‘2006/04’ カテゴリーのアーカイブ

困難を抱える人へ

2006/04/16

困難を抱える人へ

2006-04-15

 悩みを抱える人、病気や障害を持っている人に、同情してはいけない……といいます。人の苦痛をうわべの知識、書物から得た知識、聞きかじりの知識で理解する事は出来ません。苦しみはそれを味わった人にしか理解できないのです。

苦しんでいる人間を救えるのは、同様の苦痛を乗り越えた「魂」だけなのです。だからこそ、障害や病気に苦しむ肉体には、天使やそれに類する霊が、人々を救う、準備の為に宿っているかもしれないのです。

障害や病気で苦しむ人に同情してはいけません。目の前にいる人は、私たちの魂の救い主かもしれません。そして私たちの霊性を確かめるために、神が送った使徒かもしれないのです。

肉体的な、知的そして経済的な様々な制約を持った人に接するのには、誠意を忘れてはなりません。人を見るときは、その霊性に着目しなくてはなりません。肉体的、物質的な制約は、いずれ死によって解放される時がきます。肉体的な障害を持つ人、そうでない人が共に、死によってその物質的な制約から解き放たれた時、障害者を哀れんできた人が、よりみすぼらしい霊性を持っている事はままある事なのです。

わずか百年程度の人生を基準に、人間の価値を判断してはいけません。

人間の本質は、その程度の時間では測れないものなのです。傍目《はため》には、不幸に見える人が、実は霊性向上の王道を走っているのかもしれないのです。

そして、困難に挫けそうなあなたは、自らの価値を、目先の幸・不幸で判断してはいけません。幸・不幸は結果なのです。過程が辛く厳しいほど、その成功には価値が生まれるものなのです。安易な幸福を求める事は、結局自らの幸福を放棄するという事なのです。


困難に直面した人へ

2006-04-15

「神は、乗り越えられない試練を人には与えない」という言葉は、同時に多くの苦しみ・悩みを持つ人は、それを解決できるだけの大いなる霊性があると言う事なのです。そう、生きるのが辛くてしょうがない人生を選んだあなたは、人々の苦しみを救うために困難な道を選んだかもしれないのです。

自分に憐れみをかけてはいけません。 憐れみは解決の助けにはならないのです。

人生をわずか100年程度の人間の寿命で判断すると、なだらかな人生が幸福に思えるかもしれません。しかし、死後の生活も、また来世もある事を信じると、険しい道を歩む方が目的地により近いかもしれないわけです。

困難に直面したあなたは、天国へ一番近い道を歩んでいるのかもしれないのです。決して途中で投げ出してはいけません。

苦難は決して永遠には続かないのです。


孤独に苦しむ人へ

2000-03-01

 孤独に陥っている人の耳には、自分の声しか聞こえません。……大勢の人に囲まれていてもなお。

人の声を聞きたければ、自分は口をつぐまねばなりません。

人の話しを聞けない者を、本気で相手をする人はいないのです。


幸せですか?

2000年

 なぜ人は、あなたの良さを認めようとはしないのでしょうか?
なぜ人は、あなたの事を理解しようとはしないのでしょうか?
なぜ人は、あなたの言葉に耳を貸そうとしないのでしょうか?
なぜ人は、あなたに答えようとはしないのでしょうか?

 あなたは幸せですか?

不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?

 あなたを苦しめているのは、あなた自身です。あなたが他人の目を通さなくては、自分を見つめられないからこそ、他人の心の動きが気に入らないのです。

 うじうじしている奴、えらぶっている奴、自分を押し付ける奴、わがままな奴、感情的な奴、責任を押し付ける奴、言い訳がましい奴、すぐ嘘をつく奴、うーーーーん、無能な奴。

嫌な奴が、周りに多いとは思いませんか?

どうしてこんな連中が、周りに多いのだろうか?

 あなたは幸せですか?

不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?

 あなたが頼ろうとしているから他人の性格が不愉快になるのです。あなたが人に頼らずに本当に自立しているのなら、他人の能力や性格に興味は無いはずです。

 何で、嫌な奴ばかり言い寄ってくるのだろう。

何で誰も、私の期待に応えてくれないのだろう。

どうして、寂しい時にこそ、一緒に居てくれないのだろう。

あなたは幸せですか?

不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?

あなたが心の奥で、自分の抱えている問題を他人の問題にすり替えようとしているから、他人が思い通りにならないと感じるのです。あなたが自分の問題に、自分で取り組もうと立ち上がれば、人の助けなんて必要なかった事に気がつくはずです。

以上の不幸は、みな、問題の根源があなたの中に内在されているのです。


急な坂道は頂点への近道

2006/04/16

「神は、乗り越えられない試練を人には与えない」という言葉があります。私も人生の中で、度々《たびたび》その事を確認いたします。

 昨年の紅葉の頃、(当時)75歳の師匠と共に、山梨県の西沢渓谷へ、ハイキングに出かけました。登りは美しい渓谷沿いの……しかしアップダウンが厳しい渓流沿いの道を行きます。

 景色の美しさを感じながらも、誰もが帰りの道の厳しさを心配します。三時を過ぎる頃から、日没を恐れる人々が、来た道を引き返し始めました。そして往く手はますます険しくなります。いずれは天に届くかのように、傾斜が急になっていくのです。

「先生、こうやって景色を眺めに来ても、心霊の修行って出来るんですよね……みんな、もうちょっと頑張れば、登り切れるのにね……」

 頭では……霊感では判っています。私だって霊能者なのですから。 しかし、辛い道のりはやはり辛いし、不安な気持ちは霊能者だって同じなのです。信念を貫けるか、それとも諦めてしまうのか。

 75歳の師匠を気遣いながら……同時にいつまでも子供扱いする師匠に気遣われながら……その険しい道を登りきると……

 そこには……遥か遠くの景色も見渡せる高みに、以前はトロッコが走っていた、なだらかな道が続いていました。

 「登り切ろう」という信念を貫いた達成感を味わいながら、元気な師匠を、小走りに追いかけ帰途につきました。

 私の心の迷いに反して、上り坂は、永遠には続きませんでした。どんなに急な坂も、いずれは頂点に達します。人生の困苦にも、きっと頂点があることでしょう。そして、急な坂ほど頂点への距離は短いものなのです。どうか、目前の困難にひるむ事なく、自分の未来を信じてください。

 多くの人の守護霊や……ご先祖の霊から……皆を勇気付けて欲しいと頼まれます。

 乗り越えられない苦難は無いのです。どうか、自分の未来を信じてください。

 

あなたは知っているはず!

