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夫婦の絆は死後どうなるか?

2006/04/14

 かつて、「夫婦は死後、別々に住まなければいけないというのは本当か?」という質問を受けました。私が言い出した事であるなら説明も出来ますが、この質問の動機が分からず大分面食らったものです。

地上の結婚は死でご破算

 霊界(ここでは中級以上)とは、誠意だけが民法としての機能を持った世界です。あえて民法と称したのは、互いの誠意だけでは解決出来ない現実も無視する事は出来ないからです。なお、ついでに申し上げますと、下級霊界とは力だけが法であり、上級霊界は摂理のみが法として働き、どちらも議論の余地、約束・契約の余地がありません。

 さて、中級霊界に話を戻すと、地上の約束・契約はさして重要視されることはありません。そもそも、地上というのは精神に対する制約が非常に強い場所であり、様々な束縛から、心に反した約束を強いられがちな世界だからです。

 たとえば暴力で脅かしたり、経済上の理由から無理強いされたような契約は、地上では相応に意味があっても、死後の世界では逆に精神的暴力行為の証拠ともなり得ます。要する日常での約束や契約の履行を死後に要求すると、かえって自分の立場を危うくする事もあるのです。

 で、本題に戻りますが、地上での「永遠の愛」の誓いなども死後の世界では一応、ご破算と考えるべきです。その履行はあてになりません。不誠実な相手ならば力ずくで契約を破棄するでしょうし、生前の因縁から解放されて百年の恋が冷める事もあります。なにより、地上では有限の時間しか生きられないのに、永遠について約束するなど笑止な話です。実行能力の伴わない契約に実態はあり得ません。

 しかし、契約は無効であるとしても、お互いにその契約を守る事まで否定するものではありません。つまり、一方が守る気のない約束は、死後は無効となりますが、双方が守る気のある約束は死後も有効である事は地上以上に確実です。なにしろ、地上的な偏見や、なにより経済的・物質的な制約などが全くない世界なのですから。つまり、恋愛小説に出てくるような、親を助けるために嫁に行くとか、生活苦から別れなければいけないといった事情は起こりえないのです。

 また、配偶者と死別後、生活上の理由から再婚した人を事例に考えて見てください。もしもご破算にしなければ、死後の世界は夫婦関係の訴訟だらけになってしまいます。まして、恋愛問題は感情的な要因がとても強いのですから、もう大変な騒ぎとなるでしょう。

 さらにいえば、すべての人に当て嵌まるとはいえませんが、地上の結婚生活は互いの魂を磨き合うために組まれた相手という通信もあります。つまり、互いに傷つけ合うが、でも恋愛感情があるから別れられない……「互いに好きあっているが、同時に互いを苦しめ合う」という、痛々しい関係もあるのです。

 こういう関係が永遠に続くなら、死とは永遠の苦しみに他ありません。

 というわけで、死とは夫婦の絆の精算を意味します。死によって絆は断たれ、その後は当事者の誠実さで再編される事となるのです。

……まあ、これだけ文章を連ねて、あえてまとめを用意するのは説明不足の言い訳ですが、要するに、地上の約束・契約などは摂理に反する事が往々にあり、それ故に有意義と認められないのだという事を踏まえてください。

死後、別々に住まねばならない?

 端的にいえば、私は霊界で夫婦仲睦まじく暮らすカップルを幾人も知っています。また、あるレベル以上の霊魂は、必ず男女一対で姿を現します。その他、霊界通信を事例としても、ワアド著、浅野和三郎・粕川章子共訳の「幽界行脚」などにも、死後の夫婦生活の記述があります。

 自身で受けた通信でも、死後、生前の結婚は精算されるとしても、だからといってすべての夫婦がそのまま離別するわけではなく、改めて結婚する事も聞いています。

……従いまして、死後、夫婦が必ず別居しなければならないという事実を私は知りません。

 さて、上述、「夫婦は死後、別々に住まなければいけない」という話ですが、「霊界通信 小桜姫物語に出ているではないか、霊媒は勉強していないな」と、捨て台詞され、私は肩をすくめて当時の議論は終焉を迎えました。

 しかし……死後、他の世話を受けずに暮らせるようになる前に夫婦生活を再開したがるというのは、地上的感覚でいうなら生活能力のない二人が結婚するような滑稽さがあります。生活力が身に付くまで待てないとしたら、その恋は、何とも衝動的な危うさがあるのでしょうか?

 僅か百年程度の地上の生ならば、一年の忍耐は人生の1パーセントにあたります。それが待てぬほど大きいのか、どうかはともかく、限られた時間を有意義に使いたいという想いは私も同情を寄せる所です……というより、私自身も同情を寄せて頂きたく思わなくありません。

 が、永遠の仲の数年間は……待てぬほどの時間でしょうか? 生活力を身につける以前に配偶者の人生に責任を持てるのか? 待てぬというのはあまりに無責任に思えます。……つまり、死後の世界の義務教育期間中ぐらいは、別居させられても文句をいうべきでないと私は思います。まして、私信のやりとりが許されているのですから。

 いえ、義務教育が過ぎても同居しない例も知っています。たとえば彼の小桜姫などもそうでしょうが、別にこれは三浦荒二郎と小桜姫夫妻の霊格の問題ではありません。そもそも、男女が惹かれ合うには、互いの精神性が似ているがゆえに求め合い、または、互いの精神性が違うゆえに尊敬し合うと、二通りに分類出来るでしょう。前者の似ているが故ならば、同じ境涯という事で同居に苦はなくとも、違うが故に尊敬し合えるならば、同居することは相互、またはどちらかの忍耐を必要とします。

 つまり、同業夫婦ならばいつも一緒だが、大抵の場合、夫婦は分業しているもので、分業しているならば、互いの都合の合う時にだけ一緒に過ごすのが互いに幸せなのです。

 というわけで、小桜姫物語に記載された、夫婦は別居が当然というのは、小桜姫の両親についていえば、「おそらく修行中のために別居」であり、小桜姫についていえば「境涯が別なので別居」というわけで、どちらも普遍的事実とはいえません。普遍的でない以上、「(一般則として)夫婦は別居が当たり前」という話には、私は頷けないわけです。

 #2009-12-27補足

 小桜姫物語には、当時の霊媒を努められた、浅野多慶子夫人による後日譚があり、小桜姫にいろいろな都合が有ったことが明かされていますし、後日譚を読まなくても、太平洋戦争以前の日本において、子供を産めなかった夫人がどのように扱われるかは、容易に想像がつくはずです。実は、小桜姫の夫、三浦荒次郎義意には子孫があり・・・となれば、小桜姫が夫とは別々に住まねばならない、というのは、心霊的必然性が語られてはいても、実際には、家庭の事情によるようです。

 

この知識が役に立つのか?

 無駄な知識とは思いませんが、同時に有益とも思いがたいものです。地上的な理由から熱烈なカップルも、死して事情が変われば水と油が別れるが如く、静かに互いと別れる事もあるし、永遠の共生を実現するカップルもあるでしょう。大事なのは、文章を手掛かりとして、しかし、文章に惑わされず、地上の視点を手掛かりとしても、地上の視点に惑わされず、霊的視点を大切に、そして、自分の霊性を信じて、更に前に進む事が大切だと思います。

 夫婦、または恋人同士の絆とは、約束の仲にあるのではなく、互いの誠意の仲にあるのは地上でも同様です。互いがお互いの慰めとして言葉では表わしきるはずのない誠実さを言葉にするのも良いでしょう。でも、自身の霊性を超越した言動……偽善的な言動に意義があると思うのは幻想に過ぎません。恨まず、ただ、自分の誠意をつらぬく。それが出来てこそ、真に恋が出来るのでしょう。


2006-04-14

 

同一化障害

2006/04/14

 同一化

 肉体の制約を離れた霊たちは、容易に知識や体験を共有できます。これを霊的交感と呼びます。この霊的交感を用いて、類霊団や守護霊団は、知識や体験の共有を行い、共に高めあっていくのです。

