‘2006/05’ カテゴリーのアーカイブ

寓話

2006/05/29

2011年9月20日

ある時のこと。私はとある人の言動に腹を立てた。とはいえ、「腹がたったから小言をいう」というのも大人気ないし、多少の小言でなにかが変わるとも思えなかった。ならばいっそ、私の胸中を寓話の形で表現すれば、誰かの役に立つかもしれないと思い、纏めてみた。


夢の橋

2006年05月29日

慎重な人が、渡る前に棒で「夢」という名の石橋を叩いた。

「いや、まだ安心できない」

ハンマーを持ち出したが、石橋は壊れない。

「この程度で安心して渡れるものか」

とうとう爆薬まで持ち出して橋を壊してしまった。

「ほらやっぱり壊れたじゃない。だからこんな橋は信用できないというのよ。渡らないで良かった」……と嘲笑った。

・・・・・・

橋の営繕係がいた。傷んでいる橋、壊れている橋を直し、人通りが多い木の橋を石の橋に作り替える仕事をしている。

その営繕係が橋を巡回していると、対岸に橋を壊している人がいた。

「なんとまあ、乱暴なことを。でも待てよ。そういえば、今まであの橋を渡る人を見たことがない。……そうか、いらないなら、あの橋の資材で別なところに橋を造ろう。きっと多くの人に喜んで貰える」


旅の薬売り

2006年05月29日

旅の薬売りが山道を急いでいた。

「やれやれ、すっかり遅くなってしまった。これでは山中で野宿だな」

そんな独り言をしているうちに、一軒の小屋が見えたので宿を請うた。

娘が出てきて叫ぶ……

「今は、父が病気で大変なんです。どうぞ我が家には関わらないで!!」

仕方なしに薬売りは、すっかり日の暮れた山道を先に進むことにした。

「やれやれ、なんの病気かは知らないが、もしかしたら私の薬が役立ったかも知れないのに」

・・・・

帰り道、麓の村で噂を聞いた。山中の小屋に住む者が病の果てに亡くなり、それを嘆き悲しんだ娘の喉に、とうとうでき物が出来たとか……その話を聞いた薬売りは、急いでこの山を越えた。

「やれやれ、嘆きの涙で潰れた喉に、効く薬何ぞもってはいない。偽薬だなどと叱られてもつまらんから、先を急ぐに限る」


幸福の木

2006年05月29日

災難続きの者が、 幸福の実がなる木の噂を聞きつけ、幸せにして貰おうと山越え、谷越え、やっとの思いで仙人を訪ねた。

仙人は、『種を蒔かねば芽が出ない。幸福という実りが欲しくば、まず幸福の種を蒔け』と、一つぶの種を与えた。

帰宅して早速、種を植木鉢に蒔いた。

「なんとまあ、幸運なことに仙人に会えて、幸運の種まで貰った。これから一生懸命に幸福の木を育てるぞ!」

毎日水を遣り、飽きることなく植木鉢を眺めた。

3日たち、1週間たち……ようやく芽が出た。

一月たち、二月たち……芽はすくすくと伸びたが、いつまでも実が成る様子は見えない。

とうとう飽きて植木鉢をほっぽり出した。

「ああ~努力するなんて、バカバカしい、どこかに幸福の実が落ちていないものかなぁ」

・・・・・

隣の住人が、棄てられた植木鉢を見て、顔をしかめた。

「なんとまあ乱暴な。何でこんなところに植木鉢を棄てるのだか。おや、しかも木が植えてあるのに。枯れるのも可哀想だからうちで植えるか。」

植木鉢のままでは根が窮屈そうだったので、庭に植え替えて水を遣った。

二年たち、三年たち、とうとう幸福の実が成った。

「なんとまあ。これが珍しい幸福の木か。どうやったら手にはいるのかと思っていたら、人が棄てるのを待っていれば良かったのだな」


実ったのを買えば?

2006年05月29日

仙人から、幸福の木の種を貰ったと喜んでいる男に、隣人が言った。

「そんな種を蒔いたところで、実が食べられるようになるのに何年かかるんですか! ほら、あそこの仙人さんなら、種じゃなくて、実を売ってくれますよ。しかも食べやすい、種なしの幸福の実です。大体、その種は本当に幸福の木なんですか。ちゃんと実がなるかどうか、怪しいものですよ。」

ちょっと悔しげに男はこういった。

「買ってきた幸福の実は、食べたらまた買わなければなりませんが、種から育てた幸福の木は、季節毎に実りを与えてくれます。今の幸福も大切ですが、明日の実りのために種を蒔くのも大切ですよ」

なるほどと思った隣人は、別の仙人から種を貰って庭中に蒔いた。すると庭がイバラで覆われた。


夢想するな

2006/05/28

2006年05月28日


理想を抱く。結構である。それが自分の努力に関わることであれば。……理想を持たずして努力は出来ず、努力せずには理想は得られぬものだ。

だが、自らの努力に関わらぬ事に理想を抱くな。あれはこうなればよい、あの人はこうすればよい……他の為すべき事に思いを巡らせてどうなるか。

そうやって、余計なことに心を塞いでいるから、光明が己の心に差込まぬのだ。

(さらに…)

愚痴をこぼすための生き方

2006/05/28

2006年05月28日


我が師の守護霊がいう。

『自分を変えてこそ道が開けるというのに、今の世の中、自分を変えずに周囲が変ることを望む人が多くて。そんな筋違いの相手をしても、苦労するだけばかげています。人の寿命は短いもの。愚痴をこぼすためにだけ生きるような、そんな生き方には関わらぬ事です。

『自分を生かし切れていないと、努力して手を広げているのは判っています。でも、多くを与えないのにも理由があります。あなたは変れても、誰もが変れるわけではないのですから。

『慌てるよりも、今できることをなさい。道は自ずと開けていきます。』


地獄も住めば都

2006/05/24

2006年05月24日


人の失敗を見た某氏、しきりに、「あいつはバカだ、どうしようもない」……と、ぶつぶつ言ってうるさくて仕方がない。私は思う。犬のことを、犬だ、犬だ、と騒ぐのはどのような人であるか?……少なくとも、あまり悧巧そうには思えない。

