‘2006/04’ カテゴリーのアーカイブ

地上で学ぶべきもの

2006/04/16

 そもそも、精神性がすべての事象を生み出し、自己表現の自由な場である霊界から、わざわざ暗く、鈍く、不自由な物質世界に生まれてきたのは一体なぜなのでしょう。……それを考えてみてください。

 人生は魂の修行の場といわれますが、具体的にいうなら、思慮深さと忍耐と工夫する力の育成である事が地上の特質から見て取れます。

 つまり、不自由に負けず、使いにくくても放り出さず、それらを生かす忍耐力。そして、いかなる困苦や逆境をも目的達成の手段に用いる、魂の柔軟性と強さの鍛錬なのです。

 守護霊は霊界にありながら、欲望に囚われ、勘が鈍く、目先のことに囚われて、気分屋な人間を指導していかねばなりません。その守護霊はどの様にして霊性を磨いたのか、どの様なことを重視して霊性を磨いたのかというなら、まさに地上において、忍耐力と柔軟性と強さを鍛えていったのです。

 ですから、私どもが、地上にあって、辛い、苦しいという気持ちを、守護霊はとても良く理解してくれます。しかし、守護霊達も同じ困苦をくぐり抜けてきたのです。私どもを容易に甘やかせてはくれません。


2006-04-16

中身を知らない(信仰心)

2006/04/16

2006年 04月 15日


 時々、聞かされるたわごとであるが、神様が助けてくれないなら、悪魔信仰をする……当人はそれなりに真剣なのであろう。だが、真摯な信仰者は、こういう発想を、「御利益信仰」と呼んでいる。当人は神を信仰しているつもりでも、傍目からは見えるのは、御利益を得ることが第一義であって、神も悪魔も、無論仏も、御利益の中継ぎ役でしかないのである。

 端的に言えば、最初から御利益を拝んでいるのであって、神も、悪魔も拝んでいない。徹頭徹尾、御利益宗の信者であって、神も悪魔も御利益大神の眷属扱なのだ。ならば、神様の代りに鰮の頭を拝んでもたぶん状況は変らないだろう。

 これがたとえば、霊障に苦しんでいる人が一時囚われる妄想としての悪魔(悪霊)信仰は更に屈折している。ようするに神様が助けてくれないなら、悪霊に降伏してしまおう、という発想だ。……だが、悪霊は降伏を強いているのではなく、肉体の支配をもくろんでいるのである。つまり降伏などというのは一方的に抵抗を止めるというだけであって、先方がそれに従う必然性を持ってはいない。

 いや実際問題として、悪霊に降伏しようか等という発想は、高級霊等からの試練……覚悟を試されているのが本当だろう。道義よりも利益に色目を使いがちな人に与えられる試練である。

 ところで、この話題に(内々)興味を持つ人にとって、一番の関心事は、「何を信仰すべきか」というテーマかも知れない。これは浅野和三郎氏の著作などを見れば、「邇々藝命《ににぎのみこと》であるべき」と繰返し書かれているが、試してみて欲しい。邇々藝命信仰をして何らかの手応えを受ける人もいれば、受けない人もいるだろう。……同じ信仰対象を持っても、その効果に差があることが、一部の人達を無神論に傾けさせる原因ではないか。おそるべきは人の妬みなのである。

 だが、同じ信仰対象を持っていても、人それぞれに異なるものがある。その人々の境涯、そして、信仰心の在り方だ。この問題に気が付いた人は古今数多いが更に困ったことに信仰心は、目で見て比較が出来ないことである。

 ならばいっそ、どういう心境で信仰したときに手応えが強いのかを研究してみれば良さそうなものだが……無論、私はやっている。精神統一だ。心を静めて祈る。その祈りに手応えが感じられるのは自分の心がどういうときであるのかを常々内観している。

 その上で思う。信仰対象が大切なのではない。自身の信仰心、もっと砕けた言い方をするなら、敬いの心が大切なのだ。

・・・・・・・

 ところで、私は、朝、目が覚めて起きあがるまでの数分間、寝ぼけた状態から意識が目覚める間に本を読む習慣がある。今朝読んだのは、下村湖人著 「論語物語」だったが、ふっと感じるものがあった。

「現今では、親を養ってさえいれば、それを孝行だといっているようだが、おたがい犬や馬まで養っているではないか。孝行には敬いの心が大切だ。それがなかったら、犬や馬を養うのとなんの択ぶところもない」

・・・・・・・

 この問題は、同時に恋愛問題にも当てはめられるだろう。浮気を繰返す伴侶は、真の愛を抱いているのか……多くの人は「浮気な愛」を否定するだろうが、問題は敬いの心の有無であろう。

 いわゆる信仰の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。
 いわゆる愛情の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。

 信仰も、愛情も、孝行も、ただそれだけに価値があるのではなく、その成分が大切であり、その特に重要な成分は、一般に「敬い」といわれているものだ。……呼び名が同じでも成分が異なれば性質も異なるのである。

 成分を知らずに本質を知っていると錯覚し、呼び名にこだわり、呼び名に騙され、意味が分らぬと途方に暮れる。

……なぜ分らないのか? 理解せずに理解を求め、不器用さを「自分らしさ」と言い訳し、周囲への愚鈍さを「我侭だから」と開き直ってみる。… …他人の同情なくして生きらぬ、依存の強い生き方をしているのだから、分るはずもない。


