‘2006/04’ カテゴリーのアーカイブ

リズム――自分を見失わぬ為に。

2006/04/16

 物事が成るには時機があります。早すぎても遅すぎてもうまく行かないし、うまく行かないどころか逆効果になることもあります。

 そして、相手に伝わるには速度があります。焦って伝えようとしても誤解が生じるし、かといってノンビリしていると相手の関心がよそに向いてしまいます。

 時機の捉え方、速度調節の上手な人はとても効率よく成功を収めていきますが、往々、当人さえも、成功要因が何であるのかに気がついていません。知識や思想、才能が成功要因である自負するのは、単に己がそれを頼みにしているというだけのこと。いくら才能があっても周囲とうまく噛み合わなければ才能の芽が積まれてしまうことでしょう。周囲の人々とのリズムも大切ですが、人生には見えざる運気が在り、そのリズムに合わせることも大切です。

・・・・・・・

 人間関係を眺めていると、他人のリズムを崩す人は、周囲に災難を及ぼします。災難とまでは行かなくとも、周囲の成績を貶めたりいたします。……リズムはとても大切です。早すぎても遅すぎてもいけないし、なにより、他のリズムを崩してはいけません。……むろん、自分のリズムを崩してもいけません。

 焦る人にはにこやかに接し、ノンビリ屋には、こまめに声を掛けることです。すると相手はリズムを整え、持っている才能を活かすことが出来ます。


2006-04-16

 

思慮が浅い

2006/04/16

物心両面の豊かさ

 将棋は、敵味方双方、駒の数も駒の種類も同じなら、番面の広さも同じです。唯一違うのは先手、後手があるだけです。条件はほとんど同じなのに、どうして実力に差があるのでしょうか?

 知力の差ともいえますが、もっと大切なことが有ります。素人ほど、使いやすい駒ばかりを使い、多くの駒はまるで動かさずに勝負に臨むということです。活用されていない駒、いわゆる死兵が多いのですね。与えられた駒と盤面は同じであっても、活用の度合いが違うから、勝負に差が出るのです。人間と知性の器が、駒を制限すると言ってもよいでしょう。

 さて、快楽主義者は道義を軽視しても物質的な豊かさを追いかけ、精神主義者は欲心を軽蔑して精神的な豊かさを追いかけます。このように極端に走る事は、古今東西の聖人達の戒める事であります。
 真の道は中道にあり、精神性が全ての霊界から、わざわざ物質世界に生まれ出てきた事を知る(または信じる)心霊主義者は、両極端に走ることなく、全てを活用して、人生の目的を果たすべきです。

 つまり、物質にせよ、精神にせよ、その豊かさに溺れず、豊かさの中で安穏とせず、物心両面の豊かさを人生に活用していくのです。

不足があれば知恵で補い、補いきれなければ努力で補え

 物心両面の豊かさの追求が、物質世界での隠れた目的なのです。その努力の過程で良質な経験が数多く身に付きます。ですから欲心を否定する必要は全くありません。問題なのは欲心に支配されることなのです。物欲が勝っても、精神的な欲望が勝っても、物質世界の特質を活用しているとは言えなくなるのですから。

 

博打に身をゆだねる?

『へぼ将棋、王より飛車を可愛がり』

 手段と目的を履き違える、人生のへぼ棋士が失うのは、勝ち負けではなく、人生なのです。人間は死んだら無? それでは博打、では、死後の世界が全てか? と問うなら狂信者以外は不安を抱いて当然です。なにしろ人間の知覚外にある世界なのですから。これも信じるのは博打と言えます。

 ですから私がお勧めするのは、大勝ちではなく負けない方法の選択です。今を確かに生きる。後悔の無いように生きる。それが大切だと思います。実に当たり前のことですよね。
 しかし、心霊を学ぶ多くの人に、この当たり前のことが出来ません。他人の意見は、どんなに親身な意見であっても参考であって答えとは呼べません。人の意に従って失敗したとき、恨みを抱くようではやはり主客転倒と言えます。必要なのは人の知恵を我が物にするのであって、誰かの指図に従うことではないのです。 そもそも、人を当てにして人生の困苦にぶつかろうなどと言うのは、自分の人生を生きているとは言えません。人の手駒になるために地上に生をうけたのでもないのです。