・・・・・・・

あの人は可哀想な人。それと比べたら私はよほど幸せ。……と自分を慰めなければいけない不幸せ。哀れんだ相手は、自分の価値に理屈をこねる必要もなく生きているのに。

・・・・・・・

あの犬が可哀想、あの猫が可哀想……そう哀れむ人の不幸せ。犬も猫も、幸・不幸を悩みもしないのに。人だけが恵まれた状況にあっても、あれこれと思い悩み、不安に慄かなければならない。それに気が付かない人の哀れさ。

・・・・・・・

足りない、足りないと騒ぐ……何が足りないのかというと、他よりも足りないという。ならば本当に足りないのは努力か、実力ではないか。……それとも親の資産か。ならば足りないのではなく、持っていないのだ。持ってないなら、手に入れればいい。……そのやり方も判らないって? ならば持っていないのではなく、持つ資格がないのだ。……いっていることが判らないって? ならば解決のあてもないのだろう。……どうしろというのか、って? とりあえず不満をいうのを止めて、これからの生き方を考えてみてはどうか。

・・・・・・・

欲をかいて行き詰る。さあ困った。誰かに相談するにも、正直に言うのはバツが悪い。……相談相手はすべてを見抜いたが、相手がごまかそうとしているものを正直に言うのはバツが悪い。どちらもバツが悪くて、互いに何も言えない。……忍耐力のない方が、バツの悪さを行動で示す。そんなことだから行き詰る。

・・・・・・・

何とか簡単に、苦境を脱する手だてはないか? 簡単に幸せになる手だてはないか? ……そんなものがあるとしたら、自分の愚かさを証明するようなものではないか。

「私がバカだって言ってください!」と言われて、見境なしに「ウン判った」と答える奴も、そう悧巧ではなさそうだが。

・・・・・・・

ぐずぐずと、与太話を持ち込んでしつこい奴がいた。魂胆は見え見えだ。謝罪抜きで許して貰おうという甘い考え。……ナンセンスである。そもそも私は謝罪なんて求めていないのだから。必要なのは反省、つまり再発防止の為の努力だ。……

『何度でも過ちを繰り返しますけど、その都度許してね』……いや、私は謝罪を求めないし、相手を許しもしない。ただ、相手を見るだけである。

知らずに犯した罪は許すのが人の努め。……知って犯した罪を許すのは人の驕りだ。


地獄の亡者に向って、「あなたはいつまで地獄にいる気なのです」と話しかける。

「人が一生懸命にやっているのに、知らん者が余計なことをいうな。助ける気があるなら肩代りをして見せろ」

……不毛なことを懸命にするのは、第三者から見て地獄そのもの。だが、懸命に努力している人はその苦労に気が付かないもの。でも、一旦冷静になったら……その不毛さがたまらなく苦痛に思える。

それは地獄だよ、といわれなければ、苦痛を感じずに済んだのに、教えるから相手を苦しめる。

一番手っ取り早く苦しみから逃れるには、誰かを恨むことだ、とりあえず、地獄だと言ったものを恨んでやれ……かくして、亡者を助けようとした者も地獄に引きずり込まれる。

……黙って手伝うという手段もあったはずなのに。

ところが、亡者の大部分は、黙って手伝うと、全部を押しつけて逃出そうとする。……自分の苦難、自己の責任から逃げる手だてなどないのに、試しに逃げてみるから拗れるだけでなく、味方も減らして苦労が増える。とうとう苦労が増えすぎて地獄に堕ちたのだが、地獄に堕ちても同じ事を繰返す。

霊界通信などで、地獄から這い上がってきた死者の告白談などもあるが、それらは奇をてらった言動で墓穴を掘った者達。自己の最善を選んでもなお地獄に堕ちたものは最善の努力をしても上がれるはずがない。

つまり、「これじゃあ、駄目だったんだ」という人と、「仕方がない」とか、「判っているけど」という言訳を繰返す人とでは、上昇力に大きな差があるのだ。


守護霊抄

2006/05/22


1, 天狗霊しか見えない

2006年05月22日

「守護霊」に関して改めて纏めようと思い立ったところ、珍しく我が守護霊が一言あるという。……守護霊が守護霊に関して語るというのだから、私もイタズラ心から耳を傾け、……そして思い出した。

・・・・・・・

師や姉弟子と私とは親子ほど、いや親子以上に歳が違って、話の合わないこと夥しい、といって、他に心霊の話をする相手もなく、こと、心霊に関しては寂しい思いをしてきた。もっとも、後から考えてみると、これも一つの修行であったのだと思う。ただ思いつくままを話すなら、薄っぺらな話しか出来ないからだ。掘下げる癖が身に付いたのはよいことだったと思う。だが、10代、20代の頃はそう簡単に割切ることが出来ず、年齢の近い霊媒を探し歩いた時期があった。といって、せいぜい8人ほどで止めてしまった。

その当時(もう二十年以上も昔)、さんざん言われたことで、当時はずいぶんと不思議に思ったのが、どの霊媒も皆一様に、私に「天狗」がついているというのである。中には私のことをあからさまに「傲慢だからだ」という者もあった。もっとも、盛塩をして、「結界を張ったからこれで霊が入ってこない」というような霊媒であるから、私が内心、見くびっていたのはいい当っているかも知れない。「物や道具に頼るようでは……」と思うのだ。

まあ、私が天狗であるか、はたまた、天狗霊が付いているのかについて、気にするのを止めてしまった。別に大風を吹かせられるわけでなし、夜中に、カラカラ、クルクルと大声を出すわけでもなし、天狗か否かは、そう見た霊媒以外にはあまり関係がなさそうであったから……。

と同時に、偏見を持っていたことも否めない。天狗付きというと、大声を出して暴れる、また、天狗の霊が掛るというと、天照大権現であるとか、大日なんとか尊であるとか、神仏混淆そのままの仰々しい名乗を上げるという話をよくよく聞いているからだ。まあ、裏事情は聴いてはいた。行者などは、仰々しい名のりで、仰々しく登場しないとなかなか耳を貸そうとしないのだそうだ。……だが、当時の私にも、今の私にも仰々しいことには感心がない。

