‘2006/04’ カテゴリーのアーカイブ

胎教と幼児教育

2006/04/19

 (A)廬氏の回答

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q 「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 個々の手段については割愛する。

顰蹙――にならう犬猫を育てるだけならエサを与えさえすればよい。だが人の子を育てるというのは、その心を育てるということだ。音楽を聴かせ、オモチャを与え、教材を与える……だが子供の欲求を酌み取ることなくただ与えるだけなら、犬猫を育てるのとどう違うというのだろう?
 大切なのは、目をかけ、気配りをし、子供の欲求にしっかりと応えることである。……つまりは愛情をかけるということである。その愛情の発露としての胎教や、幼児教育であるならことさらにいうべき事など無い。昔から智慧ある婦人等が心掛けてきたことであるから。
 だが、子供の欲求を損なう形で押しつけるような、物まね胎教、物まね幼児教育は、思うような結果を得られまい。

顰蹙: 「蹙(美女)の顰み(しかめつら)にならう(真似する)」

純粋さを育てる――私には子供がいない。だが、私は多くの純粋なる「子供等」を育ててきた。いや、大人の邪気を取り去って子供としたのである。

 であるからいう。

汝に邪念はなしか?――分不相応の子を得て、誉れの美酒に酔いたいという欲はないか? 今時の子等はアレルギーなどで苦しむとか。水や空気や食い物に安心が出来ぬということだが、世の親が子を思う気持ちには毒が含まれていないのか?

胎教よりも邪気を抜くべし……子の非行を見て涙で邪気を吐くのではなく、日常生活の中で邪気を吐き、無邪気な子供を毒さぬようにすべし。それを忘れて何の胎教か!


(B) 某氏の霊より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

心霊主義掲示板の投稿を読んだ後、 入浴中に懸り、いくつかビジョンを見せた後、「(ラフ原稿を)適当に味付けして出しておけ……」とのこと。努力してみた。

1,胎教について

 母親の笑顔(が醸し出す雰囲気)に敵う音楽はなし。母親が聞いてリラックスできる音楽を聴くなら良い。瑣事を忘れて聴くときには一心に聴くべし。だが、胎教と特別な気持ち、義務感から音楽を聴くなら、音楽を馬鹿にする子に育つ。

2,幼児教育について

 気配りの出来ない親が、いくら熱心に教育したって、犬に芸を教えることも出来ない。子供に為すべき事は「子供」に訊け。 


(C) 小嬰氏より

心霊主義掲示板への回答として

06年4月19日 

Q「胎教、および、幼児教育について教えを乞う」

 私が思いますに、胎教・幼児教育はとても大切です。それの施されていない子と比べて見ると、よく分ります。ですが、せっかちな人では良く教育が出来ません。早くから教育をすべきであるというのは、日常生活の何たるかを理解しない大人のいうことです。

 先ず、真の胎教・幼児教育には、目標を定めねばなりません。たとえば君子に育てたければ、親は君子に接するが如き気分で日々を送るべきです。士に……(武士というても良さそうです)……育てるなら、親も士として振るまい、鳶が鷹を生むかのような不自然な願いはお止めになることです。

 親が子に嘘をつきながら、子供の非行に涙するなどというのは、天罰と思わねばなりますまい。……自然に接すれば、その子の持っている天与の才が開花いたします。

 作為で引き出そうとするのは助長……折角の才能も親が不躾でダメにしている例は非常に多うございます。


幼児向けの教育が必要なのは親の方だ

2006年04月20日

 胎教・幼児教育に関する質問(質問者を、ではない)は掘り下げると奥が深い。

 必要なのは胎教や幼児教育の手段だろうか? 親の個性、子供の個性に合わない方法であれば、教育が親子間の信頼関係を歪めはしないか。親が嫌々勉強しているのに付合わされたら、体感的に子供も勉強が嫌になるだろう。

 大体、農作物に与える肥料や農薬だって、効果を観ながら適宜に調整するものだし、犬馬の調教だって、動物の反応を見ながら行うものだ。それを子供の躾・教育に関しては、方法論ばかりが先行するのは、人が幼児に対して不自然で過大な期待をしているのか、もしくは、人間の幼児が農作物や犬馬以下の存在として扱われているのではないか。…… 少なくとも、犬馬の子供らの方がよほど個性を大事にされているかに見える。――または、職業教育者が営利主義に陥って市場拡大を図っているのに、人々が知らずに踊らされているのか。

 丁度、インスタント食品の普及で味音痴が増えている(といわれている)ようなものではないか。箸や鉛筆の正しい持ち方が出来ない子供が多いというのも、親が子供と、まともな時間の過し方をしていないことを暗示する。単に食べ物を買え与えて後の世話をしないのではないか。それでは食事のマナーなどが身に付くはずもない。

 いや、もっと対外的な問題がある。子供が子供同士で遊ぶのは当然のこととして、休日も子供だけで過すか、親に連れられて行楽地に出掛けるだけでは、住宅近隣地での子供達の態度が悪いのも当然だ。ガラスの前でボール遊びしてガラスを割って逃げる、看板をボールの的にしては看板を壊す、立体駐車場で自転車を乗回す。注意すれば屁理屈で返し、叱れば逃去る。……親は一体何をしているのか。

