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子供を不幸にするのは誰?

2006/04/16

 神は人間を幸せにするべく、この世に送り出したのです。そして、赤ちゃんは特に教えられなくても、体の発育に応じて自ら立ち上がり歩き出します。そして心の発育に応じて言葉を話し出すのです。なのに、なぜ、心の発育を待たずに善悪を教え込もうとするのでしょうか。

 皆さん、どうか考えてみてください。

 大人に見捨てられたら生きてはいけない非力な赤ちゃんが、どうして大人の意に背く事が出来ましょう。人間の中で赤ちゃんほど善悪に敏感な存在は無いのです。言葉が理解できない赤ちゃんたちも必死に周りの大人たちの表情を読み取り、大人たちの気を引こうと一生懸命に自己表現をしているのです。

 その結果、危ない事をするようなら、それは大人たちがきちんと赤ちゃんの意思をくみ取れずに、心を通わせる事が出来ずにいるという事ではありませんか。

 赤ちゃんの行動が危なげに感じられるとしたら、躾が必要なのは赤ちゃんではなく周囲の大人の方なのです。

子供たちがおかしい!

 子供の異常行動を霊障害と解釈するのは不毛です。19世紀の心霊ブームのように、霊界で何らかのコンセンサスを得て、統一的な働きかけ・キャンペーンが起る事はありますが、霊的な質が極端に変動する事は不滅とされる霊にはあり得ない事ですから。

何が起きているのか??

 近年、学校内のいじめなどで多くの自殺者を出しましたが、心無い行為は思いもかけない苦しみを他人に与えるものです。いじめに携わった子供たちは、何も人殺しをしたくて、同級生をいじめたわけではないでしょう。ただ一つ一つの心無い小さな行為が、たくさん集まれば人を殺す力になるということなのです。

 学級崩壊という現象もあります。もともと子供というのは社会のルールからかけ離れた所があるものですが、人間は社会性のある動物ですから、本能的に集団に従う部分を持っているものです。彼らはなぜ不可解で衝動的な行動を取るのでしょうか。

いったい子供たちに何が起きているのでしょう?

子供をみくびっていないか?

 子供たちの大きな変化の原因を考える前に、ひとつ思い出さなくてはならないことがあります。子供たちは、親や周囲の大人たちが改めて教える事無く言葉を習得する能力を持っているということです。 親や、教師は増長して、子供に教育を与える……などと考えますが、与えているのは学習の機会だけであり、実際には子供が能動的に知識を吸収しているのです。

 仕事で使うからとコンピュータを購入したら、親よりも先に子供が覚えて、親に教えてくれる……などという話を良く聞きますが、これも子供たちの学習能力の高さを物語っています。その子供たちの学習能力の高さを思えば、教育などというものは親や教師たちが、子供の足枷となっているといえなくはないのです。

 もちろん子供たちの学習能力には、むらっ気があり、子供たちの自主性に任せた教育などは考え難いものかも知れません。しかし現在の指導方法は、子供たちの可能性を狭めている事に早く気がつくべきです。

そして……

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。

子供たちは学習している!!

 大人の与えるクビキは子供たちを苦しめはしても、その才能を狭めはしないのです。子供たちの学習能力は苦痛の中でもしっかりと働いています。時には苦痛があるゆえにより大きく学習機能が働く事もあります。彼らは大人たちの言動をしっかりと学んでいるのです。

本音と建前、社会に対する不平、不満、不安。

 親たちは社会の中で感じた、不平、不満、不安を家の中で垂れ流しています。人前ではへつらい、いなくなれば悪口を言う、そんな親の姿を彼らは学習しているのです。

親を見たくば子を見よ、子を見たくば親を見よ」といいます。親にすれば、この位……と思えるような悪癖も、人生経験の浅い子供たちが真似をすると極端な形で現れるものなのです。
 子供たちを侮ってはいけません。と同時に相手が子供である事を忘れてはいけません。子供たちの行動の中に、自分の悪癖を見たら、親自身が変わるように努力しなくては子供は変わらないでしょう。

あなたは自分を理解しているか?

 子供たちの変化は、子供たちに原因があるのではなく、親たちの心の中に原因があるのです。かつての親たちは、忙しさの中にも子供の異常を感じ取れる思慮がありました。そして大事になる前に手を打てたのです。近年、社会問題になるまで子供が放置されるのは、子供以前に親が自分の異常に気がついていないからなのです。

自分の楽しみばかりを追いかけて、子供の相手をおろそかにしてはいませんか?

