‘2006/04/15’ カテゴリーのアーカイブ

対人関係

2006/04/15

 対人関係に関する質問を二通受けました。

 

1,転職について

 そもそも物事というのは、自他の関係で定まるものです。たとえばいかに、その会社の待遇が良かったとしても、あなたの勤務態度……そこまで行かないまでも、あなたの性格が会社の気風に合わなければやはり勤まらないことでしょう。

 腹蔵無くビシバシ発言することが尊重される気風の会社も……無いとはいえないし、気配りと慎みを強要される気風の会社もあるでしょう。問題は単にその会社が良いかどうかではなく、あなたとの相性が大事となります。

 むろん、あなたが気に入ったということは、その気風を含めて感じ得たことに基づいているのでしょう。が、あなたが、充分に自分自身を把握していなければ、その判断があてには出来ません。

 転職してもうまく行かない。もう一度転職しようか……と思う前に、まず、いくつかの問題の中心にいるのは誰か。について考えるべきです。心機一転も大切ですが、自分が災難の原因であるなら、自分を変えない限り災難から逃れることが出来ません。……思う通りに行かないならば、人生の岐路を選ぶあなたが、現実と認識のギャップを抱えているということです。そのギャップの克服こそが大切な問題解決となります。

…… とはいえ、人は修行ばかりで生きることは出来ないし、世俗的なことには打算も必要です。……というわけで、ここから先こそが、個人相談となります。従って以下は伏せさせて頂きます。

 

2,家族・友人

 家族と友人に関しての相談ですが、プライバシーに配慮して、詳しい説明は出来ませんが……というのが、この手の話の常套句な訳ですが、説明したくとも詳細が判らぬ相談も舞い込みます。……まあ、詳細がないということもまたヒントなのですが。

 身体が悪い……当人の自覚以上に健康が損なわれていると感じます。

 とはいえ、病気ならば、話は簡単なのです。でも、明白なる発病がない場合、周囲も家族もその扱いに戸惑います。たとえば、「なんとなく身体がだるい」という症状を考えてみて下さい。ついつい、何事も人を頼ってしまう。頼られる人は、「何で自分でやらないの! 私だって疲れているのに!!」 と腹を立てる。実をいえば日本中そんな争いばかりです。

 医者にかかるほどの病気ではないが、身体が思うように動かない。だから、ついつい些末な事まで他に頼ってしまって、人間関係がぎくしゃくしてしまう。

 本当は身体が動かない……思うように身体が動かせないことが問題なのに、心は別な問題にばかり気が向いている。時には、心を内側に向けてみるべきです。

 

3,その他

Q 親兄弟、自分の将来について悩むことが多い……考えて答えが出るならば考えればよし。でも、現状では考えても答えが出ぬのです。ならば、今は天に預けて今は目の前のことに取り組むべきでしょう。


2006-04-15

夢・希望・願望

2006/04/15

夢や、希望、願望が実らないという相談についてです。

この問題についてのご相談は、なるべくご遠慮ください。私としては見ず知らずの人の夢を壊す、嫌われ役を自ら買って出たいとは思っていないのです。


 漠然とした相談

 時折、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という、不可思議な相談を受けます。

 私には、この質問の論理がどうにも理解できません。物事が成るには、正しい方法と、適切な努力が必要なのであって、本来なら物事が上手く運ぶ方が不思議なのです。まして、力が及ばなければ、物事が上手く運べなくて、むしろ当たり前ではありませんか。

 ですから、この問題への回答は実に単純明解なものしか、思いつきません。

 「あなたの努力が適切ではないか、努力が足りないか、いずれかでしょう」

 いえ、もっと重大な問題があるようです。

 

 実力

 悩み事というのは、自分の実力を超えているからこそ生じます。では、夢が実現できないということは、一体何を意味するでしょうか?

 質問の筋道をきちんと説明できない人は、努力家ではなく、夢想家であるということです。努力もせず、筋道も間違っていたら、あなたの理想が実現するのは、とても難しいことでしょう。

 苦しんでいる人は、大抵は自ら問題を生み出しているものです。そしてじたばたと、苦しみにもがき苦しむ人は注意しなければなりません。苦しいのならばなおのこと、じたばたとすることに無駄な労力を使ってどうなることでしょう。

 

 時期・チャンス

 懸命に努力しても、何の結果も得られないこともあります。努力だけでは足りないのか……その問題に取り組んだのが、心霊である……そういう解釈もあります。つまり、心霊というのは努力を型に成すための研究でもあるのです。

 努力を型に成すには、タイミングも大切ですし、待つことも大切です。たとえば春に播くべき種を、冬に播いたら……小春日和に発芽した若芽は、真冬日に凍りつき、枯れてしまうことでしょう。

 死者の言葉に耳を貸した、心霊は「摂理」にいたります。出来るものは出来るし、出来ないものはやはり出来ないのです。しかし、摂理に敬意を払わない者は、出来ないものをやろうと努力し、挫折します。

 努力は大切ですが、目的を見失っては成らないのです。努力のための努力は、自己満足に過ぎません。目的のための努力こそが、あなたを成功と幸せに導くのです。

 

 夢の代価

 慎み深く暮らしていても、事故に巻きこまれることもあるのに、ただ無事でいられるというだけでも、一体どれだけの幸運が必要なのでしょうか。なのに不運を嘆く人のなんと多いことでしょう。

 夢は、一体誰のためのものなのでしょうか?

