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霊媒能力の使い方

2006/04/12

口伝 1


 不特定多数に公開して、一体何が口伝なのか、自分でも笑ってしまいかねませんが、少なくともこの意味・価値がわかる人にとっては貴重な言葉となるでしょう。必要以上に詳しく書けないのですが、霊媒能力をお持ちの方にはぜひ、心の隅に止めておいて貰いたい事が、二点あります。


1, 霊媒能力の使い方

 人の心は指で、指し示す事が出来ません。となれば、人が物事に対する心構えを学ぶ事はなんと難しい事でしょう。皆それぞれに、これが愛だ、慈悲だ、無私だ、無欲だなどといってみても、それはしょせん、肉体という牢獄に閉じ込められた魂の独白《ひとりごと》にすぎません。

 ところでもしも、人の心の動きやその精粗を見抜ける人がいたらどうなるでしょう。このような人は、口先だけの知者と本物の智者をたちどころに見抜いて無駄な勉強をしませんし、教えを会得する事に無駄に悩んだりしないでしょう。

 世の中には、こういう形で霊媒能力を用い、学業を大成し、偉業を成した方が大勢いらっしゃいます。私はやむを得ず心霊研究の道を選びましたが、真理の探究の隙間道《すきまみち》をたどっている感を免れる事が出来ません。霊媒という生き方に必然はある、でも王道ではないのです。

 私はこの事に気がつくまでに20年近い時間を費やしてしまいました。もしも、もっと早く気がついたら、別な道を……強引に選んだかもしれません。とても難しかったでしょうが。

 人は死ねば否応もなく死霊と付き合わなければならないのに、生きている今、死霊と付き合う事はせっかくの生、人生をないがしろにする行為といえます。霊媒能力の持ち主が、往々に病弱であるのは、こういう問題にも関わりがあるのです。

 霊媒能力をどう生かすか、というのは、人生をどう生きるのかという問題に付属することなのです。霊媒能力に人生を選ばせてはいけません。人生の中、生きることの中に霊媒能力を役立たせるのです

2, ビギナーズ・ラック

 バクチの初心者は幸運に恵まれ、欲をかいてのめり込み、その挙句、大火傷をする……ビギナーズ・ラックという言葉があります。心霊にも似たところがあります。

 最初の頃はささやかな善行で、実に大きな見返りが得られたりします。それはちょうど小さな子供がお使いすると、お駄賃をもらえるようなものです。

 ところがある程度霊的修行が進むと、なんの見返りも得られなくなります。あなたはもう大きいのだから親の手伝いをするのはむしろ当たり前だ……という訳です。

 さらに段階が進むと、この「当たり前」の部分がどんどん大きく膨らんでいきます。つまり……

 『知る事には責任が伴なう』 のです。

 摂理を知れば善行は人のためではなく、結局自分のためだとわかるはずです。あるレベル以上に進むためには、自分の内面を磨くだけでなく、人々の内面を磨く手伝いをしなければどうにもならなくなります。そう、一人ができる事業は、しょせん限度があるからです。<

 笑顔で迎えられたのは、挨拶だからです。挨拶の笑顔だけで甘えた考えをもつと、悲惨な事になります。どうか覚悟をしっかり持って前にお進みください。あなたの指導霊たちはあなた方を知れば知るほど厳しくなりますが、決して鬼でも悪魔でも有りません。

 あなたが努力した分だけ、確実に満足感や達成感が得られるように要所要所で配慮してくれています。ただ、あなたをして指導霊たちを裏切らしめるのが、あなた自身の甘えた考えなのです。

 『こんな厳しいのは、(神仏守護霊が)私を憎んでいるからだ』そう思ったが最後、あなたは真実の道から堕落への道と進む事になるのです。


2006-04-12

霊媒の資質

2006/04/12

 霊媒の資質について重要な事があります。聞けば当たり前すぎて、ばかばかしくなる事ですが、でも、身近に霊媒能力の持ち主がいる人にとって、この資質を満たしていない霊媒があまりに多い事に驚かれるでしょう。そして霊媒の知り合いがいない人は、あまりの単純さに呆然となさるかもしれません。

その資質とは、「人の話を聞く」事なのです。

 実はこれがとても難しいのです。特に霊媒能力の持ち主にとって、これがどれほど高いハードルであるか、想像も出来ない事かもしれません。

 「霊媒は、口を利いてはいけない」というのではありません。話が無駄に長いのは迷惑ですが、霊媒ならではの体験談や目撃談を心待ちにしている人も多い物です。ですから、話をするのは大いに結構です。問題は、話すばかりで一向に人の話を聞かない霊媒です。

 人の話を聞くためには、集中力や寛容力、理解力をそれなりに求められるものです。生きている人相手であれ、死者の魂であれ、共通の資質なのです。ですから、人相手に話を聞かないのなら、果たして霊を相手にちゃんと話しているのか、疑問に持たれる事でしょう。実際、「人の話を聞けない霊媒」は、ただ思いつきだけで話し続けるもので、そういう霊媒ほど、人を誤解しがちです。

 しかし、人を誤解する霊媒に、いかなる霊力を期待できるというのでしょうか?