 人間は皆、生まれてくる前に、『おまえはこれだけの徳を積み、これだけの罪を負っている。おまえの欠点を直すために、おまえは、これこれこういう、人生を送る事になる。』というレクチャーを受け、同意した後に生まれてきます。

 忘れている人も多い事でしょう。――いえ、前世の事など、覚えているのがおかしいとされる世の中なのですから……

 送るべき人生のレクチャーを受けるというのは、人々の未来が完璧に定まっているという事ではありません。人生はその環境によって大きく影響を受けます。人によっては環境に振り回されて、一生を終える人も珍しくはありません。転生する際には、その環境が決まっているのだ……という事なのです。

 そして、その環境を受け入れる事を承諾した上で、その人生を全うするのに必要な守護霊、背後霊と縁組をし、共に様々な準備を行い、訓練を行った上で、その後に転生してくるのです。ですから、自らの環境に不満を言ってはいけません。自らの環境に不満を言うということは、転生前、そして転生後にもあなたを支えつづけている協力者たちを侮辱する行為なのです。

 あなたが霊界で学んできた通りに努力し、適切な行為を心がければ、いずれ道は開けてきます。しかし、あなたが不満を言い、不満の解消を祈ったとしても、それに応えるのは低級霊だけなのです。なぜなら霊界では、あなたが不満を言うまでも無く、すでに解決の道筋は生まれる前から用意してあるからです。

 心を落ち着けて、転生する前に結んだ契約を思い起す時、あなたの心に暖かいものが生まれたとしたら、それはあなたの守護霊が、そばにいる事を知らせるサインを送っているのです。霊と霊との意思の交流は、霊視・霊聴で行われるのではありません。霊視・霊聴は単なる霊能者の職業的技能であって、通常の意思交換は、直接心に響いてくるニュアンスによるのです。

 あなたが、このサインを暖かく受け止められるようになると、もっと多彩な意思・インスピレーションが受けられるようになります。


2006-04-15

死にたい……自殺願望

2006/04/16

死にたい……

2006-04-15

 世の中には、ろうそくの炎が立ち消えるように、誰にも心中を明かさずに消えていく人もいます。そういう人は、あまりの心労に他人に相談する事を忘れているもので、だから、自殺の名所に「相談してください」という看板が立ち、多くの人が自殺を思い止まる要因になっています。

 そして大切な事は、わざわざ自殺の名所にたどり着きながら、後戻りして自殺防止の相談を受けるのは、そもそも死にたくて自殺しているのではなく、苦しみから逃れたくて自殺を思い立っただけで、生きて苦しみを除けるならば死にたくないのは生物として当たり前の反応だと思います。

 なるほど中には生きる事に希望を見出せず、その一方で生活の雑事が面倒になって死にたいと思う人もいますし、その他の漠然とした理由や、精神病的な強迫観念に囚われて自殺願望を持っている人も居ますが、私に助言ができるのは生きる方法であり、生きる気が無い人には、言葉は何の助けにもならないということです。

 あなたが「生きたいから相談に乗ってくれ!」というなら、私は誠意を尽くし、努力をします。 しかし、「死にたい」という相談に対する回答は私にはありません。 出来るのはせいぜい、知らない人から自殺の予告が入ったと、警察に連絡するぐらいなものです。

心霊家として、そして霊媒として一言いうなら、「死んで楽になった」という人を私は一人も知りません。

 中には、強迫観念に憑かれている人もいれば、目標を見失って生きるのが面倒になった人も、「死にたい」とつぶやくものです。そういう人への回答は別に用意します。

 実を言えば、私の元へはかなりの頻度で、「死にたい……」というメールが舞い込みます。「死にたい」という台詞は、生活苦に対する無意識のストレス発散であるから、死にたいと言っているうちはなかなか本気で自殺しないものですし、その真意・根底には、「死にたいほど真剣に苦しんでいるのだから、早く助けて!!」という、意思があることは、霊感が無くてもわかるというものです。

 ところで、まったく人間というのは、苦しい時にも他人に気を配れる人もいる一方で、大抵の人は苦しい時には人の都合などお構いなしに騒ぎ立てるもので、まあそれが人間の性、と同時にお互い様と受け入れるしかないとは思いますが、中には、自分が苦しいと、苦しみを逃れる努力を忘れて人まで苦しめようとする人がいるから困ったものです。

 なるほど、あなたにして見れば命がけの相談かもしれません。でも、冷静な第三者としての私からは、自分の命を人質にして回答を強要する人でなしにしか思えないのです。そういう人の甘えた欲求に対して真剣に答えようとしたら限りがありません。私にも生活がありますから、どこかで相談を拒絶しなければならなくなりますが、そうなったら、相手は売り言葉に買い言葉で追い詰められるかもしれません。

 結局、真剣に自殺を考えている人に対しては、まずは引き止める必要がありますが、でも、他人に甘えたいがために自殺をほのめかす人は絶対に甘やかせられないわけで、メールや掲示板などで相談に応じる事はとても出来ないといえます。


自殺衝動・でも生きたい!!

2006-04-15

以下は、自殺衝動に襲われながらも生きる事に努力しようとなさっている方への解説です。

 病的な自殺観念

 私の基本的なスタンスは、病気は医師に任せるというものです。まず、医師の助言を優先してください。心霊にすがるのは医師が見放してからにする事が大切だと思います。

 とはいうものの、霊能者として感じる注意点があります。

 1.葛藤と戦う

 皆さんは本当に葛藤と戦う事が下手だと思います。 心の中にわきあがる衝動は、自分自身の分身と同じです。争えば自分と同じだけの力を持っているのですから、決して決着がつきません。そしてどちらが優勢になっても引き分けでもあなた自身が苦しむ事になります。

 争いになったら、葛藤のどちらが勝っても、あなたの負けです。争わぬ方法を見出すか、妥協点を見出す事が大切ですし、妥協できなくても真剣に争わないことです。

 2.決して慌てない

 人は苦しければ直ちに逃れようとします。ですが、助けが届くには時間が掛かるものです。具体的には医師の処方に満足できないからと、心霊相談に頼るのはあまり褒められた事ではありません。その努力が事態を混乱させる事になると思います。