 不運を嘆くあなたは、自分の夢が実現できないのではなく、夢の代価を払えずにいるのです。この差は似て非なるものです。

 

 摂理

 蒔かぬ種は刈り入れられないのが摂理です。つまり夢が成らないことも、自らが原因を作っているのです。

 

 努力

 質問: 人生に努力は、必要でしょうか……

 私の立場は非常に明快で、ただ摂理があるだけのことです。

 物事には代価が必要であり、安易に得られる物は、それなりの価値しかありません。 つまり

……欲しければ働け、嫌なら諦めろ

……それだけの話です。

 努力が美徳であるというのは、努力するだけ利益が上がる農耕文化の思想に過ぎません。運の比重の大きな狩猟文花では、地道な努力よりもむしろ、より多くの分け前を得るための自己主張などを重視します。 そして、現代日本も、努力よりもむしろ自己表現が重要に成りつつあります。

 そして、私も努力をすることが大切だとは思いませんが、自己表現も下手なら、努力もしないのでは一体どこに取柄があるのでしょうか。そして、「自分の希望のままに、物事が運ばない……」という質問は、摂理の面から一体どのような解釈ができるのでしょうか。

 このような質問をする人には、想像もつかないことでしょうが、私の回答は、『今のところはまだその程度で済んでいますが、いずれもっと大きな悲劇と逃れることが出来ない困苦に見舞われることでしょう』というものです。

 無理に働く必要はないと思いますが、自分が欲しいだけのものを稼ぐ努力がなく、そして夢や願望を捨て去れなければ、自分自身の怠惰と欲望の板ばさみで苦しむことになります。そして、年老いてから努力するのは何よりも切ないことですよ。

 そして、若いうちに運や縁を育てておかなければ、年老いて、苦しみに直面しもあなたの苦しみに親身になってくれる人は現れないからです。

 

 楽しみ

 人生は、ぜひ、楽しまれるべきです。ですが、その前に、人には自らを削って楽しむ人と、自らを太らして楽しむ人に大別できることを覚えていてください。苦労を後回しにすれば、いずれ帳尻が合います。怠惰の生み出す苦しみは他人には解消出来ないものなのです。

 そして、何より幸せなのは、生み出す喜びを極めることです。人が苦労と思うことを喜び楽しみながら出来るという事……これはどんなに羨んでも、努力しても会得できるものではありません。

 また、浪費というのは、なんと心地よいことでしょう。しかし物や金がなくなれば、とたんに人は心寂しさを覚えます。働くのは面倒だ……ですが、形あるものを作り、残していくことはなんと安心感が生まれるものでしょうか。

 浪費と言う、目先の甘さに囚われて、知らずに不安の種を播き、面倒という、目先の苦さに囚われて、安心の種を播き忘れたら、楽しみの果てにただ不安が残ります。

 結局のところ、人には、自分の未来を取り崩して今の楽しみを追いかける人と、楽しみながら未来を生み出していく人がいるのです。

 

 怠惰の理由

 なぜ、人は怠惰に陥るのでしょうか。私が見る限り、夢を実現できない人は、夢よりも、努力よりも、言い訳を大切にしている人のようです。

 本当の夢を抱いているなら、何をさておいても、努力するはずなのです。それも、自分では努力とは思わず、傍目に見えるような苦しみも知らずに、ただ一心に夢に向かって進んでいます。

 夢が実現しないと嘆いている人に触れるのは、私にとって苦痛以外の何者でもありません。その心の中に言い訳と不満と妬みしか、見えないからです。

 延々と理屈を並べで、でも実現のための行動に移らない……当人は否定しますが、傍目から見たら、そういうのを「言い訳」と呼ぶのです。そして、言い訳であることを自認しないから、永遠と無駄な思考を続けるのです。

 しかし、先が見える努力というのは、動き出すまでは辛くても、いつしか没頭して苦しみを忘れますが、先が見えないというのは、黙って座っているだけでも辛いものです。


2006-04-15

幸せになれるか?

2006/04/15

幸せになれるか?

2006-04-15

 時折、「○○さんは、幸せになれるでしょうか?」という、ご質問をいただきます。本当は、自分が幸せになれるか……という問題のほうが、重大なはずなのですが、自分のことは、いろいろな面で聞きづらいのでしょう。

 このような場合、間接相談はお断りしている旨を書いて、お返事に代えさせていただいているのですが、実は答えは常に一つしかありません。

「幸せにはなれないでしょう」

 これは不幸になるという意味ではありません。そしてなぜ、答えが一つしかありえないのでしょうか……

 漠然とした、質問には漠然とした回答しか生まれません。問題の絞込みが不十分であれば、選択肢は無数に生まれてしまいます。しかし、「幸せになれるだろうか?」という質問には、答えは一つしかありえないのです。

 もしも、質問者が、幸せの正しい意味を知っているなら、その実現に向かって努力するはずです。幸せの実現に障害があるなら、「幸せになれるか?」と質問せずに、「どうしたら障害を乗り越えられるか?」と質問することでしょう。

 つまり、幸せになれるかどうかを悩んでいるというのは、幸せになる方法を知らず、その努力もしていない事を、公言しているようなものなのです。

 「あなたは幸せになる方法を知らない」と、いうと、大半の人が、「いや、そんなことは無い」と否定されますが、では一体どんなことが「幸せ」かというと、大抵は、満足感や充足感を、幸福感と錯覚し、満足・充足することを幸せであると、思い込んでいらっしゃいます。

 これはまた、なんとも不幸なお話と言えましょう。食べ物も、金品も、装飾品も、貴重品も、すべては他の被造物なのです。自分の物ではないものを欲しがり、追いかけ続けるのは永遠の苦悩を抱いているようなものです。

 美食に満足しても、半日もすればお腹が空くのですから。

 たとえば美食を幸せと思うなら、半日ごとに幸・不幸を繰り返し、油断して食べ過ぎて不幸になり、食べ過ぎて胃を壊してまた不幸になるのでしょうか。それでは一体、幸せになる努力をしているのか、不幸になる努力をしているのか、どちらだかわからなくなりますね。

 もちろん、人生、努力をすれば結果を味わいたいものですし、満足・充足を味わうことを私は否定しません。ですが、他にある幸福を追いかけていては、追いかけて、追いかけて、追いかけ続けることに苦しみを抱くようになりかねません。

 人が何を持って、幸福と表現するか……人の数だけ、幸福があるといっても過言ではありませし、「満足感は幸福感ではない!」と説得したところで、空腹に苦しみながら、幸せを噛み締めるのはとても困難でしょう。

 もちろん、法や倫理に触れない限りその人なりの幸福感を追いかけること自体は決して悪いことではありません。しかし、外に幸せを求めては、永遠に追いかけ続けなければならなくなります。

 そして、○○さんは、満足のいく人生を歩めるでしょうか?