 あなたが誰かに相談を頼む時、あなたを誤解するような霊媒と、あなたを暖かく理解してくれる非霊能者と、一体どちらが頼りに出来ると思いますか?

 霊媒の葛藤

 しかし、私も霊媒ですし、未熟さを徐々に乗り越えてきた身ですから、理解できる事もあります。霊媒が人の話を聞くのは容易なことではありません。

 子供の内は、素晴らしい空想力を備えていても、大人になる過程で現実的になる事を迫られます。そうでなければ他人と価値観が共有できないからです。そして、空想と共に不可知なものを無視する分別(?)を身に付けて人は大人になっていくのです。しかし、そのような分別のあり方は霊媒のあり方と相反するものです。

 霊媒は、他人には説明し難いものを見聞きし、感じ取る力を持っています。でもそれは同時に、人とは知識や価値感を共有できない孤独へと霊媒を追い込んで行きます。もちろん、霊界側は手厚く霊媒を保護しますが、霊媒の社会性が失われかねない危険性を拭い去る事は出来ません。

 振り返れば東洋思想……特に老荘・仏教思想の素養が、多少なりともあった事が私にとって救いだった事でしょうが、私も、霊感発現後に得た世界観、価値観と、いままでの自分との葛藤に苦しんだ事を覚えています。この葛藤から逃れる事は容易ではありません。必然的に霊感を得た人は、自分自身を信じる以前に、誰かに自分を信じてもらいたい欲求にとりつかれます。

 理解者を得られない霊媒は、死ぬほど孤独に苦しみます。そういう実例を私はたくさん見てきました。でも、その状態を自力で脱しない限り、人としても霊媒としても中途半端な存在となってしまいます。

 理解してもらいたいがために、よけいな事を言い、余計な事を言うがために人から嫌われて自滅に向かう霊媒も数多くいます。その原因は明らかです。霊媒であろうと無かろうと、不安や不信は高級霊との絆を断ち切ってしまうからです。

 寛容であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、寛容であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく寛容さを身に付けるべきです。と同時に、奉仕の気持ち、それも無償の奉仕の気持ちをお持ちになるべきです。

 (私は有料の心霊相談には、それなりの価値があると思っていますが)

 人は皆、懸命に生きていればこそ、知らず知らずに敵を作り、罪を作るものです。そんな皆様を許し、導き、幸せに成れる用に努力する霊たちの心は、寛容さと無償の奉仕の念でしめられています。ですから、皆様の心も寛容さと無償の奉仕の念で満たされるなら、寛容で奉仕の念の篤い霊たちとの間により強い絆を結ぶ事が出来るでしょう。

 反対に、狭量で横着な人々がいかなる霊と絆を結ぶ事になるのか……出来る事ならば、体験せずに前進なされる事をお勧めします。

 謙虚であるべきです

 特に霊媒能力を持っている人は、謙虚であるべきです。いえ、心霊に関心をお持ちの方はすべからく謙虚であるべきです。なぜなら、邪悪な霊、または無責任なくせにおせっかいな霊たちから、皆様を守っているのは、力強くても謙虚な霊たちだからです。力は諸刃の剣。人に振るえば我が身を滅ぼす事もあります。

 だからこそ、無用な力の行使を避けるためにも、人は謙虚であるべきです。

 分別をお持ちになるべきです

 謙虚である事と一部かぶさるところがあります。

 理想に燃えた努力家は、親切なあまり人の迷惑を顧みない事がある……実にばかげた事です。人権の意味を知らない人が余計な事まで手を出し、迷惑がられるのです。そして、人権の意味を知らないというのは人を知らないということです。

 自分が為すべき事と、為すべきでない事、その分別をお持ちになるべきです。


 霊媒に不向き

 以下の人は、霊媒に絶対に不向きです。

 いわゆる自己肥大。自我のインフレーションなどと呼ばれる精神状態にある霊媒です。尊大な態度をとるために霊媒になるような人も世の中には多いわけです。そして、日本では交霊の事を古来から、「神降ろし」と表現していますが、神降ろしの最中には、霊媒は神となるのです。神となるで生まれる自尊心の酩酊に溺れたら……神となるために必死に霊(?)の言葉を聞き取り伝えようとします。

