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隠れ悪魔信仰者

2006/05/16

2006年05月16日

関連事項: 不安からどう逃れるか


世間で悪魔崇拝といえば、富貴などの利益を求めて悪魔を信心することを指すだろう。だが、利益を求めて神を信心するのと、どう違うというのだろう? 信仰対象(ラベル)が違っても中身(御利益追求)は同じではないか。むろん、宗教儀式にも差があるだろうが、手段が違っても中身はやはり同じだ。

神の対語は悪魔であろうが、信仰の対語は無信仰であって、悪魔信仰ではない。……その上で思う。

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「不安から救って欲しい」という相談を受ける。その不安とは何か。大雑把に言えば、自分の将来が不幸であると信じることであろう。その直覚的な解消策は、自分の将来が幸福であると信じることであり、端的に表現すれば自信を持つことである。

そもそも、不安というのはいまだ起こらぬ不幸が原因なのである。具体的な事柄ならば解決策も予防策もあろうが、起こらぬことや予防手段の無い事柄では、手の打ちようが無い。もっと自分を信じ、また、自分を信じるだけでは足りないのであれば、後は、神仏の救いを信じるぐらいしか手はあるまい。 それゆえに神仏に心を委ねる「信仰は心の安らぎ」といわれるが、ならば不安を棄てられぬのは、悪魔に心囚われている状況とも表現できよう。

自分を幸せにしようとする不可視、不可触な存在や可能性を信じず、でも、自分を不幸にしようとする不可視、不可触な存在や可能性を信じているというのだから、当事者にとっては真剣なことでも、第三者から見ればなにやらおかしな雰囲気である。神の存在を否定しながら、悪魔の存在を肯定しているようなものだ。

そう、私は、「不安を棄てられぬ」人を、神を信じず、悪魔を信じている者と見なしている。

おそらく、不安に陥るのには、それなりに必然があるのだろうと思う。……だが何が当事者に災難をもたらせているのだろうか? それは果たして神仏や悪魔が為らしめるものであるのか。

そして何を信じたいのだろうか? 自身で不安と決別する内的努力をせずに、外に助けを求めるとしたら、その依存心の強さが問題である。

信じるから騙される……そのとおり。だが、自分で為すべきことをしっかりと把握している人なら、騙されたとしても大きな害を受け難い。ただ自分の為すべきことを他に委ねる人が騙されて大きな損失を蒙るのである。

「不安こそが、真の悪魔信仰、悪魔の手の内にあって抜け出せなくなっている」と、私が見なす所以である。

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ただし、以上は直接的、というより、短絡的な不安に対する対処策であって、相談者自身がある程度の柔軟性を持っていれば、間接的な対処策を提案することもできよう。

たとえば、酒を飲んで陽気になる事例を誰もが知っているだろう。不安というのは心に現れる現象ではあるが、同時に身体的な現象でもある。……ようするに、病的要因からくる不安もある。いや、病的要因と精神的要因の相乗効果の結果、ということもあるだろう。このような場合は霊媒に相談するよりも医者に相談すべきである。霊的問題を霊媒に頼るのは他に選択肢も無かろうが、霊媒をよろずなんでも相談の便利屋扱いすることは、現代人の処世術としてはいささか貧しくは無いか。

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霊障の結果としての不安もある。だがそれを私は、悪魔を信じて神を信じない、と表現した。進んで神(仏)を信じ、悪魔を斥ける覚悟なくして、ガタガタ震えるだけで助けてもらおうというのは、少なくとも私は、虫の良い考えだと思う。

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なお、不安に関する相談事例中には、扱い難い微妙な問題がある。それが「寂しさゆえの不安」で、伴侶がいない、もしくは、伴侶がいても精神的な支えにならない、という場合だ。これは救い難い。少なくともメールによる相談では一歩も解決に近づかず、下手に相談者に会えば感情がこじれて面倒きわまる。……相談を断っても必ず後を引く。

そもそも寂しさがつらく感じるのはヒマだからである。そしてヒマ人を怒らせるとどうなるか……とにかく、しつこい。

また、愚者は不安に陥らぬ……不安とはいまだ起こらぬことをいろいろと考えることであって、頭の良い人ほどより強く不安を感じ得るものだ。しかも寂しさを悩みとする人には、自分への理解を強く求める一方で、他者を理解しようとする努力が見られない。……頭が良くてわがままな人が敵意を持ったらどうなるか。とんでもない意地悪に変わるのである。

