬ人の何と多いことか。