 ですから霊媒内では、こんな軽口が出たりします。

『あの人、とうとう神(仏)様に成っちゃったよ』

 この場合の、神(仏)様とは、人の話を聞けない相手を皮肉った言葉でもあります。念の為に申し上げますが、この様な自我肥大は、霊媒に限った事ではありません。聖書や仏典、カルト文学から、霊訓まで、良く出来た言葉を利用して、神様・教祖様になりたがる人はたくさんいます。

 そこまでいかないまでも……おしゃべりな人は霊媒に向きません。自分に勝てない人が一体誰に勝てるというのでしょう?


2006-04-12

鐘を撞く

2006/04/12

 十数年前の話です。霊媒・永戸先生(故人)の講演会に参加いたしました。正直言って、話を聞いていても永戸先生のどこが大霊媒なのか、私にはまったく理解できません。いえ、 話題を一つずつ追いかけると、私の勤め先に関する興味深い話も聞けたし、私にとっては笑えない霊現象の体験もあったのです。

 でも、大霊能者と呼ばれる、その精神性の深みに触れる事は出来ませんでした。むしろ、その霊現象のことが腹立たしく感じられたぐらいです。

 しかし、その帰り道、私の先生がヒントを下さいました。

「霊媒は鐘とおなじ」

 意味がわからずにいると、

「きれいな音を出すには、上手に撞かないとね……」

 なるほど、質問が悪ければ、良い回答は引き出せません。

 ああ……大霊能者と呼ばれるのは、素人にもわかりやすい霊能者ではなく、霊能者から慕われる霊媒なんだな……確かに素人の評価なんて、身勝手なものです。当時の私の未熟な視点では、永戸先生の講演会は、ただのばあさんの自慢話以上ではなかったのですから。

 霊視を含めた、見た目や語り口だけでは、鐘の撞き方など、思いもしません。不幸にして、永戸先生とお目にかかる機会は二度とありませんでしたが、私の先生から教わった一言は、その後、様々な霊媒との出会いで役に立ちました。



 霊媒の講演会――トランストークであろうと、無かろうと、霊媒が霊界の意をあらわす場に立ち会うと……必ず、虚栄心、自惚れに酔っている質問者が一人や二人いるものです。

 通訳が困っているのに、自信満々に自説を提示し、霊媒に「霊界への意見を求めてくれ」と要求し、その内容に周囲があきれても気がつかずにいます。それを見ていて未熟ではあってもやはり霊媒である私などは、これらの質問や回答などに関心を抱けません。

 人の誠意に対するのに必要なのは、技量や才能ではなく、精一杯の誠意です。お互いの誠意は、魂の共感を引き起こし、強く分かり合えるのですから。しかし、人に認めてもらいたいだけの人には誠意は通じません。そういう人をあしらうには、一種の技能・才能が重要なのです。

 どんな相手であろうと、ぶしつけな態度は相手を傷つけるよりも、自らの品位を傷つけますから、できることには確かに限りがあります。そして質問者は一言つぶやいて退場します。

「どうせ、あんな奴には理解できん」

 ……それが聴こえた私も一言つぶやきます。

「私にも理解できません」

 人とわかりあうために必要な事を理解しない人が、一体どうして理解者を得られると思うのでしょう。結局、不満ばかりを募らせて、最後の神頼みなのでしょう。方法を間違っていると努力しても結果は出ないのです。


 霊界に認めてもらいたがるといえば、たとえばヒーラーをやっている人が、霊能者に自分を鑑定してもらいたがる事も見かけますね。そういう方々とお話する機会は、幸い(?)にもありませんでしたが、私などは、先生に叱られてばかりで、誉められたのは一度きりです。

 一度しか誉められていない事は、誇りに思っています。なぜなら、欠点を直されるたびに私は向上していくのですから。私はおだてられなければ生きられない人間ではないし、誉められたって欠点は直らないのです。

 霊媒から「あなたには、もう指導する事はない」といわれたら、最後です。地上にありながら、霊界の誰よりも秀でる事などあるはずが無いのですから。叱られるということは、私の指導を行える器量を持った霊たちが、見捨てずに私に付き合っているということなのです。

 そして、誉められた理由というのは、「あなたはいい物を持っているし、心霊をお金に換えていませんね」というものでした。それ以前から、私の先生は持論として、「男の子は定年で退職するまでは心霊に関わるな、関われば心霊をお金に換えるだろう」と言っていたのです。