信じる心

2006/04/16

 自分を信じる事は大切です。それは力を生み出しますから。

 何かを信じる事は大切です。それは力を増しますから。

 しかし、何かを信じても行うことがなければ、霊性の向上も魂の向上もありえません。

 そして充分な霊性を持たないと、信ずるに値するものを見分ける事も出来ません。

 学ぶ事、行う事、そして信じる事、良い人生を生きるためには、バランスが大切です。


2006-04-15

日本的信仰生活

2006/04/16

2004年07月10日・心霊研究掲示板
2004年08月15日・加筆修正

 

 日本人は、クリスマスを祝い、新年には神社に行き、葬式は仏式……と、節操のない宗教観の持ち主であると、日本人自身が思いこんでいますが、これは日本人の宗教観が逆に健全であるからだと私は思っています。

 そもそも、宗教宗派に拘るというのは、まず最初に、信仰対象があり、その信仰対象をどう称えるか(卑屈にいえば、どうおもねるか)を考える結果だと想うのです。それに対して、日本人の本来の宗教観は、先に信仰心……すなわち、超越者・先駆者に対する敬意の念があり、その敬意の念の表現方法として宗教宗派、又は宗教儀式が有るのでしょう。

 幸せにして欲しいから信仰するのではなく、すごいと感じたから信仰する。それが日本人の精神性だと感じるのです。だからこそ、外国の優れたものをどんどん取入れもするし、怨霊さえも神様として祀ってしまうことをするのが日本人です。

 先に信仰対象があると、他の優れたものを賞賛することが難しくなる……そういう器量の小さい所が熱烈なる宗教家には多々見られますよね。一方、宗教宗派を問わずに、私を幸せにして……というのもなにやら強欲な話です。所詮、神とか悪魔とかの分類が、自分にとって利益になるか否かの違いだとしたら、結局、信仰対象が先にある信仰心というのは欲の働きとしか私には思えません。だからこそ、欧米の宗教では「霊性の向上」が重視されるのでしょう。最初は欲の働きから信仰に入っても、最終的に神に繋がればそれでよし……そういう思惑が見え隠れします。

 現実問題として、現代日本でも、信心深い人というのは、欧米的に先に信仰対象のある人が大半を占めているようですから、欧米的に霊性向上が必要でもありましょう。しかし、日本古来の精神スタイル……先に信仰心があり、拝む対象はそれこそ蚕《カイコ》でも鰯《いわし》の頭でも良いというなら、そこで重要なのは、対象のその先にある何か、をより理解するための霊性深化かも知れません。すなわち、「表面的な理解」といういわば、偏見に陥らぬように、自分をより深く知る事を大切にする事が大事といえましょう。

 私がこのように感じるのは、現代の書店で入手可能な神道に対する入門書を見ての事です。どうにも一般的な神道の書物というと、神話紹介、御利益案内、神社観光、呪術紹介といった事柄ばかり、それが日本人の精神性の根元だというのなら、エコノミックアニマル、日の丸観光団、そして、「フジヤマ・ゲイシャのエキゾチックジャパン」……現代日本人への偏見そのままではありませんか。

 ああ、辿っていくなら……はじめに「信仰心ありき」という日本人が滅びたからこそ、日本人は上海事変から太平洋戦争へと乗り出していったのかも知れませんね。


欲が神仏を拝む

2006/04/16

 私も、社寺を歩くのが好きですが、参拝というよりも拝殿で精神統一をすることを目的にしています。この精神統一というのは、「心・霊」の統一ではなく、「心・霊・体」の統一のことです。

 ある時、熱心に(延々と)参拝している人がいて、拝殿前が開くのを待っていた時のことです。

『祈りが長いのは、欲が拝んでいるからだぞ』と、突然聞こえました。

 欲が拝んでいる……?

『宗教などといっても、人が神を拝んでいるのは稀で、大抵は欲が神を拝んでいる。魂が呼ぶなら応えもしようが、どうして欲心などに応えよう』

 なるほど、同じ人が拝むのでも、欲もあれば、魂の祈りもあるというわけか……しかし、地上で生きている限り不足が付きまといますから、自然と欲が出る事もあるでしょう。すると、自身の祈りが欲なのか、魂の発露なのか、自分で判断するのも難しいものですよね。せめて、欲心に自身の主導権を取られぬように注意いたしましょう。


