あなたの魂
時として、人はわが身を省みずに危険に飛び込む事があります。
「死んだらお終い」……本当でしょうか?
多くの人にとって、命が何よりも大切かもしれない。しかし、命よりも大切な「何か」を持っている人がいるのです。
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心理学は科学と認知されていますが、心の存在は科学的に測定できません。しかし、誰もが心を持っている事を自覚しているからこそ、心の存在を否定する人はいません。
では魂の存在は、どうでしょうか?
あなたの中に潜む、肉体を超越した魂
あなたはちゃんと自分の魂を自覚しているでしょうか?
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死後の個性存続や再生の真偽。
ただ一つ確かな事は、魂はあなたの中にもあるということです。そして自己の魂を見出さない者が、どうして他の魂を見出せるというのでしょうか?
答えは私のページではなく、手の届かない霊界にあるのでもありません。
あなたの求める答えは、あなたの魂にあるのです。
死後の個性存続
もしも、自身の魂に気がつき、死後の個性存続を証明できないまでも、確信が得られるようになったとしたら、その先に一体いかなる真実が見えるのでしょうか。
人はなぜ、生を受け、そして死んでいくのか。わずか百年前後の人生の枠内では思いもつかない可能性が見えてきます。一度の人生で終わりではなく、幾度も生まれ変わって目的を果たしていく可能性です。そして永遠の時の流れの中で、生がいかなる役割を果たすのか。
霊たちは、地上の人々に告げます。
『あなた方は魂の牢獄の中にある』……と。
死後の個性存続を信じたところで、死別の悲しみが和らぐわけではありませんし、直面する死の恐怖が消え去るわけでもありません。死によって分けられた二人は、温もりを交換する事が出来ませんし、死によって分けられた親子は、愛しい我が子を抱きあやす事が出来ません。
死は現実であり、私もまた、慰めの言葉もありません。 しかし、これだけは言えるのです。
『死は終わりではなく、新たな可能性なのだ』……と。
愛しい人の死別の悲しみに出会えば、少なくとも、命の大切さだけは、痛切に感じ取ったはずです。時として、あたりまえのように命を謳歌する私たちが、実はわずかなきっかけでその命を失いかねない事は、生き方の一つの指針となります。 私たちは、その現実を踏まえて前に進まなければなりません。
その他に、いかなる可能性があるのか、それはあなた方の魂がちゃんと知っている事なのです。
因果律
自分が播いた種子は、自ら刈り取るべきだという考えは、宗教・宗派を超えて人々の中に息づいています。それはいまだに普遍的な 常識として扱われてはいませんが、責任感のあつい考え方ではあります。そして、責任な人よりも、責任感が厚い人の方が人々から信頼されるものですね。
しかし、人は死を免れず、多くの場合、人は自分の死期を知らない事で、因果律は破綻してしまいます。責任を果たす事を切望したとしても、運命がそれを拒絶する事があるのです。
…… 命がけの行為の報酬はどう受け取ればよいのか。
…… 死によって免れた罪の償いはどうなるのか。
因果律は、死後の個性存続があって、初めて完結します。果たして証拠が存在しないとしても、おのおのの魂はそれを確信していて、自分自身の行いの中に、因果律の思想が生きている事でしょう。大切なのは因果律の思想を押し付ける事とは思えません。それぞれが自分の中に眠る、因果律への思いを振り返るだけでよいのです。
人間は死んだらお終い……そうでしょうか?
死んだ後の事は知らない……それでよいのでしょうか?
因果律を証明してところで、人には自由意志があり、誰でも、気ままな行動をとる事が出来ます。 ……自らの良心が許す範囲内で……大切なのはあなたが何を信じ、何を行うかなのです。
…… あなたは、強いられて善良に生きるのですか?
…… 自ら進んで善良に生きるでしょうか?