 

補足

 死んだら無になると信じる人は、ただ浪費し、非難し、そして創造的なことは行なわない人です。創造的な仕事をする人は、生まれ出たことの喜びを知っていますし、物の価値に理解がおよぶものです。

 創造的な仕事を行なう人は、インスピレーションを物質世界で表現する専門家でもあります。だから霊的な知識を理解しやすい人でもあります。しかし正しい価値判断の基準をもたなければ、人を感動させる力は持ち得ません。的確に人々をリードできるだけの高いインスピレーションを得られないからです。

 そして、職業が創造的であっても、ただ浪費し、非難する人もいます。創造力を処世術で補おうとするからです。


2006-04-16

 

地上で学ぶべきもの

2006/04/16

 そもそも、精神性がすべての事象を生み出し、自己表現の自由な場である霊界から、わざわざ暗く、鈍く、不自由な物質世界に生まれてきたのは一体なぜなのでしょう。……それを考えてみてください。

 人生は魂の修行の場といわれますが、具体的にいうなら、思慮深さと忍耐と工夫する力の育成である事が地上の特質から見て取れます。

 つまり、不自由に負けず、使いにくくても放り出さず、それらを生かす忍耐力。そして、いかなる困苦や逆境をも目的達成の手段に用いる、魂の柔軟性と強さの鍛錬なのです。

 守護霊は霊界にありながら、欲望に囚われ、勘が鈍く、目先のことに囚われて、気分屋な人間を指導していかねばなりません。その守護霊はどの様にして霊性を磨いたのか、どの様なことを重視して霊性を磨いたのかというなら、まさに地上において、忍耐力と柔軟性と強さを鍛えていったのです。

 ですから、私どもが、地上にあって、辛い、苦しいという気持ちを、守護霊はとても良く理解してくれます。しかし、守護霊達も同じ困苦をくぐり抜けてきたのです。私どもを容易に甘やかせてはくれません。


2006-04-16

中身を知らない(信仰心)

2006/04/16

2006年 04月 15日


 時々、聞かされるたわごとであるが、神様が助けてくれないなら、悪魔信仰をする……当人はそれなりに真剣なのであろう。だが、真摯な信仰者は、こういう発想を、「御利益信仰」と呼んでいる。当人は神を信仰しているつもりでも、傍目からは見えるのは、御利益を得ることが第一義であって、神も悪魔も、無論仏も、御利益の中継ぎ役でしかないのである。

 端的に言えば、最初から御利益を拝んでいるのであって、神も、悪魔も拝んでいない。徹頭徹尾、御利益宗の信者であって、神も悪魔も御利益大神の眷属扱なのだ。ならば、神様の代りに鰮の頭を拝んでもたぶん状況は変らないだろう。

 これがたとえば、霊障に苦しんでいる人が一時囚われる妄想としての悪魔(悪霊)信仰は更に屈折している。ようするに神様が助けてくれないなら、悪霊に降伏してしまおう、という発想だ。……だが、悪霊は降伏を強いているのではなく、肉体の支配をもくろんでいるのである。つまり降伏などというのは一方的に抵抗を止めるというだけであって、先方がそれに従う必然性を持ってはいない。

 いや実際問題として、悪霊に降伏しようか等という発想は、高級霊等からの試練……覚悟を試されているのが本当だろう。道義よりも利益に色目を使いがちな人に与えられる試練である。

 ところで、この話題に(内々)興味を持つ人にとって、一番の関心事は、「何を信仰すべきか」というテーマかも知れない。これは浅野和三郎氏の著作などを見れば、「邇々藝命《ににぎのみこと》であるべき」と繰返し書かれているが、試してみて欲しい。邇々藝命信仰をして何らかの手応えを受ける人もいれば、受けない人もいるだろう。……同じ信仰対象を持っても、その効果に差があることが、一部の人達を無神論に傾けさせる原因ではないか。おそるべきは人の妬みなのである。

