‘2006/04/13’ カテゴリーのアーカイブ

余計な事をするな

2006/04/13

 悩み多き人は、悩み多きが故に悩むことを止められない。なにしろ、あまりにも片付けるべき問題が多くて途方に暮れる。……だからこそ、他に救いを求めるわけだが、面倒を嫌うのは人の常である。

 だが、問題解決力のある人は、全てを一度に片付けようとはしない。一つずつ順番に片付けていくのである。

「千里の道も一歩から」……一歩ずつ進んでいけばいずれは千里の道程も走破する。だが、足を踏み出す前から「千里」の道程の遠いことを恐れ悩めば、前に進むことは出来ない。

 人が悩むべきは、その一歩を踏み出すか、出さぬかであって、千里行くか、万里行くかは、その後の話なのである。

 というわけで、どんな多くの悩みに苦しんでいる人であっても、コツコツと問題を一つずつ片付けていくなら、いずれは全てを解決して幸せを掴むことが出来る……というのは机上の空論である。

 実際的には、一つ一つの問題に横着(または横柄)に接しているから、片付いたようで片付かず、気がつけば問題の真ん中で身動きが取れなくなってしまうのだ。千里の道を駆け足で……たちまち息切れをするどころか、足を折って歩けなくなるなどという話はざらにある。

 問題を拗らせるのは、問題が難しいから……そういう事例も確かにある。だが多くは、横着者が問題を拗らせているのだ。だから、多くの場合、面倒な相談事は解決しない。問題が面倒だから解決しないのではなく、相談者が横着(または横柄)だから解決しないのである。


 ところで、私の師ならば、こういう問題を実に手際よく解決する。それも一見、実に不条理な方法で解決するのである。

「先祖供養をなさい」……具体的な方法についての指示もあるが、個人宛の処方箋を真似ても意味はない。……で、当事者が先祖供養にいそしんでいる間に状況が好転していくのだから、面白いというか、不条理というか。この結果だけを見聞きすれば、先祖供養をしてみようかという気持ちにもなるだろう。だがそうは問屋が卸さない。御利益目当てで祖先にゴマをすってもダメだというわけだ。(素人解釈では)

 念のために明記するが、私はそれほど大袈裟な先祖供養などはしていないが、墓参はかなりの回数出掛ける。先祖供養万能論者ではないが、先祖供養無用論者ではない。……ただし、師匠が先祖供養を勧めて良い結果が出た事例を見ても、それはご先祖が供養に応えた結果であるとは思わない。何しろ私の見回す限り、先祖供養にいそしんでも必ずしも良い結果が出るとは限らないからだ。師が介在した事例だけが、突出して先祖供養が好結果をもたらしているのである。

 今小耳に挟んだのは、『偽薬効果も大きい』という霊言だが、それもあるだろう。にしても、先祖供養が幸運への直接効果を持っていると考えるのはやはり怪しい。

 そもそも祖霊等は、子孫からの供養の有無に関わらずに、子孫の繁栄のために努力しているのだ。むろん、恩知らずを大切にすれば世間に申し訳ない、といった、道理の上での条件が多々あるが、決定的な要因は、先祖供養そのものではなく、当事者が小細工を止めることだ……と、感じている。ただ、「小細工を止めよ!」といっても、ヒマになればついつい余計なことを仕勝ちなのが人間であるから、先祖供養に努めさせ、余計な考えを持たないようにし向けているのである。

……いや、先祖供養は大切だと思うし、実際、先祖供養に努めている人を見るとそのオーラが明るく、時折祖先の霊とおぼしきものの笑顔が見えたりして好ましいものである。が、先祖供養を過大評価するのも、過小評価するのも、いわば短絡的な発想と思う。手段というのは、目的を達成するためにあるのだから。なにより、人は論理よりも情理や心理に強く影響を受けがちであることを理解すべきだろう。

 先祖供養はささやかな直接効果しかもたらさないが、上手に使えば効果は増大するのである。


2006-04-13

余計なことをするな

2006/04/13

2006年 04月 13日


悩み多き人は、悩み多きが故に悩むことを止められない。なにしろ、あまりにも片付けるべき問題が多くて途方に暮れる。…… だからこそ、他に救いを求めるわけだが、面倒を嫌うのは人の常である。

だが、問題解決力のある人は、全てを一度に片付けようとはしない。一つずつ順番に片付けていくのである。

「千里の道も一歩から」……一歩ずつ進んでいけばいずれは千里の道程も走破する。だが、足を踏み出す前から「千里」の道程の遠いことを恐れ悩めば、前に進むことは出来ない。

人が悩むべきは、その一歩を踏み出すか、出さぬかであって、千里行くか、万里行くかは、その後の話なのである。

というわけで、どんな多くの悩みに苦しんでいる人であっても、コツコツと問題を一つずつ片付けていくなら、いずれは全てを解決して幸せを掴むことが出来る……というのは机上の空論である。

実際的には、一つ一つの問題に横着(または横柄)に接しているから、片付いたようで片付かず、気がつけば問題の真ん中で身動きが取れなくなってしまうのだ。千里の道を駆け足で……たちまち息切れをするどころか、足を折って歩けなくなるなどという話はざらにある。

問題を拗らせるのは、問題が難しいから……そういう事例も確かにある。だが多くは、横着者が問題を拗らせているのだ。だから、多くの場合、面倒な相談事は解決しない。問題が面倒だから解決しないのではなく、相談者が横着(または横柄)だから解決しないのである。


ところで、私の師ならば、こういう問題を実に手際よく解決する。それも一見、実に不条理な方法で解決するのである。

「先祖供養をなさい」……具体的な方法についての指示もあるが、個人宛の処方箋を真似ても意味はない。……で、当事者が先祖供養にいそしんでいる間に状況が好転していくのだから、面白いというか、不条理というか。この結果だけを見聞きすれば、先祖供養をしてみようかという気持ちにもなるだろう。だがそうは問屋が卸さない。御利益目当てで祖先にゴマをすってもダメだというわけだ。(素人解釈では)

