2006年 04月 25日
あまりに苦しい体験を持つ人が、いつまでもその記憶を振払えないとする。……過去に囚われるのは良くある話である。むしろ、その状況からの脱却を求めて、当サイトを訪れる人も多い。だが、設問を誤れば正しい答えに行きつけない。
過去に囚われているのである。……囚われているのは問題だけであるのか。実はその方法論にも囚われている。
なぜ、その時ちゃんとした行動が取れなかったのであろう? 若さゆえ? 未熟さ? 勇気の不足? 決断力の不足?
…… 確かにそういう場合もあるだろう。だが他にも要因はあり得る。
たとえば、その時には、こんなにも自分が苦しむことになるとは想わなかったという場合だ。それの類似要因として、「硬直して反応できなかった」、というのもよく見るが、硬直する理由を正しく理解していないことも過去に囚われる強力な原因である。
譬喩
車を運転する人でないと、イメージするのが難しいかも知れない。たとえば他の車と接触事故を起したとする。その事故原因が、どちらかの信号無視や、ハンドル操作ミスなどであれば、たとえ感情の整理が必要であっても、これからは気をつけよう、で、ほぼ納得がいく。
が、普通に走っていたのに、急にハンドルが回らなくなった、とか、ブレーキが効かなくなってぶつかった、としたらどうだろうか? たとえ修理が終っても、怖くてその車に乗れなくなるだろう。ましてや、修理が出来ていなければどうか。…… 事故の記憶にいつまでも囚われるのは、事故の衝撃だけでなく、車へのぬぐえぬ不信が在るからなのだ。こういう場合、たいていの人は車を買換えて、事故の衝撃と訣別するのである。
……が、車は乗り換える事が出来るが、人生はそう簡単に変えられない。
解決は霊性の欲求
行動すべき時に行動できなかった――その体験がもたらす混乱は非常に強烈である。それも当人が理解できないほどに……人は往々、理解できないことを無理に忘れようとするからこういう逆説的なことが生じる。わざと手がかりを消しているのだから、後でやはり問題を解決しようと思い立ったときに苦労する。
むろん、しっかりと忘れて気持をきちんと切替える事が出来るのであれば、面倒はなかっただろう。繰返し同じ過ちを犯すにしても、その都度忘れられるのであれば、ある意味人は幸せだ。それが出来ないからこそ解決を図らなければならない。いや、解決策を身につけなければならない。
だから過去に囚われるのは、霊性から生じる欲求と見做すのがよい。つまり、人生の命題なのである。なにしろ、自身を上手に使いこなすことなくて、どうして良い人生が歩めるというか。何のための人生か、というわけだ。
宗教的意義まで引張り出すのを大げさに思う人も多いだろうが、「嫌な事は忘れろ」的な合理的(鼻元思案的)解決が多いからこそ、問題対処能力の貧弱な、他人に頼る事多い自分を形作っているのである。当人は、その時々は必死で気がつかないだろうが、他人を頼る人は老いても頼り、頼られる人は若い頃から頼れる人物であるが、その差は、困難に対する姿勢の違いである。
その姿勢の差が、結局は人生の善し悪しを左右する。立ち向う人よりも、逃げる人の方が背負込む苦労は少なく見えるかも知れない。だが解決した問題も少ないのである。残された課題がいつ請求されるかは来世の課題であろう。
体癖・体質
解決策はさておいて、原因は案外容易に手の届くところにある。
同じく、車の運転に例えると……
交差点中で急に信号が変ったとき、急いで走り抜いてしまう人と、とっさにブレーキを踏んでしまう人がいる。交差点の真ん中で、である。
または、荷物を持っている時に、突然驚かされたとき、荷物を投げ捨ててしまう人と、しっかり握りしめてしまう人がいる。
これらの対処は、論理ではなく、また、性格的な問題と見なすのには無理がある。むしろ身体の特性であり、整体で「体癖」と呼ばれるものである。体癖の概念の説明を省くためには、「体質」と呼んだ方が話が早いかも知れない。
さて、この体質を踏まえて考えてみよう。あなたは苦しい思いをしたときに、攻撃的に乗り越えるタイプの人間か、それともアルマジロのように身を守ろうとするタイプであろうか?
攻撃的になれる人なら、苦難にあっても発散してストレスが残らない。だが、アルマジロのように身を守るタイプの人間であるなら、苦難が去っても容易にストレスが抜けていかない。過去の出来事をいつまでも引きずり、いつまでも根に持ち続けるだろう。そう、よほど特殊な事情がなければ、過去に囚われるのは、この体癖・体質の持ち主である。
処方間違い
困難にあって身を守ろうとする体癖・体質の持ち主であるなら、復讐をあれこれと実践したところで、すんでの所…… 盛り上がった所で手が出せずに悔しい思いをし、かえってストレスを昂進させるだろう。
頭で考えても解決しない問題に頭を悩ませるのは、つまるところ自分を正しく理解していないからだ。
内なる敵には勝ち難し。
内なる敵としっかり話をつける前に、手のつけやすい外の敵と戦おうとするから、内と外、両方の敵に挟み撃ちに合うのである。
では一体どうすべきか? 闘争を放棄して泣き寝入るのが一番被害が少ないかも知れない、が、それでは明日を生きるのが不安になるだろう。
体質改善し、しっかりと戦える人間を目指すか……それも一つの手である。相当に下品な方向性ではあるが、愚者にも分りやすい方針だ。
ちょっと歴史小説を囓っている人なら、覇道よりも徳治の道を選ぶかも知れない……なるほど、その道は迂遠ではあるが、上品でもある。 ……同時に宗教臭い話題となる。
いずれにせよ、道は様々にあるとしても、自分に合わない、また、自分に理解できない道なら、考慮することがそもそも時間の無駄であろう。適切な選択肢と巡り会わぬのなら、とりあえず全てを忘れて遊び呆ける方が、次のチャンスを生かすのに良くもある。