いや、明記しなければなるまい。相談者の誰もが意地悪に変わったわけではない。ただ意地悪になるか、ならぬかの差が、相談者の人間性にあるのか、それとも断り方、もしくは、断るタイミングにあるのかは、いささか結論を出せずにいる。

「そんな厄介事をどうして事前に見抜けないのだ」という意見もあろう。実はそこがポイントである。最初から、「不安」、もしくは、「寂しさ」が相談内容であるなら、解決する場合もあり……相談者との信頼関係が確立せずに、相談を打ち切る場合もあり、いずれにしても、あとくされが生じた事が無い。厄介が起こるのは、いくつか相談が解決した後、次の相談事として持ち込まれた場合なのだ。

先の先を読んで対処することも可能かもしれない。だが、当事者も第三者にもわかるような明白な理由も無く、悩める人を突き放すのは社会的にもなかなか難しいものだ。ならば被害者の立場に甘んじる方が被害が少なかろう。

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さて、しつこいようだが……不安とは、神を信じずに悪魔を信じるようなものだ。形式として、悪魔を崇拝せず、神を崇拝していたとしても、信じているのが悪魔(災難)で、神(幸運)ではない。そして不安が極まると、悪魔の如き意地悪さを発揮しかねない。当人は正当防衛のつもりで。……すると、仕方なく悪魔を信じているのか、必然的に悪魔を信じているのか、私には後者に思えてしまう。少なくとも、愛より力に重きを置いているのだろう。


先祖供養の再考

2006/05/14

2006年05月14日

方法論

どうも先祖供養について話題にすると、法事の形式といった方法論の違いに話題に傾きやすい。年に何回墓参に行くとか、仏壇に何を捧げているか、といったのは末節の話で、当事者がそれで満足し、特に怪異に襲われたり、不幸が続いたりしなければ、それで良いではないかと思う。

墓石や仏壇の向きに色々な意見もあるだろうが、霊媒の立場から見れば形式に拘るのは……いや、余計なことはいうまい。但し、一つ明確にしておきたいことがあるが、人が死ぬのは大安だけであろうか? 仏滅に死ぬ人は地獄に堕ちると思うのか? 友引に死んだ人は祟りを起して知人を道連れにするのか?……では人が生まれてくるときはどうか?

天が定めた人の死に、大安仏滅の別がないのに、人がそれを為す。……私は、暦よりも天の意志に耳を傾けたいと思う。

 

事例

Q「父の先妻の位牌を処分してから具合が悪くなった。数十万円を払って霊媒師に除霊をして貰ったが良くならなかった。どうしたら良いだろう?」

A「後妻の子であるあなたにとって、父の先妻とは縁が薄く、また、場合によってはあなたのお母様を苦しめたかも知れない人ですが、あなたが生まれた『家』を支えた一人が先妻なのです。あなたが気がついていないだけで、沢山の恩を受けているのです。その恩を仇で返すようなことをしてはバチが当ります。これは祟りではなくバチなのですから除霊などの効き目があるはずもないのです。縁あるお寺さんに頼んで位牌を作り直してご覧なさい。必ず良くなります。それでも良くならなければ改めてご相談下さい。」

相談者への返答の後、直ちにこの先妻に向けて祈りを捧げる。

『どうかお怒りをお鎮め下さい。彼も良いことを学んだと思います。これからも彼を御守下さい』……祟ったのではなく、叱ったのだ。叱られたのだから、悟った暁には礼をいわねばならない。でなければいくら位牌を作り直し、お祀りをしたところで許しては貰えまい。

その後、幾ばくもなく礼状を受取った。位牌を作り直した直後からだいぶ良くなったとのことだった。

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この相談事例は私にとって印象深いものだった。除霊一辺倒の無茶な霊媒とは一線を画したことで誇りも感じたし、無料心霊相談で、謝礼数十万円の霊媒が解決しない問題を解決したことにもやり甲斐を感じもした。