2000年

友へ

2006/04/16

心優しき友へ

2002年6月3日 心霊主義・掲示板より

 心優しき人を想う

 自然と心が優しくなる

 あの人を想い手紙を書く

 言葉を選んでいると

 幸せな気持ちになれる

 たとえ相手が苦しみの最中にいて、

 それを励ます手紙を書いている時でも

 言葉を選んでいると

 幸せな気持ちになれる

 互いに辛くても

 不幸ではないから

 心配で胸が張り裂けそうでも

 想える人がいる事を幸せに感じる

 同じ時代に生を受け

 生きる時を共有できた事を幸せに感じる

 悩みや苦しみが尽きぬとも

 一生懸命に生きた事は誇れると思うから

 でもやはり

 心優しき人には穏やかで

 安らかに生きて欲しい

 その笑顔が見たいから

 私も笑顔でいたいから

 心優しき友を想う時

 心配するよりも幸せを祈りたい


友を想う

2002年6月10日 心霊主義・掲示板より

 友人に心配事があった。
     私も心配した。

 友人は私が心配しているのではと心配した。
     その事も私は心配した。

 相手を思う事、気遣う事で、
     心配が心配を呼び、
        双方の心配が雪達磨式に膨らんでしまう。

     私は「心配」を天に預けた。

 「助けて!」と言われたら駆けつける覚悟を胸に仕舞い込み、

     友の無事を祈る。

 友に何もしてあげられなくても、
     心配だけはさせたくないから。

 水垢離して、雑念を洗い流し、
     心配する代わりに、無事を祈る。

 考えてみれば、ごく当たり前の日常が
     ただ、毎日過ぎていくだけだ。


一人ではないよ……

2002年10月9日 心霊主義・掲示板より


 一人の寂しさを知るものが
    大勢の中で癒されるとは限らない。

 一人の寂しさを知るものは、
    本当に優しくなれる。

 人の中にいて感じる孤独は、
    癒される希望がないから。

 一人の寂しさを知るあなたは
      決して孤独ではないのです。

 本当に孤独なのは、大勢の中にありながら
      人の心の温もりを知らない者。


 一人じゃないよ、孤独の意味を知るあなたは。

  自分が求めるように、人に優しくすればいいのだから。


信じる心

2002年10月9日 心霊主義・掲示板より


 あなたの生き方
  あなたなりの生き方が
   あなたにとって一番大切だから

 あなたを想うわたしが
  あなたのために一番大切に想うのは
   あなたが、あなたらしくあること

 想い合う私たちが、一番大切にするのは
 自分らしくありながら、互いを大切にするその心


試練

2006-04-15

 友ある限り
  どれほど嫌な事であれ
   どれほど辛い事であれ
    私は試練を厭わない

 試練があれど
  どれほど嫌な事であれ
   どれほど辛い事であれ
    それは友との絆を鍛えるものだから

 試練をくぐりぬけた者しか得られない
  友の信頼と、温みが心地よいから
   友情の価値を知る、私は試練を恐れない


強く生きる

2006/04/16

袋小路

 私は心霊相談を通じて、論理の袋小路に入って、苦しんでいる人を大勢見てきました。……そして、人間の視野がとても狭い事を実感します。ならばこそ、自分の小ささを素直に受け止め、後は神仏なり、天なり(または各自の信仰対象)にまかせ、出来る事を出来る範囲で努力するべきだと思います。

 案ずるよりも生むがやすし。

 念仏にせよ、座禅にせよ、いえ、仕事でも掃除でも草むしりでもスポーツでも一心に行う。一心に行う事を「三昧《ざんまい》」と呼びますが、「三昧《ざんまい》」は、変に思い悩むよりも賢い選択だと思います。悩んでもどうにもならない事を、悩み続けていては他が疎かになってしまいます。それでは一つの困苦が大きな不幸の切っ掛けになってしまいます。

 たしかに、吹っ切る……迷いを捨てる事の難しさはあります。それも歳を重ねるほど、迷いを棄て難くなるのでしょう。だからこそ、迷いはすばやく捨て去る事です。

信仰心

 不幸にして人の心を救うべき宗教が、人を食い物にしているのを昨今は良く目にします。しかし、思い悩んでも解決しない事をいつまでも思い悩んでも、他の事が疎かになるだけです。 まして、人は孤独です。分かり合った気がしても、肉体という殻に閉じこもった魂同士は、どうしても分かり合えない一線を持ち続けます。

 またどれほど物質的な財産を集め、持とうが死は突然訪れ、財物で死を免れる事は出来ません。物質的な豊かさなくして、幸福がないとしても、物質的な豊かさは幸せを保証したりはしません。人は弱いものなのです。そして、弱さを持つ事は決して恥じるべき事ではありません。

 むしろ虚勢を張り、仮面の下で安心をしている方がよほど危険なのです。苦労人には容易に他人の弱さが見抜けるのですから、隠しているつもりになっていると逆に相手に手玉に取られてしまいます。

 信仰は心を補完するものなのです。そして、宗教が悲劇を生み出すのは、被害者の心が弱い為ではなく、被害者が神仏に利を求める所にあります。

 心の安らぎを求めるだけなら信仰は神仏と信者の一対一の対話となり、宗教家の存在は単なる介添え役に過ぎませんが、利を求める者にとって信仰は、宗教家こそが信仰対象となってしまうのです。神仏は決して金もうけの方法や健康になる方法などを語り掛けてはくれないからです。

 くれぐれもお間違いの無いように。

 豊かさは祈りからではなく努力から生まれるのです。そして安らかさは努力からではなく、祈りから生まれます。豊かさの求め方と、安らぎの求め方をお間違えなきように。御利益を求める信仰ではなく、心安らげる信仰をお持ちになってください。

失敗を恐れずに

 人生を全うする上で一番大切なのは、人生の目的を知る事です。目的を知らずに、目的が果たせるはずがありません。そして、誕生は偶然ではなく必然であり、人生は霊性向上の修行の場というのが心霊主義の考え方です。

 霊性向上の為に生まれてきたのですから、当然、過ちも無く生きる事は不可能というよりも、無駄以外の何物でもありません。過ちはなるべく少ない方が良いし、行動しなければ失敗も無いでしょうが、失敗は最良の教師ですし、行動を慎めば霊性向上の機会もまた失われてしまうのです。

 また、信じる事が無ければ騙される事も無く、愛する事が無ければ裏切られる事もありません。しかし、愚者は経験から学び、知者は本から学ぶといいますが、人を信じ、人を愛し、苦楽を共にすればこそ、他人の体験を自らの智慧にする事も出来るのです。

 一人の努力はしょせん、一人の努力にすぎません。そこから学び取れるものはしょせん一人分に過ぎないのです。しかし、人の経験を自らの知識に出来るのなら、転生数回分の修行が一度の転生で出来る事になります。騙された事、裏切られた事を後悔しないでください。

 あなたが思うよりもはるかにこの世は霊界よりも住みにくく、あなたが思うよりもはるかに、この不自由な世界に生まれてきたことには意義があります。あなたが死後、遣り残したことを片付けに地上に舞い降りなければならないと知った時、きっと地上で死刑の宣告を受けるよりも苦しいと思い起こすことでしょう。

