行き詰まり
2006/04/042006年 04月 04日
大体、腹を立てるのは行き詰っている時だ。たとえ相手が礼を失しようが子供だと思えば、腹も立たない。小人だと思えば扱い方を工夫すればいい。それを腹を立て、その腹の虫が収らないとしたら、勝負に負けて負惜しみを言うのに等しいのである。
事は別段、ケンカ・口論には限定されない。位負け、というのもある。つまり、会っているだけで、いや、会わなくても存在しているというだけで、自分が劣等感に追込まれる人がいる、としたら、それは争う前から負けているということだ。
負けて悔しいのは、むしろ、発憤するために必要な衝動であると思う。悔しければ勝つ努力をすればいい。……もっとも、そんなことは大抵の人が大人になる過程で理解している。それこそ幼児向けアニメでさえも、そんなテーマを繰返し流して居るではないか。
みっともないと思うのは、あからさまに負けを認めずに済むように、影でこそこそ悪口を言ったり、噂を流布して負犬連合を組もうとしたり(でもかえってあざ笑われたり)、嫌がらせや足を引くことで、「屈辱感」の鬱憤晴らしをしていることである。
勝つために使うべきエネルギーを、ダラダラと、自分の傷を拡げるために用いる。……たとえ才能があっても、それを生かすために集中せず、代りにつまらない目的に発散しているのだから哀れだ。貧乏神に取憑かれるというのはこういう状態ではないか。収入以上に支出があれば貧しくなるのだ……貧しさというのは、つまり無駄の多さなのである。むろん、金にはケチで、才能は浪費する…… という人もあるのだろう。一知半解、いくら知識があっても応用が利かなければ、こういうアンバランスなことをする羽目になる。
恥じることよりも正すこと――失敗が恥ずかしいのは、その羞恥心を是正の為のバネとすべきであろう。恥ずかしいからと自分の目を塞いだところで、人の記憶から消え去ることは出来ないのだ。ならばむしろ、自らを大きく変えて、「君子は豹変す」とうそぶけばよいのである。
何も為さざる者なら、失敗さえもしないだろう。すると失敗がないというのは必ずしも誇れることではない。無為徒食の人であるなら失敗がなくとも生きることを恥じるべきだ。為そうと努力するからこそ失敗がある。ならば、失敗をただ恥じるよりも、是正することが大切なのである。
是正が大切なのは判るが、なかなか実際にやるのが難しい……と悩み、恥じる人もあろう。だがそれは必ずしも精神性の低さを意味しない。人間には緊張して強く行動に出られる人と、緊張すると行動が起せなくなる人の二分別が出来る。緊張すると行動が起せなくなる人は、羞恥や屈辱感をバネではなくブレーキとして働いているのだと自己認識すべきなのである。
ブレーキをはずす前に行動しようとするから、自分が足手まといになって向上できなくなる…… それは欠点に見えてもただの特徴でしかない。こういう人なら、人の失敗を責めたり詰ったりもしないだろうから、人を育てるのに必要な人材でもある。
さらにいえば、ワンテンポずらしてから行動するように心掛けるだけで、人に恥じぬだけの行動力が身に付くはずなのだ。……つまり、自分を知らないから工夫の余地がなくているが、自己を正しく知ることで工夫で補える特性なのである。