 子供は、教えられるまでも無く言葉を学習していくように、実に多くを親から学び取っているのです。親が子供の相手をしなければ、子供は何から学習すればよいのでしょうか?

 子供にはだめだと言いながら、自分の行為には寛大ではないですか?
 躾を口実に、必要以上に子供を叱ってはいませんか?

親は子供の鏡であると同時に、子供は親の鏡なのです。時には鏡を覗き込み、自分を理解するように心がけなくてはいけません。悲劇は起ってからでは取り返しがつかないのですから。


社会現象には必ず現実的な原因と答えがあります。

みだりに霊的な解釈を口にする事は不安を増長させるだけです。


2006-04-16

水子霊

2006/04/16

水子霊

最終更新日 2002年04月16日

 堕胎の害

 堕胎による一番恐ろしい害は、水子霊の祟りというよりも、むしろ、命を断つ事に罪悪感が失われていく事です。……祈れば許される。そういうものではありません。

 いずれ子供を持ったときに、自分が抱いている子供と、水に流してしまった子供の価値の違いを見出せるでしょうか。自分の抱き上げた子供を可愛いと感じた時、自分の都合で命を絶ってしまった水子の事を思わずにいられるでしょうか。

 子供の折檻死や、放置して死に至らしめる親が増えていますが、社会の影では、堕胎という名で、さらに多くの子供たちが死という運命を与えられているのです。生まれてくる命を大切にしない社会が、どうして子供を大切にできるというのでしょう。

 それはまた、その子にとっての運命ともいえます。

 しかし、自分の手に運命を委ねている、一つの命を救えない人が、どうして自らの魂の救いを求める事が出来るのでしょう。そして、小さな命を大切に出来ないような、恋愛で幸せになれるでしょうか。そんな独り善がりな気持ちは、いずれ裏切られます。そして、その独り善がりな心には、自らが直視できない無数の罪悪感が宿ります。この罪悪感が、格好の悪霊の巣になるのです。

 堕胎も殺人です。確かに、母体を守る事も大切ですし、強姦された結果の妊娠なども、出産後の事などを考えれば、堕胎も仕方がないと言えるでしょう。しかし、堕胎を繰り返せば、精神を病んでいきます。しかも、避妊せずにいれば、妊娠するのは当り前です。ちょっとした配慮で防げる悲劇を繰り返す事ほど、自分の魂を傷つけるものはありません。


水子供養

最終更新日 2002年04月16日

 水子供養

 さて、水子の供養ですが、一番大切なのは残された者の気持ちです。基本的に三歳未満の子供に、大げさな葬儀はむしろ、周囲の人から白い目で見られます。ご夫婦そろって、近所のお寺でお経を上げていただく程度で充分だと思います。(クリスチャン等を除いてですが)

 その場合、お付き合いのあるお寺がない場合、むしろ大きなお寺を頼った方が、謝礼がきちんと決まっていて、安心かもしれません。

 一方、まるで何もしないと、ささやかな不幸に見舞われたときに過剰に不安に陥りがちですし、いずれは誰も死に直面するわけで、その際に水子とは言え、自分の子供を粗末に扱ったという思いは何よりも心に引っかかります。

(仏事をおろそかにする人ほど心霊詐欺に掛かりやすい)

 また何よりも問題なのは、母親にとって自覚はなくても水子の存在は案外大きな心の傷になっるということです。

 ですから、私がお勧めするのは、やはり、日本の普通の葬式方法の略式で良いから読経を上げてもらうべきと思います。心配なのは料金ですね。あまり水子供養を前面に出しているところは、特別な料金設定などがありそうで嫌ですよね。金で人の幸福は買えませんが、かといって人はいずれ死なねばならず、いずれはお寺にもお世話になるのでしょうから、そのような仏事を任せられるお寺を探して置く気持ちで、暇を見てはあちこちのお寺に行って相談なされると良いかと思います。 (参照:先祖供養)

 もう一つの方法

 日本の心霊の独特な考えですが、人間には守護霊と呼ばれる霊が一人一人についていて、その守護霊が担当する相手の霊的な加護や、精神性を導く働きを持っています。そして、守護霊の上部には総括する役割の存在がいて、そのような霊を日本では神仏と呼称します。