自分を苛めないで

 臆病で、姑息で、愚かであったとしても、その事を罵ろうが、泣き喚こうが、やはり自分自身である事には変わりありません。たとえ足りない所や、弱い所があったとしても、それを知恵や努力や、周囲の者たちと助け合って人生を全うするべきです。

 誰の人生でもなく、自分の人生なのです。自分を辱め、貶め、そして敵に回したからといって人生の道のりがなだらかになる事はありません。自分とは争わず、きちんと折り合いをつけるべきです。

 同じ苦労をするのでも、自分と仲良く苦労すべきです。くれぐれも人生の困苦の中で自分自身に足を引かれる事の無いようにすべきです。

 一番長い付き合いの知人で最大の利害共有者である自分自身を味方にしなくては、たとえどれほど力のある霊能者や宗教家に出会ったとしても、あなたが救われる事などありはしないのです。

幸せになってください

 本来、悪意は他者を傷つけず、悪意を抱いた本人を傷つけるものなのです。なのに他者からの悪意を受けて傷つくのは、人の善意を求めるからなのです。人は自らの利益にそって行動します。自らの利益は自ら守る努力をしなければ誰があなたを守るというのでしょう。優しさだけでは生きていけないのです。

 人と接する時は、感情ではなく魂を感じてください。

 共に困苦に乗り越えようとする魂、喜びを分かち合おうとする魂。言葉でなく、その心を感じ取ってください。分かり合う事、労り合う事。相手の言葉尻を追いかけて、傷ついたりしないように。優しさは無制限に与えられる物ではありません。

 人々の魂を救うのは天に任せて、あなたは自分に出来る事を、出来る範囲で行えばいいのです。

 人の分まで苦しみを背負っても、自分の人生がおろそかになれば、あなたは人生の落伍者となります。ですから、もっともっと幸せになってください。親切は、余った分を無駄にせぬように……と人々に施すものなのです。


2006-04-15

あなたに出来る事

2006/04/16

災難を幸運に転じる人

 あなたの苦しみを受け止めてくれる人は、人生において得難い友人となり得る人です。その人は高い霊性を持ち、災難を幸運に転じる力を持っているからです。

 なぜか?

 人生は霊性向上の場なのです。苦難から逃げる人には苦難が利子をもって追いかけてくるし、苦難を自らの霊性向上につなげる人なら、努力の配当を受けられるからなのです。何よりも苦難を乗り越えてきた人ならば、苦難を乗り越える方法を知っているのです。それがあなたの人生に生かせない筈がありません。

 自ら苦難を乗り越える努力をした人以外に、人の優しさや気遣いの本当の価値など分かる筈もなく、達成感を知らない人が本当の幸せなど理解できないのです。不幸でないのが幸せ……そう思える人には、苦難を乗り越えた先にある、至福を理解する事など出来ないでしょう。

 どうか忘れないで下さい。急な坂道は頂上への近道なのです。

 今苦しみにあえぐあなたには、周囲の景色を見回すゆとりなど無いかもしれません。しかし、真摯に困苦と取り組むあなたは確実に頂上に近づいているのです。その事は困苦を一つ乗り越えた時に実感できる事でしょう。どうか忘れないで下さい。苦しんでいる事は不幸なのではありません。達成感を知らない事こそが不幸なのです。

 いくら楽だからといって、下り坂ばかり歩んでいては絶対に山の頂に達することは無いのです。

本質的な優しさ

 優しさとは人類が集団生活を続ける中で育ててきた特質なのです。ゆとりさえあるのなら人は誰でも優しくなれます。しかし、困苦にぶつかった時にも優しさを維持できる本質的な優しさを備えた人と、困苦に負ければ進んで優しさを放棄する、うわべだけの優しさを持つ人がいます。

 優しさの価値は、その態度ではなく、深みにあります。

 どんな浅ましい人間でも、自分に利益をもたらす相手には、優しさや気遣いを見せるのが当たり前です。しかし、いくら優しい人であっても、利益を違えれば優しさも気遣いも無くなるのもまた当たり前の事なのです。

 自らの利益は自ら守る以外に誰が守ってくれるというのでしょうか。自分の利を追い求める者を誰が非難できましょうか。ただ確かなのは、うわべばかりの優しさの持ち主は、本当に辛い時に手助けどころか災厄をもたらすであろうということです。困苦を共にするには優しさだけではなく誠実さも大切な特質なのです。

 友人や恋人に選ぶのに、本質的な優しさを持っているか、いないかという判断はとても重要になります。人生は山あり谷ありで、幸せな時もあれば、辛い時もあって当たり前なのです。幸せな時にどれほど楽しい相手でも、辛い時に頼りになる相手とは限りません。そして本当に友人や恋人に側にいてもらいたい時とは、あなたが一人でいると辛い時の筈です。

 本質的な優しさを持たない人でもあなたに幸福感を与えてくれることもあります。しかし、あなたの不幸感を減じてくれる事はなく、むしろ、より増大させる人なのです。うわべの優しさは、人生の転機において、必ず不幸な方向にあなたを導きます。

 さらに残念な事に、人には、痛みを他人に押し付けられない人と、むしろ進んで他人に押し付ける人の二種類いるのです。

 あなたの人間観察力の評価は、悲しいことにあなたがとても苦しんでいる時に露になります。苦しい時に信頼する人から追い討ちをかけられたとしたら、あなたの人物評価は大間違いであったということなのです。