 この質問こそ、最も避けたいものなのです。使い切れないほど財産を持ちながらも、物足りなさに悩む人もいれば、貧しくて不満を抱かずに工夫で楽しみ補い生活する人もいるのです。つまり充足感というのは、物質的な豊かさと精神的な豊かさのバランスによって決まります。

 そして、目に見える物質的な豊かさを差し引けば、この質問はそのまま、○○さんの人格・霊格は、どの程度の高さでしょうか……という質問の隠れた回答となってしまいます。質問者の意図するところではないでしょうが、「○○さんは幸せになれますか?」という質問は、実はそのまま、「○○さんの悪口を言ってください」というのに等しい質問なのですね。

 「幸せになれますか?」という疑問は、単純で純粋な疑問なのだから、理屈や裏読みした回答こそ、浅ましい……と思われる方もいらっしゃるでしょう。 一足飛びに回答してよいのならば、まさにその通りです。

 ですから、「幸せになれますか?」というご質問に対して、一番の回答は、

 「幸せとはなんであるのか、よく考えて目標を見出し、その目標に向かって努力なさい。(悪因縁さえなければ……これは一般論では回答できない)努力はいずれ実りますし、努力するほど、その達成感は大きなものですよ」

 となるのですね。

 しかし、せっかくここまでお読みになった人なら、ぜひもう少しお付き合いください。

1、 質問は単純であっても、回答まで単純とは限りません。そして、安易なものはそれなりの価値しかないものです。つまり、幸せを求めるのならば、求めるものに相応の努力を惜しまないでください。

2、この回答が難解に感じられたら、それは、目標までの道のりが困難であるということです。少なくとも幸せな人が、この文章を真剣に読むことは無いはず……覚悟を決めてください。しかし、決して絶望しないでください。あなたはヒントを得たからこそ、ここまで読み進んだのですから。

3、少なくとも、安易な解決法を求めずに、ここまで読み進んだあなたは、幸せになる準備ができているということです。ご自分に自信を持って下さい。安易な答えには相応の価値しかないのです。それはそのまま……価値に見合うだけの努力が要求されているということでもあります。

それでは、皆様、お幸せに……


自己改革……最初の一歩

05年 06月 18日

 どんな見え見えで、簡単な答であっても、自分自身の口でいうことに意義があります。何よりそれは、自分の問題・自分の人生を、人任せにせず、自分ノド力で解決しようという態度表明の第一歩なのです。

不幸の原理を知る

 世の不幸な人を見ていると、往々、わざわざ進んで悪い方へと選択を重ねていくのを目にいたします。「なんだか、危なっかしい運転をしているバス(又は電車)だなぁ~」などと、危険を予知しているのに他人事のように乗り続けて大事故にあったり、「でも辞められないんだよな~~」等とのんきにしていたら悲鳴をあげる羽目になったり、「何か忘れ物をしているような~~」等と油断していたら後で大騒ぎ。

 業《カルマ》というのは、自ずと解消を求めます。

「解っているけど、辞められないんだよな~~」等と口にし、自己改革を自ら否定するかのような態度表明をするから、同じ災難を繰り返してしまうのです。もしも、「これは災難ではなく、私の過ちだ」と気がつくなら運気の流れは変わっていきます。

努力の意義と価値

 結果は努力についてくる――

「そんなことは知っているけれど、努力に見合う結果は得られないじゃないか!」

 多くの人は、自分の努力を過大に評価し、得られる結果を過小に評価します。

 出来るだけ楽をしたい……合理性の追求は知性動物のいわば本能です。ですが、安易な選択は進歩の可能性の否定であり、本能に流されることは進歩の否定……退化への罠なのです。

 だからこそ、「あなたは努力をしなければいけない」……などと思うのも工夫が足りません。

 あなたの努力があなたにもたらすものは、果たして結果だけでしょうか?

 同情や信頼、ひいては連帯感や友情など……目先の欲に囚われて、努力がもたらす様々な副次的な成果を見落としてはいませんか。

 そうなのです。努力に見合う結果は得られぬのです。だが、副次的効果全部を計算に入れると、努力は実に見合うのです。

どうしたら欠点が治るか。

 この話題は迂遠な比喩から始めます。

 たとえば、私は誰かに迷惑を掛けられても謝罪を求めたりはしません。謝罪よりもむしろ絶縁を好むのです。なぜなら、失敗は悪意よりも未熟さがもたらすもの……つまり、未熟故に犯す過ちは一度で終わると思う方が変でしょう。何度も同じような迷惑を掛けられるから……ならば謝罪を受けるよりも、むしろ絶縁した方が後々は楽なのです。

 むろん、野にある善いものを採取するだけでは必要を満たせないことは人類の歴史を遡らなくても解ります……つまり、人を育てる覚悟無くして、豊かな人間関係は望めませんから、みだりに絶縁も選べません。だとしても、被害者の側に立って謝罪の意義を考えると、これはいささか微妙です。加護によるものであれば、謝罪など無くても治るだろうし、未熟さの結果であれば、謝罪を受けても過ちは繰り返されるでしょう……では、誰のために謝罪はあるのか。

