‘2006/03’ カテゴリーのアーカイブ

葛藤を解決する

2006/03/18

2006年 03月 17日


 伝家の宝刀はみだりに振るうものではない。乱用すればたちまち刃こぼれをしてしまう。……つまり、しまっておくべきものはやはりしまっておくのが良い。だが、持っていることを忘れては意味がない。

 問題解決の英知、特に葛藤の解決法には刃こぼれは起こりえないように思えるが、やはり乱用は禁物なのである。なんとなれば、葛藤するような曲がった心は、曲がった状態を好み、話術でそれを正しても、その話術に心が慣れると無意識に嘘をつき始めるからだ。…… そして当然、忘れてしまっては学んだ意味がない。

 ここで扱うのは葛藤の解決法ではあるが、使わなければ意味がなく、乱用すれば効果がなくなるものである。読んで応用しようと思う方はそれを注意していただきたい。

 

引き篭もりを続ける人に聞く。

「あなたは何をしたいの? したいことがあるなら手伝ってあげるから」

……だが、返ってくるのは葛藤に満ちた言葉の羅列か、さもなくば葛藤で口が利けなくなった挙句の沈黙だろう。

大体において、葛藤もなく生きている人は、葛藤の解決策を知っている人というより、神秘を目にしてもさして疑問を抱くこともなく、盲目的に日々を送る人なのである。そういう人に葛藤を打ち明けたところで、理解を受けずに傷つくだけだ。悩める人は悩まぬ人を鈍感・無神経と憎み、悩まぬ人は悩める人を過敏で面倒と嫌う。……相談する以前に価値観の溝が広がっている。

葛藤する人と向き合い、何もすることの出来ない自分に気がついた人は、自分の歩んできた人生が不毛ではなかったかと恐れてみるべきである。

乱暴に言えば、葛藤とは、好むものが多すぎて、どれも捨てられずにいるものだ。ならば発想を転換するのである。自分が捨てたいものを選ぶのは実に容易だ。では、その中で一番捨てたいものは何であろう……一番不要と思うもの、その反対のものが一番必要なものではないか。

そうやって問題を絞っていけばおのずと葛藤が消えていく。だがこの智恵だって、自分を正そうという気持ちのない人にはまったく役に立たないことである。


霊査事例: 2006年3月17日(依頼により)

2006/03/17

3月17日(依頼により)


 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 まずは必要なことを片付けるべきです。せいせいとして次の仕事に取りかかる。

  あれも、これも、と迷うばかりでは時間が無駄に過ぎていき、過ぎた時間が迷いを深めます。順当に解決してこそ行き詰ることがありません。やりたいことは沢山あり、やれないことも沢山あります。でも出来ることはどれだけあるのかと思うことはありません。一つずつ、片付けていけば更に道が開けていくからです。何もしないまま思い悩めばこそ、希望のあまりに小さいことが憂いを生みます。

歩きなさい。歩くことで希望が見えてきます。

 あなたは小さい頃から、身体を動かすことが好きでした。人のお手伝いも楽しんで出来ました。重い出来事があって…… あなたのその性質があなたにとって負担となったことは大変に残念なことではありますが、乗越えなければいけない記憶でもあります。

 努力だけでは解決しない問題は世の中に沢山あります。ただ無我夢中で突進むだけでなく、自分に出来ること、出来ないこと、人に迷惑をかけること、掛けないこと、得るか、失うか、取組むべきか、避けるべきかをしっかりと考えてください。

 あなたはもう子供ではないし、子供であるべきでもありません。今や運命は切開いていけます。しっかりと前を見て進みなさい。



道標

2006/03/17

2006年 03月 16日


 道標は道にあって荒野にはない。

 道を誤らぬ為にあって、道を捜すためにはない。

 もしも、道を失ったなら、道標を捜すのではなく、道を捜すべきである。道に道標があるからだ。

 思うままに生きて、道を見失う。そういう時には判るところまで戻らなければならぬものだ。

 道標は道にあって荒野にはないのだから。


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返事に戸惑う

2006/03/15

2006年 03月 15日


 当サイトの読者……つまりは心霊仲間が私宛にメールを出すと、私からハイテンションの返事が返ってきてずいぶんと戸惑うものらしい。それを必要とする人もいる一方で、すでに落ち着いた人から見れば何やら不快感も覚えるのだろう。傍目から見たら滑稽に見えるであろうことの出来事は、霊的修行……当人は無自覚の場合もあるが…… が進んでいる事の傍証でもある。

(今までこの問題を省みなかったのは大変な落ち度であろう)

 神霊(高級霊)の存在と、その加護を信じられるようになると、おのずとじたばたする事が減ってくる。

 助けを求める事が必要なのではなく、助けを受け止められることが大切なのだ。そして、闇雲に手を伸ばすよりも手元に流れてくるのを待つ方がよほど早いのだと経験し、加護の自覚が出来て、心はますます静まっていく。

 興味深いことは世に多いが、焦るほどのものは何もないとわかってきて、心は更に澄んでいく。無理な作為を考える必要はないのだから… …。

 心が落ち着き、心が澄んでくると、足りないものがあっても、人よりも少なくとも、無駄がないから自分が豊かだと思えてくる。と同時に、豊かさとは、得ることではなく、持っていることを生かすことだと理解するから、人の欲望に惑いを見抜き、他人がわずらわしくもなってくる。なにしろ、日々の生活の中で感受する刺激の中に十二分に向上のチャンスが含まれているのだから、いまさら他人に教えを請うて、自分の心の身の丈に合わない助言など必要としなくもなる。