・・・・・・・

私はその頃、自分の守護霊が僧侶の霊であることをすでに知っていた。実は私の霊感が開いた直後、母が心配してとある職業霊媒(すでに故人)に手紙で鑑定を依頼してくれていたのだった。その鑑定結果は私自身の霊感と食い違うところがなかったのと同時に、一面識もないこの霊媒が手紙に表現して見せた守護霊の姿は私と似ていた。

私には不思議であった。むろん、私は守護霊の鑑定を依頼したわけではないが、誰も私の守護霊に関して何も言わず、ただ天狗霊のいることだけを口にする。……その理由について詮索はしない。ただ、このころ訪れた霊媒諸氏とはその後一切付き合いがない。そして、今回、ようやく気がついたことがある。そう、今の今になって始めて。

霊感発現後、未だ慣れずに憑依されやすかった頃の私を、憑依霊から護ってくれていた天狗の霊が居たのだ。……確かにその当時、気が滅入ると天狗で有名な小田原の大雄山に遊びに行っていた。最近ではとんと足が向かなくなったが、いまでも好きな場所の一つである。

天狗霊が見えるという霊査内容に、その大雄山の天狗霊と結びつけて考えないではなかったが、他の霊媒に天狗が見えるのに対して、普段私は全く天狗霊の存在に気が付いていなかったのである。何のことはない。彼らは人を護るのに出しゃばらなかった……恩着せがましくしていなかったのである。

・・・・・・・

二十数年ぶりに気がついた恩だ……なんと言うことだろう。守って貰いながらそれに感謝をしなかったなんて、確かに、恩知らずといわれても仕方がない。

負け惜しみを言うようであるが、なるほど、当時の私は感謝すべき事に気がつかない傲慢さを持っていたが、同時に誰も天狗の加護について言及はしていないのである。……結局、私も含めて、私が訪ねた霊媒達は天狗に偏見を持ち、加護・守護の意味を安易に捉えていたのであろう。

いや、こうも解釈できるだろう。護られているからこそ無事でいるのに、無事であるから護られていることを忘れていたと。……その意味でいうなら、本当に私は傲慢だったと思う。ただ、言訳がましいが、私が好んでいく場所は、ほとんど天狗信仰の場所でもある。秋葉山にしても、大山にしても……

そんなこんなで、来週末は、カメラをぶら下げて大雄山に遊びに行こうと思う。そういえば去年訪れた時には、群馬の霊媒と知合ったっけ……。


2、 守護霊鑑定

2006年05月26日

対人関係には相互作用がある。想えば想われるし、嫌えば嫌われる。

誰もが進んで、「お前などは嫌いだ!!」等といわぬが、好かれるべき態度をとらずにいながら、「あなたのことを好きです!!」といわれて、それを信用することが出来ようか? 守護霊の意志も大切だが、それを信じる為には、まず、あなたの意志がどうなのかが大切だ。

憑依霊や随伴霊はいざ知らず、祖霊や守護霊はあなたの幸せをなにより大切に思っている。……だが「なにより大切」とは、一体何と比べて大切だというのか、それが問題だ。

もしもあなたが誠実で、守護霊の立場と人としての義務を理解し、守護霊の意図を汲んで努力できる人であれば、守護霊も誠実に応対してくれるだろう。つまり、為さねばならぬ事をしっかりと説明し、理解と同意を得た上で困苦に立ち向かわせるのである。

だが、その被護者が守護霊の意図を理解できず、為すべき事を見つけられず、為すこともなければ、守護霊は非常手段を用いざるを得ない。

つまり、その被護者の好まざる事を強要するのである。

自分の好まざる事を強いられてもなお、相手に好意を持てるであろうか? まして、自分が敬慕する相手が自分を苦しめていると知って、敬慕が憎悪に転じないか? しかし、事情によっては、守護霊が、その被護者の好まざる事を強要せざるをえないのだ。だから、守護霊は自ら名乗り出ることを嫌う。表面に出ることを嫌うのである。……もしも被護者の信頼を得られぬのであれば、裏方に徹する方が確実に職務を全うできるから。

もしもあなたが、自らの守護霊を誠実に信じ、一見、困苦に見える今の道程が、自分が望み得る最大の幸福に連なっているものと信じ、極力愚痴は少なく、極力努力して前進できるのであれば、何よりだ。

急な上り坂は頂上への近道……過程に苦しんでも結果によって報われるであろうから。

そんなあなたの守護霊は、手段の許す限り、包み隠さず、一切をあなたに打ち明け、あなたの協力を求め、あなたの意に沿わぬ人生にならぬように懸命に働いてくれるであろう。

だが、あなたが自分の義務に気がつかず、為すべき事を否定しているなら、守護霊が困苦を無理強いするか、良き未来を得られぬか、悪しき未来に陥るであろう。

楽だからといって坂を下れば、頂上にはたどり着けないのだから。……過程が楽で、楽しめたとしても結果によって精算されてしまうのだ。

それはつまり、義務感が全ての、忍耐を要求される汚れ仕事なのである。…… これでは名乗りたがるはずがない。

名乗りたがるはずがないのに、敢えて守護霊が誰かと問いかければ、一体誰が名乗り出るであろうか。――推して知るべしである。

・・・・・・

「だが、守護霊鑑定を売り物にする職業霊媒がいるではないか?」

たしかに。だが、その霊媒と、当方との守護霊の定義を確認してみて欲しい。違いがあることに気がつくはずだ。

守護霊鑑定などでいう守護霊は、大抵が人を守り導く霊魂一般を指し、理論的心霊研究家がいうところの守護霊は、一個人の管理運営権を委ねられた一個の役職を指している。


守護霊とのコミュニケーション

2006年07月07日

Q 「この世が修行の場であるならば、なぜ指導霊や守護霊が、直接指導してくるのでしょうか? その必要性がわかりません。声がきこえたり、ビジョンが見えたりするということは、あまりにも過保護な行き過ぎた導きで、本人のためにはならないのではないでしょうか?」

過保護であるか、どうかは、その指導の内容によって判断されるべきです。また、守護霊の指導の目的は、必ずしもその被護者の向上にはありません。指導霊の場合は特にそうです。彼らもまた、自らの向上のために努力しているのです。

Q 「また、ある程度波動の高い指導霊たちから、直接指導されるということは、その人自身の波動もそれに合ったものではなくてはならないし、またそうであるならば、よけい、霊能力は必要ないような気がするのです。」