 気晴らしのため……その気晴らしを求める被害者もいますが、多くは加害者の気晴らしのために謝罪は存在するのです。

 つまり、謝罪を不要という私は、寛大なのではなく、冷酷なのです。

 さて、怠け癖は人間の本能。そういう見方も出来るでしょうが、霊媒はそれ以外の原因に気がつき……それを口にして嫌われる霊媒在り、口にせずに信用を失う霊媒在り……

 自分の欠点を自覚し、自分を嫌いそうなその時、自分自身と葛藤するだけでは帰って傷が広がります。そういうときには、たとえば、入浴前に自分を省みて、失敗の数だけ、洗面器で冷水を浴びるぐらいの覚悟をなさるべきです。

 自分自身に試練を与え、その報酬に許しを与え、いつまでも失敗を引きずらぬようにする。それを習慣づけることです。

 多くの場合、欠点を直し損ねるのは、自己改革よりも、周囲に頭を下げた方が楽だという心理が働いているからです。…… 謝罪不要といわれて、「嗚呼偽善しゃぶっている相手で良かった」等と思うのは簡単ですが、でも相手の信頼を取り戻せなければ結局多くを失ったままなのですから。

 謝る方が余程楽。その事実に気がつかないから、謝れるときに謝らず、そのくせ、謝っただけでは済まないところで謝って済ませてしまっているのです。

気持ちの切り替え方が難しい

 確かに!! でも、気持ちを切り替えなければ苦しい状態にある時、あなたにはまだチャンスがあるということです。つまり、大切なことを学ばせていただいている最中なのですから。あなたはまだ点から見捨てられてはいないのです。

 帆船時代。船乗りたちは逆風ですら……風上に向かってジグザグに進み、トータルで前進する……推進力に変えてきました。その船乗りたちが一番に恐れたのは無風だったのです。例え、あなたがどんなに努力しても、周囲が全く相手にしてくれなければ、あなたは苦悩を抱えたままじりじりと待ち続けなければいけません。

 操船術の下手なあなたは逆風を災難と嘆き、己を進ませることを諦めてしまいます。錨を降ろし、必死に風向きが変わることを祈る…… でも、逆風は無風よりも有利な状況なのです。何しろそこでは堂々と自己の思うところを表明してもなお、自慢とは受け取られないのですから。自己顕示欲の強い人にしてみれば、順風の時よりもむしろ自己宣伝の好機なのです。


真理と現実(次元の混同)

2006/04/15

 いわゆる心霊現象と呼ばれる事例の多くは、超常現象でもなんでもなく、科学的に説明できる事も多いし、それどころか、科学的な説明のほうが合理的な場合が多いものです。

 死者の霊の言葉を代弁する霊媒現象もまた、二重人格の霊媒の別人格かもしれないし、ただの虚言かもしれません。いえ、虚言以上に、思い込みを霊言と思い込んでいる場合がとても多いと思います。

 心霊現象(と一般に思われているもの)に関する解釈があまりに滑稽であるために、単に心霊肯定論者であると自称するだけで、心霊否定論者の失笑を浴びる事があります。

心霊とは、非科学的な迷信なのでしょうか?

 確かに、非科学的で迷信としかいえない解釈や研究も数多くあります。そういう研究家がいることで真面目な研究者も一緒に誹謗されるのは迷惑でもあります。

 しかし、考えてみてください。

 例えば、絵の具をこぼした一枚の紙と、画家が意図して描いた絵画と、科学的にどう違うというのでしょうか。

 絵の具のついた一枚の紙にある、作者の意図の有無を、科学はどう解明できるというのでしょう?

 一見不可思議だというだけの理由で、しっかりと科学的に説明がつく現象の多くを、『心霊現象と信じる』というのは、確かに近眼的で愚かしくも思えるでしょう。しかし、どれほど科学が否定しようと、「心がどこから生じ、肉体の死によって心の価値がどう代わるのか」という疑問から人々は逃れる事が出来ません。

 そのような疑問は、本来、宗教や哲学の対象であり、科学の対象ではないはずです。そして、心が単なる生理的な反応に過ぎず、そして、死によって全てが無に変えるなら、人生にいかなる価値があるのでしょうか。

 そう、人は自分を偶然の産物とは考えたくないのです。しかも、人は、心を想像できるような超越的な存在の意図を理解できるものでしょうか。 我思う、ゆえに我あり……ですが、「我がある」というだけで満足できる人なら、宗教や心霊思想など不要なのです。

 CD(コンパクトディスク)を例えに考えて見ましょう。その素材が何であるのかは、化学的に解析が可能ですが、そのCDにいかなる情報が記載されているのかは、化学の対象ではありませんよね。記録媒体の組成と、記録された情報とは異なる次元の問題だからです。

 ですが、心霊肯定論者の多くは、心・霊と物理・生理現象とを同一に扱おうとします。「心と身体とは異なる次元の問題だ」という、霊界通信を受けて、霊界を「四次元の世界だ、いや、高級霊界は五次元だ……」などという議論が始めてしまうのです。しかし、数学的な「次元」と国語的な「次元」を混同するというような低次元の過ちを、真剣に論じて何になりましょうか?