 先生の持論は、結果として偏見だったわけですが、そもそも障害や困難を乗り越えずして、いかなる修行があるというのでしょう。先生の偏見は、私の乳離れを促しただけの事です。

 一生修行です。もしも、霊性の意味を知っていたら、そして、心の内面を磨くという事の意味を深く考えていたら、かのヒーラーも霊能者へ鑑定を求めはしなかったでしょうね。なぜなら、人々には心の内面なんて、見えるはずも無いのです。ただ、心がきれいな人なら、迷いや抵抗を感じることなく、人々に奉仕できるというだけの事です。


 思うのです。

自分の行いの結果以上に、厳正な評価があろうかと。

そして、真の助言とは、より良い結果を導くものだと。

 人に認められたところで、それは真の評価を意味しません。なんとなれば、人とは身勝手なものですし、移り気なものなのですから。

 霊媒は鐘とおなじ、どんなすばらしい鐘だろうと、上手に撞かなければきれいな音が出ないのです。もしもあの質問者の方々が、自分の行いへの評価ではなく、自分がより高められる行いへの意見を、霊媒に尋ねたら、いえ、尋ねる事が出来たなら、きっとすばらしい霊訓が飛び出したかもしれません。

 虚栄心や自惚れを暴かれて、霊媒を逆恨みしている人は多いですよ。守護霊信仰というか、「霊媒ばかりが霊界の助けを受けて幸せになりやがって…… 」と恨み言をいわれたことも何度もあります。

 努力の伴なわない才能に、どれだけの力があるというのでしょう。摂理や真理の霊的側面に関する無知が僻《ひがみ》みを生むのです。


2006-04-12

僻《ひが》む

2006/04/12

 見限ること――僻むとは、見限る心である。自分の運命、自分の祖霊、自らを守護する総てのものを見限って、自分は一人なのだと思いこむ。それが僻みである。

 見限ることの大きな問題は、自らそれを失わせしめることにある。与えないのではなく、受取らぬ所にこそ僻む心の本質があるのだ。

 この心を分析するのは不快でもある、だがいくつか実例を挙げてみよう。

 自分には才能が無いと思う……それが僻みである。

 持たざるから、持つ者を不公平だと思う……僻みが肥大する。

 公平となるように持つ者を縛ろうとする……僻みが露呈している。

 根源にあるのは、自分自身を見限る心――努力もせずに自分の可能性を見限る心がある。

 なるほど確かに、人は総てには達し得ない。まずは得手不得手があり、境遇があり、器量があってそれらを越えるのは難儀でもある。…… しかし、一つがダメだからといってそれがなんだというのだろう? 

 既に自分を見限り、総てを抛り出す口実を捜して、あれこれと欠点を探しまわる。僻む前には見限る心が働いているのだ。

 価値を知らぬ――僻む者を見て、心の幼さを感じるのは適切な観点である。僻みの根源には見限る心が働いているが、それはつまり、価値や意義をしらぬからこそ見限り、棄てようとするのだから。

 物事の価値を知り、物事の活かし方を学び、一見無価値に見える物にいかなる価値可能性が潜んでいるかを考察することに歓びを見いだせれば、自ずと僻み心が消えていく。

 僻み癖を直すのは難しいが、それは過ちから生じる悪癖ではなく、心の未熟さから生じる悪癖だからだ。


2006-04-12

負けん気

2006/04/12

 『怒りとは相手に対する負けん気である。が、相手に優位を感じているなら、負けん気など感じる必要もない。鷹揚に言わせておけばよいのである。鷹揚に言わせておけぬということは、相手の非を見て、それを正せぬ己の弱さを自覚しているということだ。負けん気とはつまり、勝利を求める気持ちでなく、負けを認められぬ弱さである。弱いから吠える。

 負けだから悔しいのだ。悔しいから、神仏を引き合いに出し、霊媒に頼り、正義を口にして地団駄踏む。

 真に悔しければ勝て。相手の非に対して鷹揚に受け止められる強さを得よ。

 相手に非があるからといって、相手に勝てるとは限らない。すると、神仏・正義の弱さを詰る気持ちが生じるが、それは正しい見地ではない。心霊家であるならすでに教わっているとおり、人は修行のために地上に生を得るのだ。……どうして地上に、学ぶ必要のない者がいようか。……どうして、神仏が、修行の機会を奪うというのか。愚か者だからこそ修行が必要なのだ。ならば、非を持つものは神仏の保護下にある。非を行うためでなく、非を正すために神仏に守られている。それが霊的真相である。