 こういう状態に至った後は、人とグダグダ論じることに魅力を感じなくなる。……無論、会話も人生の喜びのひとつであるし、人である以上寂しさも感じるから、一切の会話がなくなるのではない。ただ、不毛な会話、レベルの低い話題を嫌うだけだ。

 私に迷いを打ち明けた上で、ここまで至った人が、私が忘れた頃に突然メールを打って(または掲示板への投稿)大変に焦ることになる。

 送信者も、そして、私もおおむね忘れていることだが、送信者と私とは、かつて不毛で低レベルの会話ばかりが続いていた。すべての答えは自分の中にあるのに、埋もれていた霊性を掘り出すまでは、当たり前のことばかりを話し合っていたのである。

 せめてオフ会などでちょくちょく合っている人ならばともかく、久しぶりの連絡に私が慌ててリロードする記憶は、この不毛で低レベルの相手ということである。送信者にとって見れば落ち着いた自分が当然となっているのに、私の記憶では迷える人でしかないのだからそこに大きなギャップがある。世話になったという思いが、送信者にして下手なメールを書かせるのに、返ってくるメールが高飛車に見えれば驚き、避けたくもなるだろうが、誰もそれを指摘することがない。……これが相談メールであれば、その都度、私もとるべき態度を背後に相談したうえで返事をするし、あった上で話すのならば百聞は一見に如かずの反応が出せると思う。だが、単に近況を知らせてくると、慣れた道でお説教をはじめてしまうのである。

 こんなつもりじゃなかったのに……いやまったく申し訳ない。


独立自営への道

2006/03/15

2006年 03月 14日


オフ会常連者の守護霊が眼前に現れた。何度も通信している相手である。そして言伝を頼まれた。

・・・・・・・

ええぃ。まったくしょうがない奴だ。仕事で酒を飲まねばならぬことはわかるが、用が済んでもまだ飲んでいる。金が問題なのではない。酒を飲めば自分がだらしなくなり、酔っている間は時間が無駄になるのである。そんなことでは独立自営などは出来はしない。そもそも当人は、独立自営など夢のこと、チャンスがあればありがたい程度でしか考えてはおらぬのだろうが、独立の気鋭を持たなければ、人間としてだめになる。

これからだんだん年をとり、頭を使うのが億劫になっていくのに、人の指図を待っていてはますます頭を使わなくなる。ましてや、相手の意図するところを見抜けなければ使われていても愚鈍扱いされてしまうだろう。そして経営者の意図するところを見抜くには、経営者の視点を持たなければならない。それは自社の経営者にとってもありがたいことであり、取引先とのコミュニケーション上も大切なことである。つまり、独立自営の道を選ぶとは、良い部下であるためにも必要なことである。

そしてまた、独立自営への道は、人を使い、人を扱い、何より人を磨くことである。自分を磨くだけでなく、人を磨けるようになってこそ、真の意味での独立自営の道が開ける。人を磨くことなく自営をはじめれば、人を頼って人に悩まされ、人を扱いかねて人に騙されることが多くなる。

社長に成れたら、ラッキー、ハッピー、金と名誉がついてくる・・・などと思うのは倒産するために会社を興すようなものである。独立自営の道とは、人としての完成を目指すものであって、何も背後の霊たちも、金と名誉を与えたくて、自営を目指せというのではない。背後の者たちにとって、物質的な成功というのはいわば二の次なのである。その視点を持たず、背後の意図するところを汲むこともなくいるから、自営の道を進めといわれても、まだ、流されることに安住しているのだ。

これから一家を構えるにしても、今までのように会社の責任だけを果たせばよいと安穏とはしていられない。一家を構えれば、家の責任も生じてくるのだ。その板ばさみでどれほど多くの人が涙ながらに神仏の加護を求めているのか、ぜひ聞かせてやりたいものである。

問題の切り口には向き不向きがあって、どこからきればよいかを見極めるのは難しいものだが、それを同時に二つも切らねばならないときには、もっと難しくなるのである。つまり、ひとつに責任を果たすのも難しいが、二つの責任を同時に果たすのはもっと難しい、その問題解決の要点のつかみ方、その取り組みの姿勢がまだまだ出来ずにいるのである。

ひとつがまだなのに次々と責任を抱えて、助けてくれるものがあるからと油断すると助けも呼べなくなるぞ。


守護霊は口が重い

2006/03/14

2006年 03月 13日


  以前、札幌で出会った女性霊媒は、「あなたは人の話を聞く役目の人ですね。私もそうでしたが……」といった。彼女にとって霊媒とは、人に語る人ではなく、話を聞く人、であるのだ。と同時に、いわれてなるほどと思った。姉弟子達もなるほど、話を聞くのが上手である。例外なのは我が師一人……もっとも、(相談者の中に)聴くに足る話をする者がいないだけかも知れないが。