念のために明記するが、私はそれほど大袈裟な先祖供養などはしていないが、墓参はかなりの回数出掛ける。先祖供養万能論者ではないが、先祖供養無用論者ではない。……ただし、師匠が先祖供養を勧めて良い結果が出た事例を見ても、それはご先祖が供養に応えた結果であるとは思わない。何しろ私の見回す限り、先祖供養にいそしんでも必ずしも良い結果が出るとは限らないからだ。師が介在した事例だけが、突出して先祖供養が好結果をもたらしているのである。

今小耳に挟んだのは、『偽薬効果も大きい』という霊言だが、それもあるだろう。にしても、先祖供養が幸運への直接効果を持っていると考えるのはやはり怪しい。

そもそも祖霊等は、子孫からの供養の有無に関わらずに、子孫の繁栄のために努力しているのだ。むろん、恩知らずを大切にすれば世間に申し訳ない、といった、道理の上での条件が多々あるが、決定的な要因は、先祖供養そのものではなく、当事者が小細工を止めることだ……と、感じている。ただ、「小細工を止めよ!」といっても、ヒマになればついつい余計なことを仕勝ちなのが人間であるから、先祖供養に努めさせ、余計な考えを持たないようにし向けているのである。

……いや、先祖供養は大切だと思うし、実際、先祖供養に努めている人を見るとそのオーラが明るく、時折祖先の霊とおぼしきものの笑顔が見えたりして好ましいものである。が、先祖供養を過大評価するのも、過小評価するのも、いわば短絡的な発想と思う。手段というのは、目的を達成するためにあるのだから。なにより、人は論理よりも情理や心理に強く影響を受けがちであることを理解すべきだろう。

先祖供養はささやかな直接効果しかもたらさないが、上手に使えば効果は増大するのである。


孤独

2006/04/13

孤独さを嘆く人がいます。なんという事でしょう。失敗は成功の母というのに、人と人との繋がりを成功・失敗という両極端で計るなどとは……、失敗すればこそより深く洞察し、より強く成功をつかめるというのに。失敗という助走があればこそ、あなたはより高く、より遠くに飛び立てるというのに……

孤独とは、より広く人々を知り、より深く自分を知るための、最高のチャンスなのです。その最高のチャンスを嘆きで汚す人がいる。なんともったいない事でしょう。そういう無駄こそが、幸せから遠ざけているというのに。

一人では力及ばぬも志を、助け合うためにこそ人は孤独なのです。


2006-04-12

心霊主義入門2

2006/04/13

平常心

 ある禅師が「道の習得とは」と問われて……

「腹が減ったら食い、疲れたら寝る」と答えた

 それは、誰もがやっている事では……?

「いや、大抵は、食べる時も寝る時も欲望をめぐらせているものだ」

 心霊主義では、人生を霊性向上の修行の場と考えます。それを踏まえた上で以下の問題をお考えください。私たちは地上に生を受ける前に、霊界で生活を送り、他の霊たちと交感していたはずです。そして、死後も霊界で生活を送り、他の霊たちと交感する事でしょう。ではなぜ、地上において交感できないのか。一体霊界で学んできた事はどうなってしまったのか。

あなたは何を地上で学ぼうというのでしょうか?

前世で学んだ事をすべて無視して……

死ねばまた、すべて忘れてしまうかもしれないのに……

 どうやって、地上で学ぼうというのでしょうか?

霊の世界の事は言葉で言い表せないというのに……

地上の体験が一体霊界でどう役立つというのでしょうか……

 人間の数だけ、個性があり、転生の目的があります。答えは決して一つではありません。しかし基本的な考えは一つです。

この謎が解けなければ、あなたは転生前とは変らない霊格で、霊界に戻らなくてはならないでしょう。

 私たちには、わずか百年前後の短い人生の中において、なすべき事、いや、なさねばならぬ事があります。でも、それを放りだして、無用な欲望を巡らせてはいないでしょうか。

 今、あなたが苦しみを感じず、悲しみも感じずにいるとしても、人生の目的を見失っていたとしたら、それは人生を失うのに等しい事です。オカルト作家達の描く、どんなに恐ろしい霊の祟りよりも、あなたの油断が生み出す人生の損失ほどの悲劇を与えはしますまい。そこには言い訳の余地がないからです。


旅立ちの前に

 霊は実在するのか? 死後の世界は?

 多くの心霊家(心霊研究家・霊能者・オカルト研究者など)が言うほどには、確たる証拠なんて存在しません。では霊の世界は存在しないのか。多くの人々はかすかな憧れを持って、永遠の実在の世界を信じています。確たる証拠がない。でも信じる。心霊とは、曖昧で、非科学的な物語なのでしょうか。

 ……数多くの霊能者たちの足跡。

 私は霊界の存在を証明することに情熱を感じません。 いずれ、人は死に直面します。心霊否定論者にも肯定論者にも等しく死は訪れるのです。そして、死が恐ろしい、悲しい別離と考えるのは、心霊否定論者も肯定論者も変わりはないのです。

 私が沢山の実例と現象を示して、霊界の実在を解き明かしたとしても、信じたくない人は無くなりません。また信じる人にとってもやはり、死が恐ろしく、悲しい別離であることに違いがないのです。

 皆さん。議論を止めて、どうか、耳を傾けてください。 私たちが心霊に求めるのは一体なんなのでしょうか?

   迷信からの開放ですか?

   死の恐怖からの解脱ですか?

   それとも永遠の生に対する憧れですか?