 ああ、マンションのエントランスのド真ん前で、井戸端会議を開いて通行の邪魔をし、子供等は郵便ポストにイタズラをしている。まあ、親のマナーもその程度のものである。

 なるほど、親が忙しいのも理解するが、教育というのは教材を選ぶことではなく、子供に時間を割くことではないだろうか。大人と付合う機会がなくて、子供同士の中でだけ人間関係を育てさせるから、身勝手で、感情的で、非論理的な(というか、短絡的な)コミュニケーション能力しか持てない。……子供ぽい人間が増えているのではなく、大人と接する機会が少なくて、どう他人と接して良いのか判らない人間が多いのだろう。だから嫌われて途方に暮れる……嫌われて、慌てて、かえって傷口を拡げてしまう。

 で、自分らが苦労したから、子供にはちゃんと教育の機会を与えねば、というわけで、又教材に頼る。……破綻的論理の輪廻だ。グルグルと同じ事を繰返すように見えて、実際はどんどん事態が悪化している。

 良い教材よりも、親が心のゆとりを持って子供に接せられるようにすることが、本当の意味での子供の教育に必要なことだろう。…… だが、教材や教育法に目がいく。子供を迷わせる現代の親たちは、一体何から目を背けているのだろう?


反抗精神?

2006/04/17

2006年 04月 17日


「他人の引いたレールの上を走るのは嫌だ!」という。

「人に宿命があるのか、宿命があるとしたら誰が決めたのだ。私はそれに従いたくない。」

……遠慮しないで好き勝手にすればいいのに。出来るのもなら。

始めに宿命があって、人がそれに従うのではない。逆らえない状況を指して、人が宿命と呼ぶのである。

それをいまさら、青少年の反抗期気分で騒ぎ立てても良いことは何もない。だいたい、大の大人ががちゃがちゃ騒ぐのは、親に対してきちんと自己主張の出来なかった徒輩だ。過去と今とを混同しては明日が危うい。

「不可能に思えても断乎行うものが未来を切開くのではないか!」

……だから黙って行動しろ。他人に同意を求めている姿はどう見たって敗北者の姿だ。未来を切開くのは、行く手を阻む見えざる壁のその先にあるものを見通す者だ。他人の意見に従う者じゃない。

『俺は負けたんじゃない、勝てなかったんだ。』……いいや、戦う前から負けているんだ。それに気が付かないで傷を拡げているだけなのである。


真実

2006/04/17

 時折、新興宗教や、特定の霊能者を指して、「インチキ」と表現する人がいます。宗教や霊能者に限らず、人々を啓蒙しようという人には、長短、可否が付きまとうものです。その真偽をいちいち論じていては切りがないので取上げはしませんが、世の中にインチキがある事よりも、もっと重要視すべき問題があると私は思います。

真実の追求方法です。

 インチキを駆逐するのが真実であれば、迷いは、正しい答えの求め方を学ぶチャンスとして人生に生かす事が出来ます。しかし、インチキを駆逐するのがただの否定、非難であれば、迷いはますます昏迷を深める事でしょう。

 溺れるものはわらをも掴むといいますが、我が身を引き上げるにはあまりに頼りないわらであっても、そっと引くなら岸に近づく助けになりましょう。なのに、溺れるものを助けもせず、ただわらを取り上げようとする偽善者の何と多い事か。

 まして、永久不滅の真理、真実をわずか百年程度の生しか持たぬ身がどうして明らかに出来ましょうか?

 そして、人生にいかなる価値があるのか、人生を全うもせずに、誰が「これこそは真実」と語れるというのです。出来る事はせいぜい、自分が信じている事だけではありませんか。つまり程度の差こそあれ、だれもが人生の狂信者である事には間違い無いのです。

 貧者の一灯は、仏教でもキリスト教でも貴ばれる奉仕ですが、人に光を与える事もせずに、吹き消してまわるのは何と罪深い事でしょう。


2006-04-16

子供を家畜にするな

2006/04/17

自己表現を育てる

 私がいまだ十代の頃の話です。霊能者として他人から最初に依頼を受けた相談の結果が、母原病でした。母親の過大な期待がストレスとなって、お嬢さんが心身の不調を起していたのです。

 この時は知人の占い師の所で、無理に頼まれて霊視したのですが、未だ若かった私は何も見えませんともいえず、しぶしぶと……相談状況も不本意でした……このお嬢さんとお母様が一緒にいらっしゃる場で……その事を口にしました。

 このお嬢さんは即座に否定しましたが、それは当然でしょう。母親の前で自分の不甲斐なさを認める事ができるぐらいなら、具合が悪くなる必要が無いのですから。しかし、娘を苦しめるような期待の持ち方も、身体を壊すような期待の応え方も愛情とはいえません。実際、潜在意識の中ではお互いに憎しみあっている事に気がついていないのです。それが態度にありありと見えました。親子なのに緊張が漂うのです。

 どうも日本人の多くは、自己表現が下手ですよね。――「嫌だ!」と上手に表現できなくて身体を壊すまで苦しみ、身体を壊すことで自己を表現する人があまりに多いのです。これには赤ちゃんの躾を始める時期に問題があると思います。

親の家畜

 皆さん、どうか良く考えてください。人間は善悪をどの様に判断するのでしょうか?