 3.他に頼らない

 自らが苦しみを生み出しているのに、薬や他人に頼って助かろうとしても自分からは逃げ切れません。


自殺願望・絶望または諦め

2006-04-15

自殺願望をお持ちの方へ

 災難は、悪意より未熟さ、不運より要領の悪さがもたらします。

 あなたを不幸にしているのは一体誰か……

 その原因があなた自身にあったとき、あなたは振り上げた手を一体どのようにして下ろすのでしょうか。

 困り果て、悩みぬいた末に、私の元に至った挙句、「あなたが悪い!」といわれたら、きっと、腹も立つことでしょう。それがわかるがゆえに、以下の問題は、私が最も回答したくない問題の数々と言えます。

 自分に内在する問題点を明らかにする覚悟のない人は、どうか、他の霊能者をお当たりください。そのほうが、あなたにとっても、私にとっても幸せなことでしょうから。


自殺願望の考察

2006-04-16

 普段、人間は言葉で思考し、それをそのまま口から発するものですから、一般的な事柄については、真意を深く感じる必要も無く、会話が成立します。

 一方、霊が、人間を通じて言葉を発する時には、頭の中に浮かんでいるたくさんの言葉の中から、目的に一番近い物を選び出し、繋げて文章を作るといいます。(永遠の大道や、シルバーバーチの霊訓などを参照のこと)

 この事はごく当たり前ですが、言葉は、意思の表現方法としてはとても拙い物であり、真意を読み取る努力が、特に心霊的な言葉には重要であるという事の一つの理由でもあります。

 さて、自身の魂が何かを言葉で表現しようとするなら、やはり霊と同様に、頭に格納されている言葉を選び出して、繋げていると考えるべきでしょう。そして、前述の「死にたい」ですが、その言葉が、その人の魂の発する言葉だと考えると、その真意は一体なんでしょうか。

 私は、「自由になりたい」と受け取りました。

 魂は、五感というわずかな感覚で世界で感じる事に嫌気を感じている。それ以上に五感というわずかな感覚だけで、友情や愛情を感じる事をとても寂しく思っている。「自分の魂を解き放ち、もっと多くの感覚で、世界や友人や愛する人の事を感じたい!」私の霊耳にはそう聞こえたのです。

 人々の言葉にならない寂しさ、それは孤独だからというより、自身の魂が五感に閉じ込められている事を寂しく感じているのではないでしょうか。


自在でありたい

2006-04-16

 さて、魂は単に肉体から逃げたがっているのでしょうか。確かに努力の甲斐なく、苦しみにあえいでいればそこから逃げたくなる気持ちは分からないでもありません。でもそれは、希望なく苦しんでいるからであり、できる事なら逃げる事よりも、自身が主導権を握りたいというのが本音でしょう。

 先ほどは「自由」という表現を使いましたが、真実は「自在」という言葉が適切なのではと思います。辞書で引くと、自由には様々な意味が含まれていますが、一般的に、自由は、「どうにでも動く」、自在は「意のままに動く」となるでしょう。そして、そう、魂は「せめて自由を……」と望んでいるのであり、できることならば「自在」を求めているのではないでしょうか。
 求めているのが自由ならば、確かに死も回答のひとつかもしれません。しかし自在なら……

 そう、私は、漠然とした「死にたい」という言葉の中に、その人の熱烈な、霊性解放に対する衝動を感じたのです。自身に内在する理解不能な衝動……理解不能だから、「死にたい」という否定的な、消極的な表現になってしまう。でも、それが「霊性解放」に対する欲望だと自覚した時にどうなるでしょうか。

 時々、死にたくなるともらしたこの人は、素晴らしい霊性を持ちながら、自分の霊性の生かし方に気がついていないだけではないか。そう感じるのです。


佳人薄命

2006-04-16

 

 「美人薄命」等ともいわれますが、本来は「佳人」です。美人が見た目の美しさを指すのに対して、心根の美しさを併せ持つ人を「佳人」というのです。さて、この佳人薄命も、霊性解放の観点から見ると、面白い事に気がつきます。

 シルバーバーチの霊訓などでも、不健康の理由を、心身のバランスが取れていないから等と表現されていますが、魂が肉体に閉じ込められている事を良しとしない事が、不健康な理由と考えたらいかがでしょうか?

 素晴らしい智性の持ち主が薄命なのも、霊性が閉じ込められている事を苦痛に感じながら生きているせいと考えたら……自殺をしたくは無いけれど、魂が肉体に閉じ込められているのは嫌だ……そういう動機があるとしたら。

 もちろん、不健康で、自殺願望がある人が素晴らしい霊性を持っているとは限りませんが、不健康さと自殺願望の背後に、霊性解放への秘めた衝動がある場合がある事は、特に心霊主義《スピリチュアリズム》に関心のある人には重要な事に思います。


自殺願望 2

2006-04-16

 もう一押し、考察を進めます。

 シルバーバーチの霊訓の第一巻の冒頭に、地上に派遣されたシルバーバーチのぼやきが出ていますが、シルバーバーチたち、高級霊界の住人たちにしてみれば、地上が色褪せ鈍重な世界に感じられるのと同様に、霊性進化が進み、転生の必然性が薄れてきた魂にとっては、やはり地上生活というのは、どんよりと濁って活気の無い世界に感じられるのは無理も無い事だと思います。

 こうなると、いち早く地上を脱したいという気持ちは、案外、魂の本音かもしれません。もちろん、理由があって転生してきている以上、勝手に地上を去る事が出来ませんが、魂が意識にごくわずかしか顕在しない普通の人の場合、魂の本音が、肉体に思わぬ反応を引き起こす事例があるのでは……そう思います。

 人は感じる事で思考を始めますが、言葉を処理する形で思考するものです。そして、霊性解放への衝動が、「死にたい」という言葉に置き換わったとすると、その人の思考はいかに死ぬか……に向かってしまうのではないでしょうか。

 そして、霊性解放を強く想う時というのは、やはり物事がうまく進んでいない時だと思うのです。きっと、物事が進行中であるなら、「感じる」暇もない事でしょう。つまり、苦しい時に、その状態からの脱却願望を「死にたい」と錯覚してしまったとしたら、一体どうなるかという事です。

 いうまでもなく自殺に対する強い衝動となる事でしょう。そのような人に対して、心霊的な常識……すなわち自殺が大罪である事を告げることが果たして解決になるでしょうか。私はならないと感じます。本音は自身の霊性解放にあるのです。その人の魂は、様々な地上的な制約に息が詰まる思いをし、その苦しみから逃れようと必死になっているのです。その人に対して、罰で脅かすような真似は、ますますその魂を追い詰めてしまいます。