 これは神道、特に国家神道的な神でも、仏教的な仏とも違います。死者の事を『仏さん』などと呼ぶのと同じ考えです。そして、霊能者や、行者、拝み屋など、心霊を扱う人の場合、そのような霊を見、話しをする事が出来ますが、普通の人の場合は、不可能ですよね。ですから人知に余るような悩みがあった場合、人は社寺で祈り社寺の神体仏像などを、神仏と見なして語りかけるわけです。

 ですから、神道仏教的な思想とは関わらず、社寺は常に高級霊が見張り、あたかも高級霊界の受付所のようになっています。もっとも様々な制約やコツが有るのですが……

 さて、本題の死者の供養に戻ると、現代日本ではちょっと難しい話なのですが、かつての日本の生活には産土(うぶすな)神や、氏神様と呼ばれる神社が集落に必ずあり、そして、人が生まれてはお宮参りに行き、七五三に神社に行く、そして亡くなればまた、報告に行き、今までの加護に感謝するという習慣があります。

 まあ、死を穢れと考える神道は、喪中の者は鳥居をくぐるな、などと言いますが、儀式の都合等の場合はさておき、「死が穢れなら、お払いさえ受けていれば人は死なないか!」という話になってしまいます。その辺は、陰陽師の活躍した頃の、鬼や怨霊伝説の名残りの気がします。……脱線ですが。

 ですから、もしお子さんが、生まれ育った場合に、お宮参りに連れて行くであろう神社…それが子供の産土神に当たります……にお参りし、霊界でのお子様を霊界でも見守ってくださるようにお願いするのが良いでしょう。

 この場合、正式な祈祷や、昇殿参拝などはする必要がありません。社殿の前、拍手を打った後、ゆっくり心の中で、願い事を三回繰り返し、頭を下げて、『お願いします』と結べばよいのです。願い事を三回繰り返すのがコツです。一回だけだと、祈っている人間も気が高ぶって相手に念がうまく通じない事もあるからです。


早世・夭折

最終更新日 2002年04月16日

 早世

 親より先に子が死ぬ……親にとってこれほど不幸なことはありません。この、親の不幸につけ込んで布教をする人などがいますので、子供の早世(早死)を親の因縁と思い悩む方がいらっしゃいます。その誤解を解くためのページです。

・・・・・・・

 ある意味、胎児というのは、地上でもっとも幸福な存在といえましょう。母親の胎内に守られ、ただひたすら成長の努力を続ければよいのですから。人間はこの母親の胎内での得た幸福感、そして、乳幼児の頃に受けた愛情で、人格の器を作ると思えます。

 成長するにつれて、社会に揉まれ、それなりに分別もついてきますが、やはり幼児期に親に死に別れた人などは、最後の精神的な踏ん張りが足りない気がするのは幼児期に愛情が不足したからと言えましょう。その一方で、両親がそろっていながら情緒不安定な人もいます。親は愛情と思いながら実は我欲を注いでいるのかも知れません。

 さて、子供の早世には様々な原因があります。人それぞれに事情があることでしょうから、それらすべてを一様に説明することは不可能ですが、転生という点に限ると、以下のように考えられます。

 前世において、衝撃的な死を味わい、その現実を受け止められなかったような霊は、胎児となる事で、ある意味感情的な物をリセットする事が出来ます。私たちもあまりに不運な目にあうと、『夢なら覚めて欲しい』そう考えますよね。それと同様なのです。

 衝撃が生み出す心の傷は、母親の胎内にいて四六時中注がれる愛情が打ち消してくれます。このような手順を踏まなければ自分の死を認める事の出来ない傷ついた霊も、霊界にはたくさん存在します。

 魂に傷があるがために、長生きをしても人生の苦難に耐えにくい、それがために、早世する肉体的な環境の持ち主の所に転生すると考えられます。

 人生は霊性向上の場なのです。子供を産み育てる親にとっても、生まれてくる子供にとっても人生は霊性向上の修行なのです。わずかな時間でも関わりあった事が、互いの心に残すものを大切に扱っていただきたいと思います。

 死別の悲しみ

 身内を失うのはとても辛い事です。それが我が子ならば、苦しみがさらに増す事でしょう。しかし、死をあまりに悲しむ事は、死での旅路につく魂にとって、大きな負担となります。

