‘2006/03’ カテゴリーのアーカイブ

いつまで悩むのか?

2006/03/25

2006年 03月 24日


 とある霊が語る。

・・・・・・・

 思春期であるならいざ知らず、人、三十歳にいたらんとする時に、あれこれといろいろと思い煩うことは、危ういことであります。それは、自分の人生がいまだに自分の手中に納まっていないということ。生きるために必要な人生の智恵をいまだに持ち合わせていないということなのです。

 今般、このサイトで教えていることは、人生を手中に納め、もって、自分らしく生きることであるのに、それを読む者が、当座しのぎの問題解決策ばかり拾い読みしては、あれが足らぬ、これが足らぬ、私の人生をよく生きるためには足らぬものばかりだ、と不平を申しておりますが、世に摂理といわれ、神様のお計らい、などとも呼ばれる物事の自然な流れを、小手先の技、小ざかしい知識でどうこう出来るはずもなく、それでも何とかしようと摂理を欺く算段は、天につばを吐いてわが身を汚すような愚かなことでしかありません。

 いま、あなたを苦しめている諸問題にも、それぞれに原因があり、縁があり、そして今の苦しみがあるにせよ、それを事前に取り除けず、大きくなるのを止められず、悪い結果を消してなくせない、……乗り越えられるはずのものがぶつかって前に進めない、その己の非力さにも問題があるのです。

 中学生が、高校生の問題を解けないならば、分不相応をたしなめます。中学の問題が解けないなら、一生懸命に面倒も見ましょう。でも、小学生の問題が解けずにいるなら……嘆いて恥をかくのではなく、虚心・誠実に頭を下げて教えを請い、もって年齢相応の智識を身に付けることが大切でしょうに。

 個々の問題が解けない、その事も無論、当事者にとっては大変なことではありましょう。ですが、守護霊の立場から見れば、至るべきレベルに達することなく、いまだにそんな問題に引っかかっている、あなたの成長の遅れこそが一番の心配の種です。

 愚かさを心の中にしまって置けると思ったら大間違い。人の世にある限りは、心は心の中にとどまりますが、ひとたび霊魂として活動するなら、そして肉体を捨てて旅立つならば、心はそのままあなたの見る風景にもなるのです。

 愚かであるのもまた分相応で諦めねばなりませんが、隠したつもりで騙されているのが自分だけではあまりに情けなくもあります。そのような霊格がどれほど惨めな境遇であるのか……その場限りの対策がいつまで続くと思いますか。すでに破綻しているのに。


墓穴を掘る

2006/03/24

2006年 03月 23日


 会社で後輩が失敗しているのを見て、思わず瞑目し、心中でお滝場を訪れ、心中で滝行をした。私だって往々仕事で失敗をする。それもなまじ霊感があるだけ失敗が身にこたえる。気になる事がありながら、理解できずに次に進んで、後でその見落としに足を引かれたりする事が何度かある。知らずに失敗をする方が、知って失敗するよりも開き直るのに容易なのだ。

 失敗の痛みがわかればこそ、後輩に同情も抱く、だが、同情だけで人を救えるものでもない。

 機転の利かぬ者、 融通の利かぬ者、物覚えの悪い者、…… 一緒に仕事をすることに迷惑を感じることもあるが、人的資源にも限りがあって、 あるものでがまんせねばならぬことが多い。

 だがそれにしても、進んで物事を拗らせる者のなんと哀れなことだろう。失敗続きで逆転したくて無理な努力をしてかえってしくじる。自分には出来ないことに手を出し、周囲に迷惑をかけながら、それでも自分が仕事をしているつもりになっている。実質、仕事は周囲がやって、当人はただ迷惑をかけるだけ、そうして一仕事を終わらせても自分の評価が下がるばかり。……完全に悪循環に陥っている。一言二言助言をするが、もうまったく耳に届いていない。失敗が続き追い詰められているのである。分不相応の職責についていることを理解し、身を引くべきなのだろうと思う。