 自殺は悪い事です。しかし、本音がもしも、自分の在り方・「自在」を求めているのであれば……

「君に必要なのは、死ではなく自在なんだよ。妄念に奪われた、自分の主導権を魂に取り戻す事なんだ。」

 そう言って上げられるのではないでしょうか。

 「死にたい」……魂の発した言葉は、自分の意識に暗示をかけてしまうのです。それは決して本音ではないとしても、人は言葉で考えようとする為に「魂の自由」を「肉体からの解放」……すなわち「死」とイメージしてしまえば、答えは自殺でしかなくなるのです。

 今の自分の範囲に、自分の魂の可能性を閉じ込めないでください。あなたが求めるべきは、自由ではなく、自在なのです。


対人関係

2006/04/15

対人関係に関する質問を二通受けました。

 

1,転職について

そもそも物事というのは、自他の関係で定まるものです。たとえばいかに、その会社の待遇が良かったとしても、あなたの勤務態度……そこまで行かないまでも、あなたの性格が会社の気風に合わなければやはり勤まらないことでしょう。

腹蔵無くビシバシ発言することが尊重される気風の会社も……無いとはいえないし、気配りと慎みを強要される気風の会社もあるでしょう。問題は単にその会社が良いかどうかではなく、あなたとの相性が大事となります。

むろん、あなたが気に入ったということは、その気風を含めて感じ得たことに基づいているのでしょう。が、あなたが、充分に自分自身を把握していなければ、その判断があてには出来ません。

転職してもうまく行かない。もう一度転職しようか……と思う前に、まず、いくつかの問題の中心にいるのは誰か。について考えるべきです。心機一転も大切ですが、自分が災難の原因であるなら、自分を変えない限り災難から逃れることが出来ません。……思う通りに行かないならば、人生の岐路を選ぶあなたが、現実と認識のギャップを抱えているということです。そのギャップの克服こそが大切な問題解決となります。

…… とはいえ、人は修行ばかりで生きることは出来ないし、世俗的なことには打算も必要です。……というわけで、ここから先こそが、個人相談となります。従って以下は伏せさせて頂きます。

 

2,家族・友人

家族と友人に関しての相談ですが、プライバシーに配慮して、詳しい説明は出来ませんが……というのが、この手の話の常套句な訳ですが、説明したくとも詳細が判らぬ相談も舞い込みます。……まあ、詳細がないということもまたヒントなのですが。

身体が悪い……当人の自覚以上に健康が損なわれていると感じます。

とはいえ、病気ならば、話は簡単なのです。でも、明白なる発病がない場合、周囲も家族もその扱いに戸惑います。たとえば、「なんとなく身体がだるい」という症状を考えてみて下さい。ついつい、何事も人を頼ってしまう。頼られる人は、「何で自分でやらないの! 私だって疲れているのに!!」 と腹を立てる。実をいえば日本中そんな争いばかりです。

医者にかかるほどの病気ではないが、身体が思うように動かない。だから、ついつい些末な事まで他に頼ってしまって、人間関係がぎくしゃくしてしまう。

本当は身体が動かない……思うように身体が動かせないことが問題なのに、心は別な問題にばかり気が向いている。時には、心を内側に向けてみるべきです。

 

3,その他

Q 親兄弟、自分の将来について悩むことが多い……考えて答えが出るならば考えればよし。でも、現状では考えても答えが出ぬのです。ならば、今は天に預けて今は目の前のことに取り組むべきでしょう。


2006-04-15

夢・希望・願望

2006/04/15

夢や、希望、願望が実らないという相談についてです。

この問題についてのご相談は、なるべくご遠慮ください。私としては見ず知らずの人の夢を壊す、嫌われ役を自ら買って出たいとは思っていないのです。


 漠然とした相談

 時折、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という、不可思議な相談を受けます。

 私には、この質問の論理がどうにも理解できません。物事が成るには、正しい方法と、適切な努力が必要なのであって、本来なら物事が上手く運ぶ方が不思議なのです。まして、力が及ばなければ、物事が上手く運べなくて、むしろ当たり前ではありませんか。

 ですから、この問題への回答は実に単純明解なものしか、思いつきません。

 「あなたの努力が適切ではないか、努力が足りないか、いずれかでしょう」

 いえ、もっと重大な問題があるようです。

 

 実力

 悩み事というのは、自分の実力を超えているからこそ生じます。では、夢が実現できないということは、一体何を意味するでしょうか?

 質問の筋道をきちんと説明できない人は、努力家ではなく、夢想家であるということです。努力もせず、筋道も間違っていたら、あなたの理想が実現するのは、とても難しいことでしょう。

 苦しんでいる人は、大抵は自ら問題を生み出しているものです。そしてじたばたと、苦しみにもがき苦しむ人は注意しなければなりません。苦しいのならばなおのこと、じたばたとすることに無駄な労力を使ってどうなることでしょう。

 

 時期・チャンス

 懸命に努力しても、何の結果も得られないこともあります。努力だけでは足りないのか……その問題に取り組んだのが、心霊である……そういう解釈もあります。つまり、心霊というのは努力を型に成すための研究でもあるのです。

 努力を型に成すには、タイミングも大切ですし、待つことも大切です。たとえば春に播くべき種を、冬に播いたら……小春日和に発芽した若芽は、真冬日に凍りつき、枯れてしまうことでしょう。

 死者の言葉に耳を貸した、心霊は「摂理」にいたります。出来るものは出来るし、出来ないものはやはり出来ないのです。しかし、摂理に敬意を払わない者は、出来ないものをやろうと努力し、挫折します。

 努力は大切ですが、目的を見失っては成らないのです。努力のための努力は、自己満足に過ぎません。目的のための努力こそが、あなたを成功と幸せに導くのです。

 

 夢の代価

 慎み深く暮らしていても、事故に巻きこまれることもあるのに、ただ無事でいられるというだけでも、一体どれだけの幸運が必要なのでしょうか。なのに不運を嘆く人のなんと多いことでしょう。

 夢は、一体誰のためのものなのでしょうか?