 身内の者たちにしてみれば、「もう少し生かしたい、いや何とか出来たのではないか」などという考えが、頭の中に巡りましょう。しかし、残された者たちがどれほど嘆き、引き止めようが、死の淵から帰ってくるのは容易ではありませんし、肉体が損なわれていれば不可能なのです。

 そして残された者の悲しみは、死者の苦しみでも有ります。憎悪による自殺など、特別な場合を除いて、誰も自ら死によって、愛する者たちと別れたいとは思わないのです。嘆きは、悲しみを呼んでしまいます。彼らには次の生活が待っています。行かねばならぬものなら、快く送り出す。それが死によって分けられた互いにとって幸せなのです。

 また、早世した子供に対しては、親の責務を果たせなかった、自責の念もありましょう。しかし……幼子ならば、親を慕い、寂しがる気持ちはあれど、親を恨む事はありません。ある程度、成長した子であるのなら、親を恨むのは筋違いでしょう。

 死者との通信を望むな

 死者との通信を望むべきではありません。特に子を亡くした親ほど死者(我が子)との通信を強く望みがちですが、彼らには次の生活が待っています。残された者たちが未練を持って生きることは、死者にとって負担となります。

 この世での生活を終えた霊たちは、まず現界での生活の、悪い点を反省し、良い点を伸ばすように指導を受けます。生前も死後も時間を無為に過ごす事は出来ますが、余分に使える時間が有るわけではありません。無為に使った時間は、やはり無為に使った時間なのです。

 鉄は熱いうちに打ての例えのとおり、霊界入りして直後は、学ぶべき事が多いのです。

 心霊研究団体では盛んに交霊を行ないます。人々の記憶にあるような霊からの霊界通信は、関係者に対して否定しがたい証拠となりますから、なるべく死んだ直後の霊を呼びたがります。

 しかしながら、普通の交霊会に現われる霊というと、大抵、親族もすでに亡くなっているような古い霊に限られます。その理由は、やはり霊界入りした直後の霊は、現界の影響が強すぎて、霊界通信に絶えるだけの霊界に関する知識が無く、また、霊界で学ばなくてはならないことが多すぎて忙しく、現界に関わる事を嫌う事がありあます。

 本来、死の直後の霊は、呼び出されることを嫌います。感情を満たすだけの無為な死者との通信は望むべきではありません。


水子霊・相談例

最終更新日 2002年04月15日

 水子霊の祟りとは、大抵、女性の罪悪感の事を指します。水子供養とは、罪悪感の消去を目的にするわけです。その根拠は、子供は母親だけでは作れず、中絶は男性側にも問題があるのに、男性に水子の祟りが少ない事や、水子の害と呼ばれるものは、まじめな人に多く、遊び人に少ない事が挙げられます。

 水子の霊を調べるのは、霊能者にとってはとても簡単です。水子の霊が胎児から離れる時に、媒体となる幽体を脱ぎ捨てていきます。ですから母親の周囲には、へその緒状の幽体が霊視できるのです。これを勘定すれば、女性が気がつかないうちに、流れていた子供の数まで当たります。

 実際、水子の数を指摘すると、よくよく考えて思い当たる事も多々あるものなのです。その一方で、霊視されるのは、幽体の抜け殻ですから、親を恨む、または害を及ぼす、といった悪意は見られないのです。

 つまり、水子の害というのは、子供の霊の怨念ではなく、むしろ、親の罪悪感なのです。罪悪感というのは贖罪を求める気持ちを内在していますから、自覚の無いままに不幸が起る事を期待しているのです。これでは守護霊の張る霊的防御のスイッチを切ってしまったかのように、低級霊に漬け込まれる隙が出来てしまいます。つまり罪悪感を打ち消す為に不幸を望むことが、水子の祟りの正体なのです。

 とは言うものの、水子霊の祟りと呼びえる現象がまったくないかというと、決してそんな事はありません。その多くの例は、霊現象というよりも心理的な要因ではありますが、ご参考までに実例を挙げておきます。

 相談例1:離婚歴のある女性の場合。

 前夫に子供を残して再婚した彼女は、常々残してきた子供に罪悪感を感じていて、現在の夫との間の子供のわがままに拒否的な感情を抱いていました。このような心のしこりが家庭生活に影を落としていたのです。

