――忘我――
2006/04/12我を忘れて物事に打ち込む。幸せなことである。どんな困苦が待ちかまえていようが、我を忘れて努めている限り、その苦しみが心身を痛めることはない。傷つくべき「我」をもたぬからである。
が、痛み、苦しみ、悲しむ人は、『なぜ私(我)が……、どうして私(我)が……』と、「我」ばかりを問題にする。傷つくのは「我」であり、その「我」を置き去れぬことが苦しみなのに。
『「我」を置き去って、自分はどこにある? 我を充たすことが満足ではないか、満足が合ってこそ幸せではないか!!』……そういう人が何を目指すのか?――悦楽に我を忘れて過ごすことではないか。
人の心に「我」が持ち上がるのは、泣き言、不平、不満を心に貯めた時だけである。「我」とは即ち、「思うようにならぬ悪因縁」のようなものであり、「疫病神の手先」とも見なせよう。――自らの「我」がいかに悪しき存在であり、己を間違いに導く元凶であるかを認めがたいなら、周囲を見回してみればよい。我の強い人がいかに迷惑を及ぼし、また、独善的な幸福感に縛られていることか。……彼・彼女らがいう「幸せ」とは、果たしてあなたがうらやむべきものであろうか?
憑依も誘惑も「我」が有ればこそのものだ。なるほど「我」を捨て去るのは難しかろう。だが、己を不幸にし、誤った道に誘い込もうとする意識である、「我」を大切にすることの愚かさを知れば、幸せへの道が開けてくるのである。
2006-04-12