悪意
突然向けられた悪意に人は戸惑います。「私が何かしたのだろうか」と。優しい人ほど、このような悪意に深く心を傷つけられます。
そして思うのです。「人に悪意を向ける事によって、あの人は幸せになるのだろうか……」と。せめて相手が幸せになるなら、心に傷を負う事も報われましょう。そしてまた、人が幸せになるのに誰かを傷付け、苦しめなくてはならないのだとすると、この世に悪意が無くならないのも、うなずける気がします。
しかし、深く省みるなら、悪意とは一般に、自らを幸福にするために抱くのではなく、自らの不幸から逃れるために抱くものです。他人にむごい仕打ちをして、自ら幸せになろうというのも動悸からして間違っています。つまり人は往々、自分の苦しみから目をそらせる為だけに他に悪意を向けているのです。何とも不毛な事です。悲しいことに悪意を向ける人も、向けられる人も皆、辛いのです。
幸せを得るために悪意を抱くのであれば、人には正す余地が残っています。間違った努力は失敗を生みますが、失敗は最大の教師ですから、失敗を重ね、心の傷を増やしながら……そして周囲の憎しみを増しながらも……人は成長を続け、いつしかその事に気が付くのです。このような魂の境地は愚かであっても救いはあります。
しかし、不幸から逃れるために悪意を抱くのであれば、悔いる余地がありません。悪意を持っている本人もまた、自らの悪意の被害者なので、悪意を抱いても、悪意を捨てても安らぎが得られる事はないからです。むしろ悪意を抱き続けている方が惨めな自分と向き合う必要が無いだけ楽なのです。
こういう人は、本人は気がついていなくても、自らの魂が追いつめられ、苦しみから逃れようと必死なのです。努力すればするほど人を不幸にしてしまう魂の境地。 ……これこそが地獄です。寝ても覚めても苦しむ人生を歩んでいる人なのです。
更に言えば、自分の魂の苦しみに気が付いている人はまだ幸せです。その苦しみに耐え切れなくなった時、人に救いを求める事が出来ます。しかし、多くの人は自らの魂の苦しみを幸せや豊かさを求める衝動と勘違いしています。
人が思い悩む、幸せや豊かさは、主に肉体的な欲求から来るものです。そして欲望の強すぎる肉体は、ただそれだけで魂を苦しめます。身体と魂の欲求がせめぎ合うから、人は苦しむのです。
結局、地獄の住人は、すべてを失い、悪しき努力をやめ、絶望し、好意の本当の価値を自ら悟るまで、誰にも助ける事は出来ないのです。下手に助けようとすると、その好意を他人を傷付ける事に利用してしまうのです。
悪意は麻薬
悪意を持つという事は、魂にとって麻薬のようなものなのです。麻薬はわずかなら、鎮痛効果をもたらします。痛みに苦しんでいては、心の傷がいつまでもふさがりませんから、時には鎮痛剤も必要です。しかし、鎮痛剤に頼るばかりなら、だんだんその量も増えて行き、最後には作用よりも副作用の方が大きくなって行きます。
とりあえず人を憎む事で、自分の心を落ち着けられるのならば、その憎悪にも意義はあります。しかし、限度を超せば毒でしかありません。
自分の心の痛みを忘れる為に人を傷付けてしまえば、自らの心の傷が癒えた時、自分の行いの罪深さに恐れおののく事になります。また、人を傷つければ、いずれは償いが必要になります。そう、自分の為には、他を傷つける事も厭わないのは、行いは必ず精算しなければいけない事を知らない人なのです。
人は心の痛みに耐える事も出来ますし、受けた悪意に悪意を返さない人もいるから、自分の悪意がささやかな悪行と軽く考えている人もいます。また寛大さを見せる人を相手にしていて、自分の愚かさを反省するのならばまだしも、馬鹿にされているとか、効果が足りないのかと、むきになって悪意を振りまく人もいます。
しかし、小さなトゲ一つでも、人に大きな痛みを与える事が出来るのに、人の悪意がどれほど相手を傷付ける事になるでしょうか。その事を思えば、自分の痛みに大騒ぎする事の大人気無さを感じなければならないでしょう。
些細な悪意が失わしめるもの