 悪意ある失敗であれば、悔い改めれば成功させることも出来るだろう。だが、未熟さゆえの失敗であれば、習熟するまで成功はおぼつかない。人に習熟のチャンスを与えることはとても大切だとは思うが、いったい何年この仕事をしているのだろう……クビの口実が出来るまで延々とこの状態を続けるのだろうか。どうせ仕事をやめるなら退職金を受け取るれるほうが良かろう。

・・・・・・

 そういえば、以前「投資で儲ける方法」を問われたが、この問題はそれと原理が似ている。儲けることが一番の問題ではなく、本当に難しいのは儲けている内に止めることなのだ。

 儲けることに囚われている人は、儲けている内に止めることが難しくなる。損をしても逆転を狙いすぎ、また平常心も失いやすい。自主性を持たぬ人は何事もうまくいかない……一時うまく言ってもそれが更に大きな失敗の助走と化してしまう。

 他人を頼らなければ出来ないものなら、手を出すのは破滅の一歩だ。出来なければ頼り、出来れば奢る。そういう欠点が潜んではいないか。同じ質問をするのであっても、出来る人間は質問の仕方がまるで違う。

 答えが出かかっているのに言葉に出せずにいる、一つを教えれば他を類推する、そういう人であってこそ、他人に聞くことで更に伸びることが出来るのである。受け売りと一知半解の繰り返しだけで有能なつもりでいるのは見ていてあまりに痛々しい。

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小言がうるさいぞ! あの我が師の支配霊め!

2006/03/23

 質問者に対して説教臭くも、「己を審神《さにわ》せよ」……などと口幅ったい言葉を使って返信しようか、と考えていた午後。そのまま、思い出の中に沈んでしまった。

 二十代の前半、心霊の師匠宅に押しかけて、晩御飯をご馳走になるのがなによりも楽しみだった頃、私は経験則として、到着直後、先ず、師匠を審神するように心掛けていた。師匠に強い影響を及ぼしているのが、支配霊の某武家であるなら長居は無用である。たちまち小言の十字砲火を浴びてタダ飯がもたらす幸福感よりも遙かに多くのストレスを抱えて帰ることになるからだ。一方、師の守護霊の尼様が表面に出ているなら、もう、何もかも忘れて、自宅、自室にいるよりも寛げる。

「いや、君ぃ、心霊主義を学んで真の高級霊から癒された経験がないなんて、寂しいことだね、アハハハハ」と、天狗になって高笑いをしたくなるほど幸せな気分に浸れる。もうまったくあの尼様には、実にお世話になった。おかげで我が師にはまったく頭が上がらない。相当に無理難題というよりも支離滅裂をいう師であるが、あの守護霊と、師の祖母の霊が立っていたらもう返事はタダ一言、「イエス、マム」である。

 その一方……まったく、あの金沢藩の某武士め、自分に芸の無いのを棚に上げて、無理矢理人を変えようとするな!!!! …… だいたいケンカになるのは、境涯が似ているからだろうがぁぁぁ!! などと未だに感情が高ぶるぐらい、私は師の支配霊の何人かと相性が悪い。

 思えばおかしなものだ。私と師匠の相性は良いのか、悪いのか。その日によって大きく変るというのだから。等と思いつつ、ふっと我に返った。 「北風と太陽」の寓話ではないが、小言で人を変えようとするのは無理があるというよりも無駄である。

「和顔愛語」――人を押すよりも良き方に導く方が効率が良いに違いあるまい。そう考えるなら…… 思わず冷や汗が流れるようだ…… 最近私のブログは小言が多すぎるかも知れない。小言は簡単ではあるが効果は薄いものなのに。

 我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――どうせなら、我が師の守護霊のような態度をとりたいものだ。うん、そうだ、手本にするなら、あの小言の多い、大人気のない武士の霊などではなく、守護霊の尼様のように寛容で鷹揚な態度だ。私はそれを追求しよう!!