いわゆる「同波動の法則」……つまり、霊媒がコミュニケーション出来るのは、似たような霊格の相手だけである、というのは、決して嘘ではありませんが、一面の真理でしかありません。この法則はむしろ、「友人とは同じような霊格の相手」と解釈すべきです。たとえば、大学教授は小学生向けに専門的な話をかみ砕くことも出来るでしょうが、小学生が大学教授とその専門分野で同等の議論が出来ることはないでしょう。

つまり、上級の者が下層に降りてくるのは可能だが、下層の者が上層を訪ねるのは無理があるのです。従って、波動の高い指導霊から指導を受けることは不可能ではありません。ただ、その障害になっているのは霊能力の有無ではないのです。

そもそも、人が肉体を纏った霊魂であることを前提に考えてみてください。……霊魂が他の霊魂とコミュニケーション出来るからこそ、死後の世界が成立します。つまり、誰もが霊能力を持っているのです。ですから世間一般で「霊能力がない」というのは、自身の霊魂の感覚と、肉体意識・表面意識との間の連絡のない人を指します。つまり、霊感が表面意識に登ることを霊能力と呼び、表面意識に登らないのを霊感がない、と表現しているのです。

Q 「霊能力は、それを使って、他の人を助ける使命がある人のみ、指導霊によって与えられるのでしょうか? それとも、人間にはだれしも、多かれ、少なかれ、低級霊がついていて、それによって霊能力が発揮されるのでしょうか?」

霊能者になる、ならぬの違いについていえば、使命というのはちょっと違う気がいたします。職業適性というのは当人の使命感よりもむしろ、肉体的・感覚的な才能が重要な位置を占めます。極端な話、いくら使命感が強くても霊的感覚が鈍い人では霊能者として大成しないでしょう。ただ、才能が同じレベルであれば、使命感の強い人の方が良い結果を得られるだろう事は容易に想像が付きます。

また、霊能力の発現条件について、私は良く、電話を引合いに出して説明します。

  1. 電話機を持っていても、故障していたり、未契約・料金滞納などで使用できない場合があります。(肉体的要因)
  2. 電話が通じても、周囲がうるさければ聞取ることが出来ません。(霊環境的要因)
  3. 何より、話す相手がいなければ、電話が役に立ちません。(因縁的要因)

つまり、霊感を得る、得ないは、必ずしも霊能力の有無が問題ではなく、様々な要因が存在し得るのです。


守護霊とのコミュニケーション 2’

2006年08月16日

感謝の意を伝える’

たとえば……

「部下が指示に従わずに困ります。どうしたらいいでしょう?」

という相談があったとする。相談者は当然、部下の非を問題にしているが、事実は(すくなくとも第三者的な視点では)、上司(相談者)の指示の出し方に問題があるかのかも知れない。または、双方に問題があるという可能性もある。

または、

「上司が私の報告や意見をまったく相手にしてくれません。」という相談ではどうか? 上司の人間性に問題があるのか、相談者の報告方法に問題があるのか……

いずれにせよ、当事者にとっては重大な問題には違いないが、こういう問題を社内で解決できないとしたら、かなり寂しい会社ではある。

・・・・・・・

反対に、まずは滅多に来ない相談ではあるが、「部下がよく仕事をしてくれます。」または「面倒見の良い上司でとても助かっています」……「どうお礼をすれば良いでしょうか?」という相談は(事例有り)、会社が上手くいっていることを想像させる。

 

世には道理がある

『どう祈れば守護霊に願いを聞き入れて貰えますか?』……という質問・相談は多いが、いつも回答に苦慮する。誰もが平和を祈っているはずなのに戦争は無くならないし、病気を好む人は滅多にいないだろうに大きな病院はいつも混雑している。そして親・子・伴侶と死に別れて泣き叫ぶ人々。こういう現実を見聞きしてもなお、守護霊に祈って願いを叶えようと思うのだろうか?

全てが叶わないとはいわないが、全てが叶うわけでもない。……第一、守護霊が願いを理解していても、無い袖は振れない。無理難題を神頼み、守護霊頼みというのも良識が欠けているし、イヤイヤ良識の範囲内です、というのであれば、祈らず自分でやるのが本当であろう。

物事には限度があり、世の中には道理がある。……果たして良識に欠けることがないかと思える相談者が多いのである。良識に欠ける人とどうまともにコミュニケーションせよというのか、それこそがつまり回答の難しさとなる。

いや、身もフタもないが、当人の守護霊が相手にしない人を、何で霊媒が相手にせねばならぬのだろう?

 

感謝の意

反対に……

『守護霊や祖霊に、感謝の意を表わすのにはどうしたらいいか?』という相談がある。

……私は感謝の意を表わす必要はないと思う。

思わず感謝したくなるような幸運に恵まれたのであろう。つまりそれは、相談者の日常の心掛け、または、日々の祈りが、守護霊・祖霊に通じているということの証である。

ならば敢えてさらに感謝の意を表わす必要など無いではないか。通じているのが結果から明らかなのに、何を迷う必要があろう。まして、受けた恩に対してあまり謝礼が大きすぎると、相手に負担を掛けることもある。だから、嬉しければ嬉しいといっていればよいのである。

思えば想われる――好かれれば相手が可愛く思える。こういう自然な交流に敢えて不自然な努力を持ち込む必要は無いと思う。

ちょっとだけ裏技

真心だけ、といいながら裏技を書くのもどうかと思うが、まあ、その程度の裏技でもある。

心霊を学んでいる人には、常日頃、「感謝! 感謝!」を口癖にしている人がいる。 ……まあ、それも手であるが、そういう人に、意地悪な背後霊から釘を刺されることもある。

『感謝も結構だが、同じ過ちを繰り返すな。尻ぬぐいにばかり背後霊を働かせて!』

特別な幸運はない

守護霊は、陰陽師の式神でも、魔女の使い魔でもない。願いを聞かせるのに必要なのは誠意であって、手練手管はかえって害になる。まして自分は相手(守護霊)の意志を汲もうともせずに、自分の意志だけを押し通そうとするのでは本末転倒である。人生において果たすべき義務を完全に把握しているのは守護霊であって、人間ではない。にも関わらず、守護霊を指導しようとするなどというのは、身勝手な部下と同じ発想である。会社は利益を上げらないであろう。