 例えば、盗みを働くのはいけない事ですよね。その理由はなんでしょうか。

 1.見つかると処罰されるから。
 ……では見つからなければ盗んでもかまわないのでしょうか。

 2.盗まれた人が損をするから。
 ……では見つかったら、金を払うなり、返品すれば良いのでしょうか。

 3.まじめに働く人が馬鹿を見るような世の中にしてはいけないから。
 ……それならば、誰も見ていなくても盗んではいけませんよね。

 でも本当の理由はなんでしょう?

 4.人のものを盗んではいけないと躾《しつけ》られたから。
 ……案外こんなところではないかと思います。

 結局、その理由を全く考えずに、盗んではいけないと思い込んでいませんか。

 さて、もしも盗みがいけないという理由がすぐに思い浮かばなかったとしたら、あなたは親の家畜であった、またはいまだに家畜である事を疑った方が良いでしょう。あなたにとって善悪とは考える物ではなく、躾という名の調教によって与えられた物、獣が芸をするような条件反射的な反応に過ぎないという事です。

 事の善悪を判断するのは心であるべきです。しかし、見つからなければ良い。返せば良い、弁償すれば良い。そのような考えの持ち主があまりに多く、それが人の心を傷つけ、人に傷つけられ苦しむのです。利己的な頭で善悪を判断すべきでもありません。

 また親の躾で善悪を判断すべきでもありません。そのような人は礼儀正しそうに見えて、躾られなかった事にはまったく気が利かず、周囲の迷惑に気がつこうともしないからです。

 相手の立場に立って物事を考えられない人は、真に心を開ける相手とめぐりあう事は出来ません。本当の愛も友情も知らずに、大勢の人に囲まれて孤独に暮らす事になるのです。

事の善悪を判断するのは心であるべきです。

自分の中の家畜部分を認識しよう

 自分の中の家畜部分を認識しよう――とはいってもすべての親が理想的な教育者である事は稀ですし、親がどれほど望もうと、経済的や時間の制約などで、未発達な時期に様々な大人の都合を子供の心に焼き付けてしまう事はままあるものです。ですから、私から「あなたは親の家畜だ!」と断言されたとしても、あなたは親のことを恨むべきではありません。

 あなたがなすべきことは、自《みずか》ら親の呪縛《じゅばく》を断ち切る事なのです。

 呪縛《じゅばく》というのは、物理的な束縛を言うのではありませんよ。まして親が魔法をかけているのでもありません。あなたが無意識のうちに自らに課している制約の事なのです。そして呪縛を断ち切る為に一番必要なのは、「親の呪縛」を認識することなのです。そのためには自分の中にある家畜の部分を認識しなくてはいけません。

 これは街で人を見ているとよく判るはずです。タバコや空き缶の投げ捨て、道を塞ぐ歩行者、人ごみでの携帯電話などなど、個人として付き合うとわりと礼儀正しいのに、その行いにはどこか思慮が抜けている人々。

 形にはまったモラルしか持ち合わせずに、その場にあわせた適切な判断の出来ない人々。

 思いやりや優しさという言葉が一人歩きしてどこか自己中心的な人々。

 私は優しい、私は思いやりがある、と自己申告する人々。

 ……それを変だと思いませんか?

 優しい人というのは、人が必要としている時にそっと手を差し伸べられる人を言うのであり、思いやりのある人とは、思慮深い行動を出来る人の事なのです。少なくとも自ら名乗るべきものではありません。

 そしてこれらを、おかしい、変だ! と気がつかず、そして人から指摘されても腹を立てるだけで反省が出来ないようなら、あなたの心の家畜性を取り除く事は不可能です。なぜおかしいのか、なぜ変なのか、その意味を考えて、事の善悪を自ら判断できるようにならなければ、あなたは親の家畜のまま、親の呪縛に絞められ続けるのです。

 しかし、自分の呪縛に気がついた人は、呪縛とは鎖でも太いロープでもなく、親に対する依存心と甘えという子供じみた心に過ぎないことに気がつくはずです。何の事は無いのです。親の家畜とは親離れが足りないというだけの事なのですから。

躾《しつけ》の時期

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残すと言う。私はせめて死ぬ前に良い弟子を残したい」

 上記の相談例と同じ十代の頃です。川端康成と親交があったという、老霊能者に弟子入りしないかと尋ねられたことがあります。

「どうも弟子に恵まれないでね」

 私を認めてくれた事はとてもありがたい話です。しかし、『親を見たくば子を見よ』といいます。弟子が不出来なのは師匠の教え方に問題があるのだろうと私は判断し、丁寧に断りました。

 さて、この老霊能者は、まだ小さい子に、ピシャ!と叩く程度ですが体罰を与えるのです。そして私はこれを見るのがとても嫌だったのです。

 人間の子供は、心の発達にしたがって言葉を覚え、使い分けていくのです。ならば言葉もろくに話せないうちは、善悪を判断する事などできるはずがありません。なのに、なぜ、このような時期に躾を始めようとするのでしょうか。