 不運を嘆くあなたは、自分の夢が実現できないのではなく、夢の代価を払えずにいるのです。この差は似て非なるものです。

 

 摂理

 蒔かぬ種は刈り入れられないのが摂理です。つまり夢が成らないことも、自らが原因を作っているのです。

 

 努力

 質問: 人生に努力は、必要でしょうか……

 私の立場は非常に明快で、ただ摂理があるだけのことです。

 物事には代価が必要であり、安易に得られる物は、それなりの価値しかありません。 つまり

……欲しければ働け、嫌なら諦めろ

……それだけの話です。

 努力が美徳であるというのは、努力するだけ利益が上がる農耕文化の思想に過ぎません。運の比重の大きな狩猟文花では、地道な努力よりもむしろ、より多くの分け前を得るための自己主張などを重視します。 そして、現代日本も、努力よりもむしろ自己表現が重要に成りつつあります。

 そして、私も努力をすることが大切だとは思いませんが、自己表現も下手なら、努力もしないのでは一体どこに取柄があるのでしょうか。そして、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という質問は、摂理の面から一体どのような解釈ができるのでしょうか。

 このような質問をする人には、想像もつかないことでしょうが、私の回答は、『今のところはまだその程度で済んでいますが、いずれもっと大きな悲劇と逃れることが出来ない困苦に見舞われることでしょう』というものです。

 無理に働く必要はないと思いますが、自分が欲しいだけのものを稼ぐ努力がなく、そして夢や願望を捨て去れなければ、自分自身の怠惰と欲望の板ばさみで苦しむことになります。そして、年老いてから努力するのは何よりも切ないことですよ。

 そして、若いうちに運や縁を育てておかなければ、年老いて、苦しみに直面しもあなたの苦しみに親身になってくれる人は現れないからです。

 

 楽しみ

 人生は、ぜひ、楽しまれるべきです。ですが、その前に、人には自らを削って楽しむ人と、自らを太らして楽しむ人に大別できることを覚えていてください。苦労を後回しにすれば、いずれ帳尻が合います。怠惰の生み出す苦しみは他人には解消出来ないものなのです。

 そして、何より幸せなのは、生み出す喜びを極めることです。人が苦労と思うことを喜び楽しみながら出来るという事……これはどんなに羨んでも、努力しても会得できるものではありません。

 また、浪費というのは、なんと心地よいことでしょう。しかし物や金がなくなれば、とたんに人は心寂しさを覚えます。働くのは面倒だ……ですが、形あるものを作り、残していくことはなんと安心感が生まれるものでしょうか。

 浪費と言う、目先の甘さに囚われて、知らずに不安の種を播き、面倒という、目先の苦さに囚われて、安心の種を播き忘れたら、楽しみの果てにただ不安が残ります。

 結局のところ、人には、自分の未来を取り崩して今の楽しみを追いかける人と、楽しみながら未来を生み出していく人がいるのです。

 

 怠惰の理由

 なぜ、人は怠惰に陥るのでしょうか。私が見る限り、夢を実現できない人は、夢よりも、努力よりも、言い訳を大切にしている人のようです。

 本当の夢を抱いているなら、何をさておいても、努力するはずなのです。それも、自分では努力とは思わず、傍目に見えるような苦しみも知らずに、ただ一心に夢に向かって進んでいます。

 夢が実現しないと嘆いている人に触れるのは、私にとって苦痛以外の何者でもありません。その心の中に言い訳と不満と妬みしか、見えないからです。

 延々と理屈を並べで、でも実現のための行動に移らない……当人は否定しますが、傍目から見たら、そういうのを「言い訳」と呼ぶのです。そして、言い訳であることを自認しないから、永遠と無駄な思考を続けるのです。

 しかし、先が見える努力というのは、動き出すまでは辛くても、いつしか没頭して苦しみを忘れますが、先が見えないというのは、黙って座っているだけでも辛いものです。


2006-04-15

幸せになれるか?

2006/04/15

幸せになれるか?

2006-04-15

 時折、「○○さんは、幸せになれるでしょうか?」という、ご質問をいただきます。本当は、自分が幸せになれるか……という問題のほうが、重大なはずなのですが、自分のことは、いろいろな面で聞きづらいのでしょう。

 このような場合、間接相談はお断りしている旨を書いて、お返事に代えさせていただいているのですが、実は答えは常に一つしかありません。

「幸せにはなれないでしょう」

 これは不幸になるという意味ではありません。そしてなぜ、答えが一つしかありえないのでしょうか……

 漠然とした、質問には漠然とした回答しか生まれません。問題の絞込みが不十分であれば、選択肢は無数に生まれてしまいます。しかし、「幸せになれるだろうか?」という質問には、答えは一つしかありえないのです。

 もしも、質問者が、幸せの正しい意味を知っているなら、その実現に向かって努力するはずです。幸せの実現に障害があるなら、「幸せになれるか?」と質問せずに、「どうしたら障害を乗り越えられるか?」と質問することでしょう。

 つまり、幸せになれるかどうかを悩んでいるというのは、幸せになる方法を知らず、その努力もしていない事を、公言しているようなものなのです。

 「あなたは幸せになる方法を知らない」と、いうと、大半の人が、「いや、そんなことは無い」と否定されますが、では一体どんなことが「幸せ」かというと、大抵は、満足感や充足感を、幸福感と錯覚し、満足・充足することを幸せであると、思い込んでいらっしゃいます。

 これはまた、なんとも不幸なお話と言えましょう。食べ物も、金品も、装飾品も、貴重品も、すべては他の被造物なのです。自分の物ではないものを欲しがり、追いかけ続けるのは永遠の苦悩を抱いているようなものです。

 美食に満足しても、半日もすればお腹が空くのですから。

 たとえば美食を幸せと思うなら、半日ごとに幸・不幸を繰り返し、油断して食べ過ぎて不幸になり、食べ過ぎて胃を壊してまた不幸になるのでしょうか。それでは一体、幸せになる努力をしているのか、不幸になる努力をしているのか、どちらだかわからなくなりますね。

 もちろん、人生、努力をすれば結果を味わいたいものですし、満足・充足を味わうことを私は否定しません。ですが、他にある幸福を追いかけていては、追いかけて、追いかけて、追いかけ続けることに苦しみを抱くようになりかねません。

 人が何を持って、幸福と表現するか……人の数だけ、幸福があるといっても過言ではありませし、「満足感は幸福感ではない!」と説得したところで、空腹に苦しみながら、幸せを噛み締めるのはとても困難でしょう。

 もちろん、法や倫理に触れない限りその人なりの幸福感を追いかけること自体は決して悪いことではありません。しかし、外に幸せを求めては、永遠に追いかけ続けなければならなくなります。

 そして、○○さんは、満足のいく人生を歩めるでしょうか?