そもそも、人は幸せになるために生れてくるのである。……つまり、当初の計画は最善であるのに、計画の順守に無頓着な人間が、目先の利益に騙されて結局は遠回りし、または行き止まりにぶつかって、計画を台無しにしているのが不幸と呼ばれることなのである。

一方、心霊を学び、瞑想・精神統一を心掛け、日々の生活に感謝して生きている人ならば、守護霊は容易に果たすべき義務を果たして、さらに余録も生じよう。当初の計画に従って、無理なく楽しく生きられ、たまには余録に預るのであれば、なるほど感謝したくもなるだろうが、その歓びは何も、守護霊や祖先の霊がどこかからかき集めたものではなく、ただ単に、上手くいっている、その結果でしかないのだ。

当たり前なこと

人は幸せになるために生まれてきた。だから、無理せず、他を羨まず、物事になるべく拘らずに生きていれば、分相応で、最善の人生を歩めるのである。

分不相応を求めるなら……そんな方法は私は知らないし、知りたいとも思えない。なにしろ、過剰広告に騙されたという話は良く聞くが、本当に上手い思いをしたいという確かな話は一つも聞いたことがない。

なにより、私は今感じ取れる霊達の雰囲気が好きであるし、居心地がよい。 それはつまり、今の境涯が私に相応しいということでもある。上は暑苦しく、下は寒いだろうに、ジタバタしても幸せではない。


日々努めるべき事

2006年08月17日

発端は、一通のメールに遡る。

Q「普段お守りしてくださる背後さんたちに、感謝の気持ちを表す方法として有効な手立てはありますか?

悪口をいわないとか

整理整頓とか

身近ですぐ実践できることがあればお教え願いたいのですが、よろしくお願いいたします。」

……当初は、『特別な事は不用である』と返事したのは、「守護霊とのコミュニケーション 2」にあるとおり。今回は、その訂正ではなく、より発展的な回答と見なして欲しい。

・・・・・・・

たとえば、あなたが道ばたの小石を蹴って動かしたとします。あなたはそのまま先に進み、その石を蹴ったことさえ気がついていないかも知れません。

その後、通りかかった人がその小石で足を躓いて転ぶかも知れない。……いや反対に、その小石が動かなかったら、誰かが躓いて転んだかも知れない。

前者の例では、あなたは意図せずに人を傷つけ、後者の例では、あなたは意図せずに人を助けて、いずれにしてもその結果を知ることは無いでしょう。

むろんこれは単なる比喩で、事実はさらに単純で力業で済ますこともありますし、さらに非力で遙かに複雑な仕組を用いることもあります。そして、霊達が地上に作用するというのは、ほとんどの場合、こういう回りくどい操作の積み重ねなのです。

私たちはすべてのものを利用し、決して浪費をいたしません。それは私たちが非力なのではなく、無駄なく行うことが正しく、そして、遠くない将来において、無駄のないことがなにより大切になるからなのです。

それはともかく、あなたの意図せぬ行為が、あなたの気がつかぬところで大きな役に立つこともあれば、大いに害になることもあります。そして私たちが大切に育てているのは、意図せず有益な行いをする人であり、私たちが少しでも減らしたいのは、意図せずに有害な行いをする人であります。

一体どう生きれば、「意図せぬ行為が有益になるのか?」と、想われるかも知れませんが、それこそが霊性の向上であり、霊性の修行なのです。その具体的な手段は……

[#霊媒注: この部分は言葉にすると、単に「精神統一」でしかないが、独り善がりでは意味がない。]

その努力が、正しいものかどうかは、日常生活の中で明らかになります。

あなたが正しく霊性を働かせているなら、あなたと共に行動する人は、行動の中で運の良さを感じるでしょう。反対に、あなたの霊性が適切に働かずにいるなら、あなたは行動の中で運の悪さを感じるでしょう。

要約すれば、私どもの望んでいることは、あなたが、運の良くなる人になることであり、私どもが望んでいないのは、あなたが運の悪い人になることなのです。

……それは、無意識下のあなたが善良に生きるということであり、無意識下のあなたが悪を拒むということでもあります。

意識的に善良に生きるということは、まったく義務というべき事であって、そうして当たり前、努力して善良に生きたところで、誰一人褒めるものは神界にいない……子供を褒めてその気にさせようという指導霊はいても……ですから、心霊学の大切さに目覚めた方なら、どうぞ無意識下の善良さを大切になさってください。


告発する守護霊

2006年07月17日

インスピレーションというのは、やはり霊感なのだ……と、しみじみと感じるのは、長年の疑問がフッと解けた瞬間だ。むろん、ただ単に解けたのではなく、地上での出会いが切っ掛けとなって解けた場合である。

あまりはっきり表現すると、語弊もあるのだが、たとえば、ある欠点を持つ人に日常生活で辟易とした思いをする。……『まったくこういう人には困る!』と日々、思うのだが、それをネタにブログを書こうにも「こういう人」とはどういう人であるのかを文章で表現するのに詰る事が往々にしてある。

ところが、「こういう人」から困った相談を持ち込まれると、詰まりが一度に氷解する。……先方の守護霊、つまり、「こういう人」を何とかしようと日々努力している霊が、文章表現を助けてくれるのである。

実はこれ、とんでもなく皮肉な話である。……本来なら、守護霊とその庇護者は一心同体・共通の利害を持っているはずである。だが、庇護者の欠点を第三者的視点で、第三者である霊媒と論じているのだから。

……それは大変なことであるが、どのように大変なことであるのかは、ここでは論じない。ただ、変な妄想を避けるためにこれだけは明言できる。それは守護霊の職務放棄ではない。

地上の法では犯罪者を肉親が匿っても罪には問われないが、霊界において、守護霊がその庇護者の罪を匿えば、罪を犯した庇護者以上の罪なのである。


旨い手、上手な方法

2006/05/21

2006年05月21日


何か旨い手はないか? という視点。

旨い手なんてあるはずないが、もしもあったら置いて行かれるかも……という視点。

・・・・・・・

私は、旨い手なんて知らないが、上手な方法はいくつか知っている。

ハイリスク、ハイリターンな一発逆転を求める生き方を選ぶのも各自の自由だが、コツコツと点を稼いでいくのも一つの手だ。

少なくとも、いざチャンスが巡ってきたときに、思い切って大胆な手を打つためには……その時まではコツコツと点を稼いでおくのも良い手であろう。

・・・・・・・

分っちゃ居るけど、止められなくて……よく聞く言い訳だ。

だが、もしも、「車の運転方法を知っているけれど、運転は出来ない」という人がいたら、あなたはどう思うか?