・・・・・

 もっとも、ブログのネタを作るのには、小言が一番手軽なのは、この原稿を読み返すとよく分る。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

・・・

いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

・・・

 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

・・・

いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

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 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

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死者の供養について

2006/03/23

2006年 03月 22日


 死者の供養は、どうしたらよいか、という質問が時折寄せられます。大抵の方は霊媒を、供養の専門家の様に思っていらっしゃるようですが、そういう儀式的なことは、僧侶や神官の事業であって、一部(大部分?)の霊媒が、その事業の一翼を担っているとしても、それは本来の霊媒の仕事とはいいかねます。

 例えるなら、結婚式と結婚の違いとでも申しましょうか。いくら盛大に式を行ったところで、新郎新婦の間の絆が充分でなければたちまち離婚の恐れがありますし、一方で、式らしい事は何もせずとも当人の絆が充分であれば、長く添い遂げることになりましょう。死者の供養も同様であって、墓参の回数や、仏事・神事の経費が大切なのではなく、遺族の真心のどこにあるかが大切なのです。

 そして、心霊家としていうなら、人が生まれてくるときに医師や助産婦の助けを得るように、人の死ぬときも死後の世界で高級神霊の援助を得ているので、概ね地上側の手助けは必要とはいたしません。理想をいうなら他界への再生を祝福するぐらいが良いのですが、これを広言すると、「まったく心霊家というのはけしからん。人が死んだらお祝いをせよという。遺族の気持ちを逆撫でしおって、お祝いは、お前が死ぬときにすればよい」…… などという面倒な話になるでしょうから、私は口を噤んでおります。

 ただ、少なくとも肉体の死というのは、戻ることの出来ない一方通行の道行きなのですから、行く者の後ろ髪を引くような態度だけはなるべく慎むべきだと思います。……悲しくとも、「行った先に早く馴染むように」 という励ましこそが死者には必要ですし、生き残った人に取ってみれば、 いなくなった生活に早く馴染むことが必要なのです。その辺の理解が足りない哀悼の言葉が世間にとても多いとおもいます。

 そもそも人が生まれてきた以上、人が死ぬことは避けようがありません。死は自然であって、不死こそが不自然、いや、生きていることすら実は奇蹟と呼ぶべきかも知れないのです。それをわざわざ自殺する者もおりますが、価値や意義が分らぬ者をとやかく言っても始まりますまい。

 その本来、自然である死ですが、準備もなく死を迎え、そして、逆戻りが出来ないとなると、往々、ごねる人が出て参ります。地上に再生するにあたっては事前に心の準備が出来ているものらしいのですが、死ばかりはなかなか、人格が出来上がらなければ教えて貰えないもののようです。かくして、霊媒の出番が参ります。

 死者の供養に関して、霊媒が為すべきは、墓相や供養法の心配ではありません。準備不足で戸惑い、地上に未練を残してごねている霊魂の心配を取り除くことなのです。……と、私は信じています。むろん、霊媒の数だけ意見はありましょうし、物事には需要と供給の関係もあります。

 が、神は騙せない……因果は眩ませず……と申します。ようするに、当人が努力した以上の高い境遇には、いくら霊媒に金を積み上げても、押し上げることが出来ぬのです。この点は、しっかりと吟味していただきたく思います。

・・・・・・・

 では、霊媒である私が、どういう供養をするか……私が心掛けていることをご紹介するなら……

 まず、心にゆとりのある時には、たびたび線香を手向け、静かに祈ります。……線香は良いものを一本だけ、大切なのは価格ではなく、心安らぐ香がして煙が少ないものを選ぶことです。それはつまり、祈りが穏やかになるための香の演出ですから、マメな人ならばアロマオイルを使っても良いし、コロンなどを使うのも良いかも知れません。

 花もあればよいのでしょうが、私は世話が下手なので、枯らすことを惜しんで、花には手を伸ばさぬようにしています。といって、造花等というまがい物はかえって心を汚す気がして手を伸ばしてはいません。

 墓参りは、なるべく家族のものと都合がついて、無理がない程度に頻繁に行きます。大切なのは、共有する時間だと考えます。

 まあ、この程度でとやかくはいわれずにおります。

 ただ、このやり方で済むのは、私の事情があるからで、人によっては前世の因縁などで、三界万霊(といえば聞こえが良いが)というか祀るものの無い無縁仏を延々と供養しなければならない人もいるようで……それはそれ。兎も角自分の都合を優先するのは、大過の可能性はあっても無事の保証は無いとお考え下さい。