 むろん、自ら非に気がつかぬ愚か者も多い、それ故に様々な機会が準備されようし、その結果、善良に生きようとする者が心を痛めることもまま見ることではある。だが、善良である者も、修行の機会を与えられたればこそ善良に生きられるのだ。同様に非ある人にも機会を与えねばならない。

 許せとはいわぬ。だが、己が気持ちの負けを、神仏の弱さにすり替えてはならぬ。』


 非を正すことを口実にしてみても、非に憤ることには復讐心が含まれる。そして復讐心は醜いのものだ。他人の非をあげつらうことで己の非を正当化してはならぬ。

 負けん気は、敗者の気の持ちようである。そが証拠に、負けん気に取憑かれたものは、卑怯な手段を使ってまで、相手に復讐せんとする。 … …姑息な手を使わざるを得ないところに、すでに正義無く、勝利無く、ただ、より惨めな敗北が待っていることを暗示する。

腹が立つ……そは仏教に於いて、地獄に堕ちると同義の言葉である。その救いを求める無かれ。

弱き我を救えと祈るならば聞く。だが、我に代わって悪を撃て…… という姑息な祈りに耳は貸さぬ。


Q 『いや、失礼な質問だったことをお詫びします。……でも、お怒りは教えと相反するのでは?』


 ならばこそ!――「腹が立った時の気の持ちよう」に対する、我が真の答が、『腹を立てるな』 であることが腑に落ちよう。

2006-04-12


試験地獄

2006/04/12

試験地獄――地上では「試験」に悩める人が多いとか……試験を自らの実力を披露する場と思うならば楽しかろうに、枠からふるい落とされる場であると思わざるを得ないから苦しい思いをせねばならぬ。学ぶために必死さが必要とされるわけだが、動機が正しくなければ結果は歪んだものとなる。他を蹴り落として生き残るために学んだ者が、その知識で誰を活かすのだろうか?

 心が未だ純粋で、また、明日の世界を背負って立つべき少年少女に、闘争を仕込み、いかなる未来を生み出すつもりでいるのか。未来は現在が生み出すのである。現在に闘争を教えるなら、明日は闘争となる事を読み取らねば成るまい。

 むろん、闘争を教えられて平和の大切さを理解した子もなくはあるまい。未来はそんな彼・彼女らに導かれるべきである。

 地上で試験地獄といえば、その試験の多さと辛さを指すのだろうが、ただ、試験に臨む子等の心を見る限り、元来は優しい子さえも、友人達さえも敵として心で争うことを強いる、その浅ましさこそが地獄である。


2006-04-12

行き詰まり時の精神統一

2006/04/12

Q「今までがんばってきましたが、いよいよ行き詰まって来ました。こういう時こそ精神統一だと思うのですが、雑念がどうしても消えません。どういう心構えで望めばよいのでしょうか?」

学びて迷うは試練――物事には原因があって結果がある。人はそれを心の奥に理解しているが、往々、真理を突き止める前におおよその言葉で理解し、納得してしまう。

 いわば、戸を叩きて家に入らぬようなものである。仮に客間に通されても、奥座敷にまで招き入れられる人は希だ。知識も同様である。そこにある事を知っても、何があるかは知らない。何があるかを知っても、何に使えるかを知らない。

 使えぬ知識にいかなる価値があるのか?……智慧者とは、智慧の保持者を呼ぶのではなく、智慧の活用者をそう呼ぶのである。……ただ、多くの知識を集め、開陳することは智慧を活用しているとは呼びがたい。それはただ、一知半解の愚かさを他人に見えているだけである。

 多くの人々が、真理の追究を目指していることは見て取れる。だが、皆、戸を叩きて家に入らぬ。客間に通されても奥座敷までは進まぬ。……すなわち、学びて質問せず、質問して活用しないのである。知識を、より良い人生の完成に使うのではなく、他人に披露して、さも自分は知者であるが如く振る舞うためにだけ使う。だが、借り物の智慧が果たして真に役立つのか? 困った時はあの人に聴けばよい……というのでは、なんの向上があるのだろう!?