 だが、同じ信仰対象を持っていても、人それぞれに異なるものがある。その人々の境涯、そして、信仰心の在り方だ。この問題に気が付いた人は古今数多いが更に困ったことに信仰心は、目で見て比較が出来ないことである。

 ならばいっそ、どういう心境で信仰したときに手応えが強いのかを研究してみれば良さそうなものだが……無論、私はやっている。精神統一だ。心を静めて祈る。その祈りに手応えが感じられるのは自分の心がどういうときであるのかを常々内観している。

 その上で思う。信仰対象が大切なのではない。自身の信仰心、もっと砕けた言い方をするなら、敬いの心が大切なのだ。

・・・・・・・

 ところで、私は、朝、目が覚めて起きあがるまでの数分間、寝ぼけた状態から意識が目覚める間に本を読む習慣がある。今朝読んだのは、下村湖人著 「論語物語」だったが、ふっと感じるものがあった。

「現今では、親を養ってさえいれば、それを孝行だといっているようだが、おたがい犬や馬まで養っているではないか。孝行には敬いの心が大切だ。それがなかったら、犬や馬を養うのとなんの択ぶところもない」

・・・・・・・

 この問題は、同時に恋愛問題にも当てはめられるだろう。浮気を繰返す伴侶は、真の愛を抱いているのか……多くの人は「浮気な愛」を否定するだろうが、問題は敬いの心の有無であろう。

 いわゆる信仰の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。
 いわゆる愛情の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。

 信仰も、愛情も、孝行も、ただそれだけに価値があるのではなく、その成分が大切であり、その特に重要な成分は、一般に「敬い」といわれているものだ。……呼び名が同じでも成分が異なれば性質も異なるのである。

 成分を知らずに本質を知っていると錯覚し、呼び名にこだわり、呼び名に騙され、意味が分らぬと途方に暮れる。

……なぜ分らないのか? 理解せずに理解を求め、不器用さを「自分らしさ」と言い訳し、周囲への愚鈍さを「我侭だから」と開き直ってみる。… …他人の同情なくして生きらぬ、依存の強い生き方をしているのだから、分るはずもない。


信じる心

2006/04/16

 自分を信じる事は大切です。それは力を生み出しますから。

 何かを信じる事は大切です。それは力を増しますから。

 しかし、何かを信じても行うことがなければ、霊性の向上も魂の向上もありえません。

 そして充分な霊性を持たないと、信ずるに値するものを見分ける事も出来ません。

 学ぶ事、行う事、そして信じる事、良い人生を生きるためには、バランスが大切です。


2006-04-15

日本的信仰生活

2006/04/16

2004年07月10日・心霊研究掲示板
2004年08月15日・加筆修正

 

 日本人は、クリスマスを祝い、新年には神社に行き、葬式は仏式……と、節操のない宗教観の持ち主であると、日本人自身が思いこんでいますが、これは日本人の宗教観が逆に健全であるからだと私は思っています。

 そもそも、宗教宗派に拘るというのは、まず最初に、信仰対象があり、その信仰対象をどう称えるか(卑屈にいえば、どうおもねるか)を考える結果だと想うのです。それに対して、日本人の本来の宗教観は、先に信仰心……すなわち、超越者・先駆者に対する敬意の念があり、その敬意の念の表現方法として宗教宗派、又は宗教儀式が有るのでしょう。

 幸せにして欲しいから信仰するのではなく、すごいと感じたから信仰する。それが日本人の精神性だと感じるのです。だからこそ、外国の優れたものをどんどん取入れもするし、怨霊さえも神様として祀ってしまうことをするのが日本人です。

 先に信仰対象があると、他の優れたものを賞賛することが難しくなる……そういう器量の小さい所が熱烈なる宗教家には多々見られますよね。一方、宗教宗派を問わずに、私を幸せにして……というのもなにやら強欲な話です。所詮、神とか悪魔とかの分類が、自分にとって利益になるか否かの違いだとしたら、結局、信仰対象が先にある信仰心というのは欲の働きとしか私には思えません。だからこそ、欧米の宗教では「霊性の向上」が重視されるのでしょう。最初は欲の働きから信仰に入っても、最終的に神に繋がればそれでよし……そういう思惑が見え隠れします。