 まあ、私も周囲からは聞き上手で通っている(ようだ?)が、それは人を見る眼のない連中の意見かも知れない。私は、人の話を聞き流すのが得意……聴いているフリをするのが得意なのだ。正直、聴いていない。もっとも、要点だけはしっかりと聞いているようで、概ねちゃんと相づちを打っているから聞き上手と見なされているらしい。私にしてみれば、これは霊視・霊聴以上の才能ではないかと思う。

 自己弁護はこれぐらいにするとして、ようするに延々と人の話を聞くのは苦手なのである。……だから結論はなんだっていうんだ!!! と思ってしまう。

・・・・・・・

 大体、私の経験で見ると、(一般的に……つまり相談者のも)守護霊は滅多に、守護霊として霊媒に口を開かない。最近、忙しくて通信してはいないが、実に雄弁・文才ある守護霊が何人かいて、その方々の通信をまとめると随分と楽にブログを更新できるのだが、それはあくまで一個人としての通信であって、守護霊としての通信ではない。公的な通信ではないが故に、逆に私もみだりに通信できない想いがある位だ。

 それに反して、両親、祖父母、祖々父母位の近縁者の霊魂は、実に安易に通信を寄こす。中には洒落者がいて興味深い話…… というよりも実に楽しい通信をくれるが、概ね、こういう近親者の霊魂は頼み事が多くて困る。

 これを整理するとこうなるであろう。

 神界(高級霊界)のお勤めをしているような霊魂は、無理や甘えた願いを、たとえば高級霊界に依願する事はあっても、地上にそれを向けることはない。だが、公的な仕事を任せられたことのない様な近親者の霊魂は、神仏等と呼ばれる高級霊が相手にしないような、無理な願い、甘えた願いを聞いてくれる相手を探して、霊媒にしつこくすることがよくあるのだ。

 その意味からいうなら、守護霊が通信に困るとしたら、それは語って良い話題を吟味しているからであろう。みなまで言わなくても分かる。返事がもどかしいのは、語って良いことが少ないか、私があまりにせっかちなのか、どちらかである。念のために明記するが、私は進んで嘘をつくことをしない正直さと不都合なことは進んで言わない大人らしさを兼ね備えている。

 等と言い訳は程々にして、改めて耳を傾ける。

・・・・・・・

『私は、小さい頃から、あなたのことをずっと見守ってきました。今もあなたの側にいます』…… と蚊の鳴くような声で聞こえてきた。こんなひねりのない通信でよろこぶ様なおめでたい奴がいるのだろうか、等と思うのは心霊主義者の驕りであろうか。とはいえ、私が勝手に息巻いているのも事実である。

 そもそも守護霊と庇護者の間には共通の欠点があるのが普通である。察するに、私がこれほどせっかちに息巻いてしまうのも、はたまた、某守護霊の反応がこれほど遅いのも実はそこに原因があるのだろう。

 それはつまり――何とかしようと焦るのである。だが、何とかしなければいけない状況というのは、当たり前のことではあるが、自分の実力に余ることなのである。実力に余るのに焦ったら果たしてうまく行くのだろうか? 落ち着くことが必要なのは間違いないし、落ち着くだけでは間に合わないかも知れない。

 当人は、その時、焦りと努力するのに夢中なのとで、自分の失敗を正しく認識していない。だからどうしても同じ過ちを繰り返して、その対処がどうにもならない。

 急かされたら、頭を下げて、「すいませんが不器用な私にはそれを全部は出来ません。せめて、半分なりとも迷惑の無いように仕上げますので、それでご勘弁下さい」といえば、不足は半分に済むだろうに、全部をやろうとして全部をしくじるから、全部不足して、しかもその後片づけで苦しまなければならなくなる。そしてなにより可愛くないのは、出来ないことを出来るといって、出来なかった後に開き直ることなのだ。

 なんのことはない。男が女難に苦しむのは、色気ムンムンの女に迫られるときではなく、薄幸の女性が不運を嘆いているときなのである。助けようと男気を出して泥沼に陥る……いけない、肝腎の守護霊の通信だが……

・・・・・・・

『周囲の人々善意を信じ、また、悪意から身を避けて、自分らしさを棄てず、自分らしさだけを追わず、助けられ、助けて、人情の中に生きなさい。無理をせずとも生きられます。無理をしたいのは負けず嫌いが生み出す落とし穴だと気がつきましょう。出来ることの範囲で頑張りますといって、笑う人がいればそれは人生の敵、あなたの味方はきっと頷きます。

 私がそばにいてもあなたはなかなか気がつきませんが、あなたの廻りに常に味方がいることは、私があなたを守っている証です。感謝はいりませんが、どうか恨み言を言わないでください。……常にあなたと共にいます。』

・・・・・・・

 もっとも、どんなに素晴らしい守護霊がそばに寄り添っていようとも、自分の気持ちが唯物的であれば、守護霊との隔離は数百キロに相当するだろう。そのくせ、その欠点だけは、距離にかかわらず同じであるなら、なんとも不都合なことである。

『でも、私は信じます。常に共に歩く日々を』

 そう、彼女はそれが出来る人だと思う。だが、何の気なしにこのページを見る人は、自分が守護霊と共に生きる日々を信じられる人であろうか。


憑依霊の害は誰の責任か

2006/03/13

2006年 03月 10日


 くどくなるがそもそも、人間の境遇が千差万別であるのと同様、人間の死後の境遇も千差万別であって、特定することは無理があるというより嘘が生じてしまうのだ。それをふまえて、時に曖昧となる表現に付合っていただきたい。

