それは愚痴じゃない。
2006/04/232006年 04月 23日
愚痴を聞かされて喜ぶ人はいないと思う。以前聞かされた愚痴であるが、
「いつも私に愚痴をこぼしている人に、一度だけ愚痴を聞いて貰ったら、『毒気を吐いているのが見えるようだ』といわれて腹が立った。」 ……という。あなたの愚痴はちゃんと聞いてあげているのに、私の愚痴を遮るのは何たることだ! というわけだ。
はしなくも、ここに愚痴の持つ性質が端的に表われていると思う。
- 愚痴は聞きたくないというのは論理ではない。
- 愚痴をいうのも論理ではない。
- 遮られるとかえってストレスが昂じる。
愚痴は心の安全弁である。――精神的必然から愚痴が生じるのだから、愚痴は押さえない方が良いという所以である。もっとも、自分が押さえる気がなくても他人から押さえられては安全弁の存在がかえって危険をもたらしかねない。
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ところで、友人から愚痴メールが届いたが、私はまんまとそれを遮った。
確かに、どうにもならないことは愚痴るしかないけれど、日常生活や日常業務とは直接関係ない事柄に不平不満をいうというのは、私から見て愚痴ではない。それはむしろ、言い訳を発掘しているように思える。
念のために言うが、「言い訳を発掘している」というのは、その友人に対する非難ではなく、客観的な指摘のつもりである。
ようするに、嫌になったのは、何か別な原因があり、その原因が認識できないから(おそらくは認めたくないから)、無意識に探し出した言い訳だと思うのだ。
問題を正しく認識して、でも、今は忍耐するしかない事柄なら、愚痴をこぼすしかない。だが、問題を正しく認識しないまま、愚痴をこぼすのは、内在する危険因子が成長する危険がある。
だから私は敢えて愚痴(もどき)を遮り、注意を喚起するのである。
それは愚痴じゃない。その不満の原因をしっかりと、あきらかにすべきだ!
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では、その原因がどこにあるのか、と問われるだろうが、これは、人の数だけ答があって然るべきで、一般論で括るわけにはいかない。ただ、物事には手順があることをわきまえれば、ある程度の自己判断は可能であろう。
一番に疑うべきは、体調である。……特に高血圧とか、糖尿病であるとか、身体に怠さをもたらす病気を疑うべきだと思う。