 現実問題として、現代日本でも、信心深い人というのは、欧米的に先に信仰対象のある人が大半を占めているようですから、欧米的に霊性向上が必要でもありましょう。しかし、日本古来の精神スタイル……先に信仰心があり、拝む対象はそれこそ蚕《カイコ》でも鰯《いわし》の頭でも良いというなら、そこで重要なのは、対象のその先にある何か、をより理解するための霊性深化かも知れません。すなわち、「表面的な理解」といういわば、偏見に陥らぬように、自分をより深く知る事を大切にする事が大事といえましょう。

 私がこのように感じるのは、現代の書店で入手可能な神道に対する入門書を見ての事です。どうにも一般的な神道の書物というと、神話紹介、御利益案内、神社観光、呪術紹介といった事柄ばかり、それが日本人の精神性の根元だというのなら、エコノミックアニマル、日の丸観光団、そして、「フジヤマ・ゲイシャのエキゾチックジャパン」……現代日本人への偏見そのままではありませんか。

 ああ、辿っていくなら……はじめに「信仰心ありき」という日本人が滅びたからこそ、日本人は上海事変から太平洋戦争へと乗り出していったのかも知れませんね。


欲が神仏を拝む

2006/04/16

 私も、社寺を歩くのが好きですが、参拝というよりも拝殿で精神統一をすることを目的にしています。この精神統一というのは、「心・霊」の統一ではなく、「心・霊・体」の統一のことです。

 ある時、熱心に(延々と)参拝している人がいて、拝殿前が開くのを待っていた時のことです。

『祈りが長いのは、欲が拝んでいるからだぞ』と、突然聞こえました。

 欲が拝んでいる……?

『宗教などといっても、人が神を拝んでいるのは稀で、大抵は欲が神を拝んでいる。魂が呼ぶなら応えもしようが、どうして欲心などに応えよう』

 なるほど、同じ人が拝むのでも、欲もあれば、魂の祈りもあるというわけか……しかし、地上で生きている限り不足が付きまといますから、自然と欲が出る事もあるでしょう。すると、自身の祈りが欲なのか、魂の発露なのか、自分で判断するのも難しいものですよね。せめて、欲心に自身の主導権を取られぬように注意いたしましょう。