 確かに、霊との会話……言葉の交換というのも成立します。しかし、それは、意識のすりあわせに必要な、いわば挨拶のようなものですし、本当の交霊が知識・体験の共有であるからこそ、霊格の違いによって交霊の制限が生じたりもするのです。

 真の交霊が知識・体験の共有であるという事は、きちんと交霊が行われている限り、勘違いや不十分な理解などは存在しない事を意味します。しかし、同時に“魂の器”が合致していないと、互いの知識・体験の共有は非常に危険なものとなります。強い相手に引きずられて自己を見失う事があるのです。実はこれが憑依霊現象の心霊的な原理となっています。

 互いに異なる価値基準や、善悪観をもっている者同士が、知識を共有するならば、それは互いの生きてきた過去を否定する事にもなるでしょう。協調ではなく足の引き合いになってしまうのですね。

 しかし、自己の過ちや、問題点に気がつき、それを直そう、正そうという、謙虚さを持ち合わせている霊同士であるならば、互いの価値基準や善悪観の違いは、過去を否定するのためにではなく、互いの生き様を高めあう力となるのです。

 交霊は知識と体験の共有ですが、その結果は、必ずしも足し算には成らないのです。時には引き算として働き、時には上書きとなって働いてしまいます。

 そして、これは人間同士の付き合いにも当てはまる事なのです。

  足し算

 人との違いを尊重し、他の人の持つ知識や体験に敬意を払える人とならば、互いを高め会う事が出来るでしょう。そのような人と意見を交換するのならば、それは互いの知識と体験を足し算で増やす事が出来ます。この様な友人を見出し、ゆっくりと誠実に友好を深めて、自分の財産としていきたいものです。

 と同時に、自分自身が相手にとってこの様な人物になる事を心がけたいものです。

  上書き

 自分の生き方に自信が無く、救いを求めている人が、積極的に生きている人と出会うならば、自らの霊性を上書きされ、自己を消去しかねません。

 実は私のHPには自己の消去を防ぐ為の配慮が為されている事にお気づきでしょうか?

  引き算

 では、自己の知識を過信し、人の間違いを探す事に躍起になり、真偽を問う事ばかり考える人と関わるとどうなるでしょうか?

 いうまでもなく引き算にしかなりません。

 付き合いたくない!

 さて、私が断固、交流を拒絶するタイプの人がいます。この事は私の周囲に困惑を引き起こすようですが、私も上手に説明が出来ずにいます。“勘”という答えは何の説明にもならないでしょうから、あえて説明を努力してみましょう。

  真理よりも名誉

 いうまでもなく、人間関係に引き算をもたらす相手と関わる気はありません。真偽はいずれ明らかになるでしょうし、答えはいずれ目の前に姿を見せるかもしれません。が、真偽に拘れば、物事を考える筋道や、人間の誠意が見えにくくなるものです。

 まして失敗という最良の教師を軽んずる者は、人生の最後に必ず大きな失敗を仕出かすでしょう。いや、大きな失敗で人生を閉じるという方が適切かもしれません。

 また、真偽に拘る者が議論を望むのは、真理を求めてではなく、名誉を求めていると私は考えます。 彼らは事実よりも自己の名誉に拘り、解明よりも相手の否定に務めます。彼らにとって友人とは対等な関係ではなく、自己の賛助者なのです。ですから、真理を説いた所で分かり合うことなく、ただ関係が途絶するだけの事でしょう。

  心ではなく言葉を話す者

 人は文字や声に心を乗せて相手に伝えようとします。言葉は心の乗り物であり、意志を伝えるのは言葉ではなく、言葉に乗せられた心なのです。しかし心の乗り物は言葉だけではありません。歌や踊り、感情等で伝える事もあります。料理や飾り付けに心を乗せる場合もあるでしょう。

 いずれにしても、人間同士の付き合いにおいて大切なのは、心の表現手段ではなく、表現手段に乗せられた心なのです。その事が分からない相手では、互いに理解しあったつもりになっても、本当に理解しあう事は不可能でしょう。

  他を否定する者

 人間には多様性があります。その多様性こそが人間全体の可能性となっているのです。社会に危機が生じた時、それを救う能力を持った人が人々の前に姿を現します。それを可能にするのは、人間の多様性なのです。教育や社会風土として、人の均質化を進めるならば、その息苦しさを打破するかのように乱暴な行動をする人が現れるのもまた、人間の多様性がもたらすものといえます。

 (ええ、危機の際に十分な能力を持った人が現れない事もあるでしょう。そうなれば危機に歯止めがかからないというだけの事です)

 私は、誰かの自己を消去する事など望みはしません。時には、風雨に吹き飛ばされそうな自我の芽を無言で庇う事もあるのです。しかし、共存と歩み寄りを考えず、一方的に何かを押し付けようとする人の為に、私は自分の何か、例えば時間や掲示板スペースを捧げる気持ちも持ち合わせていません。

 人を責めると我が身が傷つく

 多くの人にとって「生きる」事は、一つの目的である事でしょう。しかし、私にとって生きる事は、一つの手段にすぎません。そして手段は目的の為にあるのですから、そこに自ずと制約が生まれます。

 時として人は、望んで人を傷付ける事をします。否応も無くぶつかるのではなく、自分の劣等感や、孤独感、または満たされない名誉欲や退屈さなどから、生け贄を求めて他人を傷付けるのです。その時に後ろめたさのしっぽを出して、“正義”の名を借りる事もままある事です。

 それが自らの魂にとって、どれほど大きな傷になるのかも考えずに。

 自己の保身の為に、人を傷付けるのは最低の行為です。それは一時の現実逃避がうみだす、幻想的な勝利に他ならず、傷付ける以上に自身を傷付ける事に気が付かない愚かな行為です。

 本当に強いのならば誰にも依存せず、自身の力だけで生きればよいのです。

本当に正しいのなら、わざわざ誰かを否定しなくても、正義を信じて生きていけばいい。

 誰かを傷付けるという事は、どれほど相手を見下していても、黙っていたら相手に負けてしまう事を認めている行為なのです。信念や自己の業績を暴力や罵倒で補わなければならない弱さを認める事なのですから。

 現世は、霊界と比べて、あらゆる面で周囲に依存して生きていかねばなりません。周囲のすべてを否定して、ただ自己の魂の中にこもっていられる霊界とは違い、現界において周囲を否定する事は困難なのです。たとえ心が現世を否定しても、肉体は周囲の援助を受け入れてしまうでしょうから、狂気や痴呆、そして、意識の損失なども、逃避にはなっても周囲の拒絶にはならないのです。

 少なくとも地上に生を受けたものは、生きる努力と共に、共生という事を学ばなくてはいけません。共生の必然性が霊界に無いからこそ、生を受けるのだともいえるのです。とすれば、共生を拒否したり、誰かに、何かに一方的に寄生するような人生を送れば、環境を変えて何度も「輪廻」を繰り返さなくてはならないでしょう。

 ここでいう「輪廻」とは祝福された再生ではなく、学業でいう所の落第に他なりません。

 一体、周囲がどんどん幸福をつかんでいく中で、自分だけが延々と輪廻の中で同じ苦しみにあえぎ続ける事が、果たして地獄の責め苦にさらされるのとどちらが楽でありましょうか。

 私は知っています。

 他人を否定し、自己の優位を確認したい人にとっては、憎むべき対象がいる責め苦よりも、人々に置いていかれる事の辛さこそが耐え難いと。

 人生は容易に、地獄よりも住みにくい場所になるのです。

 水と油

 霊界は決して平等不偏な世界ではありません。(そもそも平等不偏というのは権利のことであって立場のことではありませんが) 霊格毎に互いに交わらぬ階層世界となっています。その原因は、霊同士のコミュニケーションが同一化を基本にしていることにあります。あまり魂の志向が異なると同一化に障害が出るのです。