 単なる否定からも、盲信からも答えは見いだせません。

学びは愚かさを明らかにする

 学べば謎が減るなどということをどうして信じる事が出来ましょうか。蛙《かわず》は井の中に留まるなら、井戸で一番の知恵者であれたものを、井戸から出た途端に愚者に成り下がるのは、知恵が、学ぶことよりもより多くの謎を提示するという暗示なのです。

 学べばこそ、より愚かさを感じる。それは惨めさではなく、自らがより天への高みに昇りつつあり、より大きな知恵に巡り合うためのステップを登るということなのです。そう、学んで愚かさを知った人は真の知恵を求めます。その勇気がない者が偏見と頑迷さを身につけていくのです。

 何のための知恵なのだ……知識は覚える為に学ぶのではなく、人生において生かす為に学ぶのです。 そしてある時に気がつきます。

   知恵など求めなくても、自分は生きている。

   知恵を得ても、得なくても自分は生きている。

   生きるために知恵が必要なら、知恵を求めずになぜ生きているのか。

 私たちの「生」は、ものは言わぬとしても、そのまま知恵の塊なのです。私たちが求める答えの大部分は、実は私たちの生の中に既に用意されているのです。そして私たちが学ぶのは、自らの「生」に宿る知恵……いや智慧に……言葉を与える行為なのです。私はあなたの智慧を表に引き出します。その智慧は、人を感心させる事も、議論で相手を打ち負かせる役にも立ちはしません。まして人を屈服させたり、痛めつける事にも役には立たない事でしょう。ただ、あなたが自分に自信と、誇りを持ち、他を愛し、胸を張って生きるより所になるものです。

必要なのは証しか、智慧か

 身体が丈夫なうちには、心霊を否定しながら、いざ難病の告知を受けたとたんに心霊に関心を持たれる方がいます。心霊は人を幸せにする知識の宝庫であり、その知識を生かす為には「不滅の魂・永遠の生」という「事実」を受け入れる事が大前提となりますが、私はことさら、霊界の実在を主張する必要を感じてはいません。

 私たちが生きているこの現世。死に直面して「現世《うつしよ》は夢幻のごとし」という人もいますが、大抵の人は、無条件に現世の存在が、確実で疑いの無いものと考えているようです。

 しかし、現世を「確実」と感じるのは人の心・意識であり、意識には多くの錯覚が伴うものです。心霊現象の多くも錯覚と説明できる場合が多いですね。錯覚と決めつけられる事例はさらに多いものです。

 また、この世の事柄は意のままにならず、貯えた財産や愛する家族ですら、災害や気まぐれによって失われる事もあります。となると、現世は確実に存在するという事に何か意味があるのでしょうか。そこにあるのは「意味」ではなく、他の事を考える余地や、その存在のあり方に疑問を持つゆとりも無いほどの、忙しさや居心地の悪さではないでしょうか。

 霊界や想念の世界は確かに存在します。そしてそれは、一人一人の心にいつも訴えかけています。しかし、多くの人は現世に流されるばかりで、流される事が存在の証明であると勘違いしているのです。だから霊現象や神秘体験などといった、想念の世界に流されて初めて霊界の存在を信じる事になります。でも、流されて居場所が無いような霊界に果たして魂の置き所があるでしょうか。それはちょうど、幸運に恵まれた人が、夢ではないかと疑って自分のほっぺたを抓るようなものです。そして、苦痛を感じずにはその実感が得られないというのは不幸な事です

あなたの人生から苦しみを取り除けないという事なのですから。

 現世も、そして、霊界ももっと素直に理解すべきです。それは自分の魂の置き所なのですから、必要なのははっきりとした存在感ではなく、居心地の良さと労りあえる仲間の存在の筈なのです。

 わたしがオカルト信者や、心霊議論を嫌うのは、霊の世界がわたしの魂の置き場であるからなのです。考えて見てください。住まいに必要なのは、住み心地をよくする努力であって、理論や議論はインテリアコーディネーターや、建築家たちに任せるべきです。そして、霊界を設計・建築するのは……一体、誰なのでしょうか。

 趣味で理論研究をなさったり、議論をなさる事まで止めはしません。また、親しい者との死別や、死に直面すれば、真摯に死後の実在を感じたいと願うのも、人として当然の情でしょう。しかし、いくら霊界の実在を信じても、霊界の住人から受け入れ難い想念を持ち、魂の牢獄に封じ込められたり、ただ外部の想念に振り回されるだけであるなら、信じる事に何の意味がありましょうか。必要なのは、感じ、そして、参加する事なのです。そこに行き着かない限り、信じる事も信じない事も大差はありません。その知識からあなたが得るものは単なる先入観念のみなのですから。


未知との出会い

 どう転んでも、人には器がありますから、理解を超えた物、存在というのがあって当たり前です。しかし、自らを超越したものが正しいとは限らないわけで、物事には、正しい、間違っている・・・その他に「理解の外にある」という三番目の選択肢があるはずです。
 しかし、多くの人は、「理解の外にある」を、正しいに含めてみたり、間違っているに含めてみたりして、第三の選択肢の余地が無い場合が多いですね。理解を超えたものは、「わからない」という答えで良いと思うのです。時と共に知識も増えて、いずれ理解が及ぶかもしれないのです。無理に分かった気になるよりもよほど、判らないままにしておく方が良い事でしょう。

 未知との出会いは人生に彩りを与えてくれます。未知なるものがあるというのは、確かに不安かもしれません。しかし、未知なるものに出会えなくなったとしたら、毎日が当たり前の連続となってしまいます。それはなんと退屈なものでしょうか。未知なるものを受け入れるゆとりが欲しいものです。

器の大きさ

 この理解力の限界は、人間の器と表現する事も出来ます。一般的には包容力を指して、人間の器と表現するのですが、「わからない」と言えないのは、他人どころか、非力な自分すら、受け入れる事の出来ない心の狭さを意味するわけです。

 この事は、人と議論になると痛切に感じます。余裕の無い相手と議論をすると、すぐ「そんなの嘘だ!」「いや、本当だ!」と、感情的な真偽論に流れてしまいます。しかし、仮に真偽を突き詰めても、自分たちの器の小ささを確認するだけの事にすぎません。目には物質の存在だけしか見えなくても、想像力や知性、霊性を働かせる事によって、“その物”の可能性までも“見通す”事が出来るのですから。

 何かを論じ合う時、事実や真偽だけを論じるのならば、答えは一つしかないはずですが、その可能性を論じるのならば、答えは無数に、無限の広がりが出てくるものです。ことに心霊主義を標榜するのなら、物質的な視点や、時空間の制限に囚われず、もっと様々な可能性を論じて行きたいものです。

 そして、それこそが霊性向上への道でもあります。

 本来、互いの無知に気が付き、それを教え合うことは、楽しいものなのです。お互いの無知を助けて互いに向上していくことこそが、自分の可能性を押し広げ、未知の世界を垣間見せてくれるものなのですから。