 迷い、行き詰まるのは、智慧が身に付いていないからである。止まれ、そこで新たな智慧を求めるのではなく、どうすれば智慧が身に付くかを思わねばならぬ。……即ち、試練である。試練が苦しいのは自ら乗り越える力がないことにある。もしも、自ら乗り越える力があるのなら、腕試しの如く試練が楽しめるのだ。

 人生に置いて試練を嫌う……試練無くしてどうして日頃の修行の成果が分かるのか? そこに思い違いが潜んでいることを自ら見いださなければならぬ。

日頃の努力が大切――人生に伴う様々な処置、それらを先送りして行き詰まる。日頃解決できない問題を、行き詰まり、せっぱ詰まった状態でどうして解決できるというのか? 止まれ……このような対処は地上に多いが、それは正しい精神統一、正しい瞑想の知識を持たぬ者の行為である。

 すなわち、追いつめられ、表面意識が悩みに病んで衰弱に陥いり、反対に必要性から本性(潜在意識)が強まって、表面意識に打ち勝ち、ようやくにその人が本来もっている解決力が発揮できるという仕組みだ。

(なんと煩雑な説明が必要なものか、現代日本語は……生前ならば三語程度で説明できたものを)

 このようなやり方はとても酷い。心の表と裏を争わせていては心身に負担が多き過ぎよう。葛藤が心身を痛めて病を得たり、注意力の衰えが事故を招いたりと迷いが失わせるものはとても多い。

 精神統一・瞑想・座禅の意義とは、心の裏表の闘争をやめることである。闘争をやめることで、自然と本性の持つ能力を発揮することが精神統一の意義なのである。

 それを、行き詰まってから精神統一を始めるのでは遅きに失する。心の表と裏、その両軍が健全であればこそ、力強い和平が得られるが、両軍相争い双方傷ついた上で講和しても、夜盗が跋扈するのは当たり前ではないか。日頃精神統一を怠けていた者が、困って慌てて精神統一することは憑依霊を招くようなものである。

……正しき道のりならば苦のないものを、力みすぎて大事にしてしまう。それ故に人は試練を嫌うのだ。

まずは人の手を借りて問題を解決せよ――精神統一がうまく行かぬ人が自分の本性を頼って問題を解決しようとしても、むしろ魔が差すことが多い。それ故に、まずは他人の手を借りて問題を解決し、解決しても油断することなく精神統一に励むことだ。

悩みを分類せよ――むろん、人の手を借りるといっても、自ら為すべき事は多い。そもそも、人が横着する悩み事には、努力が足りぬものと、智慧が足りぬものの二つに分けなければならない。この時注意が必要である。

 人は無駄な努力を嫌うし、愚か者と見なされるのも嫌うものだ。……すなわち、悩める者は往々、智慧を求めずに努力の肩代わりを他に求める。これが大きな間違いである。

 己が嫌うのと同様、人は皆、無駄な努力を嫌うのである。と同時に、愚か者と見なされるのも嫌い、むしろ、知者と見られようと努力するものである、。……すなわち、智慧を求められると人は歓ぶが、努力の肩代わりを好むものは希なのである。このような心がけで相談してどうして援助が得られようか?

 人を頼る時、往々、相手の智慧を軽んじ、相手の努力を期待するのが人情だが、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにある。それ故、人々は答えを見いだしにくい。悩んで答えがえられぬ人は、往々、智慧が足りぬというより、好き嫌いが激しく、探せぬ場所が多いことに苦しんでいるのである。

 ならば、好き嫌いを押さえて、自分の弱点を直視し、自らが努めるべき事は素直に受け入れる覚悟をもたねば、人に頼ってもうまく行かないものだ。そして、人に弱点をさらけ出すのを嫌って、一人で解決しようとするのは間違いである。そもそも自分の弱点を完全に直視できる人は悩みに足を止めることがないからだ。それがつまり、見つからぬ答えは、あって欲しくないところにあるということなのだ。

(注: 打開策については保留の感が強く、以下は純粋なる廬氏よりの通信とは言い難い)

流されて生きるものは援助が得られぬ――これは心霊的な見地からの助言である。目的の明確なる者を応援するのは単純である。その目的とすることを後押しすればよいのだ。だが、無目的な者が相手では、背後の者達も見守ることしかできない。

 自ら考え、自らが決断した人生で出会った問題であるなら、答えは見いだしやすい。が、他人の真似、他人の指示で生きている人ほど、行き詰まっても、何に行き詰まっているのかを理解しないのである。……問題を知らずに動答えを得るというのか?……また、何を質問したいのか分からないという人は多いが、それでどうして答えが得られるというのだろうか? それは知的な悩みというより、自分をもてあましているのである。そういう人に必要なのは知的な学習よりもむしろ、身体的な教練である。

(注: 質問の真の回答は、「問題解決に必要なのは精神統一ではなく、自分が目を背けている事実を直視することだ」と言わんとしているようである)