 確かに、心霊に関する様々な理論等には滑稽な物も多いでしょう。死後の個性存続・肯定論者である、私の目から見てもひどい状態だと感じます。でもそれは、基礎的な研究がおざなりであるということなのです。


心霊主義という表現

2006/04/15

 今では「心霊主義」というと、一般的には怪奇物と同一視されているのを嫌って、心霊思想の支持者は「スピリチュアリズム」という表現を主に用いているようです。

 そして、スピリチュアリズム  (spiritualism)  にはさまざまな分派があるにせよ、「死後の個性存続を前提にした生き方で、より心豊かな人生を送ろう」というのが基本的な考えと見なして差し支えないでしょう。


 さて、私が怪奇物と同一視される不遇を受け入れてもなお、心霊主義という言葉にこだわるのは、日本における心霊思想普及の先駆者である、財団法人・日本心霊科学協会への敬意の表れであり、単なる欧米の心霊思想の追従ではなく日本古来の心霊思想を受け継いだことへの誇りの現れであり、そして同時に、心霊に携わる人間として、決して忘れてはならない意義を「心霊」という二文字に見出しているからなのです。

 霊からの働きかけを、予言や占いとして用いる人もいらっしゃいますし、死霊を新たな神として見出した新興宗教もありますが、私自身は、死者の言葉を拝し奉り、死者の指導の元に生きようという「拝霊思想」に陥ることなく、そして、他人の思想や霊言、霊媒の霊査などは、あくまでも助言として人生に生かし、間違っても自分の主体を失う事がないようにと自分を戒めています。

 つまり、私にとって「心霊」という言葉は、人間の精神的働きである「心」と、死者の精神的働きを表す「霊」とを対等に扱い、神秘思想や死者の霊と親しく交わっても、決して追従しないという誓いが込められているのです。

 とはいえ、どんなにすばらしい言葉であっても、人生に生かせなければ意味をなしません。いかなる高級神霊とめぐり合おうと、与えられた叡智を受け止める器量がなければ意味を為しません。そう、人生でめぐり合う、すべての出会いや経験、言葉や叡智は、私たちの心が適切に働いて、上手に活用できてこそ価値が生じるのです。


 もしも、神や仏……又は、高級神霊が、ほんとうに世界を支配しているなら、一体どうして不幸な人々が現れるのだろうか……そういう疑問をお持ちの方も、いらっしゃることでしょう。

 しかし、わたしたちは、高級神霊の力を受け止め、幸せになるための知識や器量をもっているのでしょうか?

 座して待てば幸せになれる……ならば、わたしたちの自由意志とは一体なんの役に立つというのでしょう? そしてまた、私たちはちゃんと、差し出された手を握る努力をしているのでしょうか。差し出された手さえ握ろうとしないで、境遇を嘆いてはいないでしょうか。

 助けてもらうにしても、私たち人間にも、なすべきことが有るはずです。 私の提案する、「心霊主義」とは、死者の叡智を人生に生かそうという提言であり、いわば、神秘思想や死者の霊を介助役として、自分自身を主人公にした生き方なのです。


2004-12-04

 

霊能者

2006/04/15

 霊能者

 文字どおり、霊を能《あた》う者ということで、霊を扱える者という意味になります。具体的にいえば、単に霊を自分に憑依させてその言葉を伝えるだけの霊媒に対して、除霊等の祈祷も出来る人を意味します。つまり交霊能力と霊能力は似て非なるものなのです。

 しかし、「霊媒」のページでご紹介したとおり、いかに霊能者であろうと肉体の維持に対する努力が免除されるわけではなく、睡眠や食事に大きな労力と時間を費やさねばなりません。となると、肉体も無く自由に時間が使え、移動にたいして何の制約も無い霊と、対決するにはあまりにハンディーキャップがありすぎます。

 結局、霊と対決するのは、霊能者の背後霊なのです。ですから自覚の有無を問わず、強力な背後霊団を持たない限り、霊能力は生じない事になります。

 ですから私は、霊能者=霊媒+背後霊と表現します。

 霊界というのは、象徴の世界です。その有様は、低級霊界といえども人間がその頭脳で理解しきれるものではありません。ですから、霊的な事件の解決は霊界に委ねるのが正しいやり方なのです。そう、霊界のことは霊界に任せるのが、基本原則といえます。決して霊界は無秩序で暴力あふれる世界ではないのです。

 任せる事の難しさ

 任せるというのは難しいものです。私たち人間の目には目前の問題しか見えませんが、霊界はその背後の背後まで見通した上で、援助の手を差し伸べてくれるものです。しかし、往々にして人は、朝知恵を霊界に当てはめ、事態を混乱に導くものなのです。


霊媒

2006/04/15

 霊界への掛け橋

 霊媒という言葉が生じたのは、そう昔の事ではありません。キリスト教の呪縛を抜けだし、霊界への関心を抱いた人たちが、界と人間の間を介する職業に与えた職名…… “Mideume” の訳語が霊媒なのです。

 しかし、単に霊を感じ取る力の持ち主を霊媒とは呼びません。自分の交霊能力をきちんと自己管理できる人でなければ、狂人と変りがありませんし、霊界の一方的な働きかけの支点にしかなれないのなら、それは掛け橋ではなく、悪霊や低級霊の配下・手下に過ぎません。

 そして、「掛け橋」になるということは、交霊能力だけではなく、その志も大切な要因なのです。

 交霊能力によって、問題の解決力を得たり、人の知りえない事を知るというのは、霊界の協力があって初めて起こりえることなのです。そして霊界が力を貸すのは、人間社会が豊かな精神性を獲得する事が、結局は霊界の利益になるからなのです。

 霊界も自分たちの利益の為に働いているのですが、それは個人的な利益の為ではなく、全体への利益の為なのです。したがって、自分の都合の為にのみ、霊能力を使おうとするのは、霊界への冒涜であり、裏切り行為に等しいものです。

 人間の欲望の一方的な働きかけの支点になる人もまた、霊媒とは呼べないのです。

 象徴と実体と

 他の霊媒と話していて、非常に困る事があります。話が通じない事が多いのです。

 霊には肉体がありません。だから肉眼では見えないのです。この実にあたりまえな事を前提にして心霊は語られるべきなのですが、人間はどうしても姿かたちで相手を判断しようとし、名前で相手を特定しようとしがちなのです。それは、地上生活を送る上でとても大切な技能ですが、霊界生活の長い、魂たちには当てはまらないものなのです。