愛する人とは、わずかな別離も辛く、悲しく、憎む人とはわずかなすれ違いすら苦痛となります。そのことを知れば、人を憎むことはなんと愚かなことでしょう。人を愛することで得る苦しみは、誠実でさえあれば、いずれは報われることでしょう。しかし、憎むことで得た苦しみは一体誰が癒してくれるというのでしょうか。
人を憎むのはなんとも割が合わないものです。出来ることなら憎む前に関係に手を引くべきだと私は思います。しかし、その憎しみの原因が、相手の過ちであるなら、相手の謝罪で償われることもあります。しかし、あなたが相手の欲心や悪意の犠牲になったうえでの憎しみであるならどうでしょうか。
謝罪を受けることであなたの心の痛みが和らぐかもしれません。しかし、裏切られる以前のように相手を信じることが出来るでしょうか。人は失敗から学ぶことが出来ます。でも、相手は苦しみから逃れるための工夫として一時、謝罪したのかもしれないのです。相手を信じるかどうかは、あなたの魂の試練となります。
まして、善良に生きようとするものは、疑わしい相手でさえ、進んでだまされることで、天に自らの誠実さを捧げようとするものです。
「もしかしたら思い直してくれるかもしれない……」
人間愛がだまされる事の覚悟を定めるのです。しかし、一度だまされてしまえば、相手の心根を知るだけになおの事、再びだまされることを潔《いさぎよ》しとしないでしょう。
善人にも過ちはありますが、当人にとってはささやかなつもりであっても、悪意の持ち主は悪人とみなされます。結局、些細であっても悪意は、自分の信用をとてつもなく失墜させるのです。
心(霊)を中心に、物事の価値を考えるのなら、何よりも重要なのは、結果よりもむしろ動機(志)なのです。想念の世界においては悪意を記録するのは人の心(霊)ですし、想念の世界に価値ある財産というのは、人々との繋がり以外にはないのです。……それを思えば、悪意が失われるものの大きさが莫大なものである事に気が付くでしょう。
結果として人を傷付けたとしても、それが過ちから生じたものなら周囲に寛大さが生まれる事もあるでしょう。しかし、悪意から生じたものならば、いかなる形にせよ責めが行われないはずがありません。
悪意を持ち人を傷付けたとしたら、失うのは傷付けた相手の信頼だけではなく、今まで味方であった人たちすべての信頼なのです。他人というのは見られたくない事に限ってしっかり見ているものなのですから。
確かに、悪意は自分の幸せのために抱くものではなく、不幸から逃れるために抱くものであり、魂にも、鎮痛剤が必要な時があります。悪意を振りまく人にだって、周囲の人は「今は辛い時期だろうから……」と大目に見てくれる事もあります。でも一線を超えたら……
ささやかな悪意でも、自分が築いてきた、すべての精神的財産を失わせしめる事もあるのです。わずかな妬みや八つ当たりの代償として、永遠の後悔に苦しむ人が、この世にもあの世にも大勢いるのです。
善意
悪意だけではなく、善意もまた、人を魂の牢獄に押し込めます。善意を施すのは、必ずしも自分の幸せを人に分け与えている人ばかりではありません。不幸な人もまた、善意を施す事があるのです。
ある貧しい男が犬を飼っています。
「生活が苦しいだろうに、どうして自分の食べるぶんを減らしてまで犬を飼うんだい?」と訊ねると、
「だって、こいつは俺よりも貧しいんだもの」と答えた。
人は自分が「最低」である事を嫌います。優越感が欲しいが為に人に施す事があるのです。しかし、このような善意には、自らの劣等感や罪悪感を上乗せした、相手に対する侮蔑が込められています。
こういう灰色の善意を贈られた相手は、思うのです。
「私は苦しいが、不幸なのではない」
「助けは欲しいが、私は誇りを失いたくはない」
善意の皮をかぶった侮蔑の持ち主を、「魔境の住人」と呼びます。魔境とは、住人だけが天国と信じているが、外の者からは地獄と思われる境遇の事です。つまり善悪・上下の価値観が狂った人が、どれほど人に施しを与え、努力しても、間違った努力ですから天国にたどり着く事は出来ません。
そもそも想念の世界においては善意を記録するのは人の心(霊)しかないのですから、想念の世界に価値ある財産というのは、人々との繋がり以外にはないのです。偽善的な行為から、物質的な豊かさを施しても、暖かな心を施せないのですから、死後にも残る財産は何一つ得られません。