2006-04-12

自分を信じる

2006/04/12

Q 「自分を信じるということは私は難しいことのようです。何をしても人からののしられることが脳裏をかすめて思うように行動できません。」

Q 「その気がないのに私が罪を重ねているような気がしてくるんです。」

 あなたは理想が高く、完璧を追求しようとするけれど、でも、理想に実力が追いついていないからそのギャップに悩むのです。

廬氏より

 他人を信じ、自分を信じる過ち――そは、自分を信じぬのにあらず。あなたは、他人が自分を責めると信じ、他人に責められる自分を信じながら、良き行いに励む自分を信じぬというのか? 恐怖は誰にもつきまとうが、恐れていようが、恐れまいが、いずれにせよ、あなたは努力し、そして責められるのであろう。むやみに恐れて自分の苦しみを増やすのは止めるべきである。苦しむのは罵られるのを待ってば良い。

 イヤミな存在――人が悔やしむのは責められることにあらずして、己が弱点を見せつけられることなり。すなわち、あなたは、相手が出来ぬ事を努力して克服する。それでは誰もがあなたに虐められいるかのように錯覚する。

 人の敵は、他にあらず、己こそが最大の敵――罵られるよりも惨めさに人は耐えかねるのだ。自らが抱く惨めさに耐えかねて、人々はあなたを責めるのである。それは哀れではあるが自業自得だ。罵られるあなたにとって不幸ではあるが、相手はそれ以上に辛いのである。相手を許せとは言わない。だが、苦しむものを責めても、憎しみが増すだけである。理に適う行いを心掛けよ。

 大事に集中せよ――すべての事に万全を期すなかれ、程々でよいことは程々にすることだ。本当に丹誠を込めるべき事に人生を費やすべきである。

Q 「災難はいつも11月なんです。何故なんでしょ?」

 逆縁を縁に変えよ――災難が11月と思えばこそ、逆縁が集まりあなたを苦しめる。それを逆手にとって、転機・新規巻き返しの機会が訪れるのが11月だと思うべし。すると苦しめようとするものが集まらなくなるだろう。


別な人からです。

Q 「最近思うのですが、やりっぱなしが多々あります。」

 あなたは会社で正当な評価を受けていない。……あなたは内心強くそう感じているし、実際、それを否定する理由もない。だが、くだらぬ仕事に時を過ごすのは、自分をくだらぬ人にするだけのこと。評価されなくとも良い仕事を重ねれば、いずれあなたを惜しんで好機がやってくる。

 まずは自分を腐らせぬ事である。なかなか買い手がいないとしても、自らを腐らせてはさらに買い手がつかなくなるのだから。


もう一方からです。

Q 「自分はなんてダメな人間なんだろう、と思いながら、なかなかマシな人間になれなくて沈んでしまいます。」

 因を取り除かなければ解決なし――原因を正しく認識しないから、努力しても直らない。仕事に懸命に打ち込み、家族のために懸命に働き、あげく、霊査でも叱られてばかりでは、汝の生き方はあまりに儚い。すなわち汝は、懸命であることが幸せなのである。忙しく働くことに霊的な喜びを見いだしている。だがそれは、大酒飲みの幸せと似ていなくもない。とても危険な幸福感の追求である。

 だが忘れるなかれ、自分の過ちに気がつける人は駄目な人とはいわぬ。駄目な人とは自分の過ちに気がつかぬ者である。そして、駄目な人間を何とかしようとする人もまた駄目な人である。

 自覚無くして人は変れぬ――人の欠点を指さす者が、一番の欠点を指しているとは限らぬ。遠慮がちに無難なところを指しているかもしれぬのだ。忙しさに幸せを感じながら、人前では覚えず、辛い、苦しいと嘆いてみせるのはなにより汝を不幸にしている欠点かも知れぬ。

 災難は悪意よりも未熟さが招くものだが、未熟者には難を避ける手だてがない。ところが思い違いが災難の元であるなら、思いを変えるだけで難を逃れることが出来るだろう。汝は幸せになれるし、汝の幸せを多くが望んでいる。ただ、それを汝、自身が自ら見ようとしていないだけである。 

 もっと己を信じ、己を愛する者を信じよ。そして、己の間違いを利用している者がいることを信じよ。他が利用している限り、汝の過ちは正すのに苦労する。ならば、苦を楽と言い換える事が大切である。