 死後の世界は、想念の世界であるといわれます。それはつまり、あなたの心がそのまま風景となる世界だということです。

 あなたの心が美しければ、その風景が美しく、あなたの心の美しさ以上に美しくはならない世界なのです。そしてあなたが疑心暗鬼に囚われれば、そこは暗く不安な世界となり、あなたの心が、不平不満や嫉妬や憎悪に包まれていたら、決して安住出来ない地獄のような世界になるということです。

 地上にあって死後の世界を学ぶ方は、くれぐれも善き旅立ちの準備をなさってください。そして、心霊知識を学ぶ時には、自分を誤魔化すためでなく、より深く自分の愚かさ知るために学んでください。


信念


可能性を信じる

 出来ないと思いこめば、どんな簡単な事も出来はしません。一方、困難に思えても、試してみれば案外簡単な事もままあります。不可能を可能に変えてきたのは、多くの先人達の信念でした。発明や発見の背後には、かならず、世間の常識に反して、自らの可能性を信じた先覚者の信念があります。

……きっとできる。できるはずだ、やってみよう……

 「信じれば、何事も実現する」……キャッチフレーズとしては通用しても、世の中、それほど甘くはありません。無理を通せば道理が引っ込むとは言いますが、世の中、努力だけではままならぬ事も決して少なくはありません。自分の可能性を伸ばすのか、それとも覆いで囲うのか。人はその思想によって生き方を左右してしまいます。

 人は死んだら終わり。本当でしょうか・・・?

 世界には、目に見える者しか住まわぬのでしょうか?

 自分の手足を眺めてみてください。それがあなたの全てですか?

 人生が、死んで終わるものであるなら、その結果を見る事も出来ないものに、身命を捧げる人がいるのはなぜでしょう!?

 私たちは、先人達の多くの自己犠牲の上に現在の反映を甘受しているのです。ですから、現代科学の裏付けが無かろうと、「死後の個性存続」は、(観念的ではあっても)迷信ではありません。死後も個性は存続するという信念は、人間と獣との間を分けた大切な要因なのです。

 この記事を読む見知らぬあなた。あなたはあなた自身をよく知っているかもしれません。でも、私にとって、あなたは見知らぬ人でしかありません。

  あなたは優しい人ですか?

  善良で、努力家でしょうか?

  人を助ける愛情にあふれる人ですか?

 私はあなたを知らない。でも、あなたの善さと友好を信じなければ、こういうホームページは作れませんでした。 私の「霊界」、そして、「死後の個性存続」に対するスタンスも、やはり信じる心が支えています。大切なのは今の現実ではなく、どうあるべきなのか、そして、何を目指すのか……なのです。つまり、今のあなたが信じられなくても、将来のあなたが信じられるのならば、その為の努力に意義があります。

 「世の全ての人を納得させる証拠など無い。そこに偏見という病因があるとしても」――それが現実というものです。しかし、私は見えざる隣人に対しても善良でありたいと願い、自分の死後にも責任を持てるような生き方を心がけたいと思います。

 「死後の個性存続」は普遍的な事実とはいえません。物質に頼り、肉体に甘えた生き方をしている人が、どうして死後も同じ生き方が出来るというのでしょう? 霊性に指導された生き方を心がけぬ限り、人は死によって大きな変化を受け入れざるを得ないのです。

 死後の個性存続は、迷信でもなく、普遍的な事実でもなく、人間らしく生きるための信念なのです。この信念を私は「心霊主義」と呼んでいます。

 人の出来る事には限りがあります。どれほど高い理想を掲げ、そして強い信念を持とうとも、出来る事には限りがあり、一方、出来ぬ事には限りがありません。果てしなき天の高さ、果てしなき荒野の広さを思えば、失敗や挫折の無い人生は、完璧であるというよりも消極的な生き方の証と見なせましょう。

 そう考えるなら、「今、あなたが出来る事」が大切なのではなく、「これからあなたがやろうとする事」が大切なのです。


2006-04-12

 

心霊主義入門

2006/04/13

あなたの魂


 時として、人はわが身を省みずに危険に飛び込む事があります。

「死んだらお終い」……本当でしょうか?

 多くの人にとって、命が何よりも大切かもしれない。しかし、命よりも大切な「何か」を持っている人がいるのです。

・・・・・・・

 心理学は科学と認知されていますが、心の存在は科学的に測定できません。しかし、誰もが心を持っている事を自覚しているからこそ、心の存在を否定する人はいません。

 では魂の存在は、どうでしょうか?

あなたの中に潜む、肉体を超越した魂

 あなたはちゃんと自分の魂を自覚しているでしょうか?

・・・・・・・

 死後の個性存続や再生の真偽。

 ただ一つ確かな事は、魂はあなたの中にもあるということです。そして自己の魂を見出さない者が、どうして他の魂を見出せるというのでしょうか?

 答えは私のページではなく、手の届かない霊界にあるのでもありません。

あなたの求める答えは、あなたの魂にあるのです。


死後の個性存続

 もしも、自身の魂に気がつき、死後の個性存続を証明できないまでも、確信が得られるようになったとしたら、その先に一体いかなる真実が見えるのでしょうか。

 人はなぜ、生を受け、そして死んでいくのか。わずか百年前後の人生の枠内では思いもつかない可能性が見えてきます。一度の人生で終わりではなく、幾度も生まれ変わって目的を果たしていく可能性です。そして永遠の時の流れの中で、生がいかなる役割を果たすのか。

 霊たちは、地上の人々に告げます。

『あなた方は魂の牢獄の中にある』……と。

 死後の個性存続を信じたところで、死別の悲しみが和らぐわけではありませんし、直面する死の恐怖が消え去るわけでもありません。死によって分けられた二人は、温もりを交換する事が出来ませんし、死によって分けられた親子は、愛しい我が子を抱きあやす事が出来ません。

 死は現実であり、私もまた、慰めの言葉もありません。 しかし、これだけは言えるのです。

『死は終わりではなく、新たな可能性なのだ』……と。

 愛しい人の死別の悲しみに出会えば、少なくとも、命の大切さだけは、痛切に感じ取ったはずです。時として、あたりまえのように命を謳歌する私たちが、実はわずかなきっかけでその命を失いかねない事は、生き方の一つの指針となります。 私たちは、その現実を踏まえて前に進まなければなりません。

