オフ会参加の栞
2006/03/312006年 03月 30日
不完全ですがとりあえず。
「オフ会参加の栞」、もしくは、「精神統一の栞」なるものを作成しようとして失敗した。背後霊に「まだ早い」といわれたのだ。
審神者(さにわ)的に断言し得るが、私は自分の精神統一会運営に過信するものではない。ただ、私には私の特徴があり、その特徴を良しとする者にとっては、おそらくは不二《二つと無い》であろうと思う。……この自負について背後は一言も否定をしない。ただ、依存心の強い参加者をあしらう術が私には未だに備わっていないと背後達が言う。これは事実であると認めざるを得ない。
従って、当面、細々とやるしかあるまいと思う。進んで参加を求めれば、集まるのは依存心の強い人……結局、私が教祖様になってしまう。ここでいささか皮肉を表わすことを背後たちに許しを請う。世の中面白いもので、私を「教祖様」と揶揄する人がなかなかに多い。そういう人々が、他者を決めつけるその態度こそが、新興宗教の教祖の資質が多分にあると思うのは私だけであろうか。私は霊媒として為すべき事に誠意を持って行っている……実力の範囲内で。
その霊媒として為すべき事について、少々掘り下げるなら、人間誰しもインスピレーションを得た経験があるはずである。そのインスピレーションを、自分の智力が生み出したものと思うのが常人、誰かから贈られたものと感謝するのが霊媒である。…… ここで大切なのは、霊感の生無とは、そのインスピレーションの内容・意義ではなく、その出先であることだ。
つまり、良いアイデアを得て、「これは私のアイデアだ!」と、我を主張するのが一般人、「これは天からの授かり物だ」と、己を空しく、神仏に敬意を払うのが霊媒なのである。遠慮もなく自己主張を相手に押しつける者が、霊媒的資質に欠けている、というより、そもそも交霊という、協調・調和を必要とする事業に相応しくないのは言うまでもない。
独善を押しうる教祖的霊媒が低級霊の奴隷であるなら、教祖的言動を行う(非霊媒)一般人は、主を理解することも出来ない低級霊の家畜でしかなかろう。
何のことはない。人は皆、不足があるのである。ただ、不足を自覚して努力で補える者と、不足の自覚が無くて努力して恥をさらす者がいるだけのことだ。
で、私は諭されたのである。慌てて手を広げれば、学ぶことよりも恥をさらす方が多いと。……私はそれに同意した。
その上で本題に帰る。まだまだ試行錯誤のオフ会ではあるが、いささか、残念な問い合わせが舞い込む。
「都合がつかなくて参加できない。何とかならないか?」……むろん、何とでもなる。別に精神統一の指導をするのに、大がかりな装置が必要なわけでもなく、スタッフが大勢必要なわけでもない。私一人が行けば良いのだから、どこへだっていけなくはない。旅費の制約はあるが……いやいっそのこと、電話やE-mailによる指導も出来なくはない……同時性の制約はあるが。
が、そんなことは愚問だと思う。そもそも精神統一の目的の一つには、思いを実現する法――夢の実現法、といったことが含まれているのである。つまり、都合がつかずにいるなら、オフ会参加、という夢の実現法をあれこれと試してみればよいのである。むろん、その為の助言も私は公開している。……多分。
参加するのが精神統一ではない。精神統一というのは、いわば心の修行なのである。心の修行に肉体は不用だ。むしろ肉体がない方がどれほど楽か。身体を持ってこれないならば、心だけでも参加すればいい。ただ、心は移ろいやすく、留まりにくいからこそ、身体を持ち込み、そこを定点とするのが好ましいと言うだけである。――まあその意味において、初期は身体ごと参加すべきなのではあるが。
それはさておき、参加の困難さを克服することからすでに、精神統一は始まっているのである。参加の努力に挫折するなら、仮に参加できても多くは得られまい……というより、自己満足に騙されて、何も得られないのが実体であろう。そうして縁遠くなる人もいる。逆に、困苦を乗り越えて来る人ならば、その努力も報われるであろう。……霊媒から報われるのではなく、自らが学ぶことが多いという意味でだ。
大切なのは、身体を運ぶことではなく、心を運ぶことである。……あなたがそれに努力するなら、例え霊媒がピンぼけであろうとも、たとえばその霊媒を迂回してでも、あなたの背後の霊達が、あなたに助言を与えるに違いない。
逆に、身体だけを運び込んでも、心はあらぬ所にいるなら、霊媒がいくらシャープであっても、背後は沈黙を重ねるだろう。
その気配の違いを知ることも、精神統一の意義の一つである。
無があるから、有が引き立つのである。……通信があればよいのではなく、無いことからも学ぶことが多いのだ。