 相談例2:経済的な事情から、堕胎をせざるを得なかった女性の場合。

 水子にしてしまった子供に対して罪悪感を抱いているために、その後生まれた子供と罪悪感が二重写しになって、子供の相手をまともにできないのです。

 相談例3:私生児

 私生児として生まれたある女性は、母親に対して複雑な感情を抱いています。母親は大好きなのだが、境遇に不満があり本当は泣き言を言いたい。でも母親は傷つけたくない。その葛藤が体に影響を及ぼし、様々な不具合を抱いています。

 その他:

 自分も親になれば親の苦労がわかる、などといいますが、結婚に失敗し、また、堕胎をし、その罪悪感を親に向けてしまい、ますます親子関係が拗れる人もいます。


相談から指導へ

2006/04/16

 人間には長所があり、適性があって、個性を形成している。……当然、欠点もあり、苦手なこともあって、それもまた個性の一部である。

 たとえば、ある人が悩みを抱くとして、それは単なるその人の事情が生み出したものであるとは限らない。その悩みの元のある程度、場合によっては大部分は、その人の個性の中に原因がある。つまり、被害者の適性や、欠点なども苦しみの原因の一部なのだ。

 それ故に、真に悩みを解決したければ、自己の向上も不可欠となる。……私が、悩めることがチャンスであると考える所以である。

 ところで、個性が一人一人違うのであれば、助言も一人一人によって変るべきなのは間違いない。……だからこそ、大量複製された言葉による指導ではなく、個人指導が必要ということになる。相談に応じる側が、それに気がつかないとしたら滑稽ではあるが、相談を求める側もそれに気がつかないのは悲惨としかいいようがない。適性が合わないのにもかかわらず、他人のやり方を真似て、失敗の傷を拡げる人の何とも多いのだ。自分の個性を蔑ろにされて愉快な人も居ないだろうに、自分はせっせと自分の個性を蔑ろにしている。

 ここでいう、個人指導と、個人相談とは若干意味が違う。相談主は往々、今現在の苦境から抜けることだけを考えて、安易な救済ばかりを希望し、なおかつ不快な指摘にはすぐに眼をつぶってしまいがちだ。

 敢えてしつこく、非難めいたことを書くが、実力を超えた問題であるからこそ悩み、人を頼っているのに解決すべき時期や、解決手段までも指定する人がいる。私は別段それを非難したいわけではないが、そういう行為が正に自分を苦況に追いやっている事に気がつかなければ解決しないのではないか。

 これでは、泥棒を自宅にかくまいながら窃盗を防げというのに等しい。こういう無茶な要求に疑問を抱かなければ葛藤の多い人生にならないはずもない。

……身体の健康維持には、医療の他に整体なる選択肢がある。つまり病気の生じやすい体質を改善していく手法だ。同様に、心の悩みを解決するほかに、悩みを生じやすい気質を改善していく、整心、いやむしろ「整魂」なる手段が必要なのではないか。今、そう考えている。

 悩み事に対する、心霊相談は中断というよりもう止めるべきであろう。為すべきは、心霊指導、または、「整魂」なのだと、考えている。


 2006/04/16

リズム――自分を見失わぬ為に。

2006/04/16

 物事が成るには時機があります。早すぎても遅すぎてもうまく行かないし、うまく行かないどころか逆効果になることもあります。

 そして、相手に伝わるには速度があります。焦って伝えようとしても誤解が生じるし、かといってノンビリしていると相手の関心がよそに向いてしまいます。

 時機の捉え方、速度調節の上手な人はとても効率よく成功を収めていきますが、往々、当人さえも、成功要因が何であるのかに気がついていません。知識や思想、才能が成功要因である自負するのは、単に己がそれを頼みにしているというだけのこと。いくら才能があっても周囲とうまく噛み合わなければ才能の芽が積まれてしまうことでしょう。周囲の人々とのリズムも大切ですが、人生には見えざる運気が在り、そのリズムに合わせることも大切です。

・・・・・・・

 人間関係を眺めていると、他人のリズムを崩す人は、周囲に災難を及ぼします。災難とまでは行かなくとも、周囲の成績を貶めたりいたします。……リズムはとても大切です。早すぎても遅すぎてもいけないし、なにより、他のリズムを崩してはいけません。……むろん、自分のリズムを崩してもいけません。

 焦る人にはにこやかに接し、ノンビリ屋には、こまめに声を掛けることです。すると相手はリズムを整え、持っている才能を活かすことが出来ます。


2006-04-16

 

思慮が浅い

2006/04/16

物心両面の豊かさ

 将棋は、敵味方双方、駒の数も駒の種類も同じなら、番面の広さも同じです。唯一違うのは先手、後手があるだけです。条件はほとんど同じなのに、どうして実力に差があるのでしょうか?