 この質問こそ、最も避けたいものなのです。使い切れないほど財産を持ちながらも、物足りなさに悩む人もいれば、貧しくて不満を抱かずに工夫で楽しみ補い生活する人もいるのです。つまり充足感というのは、物質的な豊かさと精神的な豊かさのバランスによって決まります。

 そして、目に見える物質的な豊かさを差し引けば、この質問はそのまま、○○さんの人格・霊格は、どの程度の高さでしょうか……という質問の隠れた回答となってしまいます。質問者の意図するところではないでしょうが、「○○さんは幸せになれますか?」という質問は、実はそのまま、「○○さんの悪口を言ってください」というのに等しい質問なのですね。

 「幸せになれますか?」という疑問は、単純で純粋な疑問なのだから、理屈や裏読みした回答こそ、浅ましい……と思われる方もいらっしゃるでしょう。 一足飛びに回答してよいのならば、まさにその通りです。

 ですから、「幸せになれますか?」というご質問に対して、一番の回答は、

 「幸せとはなんであるのか、よく考えて目標を見出し、その目標に向かって努力なさい。(悪因縁さえなければ……これは一般論では回答できない)努力はいずれ実りますし、努力するほど、その達成感は大きなものですよ」

 となるのですね。

 しかし、せっかくここまでお読みになった人なら、ぜひもう少しお付き合いください。

1、 質問は単純であっても、回答まで単純とは限りません。そして、安易なものはそれなりの価値しかないものです。つまり、幸せを求めるのならば、求めるものに相応の努力を惜しまないでください。

2、この回答が難解に感じられたら、それは、目標までの道のりが困難であるということです。少なくとも幸せな人が、この文章を真剣に読むことは無いはず……覚悟を決めてください。しかし、決して絶望しないでください。あなたはヒントを得たからこそ、ここまで読み進んだのですから。

3、少なくとも、安易な解決法を求めずに、ここまで読み進んだあなたは、幸せになる準備ができているということです。ご自分に自信を持って下さい。安易な答えには相応の価値しかないのです。それはそのまま……価値に見合うだけの努力が要求されているということでもあります。

それでは、皆様、お幸せに……


自己改革……最初の一歩

05年 06月 18日

 どんな見え見えで、簡単な答であっても、自分自身の口でいうことに意義があります。何よりそれは、自分の問題・自分の人生を、人任せにせず、自分ノド力で解決しようという態度表明の第一歩なのです。

不幸の原理を知る

 世の不幸な人を見ていると、往々、わざわざ進んで悪い方へと選択を重ねていくのを目にいたします。「なんだか、危なっかしい運転をしているバス(又は電車)だなぁ~」などと、危険を予知しているのに他人事のように乗り続けて大事故にあったり、「でも辞められないんだよな~~」等とのんきにしていたら悲鳴をあげる羽目になったり、「何か忘れ物をしているような~~」等と油断していたら後で大騒ぎ。

 業《カルマ》というのは、自ずと解消を求めます。

「解っているけど、辞められないんだよな~~」等と口にし、自己改革を自ら否定するかのような態度表明をするから、同じ災難を繰り返してしまうのです。もしも、「これは災難ではなく、私の過ちだ」と気がつくなら運気の流れは変わっていきます。

努力の意義と価値

 結果は努力についてくる――

「そんなことは知っているけれど、努力に見合う結果は得られないじゃないか!」

 多くの人は、自分の努力を過大に評価し、得られる結果を過小に評価します。

 出来るだけ楽をしたい……合理性の追求は知性動物のいわば本能です。ですが、安易な選択は進歩の可能性の否定であり、本能に流されることは進歩の否定……退化への罠なのです。

 だからこそ、「あなたは努力をしなければいけない」……などと思うのも工夫が足りません。

 あなたの努力があなたにもたらすものは、果たして結果だけでしょうか?

 同情や信頼、ひいては連帯感や友情など……目先の欲に囚われて、努力がもたらす様々な副次的な成果を見落としてはいませんか。

 そうなのです。努力に見合う結果は得られぬのです。だが、副次的効果全部を計算に入れると、努力は実に見合うのです。

どうしたら欠点が治るか。

 この話題は迂遠な比喩から始めます。

 たとえば、私は誰かに迷惑を掛けられても謝罪を求めたりはしません。謝罪よりもむしろ絶縁を好むのです。なぜなら、失敗は悪意よりも未熟さがもたらすもの……つまり、未熟故に犯す過ちは一度で終わると思う方が変でしょう。何度も同じような迷惑を掛けられるから……ならば謝罪を受けるよりも、むしろ絶縁した方が後々は楽なのです。

 むろん、野にある善いものを採取するだけでは必要を満たせないことは人類の歴史を遡らなくても解ります……つまり、人を育てる覚悟無くして、豊かな人間関係は望めませんから、みだりに絶縁も選べません。だとしても、被害者の側に立って謝罪の意義を考えると、これはいささか微妙です。加護によるものであれば、謝罪など無くても治るだろうし、未熟さの結果であれば、謝罪を受けても過ちは繰り返されるでしょう……では、誰のために謝罪はあるのか。

 気晴らしのため……その気晴らしを求める被害者もいますが、多くは加害者の気晴らしのために謝罪は存在するのです。

 つまり、謝罪を不要という私は、寛大なのではなく、冷酷なのです。

 さて、怠け癖は人間の本能。そういう見方も出来るでしょうが、霊媒はそれ以外の原因に気がつき……それを口にして嫌われる霊媒在り、口にせずに信用を失う霊媒在り……

 自分の欠点を自覚し、自分を嫌いそうなその時、自分自身と葛藤するだけでは帰って傷が広がります。そういうときには、たとえば、入浴前に自分を省みて、失敗の数だけ、洗面器で冷水を浴びるぐらいの覚悟をなさるべきです。

 自分自身に試練を与え、その報酬に許しを与え、いつまでも失敗を引きずらぬようにする。それを習慣づけることです。

 多くの場合、欠点を直し損ねるのは、自己改革よりも、周囲に頭を下げた方が楽だという心理が働いているからです。…… 謝罪不要といわれて、「嗚呼偽善しゃぶっている相手で良かった」等と思うのは簡単ですが、でも相手の信頼を取り戻せなければ結局多くを失ったままなのですから。

 謝る方が余程楽。その事実に気がつかないから、謝れるときに謝らず、そのくせ、謝っただけでは済まないところで謝って済ませてしまっているのです。

気持ちの切り替え方が難しい

 確かに!! でも、気持ちを切り替えなければ苦しい状態にある時、あなたにはまだチャンスがあるということです。つまり、大切なことを学ばせていただいている最中なのですから。あなたはまだ点から見捨てられてはいないのです。