もっとも無料といったところで私が謝礼を受取っていないだけで、位牌の作り直しにはお寺さんへの謝礼が掛っているはずで、相談者にしてみれば完全無料とはいかない。まあ、相談者にしてみればこれで解決すれば安いものだろう。

また、私は、心霊相談が全て無料であるべきだ、とは思っていないことも、ここに明記する。下品な例えであるが、安酒屋に集まる酔っぱらいは安上がりに酔うことばかりを考えて、人の懐をあてにする者も多い。…… 働けなくて礼金が払えない人ならいざ知らず、他人の手間暇を必要とすることには、きちんと謝礼を用意する気持ちを持たねば、その無思慮さ、または強欲さから別な苦労をすると思う。

まあ、心霊相談はかくあるべきだという話題は別な機会として、先祖供養について考えてみよう。

考察

まず、上記の例であるが、先祖供養は血族中の尊属へのお祀りを意味せず、血族を支えた恩人への感謝が大切であることの傍証である。… …実証といわないのは霊媒の主観に依存した証明だからだ。ところがどうも、先祖供養という言葉が惑わせるのか、先祖を拝むことを先祖供養と勘違いしている。

本来の仏教行事としてみても、先祖供養というのは、死んで地獄に堕ちた故人を救うため、故人の代りに善事を行うのが目的の筈。(目連尊者が、地獄で苦しんでいる母親を救いたいと仏陀に申し出たところ、目連一人の力では救えぬから、十方の僧に供養せよ、といわれて始まった)

ところがなぜか、僧に供養(この場合は謝礼)をする代りに、死者に供物を上げることを指して先祖供養と化している。挙げ句に、「先祖供養なんてばからしい、いっそ子孫供養して貰いたいモンだ」という暴言まで聞かれる始末。

誤解を元に物事を判断すれば、間違った結果が出るのは当たり前だが、前提、もしくは、結論のおかしさに気がついたならば、どこかに間違いがあると疑ってみるべきであろう。疑問を持つことをしなければ騙されやすくなるのは仕方がない。

確かに、日本(東アジア全般か)では、祖先は一番身近な「神(仏)」でもある。神であるから供物を捧げることは当たり前に感じる。… …だが、心霊学的にいえば、高級霊界に登った霊魂に物質的な供物は本来不用である。むしろ物質的な供物をすれば、物欲を断ち切れない低級霊が集まりやすい。

高級霊からの引き上げを狙って、ワイロ(供物)を用意し、かえってその心根を嫌われる一方で、低級霊に好かれ、集めた挙げ句、苦労が続くと嘆くのはナンセンスだ。

霊界が先祖供養を顕幽両界の交流・親睦会と見なして、物欲に集まる低級霊を、高級霊界に引き上げるチャンスとして利用する場合もあるが、そこまでの指導力を発揮できる高級祖霊を背後に持つ人がどれだけいるかは不明だ。

ましてや、祖先の霊達が、死後の修行の結果(死んでからだって勉強や修行は出来る)、高級霊界に上がっていったとしても、生前に罪を犯し、また他に迷惑を掛けていれば、償いたいという気持ちもあるはず。別ないい方をすれば「神(仏)」として祀られることが後ろめたいともいえる。

祖先の霊の代りに子孫が償うこと、少なくとも償いの意志を持つことは、祖霊の負担を減らす事にも繋がる。それが間接的に自分への報いとなることを考えてみるべきだ。

そう、供物を捧げるべきは低級霊、そういう表現が悪ければ、彷徨う霊魂が救われるチャンスを作ることが大切なのである。
「子孫供養をしてくれ!」……というのは、足手まとい(低級霊)を省みることもなく、ただ上ばかりを見て「引き上げてくれ!」と叫ぶのに似ている。と同時に、「どうして助けてくれないのか!」と、恨み言も叫んでいるのだ。

だが、引き上げを望むなら、同時に身軽になる努力も必要であろう。一方だけを見ていると、そういう勘違いをする。見捨てられているのでも、祖先に力がないのでもない。ただ、自分自身が難しくしているのである。