 その他に、いかなる可能性があるのか、それはあなた方の魂がちゃんと知っている事なのです。


因果律

 自分が播いた種子は、自ら刈り取るべきだという考えは、宗教・宗派を超えて人々の中に息づいています。それはいまだに普遍的な 常識として扱われてはいませんが、責任感のあつい考え方ではあります。そして、責任な人よりも、責任感が厚い人の方が人々から信頼されるものですね。

 しかし、人は死を免れず、多くの場合、人は自分の死期を知らない事で、因果律は破綻してしまいます。責任を果たす事を切望したとしても、運命がそれを拒絶する事があるのです。

 …… 命がけの行為の報酬はどう受け取ればよいのか。

 …… 死によって免れた罪の償いはどうなるのか。

 因果律は、死後の個性存続があって、初めて完結します。果たして証拠が存在しないとしても、おのおのの魂はそれを確信していて、自分自身の行いの中に、因果律の思想が生きている事でしょう。大切なのは因果律の思想を押し付ける事とは思えません。それぞれが自分の中に眠る、因果律への思いを振り返るだけでよいのです。

 人間は死んだらお終い……そうでしょうか?

 死んだ後の事は知らない……それでよいのでしょうか?

 因果律を証明してところで、人には自由意志があり、誰でも、気ままな行動をとる事が出来ます。 ……自らの良心が許す範囲内で……大切なのはあなたが何を信じ、何を行うかなのです。

 …… あなたは、強いられて善良に生きるのですか?

 …… 自ら進んで善良に生きるでしょうか?

 それを選ぶのは、あなた自身です。


あなたの可能性

 私たちは、自らの肉体を維持する為に様々な欲望と向き合わねばなりません。食べる事や、性欲は、生物であることの 基本的な欲求と言えます。そして、魂がいかなる理由で肉体を纏うのか……その答えを棚上げするとしても、一つ確かな事があります。肉体を得た以上、肉体の維持・管理は欠かせないということです。

 時として、人はわが身を省みずに危険に飛び込む事があります。しかし、わが身を省みない行為が、必ずしも、魂の導くものだけではありません。わが身の価値を知らぬ、愚かな行為もまた、人を危険に導くのです。

わが身の価値を知らずに、人は自らの魂を探しようがないのです。

 霊界がいかなる所であるとしても、一つ確かな事があります。物質的な制約を捨て去った果ての世界が、どれほど自由なものであろうと、己の器量を超えた自由はありません。つまり、あなたが死後にどれほどすばらしい所にたどり着こうと、あなたがその幸運を理解できないなら、不幸でしかないという事です。

 霊界とはすなわち想念の世界です。そうであれば、どのような境涯の人であれ、それぞれが思うだけの幸せな世界を自らのために生み出す事が出来ます。そこでよく考えて頂きたいのです。あなたは、幸せになりたい。より幸せになりたい。そうですね? では、幸せとは何でしょう。具体的に説明できますか。そして、具体的にイメージが出来ますか?

 痛くない、苦しくない、飢えもない……そういう生活が、あなたにとって幸せですか?

 死ねば肉体はなく、肉体はないから痛みもなく、苦しみもなく、飢えもない……それが幸せであるなら、あなたは何を求めて地上に生まれ来たのでしょうか? 

 あなたは自ら進んでこの世に生まれたわけではないとお思いなら、どうして死を恐れるのでしょう……死は、幸せの答えではないから……そうは思いませんか?

 大地が無ければ立つ事が出来ない。 本当でしょうか?

 大地が無ければ、立つ必要も無い……あなたは常識に縛られて、正しい物の見方を見失ってはいらっしゃいませんか。

 死後の世界は、今のあなたの潜在力を大きく超える事はありません。必要なのは、真理の探究よりもむしろ、自分自身を明らかにする事なのです。あなたの中に潜む、肉体を超越した魂……霊界の真実は、あなたの魂なりのものでしかありません。その他の物はヒントに過ぎないのです。

 結局……霊界にある真実とは、普遍的な真実というよりも、あなたなりの真実、あなたの理解できる真実でしかないのです。

 死後の世界の研究も、もちろん大切です。しかし、自分の可能性を引き出す事がなにより大切なのです。象徴的な事柄をあつかう心霊研究は、なるほど捉えどころがありません。だからこそ、確実に自分の足で踏みしめていく事が大切なのです。


実際に役に立たない知識に価値がありましょうか。 そんな知識に、人生を委ねられましょうか。 いいえ、大切な事は…… 知識を自分の可能性につなげていくことなのです。


目的意識の大切さ(人生の目的)

完璧

 完璧と言う言葉があります。この「璧」は、中国の祭器・装飾品のことで、完璧とは傷のない「璧 (壁ではない)」の事をいいます。しかし、祭器・装飾品はたとえ傷がなくても、実用性がありません。実用性がないものが、ただ美しい事で完璧と呼ばれるのです。美しい以外に何の価値もないのが「完全な璧」なのです。

 もう一つの語源があります。謀略に会いながら、至宝「和氏の璧」を無事に守り通した、藺相如《りんしょうじょ》の故事です。

 どちらの意が本来の語源であるにしろ、「完璧」という言葉は、目的に沿った評価に過ぎないということです。すなわち、目的なき言動に、「完璧」という評価はありえないということです。


 「人間の命」や「生命」という表現の中の「命」という文字は、「命令」などと言う使い方もいたします。これは漢字の成立した文化において、命が絶える事を、天命が尽きると表現するのと同じ考えで、ようするに、人の人生……生きる事は、天から与えられた命令に従ってのこと、という思想がその根底にあります。

 無目的な言動に完璧はなくとも、目的に沿うものは完璧がありえます。だからこそ、人々は「天命」を求めます。天意を知り、それに沿うことで人は完璧足りえるのです。

 今の自分の困苦は何ゆえのものなのか……その迷いに負けず、困苦を乗り越えて、使命を達成した時、初めて、完璧と呼ばれるのです。

 ある意味、占いや、交霊術なども、天の意を知ることが目的ともいえ、人々は様々な方法で天意を知ろうと心がけてきました。実は事象や、運命は天意から導かれる当然の帰結に過ぎないのです。そして、天意は与えられる物なのです。