 帆船時代。船乗りたちは逆風ですら……風上に向かってジグザグに進み、トータルで前進する……推進力に変えてきました。その船乗りたちが一番に恐れたのは無風だったのです。例え、あなたがどんなに努力しても、周囲が全く相手にしてくれなければ、あなたは苦悩を抱えたままじりじりと待ち続けなければいけません。

 操船術の下手なあなたは逆風を災難と嘆き、己を進ませることを諦めてしまいます。錨を降ろし、必死に風向きが変わることを祈る…… でも、逆風は無風よりも有利な状況なのです。何しろそこでは堂々と自己の思うところを表明してもなお、自慢とは受け取られないのですから。自己顕示欲の強い人にしてみれば、順風の時よりもむしろ自己宣伝の好機なのです。


真理と現実(次元の混同)

2006/04/15

 いわゆる心霊現象と呼ばれる事例の多くは、超常現象でもなんでもなく、科学的に説明できる事も多いし、それどころか、科学的な説明のほうが合理的な場合が多いものです。

 死者の霊の言葉を代弁する霊媒現象もまた、二重人格の霊媒の別人格かもしれないし、ただの虚言かもしれません。いえ、虚言以上に、思い込みを霊言と思い込んでいる場合がとても多いと思います。

 心霊現象(と一般に思われているもの)に関する解釈があまりに滑稽であるために、単に心霊肯定論者であると自称するだけで、心霊否定論者の失笑を浴びる事があります。

心霊とは、非科学的な迷信なのでしょうか?

 確かに、非科学的で迷信としかいえない解釈や研究も数多くあります。そういう研究家がいることで真面目な研究者も一緒に誹謗されるのは迷惑でもあります。

 しかし、考えてみてください。

 例えば、絵の具をこぼした一枚の紙と、画家が意図して描いた絵画と、科学的にどう違うというのでしょうか。

 絵の具のついた一枚の紙にある、作者の意図の有無を、科学はどう解明できるというのでしょう?

 一見不可思議だというだけの理由で、しっかりと科学的に説明がつく現象の多くを、『心霊現象と信じる』というのは、確かに近眼的で愚かしくも思えるでしょう。しかし、どれほど科学が否定しようと、「心がどこから生じ、肉体の死によって心の価値がどう代わるのか」という疑問から人々は逃れる事が出来ません。

 そのような疑問は、本来、宗教や哲学の対象であり、科学の対象ではないはずです。そして、心が単なる生理的な反応に過ぎず、そして、死によって全てが無に変えるなら、人生にいかなる価値があるのでしょうか。

 そう、人は自分を偶然の産物とは考えたくないのです。しかも、人は、心を想像できるような超越的な存在の意図を理解できるものでしょうか。 我思う、ゆえに我あり……ですが、「我がある」というだけで満足できる人なら、宗教や心霊思想など不要なのです。

 CD(コンパクトディスク)を例えに考えて見ましょう。その素材が何であるのかは、化学的に解析が可能ですが、そのCDにいかなる情報が記載されているのかは、化学の対象ではありませんよね。記録媒体の組成と、記録された情報とは異なる次元の問題だからです。

 ですが、心霊肯定論者の多くは、心・霊と物理・生理現象とを同一に扱おうとします。「心と身体とは異なる次元の問題だ」という、霊界通信を受けて、霊界を「四次元の世界だ、いや、高級霊界は五次元だ……」などという議論が始めてしまうのです。しかし、数学的な「次元」と国語的な「次元」を混同するというような低次元の過ちを、真剣に論じて何になりましょうか?

 確かに、心霊に関する様々な理論等には滑稽な物も多いでしょう。死後の個性存続・肯定論者である、私の目から見てもひどい状態だと感じます。でもそれは、基礎的な研究がおざなりであるということなのです。


心霊主義という表現

2006/04/15

 今では「心霊主義」というと、一般的には怪奇物と同一視されているのを嫌って、心霊思想の支持者は「スピリチュアリズム」という表現を主に用いているようです。

 そして、スピリチュアリズム  (spiritualism)  にはさまざまな分派があるにせよ、「死後の個性存続を前提にした生き方で、より心豊かな人生を送ろう」というのが基本的な考えと見なして差し支えないでしょう。


 さて、私が怪奇物と同一視される不遇を受け入れてもなお、心霊主義という言葉にこだわるのは、日本における心霊思想普及の先駆者である、財団法人・日本心霊科学協会への敬意の表れであり、単なる欧米の心霊思想の追従ではなく日本古来の心霊思想を受け継いだことへの誇りの現れであり、そして同時に、心霊に携わる人間として、決して忘れてはならない意義を「心霊」という二文字に見出しているからなのです。

 霊からの働きかけを、予言や占いとして用いる人もいらっしゃいますし、死霊を新たな神として見出した新興宗教もありますが、私自身は、死者の言葉を拝し奉り、死者の指導の元に生きようという「拝霊思想」に陥ることなく、そして、他人の思想や霊言、霊媒の霊査などは、あくまでも助言として人生に生かし、間違っても自分の主体を失う事がないようにと自分を戒めています。

 つまり、私にとって「心霊」という言葉は、人間の精神的働きである「心」と、死者の精神的働きを表す「霊」とを対等に扱い、神秘思想や死者の霊と親しく交わっても、決して追従しないという誓いが込められているのです。

 とはいえ、どんなにすばらしい言葉であっても、人生に生かせなければ意味をなしません。いかなる高級神霊とめぐり合おうと、与えられた叡智を受け止める器量がなければ意味を為しません。そう、人生でめぐり合う、すべての出会いや経験、言葉や叡智は、私たちの心が適切に働いて、上手に活用できてこそ価値が生じるのです。


 もしも、神や仏……又は、高級神霊が、ほんとうに世界を支配しているなら、一体どうして不幸な人々が現れるのだろうか……そういう疑問をお持ちの方も、いらっしゃることでしょう。

 しかし、わたしたちは、高級神霊の力を受け止め、幸せになるための知識や器量をもっているのでしょうか?