それを選ぶのは、あなた自身です。
あなたの可能性
私たちは、自らの肉体を維持する為に様々な欲望と向き合わねばなりません。食べる事や、性欲は、生物であることの 基本的な欲求と言えます。そして、魂がいかなる理由で肉体を纏うのか……その答えを棚上げするとしても、一つ確かな事があります。肉体を得た以上、肉体の維持・管理は欠かせないということです。
時として、人はわが身を省みずに危険に飛び込む事があります。しかし、わが身を省みない行為が、必ずしも、魂の導くものだけではありません。わが身の価値を知らぬ、愚かな行為もまた、人を危険に導くのです。
わが身の価値を知らずに、人は自らの魂を探しようがないのです。
霊界がいかなる所であるとしても、一つ確かな事があります。物質的な制約を捨て去った果ての世界が、どれほど自由なものであろうと、己の器量を超えた自由はありません。つまり、あなたが死後にどれほどすばらしい所にたどり着こうと、あなたがその幸運を理解できないなら、不幸でしかないという事です。
霊界とはすなわち想念の世界です。そうであれば、どのような境涯の人であれ、それぞれが思うだけの幸せな世界を自らのために生み出す事が出来ます。そこでよく考えて頂きたいのです。あなたは、幸せになりたい。より幸せになりたい。そうですね? では、幸せとは何でしょう。具体的に説明できますか。そして、具体的にイメージが出来ますか?
痛くない、苦しくない、飢えもない……そういう生活が、あなたにとって幸せですか?
死ねば肉体はなく、肉体はないから痛みもなく、苦しみもなく、飢えもない……それが幸せであるなら、あなたは何を求めて地上に生まれ来たのでしょうか?
あなたは自ら進んでこの世に生まれたわけではないとお思いなら、どうして死を恐れるのでしょう……死は、幸せの答えではないから……そうは思いませんか?
大地が無ければ立つ事が出来ない。 本当でしょうか?
大地が無ければ、立つ必要も無い……あなたは常識に縛られて、正しい物の見方を見失ってはいらっしゃいませんか。
死後の世界は、今のあなたの潜在力を大きく超える事はありません。必要なのは、真理の探究よりもむしろ、自分自身を明らかにする事なのです。あなたの中に潜む、肉体を超越した魂……霊界の真実は、あなたの魂なりのものでしかありません。その他の物はヒントに過ぎないのです。
結局……霊界にある真実とは、普遍的な真実というよりも、あなたなりの真実、あなたの理解できる真実でしかないのです。
死後の世界の研究も、もちろん大切です。しかし、自分の可能性を引き出す事がなにより大切なのです。象徴的な事柄をあつかう心霊研究は、なるほど捉えどころがありません。だからこそ、確実に自分の足で踏みしめていく事が大切なのです。
実際に役に立たない知識に価値がありましょうか。 そんな知識に、人生を委ねられましょうか。 いいえ、大切な事は…… 知識を自分の可能性につなげていくことなのです。
目的意識の大切さ(人生の目的)
完璧
完璧と言う言葉があります。この「璧」は、中国の祭器・装飾品のことで、完璧とは傷のない「璧 (壁ではない)」の事をいいます。しかし、祭器・装飾品はたとえ傷がなくても、実用性がありません。実用性がないものが、ただ美しい事で完璧と呼ばれるのです。美しい以外に何の価値もないのが「完全な璧」なのです。
もう一つの語源があります。謀略に会いながら、至宝「和氏の璧」を無事に守り通した、藺相如《りんしょうじょ》の故事です。
どちらの意が本来の語源であるにしろ、「完璧」という言葉は、目的に沿った評価に過ぎないということです。すなわち、目的なき言動に、「完璧」という評価はありえないということです。
命
「人間の命」や「生命」という表現の中の「命」という文字は、「命令」などと言う使い方もいたします。これは漢字の成立した文化において、命が絶える事を、天命が尽きると表現するのと同じ考えで、ようするに、人の人生……生きる事は、天から与えられた命令に従ってのこと、という思想がその根底にあります。
無目的な言動に完璧はなくとも、目的に沿うものは完璧がありえます。だからこそ、人々は「天命」を求めます。天意を知り、それに沿うことで人は完璧足りえるのです。
今の自分の困苦は何ゆえのものなのか……その迷いに負けず、困苦を乗り越えて、使命を達成した時、初めて、完璧と呼ばれるのです。
ある意味、占いや、交霊術なども、天の意を知ることが目的ともいえ、人々は様々な方法で天意を知ろうと心がけてきました。実は事象や、運命は天意から導かれる当然の帰結に過ぎないのです。そして、天意は与えられる物なのです。