肉体起因の欲望

 食欲、飲酒欲、性欲の三つは、肉体基因のものであるから、肉体を失った魂である死者はこの欲を充すことが出来ない……とされている。霊界(幽界)通信に多い話ではあるが、歯切れの悪い言い方をするのは、このような制約は境涯の低い間だけであるからだ。といっても、このような欲望に駆られている魂にはたどり着けないという意味において、死者は絶対にこれらの欲を充せないというのもあながち無理のない説明である。

 もしも強欲なる死者が、これら三つの欲望を死後も充したいとするなら、執るべき手段は二つしかない。一時すべてを忘れて向上した後、高い境涯でそれを得るか、他者の肉体に憑依してそれを満たすかである。当然、欲望に引きずられやすい人が向上等という面倒を選ぶ筈もなく、憑依という安易な手段で自他を堕落させる悪行を選ぶのは不幸にして自然の流れである。

 需要と必然の強さから、このような憑依現象ははなはだ多いが、作用には反作用が生じるもので、霊にとっても憑依は決して楽ではない。憑依は快楽を共有するのである。ならば、苦痛もまた共有せざるを得ない。痛い時だけ離れていようなどと調子よくは行かぬらしい。なんとなれば……これは単に憑依霊側にとって不便であって、人間側にとって福音ではない。そして少なくとも、この憑依霊側にとっての不便は、同時に弱点でもある。

 滝行や水垢離などが、除霊に効果がなくもないのは(曖昧な表現で申訳ないが、絶対に効果があるとはいえないのだ)こういう理由である。

用語の整理

 肉体基因の欲望を満たそうとする憑依霊に対して、食欲の場合は概ね餓鬼霊、飲酒欲の場合は天狗や狸に比されたりする。性欲の場合は色情因縁などと呼び、どれも拝み屋文化の生み出したものでその使われ形には普遍性がない。また、餓鬼や色情、因縁、といった仏教用語を生半可に借用するのは誤解と嘲笑の種ともなろう。

 私としては、それぞれ、食欲障霊酒欲障霊、(薬欲障霊も追加すべきだ)、性欲障霊、その総称を欲求障霊とでも表現すべきと思うので、まあ将来的にはさらに別の呼び方を用いるかも知れないが、当面はこの表現による。おそらく私のオリジナル造語であるとは思うが、他に同様の表現を使っている方がいるなら、参考にしたいのでご一報願いたい。

極端な事例

 憑依霊の存在を自覚するほど、強い支配・圧迫を受けている人から見れば、肉体起因の欲望を満たそうとする憑依霊……上述の通り、当サイトでは欲求障霊と呼ぶ……は、欲望の充足を強いられると感じるわけだが、それは非常に極端な事例である。そんな極端で横暴な霊障を、その被害者の守護霊が放置するとしたら、その憑依霊がよほど強い悪霊と考えるよりも、憑依霊と被害者の間に重大な事情があると考える方がよい。職業霊能者の営業話を聴いていると、死後の世界はよほど治安の悪い、力が支配する暗黒世界の如く思われることだろう。だが、それを信じる者は絶望すべきである。生きている内はその霊媒に助けて貰えるかも知れないが、死んでその暗黒世界に入ったら誰に救って貰えばいいのか。もしもあなたが死後に救って貰える相手(霊)を知っているなら、高い金を払って霊媒に助けを求めるよりも、その死後の救い主に助けを求めるが良いだろう。

 私の知る死後の世界は、むろん一部には治安の悪いところもあるが、それは単に未熟な者達に自己反省のチャンスを与えているだけで、人情味も充分にあり、治安のしっかりとした世界である。……むろん、霊障に苦しんでいる人に取ってみれば、心の底から助けを求めても得られぬ救いに、霊界の治安の良さなど信じられぬ事だろう。特に、至らぬ所があるとしても、出来うる限り善良に生きようとしている人に取ってみれば。

 その理由は、それぞれの事情に由り、単純に説明することは出来ないが、そういう行き違いが生じて不思議のないことは、一つの事例だけで説明できるかも知れない。

 人にとって、生死に関わる重大問題であるとしても……救いを求める先である死後の世界の者達は、すでに死んでいるのである。これが詭弁であることを承知の上で表現するが、死を免れなかった者に、死なぬ為の援助を求めるという矛盾があることを先ず自覚すべきだ。死者たちが本当に重要に思うのは、生死ではなく、死よりも大切な事なのである。その価値観を共有しない限り、霊界の治安の良さについては体感することが難しくは無かろうか。

 ……このような特殊な事例については、個々の事情を問題にせねばならぬので、ここではそれ以上に触れることをしない。

 

欲求障霊の手口

 行動を強いられる自覚のある極端な事例の他に、結果として憑依・霊障が疑われる場合もあるだろう。以前より私は、色情因縁などというのは真義の分りにくい業界用語であって、霊視もしない素人がそれを案ずるのはナンセンスであると考えているが、木の種類を見るのにその実を見るのも、確かに一つの手である。