 座して待てば幸せになれる……ならば、わたしたちの自由意志とは一体なんの役に立つというのでしょう? そしてまた、私たちはちゃんと、差し出された手を握る努力をしているのでしょうか。差し出された手さえ握ろうとしないで、境遇を嘆いてはいないでしょうか。

 助けてもらうにしても、私たち人間にも、なすべきことが有るはずです。 私の提案する、「心霊主義」とは、死者の叡智を人生に生かそうという提言であり、いわば、神秘思想や死者の霊を介助役として、自分自身を主人公にした生き方なのです。


2004-12-04

 

霊能者

2006/04/15

 霊能者

 文字どおり、霊を能《あた》う者ということで、霊を扱える者という意味になります。具体的にいえば、単に霊を自分に憑依させてその言葉を伝えるだけの霊媒に対して、除霊等の祈祷も出来る人を意味します。つまり交霊能力と霊能力は似て非なるものなのです。

 しかし、「霊媒」のページでご紹介したとおり、いかに霊能者であろうと肉体の維持に対する努力が免除されるわけではなく、睡眠や食事に大きな労力と時間を費やさねばなりません。となると、肉体も無く自由に時間が使え、移動にたいして何の制約も無い霊と、対決するにはあまりにハンディーキャップがありすぎます。

 結局、霊と対決するのは、霊能者の背後霊なのです。ですから自覚の有無を問わず、強力な背後霊団を持たない限り、霊能力は生じない事になります。

 ですから私は、霊能者=霊媒+背後霊と表現します。

 霊界というのは、象徴の世界です。その有様は、低級霊界といえども人間がその頭脳で理解しきれるものではありません。ですから、霊的な事件の解決は霊界に委ねるのが正しいやり方なのです。そう、霊界のことは霊界に任せるのが、基本原則といえます。決して霊界は無秩序で暴力あふれる世界ではないのです。

 任せる事の難しさ

 任せるというのは難しいものです。私たち人間の目には目前の問題しか見えませんが、霊界はその背後の背後まで見通した上で、援助の手を差し伸べてくれるものです。しかし、往々にして人は、朝知恵を霊界に当てはめ、事態を混乱に導くものなのです。


霊媒

2006/04/15

 霊界への掛け橋

 霊媒という言葉が生じたのは、そう昔の事ではありません。キリスト教の呪縛を抜けだし、霊界への関心を抱いた人たちが、界と人間の間を介する職業に与えた職名…… “Mideume” の訳語が霊媒なのです。

 しかし、単に霊を感じ取る力の持ち主を霊媒とは呼びません。自分の交霊能力をきちんと自己管理できる人でなければ、狂人と変りがありませんし、霊界の一方的な働きかけの支点にしかなれないのなら、それは掛け橋ではなく、悪霊や低級霊の配下・手下に過ぎません。

 そして、「掛け橋」になるということは、交霊能力だけではなく、その志も大切な要因なのです。

 交霊能力によって、問題の解決力を得たり、人の知りえない事を知るというのは、霊界の協力があって初めて起こりえることなのです。そして霊界が力を貸すのは、人間社会が豊かな精神性を獲得する事が、結局は霊界の利益になるからなのです。

 霊界も自分たちの利益の為に働いているのですが、それは個人的な利益の為ではなく、全体への利益の為なのです。したがって、自分の都合の為にのみ、霊能力を使おうとするのは、霊界への冒涜であり、裏切り行為に等しいものです。

 人間の欲望の一方的な働きかけの支点になる人もまた、霊媒とは呼べないのです。

 象徴と実体と

 他の霊媒と話していて、非常に困る事があります。話が通じない事が多いのです。

 霊には肉体がありません。だから肉眼では見えないのです。この実にあたりまえな事を前提にして心霊は語られるべきなのですが、人間はどうしても姿かたちで相手を判断しようとし、名前で相手を特定しようとしがちなのです。それは、地上生活を送る上でとても大切な技能ですが、霊界生活の長い、魂たちには当てはまらないものなのです。

 霊媒が、霊たちに肉体同様な姿かたちを目撃するのは、あくまでも象徴に過ぎません。想念の世界において、姿かたちは、人の言葉と同様に自由に変化させられるものなのです。そして、実体の無い象徴を、霊媒たちはさも実体があるかのように説明しているものなのです。

 それは比喩ともいえるし、誤解ともいえます。そして嘘ともいえるのです。

 低級霊は避け得ない

 霊感のある人にとって、交霊相手は自分の精神性……霊格または波動など……が同格の相手に限られるのが普通です。ただし、例外として、因縁があったり、必要性のある霊は、様々な障害を乗り越えてメッセージを送ってくれるものです。

 ですから、いかなる霊格を持っていようと、守護霊や指導霊のメッセージを受け取る可能性はありますが、霊媒が自分の霊格を上げない限り、意思疎通には困難が伴い、始終、または、必要な時にすぐメッセージを受けるというわけにはいきません。

 喩えるなら、社長や部長と話をするには、それなりの準備や手順が必要で、会社で気楽にできるのは、同僚だけ……と考えると分かりやすいでしょう。

 もちろん直属の上司(守護霊など)とはこまめに情報のやり取りが必要ですが、守護霊は、いくら親しくしてくれても決してお友達ではありません。あまり甘えると、守護霊の意図しないところで(つまり状況的に)立場を思い知らされる事になります。

 そして、普段、耳に入ってくるのは同僚や友人たちの声なのです。対等な立場な相手ですから、決して騙されてはいけません。

 また、命令されても聞く必要はないし、自分の心の中に欲心……誉められたいとか、うぬぼれがあると、おだて方が上手な霊が集まってきます。高圧的で、脅しが上手な霊が来る事もあるし、泣き落としが上手な霊が来る事もあります。暇つぶしには役立っても、自分の為になるような情報は、普通の状態では入ってこない物なのです。

 そう、低級霊と接触したくないと望んでも、安易な解決策はまったくありません。大切なのは、低級霊がかかってあたりまえと、覚悟を決める事なのです。そして、自分でそれをふるいにかけていくのです。

 そして、交霊相手をふるいにかける過程こそが、自分の精神性・霊性の最高の修練になります。そして多くの交霊相手の中から、自分の信頼できる霊を見出し、その絆を深めていく事によって、確実に交霊ができるようになります。

 魔境

 反対に、ふるいわけをおざなりにしていると、魔境に囚われます。

 魔境というのは仏教・禅宗用語で、乱暴に説明すると「現実逃避」から狂気に陥る事を意味します。周囲から見れば地獄に棲んでいるように見える状態なのに、当人は天国にあると信じきっている状態で、悟りの境地の反対を意味します。

 そして問題なのは、魔境に陥った人は、自分が魔境にいる事を否定する為に、周囲の者は助ける事は出来ない事なのです。魔境に陥った人は自ら脱する覚悟を持たない限り、誰にも救う事は出来ません。


2006-04-14

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