2000年

友へ

2006/04/16

心優しき友へ

2002年6月3日 心霊主義・掲示板より

 心優しき人を想う

 自然と心が優しくなる

 あの人を想い手紙を書く

 言葉を選んでいると

 幸せな気持ちになれる

 たとえ相手が苦しみの最中にいて、

 それを励ます手紙を書いている時でも

 言葉を選んでいると

 幸せな気持ちになれる

 互いに辛くても

 不幸ではないから

 心配で胸が張り裂けそうでも

 想える人がいる事を幸せに感じる

 同じ時代に生を受け

 生きる時を共有できた事を幸せに感じる

 悩みや苦しみが尽きぬとも

 一生懸命に生きた事は誇れると思うから

 でもやはり

 心優しき人には穏やかで

 安らかに生きて欲しい

 その笑顔が見たいから

 私も笑顔でいたいから

 心優しき友を想う時

 心配するよりも幸せを祈りたい


友を想う

2002年6月10日 心霊主義・掲示板より

 友人に心配事があった。
     私も心配した。

 友人は私が心配しているのではと心配した。
     その事も私は心配した。

 相手を思う事、気遣う事で、
     心配が心配を呼び、
        双方の心配が雪達磨式に膨らんでしまう。

     私は「心配」を天に預けた。

 「助けて!」と言われたら駆けつける覚悟を胸に仕舞い込み、

     友の無事を祈る。

 友に何もしてあげられなくても、
     心配だけはさせたくないから。

 水垢離して、雑念を洗い流し、
     心配する代わりに、無事を祈る。

 考えてみれば、ごく当たり前の日常が
     ただ、毎日過ぎていくだけだ。


一人ではないよ……

2002年10月9日 心霊主義・掲示板より


 一人の寂しさを知るものが
    大勢の中で癒されるとは限らない。

 一人の寂しさを知るものは、
    本当に優しくなれる。

 人の中にいて感じる孤独は、
    癒される希望がないから。

 一人の寂しさを知るあなたは
      決して孤独ではないのです。

 本当に孤独なのは、大勢の中にありながら
      人の心の温もりを知らない者。


 一人じゃないよ、孤独の意味を知るあなたは。

  自分が求めるように、人に優しくすればいいのだから。


信じる心

2002年10月9日 心霊主義・掲示板より


 あなたの生き方
  あなたなりの生き方が
   あなたにとって一番大切だから

 あなたを想うわたしが
  あなたのために一番大切に想うのは
   あなたが、あなたらしくあること

 想い合う私たちが、一番大切にするのは
 自分らしくありながら、互いを大切にするその心


試練

2006-04-15

 友ある限り
  どれほど嫌な事であれ
   どれほど辛い事であれ
    私は試練を厭わない

 試練があれど
  どれほど嫌な事であれ
   どれほど辛い事であれ
    それは友との絆を鍛えるものだから

 試練をくぐりぬけた者しか得られない
  友の信頼と、温みが心地よいから
   友情の価値を知る、私は試練を恐れない


強く生きる

2006/04/16

袋小路

 私は心霊相談を通じて、論理の袋小路に入って、苦しんでいる人を大勢見てきました。……そして、人間の視野がとても狭い事を実感します。ならばこそ、自分の小ささを素直に受け止め、後は神仏なり、天なり(または各自の信仰対象)にまかせ、出来る事を出来る範囲で努力するべきだと思います。

 案ずるよりも生むがやすし。

 念仏にせよ、座禅にせよ、いえ、仕事でも掃除でも草むしりでもスポーツでも一心に行う。一心に行う事を「三昧《ざんまい》」と呼びますが、「三昧《ざんまい》」は、変に思い悩むよりも賢い選択だと思います。悩んでもどうにもならない事を、悩み続けていては他が疎かになってしまいます。それでは一つの困苦が大きな不幸の切っ掛けになってしまいます。

 たしかに、吹っ切る……迷いを捨てる事の難しさはあります。それも歳を重ねるほど、迷いを棄て難くなるのでしょう。だからこそ、迷いはすばやく捨て去る事です。

信仰心

 不幸にして人の心を救うべき宗教が、人を食い物にしているのを昨今は良く目にします。しかし、思い悩んでも解決しない事をいつまでも思い悩んでも、他の事が疎かになるだけです。 まして、人は孤独です。分かり合った気がしても、肉体という殻に閉じこもった魂同士は、どうしても分かり合えない一線を持ち続けます。

 またどれほど物質的な財産を集め、持とうが死は突然訪れ、財物で死を免れる事は出来ません。物質的な豊かさなくして、幸福がないとしても、物質的な豊かさは幸せを保証したりはしません。人は弱いものなのです。そして、弱さを持つ事は決して恥じるべき事ではありません。

 むしろ虚勢を張り、仮面の下で安心をしている方がよほど危険なのです。苦労人には容易に他人の弱さが見抜けるのですから、隠しているつもりになっていると逆に相手に手玉に取られてしまいます。

 信仰は心を補完するものなのです。そして、宗教が悲劇を生み出すのは、被害者の心が弱い為ではなく、被害者が神仏に利を求める所にあります。

 心の安らぎを求めるだけなら信仰は神仏と信者の一対一の対話となり、宗教家の存在は単なる介添え役に過ぎませんが、利を求める者にとって信仰は、宗教家こそが信仰対象となってしまうのです。神仏は決して金もうけの方法や健康になる方法などを語り掛けてはくれないからです。