 この辺は、霊媒に質問しても適切な答は得られないと思います。なぜなら、助けて欲しくても、助けよ!と主張できないのが日本人(当たり前か?)……良いよ、といいつつ、でも無視をすると嫌がらせをする霊も多いからです。日本人て、本当に面倒です。


癒しを求める前に必要なこと

2006/03/22

2006年 03月 21日


 人に、そして霊に癒しを求める人がいます。それがなんとも退廃的な心の表れであることに気が付かずに。…… 癒された先の自分はいかなる境涯に至るというのでしょう?

 ありのままの自分で生きられない者が、ありのままの自分であってどうなるというのでしょう。さらには、自力で維持できないありのままの自分、助けがなければ維持できないありのままの自分とは、なんとも矛盾に富んだ理想なのでしょう。

 矛盾があるから実現しないのに、矛盾を解消せずに実現させようとする。……それは傷の手当てをせずに、ただ痛み止めだけを飲むのと同じこと。これはおろかで危険な行為です。まず自分の至らぬところを正し、補ってこそ癒しが真に身に染み込むのです。

 日々の疲れが、自己回復力の中にとどまるのであれば、それは日常の努力というべきことで、その果てには必ず身についていく経験が伴います。ですが、回復力を超えた疲労が続くのは、自らを損なっている過ちが積み重なっていることを恐れるべきです。

 あなたは変わらなければなりません。ありのままの自分を目指すのではなく、あるべき自分を目指さなければなりません。

・・・・・・・

「あなたは変わらなければいけない」・・・・という言葉に恐れを抱く人がいます。たとえ、傷だらけになっても、かたくなに自分を守ろうとする。好んで傷つく人はいません。ただ、夢中になって傷つくことを忘れ、思い出しては傷の痛みに涙しているのです。

 かつての夢、かつての理想をあきらめきれずにいるから、このように痛々しい状況が生じます。せめて実現の可能性があるなら、たとえ傷だらけになろうとも追及するだけの価値があるかもしれません。しかし、時季を失し、挫折を自覚したことをいつまでもあきらめずにいるのは、当人は満足であっても傍目からは自傷という地獄の責め苦を受けて喘いでいるようなものです。

 そのような境遇にある人は慰めを得ても癒しは得られません。同じ治療を受けても自ら傷つけている人にはただの慰めでしかないのです。そして当人はいつまでも気が付こうとしません。その慰めが苦しみを長引かせていることを。

・・・・・・・

 夢を抱くこと、理想を抱くことが悪いのではありません。ただ、人がわきまえなければならないことを忘れて夢を見、理想を抱くから苦しむのです。

 この世は、あなたのものではありません。経済にも物理にも法則があって無理は利きません。そして世界は多くの人々の意識の上に成り立っているのです。共存と共栄の意識を持ち、自然の摂理に逆らわぬように生きなければ、人は争って傷つきます。

 この「争い」とは暴力に限りません。ただあなたが怠惰であるだけでも、努力して夢を実現していく人々を見て、置いて行かれるあなたは傷つき、涙を止めることが出来ぬでしょう。

 にこやかな笑顔を見るだけでも、心中に葛藤を抱えている人は傷つかずにいられません。

「どうしたらそんな安心の境地が得られるのだろうか、私も笑顔で過ごしたい、偽の笑顔を浮かべるのはもうたくさんだ!」

……相手もまた作り笑顔の毎日にうんざりしているとしても。

 世界は多くの人々の意識の上に成り立っているのです。豊かになりたければ、人もともに豊かにあるように努力し、優しさを求めるなら、ひとも優しさを得られるように努力することが大切です。・・・・それが難しく思えるのは、摂理としての困難なのではなく、惜しみ、ねたみ、貪る意識を、自分の心として捨てずにいるからなのです。自分を苦しめる心を自分のものだと大切にするなんて、悪霊の憑依を肯定するようなナンセンスな話です。