 知力の差ともいえますが、もっと大切なことが有ります。素人ほど、使いやすい駒ばかりを使い、多くの駒はまるで動かさずに勝負に臨むということです。活用されていない駒、いわゆる死兵が多いのですね。与えられた駒と盤面は同じであっても、活用の度合いが違うから、勝負に差が出るのです。人間と知性の器が、駒を制限すると言ってもよいでしょう。

 さて、快楽主義者は道義を軽視しても物質的な豊かさを追いかけ、精神主義者は欲心を軽蔑して精神的な豊かさを追いかけます。このように極端に走る事は、古今東西の聖人達の戒める事であります。
 真の道は中道にあり、精神性が全ての霊界から、わざわざ物質世界に生まれ出てきた事を知る(または信じる)心霊主義者は、両極端に走ることなく、全てを活用して、人生の目的を果たすべきです。

 つまり、物質にせよ、精神にせよ、その豊かさに溺れず、豊かさの中で安穏とせず、物心両面の豊かさを人生に活用していくのです。

不足があれば知恵で補い、補いきれなければ努力で補え

 物心両面の豊かさの追求が、物質世界での隠れた目的なのです。その努力の過程で良質な経験が数多く身に付きます。ですから欲心を否定する必要は全くありません。問題なのは欲心に支配されることなのです。物欲が勝っても、精神的な欲望が勝っても、物質世界の特質を活用しているとは言えなくなるのですから。

 

博打に身をゆだねる?

『へぼ将棋、王より飛車を可愛がり』

 手段と目的を履き違える、人生のへぼ棋士が失うのは、勝ち負けではなく、人生なのです。人間は死んだら無? それでは博打、では、死後の世界が全てか? と問うなら狂信者以外は不安を抱いて当然です。なにしろ人間の知覚外にある世界なのですから。これも信じるのは博打と言えます。

 ですから私がお勧めするのは、大勝ちではなく負けない方法の選択です。今を確かに生きる。後悔の無いように生きる。それが大切だと思います。実に当たり前のことですよね。
 しかし、心霊を学ぶ多くの人に、この当たり前のことが出来ません。他人の意見は、どんなに親身な意見であっても参考であって答えとは呼べません。人の意に従って失敗したとき、恨みを抱くようではやはり主客転倒と言えます。必要なのは人の知恵を我が物にするのであって、誰かの指図に従うことではないのです。 そもそも、人を当てにして人生の困苦にぶつかろうなどと言うのは、自分の人生を生きているとは言えません。人の手駒になるために地上に生をうけたのでもないのです。

 

補足

 死んだら無になると信じる人は、ただ浪費し、非難し、そして創造的なことは行なわない人です。創造的な仕事をする人は、生まれ出たことの喜びを知っていますし、物の価値に理解がおよぶものです。

 創造的な仕事を行なう人は、インスピレーションを物質世界で表現する専門家でもあります。だから霊的な知識を理解しやすい人でもあります。しかし正しい価値判断の基準をもたなければ、人を感動させる力は持ち得ません。的確に人々をリードできるだけの高いインスピレーションを得られないからです。

 そして、職業が創造的であっても、ただ浪費し、非難する人もいます。創造力を処世術で補おうとするからです。


2006-04-16

 

地上で学ぶべきもの

2006/04/16

 そもそも、精神性がすべての事象を生み出し、自己表現の自由な場である霊界から、わざわざ暗く、鈍く、不自由な物質世界に生まれてきたのは一体なぜなのでしょう。……それを考えてみてください。

 人生は魂の修行の場といわれますが、具体的にいうなら、思慮深さと忍耐と工夫する力の育成である事が地上の特質から見て取れます。

 つまり、不自由に負けず、使いにくくても放り出さず、それらを生かす忍耐力。そして、いかなる困苦や逆境をも目的達成の手段に用いる、魂の柔軟性と強さの鍛錬なのです。

 守護霊は霊界にありながら、欲望に囚われ、勘が鈍く、目先のことに囚われて、気分屋な人間を指導していかねばなりません。その守護霊はどの様にして霊性を磨いたのか、どの様なことを重視して霊性を磨いたのかというなら、まさに地上において、忍耐力と柔軟性と強さを鍛えていったのです。