 くれぐれもお間違いの無いように。

 豊かさは祈りからではなく努力から生まれるのです。そして安らかさは努力からではなく、祈りから生まれます。豊かさの求め方と、安らぎの求め方をお間違えなきように。御利益を求める信仰ではなく、心安らげる信仰をお持ちになってください。

失敗を恐れずに

 人生を全うする上で一番大切なのは、人生の目的を知る事です。目的を知らずに、目的が果たせるはずがありません。そして、誕生は偶然ではなく必然であり、人生は霊性向上の修行の場というのが心霊主義の考え方です。

 霊性向上の為に生まれてきたのですから、当然、過ちも無く生きる事は不可能というよりも、無駄以外の何物でもありません。過ちはなるべく少ない方が良いし、行動しなければ失敗も無いでしょうが、失敗は最良の教師ですし、行動を慎めば霊性向上の機会もまた失われてしまうのです。

 また、信じる事が無ければ騙される事も無く、愛する事が無ければ裏切られる事もありません。しかし、愚者は経験から学び、知者は本から学ぶといいますが、人を信じ、人を愛し、苦楽を共にすればこそ、他人の体験を自らの智慧にする事も出来るのです。

 一人の努力はしょせん、一人の努力にすぎません。そこから学び取れるものはしょせん一人分に過ぎないのです。しかし、人の経験を自らの知識に出来るのなら、転生数回分の修行が一度の転生で出来る事になります。騙された事、裏切られた事を後悔しないでください。

 あなたが思うよりもはるかにこの世は霊界よりも住みにくく、あなたが思うよりもはるかに、この不自由な世界に生まれてきたことには意義があります。あなたが死後、遣り残したことを片付けに地上に舞い降りなければならないと知った時、きっと地上で死刑の宣告を受けるよりも苦しいと思い起こすことでしょう。

自分を苛めないで

 臆病で、姑息で、愚かであったとしても、その事を罵ろうが、泣き喚こうが、やはり自分自身である事には変わりありません。たとえ足りない所や、弱い所があったとしても、それを知恵や努力や、周囲の者たちと助け合って人生を全うするべきです。

 誰の人生でもなく、自分の人生なのです。自分を辱め、貶め、そして敵に回したからといって人生の道のりがなだらかになる事はありません。自分とは争わず、きちんと折り合いをつけるべきです。

 同じ苦労をするのでも、自分と仲良く苦労すべきです。くれぐれも人生の困苦の中で自分自身に足を引かれる事の無いようにすべきです。

 一番長い付き合いの知人で最大の利害共有者である自分自身を味方にしなくては、たとえどれほど力のある霊能者や宗教家に出会ったとしても、あなたが救われる事などありはしないのです。

幸せになってください

 本来、悪意は他者を傷つけず、悪意を抱いた本人を傷つけるものなのです。なのに他者からの悪意を受けて傷つくのは、人の善意を求めるからなのです。人は自らの利益にそって行動します。自らの利益は自ら守る努力をしなければ誰があなたを守るというのでしょう。優しさだけでは生きていけないのです。

 人と接する時は、感情ではなく魂を感じてください。

 共に困苦に乗り越えようとする魂、喜びを分かち合おうとする魂。言葉でなく、その心を感じ取ってください。分かり合う事、労り合う事。相手の言葉尻を追いかけて、傷ついたりしないように。優しさは無制限に与えられる物ではありません。

 人々の魂を救うのは天に任せて、あなたは自分に出来る事を、出来る範囲で行えばいいのです。

 人の分まで苦しみを背負っても、自分の人生がおろそかになれば、あなたは人生の落伍者となります。ですから、もっともっと幸せになってください。親切は、余った分を無駄にせぬように……と人々に施すものなのです。


2006-04-15

あなたに出来る事

2006/04/16

災難を幸運に転じる人

 あなたの苦しみを受け止めてくれる人は、人生において得難い友人となり得る人です。その人は高い霊性を持ち、災難を幸運に転じる力を持っているからです。

 なぜか?