まず、自分の重荷になっている、低級霊を引き上げさせ、または、追い立てさせ、身軽になって始めて自分の番が来る。…… 問題解決には手順があるのだ。

そして、先祖供養に供物を整えるのは、低級霊を引き上げさせる手段ともなる。そこに自分自身が不平不満を持ち込み、祖霊の邪魔をするから自身が救われない。

一体、人が求めるべきは、良き結果か、好む手段か? 楽だからといって下り坂ばかりを選んで歩けば、どうあっても山頂には立てない。 ――楽な手段を望んで良くない結果を得るなんてナンセンスだ。

結論――多くの人の先祖供養は、手段と目的をはき違えて、かえって害を受けている。先祖にゴマをするよりも、先祖の残した悪業・悪因縁の解消に努める方が良い。


自助努力としての先祖供養

2006年05月15日

遠回しであるが、以下も先祖供養に関連する話である。

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ここ数日、メールのログを読み返していた。中の一通に目がとまる。

「思いこみを廃して冷静になれ」との私の回答に対して、相談者の「どうせ見えていないんだろう」と返事だった。

その返事こそが、私がちゃんと見えていた証拠なのだと今でも思う。

私が無料で心霊相談をやっていることは、該当相談者の関知するところではあるまいが、たとえ気に入らぬ回答であろうとも、相手の時間を費やしたことに礼の一つもいうのが常識の筈。……そこまで精神的に追いつめられているとしても、だ。いや、追いつめられていると看取ったからこそ、冷静さを求めたのだ。

むろん、冷静になれといわれて、冷静になれるなら人生はどんなに楽であろうか。私も彼の相談者が冷静になれるなどと信じてはいない。だが、当人が心を静めようとしているか、していないかは心霊相談を受ける上で重大な違いである。

(可能であるとして……と言葉を濁す)当人の意に沿わぬ事を強いることが果たして人道に適うであろうか? それが守護霊とか、高級神霊であったとしてもだ。……当人の意志が大切なのである。

具体的は方法については、比喩で説明したい。たとえば、騒音が酷くてノイローゼになりかけた人がいるとする。「気にするな!」と周囲からいわれ、また、当人も懸命(?)に気にしないように努力しても……努力するからかえって音が耳についてしまうだろう。

そういう時には、むしろ別な音に注意を向けさせた方が良い。好きな音楽を流すのも良し、気の合う人と会話をするのでも良いだろう。他の音、それも気障りでない音に集中すれば、騒音は気にならなくなるものだ。

だからたとえば霊障で頭の中がうるさくなっている人なら、心静かな善霊にしばらく語りかけて貰ったりすることで頭が静かになるのである。……この手法で成功した事例もあるが、事例にならない場合もある。

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そもそも、苦しいから助けを求めているのに、その回答が「落ち着け」というものなら、かえって腹が立つ……そう感じる人もいるだろう。いや、実際その通り、それが人間の生理的な反応であろうと思う。

だが霊媒である私は、霊障を抱えている人に四六時中ついて静かに話しかけることなど出来ないことだ。そんな手間が掛ることを無料でやったら、私は生活に困窮してしまうだろう。当然、霊界の助けを求めるわけだが……霊にも自由意志があり、助ける相手を選ぶのである。それを私が強いることは出来ないし、したいとも思わない。何しろ私だって不快なメールを受けたのだ。それでも見捨てずに助けたいと思うのも私の自由ではあるが、それを他者に強いる権利はない。

つまり、助ける手段があっても、その手段が適用できるとは限らないし、適用できるか出来ないかの差は、霊媒よりも相談者自身の選択するところなのだ。そして……特にこれを明記したい。見ず知らずの霊が助けようとしないのは当然としても、身内の霊、相談者自身の祖先の霊は何をやっているのだろうか、ということだ。

私はいつも不思議に思うのだが、祟りとかを恐れる人は、自分を愛してくれている尊属を持たないのであろうか。自分には霊に対抗する力が無くても、自分の祖父母ならば……祖父母が無理でも、祖父母が神様・仏様の助けを連れてくるとは期待しないのであろうか? まあ、それは個人の都合であろうが……我が師は、霊感商法の被害者を指して「仏事をケチるから霊感詐欺に騙される」と看破していた。祖先の助けを期待できないのは、自分が祖先を大切にしていないからだというのだ。