 つまり、身体的欲求に関する大失敗をしたなら、そこに霊障を疑うことも必要かも知れない。またまた曖昧な表現だが、霊障を判断する手段を持たぬ人が安易に霊障を疑えば、心霊詐欺の餌食になるかも知れないのである。手段があれば疑うべきだが、手段がなければ疑うことは失敗を増やすだけになり得る。……霊媒とは普段からの付き合いが大切なのである。

 このように、結果から欲求障霊の存在が疑われる人に共通するのは……手口を知ることは対策の第一歩だ…… 支配や圧迫を受けることではなく、ブレーキを外されることなのである。――にも関わらず、霊障の恐ろしさを知らない人や慢心している人は、自分は誘惑に負けないなどという。だが、人が失敗するのに誘惑は不用だ、ただ、自制心をちょっと弛めれば、それで大失敗するのである。

 どんな人だって、人として生きている以上は、食欲有り、性欲があって不思議はない。そもそも、食や性に関心の薄い人は生物的に淘汰されてしまうであろう。おそらくは現代を生きる我々は、食や性に強欲な祖先があるからこそ、その血脈の末に繋がっているのだ。であるなら、誘惑などされる必要はない。そもそも、人というのは気まぐれな者で、右に行けといえば左に行くもなり、背を押せばかえって下がる者有り、思うようにコントロールするには相応にその個人を研究する必要があるのだが、同一方向を我慢している者なら、コントロールは容易なのである。

 つまり、酒を飲んでいない人に、「酒を飲め!」と命じるよりも、もう一杯飲みたいけれど止めておこう……と考えている人に、「もう一杯ぐらいはいいさ」と吹き込む方が、圧倒的に楽なのである。この事は、「悪友」を持つ人なら容易に類推できるだろう。莫迦な親は我が子を庇いたくて、悪友をして、我が子を悪事に引きずり込む者と見なすが、悪友の実体とは、一人では気後れすることを一緒にやってくれる仲間なのである。そう、人が堕落するのは、堕落せよと背中を押す圧力ではなく、それぐらいは良いではないかという弛緩的な働きなのである。

 さらに比喩を使わねばならぬので、どうか迷わないようにしていただきたい。気の緩みは果たして悪友だけがもたらすものであろうか。たとえば車の運転手は、同乗者が話しかけるだけで、運転への注意が乱れて事故や道の間違えを起すものだ……なんのことはない、欲求障霊がいなくても、極端な話として、守護霊との意思疎通が悪いだけでも、守護霊の加護が仇となって堕落に手を出すことも起こり得ないことではないのだ。(また曖昧な表現だ)……実際は、そういうリスクを理解しているものが守護霊となるのだが、除霊してはいけない霊の存在を霊障と感じる人がいる可能性を考えてみて欲しい。

責任の所在地

 結局の所、特殊事例は別途扱うとして、欲求障霊の悪影響への対策としては、自制心を強化することが第一であると私は思う。それは言換えると、欲求障霊の被害者には、「自分に対する甘えがある」ということでもある。

 少なくとも、誘惑されようが、悪友に流されようが、悪事をすればその責任は我が身に有る。「誰それが誘惑した」、「誰それが共犯である」……そういう指摘は、地上では司法取引の材料として使われるかも知れないが、厳密には己の罪は罪である。

 出来ることなら、誘惑などに流されることなく身を慎むことが望ましいし、既にやってしまったことをとやかく言っても始まらないが、予防策としての除霊は有益であっても、除霊は償いの役には立たぬ事を知らなければ、その人生に救いはなくなる。つまり、いくら心霊の勉強をし、また除霊に努力し、金銭を使ってみても、それらは現実逃避にしかならぬということだ。そして夢はいつか覚め、覚めても事態は悪くなっているばかりなのだ。


悪霊の影差す家

2006/03/13

2006年 03月 12日


 三ヶ月ぶりの墓参からの帰宅の途中、母の知人宅に立ち寄った。ここ数年、何やら災難が続いている家である。

 気だての良いご家族で霊障と縁がある様にも思えないのだが、やはり家に何か影が差している。とはいえ、一時は商売が行き詰まっていたものが最近は好転しつつあるというので、ここで余計なことをいうのは時機ではないと判断し、口を噤むこととした。――不安があれば魔が差しやすいし、自信と希望があれば霊的加護もいやますものであるから、単に疑われるからといって見たもの、感じたものを霊媒が口にするのは避けなければならない。

 そもそも誤解されがちであるが、ある家に、またはある人の背後に、悪霊・低級霊がいることは、当事者にとって迷惑であっても、大局から見ればさしたる問題ではない。チャンスを与えなければ更正、向上の道が閉ざされてしまうのだ。人がそれぞれ、自分の幸せを先ず考えるのはやむを得ないかも知れないが、自力で足りずに他力を求めるとき、その救いを与えてくれる神仏等と呼ばれる高級霊が、いかなる動機、いかなる視点でそれを行うかを考えるべきである。

 地上で迷い、悩める存在であり、また、神仏の加護を必要とする我ら人と、霊媒等に悪霊・低級霊などと見下される存在との間にどれほどの差があるのだろう? すべては神仏の加護を必要とする未熟な存在ではないか。

 自分は助けて、悪霊・低級霊はその境涯の中に留まればよいという発想は、決して神仏等が好ましく思う想念ではあるまい。悪霊・低級霊を神仏が救うからこそ、自分は人としての勤めを果たせるのだ……そう思える人こそが高級霊から加護を得られる人なのである。