・・・・・・・

 太陽は西から昇らず、無から有は生じず、過ぎた事をやり直すことも出来ません。その自然の摂理を曲げようとしても報われないがゆえに人は傷つきます。

 自然の摂理に行く手を阻まれ、涙を流す人が不幸であるのは、夢が叶わぬからではなく、不自然な夢に憑かれていることなのです。それは苦しむべくして苦しみ、諦める悲しみと、諦めない苦しみのどちらも選べずにいる人だからです。


霊感の主要因

2006/03/21

2006年 03月 20日


 昨日は、一年ぶりに、師と一緒にあちこちに出掛けた。今回は用事が立て込んでのことで、興味深い霊体験などはないが、過去の思い出から考察してみる。

 師と共に出掛け、その行く先々で、神社仏閣などをお参りするのは私にとっていつも楽しい経験となった。師と見たものを確認することで、自分の霊視内容に自信が得られるからだ。おおむね当るのである。ここでおおむねというのは、それぞれが印象を語るのであって、その内容の詳細を比べる手段がないからである。

 たとえばとある神社に一緒に参拝したとき、瞑目した私の眼裏には炎状のラインで画かれた、五大明王が次々に映し出された。とにかく、線画であった事と、その線が炎状に赤く揺らめいて濃淡が変るところが印象的であった。すると、師がおもむろに言出す。「へんねぇ、ここは神社なのにね」……そう私は、描画方法に感心するばかりで、、神社なのに仏像が見えることに疑問を抱かなかったのである。

 反対に、違うものを見て、それが一対であったことも印象に残っている。川崎太子を訪れたとき、師は龍を見、私は女神を見た。一対の竜神のそれぞれを見たのである。

 では、私は師と同等の霊視能力を持っているのか……その精細さや表現方法などを比べることは難しい、なんとなれば我が師は、すこぶる表現がヘタなのだ。そのことは買物を頼まれていつも苦労するところである。「円くて、でっかくて、びゃーとなる奴」等という表現だけで、師の欲するものを買ってくる私は、我ながらいつも関心しているぐらいだ。だが、その制約があれど、口にするテーマが同一であることから、私は充分に師に追いついているといえるのだろう。……というだけなら、ただの自慢話である。

 だが、師と一緒にいるときに感じるものは、私の普段よりも質が高いのである。実を言えば、買物も、車の運転手をするのも、他の誰かに頼まれ、又は一緒に行くときよりもよほど脳裏に対象がくっきりと映るから、うまくいく面が多い。何のことはない、師は口べたであるが、一種、テレパシーが巧く、私はそれを受信しているのだ。

 これはつまり、霊媒を受信機に見立てたときにその仕組がよくわかる。おそらく受信機としての性能は、その感度に差があれど、私は必要最低限を充分にクリアーしているのだろう。残る差は、送信機の性能にあるのだ。

 師の背後霊は、簡潔かつ必要十分の情報を提供することに長けている。一緒にいたときに私が多くを感じるのは、単にコピーを貰っているからに過ぎない。

 霊能者(あえて表現を変える)の才能とは、霊媒の個人的才能で決るのではなく、その背後霊の能力・才能に大きなウエイトが掛っているのである。そして、その背後霊は、必ずしも霊媒の独占契約というわけではない。…… だから旅行時などに私が同じものを見ることもあるし、逆に私だけが見えたりすることもある。

……では、背後霊を継承できれば霊能開発も簡単に思えるだろう? 実際、イタコや、いわゆる拝み屋などでは、神憑け等と称して、背後霊の継承を行っているようだ。これに関してはおもしろい話がいくつかある。「神様」にも好き嫌いがあるから熱心な人には神が憑かず、ボンヤリしている人が選ばれたとか、「神様」が師から弟子に乗換えてしまって師が突然に霊感を失い、嫉妬のあまり悶え死んだ等ともいう。