急な坂道は頂上への近道

 安楽な道を選ぶ事は、必ずしも幸せな選択とはいえません。それは永遠に続く努力を必要とする道かもしれないのです。だから、天命にはそむけない。神は騙せないというのです。

吉・凶

 霊界に悪霊がいるとしても、天命に悪霊の介入する余地はありません。吉は喜び、凶を嫌うのは、天命に対する冒涜なのです。

風向きが変るから、季節に変化が生じます。 風向きが変るから、天の恵みに平等をもたらします。

 運命の風向きも同様なのです。

 追い風に乗れば思い切り行動し、向かい風ならば風向きが変るのを待てばよいのです。それを追い風の時には動かず、向かい風の時に行動しようとするから、人は失敗します。向かい風の時には、行動を慎むとしても、その時期は、自分の内容の充実に生かすことが出来ます。そう、冬の時期にしっかりと準備した者が、春に大きく成長できるのです。

 善良に生きるから吉であり、悪しき人だから凶であるというのは迷信というより、過信というべきです。天命は善悪にかかわらず、すべての人に平等であり、ただ、その流れを上手に読んだ者がより早く、より遠くに向かう事が出来るのです。

 地上には何一つ無駄な物はありません。あるのは使い方を知らない物だけなのです。……とはいえ、善良な者も報われないわけではありません。困った時により多くの助けを得るのは、悪人よりも善人なのですから。善良であるという事は、将来の自分を助けるという事なのです。売名行為や罪悪感・劣等感に強いられて善行を施すのは、はなはだもったいない話と言わざるを得ません。

人生の目的

 人間は神の被造物と考えられています。そのような考え方は、進化論を信じる者たちからは笑われましょうが、それは神の被造物、という言葉を直接神が手を下して人間を作り出したと考えるから滑稽に思えるのであって、神が作り上げたのは肉体ではなく霊であると考えれば、決しておかしくはないはずです。

 さて、この被造物であるという事に、多くのヒントが隠れています。

 自動車を例にとって考えてみましょう。自動車は乗り物として作られ、快適に早く目的地に着くように作られています。

 では、左にハンドルを回したとき、右に回るような車は良い車でしょうか?

 座席が一つもない車は?

 アクセルを踏んでも前に進まない車は?

 人間も被造物であるのなら、造物主の意向に沿った存在である事が良い人間といえます。……そして、なぜ人間が神の被造物と考えるのでしょうか?

 神が私たちの目の前に姿を見せない以上、確たる証拠がないのも事実ですが、多くの人々が宗教に目覚め、神の言葉を求める事は、正に車に座席があるのと同様です。私達、人間は皆、神の意思、神の命令を待っているのです。ある意味日本の天皇制度や、多くの宗教団体の教祖が生き神様になってしまうのも、この神を求める人間の心理が反映されていると考えられます。

 もちろん、神を求めぬ人もいます。神よりもむしろ快楽を求める人もいます。何よりも人間は神を求めながら、神はその意思を人に示そうとしません。神が人間に姿を示していれば、神を求めるものたちによる、狂信的な犯罪や、集団自決などの悲劇を免れる事が出来るし、宗教を原因とする戦争も避けられた事でしょう。

なぜか?

 つまりは被造物としての人間に求められているもの、それはすなわち知性であり、霊性であって、現在の人間では、神の求めに応じられないという事なのです。ですから、知性と霊性の向上。それこそが今の私たちの目指すものという事になります。

:この場合の霊性とは、肉体的な働きの反対、「精神的な向上を求める働き」を意味するとお考え下さい。

霊性向上の修行の場

 心霊主義において、人生は霊性向上の修行の場と考えます。

 人生において、人間は「自分にはもう学ぶ事がない」と断言し得る知恵の果てを目指しますが、知識は得れば得るほど、さらに大きな荒野が眼に止り、自分は世界の何も知らない事を知ることになります。

 いわば私たちが知ることが出来るのは、私たちの知性の制約の範囲内にすぎず、知性の制約を打ち破る為には、より広範囲な学習が必要なのです。

 いにしえの智慧は語りかけます。

「自分を知らずに他を知ることは出来ない」

 つまるところ、霊性向上というのは、自分をより知ることによって、すべてを知るための手掛かりとするということでもあります。

 知ったかぶることで自分を狭い枠に留めてはいけません。たとえあなたが否定しても、私たちの前には「広大な未知」が広がっているのです。


2006-04-12

ニセ霊感

2006/04/13

 果たしてそれはインスピレーションか。

 霊感とインスピレーション(”inspiration”)とは、本来、全く同義なのです。まず、その事を踏まえて以下をお読みください。

 ある人の心中に閃くメッセージが、外部の(霊的な)影響であるのか、はたまた、自己の内面、極端に言えば、ただの妄想や狂気の結果に過ぎないのか、その判断はとても難しいのですが、正しいインスピレーションであるのか、否かを判断するのは実は容易です。

 創造的な閃きが含まれているものが真のインスピレーションであり、否定的な意味合いしかないのは真のインスピレーションではありません。

・・・・・

 数年前、愛と平和を説くチャネラー(?)と出会った事がありますが、私は彼に何ら、霊的なきらめきを見出す事がありませんでした。「戦争が悪い事」や「人々が愛し合い、信じ合い、いたわりあう事の大切さ」なんて、わざわざ、霊的なメッセージとして与えられるまでもない事です。ちょっと気が利いた人ならば、誰だってそんなフレーズは口にするのに、それでもなおかつ、世の中には憎しみや不信が渦巻いているのです。死者の霊が、そう言っているからといって、それが何だというのでしょう。『思わぬ方がむしろ変、いや、わざわざ言う事がむしろ変』それが良識と言うものでしょう。

 わかっているのに克服出来ない事を、一体どうしたら克服できるのか、そのための智慧が人類には必要なのです。「努力と工夫が必要!」……そんな事も判りきった事です。わかりきった事を、神憑って話す。くだらない事だと思います。信じあい、労り合い、仲良くする事……そんな事は人間として当たり前の事であり、その当たり前の事を霊信やら、神憑りでなければ発言できない、または理解できないのだとしたら、その人は何と低俗な人なのでしょうか?