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私は心霊相談に謝礼を強いたことはない。しつこく出張鑑定を求めてきた人に交通費と会社の休業補償分を提示したことはあるが……だが別に義人ぶっているつもりもない。人に善事を施せば、功徳か福徳で報われるものだからだ。功徳とは、つまり経験が自らを救うことを意味し、福徳とは、天と人の善意を得られることを意味する。霊媒としてみたら人間が差し出す報酬は喰っていける程度でよい。贅沢をしたければ悩める人の謝礼をあてにするよりは、汗して稼いだ方が気が楽であるし(その選択は充分に贅沢ではあるが)、どうせあの世や来世に持ち越せないのだ。地上の年金額程度は、天に預金を作っておきたいものである。

たとえば問題が解決しても相談者が礼状の一つも寄こさなかったとしても、経験を積むことは私の利でもあるし、大抵の場合は相手の祖霊等が私のために相応に働いてくれる。私は充分に元を取っているのだ。が、祖先の霊ですら助けようとしていない人に手を出すのは、私も躊躇するし、その打算を私は恥じない。

第一、他人に手間をとらせて罵る人では、一つの霊障を解決しても、終わりとはならないのではないか。まず礼儀を正さなければ、なかなか人の善意を動かして、自らの味方にすることは出来まいと思う。

ここまでいうのは酷であろうが、泣いて助けが得られるのは、赤子が親に期待するべき事で、そんなささやかな期待さえも暴力で……赤ん坊の泣声がうるさいからと死に至らしめる親が散見されるのである。他人ならばなお危ういと気がつかぬ人の何と多いことか。

類魂説

2006/05/14

2006年05月14日

1, 類魂説について

人間は孤独に耐えられません。必然的に何らかの集団に帰属したがるわけで、人が三人寄れば派閥が出来るといわれるぐらいです。すると当然、死後の個性、いわゆる「霊魂」となっても人は何かに帰属せずには居られぬ筈なのは、直覚する霊媒ならずとも容易に想像が付くでしょう。

ところで人間は、帰属する集団に感化されやすいという性質があります。「郷に入っては郷に従え」等という助言が必要なひねくれ者も皆無ではありませんが、「みんながやっているから良いと思った」的な言訳が当り前に使われもいたします。

集団暴行事件や模倣犯、ゴミのポイ捨てが塵も積って山となる……悪い方向ばかりではなく、「孟母三遷」……儒家の孟子が幼少の頃、その母親が子供によい環境を求めて三回引越しをしたという……良い方向性にも環境が影響いたします。

また極端な話ですが、素晴しい霊性の持主が快楽主義的な人々ばかりの集団にいたら、その霊性の高さを(相対的にみて)偽善でうるさいと見なし、周囲との摩擦で苦労はしてもその霊性の高さが誰をも幸せにしないことでしょう。

「個々が集団を作ると同時に、集団が個性を育て、また個性に干渉をしていく」

人間、そして霊魂は帰属する集団に強い影響を受ける。……すると、個々の霊魂だけの研究をすることは単純であっても実用性に薄いことになります。
つまり実用的な心霊研究には、集りとしての霊魂の振舞を研究しなければなりません。その研究テーマの一つに類魂《グループソウル》説があります。

しかし、類魂説に取組む前にはっきりさせるべき事があります。人は一グループのみに属するわけではありません。性質の異なる複数のグループに属し、そのグループも階層をなすのです。たとえば個人は家族に属し、家族は地域社会や親族・血族という異なるグループに同時に属します。また個人は、会社や学校に属し、同時に趣味のサークルなどにも属します。霊魂も同様に、一の霊が、一グループのみに属することはなく、分析の切口に応じて、様々な形態のグループに属することが見て取れます。一体、類魂説が扱っているのはどの切口から見たグループであるのか……主観的要素の強い霊媒による調査では、視点毎に分類することが難しく、それが混乱を生み出しています。(混乱していることを知らずに難しいと考えているのは、理解の糸口がつかめていないということです)

ですから、類魂説を論じるにも、類魂説を読むにも分析の切口が何所にあるかを把握すべきです。

 

2, 視点の整理(類魂説)

類魂説を論じる前に、以下なる視点があるかを整理してみます。以下の分類は私のオリジナルであって、その独創性を計る以前に、個々の用語が他の心霊研究家、他の霊媒と共通であるかどうかに注意を払ってください。心霊用語というのはおのおの勝手に解釈し、勝手に造語してどれが正しいのか判然としないことが多いのです。私が使っている用語も私が正しいと認識している、または、こうあるべきだろうという意図から使っているにすぎません。