 そして、霊界の底辺には他の霊達と同一化する事に障害のある魂が集まります。他の意志を上書きしようとするもの、相手を否定しようとするもの、独善、奇矯、愚劣などといった特質の魂は他と同一が困難であるために、拒絶され、またお互いに拒絶しあい、でも、寂しさからお互いを求め合って、出会っては争い、争っては分裂しを繰り返すことになります。そうしてお互いの気質が丸くなっていくならばまだ良いのですが、負けず嫌いは争うほどに憎しみを増し、最後には悪霊と呼ばれるようになります。


2006-04-14

類魂説

2006/04/14

 進化の道筋

 魂とは、人間に付属する物ではなく、人間の主人なのです。物質的生命が誕生する以前より魂はこの世界にあり、自我の大海を漂っていたのです。時を経て、自我の大海は自らの表現手段として、生物の発達を促した、その過程で得られた最良の手段がいわば人類なのです。そして、自我の大海が表現手段を求めたのは、多様化と複雑化こそが、自身の進化の道筋と理解していたからです。

 しかし、自我の大海にとって、進化とは単に多様化と複雑化を無秩序に押し進めることではありません。もしも、争い、敵を打ち砕くことに、自らの力(時間や努力)を費やせば、その固体の集団の中での地位は向上しますが、集団全体の力はむしろ落ちてしまいます。

 ですが、相手を滅ぼさず、ただ相手を凌駕することに熱心であれば、自身に宿るすべての力を自らの向上に当てる事が出来ます。それこそが自我の大海にとって一番利益となることです。そして、他の魂の知識や体験を吸収すればより早く自らを向上させる事が出来ます。

 われわれは争いを遠ざけ、神の被造物と共存・共栄の道を歩むのであり、その共存・共栄の精神的境地に至る事こそが私たちの霊的向上、そして霊的進化の第一歩なのです。

 知識と体験の共有

 個々の魂は、自我の大海より至ったように、魂の持つ記憶もまた、記憶の大海の一部なのです。それは自我の大海と同じく、宇宙が持つ霊的構造物の一部を成しています。

 人間が人生の中で体験したことは、魂に個性を形成すると共に、脳に記憶されます。肉体が滅んだ後、魂は、脳に収められた記憶を失いますが、人々が知的活動によって生み出した記憶は、すべて記憶の大海に収められていきます。その収納方法には、個性・個体の別がありませんから、特に生前の記憶を引き出すことは容易ではありませんが、同時に不可能に思えるほど困難ではありません。しかし、元来個体の別が無いために、記憶の大海に収められている記憶は、個人の記憶として取り出すよりも、知識として取り出すほうが絞り込む必要がない分、よほど容易なのです。

 このように、すべての魂には生来、共存・共栄、そして知識と体験の共有の手段が整っているのです。それを阻害しているのは個体として生きているときに誤って育てすぎてしまった自我の存在なのです。

 協調と調和

 死後の世界において進歩を遂げるほど、一層この類魂の必要性を感じる事になります。そしてより深く類魂同士の絆を深めて、より多く仲間同士の知識と経験を共有するようになります。霊性の向上が進むにつれて、仲間との協調生活がいかに美しく、またいかに楽しいかがしみじみと判ってくることでしょう。

 人には得手不得手があります。互いに助け合い補い合える仲間のいる幸せ。これを感じる事によって生命の深みと強さとは一段と加わり、共に生きる喜びを感じる事で、地上生活では免れることのできない利己的精神……他の犠牲になしには人は生きていけない……からの解脱が初めて実現するのです。

 類魂

 類魂(グループソウル)というのは、複数の霊の集合体であると同時に、一つの意思を持った存在です。核となる「支配霊」の意思に応じて、類似の精神を持つ「魂」達が作り出す共生体の事を意味します。一つの類魂に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、また千の場合もあり、その数は決して一定してはいません。

 人間の意識が複数の精神活動の集合体であるのと同様に、心霊的生活においてもまた、核となる霊によって結びつけられたいくつかの魂があり、そしてそれらの魂は支配霊によって育まれ、成長を続けるのです。そしてある程度の成長を遂げた魂になると、再び現世生活を営もうとは思わなくなりますが、彼らの支配霊は、必要に応じて転生を命じます。 そして支配霊が、霊界から所属する類魂達を指導し、霊的進化の各段階に置かれている、これらの魂達は、知識、体験を共有し互いに影響を与え合い霊性を向上させていくのです。

 地上生活をしている人々も、もちろんある一つの類魂に属しているのですが、人間の本質、意識の中心、支配者としての魂以外の類魂メンバーは非物質世界・霊界で活動しています。そして、もしも皆様が人間の霊的活動を理解しようとするのなら、自らが類魂に属し、その中で活動する事を理解する事が必要になります。例えば、単純な因果律の考え方では説明できない、現世生活の不公平、不平等についても類魂という考えなくしては説明がつきません。

 天才を産み出すもの

 この類魂説は、科学的な法則とは異なり、必然性ではなく合理性によって支配されているので、転生のすべてにあてはまる法則ではありません。しかし、この類魂のあり方を、天才を産み出すための一種の投機と考えると、興味深い事が明らかになります。

 ある特殊な才能に秀でた類魂の内部で、ある特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる事でしょう。すなわち数代に渡り蓄積された一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となって、地上の代表者の上に発現するのです。非凡な芸術家や音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説といえましょう。

 知恵の牢獄

 自らの霊性に気がつき、類魂の必要性を感じたときに、人は一大変化を遂げます。人はそのとき、自ら歩んできた人生の意味と、精神のもつ力を会得したいと考えます。このときに人が陥りやすい過ちがあります。その人が類魂の目指す向上の道に正しく従っているのならば良いのですが、時として、努力や向上の反動として生まれる高慢さや、利便性の反動に生まれる安易さに、囚われてしまう事があります。

 うっかりすると、類魂が内在するこれら暗黒面にはまり込んでしまい、幾千万年にもわたって、一歩もその中から踏み出せない事もありうるのです。この暗黒面とは、卓上の空論的な宗教的信条やオカルトに関する知識であり、すべては迷信的、または現実逃避的空想が生み出した、単なる夢であり、幻でありますから、そこに囚われても何の進歩も発達もあり得ないのです。

 このような心境が進歩の大敵であることは、いうまでもありません。それは一種の知的牢獄で、そこでは過去の地上の考えによって、本来の可能性ががんじがらめに縛られているのです。向上の途にある魂達が、客観的にその宗教論理や哲学を学ぶのはかまいませんが、そのなかに引き留められたり、拘束されたりしてはいけません。物事を学ぶのに言葉の細かな定義に囚われて行いを忘れることなどもってのほかです。

 物質的な世界に住めばこそ、誤った知識は非現実的として退けることが出来ます。しかし学ぶばかりで何も行わなければ誤った知識を学んでいても過ちに気がつかないことでしょう。

 個々は調和を目指す

 単体の霊の力は、非常に微弱である事は、間違いのない事なのです。しかし、その一方で霊の強大な力を感じる事が数多くあります。例えば、心霊を共通の話題とする友人たちとのオフ会などでは、守られている事、霊界の配慮のある事をたびたび感じる物なのです。これはもちろん、信じない人にとっては偶然で片付けられる物でしょうが。

 そして、この強大な力の源は明らかなのです。霊界と地上との接点は、霊妙で、小さく、一つ一つは弱い物です。しかし布の縦糸と横糸が密接に接しているように、非常に綿密で木目細かく接点を有しています。ですから単体の霊、単体の意識に出来る事は小さくても、協力者の霊たちと相互に意志をあわせると驚くほどの作用を及ぼす事が出来る物なのです。

 この事は霊界の望む物を暗示もしています。地上に及ぼす力は、より多くの意志を撚り合わせる事によって強まります。となれば、力の大きさは、より大勢の幸せのために役立つ事によって決まるといっても過言ではありません。そして、この意志をあわせるという事は、類魂という思想に集約されます。