 しかし、本質的な優しさを持たない人と巡り合い、友好や愛情を結ぶのは、ある意味一種の業(カルマ)とも呼べます。困難に対処する所を見れば一目瞭然ではありますが、特別な機会に巡り合わない限り、本質的な優しさを見抜くのはとても難しいからです。

 本質的な優しさというのは、必ずしも手を差し伸べる優しさではないのです。転んだ子供を抱き起こすのも優しさですが、自ら立ち上がるのを見守るのも愛情なのです。時と場合に応じて適切な対処を取れるかどうかが、その人の霊性・智(知とは異なる)性・人間性を現していて、一辺倒の対処しか出来ないのなら、いくら優しくても未熟ということになります。

 そして、友人や恋人に本質的な優しさを持っている人を選ぼうにも、本質的な優しさを持たない人には、本質的な優しさの意味を見抜く事が出来ませんし、心にゆとりのない人は、見守ってくれる人よりも、手を差し伸べてくれる相手を求めがちになります。それがより不幸を増大させる事になるとしても……結局、私たちの社会は、うわべばかりの優しさが横行して、優しさの真意を見失っているのです。

 あなたは優しさを持ち合わせていますか?

 それは自らが辛い時にも貫けるものですか?

 言葉は取り繕えても結果は取り繕えないものです。あなたが辛い時、そこが正念場であることをお忘れなく。

仁者も身を守る

 もちろん、あなたが人を傷付けようとするのなら、相手も自分の身を守ろうとするでしょう。そして、どんな時も暴力は肯定できませんし、すべきでもありません。そして暴力とは肉体的な暴力だけではなく、暴言や敵意、憎悪も含めてのことです。

 苦しい時に、その苦しみから逃れようと、暴れて人を傷付ける事もあります。そのような時に自分の痛みに囚われていると、知らずに周囲の人々を苦しめている事を見失う事があります。苦しんでいる身からすると、この痛みを受け止めてもらいたいと思うのは当たり前の事に感じられるかもしれません。しかし、誰も好き好んで他人の悪意や暴言・暴力にさらされたいとは思いませんし、他人の困苦、魂の修行課題まで背負いたいとは思わないでしょう。

 困った時はお互い様ですから、辛い時に手を貸し合うのは当然の事にも思えます。しかし、助けるのにも限度があるのです。自ら歩こうとしない者を助けてどうなるというのでしょうか。自分の荷物を背負い、相手の荷物も背負い、挙句、相手まで背負う……それは人助けではなく自殺行為ですよ。

 外部からの援助を求めるのには、自らが助けられるべき価値がある事を行動によって示す必要があるのです。救われるべきは自助努力であって、怠惰ではないのです。その事を勘違いして、自らの怠惰を棚に上げ、相手の「偽りの優しさ」を非難するのならば、あなたは死んでもなお、本当の優しさを知らずにいる事になるでしょう。相手があなたに優しさを見せないのはあなたに問題があるからなのです。

 あなたが人に対して「優しくない!」と非難する時、それは要するにあなたが相手に甘えていることを公言するようなものなのです。

茶碗を割るのは茶碗を洗う者

 「茶碗を割るのは洗う者だ。洗いもしないのに、茶碗が割れたからといって大騒ぎするな」……と、かつて私の母は祖母から言われたそうです。

 人が茶碗を割ったのなら、騒ぐ前にケガの無いように片付ける事が大切です。責任問題は片付けてからでも間に合いますし、まして茶碗を割った者が、割った事に反省がない事は希ですから、あえて周囲が騒ぎ立てる必要などありません。茶碗を割って反省の無いような人なら、必要なのは非難よりもむしろ付合い方です。価値観が違いすぎれば分かり合える事も無いのです。

 気持ちの動転している人に片付けさせるとケガをしやすいから、こういう時に周囲の気配りが大切になります。悪意に対するのに正義が必要でも、失敗に対するのには寛大さを持ってすべきです。

 そして人の努力に無責任な発言をするのは慎むべきです。野次馬はとかく群れやすいのですから。

 その事から、あなたはなにを学べるでしょう?

 人が災難に巻き込まれている時、どのような対応を取るかで人は三種類に分別できます。人の失敗から学べ、自らの向上に生かせる人と、自分で失敗してみないと分からない人、そして自分を含めて誰の失敗からも何も学べない人です。

 この宇宙が神の作り給うたものならば、世の中に不要なものなどありはしません。あるのは使い道が分からないものだけです。あなたは事象からなにを学べるでしょう?

辛い時、あなたに何が出来ますか?

辛い時、あなたは何が学べますか?

魂の牢獄

2006/04/16

悪意

 突然向けられた悪意に人は戸惑います。「私が何かしたのだろうか」と。優しい人ほど、このような悪意に深く心を傷つけられます。

 そして思うのです。「人に悪意を向ける事によって、あの人は幸せになるのだろうか……」と。せめて相手が幸せになるなら、心に傷を負う事も報われましょう。そしてまた、人が幸せになるのに誰かを傷付け、苦しめなくてはならないのだとすると、この世に悪意が無くならないのも、うなずける気がします。

 しかし、深く省みるなら、悪意とは一般に、自らを幸福にするために抱くのではなく、自らの不幸から逃れるために抱くものです。他人にむごい仕打ちをして、自ら幸せになろうというのも動悸からして間違っています。つまり人は往々、自分の苦しみから目をそらせる為だけに他に悪意を向けているのです。何とも不毛な事です。悲しいことに悪意を向ける人も、向けられる人も皆、辛いのです。