 叩かないと悪い事が判断できないような子供に育てたいのでしょうか。犬や猫や、サーカスの猛獣たちのように、親の指示一つで芸をする様に仕込みたいのでしょうか。きっとこのような人たちにとって、子供の心など、反抗しか示さない厄介ものと見えるでしょうね。学校の荒廃は、まさにこのような人たちの思うままに進んでいます。さらにこの考えを進めたいのなら、すべての教師に猛獣使い用のムチを支給すべきでしょう。愛で芸を仕込むなど、なにやら変なところがあります。

 そして、心霊主義を学ぶ私にとって、心の未発達な子供に、恐怖を焼き付けるような事はとても悲しい行為なのです。

親の家畜が霊性を取り戻す時

 親の家畜である事を認識しない人でも、霊性がありますから、いつまでも親の家畜でいる事は出来ません。私の狭い付き合いの中で見るかぎり、三〇歳前後が親の呪縛から逃れる時期のようです。もちろんこれには個人差もあります。人はこの頃に人物観ががらりと変わり、百年の恋が一挙に冷水を浴びる様に覚めてしまう人がいます。

 今までの自分の価値観が、親に押し付けられたものである、親に掛けられた魔法で仕事や恋愛をしていた、と気がついてしまうのです。そこからは本当の人生の始まりです。

人間の本質は霊である。そして霊には霊を感じる力がある。

 人間が、自らの霊性が全面に出せば、おのずと交霊能力が出てきます。これを霊性の覚醒と呼びます。これは霊視・霊聴といった霊能者の職業的技能ではなく、遠く離れていても信じあえる、言葉を交わさなくても理解し合える。そういった人間関係を樹立する事が出来るようになると言う事です。

 ここまで心が成長して霊性が初めて人は真の交わりが出来ます。ここまで心が成長しないと、家族の中でも、大勢の友人に囲まれていても、人は孤独に苦しみ続けるのです。そしてここまで心が成長して初めて、真の伴侶、人生のパートナーを迎え入れる準備が出来ます。

 結婚してから霊性の覚醒が起った人は悲劇です。霊性の覚醒以前に選んだ伴侶が、霊性の覚醒後も魅力的であることは稀ですから。ですから、私の師匠をして言わしめることになります。

砥石が無ければ刃物は磨げない、
結婚で苦労して魂が磨かれるのよ

結婚で苦労して魂が磨かれるのよ

 そして霊性の覚醒の後に、伴侶を得た人はとても幸せな結婚生活を送る事が出来るでしょう。あなたの伴侶は、魂の伴侶と呼びえるものです。

 親の家畜は、恋人も、友人も家畜の掛け合わせのように見つけます。特に優秀な家畜ほど、親に認められたい一心から、気がつかないうちに自分にとって幸せな相手よりも、親にとって幸せな恋愛相手を探そうとします。つまり親が喜びそうな家柄、学歴などです。

 そして子供を家畜化するような親は、心のあり方など躾ていませんから、育った子供も、心なんて見えないものは、口では大切と言いながら配慮はしません。いえ配慮できないのです。相手の真意など見抜く程、人間に対する洞察力も育っていませんから、恋人として付き合っている最中は、外面だけ見て理想を感じ、結婚して現実に返ります。せっかく結婚祝を包んだ相手が一年足らずで離婚するようでは、お祝いを返せと怒鳴りたくなります。

 このような場合、何度か離婚・結婚を繰り返して親の呪縛を解く場合が多いようです。


2006-04-16

子供を不幸にするのは誰?

2006/04/16

 神は人間を幸せにするべく、この世に送り出したのです。そして、赤ちゃんは特に教えられなくても、体の発育に応じて自ら立ち上がり歩き出します。そして心の発育に応じて言葉を話し出すのです。なのに、なぜ、心の発育を待たずに善悪を教え込もうとするのでしょうか。

 皆さん、どうか考えてみてください。

 大人に見捨てられたら生きてはいけない非力な赤ちゃんが、どうして大人の意に背く事が出来ましょう。人間の中で赤ちゃんほど善悪に敏感な存在は無いのです。言葉が理解できない赤ちゃんたちも必死に周りの大人たちの表情を読み取り、大人たちの気を引こうと一生懸命に自己表現をしているのです。

 その結果、危ない事をするようなら、それは大人たちがきちんと赤ちゃんの意思をくみ取れずに、心を通わせる事が出来ずにいるという事ではありませんか。

 赤ちゃんの行動が危なげに感じられるとしたら、躾が必要なのは赤ちゃんではなく周囲の大人の方なのです。

子供たちがおかしい!

 子供の異常行動を霊障害と解釈するのは不毛です。19世紀の心霊ブームのように、霊界で何らかのコンセンサスを得て、統一的な働きかけ・キャンペーンが起る事はありますが、霊的な質が極端に変動する事は不滅とされる霊にはあり得ない事ですから。

何が起きているのか??

 近年、学校内のいじめなどで多くの自殺者を出しましたが、心無い行為は思いもかけない苦しみを他人に与えるものです。いじめに携わった子供たちは、何も人殺しをしたくて、同級生をいじめたわけではないでしょう。ただ一つ一つの心無い小さな行為が、たくさん集まれば人を殺す力になるということなのです。

 学級崩壊という現象もあります。もともと子供というのは社会のルールからかけ離れた所があるものですが、人間は社会性のある動物ですから、本能的に集団に従う部分を持っているものです。彼らはなぜ不可解で衝動的な行動を取るのでしょうか。

いったい子供たちに何が起きているのでしょう?