 ここで大切なのは、背後霊にも人格があり、好みがあって霊媒の思い通りにはならないと言うことである。私の師の背後霊達は、師の信仰心が素朴なところをとても愛していて、大半の霊達は、理論派である私のことを嫌悪……まではいかないが遠慮している。私のことを大事にしてくれるのは師の守護霊と祖母の霊ぐらいなものだ。その一方で、師のその又師の背後霊は、我が師が文物を大切にしないことから遠慮しているようだ。……背後霊たちの動機は、ドロドロはしていないが、実に人間的なのである。

 なお、念のために明記するが、私は師を低く見るのではない。山口で滝行したときなど、身を切られるように冷たい水に足をつけたまま、弟子である私らが滝行を終えるまで読経を続けていたことは私にとって強烈な印象であった。姉弟子等は水の冷たさに岩の上に逃げだし、私は一番最初に瀧に打たされて、後は早々に追出されたのである。(行着は濡れると透けるので、女性行者の所では実質男子禁制だ。)まったく、その精神力には頭が下がる。それゆえ私などは「口舌の徒」扱されても口を噤まざるを得ない。私だって男の子、「おれだってな!!」という気概はある。が、努めてそれを慎む。何しろ、

 巧言令色少ないかな仁……と、言われないだけ幸せなのだから。

・・・・・・・

 同時に思う。霊感の主要因が背後霊であるのと同様、霊能者の問題解決力の主要因は、相談者自身の背後霊の強さであると。

・・・・・・・

 霊界通信の多くはいう。霊界の者達が好む資質は、素直であることと正直であることだと。同時に利他的であることも好意的に受け止められる。自分だけ助かろうとすることがなにより嫌われるのである。……たとえば、根が善良な人も視野が狭くて家族以外をみな敵と見なす例もある。……敵多くして人は滅ぶのである。


心を鏡に真理を知る

2006/03/20

2006年 03月 19日


人に善し悪しがある――人は己が心に映して物事を理解する。(叡智に見えても自身に反映出来なければ、即ち空論) その心が歪んでいればいかなる真理も歪んでしまう。宗教・真理に善し悪しがあるように見えて、実はそれに携る人の心に善し悪しがあり、それを観察する人の心に善し悪しがある。

 それ故に、真理の探究は歪まぬ心の持主のみが出来る。少なくとも歪の少ないものが、より真理に近づくことが出来るのだ。そして、真理を学ぶ者は、心を素直に持つことから始めなければならない。

 世の中に悪が多いという。……世相を映す、その心は歪んでいないのか? 素直な心に映るのは、救いを求める者の多さ。そして、真実を理解できない者の多さ。……歪んだ心は真理を反映することが出来ない。

 皆、それぞれに歪んだ心に映る世相を眺めて、それぞれに罪をあげつらう。……その闘争の生み出すのがこの世の地獄。世にどれほど叡智があり、智者がいようとも、愚者は理解しない。必要なのは外にある答ではなく、内在する問題の解決だ。

 知を理解するには愚を、善を理解するには悪を、生を理解するには死を……それぞれを同列にして比べるのではなく、なにが知と愚を分け、なにが善悪を分け、なぜ生死が生じるのかを考える。横ではなく縦に考えるのである。すると歎くよりも大切なことが見えてくる。

 中道――すなわち人が進むべき道である。

・回答事例

 知と愚――真理を求めるから愚が見える。学ぶ気がない人は愚を恐れない。真理を求める者が知者であり、知者を称える者も、愚をなじる者も、真理を求めていないが故にやはり知者とはいえない。自分に真理をもたらすことこそが大切で、知と愚とを分けて考えることに知はない。

 善と悪――利を求めるから悪が生じ、悪を嫌うから善が生じる。(イタズラを始めた子供を観て、親は善のなんたるかを教え始める)そこに争うべき利がなければ、善も悪も意識する必要はない。

 生と死――生きているから死がある。死者は死ねない。死は本質的に自然で避けられないものだ。そして生に限りがあるから、なお意義の追求や目的の達成が大切になる。目的を追求する人には死を恐れる暇がない。