素直に「運転できない」といえばよいものを、つまらぬ言い訳をして……と腹が立たないか?

……ならば推して知るべしだ。あなたの死後の境遇を。


大切にする

2006/05/20

2006年05月20日


慌てるな。まず行いを省みてみよ

・・・・・・・

自分が大切に思うことばかりを優先してはいないか。いくら大切であろうと、それだけやっていれば良いというものではない。

身の回りを観察すれば、おろそかに出来ないことが沢山ある。それらを抛り出して一つことに打ち込むことを大切にしているといえるのか。いくら金庫にしまい込んでも、金庫が盗まれては仕方が無い。

必要なことを何一つおろそかにしない者が、大切にしてこそ、大切にすることに意義が生じる。だが多くの者は、すべてを振り捨てて一つに打ち込むことを大切にすることと勘違いしている。まったく無責任である。……その無責任な者が、何かを大切にしたところで長続きするのか。

当人が「大切だ」というのであるから、他を犠牲にするのも、確かに大切なものを守るための行為なのだろう。だが、多くをおろそかにすることは、その大切なものも自分自身も、同時に危うくしているのである。その非合理さは将来に影を投げかけずにはいない。

時には冒険も必要である。だが、何事も大切にする者が危険を顧みないのと、何事も大切にしない者が危険を顧みないのとではその意味も違えば価値も違う。

正しい行いとは似て非なる――自らの見識を高めなければ、いつまでも滑稽な振る舞いを続けることになる。


水子霊

2006/05/17

2006年05月17日


どう見えるのか。

私が、霊感が始った直後に、背後の霊達から教わったのが、水子霊の鑑定法であった。

人を霊視すると、首のあたりに白いヒモ状のものが何本か見える。この数が水子の数(水子の霊ではなく、水子の数の算定基準)だというのである。

ところで、男性や男性経験のない女性にもこのヒモが見える場合があって不思議に思っていた。後に、この白いヒモ状のものがへその緒と胎盤の幽体であることを知った。……幽体、すなわち魂と肉体とを結びつける、物質と霊との中間媒体のことである。……つまり自分の臍の緒を首に巻付けていたのである。ただ、霊感発現初期の、心霊知識の貧しい時代に『幽体は……』と教えられても理解が出来なかったのだ。

もう一つ疑問がある。『なぜ、ヒモが残る人と残らぬ人とがいるのか』ということだ。つまりこれが「水子霊の祟り」の問題なのである。

一時的な器官にも幽体がある

(質問を元にした補足分)

一時的な器官であろうが、細胞が生命活動を営む以上は、幽体の浸透はむしろ必然です。幽体が宿らなければ生命活動が成り立たないとさえいえるし、幽体こそが死んだ組織と、生きた組織の違いともいえる。……脱線だが、臓器移植によって移植元の記憶も移るというのは、心霊的に考えたとき、移植元の魂と感応しやすくなる……憑依されやすくなるということかと思われる。残念ながら、私には移植患者の知人がいなくては観察した経験はないが。

とはいえ、へその緒と胎盤については、「妊婦」という一個の自我と、半覚醒の自我の両方を持つ、一種独特・複合的な肉体の器官ですから、母子が別れた後は必然が無くなり、消えゆくべきものである。つまり、出産した段階で妊婦という複合的な肉体は死に、あとに親と子の二個の肉体が生じるのですね。そこに、どちらにも属さない肉体・幽体が生じてしまうのです。

なお、これまた蛇足だが、事故等で手足を失っても、幽体の手足は失われない。物理的な手段では幽体を切断できないからだ。

水子の霊を霊視できるか?

前述の、「へその緒と胎盤の幽体」は水子霊そのものではなく、水子霊の鑑定方法であることは前述した。

基本的に、水子、というより早世(早死にした)した子供の霊魂は、罪もなく、地上との因縁も薄いために、直ちに霊界、それも比較的高級な霊界に素早く引き取られてしまう。モタモタしていると、地縛の霊達に攫われてしまうからだ。

従って、いわゆる水子霊なるものを直接霊視するのは、とても困難だ。……地上で苦労すべき霊魂ならばいざ知らず、なんの苦労もしなかった清らかな霊魂をわざわざ地上と関連づけるような真似をする産土神はいないからである。それでも敢えて呼び寄せようとすると、集まってくるのは、誰でもよいから供養して貰いたいと願っている低級霊で、赤ん坊になりすまして供物をせしめようとする。といって実際に供物を受け取れるわけではなく、ただ単に手を掛けて貰うことを喜ぶだけだ。……人を振り回して喜ぶといわれることもあるが、当の低級霊にしてみたら、おそらく悪意はない。ただ、自分に向けられる親切を楽しんでいるだけなのである。

(重要:手を掛けて貰うのを喜ぶ……それは人間の本能ともいえるが、いわゆる低級霊の行動も本能的だ。すると、本能的な行動が強く出ている人は、低級霊に感化されている、もしくは、低級霊的である、と見ることもできる)

本来、水子の霊が祟りを為すというのは、猫嫌いが子猫を恐れ、犬嫌いが子犬を恐れるのに似ているかもしれない。猛獣である、ライオンやトラですら、子供の頃は放し飼いに出来るというのに……

害と解決法

霊媒または心霊研究家の中には、水子霊には、ずいぶんと大きな害があるという者がある。一方、私の師などは、『純真無垢の赤子がどうして母や兄弟を害するというのか』と、水子の祟りを一蹴りする。もっとも、我が師は、避妊もせずに男遊びを繰返して、妊娠しては堕胎するような女性の存在を信じていない所がある。それはともかく、私が得た回答は、

『世間の言う、水子の祟りとは、衛生観念のない者が腐ったものを食べて腹をこわすようなものだ。胎盤の幽体をぶら下げ続けるというのは、自分の魂の清らかさを大切にしないからであろう。つまりそれは、魂の不潔さの証なのである』である。この説明で納得できぬ人もいるだろうが、とりあえず私は納得した。