 幸せを得るために悪意を抱くのであれば、人には正す余地が残っています。間違った努力は失敗を生みますが、失敗は最大の教師ですから、失敗を重ね、心の傷を増やしながら……そして周囲の憎しみを増しながらも……人は成長を続け、いつしかその事に気が付くのです。このような魂の境地は愚かであっても救いはあります。

 しかし、不幸から逃れるために悪意を抱くのであれば、悔いる余地がありません。悪意を持っている本人もまた、自らの悪意の被害者なので、悪意を抱いても、悪意を捨てても安らぎが得られる事はないからです。むしろ悪意を抱き続けている方が惨めな自分と向き合う必要が無いだけ楽なのです。

 こういう人は、本人は気がついていなくても、自らの魂が追いつめられ、苦しみから逃れようと必死なのです。努力すればするほど人を不幸にしてしまう魂の境地。 ……これこそが地獄です。寝ても覚めても苦しむ人生を歩んでいる人なのです。

 更に言えば、自分の魂の苦しみに気が付いている人はまだ幸せです。その苦しみに耐え切れなくなった時、人に救いを求める事が出来ます。しかし、多くの人は自らの魂の苦しみを幸せや豊かさを求める衝動と勘違いしています。

 人が思い悩む、幸せや豊かさは、主に肉体的な欲求から来るものです。そして欲望の強すぎる肉体は、ただそれだけで魂を苦しめます。身体と魂の欲求がせめぎ合うから、人は苦しむのです。

 結局、地獄の住人は、すべてを失い、悪しき努力をやめ、絶望し、好意の本当の価値を自ら悟るまで、誰にも助ける事は出来ないのです。下手に助けようとすると、その好意を他人を傷付ける事に利用してしまうのです。

 

悪意は麻薬

 悪意を持つという事は、魂にとって麻薬のようなものなのです。麻薬はわずかなら、鎮痛効果をもたらします。痛みに苦しんでいては、心の傷がいつまでもふさがりませんから、時には鎮痛剤も必要です。しかし、鎮痛剤に頼るばかりなら、だんだんその量も増えて行き、最後には作用よりも副作用の方が大きくなって行きます。

 とりあえず人を憎む事で、自分の心を落ち着けられるのならば、その憎悪にも意義はあります。しかし、限度を超せば毒でしかありません。

 自分の心の痛みを忘れる為に人を傷付けてしまえば、自らの心の傷が癒えた時、自分の行いの罪深さに恐れおののく事になります。また、人を傷つければ、いずれは償いが必要になります。そう、自分の為には、他を傷つける事も厭わないのは、行いは必ず精算しなければいけない事を知らない人なのです。

 人は心の痛みに耐える事も出来ますし、受けた悪意に悪意を返さない人もいるから、自分の悪意がささやかな悪行と軽く考えている人もいます。また寛大さを見せる人を相手にしていて、自分の愚かさを反省するのならばまだしも、馬鹿にされているとか、効果が足りないのかと、むきになって悪意を振りまく人もいます。

 しかし、小さなトゲ一つでも、人に大きな痛みを与える事が出来るのに、人の悪意がどれほど相手を傷付ける事になるでしょうか。その事を思えば、自分の痛みに大騒ぎする事の大人気無さを感じなければならないでしょう。

 

些細な悪意が失わしめるもの

 愛する人とは、わずかな別離も辛く、悲しく、憎む人とはわずかなすれ違いすら苦痛となります。そのことを知れば、人を憎むことはなんと愚かなことでしょう。人を愛することで得る苦しみは、誠実でさえあれば、いずれは報われることでしょう。しかし、憎むことで得た苦しみは一体誰が癒してくれるというのでしょうか。

 人を憎むのはなんとも割が合わないものです。出来ることなら憎む前に関係に手を引くべきだと私は思います。しかし、その憎しみの原因が、相手の過ちであるなら、相手の謝罪で償われることもあります。しかし、あなたが相手の欲心や悪意の犠牲になったうえでの憎しみであるならどうでしょうか。

 謝罪を受けることであなたの心の痛みが和らぐかもしれません。しかし、裏切られる以前のように相手を信じることが出来るでしょうか。人は失敗から学ぶことが出来ます。でも、相手は苦しみから逃れるための工夫として一時、謝罪したのかもしれないのです。相手を信じるかどうかは、あなたの魂の試練となります。

 まして、善良に生きようとするものは、疑わしい相手でさえ、進んでだまされることで、天に自らの誠実さを捧げようとするものです。

「もしかしたら思い直してくれるかもしれない……」
 人間愛がだまされる事の覚悟を定めるのです。しかし、一度だまされてしまえば、相手の心根を知るだけになおの事、再びだまされることを潔《いさぎよ》しとしないでしょう。

 善人にも過ちはありますが、当人にとってはささやかなつもりであっても、悪意の持ち主は悪人とみなされます。結局、些細であっても悪意は、自分の信用をとてつもなく失墜させるのです。

 心(霊)を中心に、物事の価値を考えるのなら、何よりも重要なのは、結果よりもむしろ動機(志)なのです。想念の世界においては悪意を記録するのは人の心(霊)ですし、想念の世界に価値ある財産というのは、人々との繋がり以外にはないのです。……それを思えば、悪意が失われるものの大きさが莫大なものである事に気が付くでしょう。

 結果として人を傷付けたとしても、それが過ちから生じたものなら周囲に寛大さが生まれる事もあるでしょう。しかし、悪意から生じたものならば、いかなる形にせよ責めが行われないはずがありません。

 悪意を持ち人を傷付けたとしたら、失うのは傷付けた相手の信頼だけではなく、今まで味方であった人たちすべての信頼なのです。他人というのは見られたくない事に限ってしっかり見ているものなのですから。