 地上で類魂を得る

 霊界の良い作用を効率的に受ける上で大切な、受け皿作り、つまり人間として周囲の人とどう付き合うかといった事について考えてみたいと思います。大切なのは、霊界に行っても付き合えるような友好関係であり、それは類魂が成立するのと同じ原理によって造り上げるべきです。そして、類魂の目的とは、知識、体験を共有する事によって、独りで学ぶより多くの知識、体験を効率よく吸収し、それをもってより早く霊性向上を目指そうという物です。

 そして類魂を組めるようになるには、ある程度の霊的な成熟さが必要になります。財物を共有するには誠実さが何よりも大切ですし、仲間の失敗に拘らない寛容さも大切になります。共に学ぶという観点からは、非難、中傷、イヤミをいうようでは仲間の資格がないといえます。失敗は最大の教師である以上、失敗を笑い、また、真偽の議論に拘れば、仲間の得た教訓・失敗を自分に生かす事が出来なくなるからです。

 このように、仲良く、そして互いに向上を目指す仲間こそが類魂と呼べるのです。類魂の場合には、内部に派閥が出来る事はありません。もちろん、興味の対象は一様ではありませんから、時々に分裂、結合を繰り返す物ですが、それでも自然と溶け合い、互いに違和感がないのが類魂なのです。なぜなら、真理は一つですし、目指す物は自身の向上ですから争う事も、志を分かつ必然性も無いからです。そこに過ちがあったとしても、志さえ正しければ、自然と道は正されます。

 群魂

 反対に、自己の主張ばかりで、相手に認められないとなると数を頼み、また、相手の誹謗中傷に走るような者が参加するグループは、類魂ではなく群魂と呼ばれます。

 群魂にとっての求心力は、真理の探究でも、自身の向上でもなく、群れる事であり、群れる事の快感の前には、真理の探究も向上心もありません。新しい境地を開く事よりも、重箱の隅を突つく事に終始し、意見の異なる者は攻撃し、賛同者にはおもねり、知識を実際に役立てるよりも人の攻撃に使うのです。

 また群魂に参加すると、霊性の向上は停滞します。仲間に寛容さが無いために、失敗を恐れ、自らの失敗を認める勇気を失い、その結果、向上に対する積極性を失うのです。

 つまり最大(最良ではない)の教師である失敗から学べなくなるのです。


地上生活に生かす類魂説

 

 類魂

……人の経験や知識を自分の経験や知識にする仲間。

 共に苦労を背負える相手がいるのなら、苦しくても不幸ではありません。まして力を合わせて解決すれば、喜びは倍以上ですよね。

 群魂

……たとえ苦しめあっても、寂しさから離れられない仲間。

 ささいな痛みでも、第三者に嘲笑われれば、とても不快で苦しい物になります。ささやかな心遣いの有無で、人は幸せにも不幸にもなります。人は一人では生きられません。たとえ苦しめあいながらでも、仲間を求めようとします。その苦しみの中で共に生きることの大切さと、そのために必要な心遣いを学んでいくのです。


審神術

2006/04/14

 交霊相手の霊格を見抜くのに必要な技術。それが審神術です。机上の空論で審神術は行うのは非常に危険ですが、人間関係においても生かせる有益な技術です。しかし、 「審神者」の章でも説明したとおり、霊格を見抜く方法に、安易な手段はありません。

 また、霊格を計る基本は、相手の知性(教養……知識ではありません)すなわち、相手の反応がどのような境涯かによって測ります。

 審神術

 霊能者と言うのは結局、情報の仲介業なのですから、その情報の確度を高める為に、交霊相手の霊格を見抜く審神術を会得する事が必須となります。しかし、基本的に100パーセント確実な方法はありえないと思います。

 日常会話においては、主観的な会話の比率が高いものです。そして主観的な会話は真偽が問題になることはありません。客が「コーヒーより、お茶が好きだ」といえば、お茶を出せば済む事ですよね。

 しかし、交霊で重視される情報は、真偽が大切な事実と予測に関する事柄です。そして真偽は実際に試してみないと確認出来ないものでから、最初から拒絶するか、騙されるのを覚悟して試してみる必要があります。騙される事を覚悟で信じ、経験を蓄積して、信頼関係を確立していく事が大切なのですね。ですから付き合いの浅い相手の場合、重大な影響を及ぼしそうな事柄は信じないで、信頼出来る相手に検証してもらうこともあります。

 信頼関係の醸造も重要です。通常の人間関係でも、単なる茶飲み友達として信頼出来るというのと、自分の人生や財産を預けられるほどの信頼とは別なものなのです。相手にとっても大切な……必要な人間になるように努めなければ、自分が望むだけの加護を与えてはくれません。

 相手を過信すると、本当に必要な大事件が起こった時に「そこまで面倒見る事は出来ない」と断られる事もあります。それは相手が非常だからではなく、付き合いの深さがその程度だという事なのです。

 次に重要な要素は、個人識別です。たとえ特定の霊と信頼関係を結んでも、偽者に騙されては信頼関係が意味を成しません。そして個人識別はとても難しいものです。

 当掲示板には、突然にハンドルネームを代える人がいますね。ハンドルネームを変えてもわざとメールアドレスなどを残している事も多いのですが、投稿文を読めば、誰の投稿だか、分かる事も多いものです。ただしこの場合、投稿文が短すぎて、例えば挨拶だけであると、どんなに親しい間柄でも投稿主を判断する事は出来ないでしょう。判断材料は豊富な方が間違いが少なくなるものです。

 しかし、多くの人は、ハンドルネームで相手を区別し、どんな物の考え方をし、文章にどんな癖がある人か……といった、内容で相手を区別する事が苦手です。そして、霊媒初心者が低級霊に騙される一番の要因がここにあります。名前は容易に偽れますし、名文・美文も引用する事が出来ます。偽れないのは自在な返答だけなのです。どんなに探しても得られなかった回答を与えてくれた相手は、たぬきを名乗ろうが、狐を名乗ろうが、質問者よりも上位にある霊と判断出来るのです。

 しかし、いくら自分の知識と相手の知識を比べた所で、自分以下の知識の持ち主を見極める事が出来ても、相手がどれほど上位の霊であるかを判断する事は出来ません。まして、実地に試す機会もない、霊的知識を基準に相手を偽者と決め付ける事は、結局、自分の間違いを正すチャンスを失う事になります。

問題を整理すると、

  1. 騙される事は避けられない。 騙される事を前提に交際を広げていく。
  2. 信頼関係を大切にする。信頼関係を片務にしない。
  3. 個人識別をおろそかにしない。
  4. 自分の知識で相手を判断しない。

 となります。そう、技能系の仕事をする人は、最初から難易度の高い仕事に取り組みはしないものなのです。

 無知の智

 人間の理解力には、限界があります。自身の知性を超えたものを理解する事は出来ません。理解出来ないものの正否を断定するのは、僭越を越えて愚かと言えます。しかし理解を超えたものがあるからこそ、勉強に目標が出て励みになるのです。地上において、すべての答えが出たのなら、もう学ぶ必要など無いではありませんか。それは成長の限界に至った事を意味します。

 人は知性や霊性の向上と共に、理解力が進んでいきます。今慌てて、正否を断定しなくても、いずれ正否が自ずと分かる時が来るのです。今まで当たり前に思えてきた事が、当たり前に思えなくなる。それもまた知性の向上の結果なのです。「バラの木にバラの花が咲く」これがどうして、当たり前の事なのでしょうか。人間であるという事は、人間の肉体を持って生まれてきたから……ただそれだけの理由でしょうか。

 世の中にわからない事があるのは、決して恥ずかしい事ではありません。それはあなたの生に意味があるという事なのです。

 世の中にわからない事が無いのは、とても恥ずかしい事です。それは疑問を持てるほどには世の中を知らないという事なのですから。もしも疑問が持てないままなら、あなたの生はすでに、後退期に入った事を意味します。 このような霊性の境涯は夢幻界なのです。