 ええ、人として当たり前の事が、霊憑り、神憑りでようやく理解できる人が相手であっても、信じあい、労り合い、仲良くする必要はあるでしょう。いえ、そういう人こそ周囲からの温かい保護が必要と言えましょう。 しかし、温かい保護はインターネット経由で出来るような類ではありません。この事は決して極端な話ではありません。

 特に、派手な神憑りをする人……には、自我肥大の傾向があります。人の注目を浴びたくて卒倒して見せるような部分があるのです。そして、周囲の人々から冷遇されていると感じている人は、普通に話しても注目されないが為に、「霊がこう言った……」と、いう場合が多いのです。

 これが実に滑稽である事に当人は気がつきません。まともな人なら、注目するのはタイトル/ラベルではなく内容なのです。どんなに素晴らしいタイトルだって、内容が陳腐であればたちまちうんざりしてしまいます。陳腐な会話しか出来ないからこそ、人々が相手にしないのに、「霊が……」、「神が……」と騒いで、しかも内容が変わらなければ、相手にしないどころか、その正気を疑うようになるのが当然でしょう。

 一度や二度はタイトルに魅せられて騙される人がいても、三度も四度も騙されるのは同じレベルの人だけです。結局、ますます人々からまともに相手にされなくなった時、このニセ霊媒には二つの選択肢があります。

 神憑るのを止めるか、更に極端なパフォーマンスを起こすか……一方は正気への道、もう一方は狂気への道なのです。ですが、私の心霊相談上の経験から言うと、霊感を欲しがる人は、何らかの切っ掛けを得た時、必ず狂気への最短コースを選択して、人の話を聞きません。こういう狂気は本当に治りにくいものです。さらに狂気に等しい霊憑り……つまり、低級霊との同化が起こった場合は、まず除霊は不可能です。

 なぜなら、患者にして見れば、正気を失った状態の方が幸福だからです。もう現実が耐えられないからこそ狂気に走っているのです。こういう人に努力を求めたらますます、深い狂気に逃げ込もうとするでしょう。


 くどいようですが……チャネリングの内容について。

 問題は、どうしたら憎しみあう人々が和解できるのか――という事のはず。愛と平和を説く。それは一見崇高な様ですが、具体的な方策が無いという一点を見れば、ただ愛と平和を説くだけの人が、ただ社会に対して不満を提示しているだけの批判家に過ぎない事が判るわけです。

 むろん、戦いを鼓舞する人々よりはよほど善良かもしれませんが、だから何だ、というのでしょうか。地上には六十数億もの人間が暮らしているのです。人にはそれぞれ様々な価値観があり、様々な思想があります。世界は六十数億の人々の仲介者を切実に求めていますが、人々がやっている事は自分の思想を押し付けあう事だけの事です。

 ただの批判家も、それに迎合する人々もつまらないと私は思います。愛と平和を説くのも同様。その人の独善的な正義を周囲に押し付けているだけで、人の話なんてまるで聞きはしません。世界が必要としているのは、愛と平和の伝道者ではなく、愛と平和の実践者なのです。

 それ以後、数人の「霊界から使命を与えられた救世主」からのメールを頂きましたが滑稽な事に、皆一様にありきたりな事を繰り返すばかりで、人の話など聞いてはいません。まるで、社会不適応者が自分を変えるのではなく、社会を変えようとしているようにしか見えないのです。勉強が嫌いな子供が、学校の無い社会を作ろうとするような物――せめて人の話を聞く人ならば、話をする意味もあるでしょうが、夢想的な話を一方的に聞かされるのは時間の無駄としか感じられません。

 そもそも人間は未熟な存在なのですから、その人間が集まって出来る社会もまた未熟な存在でしかありません。ですから、社会に問題があるのは当たり前のことで、それに気がつかない方がおかしなことです。そうであるにも拘らず、「自分は特別な存在で、霊的なインスピレーションによって社会の真の問題に気がついた……」などとは、禅宗でいう魔境、全く狂気の第一歩であって、「社会の抱える真の問題に、自らの思考力で気がつかない人」が、一体どうして一人前の大人として社会に貢献できるというのでしょうか?

 その程度の事を、霊的なインスピレーションでようやく気がついた人がいるとしたら、それは霊格者ではなく、ただの愚か者に過ぎません。嫌な事を自分から嫌だといえない人が、「霊(神/仏等)がこう言っている」と言い訳するのに等しいことです。こんな逃避的な心の人が社会に有益なる事、いや、誠実な友人として振舞う事が出来るでしょうか? 私はこういう手合いを全く信じてはいません。関わる事に価値も見出しません。


 現実逃避的な狂気――当事者は自らの境涯を天国であると称するが、周囲の人々から見て狂気の沙汰、または地獄の様相である状態を「魔境にある」といいます。まあ、極端な禅宗の方々は、心霊家一般を「魔境」と一括りにしますが、まともな大人が真剣に研究している物を部外者が一括りに論破出来ると思うなら、その僧侶はさぞかし高い悟りに達しているのでしょう。……という低レベルな話題は、脇に置くとして、上記、「神憑り」の問題は、実に禅宗の中で多く見られた事に注目すべきです。

 心霊を学ぶ上、特に自己の霊感と向きあわねばならぬ人((先天的霊能者)は、形式的・形而上的な呪術よりも、形而下の問題に関心を持つべきでしょう。密教よりも禅にこそ、自己の才能を真に買いかさせるヒントがあると私は思います。

 さて、確か、白隠禅師の逸話なのですが、ある若い僧が、「悟りを得て釈迦を超えた」と思いこみ、用便《トイレ》を済ませた後に、経本を破いて尻を拭くようになりました。先輩の僧侶が止めるように諌めてもいうことを聞きません。とうとう白隠禅師が乗り出したのですが、この若い僧侶の話を一通り聞いた後、「そんなに偉い如来様のお尻を、古紙(つまり経本)で拭く等というのはもったいない。これからは新しい紙で拭きなさい」といって席を立ったそうです。