 ですから、私どもが、地上にあって、辛い、苦しいという気持ちを、守護霊はとても良く理解してくれます。しかし、守護霊達も同じ困苦をくぐり抜けてきたのです。私どもを容易に甘やかせてはくれません。


2006-04-16

中身を知らない(信仰心)

2006/04/16

2006年 04月 15日


 時々、聞かされるたわごとであるが、神様が助けてくれないなら、悪魔信仰をする……当人はそれなりに真剣なのであろう。だが、真摯な信仰者は、こういう発想を、「御利益信仰」と呼んでいる。当人は神を信仰しているつもりでも、傍目からは見えるのは、御利益を得ることが第一義であって、神も悪魔も、無論仏も、御利益の中継ぎ役でしかないのである。

 端的に言えば、最初から御利益を拝んでいるのであって、神も、悪魔も拝んでいない。徹頭徹尾、御利益宗の信者であって、神も悪魔も御利益大神の眷属扱なのだ。ならば、神様の代りに鰮の頭を拝んでもたぶん状況は変らないだろう。

 これがたとえば、霊障に苦しんでいる人が一時囚われる妄想としての悪魔(悪霊)信仰は更に屈折している。ようするに神様が助けてくれないなら、悪霊に降伏してしまおう、という発想だ。……だが、悪霊は降伏を強いているのではなく、肉体の支配をもくろんでいるのである。つまり降伏などというのは一方的に抵抗を止めるというだけであって、先方がそれに従う必然性を持ってはいない。

 いや実際問題として、悪霊に降伏しようか等という発想は、高級霊等からの試練……覚悟を試されているのが本当だろう。道義よりも利益に色目を使いがちな人に与えられる試練である。

 ところで、この話題に(内々)興味を持つ人にとって、一番の関心事は、「何を信仰すべきか」というテーマかも知れない。これは浅野和三郎氏の著作などを見れば、「邇々藝命《ににぎのみこと》であるべき」と繰返し書かれているが、試してみて欲しい。邇々藝命信仰をして何らかの手応えを受ける人もいれば、受けない人もいるだろう。……同じ信仰対象を持っても、その効果に差があることが、一部の人達を無神論に傾けさせる原因ではないか。おそるべきは人の妬みなのである。

 だが、同じ信仰対象を持っていても、人それぞれに異なるものがある。その人々の境涯、そして、信仰心の在り方だ。この問題に気が付いた人は古今数多いが更に困ったことに信仰心は、目で見て比較が出来ないことである。

 ならばいっそ、どういう心境で信仰したときに手応えが強いのかを研究してみれば良さそうなものだが……無論、私はやっている。精神統一だ。心を静めて祈る。その祈りに手応えが感じられるのは自分の心がどういうときであるのかを常々内観している。

 その上で思う。信仰対象が大切なのではない。自身の信仰心、もっと砕けた言い方をするなら、敬いの心が大切なのだ。

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 ところで、私は、朝、目が覚めて起きあがるまでの数分間、寝ぼけた状態から意識が目覚める間に本を読む習慣がある。今朝読んだのは、下村湖人著 「論語物語」だったが、ふっと感じるものがあった。

「現今では、親を養ってさえいれば、それを孝行だといっているようだが、おたがい犬や馬まで養っているではないか。孝行には敬いの心が大切だ。それがなかったら、犬や馬を養うのとなんの択ぶところもない」

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 この問題は、同時に恋愛問題にも当てはめられるだろう。浮気を繰返す伴侶は、真の愛を抱いているのか……多くの人は「浮気な愛」を否定するだろうが、問題は敬いの心の有無であろう。

 いわゆる信仰の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。
 いわゆる愛情の中には、依存心の強いものと、尊敬の念の強いものがある。

 信仰も、愛情も、孝行も、ただそれだけに価値があるのではなく、その成分が大切であり、その特に重要な成分は、一般に「敬い」といわれているものだ。……呼び名が同じでも成分が異なれば性質も異なるのである。

 成分を知らずに本質を知っていると錯覚し、呼び名にこだわり、呼び名に騙され、意味が分らぬと途方に暮れる。

……なぜ分らないのか? 理解せずに理解を求め、不器用さを「自分らしさ」と言い訳し、周囲への愚鈍さを「我侭だから」と開き直ってみる。… …他人の同情なくして生きらぬ、依存の強い生き方をしているのだから、分るはずもない。