 確かに、悪意は自分の幸せのために抱くものではなく、不幸から逃れるために抱くものであり、魂にも、鎮痛剤が必要な時があります。悪意を振りまく人にだって、周囲の人は「今は辛い時期だろうから……」と大目に見てくれる事もあります。でも一線を超えたら……

 ささやかな悪意でも、自分が築いてきた、すべての精神的財産を失わせしめる事もあるのです。わずかな妬みや八つ当たりの代償として、永遠の後悔に苦しむ人が、この世にもあの世にも大勢いるのです。

 

善意

 悪意だけではなく、善意もまた、人を魂の牢獄に押し込めます。善意を施すのは、必ずしも自分の幸せを人に分け与えている人ばかりではありません。不幸な人もまた、善意を施す事があるのです。

 ある貧しい男が犬を飼っています。

 「生活が苦しいだろうに、どうして自分の食べるぶんを減らしてまで犬を飼うんだい?」と訊ねると、

 「だって、こいつは俺よりも貧しいんだもの」と答えた。

 人は自分が「最低」である事を嫌います。優越感が欲しいが為に人に施す事があるのです。しかし、このような善意には、自らの劣等感や罪悪感を上乗せした、相手に対する侮蔑が込められています。

 こういう灰色の善意を贈られた相手は、思うのです。

「私は苦しいが、不幸なのではない」

「助けは欲しいが、私は誇りを失いたくはない」

 善意の皮をかぶった侮蔑の持ち主を、「魔境の住人」と呼びます。魔境とは、住人だけが天国と信じているが、外の者からは地獄と思われる境遇の事です。つまり善悪・上下の価値観が狂った人が、どれほど人に施しを与え、努力しても、間違った努力ですから天国にたどり着く事は出来ません。

 そもそも想念の世界においては善意を記録するのは人の心(霊)しかないのですから、想念の世界に価値ある財産というのは、人々との繋がり以外にはないのです。偽善的な行為から、物質的な豊かさを施しても、暖かな心を施せないのですから、死後にも残る財産は何一つ得られません。

 日本は物質的に豊かになりましたが、心のこもった善意はすっかりと失われてしまいました。つまり、現代の日本人は、「魔境」という偽りの天国で繁栄を楽しんでいるだけということです。

 魔境の住人について歩けば、誰もが皆魔境に迷い込みます。確固とした善悪観の確立はとても大切な事です。

 

傲慢さ

 傲慢な人と関わり、見下された態度に腹が立つ……当然のことです。しかし、その傲慢さを責めてはなりません。そもそも、相手が傲慢に見えるのが、あなたの引け目や妬みでないのならば、相手を嫌うのはあなただけでは在りません。ならばあなた一人が相手の悪意を背負うのは馬鹿げています。

 わざわざあなた一人が恨みを買う必要は無いのです。なにより、人を裁くのは天(摂理)に任せるべきなのですから、人が人を裁くような愚行は慎まなければなりません。当人がどれほど正当性を主張しようと、法治国家で私刑(リンチ)は犯罪ですし、天と地の間は摂理によって支配されて、あなたの情の入り込む余地はありません。

 そもそも、○○が出来ない……という時、能力的にできない場合と、道義的に出来ない場合があります。たとえば、人殺しや窃盗というのは、能力的に出来るとしても良心の痛みからなかなか出来る事ではありません。陰口、うそつき、ネコババなどもまともな人なら良心がうずきます。

 ですから、他人には敬意を払うように躾《しつ》けられた人であるなら、そうそう傲慢な態度、他人を見下した態度など取れるはずもありません。果たしてこういう人を馬鹿にした態度というのは、果たして天性のものなのか、それとも育ちの問題なのでしょうか。

 見下されたら、見下し返す……それでは恨みが恨みを呼んで泥沼になりかねません。相手にしなくても恨む人もいるのに、わざわざ恨みの種を蒔く必要も無いから、私などなら関わらずに済ませたいものです。

 しかし、そもそも、尊大な人というのは人を踏みつけにしなければ自己を保てぬ人なのですから、相手にされなければ自分の自我を支えきれずに苦しみ、のた打ち回るのが普通です。

 自由:自(みずか)らに由(よ)る。

 自在:自(みずか)らに在(あ)る。

 もしも魂が、自由自在であるなら天国にもいけましょうが、他に由り、他に在るなら、他から見放された時に沈まずにいられるのでしょうか……

 生きている限りは、人と共に生きざるを得ません。ですが、人は死ぬ時はただ一人きりです。たとえ事故や災害で同時に死ぬ人がいたとしても、心境・境涯が別であるなら、やはり一人きりであるには変わりありません。

 この依存心が、家族や友人に向ける甘えた心根の持ち主ならば、死後に苦しければ祟りもなしましょう。なんとも面倒なことです。

 ですから、嫌な相手であっても嫌われない程度に、そして好かれない程度に、ひざを屈して付き合うのは、より大きな面倒からあなたを守ってくれることでしょう。

 このような態度は、決して誠実であるとは思いませんが、工夫無くても生きられる善良な世の中ではないのです。相手に、いかに誠実に接するかは、あなたの良心と、忍耐力のバランスの上で、最善を尽くすことです。

 腹が立ったとしても、相手に非があるの事であるなら天の摂理が相手を責める事でしょう。反対に、その腹立ちが、あなたの妬みや僻みによるなら、言動を慎むことで罪過は最小限にする事が出来るのですから。

 傲慢な人を相手に腹を立てても良い事はない。――それでもあなたは、見下されることに不服を抱くのでしょうか?……相手には味方も無ければ天の助けもないというのに。

 尊大で意地悪な連中も、寂しさから群れ集まるものです。でも、それは互いに心を許しあい、助け合う関係にはなりえません。ただ、獲物をむさぼりあうだけのことで、外敵がいなくなれば共食いを始める卑しさをもっています。そのような魂の関係を「群魂」といいます。

 霊界には他にも、霊格を縦軸とした守護霊団や、共感を横軸にした類霊団があります。そして、群魂のなかの平穏さは満腹の野獣の静けさと同じなのです。……その静けさに安住の地を見つけたと思ったら、それは何とも危うい事です。


2006-04-15

自分を味方に

2006/04/16

あなたは誰?