 一を聞いて十を知る

 一を聞いて十を知るのは、知性のなす所です。しかし勘違いしてはいけません。世の中には、一を説明するだけで、十を証明したと言い切る人の何と多い事か。小手先の手品や、口先だけの美言で偽真理を売り込むの者を見抜く事こそ、智性を持った者に望まれる事です。まして、一を聞いて十を知ったつもりになるのは、机上の空論しか扱わない証といえます。真理は戸棚の飾り物ではなく、人生に有益な実用品なのです。そして真理を生かさずして霊性の向上はありえないのです。

 もとより高級霊界の事柄は、言葉では表現できない美しさと精妙さを持っている物なのです。それを物質的世界の言葉での表現に拘れば、地上界の智慧と差が無くなってしまうのです。まったく高級霊界の叡智をわざわざ色褪せさせてから、智慧として取り込もうというのは、なんというおろかな事でしょう。

 このような過ちをするのも、変化と向上を嫌う夢幻界の住人でしょう。

 真理は智性に宿る

 真理は智性に宿るのであって、知識に宿るのではありません。辞書や聖書に出てくる言葉は、容易に引用出来ます。霊訓からの言葉も同様でしょう。しかし、意味を理解して使っている者は希だという事を認識して下さい。

 例えば、あなたが何かの商品を買い求めたとします。その商品が偽者でないかどうかは、ラベルや容器ではなく、中身である事に留意して下さい。ラベルは付け替える事が出来ます。容器は詰め替える事が出来ます。しかし、容器やラベルが違ってもあなたが必要とするのは中身のはずです。

 霊的な叡智を確かめるのに、誰でも引用出来る言葉や、知識さえあれば智慧なくても答えられるような質問で相手を確かめるような真似をせずに、自分には気が付かないような、ハッとする気付き……「感じる」事を大切にして下さい。

 少なくとも物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを貴ぶ者であるのなら、ラベルや容器を集めて喜ぶような真似はしないはずです。

 知識や記憶を引き出すのに必要なのは、霊性ではありません。物知りが必ずしも人徳者ではないのです。人が学ぶのは必ずしも楽しいからではなく、人を見下す事に喜びを感じている場合もあるのです。相手の霊性を測るのはあくまでも相手が、大智を備えているかによります。そして真に知識を理解しているかによるのです。

 木を判断するのに実を見る事はとても良い事です。どんなに立派な名前が付いた大樹であっても、その実が苦く、食べられない物であるのならそれはあなたが必要とする木ではありません。どんなに見てくれが悪くて名前が汚くても、あなたの喉を潤す実を付ける木ならばそれはあなたが必要とする木なのです。まして、名前など何とでも付けられます。名前や言葉や目先の知恵に騙されてはいけません。

 記憶

 人間の生前の体験は、魂に刻まれてその霊性を方向つけます。例えば苦労をした魂なら、人の苦労を見捨てられなくなるか、人の苦労であっても見るのも嫌になるか……というように魂に刻み込まれるわけです。

 同時に記憶として、脳に蓄えられるのですが、当然、死後に魂は脳を放棄せざるを得ないのです。もちろん魂は、必要に応じて記憶の大海(永遠の大道・記憶の章を参照のこと)より、記憶を引き出す事が可能ですが、それは安易な行為……少なくとも交霊中においては簡単な行為ではありません。つまり交霊中の霊にとって経験的な回答は容易でも、記憶的な回答は苦手なのが普通なのです。

 また、交霊中において、その中継の霊は、霊媒の脳にある言葉を利用して、返答を構成します。つまり脳内に収めらている、短文をつなぎ合わせて、長文を作成しているのです。これは単に効率的なだけで選択されているのではありません。霊媒の言語機能を完全にのっとる事が困難で、しかも危険であるためにとられる手段なのです。

 このことは、審神者(さにわ)を行うのに当たって、霊媒の安全確保上決して忘れてはならない事です。

 むやみに本に書かれているような調べればわかるような事を、交霊において頻繁に求めてはいけないのです。知識は霊格に比例しませんから知識を求める事は審神にとって無価値ですし、まして、知識比べなら、自分以下の知識の持ち主か、どうかの判定は出来ても、自分の知らない知識を持っている相手の、レベルを測る事など出来ない事に留意しましょう。結局、高級霊たちから見れば、このような質問は見下した態度と受け取られる事でしょう。そして、このような非建設的な交霊に応じるのは審神者(さにわ)の霊格相応の霊ですから、意地悪で知識だけある低級霊しか降りてこない事でしょう。これは、結局、霊媒に対して危険な行為を強いて、しかも、低級霊しかおろせないといった、やってはならない行為なのです。

 審神

 相手の霊格を見抜くのに重要なのは、まず欲心を捨てる事です。相手を利用しようとするから、付け込まれるのです。

 第二に重要なのは、おのれの慢心を捨て去る事……無知の智を悟る事です。人の心を見透かせる霊たち相手に既存の知識で勝負をしても意味がありません。まして本に書かれているような知識をわざわざ霊界から取り寄せる事に何の意味がありましょうか。むしろ、現在抱えている問題の解答を求めて御覧なさい。あなたに思いつかないような、そして実現性あふれる回答を得られたとしたら、少なくとも相手の霊は、あなたよりも高い知性と霊性を持っていることが伺われます。仮にあまりに高度で理解が及ばない答えが返ってくるのならそれはだまそうという意図をもつ霊と考えて差し支えありません。

 この手段でも基本的に、自分よりはるかに高い霊性の持ち主を測る事は出来ません。ただ自分より上である事を測れるだけです。そして注意すべきは、本当に高い霊性の持ち主は、その霊性をひけらす事がなく、懸る霊媒、対する審神者(さにわ)の霊格にあわせ、それよりもやや高めの回答を心がけるという点です。すなわち慈悲深く、知性あふれる霊は、相手に合わせて発言する能力の持ち主だという事なのです。

 反対にいくら立派な発言をしても無意味であったり、杓子定規であったりするのは背伸びをしている低級霊に間違いがありません。このような霊に騙される霊媒は多々いるのですが、それは分不相応な霊と一足とびに交霊をしようという意図に付け込まれるからです。結局、交霊術も、審神術も人間の他の才能と同様に分相応で、努力を要求するものなのです。


2006-04-14

交霊補助具・霊視

2006/04/14

 水晶球

 精神統一を行う時、ただ漠然と正面を見て精神統一するよりも、焦点となる物体を眺めるほうが集中が楽なのです。その焦点として最も好まれるのが水晶球です。ただし、私の師匠などは、「道具に頼るようでは未だし(未熟)です」と断じます。

 また、精神統一を始めた人に、私は、水を入れたコップを目の前に置き、焦点として用いる事を推奨しています。というのは、不具合が生じたとき、水を飲む事で気分を切り替えるという、使い方も出来るからです。

 もう一つの意義として、霊視をする時には、周囲の光景から興味を引きはずし、視神経を霊視に振り向ける必要があるのですが、その時に水晶球に注目すると、水晶球によって非日常的な光景が見える事で、視神経が疲労し幻覚が見えやすくなります。その疲労に乗じて霊視を行っているのです。

 そして、水晶球もまた、自動書記の補助具と同様に、霊媒能力の持ち主が使って始めて効果がでます。


交霊補助具・自動書記

2006/04/14

 プロローグ……ハイズビル事件

 怪現象が続いたフォックス家で、末娘のケートは父親が窓を揺するたびに、同じ数だけ、どこからか音が聞こえてくる事に気がつきました。

 そして、「お化けさん、私と同じようにしてごらん」

 ケートが指を鳴らすと、やはり同じような音が聞こえてくるのです。

 このような実験を繰り返すうち、いつしかルールが出来ていきます。イエスなら音を立て、ノーなら音を立てない。

 近所の人を招いて実験を続けると、ある人の思いつきで、アルファベットを順によんで行き、目的の字の所で音を立てさせ、ついには名前から地名まで綴れるようになります。……

 後には、直接言葉で交信出来る霊媒も登場しましたが、ハイズビル事件には交霊術の基本を見る事が出来ます。


 交霊手段として、自動書記はもっとも基本的、かつ、難易度が低いものです。

  ウジャ盤 (Ouija Board)