 だから……その家には不浄な霊魂の影が見えているし、家族には健康上の不安もあるが、知人等は明日に希望を持って毎日を努めているのだから、それはある意味、悪霊・低級霊の更正・向上のチャンスであると思えるのだ。

 また、不安を口にすれば、その後に何事もなければ「よかった」といえるし、何かがあれば「やっぱり」といえて、何やら私がその家に恩を施せたような気分も生じる(私はやらぬが、そうしている人もいるという、いわば嫌味である)が、不安を与えることで、高級霊等と家族との間に暗雲を生じさせては、この世の法で裁かれなくとも、真理の法に裁かれるだろう。それは心霊を学ぶ者として、なんとも情けないことである。

 だから私は、不吉なことを口にするのを止め、ただ心中で、手に負えないときには、霊達の加護があればよいと願うに止めた。

 蛇足かも知れないが……みだりに除霊をすると、拗れて悪縁が深まることもある。触らぬ神に祟りなしとか、見えるからといって手出しをするのは厳に慎むことである。また、霊が見える者から注意を受けたからといって、無闇に追い出そうとするのも危険である。先ずそれらの霊が、更正・向上することそして、手に負えぬ場合は助けを求めることを基本とすべきだ。神仏に特別扱いを願うのは、利己的な悪霊の価値観と同じなのだから。

・・・・・・・

 しかし、なんにせよ、どうしてこのような不浄の霊と縁を結ぶこととなったのか、その疑問については明らかにすべきであろうと信じる。会話のまにまに精神統一し、回答を願ったところ……

『近所に除霊で金集めをする宗教団体があり、集まる人々が不浄の霊を置いていく。置いて行かれた霊が居場所を求めてうろついているのである。この家に直接の悪縁はないが、霊らは、なまじ信仰に篤い家なので自分らも祈って貰いたくてイタズラをしている。また、この家が信仰に篤いといっても自分と家族の幸せを願うことが信仰と思い込んで、悩める者達への配慮が欠けている。悪とはいわぬが善に欠けたところがあるので、気がつくまで片目をつぶっているのだ』……と聞こえた。

 これについては伝えるべきかと一瞬逡巡したが、

『自分らで考えなければならない。言われてやるだけなら誠意が籠らない』

 とも聞こえた。実は文字通りの意味ではないと思う。もしも各自が皆、それを体験から学ばなければいけないのであれば、ここでこの話を紹介することに矛盾がでてくるだろう。ようするには、何か考えがあって今は伏せている話なのである。それに、この家には、何かあったときに相談する先の霊能者がいるようなので、私が口を出せば、同業者の客取り合い的な面倒が生じかねない。あそこに相談するのは止めた……と思わなければ、私が口を出すべきではないのだろう。やはり今は時機ではないらしい。


誠意をどう表わす?

2006/03/12

2006年 03月 11日

騙された経験も財産

参照: 疑り深いと騙される

『疑うよりも誠実であれ。誠実であれば小さな裏切りを無数に経験するとしても、大きな裏切りからは守られるものだから。』

・・・・・・・

『小さな裏切りや、嘘のあった人ならば、それを口実に、借金や保証人の申し入れを断ることも出来ます。……裏切られ、騙されることも人生の財産になり得るのです。』

 互いに最大の誠意を持って交際を重ねられるのはなによりも幸せなことです。しかし、いくら誠意があろうとも、人は誤るかもしれず、力が及ばぬかも知れず、誤解があるかも知れません。それらから生じる不信を、どう克服していくかもまた、人として学んでいかなければならぬ一つです。


為すべき事から逃げぬ為に

参照: 霊査事例 3月5日(横浜)

『胃が弱い。胃が弱いからストレスを恐れる。恐れるから大人ぶった態度でストレスから逃れようとする。そこに弱みがあるのを知らぬのは大人だけである』―― ストレスから身体の不調を起しやすいあなたは、他人の面倒事を避ける様なボディーランゲージを多発しています。ところが、それを理解してくれる人ばかりではありません。子供や、子供っぽい人は、逃げようとする態度を見抜いてしまいます。どうせ逃げられないのだから……

・・・・・・・

体質が気質を方向付ける――胃が弱から、胃を庇いたくてストレスを避けようとする。胃薬を飲んでストレスと向き合っても、今度は腸が悪くなる。困苦から逃げ腰だからそこをつけ込まれて苦労する。そんな苦労が嫌になり、自分を変えようと努力すると……胃を患い、薬を飲めば腸を患う。なによりも、不健康だから努力が報われず、不健康だから不安が断てず、努力が報われないから焦り、焦るから不安がこみ上げ、不安が心を支配するから、胃腸どころか、目眩だ、動悸だ、立ちくらみだ、とあちらこちらの具合が悪くなる。

 こういう体質・気質の人にとって大切なのは、努力よりも誠実であることです。慌てて大きな成功を追い掛けるのではなく、小さな成功を重ねて、自信を育てていくことです。

 そもそも、不安というのは未だ起らぬ事を思い悩むことです。でも、未だ起らぬ事なら、起らぬように努力することも出来ます。その努力を止めて不安に浸ることにいかなる意義があるのでしょう! 不安に苦しむことは不安を実現する助けでしかありません。