 霊媒が、霊たちに肉体同様な姿かたちを目撃するのは、あくまでも象徴に過ぎません。想念の世界において、姿かたちは、人の言葉と同様に自由に変化させられるものなのです。そして、実体の無い象徴を、霊媒たちはさも実体があるかのように説明しているものなのです。

 それは比喩ともいえるし、誤解ともいえます。そして嘘ともいえるのです。

 低級霊は避け得ない

 霊感のある人にとって、交霊相手は自分の精神性……霊格または波動など……が同格の相手に限られるのが普通です。ただし、例外として、因縁があったり、必要性のある霊は、様々な障害を乗り越えてメッセージを送ってくれるものです。

 ですから、いかなる霊格を持っていようと、守護霊や指導霊のメッセージを受け取る可能性はありますが、霊媒が自分の霊格を上げない限り、意思疎通には困難が伴い、始終、または、必要な時にすぐメッセージを受けるというわけにはいきません。

 喩えるなら、社長や部長と話をするには、それなりの準備や手順が必要で、会社で気楽にできるのは、同僚だけ……と考えると分かりやすいでしょう。

 もちろん直属の上司(守護霊など)とはこまめに情報のやり取りが必要ですが、守護霊は、いくら親しくしてくれても決してお友達ではありません。あまり甘えると、守護霊の意図しないところで(つまり状況的に)立場を思い知らされる事になります。

 そして、普段、耳に入ってくるのは同僚や友人たちの声なのです。対等な立場な相手ですから、決して騙されてはいけません。

 また、命令されても聞く必要はないし、自分の心の中に欲心……誉められたいとか、うぬぼれがあると、おだて方が上手な霊が集まってきます。高圧的で、脅しが上手な霊が来る事もあるし、泣き落としが上手な霊が来る事もあります。暇つぶしには役立っても、自分の為になるような情報は、普通の状態では入ってこない物なのです。

 そう、低級霊と接触したくないと望んでも、安易な解決策はまったくありません。大切なのは、低級霊がかかってあたりまえと、覚悟を決める事なのです。そして、自分でそれをふるいにかけていくのです。

 そして、交霊相手をふるいにかける過程こそが、自分の精神性・霊性の最高の修練になります。そして多くの交霊相手の中から、自分の信頼できる霊を見出し、その絆を深めていく事によって、確実に交霊ができるようになります。

 魔境

 反対に、ふるいわけをおざなりにしていると、魔境に囚われます。

 魔境というのは仏教・禅宗用語で、乱暴に説明すると「現実逃避」から狂気に陥る事を意味します。周囲から見れば地獄に棲んでいるように見える状態なのに、当人は天国にあると信じきっている状態で、悟りの境地の反対を意味します。

 そして問題なのは、魔境に陥った人は、自分が魔境にいる事を否定する為に、周囲の者は助ける事は出来ない事なのです。魔境に陥った人は自ら脱する覚悟を持たない限り、誰にも救う事は出来ません。


2006-04-14

審神者(さにわ)

2006/04/15

霊格を見る

 『自分を審神者《さにわ》なさい』

 私の師匠の言葉です。

 審神者《さにわ》とは交霊会などで、霊媒に降りてきた霊との折衝を務める役の事です。しかしこの場合は、霊格の判断を見抜くものという意味で審神者《さにわ》という言葉を用いています。つまり、常に自分の霊格を意識して、低級霊的な行動を慎むようにという教えなのです。私は常にこれを心がけています。

 霊格というのは、単に魂の境涯を示すだけではありません。霊格は行いに現れる物であり、霊格を知るということは、相手が何かを行う前に、何が行えるのかを見抜くということにもなります。当然、人間観察力が要求されるわけですが、人生を霊性向上の場と考えるならば、人間観察の能力は必須といえます。言うまでもなく、向上するためには自己の欠点を見出し、その修整を心がけなくてはいけません。また、人を見て自分に無い美点を見出し、それを取り込むことも大切な向上の手段なわけです。

『世の中には、悪い人などいない、必ずどこか一つぐらいは良い点を持っている』という言葉は、うわべは綺麗ですが、建前以上であってはならないのです。確かに人の悪い点をあげつらえば付き合いが嫌になってしまうものですし、自分の欠点と向き合えば、生きるのが嫌になるのが人間の心情でしょう。しかし、嫌なことから逃げていても問題は解決しないのです。むしろ嫌なことをいつまでも放置せずに、さっさと解決すべきでしょう。問題点を明らかにすればこそ向上があるのです。

『人生は霊性向上の場である』その実践には、今の自分の霊格を測り、自分の成長を確実に把握していく必要がありますし、人の霊格を見抜き、悪い所を真似せずに、反面教師とし、良いところを学び取っていくことが大切なのです。

 霊界通信が教えるところでは、死後、霊界においてはそれぞれの魂の境涯に応じて、自然と住み分けが生じてしまうのです。それは、自分より高い境涯の者から良い生き方を学ぶことも、低い境涯の者の欠点を見て、我が欠点に気がつくこともとても困難だということなのです。

 霊格を見る。その技能が霊性向上をどれほど加速することでしょう。審神の智慧は異界からの学びを得る心霊主義者には必須の智慧といえます。

審神者《さにわ》

 審神者さにわ》とは、霊媒にかかる神霊の格を判断する能力者を指します。その漢字は意訳的な当て字であり、もともとは沙庭と表現しました。上古、霊媒は寄り代といわれた時代のことです。寄り代は髪の降りる場所ということで社殿や神宝の意味があり、沙庭掃き清められ、砂(沙)を撒かれた庭を意味しますから、霊媒と審神者の組み合わせは生きた神社とも言えるわけです。また、審神者《さにわ》は日本の心霊界特有の存在です。