集団の形成要素としては、横の繋がり、そして、縦の繋がりが主なる力です。

厳密に言えば、斜めや、捻れといった、あまり素直でない関係も存在します。たとえばライバルなどは、友好的ではないが尊敬し得る相手ということで、斜めの繋がりということが出来るでしょうし、似ているから嫌う……近親憎悪などは、ねじれと表現し得ますが、いずれにせよこのような関係は一作用にはなり得ても、恒久的な集団にはなり得ません。

従って、霊魂が形作る集団としては概ね、横の繋がり縦の繋がりを二大別とし、それぞれの構成員の特質からさらに二分別する、合計四分別を、まずは基本として捉えると事を提案いたします。以下、同種同類の横の繋がりとして、「類霊団」「群魂」、階層の異なる縦の繋がりとして、指導を目的とする集団「守護霊団」と、因縁解消のための小グループ「類魂」の四つについて解説していきます。

 

3, 横方向の絆(類霊団と群魂)

マイヤースからの霊界通信「永遠の大道」等で語られるグループソウルは、同種の霊魂の繋がりということで、私はこれを横方向の絆、と表現します。ただ、グループソウルという表現はおおざっぱに過ぎて視点の違いから生じる混乱を助長するものではないか、と思われるのです。

類似性を持った集団は確かにグループですが、類似性の中にも共通の目的がある場合は、むしろチームといった方が適切でしょう。漢字的には「団」ですね。また、目的意識を持つには理性的な性質が不可欠ですから、衝動的性質を暗示する魂(たとえば魂の叫びとは表現するが、霊の叫びとはいわない)よりも、霊という字を充てるのが適当に思えますので、私はこれを「類霊団」と表現します。対して無目的の集団であれば侮蔑的ですが「群れ」の字をあてて「群魂」と表現しています。

おのおのの思念こそが風景を作り出すのが死後の世界ですから、死後の生活を研究対象にするなら、それは「類霊団の研究・観察」と称して差支えありません。

対して、群魂は、衝動性が支配する世界……俗にいう地獄などの研究と同一でしょうし、悪霊・低級霊の憑依なども群魂の性質の一部です。おおざっぱにいえば、後ろめたいことには仲間が欲しいもの……なのです。

集中力の高め方

2006/05/12

2006年05月12日


Q「集中力の高め方について助言を頂きたい」

無駄を省く――無心になろうとして雑念が生じるのと、集中しようとして雑念が生じるのは同じ雑念でも似て非なる。集中しようとして雑念が生じるのは、疲労もあるし、懸念もある。霊障の場合もあるだろう。このようなときにはいきなり集中するのではなく、まず無心を目指して雑念をわき上がらせ、その雑念の元を把握してから集中するようにする。

そもそも集中とは何か、自我の本源にすべてを委ねることである。集中すべき時に雑念が生じるのは、自我の本源がそれを拒絶しているのである。その原因を取除かなければ集中は出来ない。それは集中することに危険があるからで無理をして良いことはない。しばし試みて、集中できないときには、無にかえって原因を探ることである。

Q「それがなぜ無駄を省くという要点につながるのでしょうか?」

なぜ集中する必要があるのか?――自己の本源を主体に生きているなら、ことさらに集中する必要はない。状況に合わせて緩急自在、ゆったりと過しながらも無駄なく素早く片付けられるもの。…… それをあえて上手に集中したいという。心に無駄があり、無駄を棄てられぬからそういう滑稽な要望が生じる。