 自信を得て、不安を遠ざけられるようになれば、同じ困苦に取り組んでも、それで受けるストレスは大きく緩和できるでしょう。…… すると、なんの能力開発もなく実力が向上することになります。

急がば回れ――小さな成功を重ねていく努力は、一見遠回りのように見え、また、新しい才能を獲得するよりも無益のように見えて、実は確実な成果をもたらすものです。

 努力の為の努力は、どれほど成果を上げても不毛です。為すべき事から逃げぬ為に努力することこそが有益な事でしょう。


霊感を鈍くしたい

2006/03/09

06年 03月 09日


 霊感を鈍くしたいという願いは、経験した者でないとまるで理解できないことと思う。霊感の自覚のない人は霊感を強くしたがり、霊感の自覚のある人は、霊感を鈍くしたがる。この一見、滑稽な事態は霊感のいかなるものかを認識する者がいかに少ないかを意味する。

私の経験から

 私は本来、心霊相談を開設することなどに全く興味がなかったし、今でも全く未練がない。ただ、霊感発現当時、高校生で親に相談すれば親はおびえて役に立たず、心霊相談をさがすにも高校生のこと、金がなくてどうにもならなかった経緯がある。結局、紆余屈折、いろいろあって現在の師に巡り会ったが、それも恐怖で約半年間引きこもっていた状態を自力で脱出した後のことである。

 さすがに当時のことを思い出すと、未だに鳥肌が立つようである。今は充分に知識も技能もあり、同時に過敏状態を克服しているので、同じ目にあってもどうということはないが、恐ろしいと思うのは、自室で布団を被ってガタガタ震えていただけの日々が、いかに危うい状態であったかを理解しているからである。……良く自殺しなかったな、と思う。もっとも、あの状況下で自殺しても肉体がない分だけ低級霊の支配を強く受けることを理解していたからこそ…… 死ねばかえって救われない状態だとかえってそれが恐ろしくもあった。

 当時の経験のあまりに重苦しいことの清算が、実は私に心霊相談所の開設を決意させた。確かに霊障も辛かった。でも相談する先もなく、金もない当時の自分が、途方に暮れて日々を送ることが遙かに辛かったからだ。過去の自分を救うためには(つまり自分の苦労を無にしないためには)、同じ苦しみを持つ人を救わねばならぬと信じたのである。

 親切な人は多い。だが、有益な知識技能の持主があまりに少なかったから、心霊知識の普及が大切だとも思った。ところが、知識を生かすべき人間の素養を強化せねばならぬ事にも気が付き、精神統一の指導も始めた……ナンセンスというか、泥沼といおうか、自分の霊障は、まあ境界を引くことは困難ではあるが一年ほどで解決した。そのアフターケアが、余程困難な大事業というのは、何ともはや振返ると自分の愚かさが悲劇にも見えてくる。なんと悪霊よりも神様のほうが手間が掛るらしい。

 

そして心霊相談を始めた

 そうして心霊相談を始めたことを……隠しきれず(あたりまえだが)私の師は一笑に付した。

『人に頼って楽しようとする人なんて、救いようがないのだから』……これについては、霊障解決よりも遙かに多くの経験を積むことになった。数の問題ではなく、私の心に強く印象が残ったという意味でだ。

 ただ、見通しに楽観を与える知識もあった。基本的に、霊障の大部分は人間側の誤解がその原因にある。糸口が見つかればトントンと解決していくことが多いのだ。問題はその糸口が見つけにくいことである。…… 糸口が見つけにくい理由の最大の原因は、霊障を腕ずくで解決する類の迷信があまりに世に多いことにある。または、独りよがりな考えというか― ―助けを求めて来ている霊は、助けが得られなければそのうち去っていくのに、ヘタに素人除霊などをするから逆ギレされ、拗れて居座られてしまうのである。こういう事例が相当に多い。

 つまり、霊障の大部分は霊力がなくても解決するのである。むしろ、霊力が徒《あだ》になることがとても多い…… 悩めるときほど人の本性は現れるというが、必要なのは力ではなく、誠意なのである。少なくとも、相手が自分よりも強く、そして、数が多いときには。

 

誤解要因のあれこれ

 背後から注意を受けたが、なるほど誤解要因について記しておくべきだ。 特に霊媒初心者が、霊障を拗らせる理由の一つに「痛みの共有」がある。たとえば、あなたが自分の痛みを誰かに説明するなら、顔をしかめて、お腹をさすりつつ、「お腹が刺すように痛いんです」等と説明するだろう。だが、霊媒相手にはもっと効率の良い方法がある。痛みを共有・共感して貰うのである。… …これはてきめんに相手の痛む場所とその強さを理解することが出来る。と、同時に、こんな面倒事はなるべくせずに済ませたいものだ。

 便利だが、厭なこと……痛みを感じるのは、基本的にコミュニケーションであって攻撃ではない。だが人は本能的に痛みを恐れる。当然、共有・共感というコミュニケーションの存在を知らない霊媒初心者は、これを霊障、攻撃であると受止めて反撃してしまうのである。