 文字や数字、イエス・ノーの記号を配したボードに、回転式指示器(矢印)を取り付けたルーレット状の交霊補助具です。霊媒は指示器に手を乗せ、指示器の指し示す個所が目的の文字とするものです。回転式以外にも、指示器をレールに取り付けた直線式のものがあるようです。

 上記のとおり、霊媒の能力に制約の多い場合には、比較的有効な補助器具です。また、ウジャ盤は日本のコックリさんの原型になったものです。

  ブランシェット (Planchette)

 車輪と鉛筆をつけた板の事で、紙の上に置き、霊媒が板に指、または手を載せて文字や数字を書くものです。

 霊媒が直接、ペンなり、鉛筆なりを持って、自動書記に行うほうが手軽ですが、精神統一時には手の重みがバカにならず、ちゃんとペンを握っている事に気を取られて統一が妨げられる事もあります。その意味で、自動書記霊媒にとっては貴重な補助具といえましょう。

  コックリさん

 前述のウジャ盤が、船員によって明治以降に日本に持ち込まれたもので、割り箸で作った三脚がコックリコックリと動く為にコックリさんと呼ばれます。「狐狗狸さん」と漢字で表記する事もありますが当て字です。

「狐狗狸」という表記が動物霊を連想することから、祟りを恐れて、エンジェルさん、キューピットさんなどと呼ぶこともありますが、もともと当て字なのですから、どんな表現をしようがウジャ盤の変種の自動書記用具であるには違いありません。そしていかなる変種であろうが、ウジャ盤は正規の自動書記用具なのです。

 本来、コックリさんは、複数人……通常三名の人間の、不随意筋の動作を利用して、意図的な動きをなるべく封じながら、文字を選択させる事に意義があります。意図を封じる事でかすかな霊の働きを表面に出そうとするのです。

 しかし、目を開けてコックリさんを行えば、どうしても表面意識が働き、意図的に動いてしまいます。かといって、目を閉じれば、どこに行くのか分かりませんし、記録も取れません。結局、表面意識を眠らせ、霊的な働きに身体を委ねる技能を得た霊媒が使って始めて、コックリさんは本来の働きをするのです。

 また、交霊一般にいえることですが、情報提供者としての霊が応じてくれない限り、なんと呼びかけようが交霊が果たせるはずもありません。そして、高級霊は忙しく、孤独に苦しむ低級霊は憑依する相手を探しています。人間には、憑霊を防ぐ霊的な防壁を持っているものですから、めったに低級霊の支配下におかれるものではありませんし、同時に防壁があるためにめったに交霊は出来ません。

 ようするに霊媒の素質がある人以外が、コックリさんを行っても、不随意筋の動作を眺めるだけで終わりであり、霊媒能力がある人の場合、よほど素質に恵まれていない限り、低級霊に遊ばれて終わりなのがコックリさんの現実なのです。

 また、コックリさんというと祟りを恐れる人がいますが、交霊によって障害を受けるのは未熟な霊媒に限られ、霊媒能力の無い人には何の影響も無いのが普通です。つまり、霊媒能力の無い人がコックリさんを行っても、交霊にならないのだから祟りも無いわけです。

 では、交霊能力のある人なら……?

 霊界でおしゃべりなのは低級霊と相場が決まっています。ご自愛下さい。

 その他の方法

 他にも、砂箱に杖で文字を書く、天杖扶?《フーチ》と呼ばれる方法もあります。しかし、自動書記用具として、紙と鉛筆(私はボールペンが好みですが)の組み合わせが、もっとも手軽なのはいうまでもありません。また、自分の膝に指で書き読み取る人もいます。

 私も相談が多すぎて、背後霊が手一杯になり霊感がとりにくい時に、ふと思い出して試してみたところ、無事に相談をこなす事が出来ました。

 また、私の相談回答の大部分は、キーボードを使った自動書記ともいえます。


祈祷の技術

2006/04/14

 人を救いたいからと、霊能力を欲しがる人がいます。しかし、手段が人を助けるのではなく、誠意や努力が人を助けるのです。

 たとえ霊感があろうと、交霊能力があろうと、誠意や努力なしに人を助ける事は出来ません。そして、能力や手段は、誠意や努力に付随していくものなのです。

 霊能力を生かすのに基本的な技術はあっても、技術を生かすのは、正しい動機や、純粋な誠意なのです。したがって、以下の項目を活用できるのはごく限られた人になる事でしょう。

 朋党の私心

 朋党とは利害や主義主張を同じくする仲間の事を言います。そして朋党の私心とは、自分の属する集団への利益を第一に考えるということです。

 たとえば国家の中で官僚たちが派閥を組み、国家の利益よりも自分たちの派閥の利益を優先し、結局は国家に多大な損失を与えたりする事を指します。官僚の場合は忠誠を誓うべき対象が絞れてよいかもしれませんが、会社員の場合は、複雑な忠誠を求められます。

 国家、企業、企業内の派閥、友人関係、家族……属するべき集団に対して、私心に流されず誠意を尽くす事は大切な事です。

 そして霊能者にとって、朋党の私心を捨て去る事は非常に重要な事です。

 悪意を持つ霊……悪霊はあたりまえの事として、低級霊と呼ばれる霊たちが、人々に迷惑を及ぼすのは、身勝手な行いがあるからなのです。それは私心で働き全体の利益を損なうということなのですね。ですから朋党の私心を棄てなければ低級霊と感応しても気がつかないことがあります。

 いえ、それどころか、朋党の私心の持ち主は、低級霊の格好の憑霊対象になります。

 一方、高級霊と呼ばれる霊は、個人的な利益の為ではなく、全体への利益の為に働いています。したがって、自分の利益や、朋党の私心のために、霊能力を用いようとするのをものすごく嫌うのと同時に、私心が強い人と高級霊は波動が合いにくいものなのです。

 願かけ

 私はよく、「霊界はとてもせこい」と表現しますが、表現が下品でも重要なキーワードなので留意してください。

 霊感を持つ人は、自分や知人の幸せを願って、願かけ……祈祷を行う事があります。祈祷については、叶うものは叶うし、虫が良い願いは無視されますので、どうということは無いのですが、時期が至らない願いや、解決に時間がかかる願いは、祈った本人が忘れても継続して霊界の働きかけが行われている事があります。

 願いが叶った時は、きちんと謝意を祈念するのは当然として、不要になった時は願かけを解く必要があります。というのは願いが叶い奇跡と感じられるような事件の背後には、本来の背後霊だけではなく、驚くほど多くのボランティア……援助の霊たちの協力があるものです。つまり、肉体を失った一人の霊の力は、地上世界に及ぼすにはあまりにも微弱なのですね。

 そういう大勢の背後霊の援助を得て、力を及ぼしているのですから、いくら霊界が奉仕の心で満ちていても、無駄な仕事を繰り返すと、援助の霊たちが離れていくので、背後霊や高級霊たちは無駄な仕事はものすごく嫌うものなのです。

 ですから願かけの際には、無駄の無いように配慮しないと、相手にされなくなりますので注意が必要です。

 つまり私が、せこいと表現するのは、いろいろな意味で霊界の行為には無駄が無い事を表しています。そして贅沢な望みはまず叶わないのです。

 祈りは深く、そして一度だけ

 プロフェッショナルほど、くどくどとしつこい話を嫌います。願掛けでよく見る間違いは、大切な願いほどくどくどとしつこく祈ることです。

 ……駄目なものはダメ。しつこいのはむしろマイナスです。

 霊媒ならば、深く一度だけ祈る。

 素人ならば、静かに三度祈る。

 それ以上祈ることは、良くを晒して低級霊を自分の周りに集めるだけです。それは災難を呼ぶのと何ら変わりません。


2006-04-14

交霊会の参加者

2006/04/14

2006-04-14

 参加者は観客ではない

 能力者の説明に混じって、交霊会の説明を記載したのは、交霊会の参加者は単なる観客ではないからです。交霊会において大切なのは、なによりも参加者の動機で、必要なのは、動機の高尚性なのです。