 大抵の皆様には、十分に笑える逸話でしょうが、念のために補足します。

 この若い僧侶が、本当に悟りを得て釈迦を超えたのであれば、わざわざ経本で尻を拭くというパフォーマンスは必要なかったのです。それよりもむしろ、全く新しい事を始めるべきでしょう。しかし、「偉い如来様の尻を古紙で拭く」という大間違いをしでかしたわけです。これは結局、良いものを踏みつけには出来ても、より良いものを作れぬ愚かさが、こうさせているというわけです。

 このようなバカバカしさが、現代の自称メシアや、大如来様の方々にも散見するわけです。釈迦やキリストを超えたといいながら、そこら辺の霊媒やら、つまらぬ心霊サイトに集まる凡夫の説得に拘るという視野の狭さを持っている。本当に悟りやら神託やらを得たのであれば、堂々と世界を相手に自分の教えを問うて見せるべきなのです。自分の正気を世界に問うて見れば良いのです。

 でも、笑って許してくれそうなところを選んで、自分の狂気を小出しにするのです。わずか百年足らずにつまり、どこか正気の部分があって、いつまでも狂気の中に逃避し続ける事が出来るようにコントロールしているのです。それは、一生懸命、現実と向き合い、常に理性的に、そして前向きに努力して生きようとしている人から見れば、我慢し難いほどに卑怯な態度です。

 また、私も過去、そうでしたが、突然、霊感が発言しても普通に生きようと苦悩してきた者、そして、現実的な心霊思想を普及しようとしてきた者から見れば、現実逃避の理由に「心霊」を利用し、世の心霊嫌いを助長するような人は、とても不愉快です。現実と向き合えない弱者だからこそ、確かに社会の理解と保護が必要なのだけど、特定の個人が背負うべき類の親切ではないのです。


 念のため……

 上記、自称・霊媒、または、自称・チャネラーの方々と、私がどう違うのか、私自身がどう思っているかについて、関心をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

 「私は一人でも心霊研究を続けられます。」 

 実際に過去、十八年間は、自我肥大と向き合い、ひたすら聞き役になろうと努力して来たのですから。もちろん、せっかく心霊研究のホームページを開いているのですから、読者の反応は気になります。ホームページ開設当初は様々な試行錯誤も試みました。でも、人気第一で主義主張を偽ったりする事は今後も無いつもりでいます。

 つまり、「迷惑だと言われても人に付きまとう必要は感じないし、それどころか、わざわざ人を追いかけて教えを説きたいなんて思いません。」


2006-04-12

沈黙の意味

2006/04/13

盧氏との間で、「霊媒の義務」について通信中、突然割り込んできた通信が、このページの元になっています。


 交霊能力を得る為に修行を志す者は多いのですが、慎みを知らない霊媒を、重要視する霊はおりません。顕幽交通に誠実であろうとする上で霊媒の慎みは非常に重要です。

 私達が、質問者に対して沈黙を守ろうとした時に、霊媒が代わりに意見を口にする事は顕幽両者の信頼を損ねますし、または、霊媒自身が興味惹かれる話題に対して、支配霊の意を無視して自らの私見を述べる事は、霊界の意見を求める質問者を騙す事にも通じます。

 私達は、肉体に閉じ込められた方々の質問に総てお答えするわけには参りません。きちんとした質問者であるなら、一時に総てを質問することなく、まず、お互いの信頼関係を築いた上で、重大な質問をしていく事でしょう。私達にとっても、質問者の真意を適切に捉える上において、重要な質問を受ける前に、幾度か簡単な質問をしたいと思うのです。それは質問者にとっても有益なはずです。

 私達が、様々な思慮の上に、わざと質問をはぐらかし、又は沈黙を守る事も、質問者が自身の思慮で問題の真意にたどり着く為には必要なことなのです。大切なのは質問者に回答を示す事ではなく、質問者が回答を理解する事なのですから、沈黙こそが最善の回答である事も往々にして起こりうる事です。

 それをもしも霊媒が自己の私見を持って、顕幽交通の沈黙を破るとしたら、質問者と回答する霊達の努力は水泡に帰するでしょう。こういう失敗は数多いのです。霊媒能力者の大半は、沈黙の大切さに気がつかぬ故に、人々の失笑を買っているのですから。

 悩める者は、自らの苦しみから逃れる為に懸命に知識を求めているものです。それゆえに、往々に一点については専門家顔負けの知識を有している事も多いのです。このような人への回答に必ずしも専門用語が必要なわけではありません。大抵の場合、質問者が見落としている問題解決の鍵を指摘するだけで事が足りるのです。

 果たして高度に専門的な回答か、果たして含蓄に富んだ回答か、その両極端の回答こそが質問者を満足させる事ができるものです。しかし、霊媒の私見は含蓄もなく、高度な知識も無い中途半端なものになりがちです。これが質問者の失笑を買うのです。

 霊媒に大切なのは、いかなる時にも言語明朗に回答する事ではありません。相談者に適切な回答をする事なのです。ですから必要な時には沈黙を守れなければなりません。そして・・・霊感を求める人、更に強い霊感を求める人はとても多いのですが、そのような人々の中に、沈黙というメッセージを読み取れる人は一人も居ません。

 沈黙というメッセージを正しく読める人ならば、自分が充分な霊能力に恵まれている事に気がつく筈だからです。

・・・・・・・・・

 世の霊媒の欠点として目に付くのは、往々に余計な事まで言葉にしたがる事です。このような霊媒を通信手段として用いる霊は、自分の言葉だけでなく、霊媒の発言まで責任を負う事になりかねません。ですから分別のある霊は、まず、霊媒の資質として慎み深さに注目するのです。

 その意味で、霊媒になりたがる、霊と言葉を交わしたがる人々というのは、その動機から言って、霊媒には不向きなのです。そのような人々は、余計な一言によって霊界の信頼を失墜させかねないのですから。


2006-04-12

 

お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1021㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
4月 2006
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
5月 2006
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031EC
老研イベントリスト
サブ・サイト