 もう一つ……人には、救いが必要な時ほど横柄になる、一種、救いがたい人が居る。救いがたい人とは同時に救いを必要とする人でもある。こういう人は横柄さに目をつぶり、メンツを立てつつ影で助けてやるか、面罵して頭を下げさせるかしないと、やっかいな態度をとり続けるものだ。

 霊障を起すような悪霊というのは、上記のような人のなれの果てなのだ。……その解決法は推して知るべしである。

 

相対問題

 また、他の霊媒が言うことの中に、私が疑問に感じることもついで心の隅に留めて欲しい。

 敵が強大であっても、味方も強ければ害を受けない。 敵が非力でも、味方がいなければ侮れない。 味方が強くても意思疎通が悪ければ力を発揮できないし、敵を侮れば自分のミスが大きな害を生む。小さな障害でも、長い間少しずつ嫌がらせを受ければその害は計り知れない。

 物事というのは相対的な見方、全体を見通してこそ、始めて正しく認識が出来るものだ。それをしないで、「強い悪霊だから大変である」とか、「加護が強いので大丈夫」というの意見は、あまり助けにならない。まして、本当に障害を及そうとする霊なら、当人に憑依するよりも当人に死活的影響力を持つ人を標的に憑依する法が効率がよいのである。つまり、家庭で障害が起っているとしても、それを個人を標的とした攻撃と考えるのは適切とはいえない。もしも個人攻撃を目的とするなら、勤め先やら、取引先に工作すると考えるべきなのである。

 障害が、個人攻撃を目的としていないなら……除霊や封印やらという、スリラーめいた対処が拗らせると恐れるべきである。

 

でも効験あり

 かくいう私の言説がまともに見えて、迷信じみた用語の多い霊媒(特に御高齢者)を侮るべきではない。いっていることがまるで無茶苦茶なのに、問題解決力のすごい霊媒というのはあまた存在する。……なんのことはない。霊媒というのは氷山の一角、その霊力の源は、霊界にいる擁護団、背後霊団なのである。つまり、霊媒抜きでも問題解決は可能なのである。

 反対に、いくら理論整然とした霊媒であれ、背後霊が貧弱であれば出来ることに限界が生じる。そもそも理論構築は霊媒の仕事というよりも、研究家、もしくは審神者(さにわ)の仕事なのである。ただ私の場合、他に信頼できる者が見いだせないから自分でやっているだけのことだ。

 言うことが無茶苦茶でも霊力がある霊媒を相手にするときには、言動で見下したりせず、また礼金で頬を叩くような考えを持つことなく、失礼の無いようにすべきである――少なくとも私ならへりくだる。仁徳篤い祖先を持っていたり、想像もつかぬ荒行経験や、豊富な人助けの実績を持っているからだ。何しろ、背後霊達が大切に守っているのであるから、大切にして損はなく、敵に回して良いことはない。その会話にではなく、その体験に価値があるのだ。たとえば私だって寒中の瀧行ぐらい進んで行うが、早朝に腰まである雪をかき分けて瀧行場に行くなどという修行は出来そうにない。…… こういう迫力のある霊媒等の世代交代が進んでいるのはとても残念に思う。

 それはともかく……

 霊障問題の大多数は、あの世だけで解決可能なもの……ただ、霊達が問題を認知していないだけである。残る一部は、人と霊との相互関係に問題があるもの……この場合は仲裁者(霊媒)が必要となる。そして中には、一方的に人が悪い場合もある……この場合は、霊媒が取り直しても解決しないこともある。この三分類が、「霊障の大部分は正しい心霊知識が無いために起る」という所以でもある。

 もしもあの世だけで解決可能な問題であれば、素人祈祷でも十分に効果が生じる。要は問題提起があればよいのだ。ただし、仲裁が必要な場合は、やはり経験ある霊媒に頼らざるを得ない。……もっとも仲裁が無くても先方が諦めてしまうこともあるようだ。

 とにかく基本は、あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で、仕事を分担してそれぞれに分を尽すことが大切である。逆に言うと、背後霊団を持たない霊媒は苦労を免れないとも言える。

 

あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で

 むしろ難しいのは霊ではなく、人である。霊障を受ける要因が人にあるなら、その人が変らなければ問題は解決しない。だが人が変化するのはとても難しいのだ。霊と比べて感性が非常に鈍重。しかも物質と関わりが深い日常を送っているので、気持だけが少々変っても、肉体やら生活習慣やらの影響で又元の気持に戻ってしまったりもする。

 無理に気持だけが変れば、日常生活や肉体の生理面に無理が生じて病気をしたり、怪我をしやすくなりもする。

 あの世のことはあの世の連中にケアを任せておけば良いのだが、霊媒が担当すべき、この世の連中のケアはとても面倒である。何しろ、知識が足りない。知識があってもそれを生かす素養がない。目先の安心を求めて、安易な選択をしがちであるし、すぐにおたおたし、不安に流され、疑心暗鬼に陥り、ねたみ、ひがみ、腹を立てて墓穴は掘る。感謝すると泣いて見せてものど元過ぎれば熱さを忘れてまた同じ事の繰返し。

 時折、霊障に苦しむ人を見て、無性に除霊したくなることがある。霊ではなく、その人をだ。……それは私の担当ではないのだが。責任転嫁の多い人を相手にするのは難しい、私が逃げるその前に、背後達が嫌がってしまうのだから。


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