子供をみくびっていないか?

 子供たちの大きな変化の原因を考える前に、ひとつ思い出さなくてはならないことがあります。子供たちは、親や周囲の大人たちが改めて教える事無く言葉を習得する能力を持っているということです。 親や、教師は増長して、子供に教育を与える……などと考えますが、与えているのは学習の機会だけであり、実際には子供が能動的に知識を吸収しているのです。

 仕事で使うからとコンピュータを購入したら、親よりも先に子供が覚えて、親に教えてくれる……などという話を良く聞きますが、これも子供たちの学習能力の高さを物語っています。その子供たちの学習能力の高さを思えば、教育などというものは親や教師たちが、子供の足枷となっているといえなくはないのです。

 もちろん子供たちの学習能力には、むらっ気があり、子供たちの自主性に任せた教育などは考え難いものかも知れません。しかし現在の指導方法は、子供たちの可能性を狭めている事に早く気がつくべきです。

そして……

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。

子供たちは学習している!!

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。子供たちの学習能力は苦痛の中でもしっかりと働いています。時には苦痛があるゆえにより大きく学習機能が働く事もあります。彼らは大人たちの言動をしっかりと学んでいるのです。

本音と建前、社会に対する不平、不満、不安。

 親たちは社会の中で感じた、不平、不満、不安を家の中で垂れ流しています。人前ではへつらい、いなくなれば悪口を言う、そんな親の姿を彼らは学習しているのです。

親を見たくば子を見よ、子を見たくば親を見よ」といいます。親にすれば、この位……と思えるような悪癖も、人生経験の浅い子供たちが真似をすると極端な形で現れるものなのです。
 子供たちを侮ってはいけません。と同時に相手が子供である事を忘れてはいけません。子供たちの行動の中に、自分の悪癖を見たら、親自身が変わるように努力しなくては子供は変わらないでしょう。

あなたは自分を理解しているか?

 子供たちの変化は、子供たちに原因があるのではなく、親たちの心の中に原因があるのです。かつての親たちは、忙しさの中にも子供の異常を感じ取れる思慮がありました。そして大事になる前に手を打てたのです。近年、社会問題になるまで子供が放置されるのは、子供以前に親が自分の異常に気がついていないからなのです。

自分の楽しみばかりを追いかけて、子供の相手をおろそかにしてはいませんか?

 子供は、教えられるまでも無く言葉を学習していくように、実に多くを親から学び取っているのです。親が子供の相手をしなければ、子供は何から学習すればよいのでしょうか?

 子供にはだめだと言いながら、自分の行為には寛大ではないですか?
 躾を口実に、必要以上に子供を叱ってはいませんか?

親は子供の鏡であると同時に、子供は親の鏡なのです。時には鏡を覗き込み、自分を理解するように心がけなくてはいけません。悲劇は起ってからでは取り返しがつかないのですから。


社会現象には必ず現実的な原因と答えがあります。

みだりに霊的な解釈を口にする事は不安を増長させるだけです。


2006-04-16

水子霊

2006/04/16

水子霊

最終更新日 2002年04月16日

 堕胎の害

 堕胎による一番恐ろしい害は、水子霊の祟りというよりも、むしろ、命を断つ事に罪悪感が失われていく事です。……祈れば許される。そういうものではありません。

 いずれ子供を持ったときに、自分が抱いている子供と、水に流してしまった子供の価値の違いを見出せるでしょうか。自分の抱き上げた子供を可愛いと感じた時、自分の都合で命を絶ってしまった水子の事を思わずにいられるでしょうか。

 子供の折檻死や、放置して死に至らしめる親が増えていますが、社会の影では、堕胎という名で、さらに多くの子供たちが死という運命を与えられているのです。生まれてくる命を大切にしない社会が、どうして子供を大切にできるというのでしょう。

 それはまた、その子にとっての運命ともいえます。

 しかし、自分の手に運命を委ねている、一つの命を救えない人が、どうして自らの魂の救いを求める事が出来るのでしょう。そして、小さな命を大切に出来ないような、恋愛で幸せになれるでしょうか。そんな独り善がりな気持ちは、いずれ裏切られます。そして、その独り善がりな心には、自らが直視できない無数の罪悪感が宿ります。この罪悪感が、格好の悪霊の巣になるのです。

 堕胎も殺人です。確かに、母体を守る事も大切ですし、強姦された結果の妊娠なども、出産後の事などを考えれば、堕胎も仕方がないと言えるでしょう。しかし、堕胎を繰り返せば、精神を病んでいきます。しかも、避妊せずにいれば、妊娠するのは当り前です。ちょっとした配慮で防げる悲劇を繰り返す事ほど、自分の魂を傷つけるものはありません。


水子供養

最終更新日 2002年04月16日

 水子供養

 さて、水子の供養ですが、一番大切なのは残された者の気持ちです。基本的に三歳未満の子供に、大げさな葬儀はむしろ、周囲の人から白い目で見られます。ご夫婦そろって、近所のお寺でお経を上げていただく程度で充分だと思います。(クリスチャン等を除いてですが)