急な坂道は頂上への近道
安楽な道を選ぶ事は、必ずしも幸せな選択とはいえません。それは永遠に続く努力を必要とする道かもしれないのです。だから、天命にはそむけない。神は騙せないというのです。
吉・凶
霊界に悪霊がいるとしても、天命に悪霊の介入する余地はありません。吉は喜び、凶を嫌うのは、天命に対する冒涜なのです。
風向きが変るから、季節に変化が生じます。 風向きが変るから、天の恵みに平等をもたらします。
運命の風向きも同様なのです。
追い風に乗れば思い切り行動し、向かい風ならば風向きが変るのを待てばよいのです。それを追い風の時には動かず、向かい風の時に行動しようとするから、人は失敗します。向かい風の時には、行動を慎むとしても、その時期は、自分の内容の充実に生かすことが出来ます。そう、冬の時期にしっかりと準備した者が、春に大きく成長できるのです。
善良に生きるから吉であり、悪しき人だから凶であるというのは迷信というより、過信というべきです。天命は善悪にかかわらず、すべての人に平等であり、ただ、その流れを上手に読んだ者がより早く、より遠くに向かう事が出来るのです。
地上には何一つ無駄な物はありません。あるのは使い方を知らない物だけなのです。……とはいえ、善良な者も報われないわけではありません。困った時により多くの助けを得るのは、悪人よりも善人なのですから。善良であるという事は、将来の自分を助けるという事なのです。売名行為や罪悪感・劣等感に強いられて善行を施すのは、はなはだもったいない話と言わざるを得ません。
人生の目的
人間は神の被造物と考えられています。そのような考え方は、進化論を信じる者たちからは笑われましょうが、それは神の被造物、という言葉を直接神が手を下して人間を作り出したと考えるから滑稽に思えるのであって、神が作り上げたのは肉体ではなく霊であると考えれば、決しておかしくはないはずです。
さて、この被造物であるという事に、多くのヒントが隠れています。
自動車を例にとって考えてみましょう。自動車は乗り物として作られ、快適に早く目的地に着くように作られています。
では、左にハンドルを回したとき、右に回るような車は良い車でしょうか?
座席が一つもない車は?
アクセルを踏んでも前に進まない車は?
人間も被造物であるのなら、造物主の意向に沿った存在である事が良い人間といえます。……そして、なぜ人間が神の被造物と考えるのでしょうか?
神が私たちの目の前に姿を見せない以上、確たる証拠がないのも事実ですが、多くの人々が宗教に目覚め、神の言葉を求める事は、正に車に座席があるのと同様です。私達、人間は皆、神の意思、神の命令を待っているのです。ある意味日本の天皇制度や、多くの宗教団体の教祖が生き神様になってしまうのも、この神を求める人間の心理が反映されていると考えられます。
もちろん、神を求めぬ人もいます。神よりもむしろ快楽を求める人もいます。何よりも人間は神を求めながら、神はその意思を人に示そうとしません。神が人間に姿を示していれば、神を求めるものたちによる、狂信的な犯罪や、集団自決などの悲劇を免れる事が出来るし、宗教を原因とする戦争も避けられた事でしょう。
なぜか?
つまりは被造物としての人間に求められているもの、それはすなわち知性であり、霊性であって、現在の人間では、神の求めに応じられないという事なのです。ですから、知性と霊性の向上。それこそが今の私たちの目指すものという事になります。
注:この場合の霊性とは、肉体的な働きの反対、「精神的な向上を求める働き」を意味するとお考え下さい。
霊性向上の修行の場
心霊主義において、人生は霊性向上の修行の場と考えます。
人生において、人間は「自分にはもう学ぶ事がない」と断言し得る知恵の果てを目指しますが、知識は得れば得るほど、さらに大きな荒野が眼に止り、自分は世界の何も知らない事を知ることになります。
いわば私たちが知ることが出来るのは、私たちの知性の制約の範囲内にすぎず、知性の制約を打ち破る為には、より広範囲な学習が必要なのです。
いにしえの智慧は語りかけます。
「自分を知らずに他を知ることは出来ない」
つまるところ、霊性向上というのは、自分をより知ることによって、すべてを知るための手掛かりとするということでもあります。
知ったかぶることで自分を狭い枠に留めてはいけません。たとえあなたが否定しても、私たちの前には「広大な未知」が広がっているのです。
2006-04-12