信じる心

2006/04/16

 自分を信じる事は大切です。それは力を生み出しますから。

 何かを信じる事は大切です。それは力を増しますから。

 しかし、何かを信じても行うことがなければ、霊性の向上も魂の向上もありえません。

 そして充分な霊性を持たないと、信ずるに値するものを見分ける事も出来ません。

 学ぶ事、行う事、そして信じる事、良い人生を生きるためには、バランスが大切です。


2006-04-15

日本的信仰生活

2006/04/16

2004年07月10日・心霊研究掲示板
2004年08月15日・加筆修正

 

 日本人は、クリスマスを祝い、新年には神社に行き、葬式は仏式……と、節操のない宗教観の持ち主であると、日本人自身が思いこんでいますが、これは日本人の宗教観が逆に健全であるからだと私は思っています。

 そもそも、宗教宗派に拘るというのは、まず最初に、信仰対象があり、その信仰対象をどう称えるか(卑屈にいえば、どうおもねるか)を考える結果だと想うのです。それに対して、日本人の本来の宗教観は、先に信仰心……すなわち、超越者・先駆者に対する敬意の念があり、その敬意の念の表現方法として宗教宗派、又は宗教儀式が有るのでしょう。

 幸せにして欲しいから信仰するのではなく、すごいと感じたから信仰する。それが日本人の精神性だと感じるのです。だからこそ、外国の優れたものをどんどん取入れもするし、怨霊さえも神様として祀ってしまうことをするのが日本人です。

 先に信仰対象があると、他の優れたものを賞賛することが難しくなる……そういう器量の小さい所が熱烈なる宗教家には多々見られますよね。一方、宗教宗派を問わずに、私を幸せにして……というのもなにやら強欲な話です。所詮、神とか悪魔とかの分類が、自分にとって利益になるか否かの違いだとしたら、結局、信仰対象が先にある信仰心というのは欲の働きとしか私には思えません。だからこそ、欧米の宗教では「霊性の向上」が重視されるのでしょう。最初は欲の働きから信仰に入っても、最終的に神に繋がればそれでよし……そういう思惑が見え隠れします。

 現実問題として、現代日本でも、信心深い人というのは、欧米的に先に信仰対象のある人が大半を占めているようですから、欧米的に霊性向上が必要でもありましょう。しかし、日本古来の精神スタイル……先に信仰心があり、拝む対象はそれこそ蚕《カイコ》でも鰯《いわし》の頭でも良いというなら、そこで重要なのは、対象のその先にある何か、をより理解するための霊性深化かも知れません。すなわち、「表面的な理解」といういわば、偏見に陥らぬように、自分をより深く知る事を大切にする事が大事といえましょう。

 私がこのように感じるのは、現代の書店で入手可能な神道に対する入門書を見ての事です。どうにも一般的な神道の書物というと、神話紹介、御利益案内、神社観光、呪術紹介といった事柄ばかり、それが日本人の精神性の根元だというのなら、エコノミックアニマル、日の丸観光団、そして、「フジヤマ・ゲイシャのエキゾチックジャパン」……現代日本人への偏見そのままではありませんか。

 ああ、辿っていくなら……はじめに「信仰心ありき」という日本人が滅びたからこそ、日本人は上海事変から太平洋戦争へと乗り出していったのかも知れませんね。


欲が神仏を拝む

2006/04/16

 私も、社寺を歩くのが好きですが、参拝というよりも拝殿で精神統一をすることを目的にしています。この精神統一というのは、「心・霊」の統一ではなく、「心・霊・体」の統一のことです。

 ある時、熱心に(延々と)参拝している人がいて、拝殿前が開くのを待っていた時のことです。

『祈りが長いのは、欲が拝んでいるからだぞ』と、突然聞こえました。

 欲が拝んでいる……?

『宗教などといっても、人が神を拝んでいるのは稀で、大抵は欲が神を拝んでいる。魂が呼ぶなら応えもしようが、どうして欲心などに応えよう』

 なるほど、同じ人が拝むのでも、欲もあれば、魂の祈りもあるというわけか……しかし、地上で生きている限り不足が付きまといますから、自然と欲が出る事もあるでしょう。すると、自身の祈りが欲なのか、魂の発露なのか、自分で判断するのも難しいものですよね。せめて、欲心に自身の主導権を取られぬように注意いたしましょう。


2000年

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