 その場合、お付き合いのあるお寺がない場合、むしろ大きなお寺を頼った方が、謝礼がきちんと決まっていて、安心かもしれません。

 一方、まるで何もしないと、ささやかな不幸に見舞われたときに過剰に不安に陥りがちですし、いずれは誰も死に直面するわけで、その際に水子とは言え、自分の子供を粗末に扱ったという思いは何よりも心に引っかかります。

(仏事をおろそかにする人ほど心霊詐欺に掛かりやすい)

 また何よりも問題なのは、母親にとって自覚はなくても水子の存在は案外大きな心の傷になっるということです。

 ですから、私がお勧めするのは、やはり、日本の普通の葬式方法の略式で良いから読経を上げてもらうべきと思います。心配なのは料金ですね。あまり水子供養を前面に出しているところは、特別な料金設定などがありそうで嫌ですよね。金で人の幸福は買えませんが、かといって人はいずれ死なねばならず、いずれはお寺にもお世話になるのでしょうから、そのような仏事を任せられるお寺を探して置く気持ちで、暇を見てはあちこちのお寺に行って相談なされると良いかと思います。 (参照:先祖供養)

 もう一つの方法

 日本の心霊の独特な考えですが、人間には守護霊と呼ばれる霊が一人一人についていて、その守護霊が担当する相手の霊的な加護や、精神性を導く働きを持っています。そして、守護霊の上部には総括する役割の存在がいて、そのような霊を日本では神仏と呼称します。

 これは神道、特に国家神道的な神でも、仏教的な仏とも違います。死者の事を『仏さん』などと呼ぶのと同じ考えです。そして、霊能者や、行者、拝み屋など、心霊を扱う人の場合、そのような霊を見、話しをする事が出来ますが、普通の人の場合は、不可能ですよね。ですから人知に余るような悩みがあった場合、人は社寺で祈り社寺の神体仏像などを、神仏と見なして語りかけるわけです。

 ですから、神道仏教的な思想とは関わらず、社寺は常に高級霊が見張り、あたかも高級霊界の受付所のようになっています。もっとも様々な制約やコツが有るのですが……

 さて、本題の死者の供養に戻ると、現代日本ではちょっと難しい話なのですが、かつての日本の生活には産土(うぶすな)神や、氏神様と呼ばれる神社が集落に必ずあり、そして、人が生まれてはお宮参りに行き、七五三に神社に行く、そして亡くなればまた、報告に行き、今までの加護に感謝するという習慣があります。

 まあ、死を穢れと考える神道は、喪中の者は鳥居をくぐるな、などと言いますが、儀式の都合等の場合はさておき、「死が穢れなら、お払いさえ受けていれば人は死なないか!」という話になってしまいます。その辺は、陰陽師の活躍した頃の、鬼や怨霊伝説の名残りの気がします。……脱線ですが。

 ですから、もしお子さんが、生まれ育った場合に、お宮参りに連れて行くであろう神社…それが子供の産土神に当たります……にお参りし、霊界でのお子様を霊界でも見守ってくださるようにお願いするのが良いでしょう。

 この場合、正式な祈祷や、昇殿参拝などはする必要がありません。社殿の前、拍手を打った後、ゆっくり心の中で、願い事を三回繰り返し、頭を下げて、『お願いします』と結べばよいのです。願い事を三回繰り返すのがコツです。一回だけだと、祈っている人間も気が高ぶって相手に念がうまく通じない事もあるからです。


早世・夭折

最終更新日 2002年04月16日

 早世

 親より先に子が死ぬ……親にとってこれほど不幸なことはありません。この、親の不幸につけ込んで布教をする人などがいますので、子供の早世(早死)を親の因縁と思い悩む方がいらっしゃいます。その誤解を解くためのページです。

・・・・・・・

 ある意味、胎児というのは、地上でもっとも幸福な存在といえましょう。母親の胎内に守られ、ただひたすら成長の努力を続ければよいのですから。人間はこの母親の胎内での得た幸福感、そして、乳幼児の頃に受けた愛情で、人格の器を作ると思えます。

 成長するにつれて、社会に揉まれ、それなりに分別もついてきますが、やはり幼児期に親に死に別れた人などは、最後の精神的な踏ん張りが足りない気がするのは幼児期に愛情が不足したからと言えましょう。その一方で、両親がそろっていながら情緒不安定な人もいます。親は愛情と思いながら実は我欲を注いでいるのかも知れません。

 さて、子供の早世には様々な原因があります。人それぞれに事情があることでしょうから、それらすべてを一様に説明することは不可能ですが、転生という点に限ると、以下のように考えられます。

 前世において、衝撃的な死を味わい、その現実を受け止められなかったような霊は、胎児となる事で、ある意味感情的な物をリセットする事が出来ます。私たちもあまりに不運な目にあうと、『夢なら覚めて欲しい』そう考えますよね。それと同様なのです。

 衝撃が生み出す心の傷は、母親の胎内にいて四六時中注がれる愛情が打ち消してくれます。このような手順を踏まなければ自分の死を認める事の出来ない傷ついた霊も、霊界にはたくさん存在します。

 魂に傷があるがために、長生きをしても人生の苦難に耐えにくい、それがために、早世する肉体的な環境の持ち主の所に転生すると考えられます。

 人生は霊性向上の場なのです。子供を産み育てる親にとっても、生まれてくる子供にとっても人生は霊性向上の修行なのです。わずかな時間でも関わりあった事が、互いの心に残すものを大切に扱っていただきたいと思います。