 古事記中に「仲哀天皇が熊襲国を討とうとして、天皇が琴を弾き、武内宿禰を沙庭として、(神功)皇后に神懸りさせて託宣を求めた」という記載があります。

 ここで皇后は「霊媒」・「寄り代」、または、「(本来の意味での)巫女」を務め、天皇は寄り代を入神(トランス)状態に導く為に音楽を奏でる「侍座者」を、そして、武内宿禰を「沙庭」のちにいう審神者を務めたわけです。ちなみに霊能者・吉田綾先生の審神者をお勤めになられた吉田正一先生は、同時に「侍座者」を兼ねられて、石笛《いわぶえ》をお吹きになられたそうです。

 さて、古事記という古い書物を引き合いに出したのは、日本における心霊が千年以上の歴史を持つことを誇るだけが目的ではありません。時折、神道の神と、欧米型の一神教の神とを混同して考えていらっしゃる方がいますが、少なくとも審神者《さにわ》が扱う神というのは、日本古来の考え方、すなわち『尋常ではない、力や、勢い、属性を持つ偉大な存在』というもので、宇宙の造物主といった、高度な理論性を持った存在よりも、より人間に近い存在を意味しています。そして、この神を知ることが審神者《さにわ》を理解する上でとても重要なのです。

 上古の史書に神懸りの記載があることを見てもわかるとおり、この時代は神の意を持って国を治める事が行われていたわけです。それは逆にいうと、霊媒に降りる心霊の真偽を見抜くことは、国の進路を誤らない為の非常に重要な職責であるという事になります。もしも降りる霊の真偽の判断まで、霊媒に求められたとしたら、霊媒は責任感がもたらす重圧で何も言えなくなってしまうことでしょう。つまり、審神者《さにわ》の存在があればこそ、霊媒は安心して、異界の声に耳を傾けられるのです。その意味で、この役割分担はより高い精度の交霊を、効率よく行うための智慧であるといえます。

鎮魂法

 審神者《さにわ》というのは、鎮魂法と呼ばれる交霊術……儀式における、一つの役割でもあります。単なる能力でもなければ、覚えれば使える知識でもありません。ですから、鎮魂法を収めていない審神者《さにわ》というのはまがい物といえます。

 とはいえ、交霊に必要なのは儀式ではありません。霊媒が二人いれば一人が寄り代、一人が審神者になるのは合理的です。しかし、安易な交霊が危険な事は、審神者の有無によって軽減されるわけではありません。

欧米に審神者《さにわ》が無い理由

 審神者《さにわ》の存在は、霊媒の労力を軽減します。ただしこれは交霊に対して利害が絡む為に必要な責任分担なのです。一国の運命を決する、その重圧に耐えられるだけの霊媒などそうそう見出せる物ではありません。しかし利害が絡まなければ、霊媒は比較的リラックスして交霊に望むことが出来ます。19世紀に発生した、スピリチュアリズム・心霊主義において審神者《さにわ》が誕生しなかったのは、それほど重要な案件を扱う必要がなかったからといえます。

 しかし、審神者《さにわ》をおくには責任分担以外にもいくつかの利点があります。

 まず、霊感の無い人にはあまり実感が湧かないことかもしれませんが、言葉というのは霊たちにとってとても不自由な通信手段であり、その一方で人間は言葉で思考するという癖があります。言葉と真意のギャプが交霊会のネックになるのです。その際に交霊経験が豊富な審神者《さにわ》が質問を吸い上げ、整理するなら制約をいくらか緩和することが出来ます。

 また、完全に入信し、自己の意識を失うタイプの霊媒にとって、自身が無防備なのはとても不安感がありますから、霊力が上の霊媒がそばに控えていてくれることは、安心して交霊を行うのに良い影響があります。

 特に優秀な交霊能力者は、五感が過敏な者も多く、交霊会参加者の心無い行動が、入神状態下の霊媒に深刻な影響を及ぼすことがあります。そういった事柄を防ぐ為にも、審神者《さにわ》が参加者を見張ることも重要な役割となります。

 そのせいでしょうか、数年前来日した、英国の物理霊媒・リンカーン氏も、霊媒・クランレー氏の介助の元で交霊会を進めて行きました。


心霊研究の主導権は霊界にあり

2006/04/15

 誰にでも交霊能力があるはず

 心霊的なことに興味を持ち、勉強を進めると交霊能力の獲得を望むようになります。しかし、そのような人は大切な事を見落としています。

 死して突然、魂が生じるわけではなく、生と死の違いはその魂が肉体を纏っているかどうかの違いと言えます。そして人間の本質が魂であるなら、誰でも霊との交信能力持っているはずです。

 一体なぜ、交信能力を失ったのでしょう。

 雑音が障害

 人間の精神活動において、肉体的な様々な反応や欲求、思考機械としての脳の働き、そして魂が感じた物事は、多くの場合優先順位をつけられることも無く、また、分類される事も無く同列に扱われています。そして、脳を含む肉体を持っている限り、肉体的な信号は絶える事はありませんから、それらを無視する技術を獲得しない限り、人の精神活動は雑音にまみれる事になります。

 精神活動が雑音にまみれていれば、魂が自己主張する時、大きな努力が必要となります。そして魂の主張さえ困難な精神が、一体どうして霊との交信ができるというのでしょうか。

 相手が大切

 もう一つ、滑稽なほど大切な事柄があります。会話するのに相手が必要なように、交霊するのにも相手となる霊が必要なのです。そして、高級霊と呼ばれるような霊ほど、行いを大切にして、言葉少なくなっていくものなのです。

 おしゃべりな高級霊は存在しない……とすると、霊界にあふれる言葉に耳を貸しても、低級霊の言葉しか聞こえない事になります。さらに困った事に、霊界では誰からも相手にされないような浅ましい魂の持ち主は、孤独から逃れようと必死に話し相手を求めているのです。

