自己嫌悪
2006/03/27Q 「自己嫌悪に対してどう向合っていけばよいでしょうか?」
無知が敵――自己嫌悪に限らず、自立もせずに日常を悶々と、無限の堂々巡りに悩みを掻き回すものは、無知故に悩んでいることに気が付かぬ。方程式を解くにも必要な変数の数がある。答を得るには十分な手がかりが必要である。
解くべき条件が整わぬのに、悩むことにいかなる意義があるのか。考えている振りをしているだけなら、その悩みは仮病に等しい。問題を先送りにしたところで解決力が身に付くわけではない。先送りにすれば、問題を克服した先にある幸福がただ目減りするだけであることも気が付かないというのか。
あたかも、苦しむために苦しむのは、それ又無知が己を害しているのである。
魂心体の不調和――そもそも、人は心と体の二つから成立つ。さらにいえば、魂の働きを自覚せぬものもいるが、魂の働きこそが永遠に価値あるものである。
すなわち、魂心体の三者が協調してこそ、真に価値ある行いが出来る。ここでいう、魂心体は、心霊主義者のいう、心・霊・体と読みかえても構わない。
地上(物質世界)に生きる人にとりて、自己の魂を自覚することが少ない。心・体の目指すところが違うことにも気が付くことはない。だが三者の性質が異なればこそ、同じ方向を目指すのにも齟齬が生じるのは当り前のことである。
魂の目指すことは遼遠であって計りがたく、しかも地上では実現が難しい、心は往々気ままに見えて頑固、強固に見えて流されやすい。身体は寡黙で従順に見えて、その内実はワガママで移り気である。
遼遠であるが故に、魂の意図はなかなか人生に反映されず、肉体は寡黙でワガママであるから、肉体を上手に扱えず、心に思うことが実現できないことを人はなかなか自覚しない。
まして、心と比べて、身体が起す変化……即ち行動はいかにも鈍重なものである。これら性質の違いを正しく理解してこそ、人は己を御することが出来る。
心が思い立ってもすぐには変れぬのが肉体なのである。
故に、心を変えるには断固として、身体を変えるには寛容をもって段階的に行うのが自然であって無理がない。または、身体に染みついた習性を正すのに他人の助けを求めるのも自然であって無理がない。これはたとえば、禁酒や禁煙について当てはまるだろう。無意識に手が伸びるのだから、他人の注意があった方が良い。
だが、人としての経験が不足している者は、思えば身体がついてくるものと思って行動を初め、思うように身体が動かぬ事を、己の御し方に問題があると思わず、己の不甲斐なさと認識する。
身体の扱に上手になろうとせず、誤った認識である、不甲斐なさを解決しようというのである…… 設問を間違いながら正しい結果が得られるはずもない。延々と無駄な努力を重ねた挙句、何故それが無駄であるかに気が付きもしないで、再び間違った結果にたどり着く。……自分は駄目な人間である。と。
始めから外れている――「自分は駄目な人間である」このいかにも説得力がありそうでいて、その実全く無意義な回答を真実と信じるのはなにゆえか。解決策を答というのだ。解決策でなければいい訳であって答ではない。いい訳と答の区別もつかぬ知力であれば、そもそも成功への道筋から、歩き始める前から外れているのである。
こういう努力をする者ほど、「努力に価値はあるのか」と訴える。その問いは正しく魂の叫びであり、同時にあまりにも不毛である。正しい努力に価値があり、間違った努力には価値がないのだ。……解決策と、いい訳の違いも知らず、無駄に考え、無駄に努力する者にとって努力は毒であって価値はない。その意味において、その叫びは確かに魂が言わしめたのであろう。だが同時に、正しい努力をせずに、成功を収められる筈もないのだ。
世の中には一見、楽々と成功を収める者もいる。だがそれは、必要な努力を楽しみながら行える人…… 魂心体の三体が一致して成功を目指す者なのである。魂心体の調和が取れぬ者にそれを望むべくもない。
自分に甘えない――自分自身を御することは難しい、ならば、訓練を通じて己の限界を知り、限界を拡げていくことで魂心体の調和を整えていくことが大切であろう。
しかるに、自分の思うとおりにならぬからと、自分自身まで嫌うその心は、あまりに幼稚で未熟ではないか。何より、嫌えば相手が困るというのか。赤子がむずがれば周囲の大人が機嫌を取るだろう。だが、大人がそれをすれば面倒がって誰も相手をしたがらぬだろう。他の面倒を見るべきが大人の勤めだからだ。自分の身体の面倒を見るべきを、むずがる身体と共に心までむずがってどうする。
自己の年齢から、嫌いなものの数を引いてみよ。それが心の年齢である。
2006年 03月 27日