 死別の悲しみ

 身内を失うのはとても辛い事です。それが我が子ならば、苦しみがさらに増す事でしょう。しかし、死をあまりに悲しむ事は、死での旅路につく魂にとって、大きな負担となります。

 身内の者たちにしてみれば、「もう少し生かしたい、いや何とか出来たのではないか」などという考えが、頭の中に巡りましょう。しかし、残された者たちがどれほど嘆き、引き止めようが、死の淵から帰ってくるのは容易ではありませんし、肉体が損なわれていれば不可能なのです。

 そして残された者の悲しみは、死者の苦しみでも有ります。憎悪による自殺など、特別な場合を除いて、誰も自ら死によって、愛する者たちと別れたいとは思わないのです。嘆きは、悲しみを呼んでしまいます。彼らには次の生活が待っています。行かねばならぬものなら、快く送り出す。それが死によって分けられた互いにとって幸せなのです。

 また、早世した子供に対しては、親の責務を果たせなかった、自責の念もありましょう。しかし……幼子ならば、親を慕い、寂しがる気持ちはあれど、親を恨む事はありません。ある程度、成長した子であるのなら、親を恨むのは筋違いでしょう。

 死者との通信を望むな

 死者との通信を望むべきではありません。特に子を亡くした親ほど死者(我が子)との通信を強く望みがちですが、彼らには次の生活が待っています。残された者たちが未練を持って生きることは、死者にとって負担となります。

 この世での生活を終えた霊たちは、まず現界での生活の、悪い点を反省し、良い点を伸ばすように指導を受けます。生前も死後も時間を無為に過ごす事は出来ますが、余分に使える時間が有るわけではありません。無為に使った時間は、やはり無為に使った時間なのです。

 鉄は熱いうちに打ての例えのとおり、霊界入りして直後は、学ぶべき事が多いのです。

 心霊研究団体では盛んに交霊を行ないます。人々の記憶にあるような霊からの霊界通信は、関係者に対して否定しがたい証拠となりますから、なるべく死んだ直後の霊を呼びたがります。

 しかしながら、普通の交霊会に現われる霊というと、大抵、親族もすでに亡くなっているような古い霊に限られます。その理由は、やはり霊界入りした直後の霊は、現界の影響が強すぎて、霊界通信に絶えるだけの霊界に関する知識が無く、また、霊界で学ばなくてはならないことが多すぎて忙しく、現界に関わる事を嫌う事がありあます。

 本来、死の直後の霊は、呼び出されることを嫌います。感情を満たすだけの無為な死者との通信は望むべきではありません。


水子霊・相談例

最終更新日 2002年04月15日

 水子霊の祟りとは、大抵、女性の罪悪感の事を指します。水子供養とは、罪悪感の消去を目的にするわけです。その根拠は、子供は母親だけでは作れず、中絶は男性側にも問題があるのに、男性に水子の祟りが少ない事や、水子の害と呼ばれるものは、まじめな人に多く、遊び人に少ない事が挙げられます。

 水子の霊を調べるのは、霊能者にとってはとても簡単です。水子の霊が胎児から離れる時に、媒体となる幽体を脱ぎ捨てていきます。ですから母親の周囲には、へその緒状の幽体が霊視できるのです。これを勘定すれば、女性が気がつかないうちに、流れていた子供の数まで当たります。

 実際、水子の数を指摘すると、よくよく考えて思い当たる事も多々あるものなのです。その一方で、霊視されるのは、幽体の抜け殻ですから、親を恨む、または害を及ぼす、といった悪意は見られないのです。

 つまり、水子の害というのは、子供の霊の怨念ではなく、むしろ、親の罪悪感なのです。罪悪感というのは贖罪を求める気持ちを内在していますから、自覚の無いままに不幸が起る事を期待しているのです。これでは守護霊の張る霊的防御のスイッチを切ってしまったかのように、低級霊に漬け込まれる隙が出来てしまいます。つまり罪悪感を打ち消す為に不幸を望むことが、水子の祟りの正体なのです。

 とは言うものの、水子霊の祟りと呼びえる現象がまったくないかというと、決してそんな事はありません。その多くの例は、霊現象というよりも心理的な要因ではありますが、ご参考までに実例を挙げておきます。

 相談例1:離婚歴のある女性の場合。

 前夫に子供を残して再婚した彼女は、常々残してきた子供に罪悪感を感じていて、現在の夫との間の子供のわがままに拒否的な感情を抱いていました。このような心のしこりが家庭生活に影を落としていたのです。

 相談例2:経済的な事情から、堕胎をせざるを得なかった女性の場合。

 水子にしてしまった子供に対して罪悪感を抱いているために、その後生まれた子供と罪悪感が二重写しになって、子供の相手をまともにできないのです。

 相談例3:私生児

 私生児として生まれたある女性は、母親に対して複雑な感情を抱いています。母親は大好きなのだが、境遇に不満があり本当は泣き言を言いたい。でも母親は傷つけたくない。その葛藤が体に影響を及ぼし、様々な不具合を抱いています。

 その他:

 自分も親になれば親の苦労がわかる、などといいますが、結婚に失敗し、また、堕胎をし、その罪悪感を親に向けてしまい、ますます親子関係が拗れる人もいます。


相談から指導へ

2006/04/16

 人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

 たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

 それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

 ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

 ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

 敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

 これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

 悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


 2006/04/16

相談から指導へ

2006/04/16

2006年 04月 16日


人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


リズム――自分を見失わぬ為に。

2006/04/16

 物事が成るには時機があります。早すぎても遅すぎてもうまく行かないし、うまく行かないどころか逆効果になることもあります。

 そして、相手に伝わるには速度があります。焦って伝えようとしても誤解が生じるし、かといってノンビリしていると相手の関心がよそに向いてしまいます。

 時機の捉え方、速度調節の上手な人はとても効率よく成功を収めていきますが、往々、当人さえも、成功要因が何であるのかに気がついていません。知識や思想、才能が成功要因である自負するのは、単に己がそれを頼みにしているというだけのこと。いくら才能があっても周囲とうまく噛み合わなければ才能の芽が積まれてしまうことでしょう。周囲の人々とのリズムも大切ですが、人生には見えざる運気が在り、そのリズムに合わせることも大切です。

・・・・・・・

 人間関係を眺めていると、他人のリズムを崩す人は、周囲に災難を及ぼします。災難とまでは行かなくとも、周囲の成績を貶めたりいたします。……リズムはとても大切です。早すぎても遅すぎてもいけないし、なにより、他のリズムを崩してはいけません。……むろん、自分のリズムを崩してもいけません。

 焦る人にはにこやかに接し、ノンビリ屋には、こまめに声を掛けることです。すると相手はリズムを整え、持っている才能を活かすことが出来ます。


2006-04-16

 

思慮が浅い

2006/04/16

物心両面の豊かさ

 将棋は、敵味方双方、駒の数も駒の種類も同じなら、番面の広さも同じです。唯一違うのは先手、後手があるだけです。条件はほとんど同じなのに、どうして実力に差があるのでしょうか?

 知力の差ともいえますが、もっと大切なことが有ります。素人ほど、使いやすい駒ばかりを使い、多くの駒はまるで動かさずに勝負に臨むということです。活用されていない駒、いわゆる死兵が多いのですね。与えられた駒と盤面は同じであっても、活用の度合いが違うから、勝負に差が出るのです。人間と知性の器が、駒を制限すると言ってもよいでしょう。

 さて、快楽主義者は道義を軽視しても物質的な豊かさを追いかけ、精神主義者は欲心を軽蔑して精神的な豊かさを追いかけます。このように極端に走る事は、古今東西の聖人達の戒める事であります。
 真の道は中道にあり、精神性が全ての霊界から、わざわざ物質世界に生まれ出てきた事を知る(または信じる)心霊主義者は、両極端に走ることなく、全てを活用して、人生の目的を果たすべきです。

 つまり、物質にせよ、精神にせよ、その豊かさに溺れず、豊かさの中で安穏とせず、物心両面の豊かさを人生に活用していくのです。

不足があれば知恵で補い、補いきれなければ努力で補え

 物心両面の豊かさの追求が、物質世界での隠れた目的なのです。その努力の過程で良質な経験が数多く身に付きます。ですから欲心を否定する必要は全くありません。問題なのは欲心に支配されることなのです。物欲が勝っても、精神的な欲望が勝っても、物質世界の特質を活用しているとは言えなくなるのですから。

 

博打に身をゆだねる?

『へぼ将棋、王より飛車を可愛がり』

 手段と目的を履き違える、人生のへぼ棋士が失うのは、勝ち負けではなく、人生なのです。人間は死んだら無? それでは博打、では、死後の世界が全てか? と問うなら狂信者以外は不安を抱いて当然です。なにしろ人間の知覚外にある世界なのですから。これも信じるのは博打と言えます。

 ですから私がお勧めするのは、大勝ちではなく負けない方法の選択です。今を確かに生きる。後悔の無いように生きる。それが大切だと思います。実に当たり前のことですよね。
 しかし、心霊を学ぶ多くの人に、この当たり前のことが出来ません。他人の意見は、どんなに親身な意見であっても参考であって答えとは呼べません。人の意に従って失敗したとき、恨みを抱くようではやはり主客転倒と言えます。必要なのは人の知恵を我が物にするのであって、誰かの指図に従うことではないのです。 そもそも、人を当てにして人生の困苦にぶつかろうなどと言うのは、自分の人生を生きているとは言えません。人の手駒になるために地上に生をうけたのでもないのです。

 

補足

 死んだら無になると信じる人は、ただ浪費し、非難し、そして創造的なことは行なわない人です。創造的な仕事をする人は、生まれ出たことの喜びを知っていますし、物の価値に理解がおよぶものです。

 創造的な仕事を行なう人は、インスピレーションを物質世界で表現する専門家でもあります。だから霊的な知識を理解しやすい人でもあります。しかし正しい価値判断の基準をもたなければ、人を感動させる力は持ち得ません。的確に人々をリードできるだけの高いインスピレーションを得られないからです。

 そして、職業が創造的であっても、ただ浪費し、非難する人もいます。創造力を処世術で補おうとするからです。


2006-04-16

 

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