 そんな孤独な霊たちにとって、言葉による表現に囚われて霊格を見抜く知識をもたない霊媒は格好の的となります。それでなくても、人は誰も心の奥底に孤独を抱いていますから、同じ孤独な魂同士が引き寄せあい、結びついてしまうのは一種の摂理なのです。

 突然、霊感が開いた人たちが、死よりも苦しい思いをするのは、そうやって、交霊相手を選ぶことの大切さを身をもって学ばされているということなのです。また、霊感が働かないというのは、守護の霊や祖先の霊たちから守られているということなのです。

 目的に応じて答えがある

 しかし、交霊にとって一番大切なのは、その目的や動機なのです。意思を伝える必然性があるなら、いかなる手段を用いても意思を伝えてくるのです。

 そう、私が扱っている心霊とは、特殊な霊能者と呼ばれる職業の持ち主だけが感じえる何かではなく、誰もが感じている、何かが対象なのです。

 信じることから始まる

 以前の事です。友人から、『死後の世界を証明してみよ、永遠の実在を証明してみよ、おまえの霊能力を証明してみよ』と詰め寄られたことがあります。

 霊界から得た回答は、

「何ゆえあなたは証拠を欲しがるのだろう。すべてはこの世界の話である。あなたには見ることも出来ず、触ることも出来ない、あなたがまるで感知することが出来ない世界の実在をあなたに証明してなんになろう。それはあなたには無縁な世界なのである。」

 心霊研究を唱える、私のページは科学に擦り寄るものかもしれません。しかし、いくつか譲れないこともあります。

 心霊研究の対象は、人間の主観以外には感知でき得ないものが大部分を占めています。本当に科学的な解明を求めるのであれば、人間の可能性について、もっと繊細でかつ広範囲な研究が進み、そして霊現象について客観的な観測手段が開発される必要があることでしょう。

 それは、言うまでもなく、そして冗談でもなく、“幽霊”を捕まえるのに等しい、実現性の薄いものといえましょう。結局、観測手段が主観に左右されている以上、真偽もまた、主観に左右されるのが偽らざる心霊研究の現状なのです。

 簡単に言えば……あるか無いか、ではなく、信じるか信じないか、が支配しているのが心霊研究なのです。ですから、最初から疑ってかかり、相手に証明を求める人にいくら説明しても、理解は得られない……というのが表の本音です。

 実は、裏の本音があります。「おまえなどに利用される、我らではない」という、霊たちの想いです。

 すべては霊界の手の中にある

 心霊研究の具体的な主導権は霊界にあります。

「私たちは、真剣に求めるものに応えなかった事は無い」というのもまた、霊たちの熱い想いです。


2006-04-14

自動書記とは

2006/04/15

 自動書記と霊感の違いは、他の霊の意思を心の中に認識するか、しないかという違いになります。これが潜在意識や無意識の働きといえるか、いえないかは非常に難しいのです。

 というのは、普段、霊たちが用いているのは言語ではなく、交感能力により、それを言葉に変換する作業を霊たちの視点で見ると、霊媒の頭の中に浮かんでいるたくさんの単語(言語用のシナブス?)を繋ぎ合わせて文章に組み立てていくという過程を経ているのです。つまり自動書記において、構文の基本線以外はすべて霊媒の生理現象を用いているのです。

 そして、霊媒の頭の中にある単語を利用する事から、通信を送ってくる霊が、生前どこ国の言語を話そうと、通信文は主に霊媒の母国語になります。

 また、時として、文章のアウトライン……基本的な用語だけを指示して、穴埋めを霊媒に命じる事もあります。これは、一種のルーチンワークに近い回答に良く見られるものです。これはまるで手数料を惜しんだ電信を書き直すような作業といえます。

 また、霊媒と背後霊の協調作業は、コンピュータの分野でいう、クライアント・サーバーのシステムに似ています。霊界と霊媒を繋ぐ通信線(ライン)は、霊媒によって差がありますが、通信容量は決して大きなものではありません。

 つまり通信回線がボトルネックになっていますから、霊媒に対する通信を最小限にすると、全体に対する負担(コスト)が少なくて済みます。そこに様々な技巧を凝らしているわけです。もちろん重要度が高かったり、功徳を積むなどした重要人物が行う通信などは、相応なコストをかけた通信を行い、霊界での作業の比率が増えるものです。

 もちろん、交霊の通信コストは一律ではなく、主に霊媒の才能によって左右されますし、個性の違いもありますから、同じ事柄を記述するのに、霊媒が異なれば、表現が異なる事があるものです。

 淺野和三郎氏が複数の米国人霊媒相手に、「漢数字で表記された日めくりカレンダーの任意の一ページをポケットに入れ、その内容を当てて貰う」という実験がありました。

 ある霊媒は、四角い記号と答え、またある人は、「Number Four」と答えたそうです。そう、ポケットの中のカレンダーは、4日のものだったのです。つまり、「四」という文字を、記号として受け止める霊媒もいれば、意味を受け止める霊媒もいたということですね。これがアラビア数字で「4」と記載されていたら、どういう展開になったか興味深いところですが、霊視の内容がどちらも正しくても霊媒・背後霊によっては、その表現方法が異なる事がわかります。

 また、肉体という物質的な器官を操らねばならない霊媒は、霊界から見ると、凍り付いているに等しい愚鈍な存在なのです。

 ですから、サーバーに相当する霊界側は、通信容量も小さければ、動きものろい霊媒の作業に付き合うことは、苦痛を感じるほど退屈なものなのです。つまり通信を助ける霊は多大の主観時間を費やさなければならず、実はこれもまた高級霊が霊媒にかかりにくい原因でもあります。


2006-04-14

お知らせBy老神いさお。

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移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

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 9月度東京オフ会は9月18日(土)に開催します。参加ご希望の方は、メール・フォームメール等でお申込みください。

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