受身の統一

2006/03/19

2006年 03月 18日


  精神統一中に初心者が良くやる間違いは、一点に集中しすぎることである。これが結局、柔軟さを失い、受信を困難にしてしまう。 必要なのは己の意思を明瞭にすることであり、同時に返答を受信し、返答に応じて最善なる実現方法を自己の中に構築していくことである。

 易しく言換えると、人は自分の意志が伝わったという手応えがないから、さらに強く祈ったり、しつこく祈ったりするが、自分の意志を伝えようと力めば、「返事」が聞き取りにくくなってしまうのである。…… 「返事が欲しくて返事が聞こえなくなる努力をする」それでは努力に意義がない。意義のない努力は無駄であるし、なによりも無駄な努力に気がつかぬ事は、間違った方向性に向かっていることを恐れるべきである。

 ところで、霊的メッセージを受けるとき、霊媒は無論、邪念や妄念を捨てて精神を統一するのであるが、そんな時、私が言われるのは、 「完全を目指す必要はまったくない、最低限をクリアーすればよい」ということだ。つまり、より良い受信状態を目指すよりも、作業が出来れば十分であるというのである。と同時に、 「あまり熱くなるな」とも言われる。通信の面白さに霊媒が興奮してしまうと、脳の働きが活発になって、いわば筆がひとりでに動いてしまうのである。だが、その運びは、すでに通信霊の手を離れて霊媒のものとなっている。それでは、故人の面影が薄れてしまうのだ。

 つまり、霊媒……少なくとも私の精神統一は、ゆったりと静かな気持ちを持ち、それを維持することが目的であってそれ以上はすべて霊界側に任せている。一方、霊感を持たぬ人がなぜ霊的メッセージを受けられないかというと、それはもう人の数だけ答があるが、私が気がついた特徴的な事例では、

  1. 自分のために答が欲しいのは利己・エゴの働き、それを助けようとする霊媒は利他心が働き、霊達は利他心に応じる。―― 利己心を嫌うのは単に波動や好き嫌いの問題ではなく、 応じると要求がエスカレートしていくからである。(最重要)
  2. 聴き手の一喜一憂が通信を中断させてしまう。(修行を必要とする)
  3. 偏見が強くて答が歪む恐れがある。(かなり重要、こういうタイプの人には私も苦労する。 最初当たり障りのないメッセージだけに止めて、だんだん本題に近づいていくという手順を取るから、数回の参加を必要とする。)
  4. 頑固な人――性質的に頑固な人は、霊媒的には聞き下手と見なせる。
  5. 優柔不断な人――不用なことまで感じすぎて、重要なことを聞き落としてしまう。取捨選択が上手にならなければいけない。(勉強・ 修行を必要とする)
  6. 霊感の自覚は無いが、聞き上手な人――時折霊的メッセージを受けているが、霊視・霊聴の形式でないため、 自己の想念との区別がつかず、結局、自分の考えと霊的メッセージの区別がつかず、重要なメッセージを把握できない。(勉強・ 修行を必要とする)
  7. 非を改められない人、または追いつめられている人。(非常に危険)――自分に都合の良いメッセージしか聴こうとしない人には、 「自らを正せ」というようなメッセージこそが必要である。でも、そういう都合の悪いメッセージは聴かないという悪循環にある。 つまり正しいものを退け、間違いを欲しがっている状態なのであるから、霊的メッセージを得られないならまだ安全、 間違いを欲しがる(自分の苦境が誰かの間違いだと思いたいのだから困る)のだから、嘘やデタラメをいう霊を集めやすいのである。 ……念のため注意するが、嘘やデタラメをいう霊を侮ってはいけない。 地上の嘘つきも往々寂しさ故に口から出任せをいうものだが、 これが死者であるなら生活の必然もなく非常にしつこく、 また必死にしがみつく傾向がある。 こういう霊との縁を絶ちきるのは非常に困難である。
  8. 夢想家――地に足のついたメッセージを軽んじてしまう。7項の人と同傾向であるが、比較的軽度。


 以上の様な障害を克服することが必要と思う。


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