 霊界の叡智を引き降ろすのは真摯な探求心であり、真摯な心が集まるところには、必ず高度な霊界からの使者が同席しているものなのです。反対に、単なる興味本位や、欲心からの参加者がいると、低級霊を呼び寄せ、交霊会を危機に陥れかねません。

 霊に対する暴力

 もちろん疑問を抱く事は何の問題もありません。ただ、否定の為の否定や単なる感情論は、霊たちに居たたまれないほどの不快感を与えます。私たちの精神活動は肉体に閉じ込められていて忘れがちなのですが、肉体の無い霊たちにとって、暴力とはあからさまな感情をぶつける事なのです。

 交霊会は、霊界の参加者があって始めて成立します。そして霊たちの寛容さにも限度があり、互いの立場をいたわれない者は、霊たちから危険人物とみなされて、今後の交際を拒絶されるのが普通です。また、交霊のマナーを守れない人は、その後の霊的な加護を拒絶される事もあります。

 ですから交霊会は気のあった少人数のサークルが推奨されるのです。

 また、忘れてはいけない事がもう一つあります。霊界・現界という表現は、肉体に囚われている人間たちの便宜上の分類であり、死者も生者もすべては魂であって、霊界に属しているのです。霊媒がいないスピリチュアル・サークルにも霊界からの使者は訪れ、逐一その言行は霊界の司令部に伝達され、そして霊界の真理の普及の足場として組み入れられているのです。

 参加者が作る

 交霊会の本来の趣旨は、霊界の代表者と、人間の参加者の双方が、霊媒の仲介の元に意志を通わせあう所にあります。結局の所、シルバーバーチの霊訓の成功は、霊界側の準備だけによる成功ではなく、交霊会の参加者全員の協力があって始めて成立するのです。

 霊界が、どれほど素晴らしい話者を差し向けようと、受け手である参加者が低俗な会話、例えば、他人の批判や、個人の利益に関する話に終始すれば、会の話題も低俗な話に流れてしまいます。シルバーバーチの霊訓は、話し手であるシルバーバーチの言葉を集めたものであると同時に、数多くの参加者たちが、共に造り上げたものなのです。

 以前、近藤千雄氏より、「シルバーバーチは交霊会の参加者を厳選した、そして、利益的な相談は断固として断った旨」をお聞きしましたが、そのような事柄こそ、霊訓集において、明確に記載する必要のある事なのです。このように素晴らしい霊訓をもたらした交霊会こそが、すべてのスピリチュアルな集まりの模範であり、越えるべき目標であるからです。

 霊界が、このような素晴らしい話者を地上に降ろしてくれたのは、決して新たな「白亜の墓(すなわち成長を忘れた宗教)」を作り出すためでも、新たな伝説を生み出すためでもありません。スピリチュアリズムは、必要な神の言葉はすでに、2000年前に語り尽くされた(キリスト教)や、1500年前に語り尽くされた(イスラム教)とする、一部の宗教家の奢りを否定しています。

 そして、三位一体説や処女懐胎等に拘る事を、それは真理と関係のない漫画であると断じています。スピリチュアリズムは、超常的な存在による救済を求めるのではなく、奇跡を求めるのでもありません。かつてはわれらと同じ人間であり、われらの人生の先達である高級霊たちのアドバイスを受けて、幸せを掴み、霊性を向上させていく道筋を示しているのです。

 あなたにも親しい人と死別をした経験がある事でしょう。どうか考えてみてください。「生と死」を別ける淵は、いかに大きく深い事か。生から死へ移行するのは自然の営みですが、死の淵を越えて生者に語り掛けるのは容易ならざる事であるのは、皆様の多くが死者と話せない事で容易に察しが付く事でしょう。

 そのような苦難を乗り越えて、素晴らしい言葉を地上にもたらしてくれた、シルバーバーチと霊媒バーバネル氏、その他背後霊団の大事業は賞賛に値すると思います。が、しかし……その努力は果たしてそれは、新たな白亜の墓を造り上げるためでしょうか。

 言うまでもなく、その努力は、地上に霊的真理の受け皿を作りあげるための物であり、それゆえにスピリチュアル・サークルや数多くの霊能者たちを激励しているのです。

 悲しいかな、人が集まればそこに世俗的な問題が必ず生じます。それは宗教や、スピリチュアルなサークル、ボランティア団体においても同様な事です。そのような問題が生じた時にどうか思い起こしてください。大切なのは動機です。動機を見失ってはいけないのです。


質疑:霊感について

2006/04/14

Q「ターミナルケアに関する本を読んだら、病気の親族の死期が気になって仕方がない」

 不安……ですね。不安というのは正しい知識を持たぬ事から生じるものです。すなわち、その本が中途半端な知識しか与えてくれぬからあなたが不安になるのです。

 なお、死についていうなら、「未来」は当てるものではなく、生み出すものです。確かに人は永遠に生きることは出来ません。そして考え方を変えた所で寿命を延ばすことは出来ません。しかし、たとえ短くとも有意義に生きることも出来るし、たとえ長くとも無駄に生きることも出来るのです。

 永く生きようとあくせくする人はストレスから心身をすり減らし、より良く生きようとする人は楽しく長生き出来るのが現実。決して不思議な話ではありませんよね。

Q「霊感が強く、職場のある部屋に誰かいる気配がして、しょっちゅう振り返ってしまうこともあります。」

 霊性の大切さに気がついて下さい。霊性とは、理性や知性とは別個の心の働きです。すなわち、理性・知性を纏めて一つの目的に向ける働きをする心の働きなのです。

 ……振り返っても見えないなら、どうしたら正しく受け止めることが出来るでしょう?

 いたずらに振り返るのを止めて、正しく心の目を向けるべきだと思いませんか? 当たり前ではないものを感じ取りながら、なぜ、当たり前の人間のように振り返り続けるのでしょうか。そこに理性や知性の働きがあっても霊性の働きがありません。なにより向上心がありません。振り返って見えなければ、それで安心なのですか?

 なぜ振り返ってしまうのか。それは、あなたが真実に関心があるからだとは思いませんか?

Q 「昔、霊感の強い人から私が予知ができるようになるようなことを言われたことはありますが、余りよい感じはしませんでした。」

 ならば、良い感じのする何かを求めれば宜しい。その違いが分かりますか? 判るはずです。あなたはとても聡明な方なのですから。でも、遠慮が美徳だと思っている。手に入れやすい大きな望みよりも、手に入れがたい小さな望みを求める方が美徳だと思っている。理性や知性がそれを美徳と呼んでも、霊性は違うことを答えるでしょう。……それは愚かだと。

 人には向上心があるのです。なぜ大きな贈り物をもらうことを拒むのでしょう?

 なるほど、もらった贈り物に押しつぶされるのは滑稽でしかありません。ならば、いつでも受け止められるように心身を鍛えれば宜しい。少なくとも、何ももらえなくても健全な心身があなたのものとなるはずです。もらわなくとも恨まない。それこそが謙虚というべきです。

Q 「年取ればそれなりに予想できることはありますよね。その程度以上のことは望みたくありません。」

 中道・中庸は、古今東西の聖人が薦める正しき道であります。しかし、中途半端と中庸とは違います。役に立たな鋳物を選ぶのは極端な選択といえるのです。

 人は智慧に溺れて滅びることもありますが、愚かでも滅びます。……求めるべきは、智慧か、愚かさか、そのどちらか……本当にその二者択一ですか? 第三、第四の選択肢はありませんか? すなわち、あなたはたった二つの選択肢にだけ目を向けて将来を決めようとしているのです。それは……何と呼ぶべきでしょう?

 あなたの疑問は、あなたの思い描く選択肢の中だけに答えがあるものでしょうか? 答えが見えない……それは、答えを出せないのではなく、単に残りの選択肢が見えていないだけではありませんか?