 人生は霊性向上の場なのです。苦難から逃げる人には苦難が利子をもって追いかけてくるし、苦難を自らの霊性向上につなげる人なら、努力の配当を受けられるからなのです。何よりも苦難を乗り越えてきた人ならば、苦難を乗り越える方法を知っているのです。それがあなたの人生に生かせない筈がありません。

 自ら苦難を乗り越える努力をした人以外に、人の優しさや気遣いの本当の価値など分かる筈もなく、達成感を知らない人が本当の幸せなど理解できないのです。不幸でないのが幸せ……そう思える人には、苦難を乗り越えた先にある、至福を理解する事など出来ないでしょう。

 どうか忘れないで下さい。急な坂道は頂上への近道なのです。

 今苦しみにあえぐあなたには、周囲の景色を見回すゆとりなど無いかもしれません。しかし、真摯に困苦と取り組むあなたは確実に頂上に近づいているのです。その事は困苦を一つ乗り越えた時に実感できる事でしょう。どうか忘れないで下さい。苦しんでいる事は不幸なのではありません。達成感を知らない事こそが不幸なのです。

 いくら楽だからといって、下り坂ばかり歩んでいては絶対に山の頂に達することは無いのです。

本質的な優しさ

 優しさとは人類が集団生活を続ける中で育ててきた特質なのです。ゆとりさえあるのなら人は誰でも優しくなれます。しかし、困苦にぶつかった時にも優しさを維持できる本質的な優しさを備えた人と、困苦に負ければ進んで優しさを放棄する、うわべだけの優しさを持つ人がいます。

 優しさの価値は、その態度ではなく、深みにあります。

 どんな浅ましい人間でも、自分に利益をもたらす相手には、優しさや気遣いを見せるのが当たり前です。しかし、いくら優しい人であっても、利益を違えれば優しさも気遣いも無くなるのもまた当たり前の事なのです。

 自らの利益は自ら守る以外に誰が守ってくれるというのでしょうか。自分の利を追い求める者を誰が非難できましょうか。ただ確かなのは、うわべばかりの優しさの持ち主は、本当に辛い時に手助けどころか災厄をもたらすであろうということです。困苦を共にするには優しさだけではなく誠実さも大切な特質なのです。

 友人や恋人に選ぶのに、本質的な優しさを持っているか、いないかという判断はとても重要になります。人生は山あり谷ありで、幸せな時もあれば、辛い時もあって当たり前なのです。幸せな時にどれほど楽しい相手でも、辛い時に頼りになる相手とは限りません。そして本当に友人や恋人に側にいてもらいたい時とは、あなたが一人でいると辛い時の筈です。

 本質的な優しさを持たない人でもあなたに幸福感を与えてくれることもあります。しかし、あなたの不幸感を減じてくれる事はなく、むしろ、より増大させる人なのです。うわべの優しさは、人生の転機において、必ず不幸な方向にあなたを導きます。

 さらに残念な事に、人には、痛みを他人に押し付けられない人と、むしろ進んで他人に押し付ける人の二種類いるのです。

 あなたの人間観察力の評価は、悲しいことにあなたがとても苦しんでいる時に露になります。苦しい時に信頼する人から追い討ちをかけられたとしたら、あなたの人物評価は大間違いであったということなのです。

 しかし、本質的な優しさを持たない人と巡り合い、友好や愛情を結ぶのは、ある意味一種の業(カルマ)とも呼べます。困難に対処する所を見れば一目瞭然ではありますが、特別な機会に巡り合わない限り、本質的な優しさを見抜くのはとても難しいからです。

 本質的な優しさというのは、必ずしも手を差し伸べる優しさではないのです。転んだ子供を抱き起こすのも優しさですが、自ら立ち上がるのを見守るのも愛情なのです。時と場合に応じて適切な対処を取れるかどうかが、その人の霊性・智(知とは異なる)性・人間性を現していて、一辺倒の対処しか出来ないのなら、いくら優しくても未熟ということになります。

 そして、友人や恋人に本質的な優しさを持っている人を選ぼうにも、本質的な優しさを持たない人には、本質的な優しさの意味を見抜く事が出来ませんし、心にゆとりのない人は、見守ってくれる人よりも、手を差し伸べてくれる相手を求めがちになります。それがより不幸を増大させる事になるとしても……結局、私たちの社会は、うわべばかりの優しさが横行して、優しさの真意を見失っているのです。

 あなたは優しさを持ち合わせていますか?