Q「つまりは普段の心がけが大切であると……」

日々の精神統一で、一体、何を解決しているのか。心の煩いを忘れて楽だといっているだけか。苦悩を棚に上げるのは解決の一手段でなければならない。


無力と嘆くな

2006/05/09

2006年05月09日


春が来れば、花咲く花に、必要なのは春の至ること。

人には皆、活力がある。その活力を生かさず生きて、無力であると思い悩む。

無力なのではなく、無知なのである。……時期に恵まれなければどんな才能も発揮は出来ない。


疑えばきりがない。

2006/05/09

2006年05月09日


Q「この者は救われないと感じますが、その理由がうまく理解できません。」

自分の事が自分で出来る。と、なれば一人前のつもりで居るが、それでは、手のかからなくなった子供に過ぎない。子を養い、老父母に報いて、ようやく真の成人と呼べるのだ。成人のなんたるかも知らずに、他人に迷惑を掛けぬとは反抗期の子供のいうことである。他人の築いた基礎の上に安住できることに感謝することさえも知らぬなら、その愚かさは甚だしい。……感謝すべき事を知らずにいるものが、どうして世を富ませることが出来るのか、世の中が貧しいのに、どうして困窮する我身に救いが来ると信じることが出来るのか。

他人の世話をして当り前……そうあってこそ、困った時に助けが期待できるというものだ。

正しい世の中を支える一人になろうと努力せずに、幼稚・未熟な価値観をそのままにして、苦労・不幸なき人生を求めることが、そもそも考え違いというべきだ。

稔りの得られぬ半端仕事ばかりで日々を送れば、人生が貧しくならぬはずもない。……助けてくれたら恩返しをするなどと空手形を乱発しても、稔らぬ半端仕事しか出来ぬ者がどうして恩返しが出来ようか。礼の有無を問題にしているのではない。その見通しの暗さ、愚かさをして、救いの手を躊躇さしめるのだ。

足りぬならば補えるが、ないのであれば養わねばならない。まして、何度も約束を踏倒している者、すなわち嘘つきを救うのは道義的に難しい。

救われる為に努力しているのであろうが、やっていることは救われぬ努力である。……がたがた言わず、小さな事でよいから稔りのある努力を始めることだ。そうしてこそ救われるための準備が出来たといえるのだから。


頭の整理

2006/05/09

2006年05月09日


頭がもやもやしている。すると、盧氏が語りかけてきた。

掃除――心の掃除をせよ。あれこれと悩んで、答が見つからぬという。それはちょうど、部屋を片付けずに箱の中の整理をするようなものだ。箱の中身と、部屋の荷物との区別が付かなくなるのである。

悩み事の答を求めるのにも、日常のあれやこれやを棚上げせずにいるから、つい、つい、本題からずれてしまう。あれこれとたくさんの本題を持つから、本題を一つも解決できない。そもそも本題とは、主たる問題の筈なのだが すべての問題を捨去ってから取組め……というのではない。いや、そういう表現を使うことは間違いではないが、重要な事は、一つの問題を取組むときには他の問題はよそに片付けておく事である。そうやって一つずつ片付けていけば、片付かない問題はない。

Q「それぞれの問題の答が矛盾している場合があると思いますが?」

恐怖――失敗するのでは、答を得られないのではという恐怖が、あなたの邪魔をしているのだ。それぞれの問題の矛盾が邪魔しているわけではない。なんとなれば、その時々に於て異なる最善があることに何の疑問があろうか? 対面を保てなくなることを恐れるなら、よく考えるべきである。その時々に於て異なる最善があることに気が付かぬ者の評価など、取るに足りない。

Q「最終的な答は、独立して考えるべき物だと?」

心が軽くなれば、それだけ広く物事を考えられる。悩みの過程での答が、最終的な答えにつながるなどというふうに自分を縛るから、視野が狭くなる。

Q「すべては真理を得るための過程に過ぎない?」

いや、己が、迷い深き者であることを自覚するための試練に過ぎない。地上での迷いは何ら過程ではなく迷いを捨去った後にこそ真理を得るための過程がある。だがそこに至まではまだまだ悩まなければなるまい。

Q「直ちには悟れぬと?」

自らの迷いを解くことが大切なのではなく、様々な迷いを解けることが大切なのだ。……慌てなくても真理は逃げないが、経験すべき事柄は、時と共に移ろうのである。苦しめ、というのではなく自信を育てることをせよ。真理は逃げない。安易に悟った気分を楽しみ、驕って転んではつまらぬからな。


相談の意義

2006/05/09

2006年05月09日


過去の選択の結果が現在につながっている。もしも「今」が意にそぐわぬものだとしたら、きっと以前の選択が間違っていたのだろう。……その選択は誰がしたのか?