 それを、「不明」と呼びます。有り体に言えば、「心の目が見えぬ」ということです。未来が見えてもその意味の分からぬのでは困ります。……そして、あなたが悩んでいるのは、眼を開くか否かではなく、見ても判らぬか、見えぬ事にも気がつかない愚者であるかの選択ではありませんか?

 眼を開きましょう。人はいつか死ぬのです。死期が見えることを執着とするのではなく、その人が死ぬまでに何をすべきかを見る人になって下さい。

 人生の価値は長さで決まりません。その充実度で決まるのです。どうしたらその人の人生が充実するのかを考えられる人になって下さい。

 なにしろ、人は死を免れることが出来ないのですから。


ハイズビル事件とフォックス姉妹

2006/04/14

ハイズビル事件

 ハイズビル (Hydesvill) 事件とは、ニューヨーク州のオンタリオ湖に近い、ハイズビルという村で、一八四七年十二月十一日から始まった一連の心霊事件をいいます。舞台となったのは、フォックス家であることから、フォックス事件とも呼ばれています。

 一家は鍛冶屋であるジョン・フォックス氏とその夫人、そして二人の娘、当時十四歳のマーガレット、十一歳の末娘ケートの四人暮らしでした。

 フォックス家が引っ越した家は、引っ越し直後から、原因不明の物音が付きまといます。しかしラップ音の他には、子供たちが冷たい手で撫でられる程度で実害も無く、いつしか慣れていきます。しかし三月に入ると異常現象がエスカレートを始めました。

 そして一八四八年三月三一日。

 風の強いその晩、いつものようにラップ音が始まります。

 そのラップ音の原因を窓の閉まりの悪さ、と思った父親が窓を点検して回った時に、末娘のケートは父親が窓を揺するたびに、同じ数だけ、どこからか音が聞こえてくる事に気がつきました。

 そして、「お化けさん、私と同じようにしてごらん」

 ケートが指を鳴らすと、やはり同じような音が聞こえてくるのです。

 このような実験を繰り返すうち、いつしかルールが出来ていきます。イエスなら音を立て、ノーなら音を立てない。

 近所の人を招いて実験を続けると、ある人の思いつきで、アルファベットを順によんで行き、目的の字の所で音を立てさせ、ついには名前から地名まで綴れるようになります。

 その結果判明したのは、チャールス・ロスナという行商人が五年程前に、この家で殺されて所持金を奪われ、死体は地下室に埋められた事、犯人はジョージ・ベックであるが彼は法律では罰せられないだろう事などでした。

 翌日から噂を聞いた大勢の人が集まり、そこでもラップ音を利用した交霊が行なわれます。そして四月三日、見物人の前でフォックス氏と近所の人々が地下室を掘り始めましたが、湧き水がひどくて断念する事になりました。

 そして夏の乾燥期に再び地下室の発掘を試みると、毛髪と頭蓋骨が出てきたのです。しかし、これだけでは事件の裏づけには不十分とされたのでした。

 これが世にいうハイズビル事件です。


フォックス姉妹

 事件の後に娘たちが恐怖感に襲われ、また、見物人の多さで仕事が手につかなくなった、フォックス氏は引っ越しをするのですが、その引っ越し先にもラップ音が付きまといます。

 そしてハイズビルからマーガレットに憑いてきた霊の言い分をアルファベットで綴らせる事となりました。

『親愛なる友よ、あなたがたは、この真実を世界に公表しなければならない。これは新しい時代の曙光である。あなたがたはもはや、これを隠そうとしてはいけない。あなたがたが、あなたがたの義務を果たすとき、神はあなたがたを守護し、善い霊たちもあなたがたを見守ってくれるだろう』

 この後、マーガレット・ケートの姉妹は霊媒として、各地で交霊会を開く事になります。


事件のもたらしたもの

 さて、ハイズビル事件の前に心霊事件が起らなかったかというと、決してそんな事はありませんし、霊能者としては、スウェーデンボルグ(1688-1772)の方がはるかに時代的に古いのです。

 また、フォックス氏(姉妹の父)の曾祖母、叔母にも霊感があったと伝えられます。

 では、なぜ、ハイズビル事件を科学的な心霊研究の発端というのでしょうか。 確かにハイズビル事件以後、多くの科学者が心霊研究に取り組んでいますが、何らかの結果を導き出せたとは思えません。すくなくとも否定論者を一掃するだけの結果は未だ手にしていないわけです。

 むしろ、ハイズビル事件は心霊を、夜遅く家の奥でこそこそと取り扱う魔法じみた物から、太陽の元に引き出す切っ掛けとなったことが評価されたと考えるべきでしょう。心霊を否定し、魔女狩りの伝統をもつ、キリスト教文化に圧殺されていた心霊が日の光を浴びた切っ掛けが一八四八年三月三一日だったのです。そして、この年、五千件以上の心霊現象が全米で報告され、フォックス姉妹に続き、多数の霊能者が、日の当たる場所で活躍を始めます。

 また、一八三七年、米国のモールスによって発明された電信機の影響も見逃せません。一八四四年にはワシントン・ボルチモア間に実用電信線が開通しました。フォックス姉妹のラップ音による交霊に、電信機の影響が無いとは思えません。むしろ大衆は、科学の進歩とラップ音による霊界通信とをダブらせる事で、旧来のキリスト教文化を迂回して心霊を受け入れることが出来たと考えられるのではないでしょうか。

 そして心霊研究家が見落としている大切な事がもう一つあります。この後に始まる心霊ブームは、霊媒と霊界側の都合だけで始まったのではなく、需要があるからこそブームになったという事実です。

 そう、人々は自らの魂の正体を知りたがっていたのです。


ハイズビル事件後日談

 1888年11月、フォックス姉妹は新聞紙上で、すべてがインチキであった事を告白しました。

 マーガレットは告白した翌年、告白を否定し再び交霊術を始めますが人気は集まらず、失意の内に亡くなります。没年1893年3月8日。

 ケートは晩年アルコール中毒に陥り、乞食となります。没年1892年7月2日。

 フォックス姉妹は、手や足の関節を利用して音を出していたといわれています。もはや百年以上も昔の事ゆえに文献情報以上のものは無く、その音を確認する術はありませんが、彼女たちは各地で興行を行なっていたのです。もちろん有料で!

 手足の関節がなる程度の音で観客は納得するのでしょうか?

 その霊能力の真偽がどうであれ、フックス姉妹は単に世界最初の霊媒として、歴史に名を残しただけではなく、金で心霊を売った者の悲劇という意味でも、歴史に名を残してしまったのです。

 心霊とは真摯に付き合わなければなりません。興味本位のオカルトで人目を引き、見世物になどすべきではないのです。特に霊能力に恵まれた者はみだりに低級霊の事ばかり口にしてはならないでしょう。

 霊能者以外の人は大抵の場合、霊能者を通じてしか霊界の事を伺う事が出来ません。いわば霊界の窓口である霊能者が低級霊の事ばかり口にしたら、人々は霊界をどのような目で見るでしょうか?

     スラム?

     地獄?

 世の中に悪人がいるように霊界にも悪い霊はいます。しかし人々のために働く善霊も数多くいるのです。低級霊の事ばかりに宣伝して善霊たちが働きにくい状態を作り出してしまえば、その霊能者もまた低級霊の仲間ということになります。

 せめて私のページを訪れた方には、霊界には悪い霊ばかりではない事と、高級霊の加護を信じていただきたいと思います。


見つかった死体

 一九〇四年十一月二三日、通称ハイズビルのお化け屋敷の地下室で遊んでいた子供たちが、崩れた壁の奥に人骨らしき物を見つけ、家の持ち主ウイリアム・ハイド氏は壁の横穴から、確かにチャールス・ロスナと思われる首の下からの完全な死体と行商人用のブリキの荷物入れを発見しました。

 これには家主の売名行為という説もあります。しかし、なぜ、ハイズビル事件から、五七年も経ってから、わざわざ事件を蒸し返そうというのでしょうか。それもフォックス姉妹の没落を見ながら。

 まあ、確かに人間の行為の動機は往々にして常識では測れないものですが。


2006-04-14

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