この理解を共有するにはちょっとコツがある。まず、身体の清潔さとここでいう魂の清潔さを混同しては理解できない。私は、神社にお参りする時や、墓参の時などには、あいつが嫌いだ、あれが欲しい、これが嫌だ……などという、俗っ気を持込まず、不平不満があってもなるべく忘れて参拝するようにしている。……つまり、入浴の様な気分で神社にお参りするのである。……うまく気持が通じれば、心に灯明が上がるかのように暖かみが感じられるものだ。

ところが、参拝者が多いときに観察していると、祭壇の前に陣取り、延々とお祈りしている人に出くわす。たくさんの願事を持ち、叶えてくださいと頼み込んでいるのである。聖域に世俗気分を持ち込む。……霊媒としてみるなら、洋服を着て風呂に入り、濡れたまま歩き回るって服を汚すようなものである。

そもそも、神社仏閣には低級霊がウヨウヨ居る。……それを見た霊視能力者がわざわざ僧侶・神職に告げてひんしゅくを買うという話を良く聞くが、実にナンセンスだ。評判の良い病院ほど、たくさんの病人が集ってくるのと同様だからだ。……だが、病人が集っているところに衛生観念のない人が飛込んだらどうなるか。あちこちにベタベタ触って、でも手も洗わず、うがいもせず、そのまま食事をしたら……病気になるために出掛けるようなものだ。

いつまでも不用な幽体を引きずって歩くわけである。

水子供養の問題

一生懸命に水子供養しているが、ちっとも消えてなくならない、という話も聞く。その判断の根拠は棚上げするとして、一生懸命に供養するから駄目なのだろうと思う。

本来、自我意識の薄い赤ん坊なんて、わざわざ祈らなくても地縛霊と化したり、迷える霊としてさまよい出たりすることはない。地上に残るのはせいぜい魂の抜殻、意志の籠らぬ幽体だけである。

理解できようか? 地上で一度も罪を犯して居ない……犯すチャンスのない赤ん坊が、どうして高みに上れないというのだろう? 罪を犯さなくても供養がなければ浄化しないというのであれば、犬猫鳥牛豚の霊魂の祟りの方こそ、人は恐れるべきではないか。

自我意識の薄い赤ん坊の供養を懸命にする……ヘタをすれば自我意識の強い亡者が焼餅を焼いて集ってくる。

また人によっては、自分を護ってくれている祖先の霊達にろくに感謝も献げず(先祖供養)、祟りを恐れて赤ん坊の霊魂を拝む事もあるだろう。……だが同居の年寄りの生活を犠牲にして子供のおもちゃを買いそろえたら識者にバカにされるであろう。ものには程度があるのに、度を超すから害が生じる。日々心清く、生命の尊重を心掛けていれば、本来、水子霊などに心惑わされる必要は本来ないのである。

やってしまったことは仕方がない。……確かに。だが、罪を認めたからといって赦されるのか。それこそ生命を安易に考えていないか。

・・・・・・・

また、今までの精神生活に無理があって、胎盤の幽体をぶら下げたまま暮しているのを、たまたま霊媒に指摘されたとしても、ただ、水子霊の供養に夢中になるのはナンセンスである。あの世のことはあの世の連中に任せるべき……祖先の霊、守護の霊に、我子の善導を願えばよい。一事が万事のヒントとして、水子の霊だけを問題とせずに、自分が知らずに犯した罪の解決を心掛けるべきであろう。

女性だけが水子霊に苦しむのか

水子霊と見える、胎盤の幽体については、男性、もしくは男性経験を持たない女性にも付いていることがあるが、上述のように、精神生活の衛生観念の問題であって、直接害をもたらすものではない。ただ、その精神生活上の問題が女性の方が見つけやすい、正しやすいと、良い方に解釈するべきかと思う。

思い当る節がないのに

「妊娠に気が付く前に流れる場合もあるというが、私には水子があったとは思えないが」……という話も聞く。

母親が霊的な事に無頓着であるから、その子供である相談者が、同じように無頓着にならぬよう様々な警告を与えられたのではないか。また、私が過去の相談事例を振返ってみたとき、やはりいくつか当人のものではない水子霊の存在を示唆したことがあるが、それは、背後の霊達が、当事者の生命倫理感を試していたとのだと思われる。

堕胎してから霊を感じる

堕胎してから霊を感じる、と話している女性を見かけ、黙って背後に問うたら、

『妊娠させられ、堕胎までしたのに、相手の男性に振られた結果だ。罪の意識よりも怒りの方が強い。男に振回されているうちは、罪の意志さえ希薄なものだ』という、さすがに当人には言えなかった。

水子霊がいるとの警告を受けたら?

自称霊感のある人が水子霊のことばかり警告する霊媒、または、先祖供養ばかりいう霊媒や、○○ばかりの霊媒の意見は、丸呑みされない方がよいと思う。

ローシャッハテストという、心理テストがある。一見、曖昧な絵を見せて、それが何に見えるかを問う……霊媒の見たり、感じたりするものは本来とても主観的で、解釈の巾があり、おなじものを見ても霊媒によっては異なる見解を出す。それは解釈の違いであると同時に、霊媒である以前に人であるから、その霊媒が心に秘めた問題などが、こういう時に現われるのだと私は解釈している。つまり、特定の警告ばかりだす霊媒というのは、その分野に強い関心のある人だと考えるべきだと私は思う。

とはいえ、特定の個人に同じ事ばかり言う……他の人には別なことを言うのであれば、それはそれでべつな意味があると考えるべきだ。

たとえば、これはよく誤解されることだが、(自称)霊媒の霊視するものとは、必ずしも事象や風景ではない。私は霊感を、「異界の窓」などと表現するが、実際にはコンピューターのモニター/ディスプレー(表示器)を覗いているのに近いのだ。つまり、誰か(心霊学では「支配霊」と呼ぶ)が作成した、「解説のイラスト」を見せられているのであって、それゆえに要点を強調してあったり、細かいところが省いてあったりするのが普通だ。むろん、テレビのようにそのままの画像・風景などを見せられることもあるが、それではメッセージ性が薄れて、要点を掴み損ねやすい。