思うままの結果を出すために必要なのは、必要な選択をすることだ……思うままの選択をすることではない。 ……上り坂が億劫だからといって下ってばかりなら、決して山頂にたどり着くことは出来ないのだから。

すべての選択肢が明らかとは限らない――八方塞がり、進退窮まって他に相談するのはよい。だが、相談結果の良し悪し、実施の有無を判断するのは誰か。良い結果を得るにはなるほどよき相談者との縁が大切だ。だが、最後は当事者の判断ですべてが決まる。

いったい人生に不満を持つ人は、不満なく生きる人と何が違うのだろう?……智慧の有無か? 霊感の有無か?…… 私には判断力にあるように思える。

優柔不断――決断できずに問題を先送りして残り物に甘んじる。 その優柔不断の害を嫌って悩む者が、あちらこちらに相談したところで、迷うべき対象が増えるばかりではないか。……では、どんな答であれば優柔不断な者にも即断が出来るのかを考えてみるべきだ。「明らかに容易で儲るうまい話」……だというのであれば、その人は騙されるために生きているようなものだ。

本当に必要な手当をせずに、その場当たりの応急処置ばかり。過ちがあっても忘れて前に進み、また同じ過ちを繰り返す。仕上げにはほど遠い生き方。それは本番に向けての練習なのか、だとしたら、いつ本番に取り組むのだろう……来世か? 来々世か?

前に進むには、一つ一つ確実にこなしていく方がよい。前に進むのが遅いようでいても、戻ってこなければならない生き方ならば、進んだことは利点にならないから。


運任せの幸福

2006/05/08

2006年05月08日


人間、運不運に振り回される。悪いことが続いたから、そろそろ良いことがありそうなものだと待ち続けて、チャンスをものにする。……ところが、幸せは長く続かない。

考えてみれば当たり前だ。波に乗って得た幸せが、波と共に沈み込むのは。

だけど、「何か良いことはないかなぁ~~」と、首を長くして辺りを見回す。

幸せになりたいのか、それとも増長したいのか?……失うために得るのは、果たして幸せなのか、災難なのか、どちらだろう?

チャンスを得た者は自分の幸運を信じ、幸福を失った者は災難であると俯く。

なぜ、幸福を育てないのか? 運任せにせずに。……きっと、幸運を育てるチャンスに巡り会わなかったからだろう。さもなくば、そのチャンスを疎かにしたかだ。


足元を見ず明日を聴く

2006/05/07

2006年05月07日


私も人の子、功名心が皆無というわけでもない。オフ会での霊査で、参加者の反省を促すばかりではなく、たまには先のことを暗示して驚かせてやりたいものだ、等という気持ちが心中で頭をもたげることもある。……たとえば今夕、母親の買い物に付合って退屈している時に、そんな想いがきざした。すると……

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『足下の小石につまずくことさえ避けられぬ者に、明日のこと、明後日のことを教えて何になる? 明日の話などを聴いた者が、今日の足下を疎かにし、明日を失う事も良く聴くこと。つまらぬゴシップの種を蒔くのはつまらぬだろう。

『売り言葉に買い言葉で余計な苦労を背負う。言葉に思慮が足らずに恨みを買って後悔の種にする。大切な人を軽んじて別離に至り、人のものを欲しがって自分のものを失い、強がりをいって残りも失う。強情を張って身体を壊し、迷信療法で金を失いさらに身体を壊す。……穴の開いた船に乗っていて、「明日もまた浮いているか?」等と愚問を発する愚者どもめ、明日は浮いていても、明後日には沈んでいるかも知れぬのだ。今為すべきは、穴を塞ぐことである。

『他人に指図されなくても、足下がしっかりしている者なら、霊媒などの助けを借りずとも明日を知れるし、指図されても足下のだらしない者なら、霊媒が何を言おうが、明日の不幸が見て取れよう。……愚問愚問。愚問を発するのは愚者だけだ。愚者を諭すよりもやるべき事がある。

『神仏も救えぬ者に気を掛けたところで、心がすり減るだけである』

そこまでいえば読者が引くぞ。いや、……え? あれ? つまり私が今、小石につまずいていると……?

『杖を持つ愚者は容易に転ばぬな。ハハハァ……』

……やられた。他人への小言と見せかけて、しっかりと小言を聞かされてしまった。


お知らせBy老神いさお。

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