日本は物質的に豊かになりましたが、心のこもった善意はすっかりと失われてしまいました。つまり、現代の日本人は、「魔境」という偽りの天国で繁栄を楽しんでいるだけということです。
魔境の住人について歩けば、誰もが皆魔境に迷い込みます。確固とした善悪観の確立はとても大切な事です。
傲慢さ
傲慢な人と関わり、見下された態度に腹が立つ……当然のことです。しかし、その傲慢さを責めてはなりません。そもそも、相手が傲慢に見えるのが、あなたの引け目や妬みでないのならば、相手を嫌うのはあなただけでは在りません。ならばあなた一人が相手の悪意を背負うのは馬鹿げています。
わざわざあなた一人が恨みを買う必要は無いのです。なにより、人を裁くのは天(摂理)に任せるべきなのですから、人が人を裁くような愚行は慎まなければなりません。当人がどれほど正当性を主張しようと、法治国家で私刑(リンチ)は犯罪ですし、天と地の間は摂理によって支配されて、あなたの情の入り込む余地はありません。
そもそも、○○が出来ない……という時、能力的にできない場合と、道義的に出来ない場合があります。たとえば、人殺しや窃盗というのは、能力的に出来るとしても良心の痛みからなかなか出来る事ではありません。陰口、うそつき、ネコババなどもまともな人なら良心がうずきます。
ですから、他人には敬意を払うように躾《しつ》けられた人であるなら、そうそう傲慢な態度、他人を見下した態度など取れるはずもありません。果たしてこういう人を馬鹿にした態度というのは、果たして天性のものなのか、それとも育ちの問題なのでしょうか。
見下されたら、見下し返す……それでは恨みが恨みを呼んで泥沼になりかねません。相手にしなくても恨む人もいるのに、わざわざ恨みの種を蒔く必要も無いから、私などなら関わらずに済ませたいものです。
しかし、そもそも、尊大な人というのは人を踏みつけにしなければ自己を保てぬ人なのですから、相手にされなければ自分の自我を支えきれずに苦しみ、のた打ち回るのが普通です。
自由:自(みずか)らに由(よ)る。
自在:自(みずか)らに在(あ)る。
もしも魂が、自由自在であるなら天国にもいけましょうが、他に由り、他に在るなら、他から見放された時に沈まずにいられるのでしょうか……
生きている限りは、人と共に生きざるを得ません。ですが、人は死ぬ時はただ一人きりです。たとえ事故や災害で同時に死ぬ人がいたとしても、心境・境涯が別であるなら、やはり一人きりであるには変わりありません。
この依存心が、家族や友人に向ける甘えた心根の持ち主ならば、死後に苦しければ祟りもなしましょう。なんとも面倒なことです。
ですから、嫌な相手であっても嫌われない程度に、そして好かれない程度に、ひざを屈して付き合うのは、より大きな面倒からあなたを守ってくれることでしょう。
このような態度は、決して誠実であるとは思いませんが、工夫無くても生きられる善良な世の中ではないのです。相手に、いかに誠実に接するかは、あなたの良心と、忍耐力のバランスの上で、最善を尽くすことです。
腹が立ったとしても、相手に非があるの事であるなら天の摂理が相手を責める事でしょう。反対に、その腹立ちが、あなたの妬みや僻みによるなら、言動を慎むことで罪過は最小限にする事が出来るのですから。
傲慢な人を相手に腹を立てても良い事はない。――それでもあなたは、見下されることに不服を抱くのでしょうか?……相手には味方も無ければ天の助けもないというのに。
尊大で意地悪な連中も、寂しさから群れ集まるものです。でも、それは互いに心を許しあい、助け合う関係にはなりえません。ただ、獲物をむさぼりあうだけのことで、外敵がいなくなれば共食いを始める卑しさをもっています。そのような魂の関係を「群魂」といいます。
霊界には他にも、霊格を縦軸とした守護霊団や、共感を横軸にした類霊団があります。そして、群魂のなかの平穏さは満腹の野獣の静けさと同じなのです。……その静けさに安住の地を見つけたと思ったら、それは何とも危うい事です。
2006-04-15