この表示の手法は、支配霊それぞれに異なる。私の師の支配霊はなかなか精密な表示をするが、私の支配霊は、私が大雑把なものだから、どうせ細部など見ないだろうと、とても大雑把だ。だから、師と出歩くときには(私もそれなりに真剣で)しっかりと細部まで見えるのに対して、私一人だと、要所だけでをあっさり感じる。

とにかく、霊視というのは作図されたものであるといえる。その上でいうなら、たとえば幼少期に非常に印象的な体験をし、それがトラウマとして残っている人を霊査した霊媒は、およそ、「子供のイメージ」を得ることになる。……その作図から、「相談者幼少時のトラウマ」というキーワードが理解できなければ、俗信的な「水子霊の祟り」と、解説してしまうことはありがちな話である。

ボギャブラリーが貧困というか、心霊知識の薄さがそうさせるのだが、これでは問題解決を邪魔しても助けにはならない。

「心霊知識の貧困さが、霊障の主な原因」といわれる所以だ。

水子供養

端的にいえば、ことさら水子供養をするのは泥棒を捕まえてから縄をなうようなものだ。産れてきた家族を生きている限り祝福し、亡くなった家族も時折、思い返して絆を確認していれば、他に大袈裟な祭事等は不用なのだ。……その手間を惜しんで、心に後ろめたいものを感じているから、自称霊媒などに「あなたには供養を必要としている霊が憑いている」といわれて、騙されたりもする。

真心だけで充分なのだが、その真心を理解するのに切っ掛けを必要としているのが現代人であり、その過程が、正しい供養……または、心霊詐欺に騙された経験なのかも知れない。どうせならば、正しい道を歩みたいものである。.


やっと時季が来たのに

2006/05/17

2006年05月17日


いささか季節はずれの例えであるが……

・・・・・・・

雪解けに春を感じ、梅の花がほころぶのを心待ちにする。

暦の上で春は既に訪れているが、まだ水も風も冷たくて注意を要する。

・・・・・・・

長年、心を痛めてきた問題の兆しが見えてきた。

時季が来たのである。……となった時、希望が見えたときに多くの人は欲をかく。

つい先日までは、たった一つの事だけを悩み抜いてきたのに。その大問題を解決し終える前に、『どうせならばあれも、これも解決できればいいのに。』……と浮気を始める。

過去の可能性に浮気しても何等発展はないから、頭はそれからそれへと思い出を遡っては、『どうせなら、あの時助けてくれたら良かったのに』『どうせなら、あのとき助けて貰えば良かった』などと……他者をあてにし始める。

過ぎた過去を変えられようか。 既に変ったものが元に戻るか。失われたものがどうして元に戻るのか。…… 泣いても怒ってもどうにもならない。泣く間があれば、怒る間があれば、未来を善くする努力をすべきでないか。それが一番創造的である。

・・・・・・・

一つずつ片付けないと、片付くものも片付かない。

片付くものを片付けないと、人は無責任に陥る。

無責任な人は、助けを得るのも難しい。

助けがないから、希望もかすんで見える。

希望がないから、片付ける気にならない。

……と、再び悪循環の中に沈むことになる。

・・・・・・・

春の夜は冬に負けず冷え込む。春の日差しに夜の寒さを侮ってはいけない。


不安からどう逃れるか

2006/05/17

2006年05月17日

関連事項: 隠れ悪魔信仰者


Q 「不安からどう逃れるか」

自己の弱さに逃げない――働く先に言い訳をする。気が休まるつもりでいるが、他人に気配りを要求している。得てして人は自らの困苦を、他人に押し付けて気が付かない。人が背負うべき苦労はさして変わりないのに、自分だけが不安であるかのように振舞うわがままさ。周囲の不安を仰いで、努力をむなしくさせる愚かしさ。

不安が何者も救わない、不安を抱いても何の価値も無いことを知りながら、それを他者にまで害を及ぼす。……ただ自分が不安であるからという理由で。

自分の弱さに逃げる。それは自分の業を他人に転嫁する努力である。だが、摂理は個々人に、自らの責任を果たすことを強いる。他人に転嫁した業は膨らんで我が身に戻ってくるのだ。

大きな問題は、「不安」が建前であり、本音は自らの「弱さ」であることだ。弱さを自覚する者ならば、努力の余地もあれば、助け合いの余地もある。すなわち希望があるのだ。だが、自らの弱さを認めずに、ただ不安だけに大騒ぎする者には何ら希望が無い。不安解消が実現不能であるから妄想でしかないのだ。

したがって、不安から逃れるための第一の関門は、自らの弱さを自覚することである。

原因がわからずには解決策が見つかるはずも無い。……自らの弱さ以外のところに、不安の原因を探すから解決策が見つからない。弱さを自覚すれば後は個々別の問題となり、一般論で答えるのは適切ではない。

Q 「自分の弱さを認めたがらぬ人もいます」

毒虫の巣――主観と客観の間に差がある人なら、問題は不安解消だけに留まるはずが無い。その不安の陰には、沢山の問題が隠れている。汝は毒虫の巣となっている石をひっくり返す覚悟があるのか?……だとしたら、汝が問うべきは、どう不安を抱くか、正しい警戒の仕方、であろう。

Q 「自分の弱さに開き直って努力しない人もいます」

真の勇気と匹夫の勇――弱さを知りつつも強敵から逃げぬ勇気と、己の弱さを知らずに強敵に向かっていく匹夫の勇を混同してはならない。自分の弱さを理解せずにいるから開き直っても努力しないのだ。知っても理解せぬ者に、どう理解させるというのだ。

Q 「大きな墓穴であるとは思うのですが、念のためにお聞きしたい。知っても理解せぬ者に、どう理解させたらよいでしょうか?」

相手に理解を求めるなら、まず相手を理解することである。その上で理解の障害となっているものを一つずつ取り除いていけばよい。だが、世には極めきれぬ智識があるというのに、それを学び、理解するのを休んでまで、他者に何らかの理解をさせることに価値があるのか。……つまり汝は人生の意義を理解しているのか。他人の無知を救う前に、自分の無知を救うべきではないか。

虎を飼いならす方法があるにせよ、素人は虎を飼おうとすべきではない。

それを専門の職とする気が無い限り、人は救わず、助けるだけにせよ。


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