2000年

右手を挙げてみてください。あがりますか?

左手を挙げてみてください。あがりますか?

肉体は素直なものです。

他人なら、このようには動かせませんね。

辛いときには、胃が痛み、恥ずかしいときは赤面する。

本当に肉体は素直なものです。

でも自分が嫌いな人がいます。

自分が嫌いな人は、誰なら好きになれるのでしょうか?

いや、あなたの知っている誰よりも、

あなたに対して素直な……

そのあなたを嫌っているのはいったい誰なのです?

あなたは自分の良い所を知っていますか?

    あなたは自分の悪い所を知っていますか?

自分を知らないままに、自分を嫌いになれるのでしょうか?

自分を知らない人が、他人を知ることが出来るのでしょうか?

・・・・・・・・

知りもしない他人をどうして、好きになれるのでしょうか?

そう、自分を知らない人は、愛の意味を知らない人です。

自分を知らないままに、人が好きになる、

人に愛されたいと願うのは、

 自分のなすべき努力を人にゆだねようとする怠惰な心です。

 それは、愛ではなくて、誤解と怠惰と不誠実です。

相手にも自分にも不誠実な行為です。

これでは自分も相手も不幸になります。

・・・・・・・・

 自分の良い所を伸ばし、悪い所を減らそうとせずに、自分を好きにはなれません。その努力を怠って、「自分が嫌い」と言っていたら、誰があなたを好きになってくれるのでしょう。誰よりもあなたの事を知っているはずの、あなた自身、そんなあなたを嫌っているのは、いったい誰なのです?

 確かに、人の姿は当たり前のように見えても、鏡でもなければ自分を見ることは容易ではありません。姿形は鏡に映せても、心を映す鏡を持っている人はまれですね。霊能者にだって、自分の心を映す鏡を持っている人はまれです。自分のことは霊視出来ないなんて、いっているのですから。山の姿が、山の中にいては見えないように、私たちの心も、自分の利害から離してみなくては、自分の本当の姿が見えないのです。

・・・・・・・・

さあ、自分の心を見つめてください。

あなたはいったい誰なのですか?


あなたは不幸ですか?

ある天気の良い、穏やかな日、      

あなたは他人に煩わされること無く、   

日当たりの良い場所で、昼寝をしています。

物質的な心配事も無く、心は穏やかです。 

 しかし、このような平穏な時は、長くは続きません。天気は変わるものですし、季節は巡るものです。物質的な財産は時と共に減るものですし、穏やかさは退屈に繋がります。外部の影響をまったく受けないというのは、理想的な人格というよりも怠惰な霊性といえましょう。

・・・・・・・・

 悲しい時に泣き、辛い時に嘆き、不正に怒り、幸せな時に喜ぶ。

 それは、当たり前の人間ではありませんか。

そして、当たり前の人生ではありませんか。

 幸せも、不幸も、目の前にあるのではありません。それは遠い先にあります。目の前にあるのは、努力しながら、苦しみながら、悩みながら乗り越えていく障害です。そして、楽しみながら、笑いながら、歌いながら、踊りながら乗り越えていくべき人生の課題です。

本当の幸せは、その障害に取り組んだ先にあるのです。

本当の不幸は、その障害の迂回路に潜んでいるのです。

 目前の障害に、不幸を感じた時、あなたはすでに真の不幸への第一歩を踏み出しているのです。


なぜ苦しむのでしょう?

 目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。目先の問題を取り除けば、幸せになったと信じられる幸福な人です。しかし、人生の帳尻は、必ず合うことになっています。取り除かれた問題とは、いずれ人生のどこかで再び取り組まねばならぬのです。

人生の諸問題をすべて解き終わるまで、

真の幸せはありえません。

 人の助けで、または責任を回避することで回答を先送りにした人は、いずれ訪れるであろう再試験を恐れつづけなくてはなりません。

恐れは、人間を卑屈にします。

年老いても、卑屈な人間は惨めです。

 人生の諸問題をあざけり、回答を拒む人もいます。

これは傲慢です。

年老いても傲慢な人は孤独です。

傲慢な人は、死んでも孤独です。

彼らには、死んで無になるか…霊界の存在を最後まで信じないか

彼らには、死んで地獄に落ちるか…努力を怠って高級霊界に行けるはずも無く

やはり、人生の帳尻は、必ず合うのです。

目先の不幸を嘆く人は、真の不幸を知りません。

不幸の真の原因を明らかにしなくては、真の解決を得られないのです。

目先の問題に囚われていると、真の幸せも得られません。

人生の帳尻は、必ず合うことになっています。

努力という、代償を惜しむと、結果としてより多くの不幸という形で帳尻を合わされることになるのです。

・・・・・・・・

あなたは幸せですか?

 

不幸だとしたら、誰があなたを苦しめているのでしょうか?

・・・・・・・・

 人は往々、自分を不幸にするために努力します。なぜでしょう?


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