「自分はこれでもやっていける。なんて幸せな境遇だろう。」――そう信じられれば、汝に災難をもたらす者が、諦めて去っていく。

2006-04-12


自己中心

2006/04/12

(123, ‘人に良く思われたい’, ‘自分だけ良くなりたい’, ‘


Q 「『人に良く思われたい、自分だけ良くなりたい。』と、自己中心的な自分をクリアできずにいます……」

 欠点と向き合い、欠点に負けぬように勤める事は良き事である。それでこそ我が声を発する意味がある。それゆえ、その欠点を直す為に何が必要であるか、とくと教えよう。

結果には原因がある――人がそうあるためには、そうさしめる要因がある。いわば環境がそうあらしめているのである。

 空を羽ばたく鳥にはエラはないが、海を泳ぐ魚には羽根がない。一つ部分だけを見ればそれは欠点に見えるかも知れぬが、環境を含めてみればそれは必然である事が多い。問題は、人は様々な環境を移り住む事である。子供自分の必然から生じた特質が、別な環境に移れば欠点ともなる。ある環境での欠点が別な環境での長所ともなる。

 ならばこそ、人が求めるのは円満なる向上にあらず、見性であり、覚悟であり、成仏である。必然から生まれた性質に善悪も無し、例えば気候の関連なる土地では田畑を作らず肉のみを喰らう、これが果たして欠点であり、魂の罪であるのか? また、気候が温暖な地では労せず食物を手に入れるとか、これは果たして福徳といえようか? 温暖な地に生まれたものが極楽に近く、寒冷な地に生まれたものが地獄に近いのではない。ただ、人の本質のみが人を高みに導くのである。――境遇や、自らの欠点に囚われてはならぬ。それは必然の結果であり、本質的な問題にあらず。

 他に自分を認めさせたいとか? ……人は一人で生きるにあらず、ならば、人々とより良く交わりを持つ事は人生に於いて大切な事である。そうであるから、人は本能として自分をよく見せたがる。だが、人から羨まれるのも困りものである。だが、質問者は、自分だけが良くなりたいと願っている。これはすなわち厳しき環境の中にあって、そこから移る事を考えられぬ者の発想である。

 思え……欠点はただ人の性質にあらず、そは環境の必然で決まるものだ。故に答えは二つある。汝が環境を変えるか、汝が環境に合わせるかである。

 さて、汝は人によく見られたいとか? その欲求の強さを知り、さらに推し進めて考えよ。自分がそうであるなら、人はどうであろうか?  汝の周囲は、さぞや、自分を認めさせたい人ばかりが集まっているのだろう。それは、おだてがとても効きやすい環境であるという事だ。 欠点とはすなわち弱点である。弱点とはすなわちつけ込む所である。と同時に、つけ込まれぬように気をつけるべきところである。

 汝はその弱点故に……己が弱点を知るが故に、周囲に勝される。それに誇り・自信を抱くべきである。そは、汝が苦しみを抱く環境の中にあって、汝のみが勝れる長所であるのだから。

欠点に囚われるな――直すべきは欠点にあらず、間違った問いに取り組むから答えが見えぬのだ。考えるべきは、 己が性質を生かす事である。そこには必ず答えがある。

2006-04-12


悪縁断ち難し

2006/04/12

Q 「全く悪縁断ち難く……」

悪縁の効用――物事には長所もあれば短所もある。短所だけを見れば耐え難いが、一得一失、その欠点を受け入れなければ得られぬものもある。不平不満に我を忘れて、悪縁の持つ長所はちゃっかりと着服してはいないか考えるべきである。

 例えば、職場に好まぬ者がいると聞く。だが、働くものは皆一様に疲れれば不平も生まれるし、誰かを憎めばこそがんばれる時もある。もしも職場に普段から不快な者がいなければ……一体誰が、不平不満の矛先を担うのだろう? 自分ばかりが被害者ではない。そう思えば連帯感も生まれる。身内に敵が多いのは困るが、一人もいないのも困りものだ。すなわち、多少の不平不満があるのは大過を避けるのである。

Q 「その長所を生かしがたい悪縁もあります。」

一方的な悪縁は必ず断たれる――その悪縁は果たしていつまでも続くものであるのか?

苦に我を忘れるな――小さなトゲが刺さっても、人はなるほど耐え難い。だが、大けがの中の小さな傷がどうして一々気に障ろうか? 人が小さな痛みに耐えがたいのは恵まれている証である。

 だからといって苦を諦め、受け入れよ……というのではない。小さな苦に振り回されて、幸せを失ったり、大きな敵を作ったり、せっかくの好機を逃したりはしてないか?

 苦に我を忘れてはならない。悪縁が断ち方きも、実はその中に長所があればこそである。悪縁を絶つ事よりも悪縁に頼る自分を改める事である。

2006-04-12


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