 それは自らが辛い時にも貫けるものですか?

 言葉は取り繕えても結果は取り繕えないものです。あなたが辛い時、そこが正念場であることをお忘れなく。

仁者も身を守る

 もちろん、あなたが人を傷付けようとするのなら、相手も自分の身を守ろうとするでしょう。そして、どんな時も暴力は肯定できませんし、すべきでもありません。そして暴力とは肉体的な暴力だけではなく、暴言や敵意、憎悪も含めてのことです。

 苦しい時に、その苦しみから逃れようと、暴れて人を傷付ける事もあります。そのような時に自分の痛みに囚われていると、知らずに周囲の人々を苦しめている事を見失う事があります。苦しんでいる身からすると、この痛みを受け止めてもらいたいと思うのは当たり前の事に感じられるかもしれません。しかし、誰も好き好んで他人の悪意や暴言・暴力にさらされたいとは思いませんし、他人の困苦、魂の修行課題まで背負いたいとは思わないでしょう。

 困った時はお互い様ですから、辛い時に手を貸し合うのは当然の事にも思えます。しかし、助けるのにも限度があるのです。自ら歩こうとしない者を助けてどうなるというのでしょうか。自分の荷物を背負い、相手の荷物も背負い、挙句、相手まで背負う……それは人助けではなく自殺行為ですよ。

 外部からの援助を求めるのには、自らが助けられるべき価値がある事を行動によって示す必要があるのです。救われるべきは自助努力であって、怠惰ではないのです。その事を勘違いして、自らの怠惰を棚に上げ、相手の「偽りの優しさ」を非難するのならば、あなたは死んでもなお、本当の優しさを知らずにいる事になるでしょう。相手があなたに優しさを見せないのはあなたに問題があるからなのです。

 あなたが人に対して「優しくない!」と非難する時、それは要するにあなたが相手に甘えていることを公言するようなものなのです。

茶碗を割るのは茶碗を洗う者

 「茶碗を割るのは洗う者だ。洗いもしないのに、茶碗が割れたからといって大騒ぎするな」……と、かつて私の母は祖母から言われたそうです。

 人が茶碗を割ったのなら、騒ぐ前にケガの無いように片付ける事が大切です。責任問題は片付けてからでも間に合いますし、まして茶碗を割った者が、割った事に反省がない事は希ですから、あえて周囲が騒ぎ立てる必要などありません。茶碗を割って反省の無いような人なら、必要なのは非難よりもむしろ付合い方です。価値観が違いすぎれば分かり合える事も無いのです。

 気持ちの動転している人に片付けさせるとケガをしやすいから、こういう時に周囲の気配りが大切になります。悪意に対するのに正義が必要でも、失敗に対するのには寛大さを持ってすべきです。

 そして人の努力に無責任な発言をするのは慎むべきです。野次馬はとかく群れやすいのですから。

 その事から、あなたはなにを学べるでしょう?

 人が災難に巻き込まれている時、どのような対応を取るかで人は三種類に分別できます。人の失敗から学べ、自らの向上に生かせる人と、自分で失敗してみないと分からない人、そして自分を含めて誰の失敗からも何も学べない人です。

 この宇宙が神の作り給うたものならば、世の中に不要なものなどありはしません。あるのは使い道が分からないものだけです。あなたは事象からなにを学べるでしょう?

辛い時、あなたに何が出来ますか?

辛い時、あなたは何が学べますか?

お知らせBy老神いさお。

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移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

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 大阪オフ会は10月9日(土)に開催します。参加ご希望の方は、メール・フォームメール等でお申込みください。

・10月度東京オフ会: 
 10月度東京オフ会は10月16日(土)に開催します。参加ご希望の方は、メール・フォームメール等でお申込みください。

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